安田塾メッセージ№36 ある学校法人(5)
2011年9月30日 安田忠郎
学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(5)
【急】 月のない闇夜
[Ⅰ] 私学の自主性(安田塾メッセージ№34・35)
[Ⅱ] 私学の公共性
私立学校法の第1条は、「私立学校の健全な発達を図る」ために、「自主性」のほかに、「公共性」の重要性について定めている。(ちなみに、この公共性の在りどころは、すでに【急】[Ⅰ]および【破】(1)(2)の問題設定に応じて、暗に示唆されている。)
日本人は「公共性」ないし「公共」といわれて、何か分かった気になり、つい公会堂とか公園とか図書館とか、or 都市交通とか衛生局とか清掃局とか、そういう国家や都市に近い場所的なものを連想する。
「公共性」という言葉は、もともと英語のpublicityから明治以降に翻訳されて生まれた言葉(翻訳語)である。
publicityないしpublic とは、西欧の個人が国家や社会と対決し、長い年月をかけて市民として形成されていく過程で生まれた「市民的公共性」のことである。欲望を持つ個としての「私」が市民生活の中で欲望相互の対立が生じないように調整する必要が出てくる。欲望を満たしながら全体の平和を考えようとする時に生まれているのが「市民的公共性」にほかならない。
publicity(⇒公共性)は欧米の歴史的現実の中でつくられた概念であり、独語のÖffentlichkeit(⇒公共性)の場合は端的に「開かれている」ことを含意する。
[ちなみに、西欧における【個人】の起源は12世紀であり(その切っ掛けはカトリック教会における告解の普及と都市の成立⇒「12世紀ルネサンス」)、そして18、9世紀には西欧独自の【市民】が誕生している。]
日本語の「公共」自体は、「公(おおやけ)」という言葉から来ている。訓の「おほやけ」は、「大(オホ)+家(ヤケ)」、大きい家の意のこと。つまり、古代から公(おおやけ)は天皇家を中心とした支配者の家のことを言う。
問題は日本では、この公(おおやけ)が一般に「公(コウ)」⇒共同体ととらえられ、したがって「官」(政府と直結している機関)と公の区別がつかなく、公―ひいては翻訳語の公共―が国家と区別されていないことである。日本の現実においては、官と公が密着しており、官とはっきり区別できるような形で公は形成されていない。(ex.役人を「官僚」or「公務員」と言う。また、役人の住まいを「官舎」or「公舎」と言う。)
西欧の場合は、publicity=市民的公共性が最終的にフランス革命にいたって王家を倒して共和制を敷くにいたるが、日本の場合は私→「公共」意識は非常に弱く、最終的に市民的公共性は生まれず、今でも天皇が君臨する⇒官が公にかぶさる形態になっている。
私たち日本人が厳密に認識すべきは、日本では官と民⇒私の間で「公共」という視点が今にいたるまで全くアイマイな位置しかもっていないことである。ところが、ケッサクなことに、多くの現代日本人―とりわけ学者や評論家などの「知識人」たち―は、欧米由来の翻訳語=「公共性」概念がそのまま通用して―その実質が「安全パイ」のごとく無に等しくても―、すでに日本的現実を表現しているかのごとき幻想に取り付かれている。
(ⅰ) 「理事長」人事
私は【破】の(1)において、こう問題点を指摘しておいた。五島育英会の「理事長」人事は、東急電鉄に管掌され、現に東急電鉄の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい、と。
【育英会】理事長(任期)は、五島慶太(1955~59)に始まり、五島昇(59~64)→唐澤俊樹(64~67)→星野直樹(67~74)→曽祢益(74~80)→五島昇(80~81)→山田秀介(81~94)→堀江音太郎→(94~2000)→秋山壽(00~03)→山口裕啓(03~11)→安達功(11~)が務めている。この歴代理事長の履歴に多少触れると、
五島昇は五島慶太の長男で、東急電鉄社長・日本商工会議所会頭、
唐澤俊樹は戦前⇒東條内閣の内務次官、戦後⇒東條内閣内務次官の廉で公職追放、後に岸信介内閣の法務大臣、
星野直樹は戦前⇒満州国総務長官、東條内閣の内閣書記官長、戦後⇒A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑を宣告され(1958年に釈放)、後に東急電鉄取締役、
曽祢益は民社党書記長・衆議院議員、妻が五島慶太の長女、
そして残り5人は、すべて東急電鉄の役員-山田が専務取締役、堀江が副社長、秋山が専務取締役、山口が副社長、安達が副社長である。
ここでは、五島慶太の後、五島昇→唐澤→星野→曽祢→五島昇の5代4人が五島慶太の血脈・人脈そのものであり、唐澤と星野という戦前の「名だたる」国家主義的な官僚・政治家がその名を連ねている点が注目されねばならない。特に「A級戦犯」星野直樹(1892~1978)―「満州国」を動かす「2キ3スケ」の1人といわれた札付きの国家主義者(ウルトラ・ナショナリスト)―が約7年間、理事長に就任した事態は一体全体、何を物語るのだろうか。
[註:「2キ3スケ」とは、東條英機(ヒデキ)・星野直樹(ナオキ)の2人の「キ」+鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)の3人の「スケ」を言う。]
そしてまた、問題は五島慶太の直接的な血脈・人脈を離れた、東急電鉄からの「天下り」理事長は、どういう人物―精神・思想の持ち主―なのかである。
私が武蔵工大専任教師になった時=1980年4月1日、【育英会】理事長は曽祢益であった。しかし、彼は同年4月25日に死去、五島昇(1916~89)による急場しのぎの約1年間のショート・リリーフを経て、山田が81年6月22日に天下りした。私は武蔵工大に在職中、曽祢および五島に「拝眉する」機会が一度もなかったものの、山田・堀江・山口の3人とは、大学改革をめぐる諸問題に関連して何度も「談論・対論」するにいたった。[ちなみに言うと、秋山理事長(任期:2000.5.27~03.5.26)については、当時の私がコロンビア大学での滞米生活を送ったこと、また彼自身が体調不全で早期に離職したことで、私は一度も「拝顔の栄」に浴することができなかった。]
私の山田→堀江→山口の各理事長論の具体的な詳細は他日を期することにし、ここでは彼ら理事長に通底する、日常的な態度設定上の問題点だけを指摘しておきたい。
彼らは東急電鉄の定年退職後の「天下り」なるがゆえに、その根本的性向としては、「雇われ」理事長として任期を大過なく無難に勤め上げることに汲々とする、その意味でのサラリーマン的事なかれ主義者である。
確かに3人の場合、武蔵工大をめぐる内外の情勢の深刻な変化に即応する態度に各人各様の趣向が凝らされていることは言うまでもない。しかし問題は、彼らが大学改革をめぐる「ここを先途と闘う」決定的な場面において、一様に“東急電鉄ムラ”の極印を押された、滑稽で哀れな習性を引きずる“他律的”な人格にほかならないことである。
私はつい考え込む。そもそも企業人・経営者・経済人が「優秀」という場合、何をもって「優秀」とするのか。東京電鉄の場合、いわゆる「立身出世」がかない、社長・副社長・専務取締役にでもなれば、「優秀」な人物ということなのだろうか?!
