安田塾メッセージ№47 第14回安田塾の事後報告
2012年3月28日 安田忠郎
第14回安田塾を終えて
第14回安田塾(協力:幕末史研究会)は3月24日(土)に、武蔵野商工会館4F市民会議室で開かれました。
▲ 例会・講演会「フクシマ原発事故から1年~『パンドラの箱』を開けたフクシマ!~」は、講師4人による午後1時~5時30分の4時間半に及ぶ長丁場になりました。そこでは、第9回安田塾(2011.4.16)の槌田敦による講演会「いま、福島原発に何が起きているのか?」(安田塾メッセージ№29参照)の思想性が受け止められながら、「原子力→フクシマ」問題が一層多面的に掘り下げられました。
以下、4人の講師の各講演概要(各人各説のレジュメ)を順次紹介します。
講演Ⅰ:安田忠郎(やすだ・ただお)「日本人は皆『自分だけは死なない』と思っている~私の“エネルギー産業”下の極限的体験に照らして~」
①エネルギー革命(石炭→石油→原子力)の問題
・1960(昭和35)年の全国炭鉱数622鉱・労働者数37万人・石炭生産高5300万トン→1973(昭和48)年の全国炭鉱数37鉱・労働者数2万5千人・石炭生産高2100万トン
・1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発⇒第一次オイルショック(第一次石油危機不況)
・日本における原子力開発・原子炉建設は、戦後のパワー・ポリティックスの決定的な影響下、「平和利用」のお題目を唱えながら、あくまで<核技術を有する⇒その気になれば核兵器を作りだしうる⇒核兵器の潜在的保有国になる⇒日本の大国化⇒国際社会において発言権を得る>という思想的条件のもとで進められた。
②三池争議(三池闘争、1959~60年)の問題
・1960年 安保・三池闘争
・1963年11月9日 炭塵爆発事故 死者458人・一酸化炭素中毒患者839人
③北炭(ほくたん、北海道炭礦汽船株式会社)[1889(明治22)~1995(平成7)年]の問題
・幌内(ほろない)炭鉱 1879(明治12)年、官営の炭鉱として開山→1975年(昭和50年)11月27日、ガス爆発事故、24人死亡→1989(平成元)年閉山
・夕張(ゆうばり)新炭鉱 1975(昭和50)年営業出炭→1981年10月16日、ガス突出・坑道火災事故発生、93人死亡→1982年閉山
④私の実践知=経験知
・昭和43(1968)年5月28日…5月30日…7月12日、「西部3片3層ロング」(面長180メートル、炭丈1.93メートル)で、「ガス爆発」の可能性の極限を見極める。メタンガスの爆発限界5~15パーセントの問題⇒ガス濃度2パーセントのクライシス(crisis=危機・分岐点)!
・昭和43(1968)年5月16日午前9時49分、「養老3片5層(下)ロング」で、「1968年十勝沖地震」(M7.8)に遭遇する。極限状況における人間の行動の問題⇒日本人における主体の意思決定とは何か?
【要諦】
● エネルギー現場は危険なもの―ex.採掘労働、原発なら大量に被爆する仕事―を、弱い立場の人々に押しつける差別の上に成り立っている。
● 日本人にとって、主語はいつもその時々の状況の中に隠れており、主語があるとすれば、それは状況そのものにほかならない。したがって、日本人一人一人の言動が究極的に問われるのは、状況に支配されるのではなく、いかにして状況を支配し、場をつくり出すだけの力を持つことができるかどうかという点である。
講演Ⅱ:市川恵子(いちかわ・けいこ)「福島第一原発から22キロにいた私、あの日起こった真実と未来へ」
①自宅は原発から22キロ
・東京から福島の過疎地(福島県双葉郡川内村在住)に移住した一家が見た、原発とともにある暮らし
・小学生の長男が集めていた資料
・3.11 国に捨てられた地域
・いのちを守る戦い、川内村で起こったこと
②ヒサイシャになった私
・個人事業者、法人経営者、母として、娘として、それぞれの被災
・カネと食べ物
③フクシマの内と外では違う風が吹く
・都会と田舎、電気をつくる地域とつかう地域と
・都会の便利を支える田舎
・本気で原発反対を言えますか?今の便利を失うのは恐いですか?
