安田塾メッセージ№38 第11回安田塾の事後報告㊦
2011年10月5日 安田忠郎
第11回安田塾(2011.7.23)の講演
「泣き笑い挑戦人生:異文化、住んで学んで教えて旅して」
【講師】小川彩子(おがわ・あやこ、グローバル教育学者)
【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室
▲ 小川さんは下記の項目に即して順次、話を進めました。その際、注目すべきは、アメリカではお馴染みの「参加」型の手法が導入されたことです。彼女の力量のなせる業でしょう、約2時間、参会者との対話を重ねながら、率直な話し合いが展開されました。
(1)自己変革:自己の壁に挑戦!
①超内気な主婦だった
②内なる挑戦から外への挑戦へ
(2)泣き笑い挑戦人生:年齢の壁に挑戦!
①突然のアメリカ生活
②泣きが笑いより多かった
③叩けよ、さらば
④博士号への道:目標必達
⑤講師からプロフェッサーへ
(3)文化の発信受信:文化の壁に挑戦!
①足元から見たアメリカ文化
②多文化音楽とアートの昼食会
(4)足と心で異文化交流:ドキドキ地球千鳥足と三無(あてにしない・あわてない・諦めない)
①みどりとケンの物語
(5)自己実現と共生活動の交点:挑戦に適齢期なし!
①「年だ」は「ま~だ」だよ
②「人生は壁乗り越える泣き笑い―彩子」
“Constant renewal keeps the oasis alive” 「静かな泉の水は涸れる」
講演内容は鳥取県米子出身の「超内気」な主婦・小川彩子の「自己変革」⇒「自己主張」の物語でした。そこでは、とりわけ1990年、定年間際の夫に下されたアメリカ転勤(オハイオ州シンシナティ在住)を機に、チャレンジを自分に課しつづけた異文化体験談が披露されました。
彼女はこの異文化体験の核心を、著書『突然炎のごとく Suddenly, Like a Flame』(春陽堂、2000年)に手際よくまとめています。以下、同書を心して読み取りながら、私の最も関心の引くところを箇条書きに特記します。
①「英語はアメリカに行ったからとて簡単に上達はしない、というのが体験からくる私の意見だ。物件(不動産―引用者註)を見ながら、人と話したあと、テレビやビデオを見ているとき、本や新聞を読んでいるとき、良い表現にであったらすかさずメモする。そのメモ帳をおりあるごとに開き、暗記を試み、文脈上少々不適切でも使ってみるなどの死に物狂いの努力があってこそ表現が豊かさを増す。例外的に語学的センスのずばぬけた人はいざ知らず、凡人は努力してこそはじめて英語が身につくのだ。」(同上書13頁)
←安田曰く、まったく同感である、と。
私・安田はニューヨークに10年も(不法)滞在しながら碌に英語をしゃべれない日本人に出会ったことがあります。小川さんは英語の習得に人知れず努力に努力を重ねたことでしょう。
②「シンシナティで手に紙切れでも持ってうろうろしてごらんなさい。家探しをしていると思って必ず若い人でも誰でも飛んできて、“May I help you ?”と聞いてくれる。欧米人の慣用句だからと何も感じない人が多かろうが、私はいつも、なんて美しい言葉だろうと思う。『お助けさせて頂けませんか』なんて。丁寧語で手助け許可を求めるなんて。/多くの日本人は知っている人にはとても親切だが『見知らぬ人への親切』ではアメリカ人にかなわないと思う。挨拶しようとためらっているうちにチャンスを逸するのかもしれない。アメリカは食わず嫌いだった夫でさえも数年の滞米生活のあと、アメリカ観が変わった。未知の人から予期せぬ親切を受けたこと数知れなかったからだ。『宗教を持つためだろう』と良く二人で話合ったが、社会を形成する人間は助け合って生きていくものだという思想―多分宗教に根ざした―が根底にあるようだ。/助けてあげても直接的な見返りは期待しないし、助けてもらっても『アリガトウ』の言葉だけ。いつか自分ができることで助けの必要な人に手をさしのべれば良いのだ。助けの『手』のあとに『物』の移動が少ないのはスッキリしていて気持ちがいい。」(同22-3頁)