私は「安田塾メッセージ」№21で、私の【北炭】時代の上司、政安裕良(まさやす・ひろよし、1924~97)について、こう書いた。「政安裕良とは何者か。ありていに言えば、彼はいわゆる『日本人』の一典型でした。一般に日本人は人前に出たときに『私』が消えるといわれます。これは主体としての自己主張[ex.『我思う、ゆえに我在り』(デカルト)]がいかに脆弱であるかを物語るものです。彼は土壇場に立たされたとき、この国際的に認知された『日本人』類型を地で行くような歩みをたどりました。」
この評言自体は【育英会】の歴代理事長にも、そっくりそのまま当てはまる言葉ではある。
しかし急いで付け加えるなら、私が政安の生き方をそう評したのは、あくまで1981年10月16日に起きた北炭夕張新炭鉱の「ガス突出事故」(93名死亡)をめぐってのことである。私は今にして思う、私の見知った日本人の会社人に限れば、政安裕良は<知情意>すべての「自己表現」において最も「優秀」な人物であった、と。
彼がいかに「優秀」であるかは、論より証拠、癌が浸潤し死がひたひたと忍び寄る状況下で、回顧録『帰らざる小径』(96年9月20日)および続編『帰らざる小径(短歌編)』(98年2月9日)を何とか自費出版までこぎつけたことである。関係者に配布された『帰らざる小径』の添え状には、こう記されている。「…結果的には、つまらぬ人生ではありましたが、非才ながら其の時其の時に、自分では恐らく、精一杯に生きて来たものと思っております。サラリーマン生活を引退するに当たり、是れを機会に、過去を振り返り、且つさぞ短いではあろうが、将来の展望の為に、自身の赤裸々な人生の軌跡を辿って見た次第でご座居ます。…」
また、同書は余りにも遅きに失したとはいえ、随所に己れを省みた、貴重な文言を連ねている。かつて私と激論を交わした点に関わる文章を、以下に抄出しておきたい。
「昭和43年9月16日に(この時期、彼は北炭幌内鉱業所労務課長で、私は同労務課職員であった―引用者註)、会社の機構改革と人事異動の発表があったが、午後1時30分に、札幌より各鉱業所の労務の責任者に対して緊急の呼び出しがあった。至急事務所のジープを借りて、札幌事務所に駆けつけたのだが、当時は全くの箝口令が敷かれていて、何が有ったのかも、中身の事は鉱業所長にも報告するなと云う事であった。/…結局中央で使用された使途不明金の肩代わりを、山元の労務対策費として使用したと云う事にして、山元の労務責任者の責任で処置したと云う、領収書を書けと云う事であった。…多額な労務対策費の領収書を書けと言われた事には、全く内心忸怩たるものがあったが、是れもサラリーマンの悲しさで、作成の上提出せざるをえなかった。/そして誰が何の用に使用したかは、全く知らされなかった」(186-7頁)
「北炭の命運を語るには、どうしても政商、萩原吉太郎氏を度外視して語る事は出来ない。[安田註:萩原吉太郎(はぎわら・きちたろう、1903~2001)は、慶大理財科(現・経済学部)卒、1955年に北炭の社長に就任、その後会長→相談役になったとはいえ、最後(1995年)まで北炭の実質的な統率者であった。彼は<北炭のドン><北炭の天皇><石炭の鬼>などの異名をとり、また政商として、児玉誉士夫・永田雅一と古くから親交を結んでいたほか、三木武吉・大野伴睦・河野一郎ら党人派政治家と交流を持ち、<石炭ではなく国の金庫を掘った男>とも呼ばれていた。]
政商としては、昭和35年の安保闘争の際に、当時の自民党の実力者である、岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作氏の会談に、永田雅一、児玉誉士夫氏と共に出席して立会い、当面大野氏が岸氏を応援する代わりに、岸氏が後任に大野氏を推薦すると云う、所謂『帝国ホテル・光琳の間』の政権禅譲会談は有名であり、真偽の程は分からぬが、其の一札は、北炭本店の、社長室の金庫の中に仕舞ってあるとの専らの評判であった。
此の様な面から、可成の額の政治資金の投入も行われたと思われる。昭和43年9月16日の既述の、山元の労務責任者の札幌への呼び出しによる、使途不明金の労務対策費への切替えの指示も、或いは此の方面に使用されたものではないかと臆測していた。…
同氏が社長就任後、北炭の消滅迄の間、事実上北炭を牛耳って来れたのには、色々と人事上の対立者を陰で排除して来たものと思われている。/昭和40年頃には、トップの指導権争いは可成熾烈であった模様であり、…萩原氏は…昭和40年4月27日に、全役員から白紙を取り、5月4日の取締役会で、目の上の瘤と思しき役員を退任させて関連会社に追い出した。…
昭和41年12月13、4日の札幌に於ける労使協議会では、『統制と融和』を標榜して、是れに反する行動をする者は、直ちに排除すると公言された。/そして社内では、『馬鹿は不平を云う』と云う事で、自己の主張に反する意見の人間は排除して行く戦法を取ったと思われ、社内には『物言えば唇寒し』との気風が横溢して来た。」(240-2頁)
「萩原氏は昭和33年4月には札幌テレビ放送(STV)、同年8月には北海道不動産を設立した。/北海道不動産は、昭和38年に北炭観光開発となり、昭和46年には三井観光開発となって、北炭とは関係の無い独立した会社に成長していった(平成19年、三井観光開発は「グランビスタ ホテル&リゾート」に社名を変更―引用者註)。/此の不動産部門の生成の過程では、苫小牧や千歳、大沼の北炭の土地等を、合法的に安く譲渡させて、折からのバブルの波に乗って、太って行った経緯がある。
一体、不動産部門を完全に独立させて別会社とし、自己の息子や息のかかった、或る傾向の北炭の社員のみを引き抜いて行ったのはどう云う事だったのだろうか。…
勿論観光へ移行して、財産を温存して、三井や三菱や住友等の様に、北炭の命脈を保持し続けたのならば、何も云う事はないが、北炭の命脈を全く途絶えさせて、自己の子息に観光をバトンタッチして行くと云う事は、当初から、北炭を食い物にする魂胆だったのではないかと思われても致し方ない。