・田舎暮らしで見えてきた、本当のこと
④川内村 帰村宣言
・東電補償の実態
・憧れの田舎暮らしが悲劇に
・補償金が地域を崩壊させる
・帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人
⑤いのちを守る、ふるさとを守る
・79歳の母が直面した東日本大震災
・誰も「いのち」を守ってくれない
【集約】
● あの日(3.11)、原発の近くに暮らしていた私は、「国」からイノチ(命)を見捨てられたことを実感した。原発事故後、放射能など、安全か否かでいろいろな議論がなされているが、問題は犠牲になる地域と人を想定しているこの国のシステムにある。自分だけは助かるつもりになっている人が論議している。いざというとき、自分の家族、大切な人を本当に守れると思っているのか。/すでに日本国内に安全な場所はなくなってしまった。まっさらな未来はないという現実を日本中の人々が自覚しなくてはならない。放射能とともに暮らす、その恐怖を福島だけでなく他の地域に暮らす人々も共有するしかない。/震災後、多くの人が口にする「絆」。キズナとは、犠牲になる地域や人々を見ないことにせず、自分の問題として考えること。よりよい選択を奪う「原発」というシステムを見て見ぬふりしないことではないのか。
● 東京電力の補償金が、川内村-地域社会を崩壊させている。帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人、さまざまな思いを抱く地元の人たち。回答はひとつではない。/放射能よりも、人としてのプライドを奪われ、生きていく目標を奪われることが、村の危機となっている。仮設住宅や補償金は期限がくればなくなる。避難者から難民になってしまう。/人が住まなければ、故郷はもう戻らない。どんなに困難な問題があろうとも、帰村すると決めた人たちの原点は、「国から捨てられたイノチ」だったこと。自分たちの故郷は自分たちの手で取り戻すしかない。3.11の前から、過疎の村に暮らすことを決めてがんばっていた人たちの、故郷への思いは強い。
● 都会と田舎、消費地と電源地域、誰かの犠牲によって成り立つ社会の仕組みが、原発事故につながっていった。あのとき何が起こったのか、そして今、何が起こりつつあるのか。原発事故を起こしたシステムは、決してフクシマだけのものではない。イノチを守る、自分の故郷(家族)を守るという問題を決して他人事にしてはいけない。
講演Ⅲ:杉原淳(すぎはら・すなお)「環境や生態系から、いかに放射能を減らすか~真の放射能対策の実績と提言~」
①「福島県浪江町赤宇木塩浸」における実績について 2日で60%の放射能低減
②不思議なペットボトル…エネルギーをもたせてある <生体にも優しい>
③我々の「除染」は、今、実施されているものとは、まったく異なる
④二本松市・針道での100L「除染装置」設置
⑤体からの「除染」;水のエネルギー、細胞の活性化による自己免疫力
⑥水の知られざる力
⑦放射能の遮蔽能力
⑧原子燃料はなぜ、水のプールの中にあるのか
⑨ガンマ線を防ぐために、コンクリート厚さは
⑩セシウムを放射能を出さない物質へ変える
⑪その方法と実績について
【結論】3.11災害による、福島第一原子力発電所からの放射性物質を低減することは、緊急を要する問題である。現状では、ゼオライト等による吸着で、除染というよりも、セシウム等の移動に過ぎない方法が採用されている。私が提案する方法で重要な点は、本質的に放射性物質から放射能を無くすること。それは特殊加工した水を使用する方法であり、その結果、約42時間で初期値の60%の放射能を低減し、また6ヶ月後の結果では、13%にまで低減した。純粋数学的な方法を用いて、セシウムから他の非放射性元素ができることを物理学的に予測し、バリウム (68%)、ランタン (24%) 、そして セリウム (8%)になると推測した。それを機器分析によって半定量的に確認し、 実験的には、バリウム63.3%、ランタン21.3%、そして セリウム15.4%で、比較的上記の理論的予測に近い値が得られたと考えられる。また、もう一つの放射能が低減するアイディアは、水からの陽子/電子のペアが量子力学的に、粒子や波として、セシウムからのガンマ線(光子)と相互作用する結果によるものであると考える。
講演Ⅳ:小美濃清明(おみの・きよはる)「ホットスポット・浪江町へ入って考えたこと」
①1972年 アメリカ・ミズーリ州へはじめて訪問
②1979年 アメリカ・ペンシルベニア州・スリーマイル島原発事故
③2011年3月11日 東日本大震災
④2011年5月7日~9日 福島県へ行く