1998年の大晦日、小川夫妻がレストランで居合わせたアメリカ人と年越しをした際のこと。「十二時が近づくと『肩を組もう』とその中の1人が言った。そして全員が肩を組み、『蛍の光』を合唱し始めた。程なく十二時だ。/“A Happy New Year!”と叫びあって…、お互い知らぬもの同士が抱き合って頬をくっつけ、『サンキュー。ワンダフル!』と賑やかに挨拶を交わす。直前まで知らぬ間柄だった者同士が仲間になり、20人がもれなく頬をくっつけあうこの和やかさ。『なるほどここはアメリカだ!』と温かい気持が胸にあふれた。」(同201-2頁)
←安田曰く、まったく同感である、と。
私・安田もまたニューヨーク滞在中―シンシナティよりはるかに巨大な都市でも―、“May I help you ?”と声をかけてきた何人ものニューヨーカーに出会いました。そして、各種のパーティー場やレストランで過ごした際、私の周辺には「相手をハッピーな気分にさせる明るく温かい挨拶と微笑み」(同21頁)が満ちていました。
それに比べて、日本人のほとんどが何とのっぺりして無表情なことか!溌剌とした自己主張もなく、引っ込み思案で辛気臭くて、ウジウジしていて…あー、どうして、こうも違うのか!
私はこの十数年、この彼我の差を見極めるために、「近代化」の問題を検討するとともに、人間のエートス(生活態度⇒宗教)に立ち入って、主としてユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教と、神道・仏教の多神教を比較検討してきました。そして、どうやら事態は見えてきました。
私はこの学習成果の一端を、昨年の世田谷市民大学(受講者112名)で初めて発表しました(安田塾メッセージ№20参照)。
③「アメリカでは勉強の適齢期はない。学校を離れるのはドロップ・アウトだけではなく、不必要な時にはストップ・アウトし、また必要なときに学校へ帰るバック・トゥー・スクールのシステムが確立している。人はいくつになっても教育を受ける権利を持っているのだ。だから公教育の時期に関する人生プランは一人一人が異なる。自分の人生を決めるのは自分なのだ。」(同28頁)
←安田曰く、アメリカの学校教育がいかに豊かであるかは、一個人の生涯にわたる積極的な自己学習能力を高める教育システムが整備されていることが客観的に実証している、と。
④「8年間のうちに住まいを4回変わった。引越しが趣味だと言われてしまったが、どの家にも限りない良さがあった。アメリカの住居、特に古き良きアメリカの残るシンシナティではアパートも、タウンハウスも、どんなに小さく見える家でも、室内はとてもゆったりと造られている。日本の一般的な家屋と比較すると感動するほど素敵な設計になっている。」(同33頁)
「シンシナティ界隈はどこに住んでも風景は美しく、コミュニティーは人情に満ちあふれ、リスや小動物をはじめ蛍も多く、かわいい鳥の声がこだましている。」(同40頁)
←安田曰く、アメリカの住環境がいかに素晴らしいかは何人と言えども認めざるをえない、と。
昨年の世田谷市民大学における私・安田の受講生・志村謙一さんは、1989年から93年まで4年間、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ライブルック市に居住しました。彼は私に、こう語ってくれました。