新鉱(北炭夕張新炭鉱―引用者註)開発でも…、いきなり深部開発に入って行けば、危険な事は充分に察知されたところで、此の事を指摘した技術屋さんは沢山いたし、私が新鉱に在籍していた時でさえ、開発段階でも、ガスの突出の危険は充分にあって、此の点を指摘して、営業出炭の時期を引き延ばす様に主張する人も多かったが、そんな事を言えば、直ぐに能力が無いと云う理由で、首が飛ぶと云うのが、一般社員に横溢していた空気であった。
故に新鉱の事故は、起こるべくして起こった人災であると言われても、誰も否定出来なかったろう。
社内にはワンマン体制が出来ていて、萩原氏の意向に逆らえる者は一人もいなかった。…
結論的に言えば、萩原氏は自己の大きな意味の財産保全の為に、北炭を利用したとしか考えられない。其の事に依って何千人もの人間が泣く事になったのである。
私は此の人生に於いて、身を以て、本当に良い事例を見せて貰ったと感謝していると共に、北炭喪失の責任は萩原氏に有りと思うし、又産業と云うものは矢張り永遠ではない事を痛感した次第である。」(244-6頁)
政安は1973(昭和48)年に49歳で北炭を退職し、N社に入社、総務部長代理→総合企画部長→取締役→常勤監査役→顧問に就任、94年7月総胆管癌で「九死一生」の手術、97年12月24日に死去する(享年73歳)。
彼はN社で20年間、所を得たのか、それなりに活躍し出世した。そして大手術後の、かろうじて余命を保つ状態下で、はじめて自由な自律の心を構えて、“北炭ムラ”であがきつづけた彼の「個」を描写する「回顧録」を上梓した。
彼と私は、74年以降20年間にわたって、毎年1度、東京の赤坂で酒を酌み交わす仲であった。彼が70年代後半のある時、こう切り出した話がいまだに私の耳に残って忘れがたい。
「安田よ、大学の非常勤やライターなど、いろいろやっているようだが、これからどうするんだ。オマエは大学の教師になんか向いているのかね。今どきの大学教師にマトモな人間なんかいるのかい、オレの見るかぎり専門バカというか、変わり者が多いし、碌なヤツはいないな。それより、N社に来て、オレと一緒に仕事をしないか。オマエなら、今すぐ課長で採用できる。N社は北炭ほどの大企業ではないが、北炭に見られるような伏魔殿もないし、オマエにとって働きがいのある職場だと思う。オマエなら、その気になれば10年ぐらいで取締役も可能だな。」
人間・政安裕良は、「去るも地獄・残るも地獄」といわれた炭鉱世界(“北炭ムラ”)で、間欠的に「個」が自己主張して、生々しい苦闘の日々を送りつづけたものである。
だが、問題の【育英会】理事長-東急電鉄からの「落下傘」理事長は、もともと「個」が“東急電鉄ムラ”に埋没しているために、何かというと、自発的な自由意志の決断とは無縁な、外(他者⇒東急電鉄)から強いられるか、or 外(他者⇒東急電鉄)に見せるための偽善的なポーズを取り繕ったものである。
東急電鉄という組織体は、構成員の利益を重視するところのムラ社会である。ここでは、東急電鉄の構成員の個人的利益や組織的利益―つまり、「五島慶太・五島昇・東急電鉄」経営側の利益―が追求された結果、東急電鉄によって一学校法人が「子会社⇒私物」化され、理事長人事の決定権が一手に掌握される。
事態の核心は、“東急電鉄ムラ”―or 「東急グループ村」―の組織的利益の維持追求にある。
そして、コンセプトを明確にすべきは、当の組織益があくまでも私企業の私益であり、けっして公益=社会益ではない点である。ここに「公」とは前述したパブリック=公共のことであり、「私」を外に向かって開くところの、対等な個人どうしの「われわれ」市民側の力であることは言うまでもない。組織内にいるムラびとはとかく―組織としての閉鎖性が高まるほどに―、その組織の利益を公益と錯覚し、果ては公益に資する内部告発すらも、「守秘義務」の美名のもとに封殺する愚を極めることになる。
この日本国では、「企業の社会的責任」などという、まことしやかなキャッチフレーズが久しく唱えられてきた。しかし、それは企業イメージを高めてより多くの顧客を獲得するという「経済性」を動機にしている以上、どれほど「良心的」な企業でも、公益に寄与する方向はしょせん二次的な問題にすぎない。“東急電鉄ムラ”は五島慶太以来、ざっくり言えば、「私の肥大化」としての官(お上)との癒着の道をたどり、したがって「官による公」、「官=公」を発想の基本に据えつづけた企業である。そこでは、「公の喪失」、つまりpublicityが実体を持たないままに、学校法人=公益法人が経営されるにいたり、その結果、当の理事長人事はもとより、学長人事、さらには事務員人事などが「東急電鉄or東急グループ」ムラ(=利益共同体)の特殊意志に専断されるにいたった。当該人事の私物化(お手盛り)は、端的に「公害」ならぬ「私害」(私企業が引き起こす害)として弾劾されなければならない。
(ⅱ) 「学長」人事
私は【破】の(2)において、こう問題点を指摘しておいた。武蔵工大の「学長」人事の実権は、「偽装民主主義」の支配下、究極的には五島育英会理事長が、したがって東急電鉄が掌握している、と。
【育英会】-武蔵工大の学長(任期)は、これまで八木秀次(1955~60)→山田良之助(60~78)→石川馨(78~89)→古浜庄一(89~98)→堀川清司(98~2004)→中村英夫(04~)が務めている。この歴代学長の主な履歴に触れると、
八木秀次は大阪帝国大学総長・東京工業大学学長、
山田良之助は東京工業大学教授・静岡大学学長、
石川馨は東京大学教授・東京理科大学教授、
古浜庄一は武蔵工業大学教授、
堀川清司は東京大学教授・埼玉大学学長、
そして、中村英夫は東京大学教授・武蔵工業大学教授である。
この6人の学長に関して、八木・山田の2人は私にとって一面識もない学長であり、石川・古浜・堀川・中村の4人は私の在職期間中の学長であった。
武蔵工大の場合、1955年八木学長の選出当時までは、学長に関する明文化された規程はなかった。1959年に初めて、八木学長のもとで「武蔵工業大学学長に関する規程」および「武蔵工業大学学長選出に関する細則」が制定される。
この新規則を適用して選出されたのが山田であり、彼は何と1960年4月1日(63歳)から78年3月末日(81歳)まで18年間も、学長を務めた。
その後、山田の後に石川学長が選出されるに際して「一騒動」が起きた後、武蔵工大では「学長選」のたびに、「誰を学長にするか」をめぐる、<大学側vs.【育英会】側>の、したがって教員相互間の、何らかの形の確執・争いが繰り返されることになる。