・郡山市立薫小学校の校庭
・浪江町赤宇木塩浸の農地
⑤アメリカの友人からの電話
⑥韓国から帰国した日本人の友人の話
⑦江戸川区の火葬場
⑧2011年12月20日~22日 福島県・岩手県へ行く
・岩手県一関、気仙沼を訪問
・福島県浪江町赤宇木塩浸を再訪
⑨海洋汚染の広がり
【余談】 私(小美濃)はアメリカの友人たちの反応―日本人と違う角度からの話―について、興味をそそられた。FUKUSHIMAはTOKYOからどれだけ離れた場所か、それは問題ではなくTOKYOもFUKUSHIMAも一緒だった。太平洋を越えた国から見れば同一場所なのだろう。日本脱出をした外国人グループと同じ心情だったのだ。過剰反応は私には戸惑いでもあり、ありがたくも感じた出来事だった。また、韓国で当の原発事故を知った友人(韓国人)が日本へ来たものの、情報が取りにくい、日本のニュースにはバイアスがかかっているようだという話に、私は内心ドキッとしたものだ。
【註】安田塾に今回「初めて」参加された方は、22名を数えました。22名のうち13名が吉祥寺界隈の在住者であり、その13名のうち2名の方から次のような感想メールをちょうだいしました。
照山直子さん(亜細亜大学・非常勤講師):「先日の講演会は、どなたのお話もたいへん学ぶことが多く、また希望が湧きあがるようなご研究に触れさせていただくこともでき、本当に貴重なひとときでした。ありがとうございました。/近くでご開催いただけることがありがたく、これからも是非参加させていただきたく存じております。」
山村進子さん[劇団「櫂(かい)」女優]:「講演会でのお話、興味深く聞かせて頂きました。聞いていらっしゃる方達の意識の高さにも感銘を受けました。どうしても忙しさに紛れ、劇団だけの生活になりがちですが、今後の講演会にも時間が合えば足を運び、視野を広げたいと思います。/この度は貴重なお話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。」
第14回安田塾を終えて
第14回安田塾(協力:幕末史研究会)は3月24日(土)に、武蔵野商工会館4F市民会議室で開かれました。
▲ 例会・講演会「フクシマ原発事故から1年~『パンドラの箱』を開けたフクシマ!~」は、講師4人による午後1時~5時30分の4時間半に及ぶ長丁場になりました。そこでは、第9回安田塾(2011.4.16)の槌田敦による講演会「いま、福島原発に何が起きているのか?」(安田塾メッセージ№29参照)の思想性が受け止められながら、「原子力→フクシマ」問題が一層多面的に掘り下げられました。
以下、4人の講師の各講演概要(各人各説のレジュメ)を順次紹介します。
講演Ⅰ:安田忠郎(やすだ・ただお)「日本人は皆『自分だけは死なない』と思っている~私の“エネルギー産業”下の極限的体験に照らして~」
①エネルギー革命(石炭→石油→原子力)の問題
・1960(昭和35)年の全国炭鉱数622鉱・労働者数37万人・石炭生産高5300万トン→1973(昭和48)年の全国炭鉱数37鉱・労働者数2万5千人・石炭生産高2100万トン
・1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発⇒第一次オイルショック(第一次石油危機不況)
・日本における原子力開発・原子炉建設は、戦後のパワー・ポリティックスの決定的な影響下、「平和利用」のお題目を唱えながら、あくまで<核技術を有する⇒その気になれば核兵器を作りだしうる⇒核兵器の潜在的保有国になる⇒日本の大国化⇒国際社会において発言権を得る>という思想的条件のもとで進められた。
②三池争議(三池闘争、1959~60年)の問題
・1960年 安保・三池闘争
・1963年11月9日 炭塵爆発事故 死者458人・一酸化炭素中毒患者839人
③北炭(ほくたん、北海道炭礦汽船株式会社)[1889(明治22)~1995(平成7)年]の問題
・幌内(ほろない)炭鉱 1879(明治12)年、官営の炭鉱として開山→1975年(昭和50年)11月27日、ガス爆発事故、24人死亡→1989(平成元)年閉山
・夕張(ゆうばり)新炭鉱 1975(昭和50)年営業出炭→1981年10月16日、ガス突出・坑道火災事故発生、93人死亡→1982年閉山
④私の実践知=経験知
・昭和43(1968)年5月28日…5月30日…7月12日、「西部3片3層ロング」(面長180メートル、炭丈1.93メートル)で、「ガス爆発」の可能性の極限を見極める。メタンガスの爆発限界5~15パーセントの問題⇒ガス濃度2パーセントのクライシス(crisis=危機・分岐点)!