月2800ドルで借りた一戸建ての家は、500坪ぐらいの庭に飛び込みもできる15メートルのプール付き。プールは温水装置を完備し、春から秋まで使える。家賃は月1回の庭師の作業料込み。庭には野ウサギやリスが棲み、時々鹿やスカンクが訪れる。そこは特別裕福な階層が住む住宅地ではなく、国連職員・高校教師・年金生活者など、ごく普通の人たちが近所の住人である。日本が「GNP世界2位」などと言っても、実はちっとも豊かでない、アメリカはもとよりオーストラリアやニュージーランドに比べても貧しいと痛感!少なくとも住環境のレベルは、アジア諸国と同程度。いったい豊かさ、幸福とは何か。何か違うものを我々日本人は追いかけてきたのではないか―。
⑤「転勤で夫がシンシナティに赴任する直前に私たちは多くの人を招いてホーム・パーティーをしようと話しあっていた。日本文化を伝え異文化を学び、加えて英会話の練習にもなるからだ。ワインもビールも格安なこの地に来て早速実行にうつした。蛍見パーティーから始まり、アライグマどんじゃらほいパーティー、紅葉見、鹿見、そして雪見酒パーティーなどと銘打ったパーティーは長く続いた。」(同72頁)
「当時『日本人は情報を取るばかり』とか『閉鎖社会を作っている』などと言われていたが、私たちはそのような批判を返上しようと努力しながらアメリカ生活を楽しんできた。」(同75頁)
「異文化受信のみでなく日本の文化を伝えようという私たちの試みがアメリカの人たちに日本人に対する親近感をもたらすならば幸いであるという思いで常に文化使節を意識してきた。」(同77頁)
←私・安田は、ホーム・パーティーを開き、異文化コミュニケーションを進展させた小川さんの「国際人」としての生き方に絶大なる敬意を表するものです。
この際、私たちは日米関係史上の日本人移民排斥運動の問題を忘れてはなりません。日露戦争のころから、特にアメリカのカリフォルニア地方では、低賃金で勤勉に長時間働き、しかもアメリカ社会に溶けこもうとしない日本人移民が白人労働者の目の敵にされ、労働組合を中心とする移民排斥運動の矢面にさらされました。やがて1913年―第一次大戦の前年―には、カリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止した「排日土地法」が成立します―。
この排日的な雰囲気が醸成された背景として、「黄禍論(Yellow peril、黄色人種脅威論)」という当時のアメリカ人の人種的偏見(人種差別)の問題は看過できません。しかし同時に、日本人移民自体が自閉的・集団主義的な共同体を形成して、他者=アメリカ人になじめないorなじまない事態が注視されなければなりません。
五十路の坂を越えた熟年の小川彩子は、日本人の民族的特性ともいうべき自閉的共同体性を克服する滞米生活を送りつづけました。そこでは現に、「交友関係がグローバルになるほど」に、「ナショナリティーよりも個人のパーソナリティー」が「重要な関心事」となりつつづけました(同75頁)。
⑥「アメリカでは履歴書に年齢を書かない。うっかり書くと最初に読んだ人が『これはいらない』と必ず注意してくれる。『結婚、未婚』もいらない。そういうことは仕事能力とは無関係という考えが徹底している。アメリカの履歴書を日本の大学への求職に送ったら日本の履歴書形式に直してください、と言われた。年齢給が生きているのが大きな理由だという。多くのアメリカ人は、年齢を重ねているということはそれだけ世の中を見てきたということで、有利になりこそすれマイナスになるのはおかしい、と言う。私も年齢給は求職者だけでなく、求人側にとってもマイナスだと思う。世界の諸システムがからみあい依存しあうグローバル時代の仕事には、人間の生物学的年齢より個性や個人差のほうがものを言うと思うのだが。」(同168頁)
←私・安田は滞米生活をとおして、アメリカが人種・年齢・性別・宗教・信条の如何にかかわらず対等の権利が得られるよう常に努力しつづけていることを思い知りました。特に、どんな職場でも多くの高齢者が生き生きと働いていること⇒実年齢にこだわることなく、すがすがしい能力主義の人選を進めていることに強い感銘を受けたものでした。