そして、私自身は石川学長急逝後の古浜学長の選出時分から、いい加減でウサンクサイ学長選のありさまに義憤を覚え、そして大学全体の鬱屈した閉塞状況を打破するために、個と個の統一としての「われわれの公共」を掲げながら、大学改革・教育改革の険しく長い道に踏み込むにいたった。
私が接した石川→古浜→堀川→中村の4代の各学長論の具体的な詳細(全面的な展開)は後日に譲ることにし、ここでは彼ら4人の「人間・思想」像を総括的に縁取るに際して必須の客観的な視点を定めておきたい。
● それは近代哲学の祖・イマヌエル・カント(1724-1804)の論文『啓蒙とは何か』(1784年)で提示されたテーマに関わる。[ちなみに、「全ての哲学はカントに流れ込み、全ての哲学はカントから流れ出す」の言葉通り、カント哲学には現代にいたる全哲学のエッセンスが凝縮している。そして、カント60歳の時の作品『啓蒙とは何か』を一読すれば、私たち現代人は日常的な問題と原理的な問題を往還するカントの哲学的精神がいかに瑞々しい生命の輝きにあふれているかを実感できる。]
カントはこの論文の中で、「啓蒙」の定義に即して、「理性」(心的能力一般としての思考)―自分で合理的に判断する能力―における【私的】&〖公的(öffentlich)〗の使用形態を考察している。その彼の主張を要約すれば、こうである。
「啓蒙(Aufklärung)」―「英語enlightenment」・「光で照らされる⇒蒙(くら)きを啓(あき)らむ」―とは、人間が「自ら招いた未成年状態(Unmündigkeit)から抜け出る」ことである。未成年状態とは、「他人の指示を仰がなければ自らの理性を使うことができないこと」である。人間が未成年状態であるのは、理性がないからではなく、「他人の指示を仰がないと、自らの理性を使う決意も勇気も持てない」からである。
では、どうすれば、この啓蒙を成就することができるのか。啓蒙の可能性の核心は、人が理性の【私的】使用に制限を加えて、「理性をあらゆる点で〖公的〗に使用する自由」を持つことにある。
理性の【私的】な使用とは、「ある人が市民としての地位または官職に就いている者として、自らの理性を行使すること」である。市民・職業人が特定な組織体の利害に合致する命令・規律・規則を守り、業務・職務に精励することは、理性の【私的】な使用にすぎない。例えば、将校が軍務に服しているときや、市民が納税義務を履行するときや、牧師が聖職者としての勤めを果たすときに、各人が理性を行使する仕方は、その【私的】使用にほかならない。
これに対して、理性の〖公的〗な使用とは、「ある人が学識者として(als Gelehrter)、読者であるすべての公衆の前で、自らの理性を行使すること」である。それは「学識者の資格」において、つまり自らを「世界市民社会(Weltbürgergesellschaft)の一員」と見なす〖普遍的〗な立場に立って、自主的・主体的な考えを公表して公衆の判断を仰ぐことである。先の例に準じて言えば、将校が戦時の軍務における失策を指摘し、その所見を公表すること、市民が課税の適正と公平とを欠くことに反対する見解を公表すること、そして牧師が教会の信条書の欠点を議論し、教会制度の問題点に関する改善案を公衆に提示することは、理性の〖公的〗使用にほかならない。
要するに、理性の原理に則(のっと)るとき、その【私的】な使用とは<他人の指示を仰ぎ>⇒<既成の思考の枠組みに従って>考えることであり、反対にその〖公的〗な使用とは人間が<自分の頭で>⇒<いかなる思考の枠組みからも自由に>考えることである。
ところで現実問題として、理性の【私的】使用自体は人間が生きる上で不可欠であり、いたずらに否定されるべきものではない。人間は思考の枠組みから自由ではなく、知らず知らずのうちに、何らかの【私的】な枠組みで考えることを余儀なくされる。
しかし問われるべきは、人間の理性がその【私的】使用だけに限定された場合である。理性の【私的】使用のみに明け暮れる者は、公務・職務・義務の規定にのみ拘束され、他人の指示に従って行為する「未成年状態」に固定化されてしまう。
したがって人間が「未成年状態」から抜け出るためには、理性を【私的】のみならず、〖公的〗にも使用できることが現実的に必要である。私的使用を実質的に前提する理性の公的使用に励む彼・彼女は、他人の指示を受けつつ、しかも他人の指示を脱するという二つの立場を往還できる弾力的な精神の持ち主である。ここでは、自分に直接関わる理性の【私的】使用を手放さず、それでいて自分の意見を公衆に開き、他人の批判に供するという理性の〖公的〗使用が優先的に重視される。
こうして結局のところ、「未成年状態」からの脱出―未成年から成年への転換―という啓蒙のプロセスは、「読者世界の全公衆」という、開かれた公共的な言論社会のなかで進展する。そこでは、人間個人があくまで一個の自立した「世界市民」(コスモポリタン)として考え、全世界に向かって発言するとともに、他者との関係を断ち、独り善がりの思索にこもるのではなく、自分自身の理性と「他者の理性」との関わりで、限りなく「普遍的人間理性」という人類の共通財産に接近するにいたる。
カントはこのように、理性の【私的】な枠組みを〖公的〗⇒普遍的に、ダイナミックに乗り越える不断の作業の重要性を強調した。そして、この試みの成否・展開の重要な鍵となるのが「個人の自由」の問題である点を力説した。彼が前述の牧師の例に即して、「牧師が学識者として…公衆に、すなわち世界に向かって文章を発表し、語りかける時には、理性を公的に利用する聖職者として行動しており、自らの理性を使用し、独自の人格として語りかける無制約の自由を享受している」と述べるとき、そこでは人間精神の根源的な要求としての「自由」が最大限尊重され、精神の自由→行動の自由が標榜されている。
カントの言う「自由」とは、自己の社会的な位置を保ちつつ、社会の内側から、自己の属する諸領域―一個の集団→多数の集団→社会全体(世界)にまで及ぶ、したがって各集団(「内輪の集まり」)が規模の大小を問わず社会全体から見てすべて【私的】領域にすぎない―に対する理性的批判(【私的】→〖公的〗)を、一切の制約も受けずに展開する自由である。