・昭和43(1968)年5月16日午前9時49分、「養老3片5層(下)ロング」で、「1968年十勝沖地震」(M7.8)に遭遇する。極限状況における人間の行動の問題⇒日本人における主体の意思決定とは何か?
【要諦】
● エネルギー現場は危険なもの―ex.採掘労働、原発なら大量に被爆する仕事―を、弱い立場の人々に押しつける差別の上に成り立っている。
● 日本人にとって、主語はいつもその時々の状況の中に隠れており、主語があるとすれば、それは状況そのものにほかならない。したがって、日本人一人一人の言動が究極的に問われるのは、状況に支配されるのではなく、いかにして状況を支配し、場をつくり出すだけの力を持つことができるかどうかという点である。
講演Ⅱ:市川恵子(いちかわ・けいこ)「福島第一原発から22キロにいた私、あの日起こった真実と未来へ」
①自宅は原発から22キロ
・東京から福島の過疎地(福島県双葉郡川内村在住)に移住した一家が見た、原発とともにある暮らし
・小学生の長男が集めていた資料
・3.11 国に捨てられた地域
・いのちを守る戦い、川内村で起こったこと
②ヒサイシャになった私
・個人事業者、法人経営者、母として、娘として、それぞれの被災
・カネと食べ物
③フクシマの内と外では違う風が吹く
・都会と田舎、電気をつくる地域とつかう地域と
・都会の便利を支える田舎
・本気で原発反対を言えますか?今の便利を失うのは恐いですか?
・田舎暮らしで見えてきた、本当のこと
④川内村 帰村宣言
・東電補償の実態
・憧れの田舎暮らしが悲劇に
・補償金が地域を崩壊させる
・帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人
⑤いのちを守る、ふるさとを守る
・79歳の母が直面した東日本大震災
・誰も「いのち」を守ってくれない
【集約】
● あの日(3.11)、原発の近くに暮らしていた私は、「国」からイノチ(命)を見捨てられたことを実感した。原発事故後、放射能など、安全か否かでいろいろな議論がなされているが、問題は犠牲になる地域と人を想定しているこの国のシステムにある。自分だけは助かるつもりになっている人が論議している。いざというとき、自分の家族、大切な人を本当に守れると思っているのか。/すでに日本国内に安全な場所はなくなってしまった。まっさらな未来はないという現実を日本中の人々が自覚しなくてはならない。放射能とともに暮らす、その恐怖を福島だけでなく他の地域に暮らす人々も共有するしかない。/震災後、多くの人が口にする「絆」。キズナとは、犠牲になる地域や人々を見ないことにせず、自分の問題として考えること。よりよい選択を奪う「原発」というシステムを見て見ぬふりしないことではないのか。
● 東京電力の補償金が、川内村-地域社会を崩壊させている。帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人、さまざまな思いを抱く地元の人たち。回答はひとつではない。/放射能よりも、人としてのプライドを奪われ、生きていく目標を奪われることが、村の危機となっている。仮設住宅や補償金は期限がくればなくなる。避難者から難民になってしまう。/人が住まなければ、故郷はもう戻らない。どんなに困難な問題があろうとも、帰村すると決めた人たちの原点は、「国から捨てられたイノチ」だったこと。自分たちの故郷は自分たちの手で取り戻すしかない。3.11の前から、過疎の村に暮らすことを決めてがんばっていた人たちの、故郷への思いは強い。
● 都会と田舎、消費地と電源地域、誰かの犠牲によって成り立つ社会の仕組みが、原発事故につながっていった。あのとき何が起こったのか、そして今、何が起こりつつあるのか。原発事故を起こしたシステムは、決してフクシマだけのものではない。イノチを守る、自分の故郷(家族)を守るという問題を決して他人事にしてはいけない。
講演Ⅲ:杉原淳(すぎはら・すなお)「環境や生態系から、いかに放射能を減らすか~真の放射能対策の実績と提言~」
①「福島県浪江町赤宇木塩浸」における実績について 2日で60%の放射能低減