⑦「日本の社会現象の多くはアメリカのたどってきた道を追っかけてきている。経済活動でも教育制度でも変革の試みが速いアメリカには日本のやろうとしていることの成功例、失敗例があふれている。たとえば、日本の高等教育は今変身をせまられているが、1998年10月の大学審答申の内容のほとんどがアメリカで長きにわたってプログラム化されているものである。日本の大学もこの先社会人学生が高等教育の半数を占め、大学の入り口は広く出口は狭く、転校がスムースでプロフェッショナリズムが重視されていってほしい。
アメリカはまた奨学金その他、多種の利益を心がけて国際学生を惹きつける。惜しみない援助で学ばせてもらった国際学生は必ずや将来母国との架け橋になる。また世界中からやってくる国際学生と共に学び、競争するアメリカの若者、とくに高等教育で研鑽をつむアメリカの学生は、日本の学生と比べグローバル意識、協働・共生能力に大きな差がある。日本に留学している国際学生の数はアメリカにいる留学生の比ではなく、また教授の講義の聞き役を演じ続ける日本の学生に同情を禁じえない。
われわれ個人も公的機関も、アメリカの個人や公的機関のようにリスクをかけることを恐れず、チャレンジ精神で試行錯誤し、変革は速やかに断行する必要がある。個性を育てる教育の掛け声が聞こえて久しいが、異文化背景の人々が隣り合って住むこのグローバル時代に、説得力を持って意見表明し、協働、共生する能力を育てる多文化共生の教育・グローバル教育が急務だ。長きにわたり異質の人材を受け入れてきたアメリカ、人種、信条、年齢、性別による差別を減らす努力を続け、弱者グループの権利拡大に心を砕くアメリカの社会には日本の明日のモデルが多く見られる。」(同208-9頁)
←安田曰く、これまた、まったく同感である、と。
小川さんは講演の最後を、次のような「個人のグローバル化」論をもって締め括りました。
・個人の「グローバル化」とは、グローバル意識が高まること、すなわち「異文化を理解し、異文化背景の人々の直面する問題や懸案事にも関心を寄せ、知識を得、支持、または説得力を持って対話し、異文化背景の人々と隣り合って住み協働することができ、自グループの立脚点からのみでなく地球的視野で正義や平等の実現に向けて意見表明や努力をするようになる」ことである。
・グローバル化した人間は端的に言って、言語や心的態度・行為としてのコミュニケーション技術に長けている人である。言語に関しては母国語意外に少なくとも一つの外国語が離せ、心的態度・行為に関しては世界の地理や歴史・政治・経済について知る努力を重ねることが、グローバルな人間の必要条件であろう。
↓ 小川彩子・バックパッカーの旅―ジンバブエで(2011年4月)
第11回安田塾(2011.7.23)の講演
「泣き笑い挑戦人生:異文化、住んで学んで教えて旅して」
【講師】小川彩子(おがわ・あやこ、グローバル教育学者)
【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室
▲ 小川さんは下記の項目に即して順次、話を進めました。その際、注目すべきは、アメリカではお馴染みの「参加」型の手法が導入されたことです。彼女の力量のなせる業でしょう、約2時間、参会者との対話を重ねながら、率直な話し合いが展開されました。
(1)自己変革:自己の壁に挑戦!
①超内気な主婦だった
②内なる挑戦から外への挑戦へ
(2)泣き笑い挑戦人生:年齢の壁に挑戦!
①突然のアメリカ生活
②泣きが笑いより多かった
③叩けよ、さらば
④博士号への道:目標必達
⑤講師からプロフェッサーへ
(3)文化の発信受信:文化の壁に挑戦!
①足元から見たアメリカ文化
②多文化音楽とアートの昼食会
(4)足と心で異文化交流:ドキドキ地球千鳥足と三無(あてにしない・あわてない・諦めない)
①みどりとケンの物語
(5)自己実現と共生活動の交点:挑戦に適齢期なし!