[註:カントによれば、あらゆる集団の営みは、いずれも「家族的」で【私的】なものでしかない。ある集団の規約は、その集団の全構成員が守るべきである点で「公的」なものとされるが、その規約は別の集団の構成員から見れば何ら「公的」なものではない。それゆえ、〖公的(=公共的)〗がすべての人間に普遍妥当する点を含意するのであれば、その人間集団の分母はある国家ではなく、「世界市民」的な公共体でなくてはならない。ある国家のみの利害関係にもとづく活動は、世界に対しては普遍妥当性を欠くがゆえに私的なものでしかない。]
カントの「啓蒙⇒理性の【私的】/〖公的】な使用」論は、「民主主義」社会の維持・発展にとって画期的な意義を持つ思想である。
啓蒙されつつある彼・彼女は、理性の【私的】な面では当面する体制・制度・法規・決まりに従いつつも、理性の〖公的〗な面では躊躇なく、当の体制・制度・法規・決まりの問題点を洗い出し、徹底的に議論してやまない。この自由な〖公的〗理性が行使されてはじめて、当該社会により一層の健全な発展がもたらされることを、彼らは経験的・理論的に確信しているからである。民主主義社会を改善するための不断の批判的な思考=議論を展開することこそが、自由意志を行使する彼らに課せられた使命にほかならない。
カントは「我々が生活している現代は、すでに啓蒙された時代であるか」と自問し、いみじくも「否、しかし―恐らくは啓蒙されつつある時代であろう」と自答している。
カント的啓蒙は、近代の“未完の、そして永遠に継続されるべきプロジェクト”である。啓蒙とは、過去にあった出来事ではなく、現在も続き、そして現在も失われつつある人間精神の崇高な格闘である。人々・民衆・人類の完全な啓蒙は、現実的に達成されるものではなくて、むしろ現代の民主主義の時代に生きる私たちがその達成にうまずたゆまず努力していかねばならない、未来に燦然と輝く一個の理念というべきものである。
● ここにおいて、武蔵工大の「学長」問題について、論を進めたい。
即座に結論を下せば、石川・古浜・堀川・中村の4人は、まさにカントの言うところの「未成年状態」にある。しかし、この未成年状態の度合いに関連して、私は急ぎ注釈的に書き添えねばならない。
カントは啓蒙について、「未成年状態でなくなる」と否定辞を用いて規定はしているものの、積極的に「成年状態」を規定しているわけではない。彼にとって最大の関心事は、成年⇒<大人>という状態ではなく、未成年(「子供⇔大人」)という状態を脱却しようとする持続的な努力そのものである。
もともとカントの対象化する「未成年」は、「年齢が達していない」がゆえの「自然的」未成年ないし「市民的・法律的」未成年という既成概念ではなく、人間の根本的な思考様式・行動様式に関わる「未成年」という人間学的な新概念である。そこでは、時間が経過すれば自動的に逃れようなく成年になる事態が問題とされるのではなく、政治的な(制度上の)革命以上に困難な、個人の「未成年→成年」という内面的な(道徳上の)革命が主題化されている。
この「未成年状態」の真意は、子供から大人に変化する、その途上にある人間の状態、すなわち「アドレッセンス」(英語adolescence、思春期・青年期)である。アドレッセンスは静心とてない焦燥と不安に駆られながらも、理想を憧憬し、野心に満ち、疲れを知らぬ時代である。カント的啓蒙の真髄は、この子供と大人の動的な狭間に身を置きつづけながら、「大人になった」という開き直りの態度を取ることなく、いつでも雄々しく「自分の理性を使う勇気」を奮って、他者まかせの<子供>状態からあたうかぎり蝉脱(せんだつ)しつづけることである。自由意志を持ち、民主主義を社会的に支える人間は、当の実現すべき、多くの困難を伴う、永遠の課題⇒「正義」に向かって、一歩一歩確実に努力を積み重ねていかなければならない。
したがって、当の未成年状態の内容性は結局、「子供⇔大人」の内面的な相克の程度に規定されることになる。その相克の程度次第が問題であり、程度が高まり流動化するほどに、子供→大人の道が開けるものの、反対に程度が低まり固定化するほどに子供→大人の道が閉じられ、未成年状態=アドレッセンス以前に、つまり<子供>にまで退行していかざるをえない。前者がカントの説く、理性の全的=【私的】+〖公的〗な使用の場面であり、後者が理性の一方的=【私的】な使用の場面であることは断わるまでもない。
[なお以下、文脈上許せば、理性の〖公的〗使用を〖公的理性〗、理性の【私的】使用を【私的理性】と便宜的に略称する。【私的理性】から〖公的理性〗への構造転換=止揚(アウフヘーベンaufheben)!これが、カントの「公共」哲学からのメッセージである。]
こうした思想的文脈上、石川・古浜・堀川・中村の4学長における「未成年状態」は、次のような具合である。
①石川・中村の2人の場合、<子供>と<大人>の相克が断続的に生起することによって、【私的理性】と〖公的理性〗の二重的活動が思考の泥沼に足を取られて、肝心の後者がとかく停滞しがちながらも、辛うじて細々と命脈を保っている。
②古浜・堀川の2人の場合、<子供>と<大人>の相克自体が消滅している点が特徴的である。彼らはすでに「大人である」と勝手に思い込むことで、逆行して<子供>の段階に戻り、【私的理性】のみをもっぱらにする。彼らにとって、【育英会】(←東急電鉄)に「雇われた」学長としての立場をおもんぱかることがすべてであり、ひたすら自らに課された役割・職務を受動的に受け入れ、その範囲内でのみ精励恪勤するのが、ほかならぬ彼らの務めである。それはカント的表現にあやかれば、動物園の檻の中に閉じ込められた動物のような振る舞いである。その意味で、彼らは大人になれない単なる「年寄り」にすぎない。
私は個々の学長の微妙な相違点を踏まえて、上記の①②として差別化を図った。しかし、①の場合も事実上、〖公的理性〗が“積極的”に推進されなかった以上、①と②を一緒にして、こう概括することは許されるだろう。彼らは基本的に、武蔵工大「学長」という【私的】な枠組みに拘束された⇒「他人」の直接・間接の指示という足枷をはめられた⇒普遍的・自律的・批判的な思考を展開できない「未成年状態」の人々にほかならない。