②不思議なペットボトル…エネルギーをもたせてある <生体にも優しい>
③我々の「除染」は、今、実施されているものとは、まったく異なる
④二本松市・針道での100L「除染装置」設置
⑤体からの「除染」;水のエネルギー、細胞の活性化による自己免疫力
⑥水の知られざる力
⑦放射能の遮蔽能力
⑧原子燃料はなぜ、水のプールの中にあるのか
⑨ガンマ線を防ぐために、コンクリート厚さは
⑩セシウムを放射能を出さない物質へ変える
⑪その方法と実績について
【結論】3.11災害による、福島第一原子力発電所からの放射性物質を低減することは、緊急を要する問題である。現状では、ゼオライト等による吸着で、除染というよりも、セシウム等の移動に過ぎない方法が採用されている。私が提案する方法で重要な点は、本質的に放射性物質から放射能を無くすること。それは特殊加工した水を使用する方法であり、その結果、約42時間で初期値の60%の放射能を低減し、また6ヶ月後の結果では、13%にまで低減した。純粋数学的な方法を用いて、セシウムから他の非放射性元素ができることを物理学的に予測し、バリウム (68%)、ランタン (24%) 、そして セリウム (8%)になると推測した。それを機器分析によって半定量的に確認し、 実験的には、バリウム63.3%、ランタン21.3%、そして セリウム15.4%で、比較的上記の理論的予測に近い値が得られたと考えられる。また、もう一つの放射能が低減するアイディアは、水からの陽子/電子のペアが量子力学的に、粒子や波として、セシウムからのガンマ線(光子)と相互作用する結果によるものであると考える。
講演Ⅳ:小美濃清明(おみの・きよはる)「ホットスポット・浪江町へ入って考えたこと」
①1972年 アメリカ・ミズーリ州へはじめて訪問
②1979年 アメリカ・ペンシルベニア州・スリーマイル島原発事故
③2011年3月11日 東日本大震災
④2011年5月7日~9日 福島県へ行く
・郡山市立薫小学校の校庭
・浪江町赤宇木塩浸の農地
⑤アメリカの友人からの電話
⑥韓国から帰国した日本人の友人の話
⑦江戸川区の火葬場
⑧2011年12月20日~22日 福島県・岩手県へ行く
・岩手県一関、気仙沼を訪問
・福島県浪江町赤宇木塩浸を再訪
⑨海洋汚染の広がり
【余談】 私(小美濃)はアメリカの友人たちの反応―日本人と違う角度からの話―について、興味をそそられた。FUKUSHIMAはTOKYOからどれだけ離れた場所か、それは問題ではなくTOKYOもFUKUSHIMAも一緒だった。太平洋を越えた国から見れば同一場所なのだろう。日本脱出をした外国人グループと同じ心情だったのだ。過剰反応は私には戸惑いでもあり、ありがたくも感じた出来事だった。また、韓国で当の原発事故を知った友人(韓国人)が日本へ来たものの、情報が取りにくい、日本のニュースにはバイアスがかかっているようだという話に、私は内心ドキッとしたものだ。
【註】安田塾に今回「初めて」参加された方は、22名を数えました。22名のうち13名が吉祥寺界隈の在住者であり、その13名のうち2名の方から次のような感想メールをちょうだいしました。
照山直子さん(亜細亜大学・非常勤講師):「先日の講演会は、どなたのお話もたいへん学ぶことが多く、また希望が湧きあがるようなご研究に触れさせていただくこともでき、本当に貴重なひとときでした。ありがとうございました。/近くでご開催いただけることがありがたく、これからも是非参加させていただきたく存じております。」
山村進子さん[劇団「櫂(かい)」女優]:「講演会でのお話、興味深く聞かせて頂きました。聞いていらっしゃる方達の意識の高さにも感銘を受けました。どうしても忙しさに紛れ、劇団だけの生活になりがちですが、今後の講演会にも時間が合えば足を運び、視野を広げたいと思います。/この度は貴重なお話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。」
by tadyas2011
| 2012-03-28 21:51
| 安田塾の事後報告