①「年だ」は「ま~だ」だよ
②「人生は壁乗り越える泣き笑い―彩子」
“Constant renewal keeps the oasis alive” 「静かな泉の水は涸れる」
講演内容は鳥取県米子出身の「超内気」な主婦・小川彩子の「自己変革」⇒「自己主張」の物語でした。そこでは、とりわけ1990年、定年間際の夫に下されたアメリカ転勤(オハイオ州シンシナティ在住)を機に、チャレンジを自分に課しつづけた異文化体験談が披露されました。
彼女はこの異文化体験の核心を、著書『突然炎のごとく Suddenly, Like a Flame』(春陽堂、2000年)に手際よくまとめています。以下、同書を心して読み取りながら、私の最も関心の引くところを箇条書きに特記します。
①「英語はアメリカに行ったからとて簡単に上達はしない、というのが体験からくる私の意見だ。物件(不動産―引用者註)を見ながら、人と話したあと、テレビやビデオを見ているとき、本や新聞を読んでいるとき、良い表現にであったらすかさずメモする。そのメモ帳をおりあるごとに開き、暗記を試み、文脈上少々不適切でも使ってみるなどの死に物狂いの努力があってこそ表現が豊かさを増す。例外的に語学的センスのずばぬけた人はいざ知らず、凡人は努力してこそはじめて英語が身につくのだ。」(同上書13頁)
←安田曰く、まったく同感である、と。
私・安田はニューヨークに10年も(不法)滞在しながら碌に英語をしゃべれない日本人に出会ったことがあります。小川さんは英語の習得に人知れず努力に努力を重ねたことでしょう。
②「シンシナティで手に紙切れでも持ってうろうろしてごらんなさい。家探しをしていると思って必ず若い人でも誰でも飛んできて、“May I help you ?”と聞いてくれる。欧米人の慣用句だからと何も感じない人が多かろうが、私はいつも、なんて美しい言葉だろうと思う。『お助けさせて頂けませんか』なんて。丁寧語で手助け許可を求めるなんて。/多くの日本人は知っている人にはとても親切だが『見知らぬ人への親切』ではアメリカ人にかなわないと思う。挨拶しようとためらっているうちにチャンスを逸するのかもしれない。アメリカは食わず嫌いだった夫でさえも数年の滞米生活のあと、アメリカ観が変わった。未知の人から予期せぬ親切を受けたこと数知れなかったからだ。『宗教を持つためだろう』と良く二人で話合ったが、社会を形成する人間は助け合って生きていくものだという思想―多分宗教に根ざした―が根底にあるようだ。/助けてあげても直接的な見返りは期待しないし、助けてもらっても『アリガトウ』の言葉だけ。いつか自分ができることで助けの必要な人に手をさしのべれば良いのだ。助けの『手』のあとに『物』の移動が少ないのはスッキリしていて気持ちがいい。」(同22-3頁)
1998年の大晦日、小川夫妻がレストランで居合わせたアメリカ人と年越しをした際のこと。「十二時が近づくと『肩を組もう』とその中の1人が言った。そして全員が肩を組み、『蛍の光』を合唱し始めた。程なく十二時だ。/“A Happy New Year!”と叫びあって…、お互い知らぬもの同士が抱き合って頬をくっつけ、『サンキュー。ワンダフル!』と賑やかに挨拶を交わす。直前まで知らぬ間柄だった者同士が仲間になり、20人がもれなく頬をくっつけあうこの和やかさ。『なるほどここはアメリカだ!』と温かい気持が胸にあふれた。」(同201-2頁)
←安田曰く、まったく同感である、と。
私・安田もまたニューヨーク滞在中―シンシナティよりはるかに巨大な都市でも―、“May I help you ?”と声をかけてきた何人ものニューヨーカーに出会いました。そして、各種のパーティー場やレストランで過ごした際、私の周辺には「相手をハッピーな気分にさせる明るく温かい挨拶と微笑み」(同21頁)が満ちていました。
それに比べて、日本人のほとんどが何とのっぺりして無表情なことか!溌剌とした自己主張もなく、引っ込み思案で辛気臭くて、ウジウジしていて…あー、どうして、こうも違うのか!