カントは未成年を指示・指導・監督する「他人」を「後見人(Vormünder)」として主題化している。「後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚かな者にする。そして家畜たちを歩行器のうちに閉じ込めておき、この穏やかな家畜たちが外に出ることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜がひとりで外に出ようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ」(前掲書)。
武蔵工大の場合、学長(未成年)の「後見人」は、その思想的ベクトルを単純化して具体的に表示すれば、工大事務局長←【育英会】理事長・専務理事・事務局長←東急電鉄社長である。この後見人(経営側)⇔未成年(学長)の関係こそ、後見人あっての未成年、未成年あっての後見人という支配⇔被支配の相互依存関係を構造化する。学長が未成年状態の軛(くびき)につながれて、学者としての良心を骨抜きにされるほどに、大学そのものも衰弱していかざるをえない。
[註:カントの啓蒙の哲学は、「未成年」と「後見人」の相互依存関係に終止符を打つものである。後見人⇔未成年の関係は共同体において、入れ子の箱のように何重にも連鎖している。誰かが誰かの後見人となり、その誰かもまた誰かに後見される未成年となる。カントはこの枠組みに自閉するかぎり、「言論の自由」は実現できないと考え、この枠組みの外部で思考するための自由の実践として、「理性の公的使用」を提示した。なお、この「後見人-未成年」の論理は、ヘーゲル(1770~1831)の言う「主人と奴隷の弁証法」につながる。主奴関係(≠「相互承認」関係)という、誰かが誰かを、意のままになる奴隷として支配する社会関係では、何人(なんぴと)たりとも自立・自律した人間ではありえない。]
では、①の石川、中村、②の古浜、堀川における理性の行使の仕方は、具体的にいかがなものであったか。私の記憶に刻まれた、その悲喜劇的な事例は枚挙に暇(いとま)がない。ここでは、さしあたり②の古浜に代表してもらい、彼が演じた、数々の愚行のうちの一例―笑うべき、否、笑うに笑えない実例―のみを挙げるにとどめたい。
1994年4月のある日、私は古浜学長から学長室に呼び出された。この年度から助教授から教授に「昇格」した私に、彼から何がしかの「訓示」が与えられるとのことであった。
古浜「教授昇格、おめでとう!…ところで、君はなかなかの“論客”だそうだね。前の石川学長も君に興味を覚えて、いろいろ噂していたよ。…ただ、正直言ってね、教授会では君に余りしゃべってもらいたくないんだ。いろんな発言で会議がかき回されるのが私は嫌いなんで。静かに私の話を聞いてくれればいいんだ…」
私「(一瞬、笑いをこらえながら)いや、学長、ご心配には及びません。私はいつも虚心に話をしますので、問題はありません。」
古浜「君ね、その“虚心”が問題なんだよ。教授会で活発に議論して物事を決めるなんて無理なんだな…」
私「私自身は日ごろ、何事も隔意なく意見を交換することを旨としています。難問が山積している武蔵工大で何ができるかを模索しつづけながら、わが道を凛(りん)として進んでいきます。」
私は数日後に開かれた、最初の教授会で、古浜学長の「戒め」の言葉も物かは、あえて言挙げすることに執心した。提起された議題・案件に対して、「新米」教授の私がいの一番に質問し、意見を述べつづけたものの、後に続いた者はわずかに2名、会議の内実は何とも「お寒い」限りであった。
村夫子然とした学長のもとで、「関係者一同が自らの職場=『運命共同体』の本質意志を直感・確認するための一種の儀式・儀礼と化した教授会」(【破】(4)参照)。私は武蔵工大教授会の初体験を切っ掛けにして、「重要な事項を審議する」教授会をいかにして〖公的理性〗を縦横無尽に発揮できる場に改変できるか-この難事中の難事に正面切って挑む決意を固めるにいたった。
さて、私はこれまで、特に【破】の(1)(2)→【急】[Ⅱ]の(ⅰ)において、「理事長&学長」問題を検討しながら、「組織益は公益ではない」旨を強調しておいた。この論点を今や、〖公的理性〗&【私的理性】の地平から明晰判明にとらえ返すことができる。
組織体は一般に―営利性を帯びるほど、また日本流の「世間共同態」的性格が強まるほど―、構成員の共通善⇒【私的理性】を当然のごとく優先する。しかし、この立場は組織体の利益追求のためならば、その組織体の外の人々にとっては不正でしかない行為を暗黙のうちに承認してしまう可能性を秘めている。【私的理性】のもとでは、例えば、自国の繁栄に名を借りた植民地主義の暴力行為でさえもが理論的に正当化されてしまう。この、組織体⇒共同体の他者を犠牲にすることに目を瞑(つぶ)るような理論構成が問題なのである。〖公的理性〗こそ、まさに「公正」の論理として、【私的理性】の排他的な論理を的確に批判してやまない。
東急電鉄(⇒東急グループ)は、「営利社団法人」として営利(=法人が外部的経済活動によって得た利益をその構成員・社員へ分配すること)、つまり【私的理性】を重視する組織体である。
ところが、この営利会社がよりによって、学校法人(非営利法人=公益法人)を、「自主的かつ公共的な」私立学校を経営・運営するとは、いったい何を意味するのだろうか。
東急電鉄(⇒東急グループ)という【私的】な営利事業体のもとで果たして、〖公〗教育を担う学校法人にふさわしい〖公的理性〗の道が開かれ―「万事において自分の理性を公的に使用する自由」が謳歌され―、究極的には「世界市民」の視座から世界に対して語りかける「公共的」世界が形成されるのだろうか。どう見ても、これは「百年河清を待つ」話というべきである。
この約60年にわたる五島育英会(←東急電鉄)による学校経営の実体が、この憂慮すべき事態の深刻さを雄弁に物語っている。何よりも【育英会】理事長人事、武蔵工大学長人事をはじめとする【育英会】傘下の諸学校長人事、そして【育英会】事務局長人事・工大事務局長人事…、これら各種の人事の実態をありのままに直視するがよい。【育英会】⇒諸学校では組織全体として―理事長、事務局長・事務員、学長・校長・教員・技術員、学生・生徒・児童・幼児の全構成員間で―、世界への眼差しを遮る「後見人」と、その後見人に庇護を求める「未成年」の相互依存関係の論理が広く展開されている。
公益=〖公的理性〗よりも組織益=【私的理性】を優先し⇒未成年状態以前に退行して「もの言えば唇寒し秋の風」の全体主義的な傾向を帯びつづけてきた“学校法人”は今や、「教育の民主主義」はおろか、民主主義の理念全般をさっぱり理解できず、カント的啓蒙⇒自由を恐れるばかりで、まして理性および自由を単なる近代合理主義の地平を超えて「野生の思考」(レヴィ・ストロース)にまで拡張する発想・思想にいたっては問題外、思考と道徳の埒外に押し出すばかりである。
“誰に対しても開かれてしかるべきものが閉じられている”学校教育機関に未来はない。
≪跋≫
1983年1月19日、武蔵工大で、池田満寿夫(いけだ・ますお、1934~97)による講演会―「芸術における東と西~わが芸術的遍歴に沿って~」―が開かれました。
当時の工大(工学部)教務委員会では、教務委員の教員(計9名)が担当して、学生向けの「総合講演会」を年に2度開催していました。それは何らかの知的啓発をめざす催しながらも、講師が他大学関係者で、大学の授業のようにオモシロクナイ講演の連続で、学生からは不人気の極みでした。来聴者も少数のため、一部の担当教員が学生の出席を強要する事態も生じたりしたものです。
一教務委員だった私は、こうした沈滞ムードを打破するために、自ら企画立案し―社会の第一線で活躍中の著名人を講師に招き、学生大衆の今日的な興味と関心を集める講演を行うこと―、前出の講演会の主催にこぎつけたのでした。
池田満寿夫はつとに国際的な版画家として定評があり、1977年に小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞、エロスの作家としてテレビ・マスコミ界で活躍中でした。私はたまたま82年の秋に、彼と初めて会う機会を得て、彼に「安い」講演料ながらも当該講師をお願いしたところ、快諾を得ることができました。
講演会当日、彼の盛名ゆえでしょう、会場は優に200人を超える大入り満員の盛況を呈しました。
彼の講演内容の圧巻は、私の要望に応えた―ちなみに、副題は私が付けたもの―、貧苦と彷徨の自らの青少年時代の語りでした。満州に生まれ、11歳で満州を引き揚げたこと、中学校時分から図画と作文の才能が担任教師の注目を浴びたこと、長野北高を卒業後、上京し東京芸大をめざしたが受験に3度失敗したこと、似顔絵などで生活をしながら油絵を書きつづけたこと、等々。
これらはまさに、「偏差値教育」に毒されてきた現代日本の学生たちを豁然として悟らしめるような言葉の数々でした。彼独得の芸術的エロチシズムの根底には苦悩の人生があったことを、私自身改めて確認したものです。
ところで、ここで私が彼のことを引き合いに出したのは、彼の講演自体を紹介するためではありません。実は、その講演の直前と直後に、私が今なお忘れがたい出来事が出来(しゅったい)していました。
彼は私の案内で―彼の自宅からタクシーに同乗して―、武蔵工大正門をくぐり、1号館(本館)前に第一歩を印した際、おもむろに周囲を見渡しながら、声を発したものでした。「暗い!この大学は暗い、随分暗い!」と。
そして直後、1号館1階の「事務局」全体を見渡しながら、私に小声で呟(つぶや)いたものでした。「これは、まるで村役場だな…」と。
さらに1時間半の講演終了直後に、彼は私に向かって、問わず語りに語りだしたものでした。
「工学部の学生は一般に地味で堅実だとは聞いていた。僕の話を真面目に静かに聞いているようにも思ったよ。しかし、それは表面的な見方だな。200人以上もの学生の、この聞き具合・乗り具合は、やっぱり普通じゃない。得体の知れぬ“暗い”雰囲気といい―僕はこれだけ“暗い”大学を体験したのは初めてだ!―、これは“自由”がないんだな。学生たちは自由の風に吹かれていないんだよ。若者が過ごす空間としては最悪だろうな…」
それは事物の本質や全体を一挙にとらえる美的直観のなせる業であり、私自身のかねてからの思いでもありました。この時以来、武蔵工大はなぜ「暗い」のか、なぜ「村役場」的な雰囲気を醸すのか、なぜ「自由」を謳歌できないのか、という一連の根源的な問いが私の念頭に置かれた重い課題意識となりつづけました。
[註:この池田満寿夫に関する文章は、部分的には拙論「文化講演会の思想的射程」(『武蔵工業大学教育年報』第3号・1992年度版、126頁)に掲載された。]
学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(5)
【急】 月のない闇夜
[Ⅰ] 私学の自主性(安田塾メッセージ№34・35)
[Ⅱ] 私学の公共性
私立学校法の第1条は、「私立学校の健全な発達を図る」ために、「自主性」のほかに、「公共性」の重要性について定めている。(ちなみに、この公共性の在りどころは、すでに【急】[Ⅰ]および【破】(1)(2)の問題設定に応じて、暗に示唆されている。)
日本人は「公共性」ないし「公共」といわれて、何か分かった気になり、つい公会堂とか公園とか図書館とか、or 都市交通とか衛生局とか清掃局とか、そういう国家や都市に近い場所的なものを連想する。
「公共性」という言葉は、もともと英語のpublicityから明治以降に翻訳されて生まれた言葉(翻訳語)である。
publicityないしpublic とは、西欧の個人が国家や社会と対決し、長い年月をかけて市民として形成されていく過程で生まれた「市民的公共性」のことである。欲望を持つ個としての「私」が市民生活の中で欲望相互の対立が生じないように調整する必要が出てくる。欲望を満たしながら全体の平和を考えようとする時に生まれているのが「市民的公共性」にほかならない。
publicity(⇒公共性)は欧米の歴史的現実の中でつくられた概念であり、独語のÖffentlichkeit(⇒公共性)の場合は端的に「開かれている」ことを含意する。
[ちなみに、西欧における【個人】の起源は12世紀であり(その切っ掛けはカトリック教会における告解の普及と都市の成立⇒「12世紀ルネサンス」)、そして18、9世紀には西欧独自の【市民】が誕生している。]