私はこの十数年、この彼我の差を見極めるために、「近代化」の問題を検討するとともに、人間のエートス(生活態度⇒宗教)に立ち入って、主としてユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教と、神道・仏教の多神教を比較検討してきました。そして、どうやら事態は見えてきました。
私はこの学習成果の一端を、昨年の世田谷市民大学(受講者112名)で初めて発表しました(安田塾メッセージ№20参照)。
③「アメリカでは勉強の適齢期はない。学校を離れるのはドロップ・アウトだけではなく、不必要な時にはストップ・アウトし、また必要なときに学校へ帰るバック・トゥー・スクールのシステムが確立している。人はいくつになっても教育を受ける権利を持っているのだ。だから公教育の時期に関する人生プランは一人一人が異なる。自分の人生を決めるのは自分なのだ。」(同28頁)
←安田曰く、アメリカの学校教育がいかに豊かであるかは、一個人の生涯にわたる積極的な自己学習能力を高める教育システムが整備されていることが客観的に実証している、と。
④「8年間のうちに住まいを4回変わった。引越しが趣味だと言われてしまったが、どの家にも限りない良さがあった。アメリカの住居、特に古き良きアメリカの残るシンシナティではアパートも、タウンハウスも、どんなに小さく見える家でも、室内はとてもゆったりと造られている。日本の一般的な家屋と比較すると感動するほど素敵な設計になっている。」(同33頁)
「シンシナティ界隈はどこに住んでも風景は美しく、コミュニティーは人情に満ちあふれ、リスや小動物をはじめ蛍も多く、かわいい鳥の声がこだましている。」(同40頁)
←安田曰く、アメリカの住環境がいかに素晴らしいかは何人と言えども認めざるをえない、と。
昨年の世田谷市民大学における私・安田の受講生・志村謙一さんは、1989年から93年まで4年間、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ライブルック市に居住しました。彼は私に、こう語ってくれました。
月2800ドルで借りた一戸建ての家は、500坪ぐらいの庭に飛び込みもできる15メートルのプール付き。プールは温水装置を完備し、春から秋まで使える。家賃は月1回の庭師の作業料込み。庭には野ウサギやリスが棲み、時々鹿やスカンクが訪れる。そこは特別裕福な階層が住む住宅地ではなく、国連職員・高校教師・年金生活者など、ごく普通の人たちが近所の住人である。日本が「GNP世界2位」などと言っても、実はちっとも豊かでない、アメリカはもとよりオーストラリアやニュージーランドに比べても貧しいと痛感!少なくとも住環境のレベルは、アジア諸国と同程度。いったい豊かさ、幸福とは何か。何か違うものを我々日本人は追いかけてきたのではないか―。
⑤「転勤で夫がシンシナティに赴任する直前に私たちは多くの人を招いてホーム・パーティーをしようと話しあっていた。日本文化を伝え異文化を学び、加えて英会話の練習にもなるからだ。ワインもビールも格安なこの地に来て早速実行にうつした。蛍見パーティーから始まり、アライグマどんじゃらほいパーティー、紅葉見、鹿見、そして雪見酒パーティーなどと銘打ったパーティーは長く続いた。」(同72頁)
「当時『日本人は情報を取るばかり』とか『閉鎖社会を作っている』などと言われていたが、私たちはそのような批判を返上しようと努力しながらアメリカ生活を楽しんできた。」(同75頁)
「異文化受信のみでなく日本の文化を伝えようという私たちの試みがアメリカの人たちに日本人に対する親近感をもたらすならば幸いであるという思いで常に文化使節を意識してきた。」(同77頁)
←私・安田は、ホーム・パーティーを開き、異文化コミュニケーションを進展させた小川さんの「国際人」としての生き方に絶大なる敬意を表するものです。
この際、私たちは日米関係史上の日本人移民排斥運動の問題を忘れてはなりません。日露戦争のころから、特にアメリカのカリフォルニア地方では、低賃金で勤勉に長時間働き、しかもアメリカ社会に溶けこもうとしない日本人移民が白人労働者の目の敵にされ、労働組合を中心とする移民排斥運動の矢面にさらされました。やがて1913年―第一次大戦の前年―には、カリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止した「排日土地法」が成立します―。
この排日的な雰囲気が醸成された背景として、「黄禍論(Yellow peril、黄色人種脅威論)」という当時のアメリカ人の人種的偏見(人種差別)の問題は看過できません。しかし同時に、日本人移民自体が自閉的・集団主義的な共同体を形成して、他者=アメリカ人になじめないorなじまない事態が注視されなければなりません。
五十路の坂を越えた熟年の小川彩子は、日本人の民族的特性ともいうべき自閉的共同体性を克服する滞米生活を送りつづけました。そこでは現に、「交友関係がグローバルになるほど」に、「ナショナリティーよりも個人のパーソナリティー」が「重要な関心事」となりつつづけました(同75頁)。
⑥「アメリカでは履歴書に年齢を書かない。うっかり書くと最初に読んだ人が『これはいらない』と必ず注意してくれる。『結婚、未婚』もいらない。そういうことは仕事能力とは無関係という考えが徹底している。アメリカの履歴書を日本の大学への求職に送ったら日本の履歴書形式に直してください、と言われた。年齢給が生きているのが大きな理由だという。多くのアメリカ人は、年齢を重ねているということはそれだけ世の中を見てきたということで、有利になりこそすれマイナスになるのはおかしい、と言う。私も年齢給は求職者だけでなく、求人側にとってもマイナスだと思う。世界の諸システムがからみあい依存しあうグローバル時代の仕事には、人間の生物学的年齢より個性や個人差のほうがものを言うと思うのだが。」(同168頁)
←私・安田は滞米生活をとおして、アメリカが人種・年齢・性別・宗教・信条の如何にかかわらず対等の権利が得られるよう常に努力しつづけていることを思い知りました。特に、どんな職場でも多くの高齢者が生き生きと働いていること⇒実年齢にこだわることなく、すがすがしい能力主義の人選を進めていることに強い感銘を受けたものでした。
⑦「日本の社会現象の多くはアメリカのたどってきた道を追っかけてきている。経済活動でも教育制度でも変革の試みが速いアメリカには日本のやろうとしていることの成功例、失敗例があふれている。たとえば、日本の高等教育は今変身をせまられているが、1998年10月の大学審答申の内容のほとんどがアメリカで長きにわたってプログラム化されているものである。日本の大学もこの先社会人学生が高等教育の半数を占め、大学の入り口は広く出口は狭く、転校がスムースでプロフェッショナリズムが重視されていってほしい。
アメリカはまた奨学金その他、多種の利益を心がけて国際学生を惹きつける。惜しみない援助で学ばせてもらった国際学生は必ずや将来母国との架け橋になる。また世界中からやってくる国際学生と共に学び、競争するアメリカの若者、とくに高等教育で研鑽をつむアメリカの学生は、日本の学生と比べグローバル意識、協働・共生能力に大きな差がある。日本に留学している国際学生の数はアメリカにいる留学生の比ではなく、また教授の講義の聞き役を演じ続ける日本の学生に同情を禁じえない。
われわれ個人も公的機関も、アメリカの個人や公的機関のようにリスクをかけることを恐れず、チャレンジ精神で試行錯誤し、変革は速やかに断行する必要がある。個性を育てる教育の掛け声が聞こえて久しいが、異文化背景の人々が隣り合って住むこのグローバル時代に、説得力を持って意見表明し、協働、共生する能力を育てる多文化共生の教育・グローバル教育が急務だ。長きにわたり異質の人材を受け入れてきたアメリカ、人種、信条、年齢、性別による差別を減らす努力を続け、弱者グループの権利拡大に心を砕くアメリカの社会には日本の明日のモデルが多く見られる。」(同208-9頁)
←安田曰く、これまた、まったく同感である、と。
小川さんは講演の最後を、次のような「個人のグローバル化」論をもって締め括りました。
・個人の「グローバル化」とは、グローバル意識が高まること、すなわち「異文化を理解し、異文化背景の人々の直面する問題や懸案事にも関心を寄せ、知識を得、支持、または説得力を持って対話し、異文化背景の人々と隣り合って住み協働することができ、自グループの立脚点からのみでなく地球的視野で正義や平等の実現に向けて意見表明や努力をするようになる」ことである。
・グローバル化した人間は端的に言って、言語や心的態度・行為としてのコミュニケーション技術に長けている人である。言語に関しては母国語意外に少なくとも一つの外国語が離せ、心的態度・行為に関しては世界の地理や歴史・政治・経済について知る努力を重ねることが、グローバルな人間の必要条件であろう。
↓ 小川彩子・バックパッカーの旅―ジンバブエで(2011年4月)
by tadyas2011
| 2011-10-05 08:09
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