日本語の「公共」自体は、「公(おおやけ)」という言葉から来ている。訓の「おほやけ」は、「大(オホ)+家(ヤケ)」、大きい家の意のこと。つまり、古代から公(おおやけ)は天皇家を中心とした支配者の家のことを言う。
問題は日本では、この公(おおやけ)が一般に「公(コウ)」⇒共同体ととらえられ、したがって「官」(政府と直結している機関)と公の区別がつかなく、公―ひいては翻訳語の公共―が国家と区別されていないことである。日本の現実においては、官と公が密着しており、官とはっきり区別できるような形で公は形成されていない。(ex.役人を「官僚」or「公務員」と言う。また、役人の住まいを「官舎」or「公舎」と言う。)
西欧の場合は、publicity=市民的公共性が最終的にフランス革命にいたって王家を倒して共和制を敷くにいたるが、日本の場合は私→「公共」意識は非常に弱く、最終的に市民的公共性は生まれず、今でも天皇が君臨する⇒官が公にかぶさる形態になっている。
私たち日本人が厳密に認識すべきは、日本では官と民⇒私の間で「公共」という視点が今にいたるまで全くアイマイな位置しかもっていないことである。ところが、ケッサクなことに、多くの現代日本人―とりわけ学者や評論家などの「知識人」たち―は、欧米由来の翻訳語=「公共性」概念がそのまま通用して―その実質が「安全パイ」のごとく無に等しくても―、すでに日本的現実を表現しているかのごとき幻想に取り付かれている。
(ⅰ) 「理事長」人事
私は【破】の(1)において、こう問題点を指摘しておいた。五島育英会の「理事長」人事は、東急電鉄に管掌され、現に東急電鉄の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい、と。
【育英会】理事長(任期)は、五島慶太(1955~59)に始まり、五島昇(59~64)→唐澤俊樹(64~67)→星野直樹(67~74)→曽祢益(74~80)→五島昇(80~81)→山田秀介(81~94)→堀江音太郎→(94~2000)→秋山壽(00~03)→山口裕啓(03~11)→安達功(11~)が務めている。この歴代理事長の履歴に多少触れると、
五島昇は五島慶太の長男で、東急電鉄社長・日本商工会議所会頭、
唐澤俊樹は戦前⇒東條内閣の内務次官、戦後⇒東條内閣内務次官の廉で公職追放、後に岸信介内閣の法務大臣、
星野直樹は戦前⇒満州国総務長官、東條内閣の内閣書記官長、戦後⇒A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑を宣告され(1958年に釈放)、後に東急電鉄取締役、
曽祢益は民社党書記長・衆議院議員、妻が五島慶太の長女、
そして残り5人は、すべて東急電鉄の役員-山田が専務取締役、堀江が副社長、秋山が専務取締役、山口が副社長、安達が副社長である。
ここでは、五島慶太の後、五島昇→唐澤→星野→曽祢→五島昇の5代4人が五島慶太の血脈・人脈そのものであり、唐澤と星野という戦前の「名だたる」国家主義的な官僚・政治家がその名を連ねている点が注目されねばならない。特に「A級戦犯」星野直樹(1892~1978)―「満州国」を動かす「2キ3スケ」の1人といわれた札付きの国家主義者(ウルトラ・ナショナリスト)―が約7年間、理事長に就任した事態は一体全体、何を物語るのだろうか。
[註:「2キ3スケ」とは、東條英機(ヒデキ)・星野直樹(ナオキ)の2人の「キ」+鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)の3人の「スケ」を言う。]
そしてまた、問題は五島慶太の直接的な血脈・人脈を離れた、東急電鉄からの「天下り」理事長は、どういう人物―精神・思想の持ち主―なのかである。
私が武蔵工大専任教師になった時=1980年4月1日、【育英会】理事長は曽祢益であった。しかし、彼は同年4月25日に死去、五島昇(1916~89)による急場しのぎの約1年間のショート・リリーフを経て、山田が81年6月22日に天下りした。私は武蔵工大に在職中、曽祢および五島に「拝眉する」機会が一度もなかったものの、山田・堀江・山口の3人とは、大学改革をめぐる諸問題に関連して何度も「談論・対論」するにいたった。[ちなみに言うと、秋山理事長(任期:2000.5.27~03.5.26)については、当時の私がコロンビア大学での滞米生活を送ったこと、また彼自身が体調不全で早期に離職したことで、私は一度も「拝顔の栄」に浴することができなかった。]
私の山田→堀江→山口の各理事長論の具体的な詳細は他日を期することにし、ここでは彼ら理事長に通底する、日常的な態度設定上の問題点だけを指摘しておきたい。
彼らは東急電鉄の定年退職後の「天下り」なるがゆえに、その根本的性向としては、「雇われ」理事長として任期を大過なく無難に勤め上げることに汲々とする、その意味でのサラリーマン的事なかれ主義者である。
確かに3人の場合、武蔵工大をめぐる内外の情勢の深刻な変化に即応する態度に各人各様の趣向が凝らされていることは言うまでもない。しかし問題は、彼らが大学改革をめぐる「ここを先途と闘う」決定的な場面において、一様に“東急電鉄ムラ”の極印を押された、滑稽で哀れな習性を引きずる“他律的”な人格にほかならないことである。
私はつい考え込む。そもそも企業人・経営者・経済人が「優秀」という場合、何をもって「優秀」とするのか。東京電鉄の場合、いわゆる「立身出世」がかない、社長・副社長・専務取締役にでもなれば、「優秀」な人物ということなのだろうか?!
私は「安田塾メッセージ」№21で、私の【北炭】時代の上司、政安裕良(まさやす・ひろよし、1924~97)について、こう書いた。「政安裕良とは何者か。ありていに言えば、彼はいわゆる『日本人』の一典型でした。一般に日本人は人前に出たときに『私』が消えるといわれます。これは主体としての自己主張[ex.『我思う、ゆえに我在り』(デカルト)]がいかに脆弱であるかを物語るものです。彼は土壇場に立たされたとき、この国際的に認知された『日本人』類型を地で行くような歩みをたどりました。」
この評言自体は【育英会】の歴代理事長にも、そっくりそのまま当てはまる言葉ではある。
しかし急いで付け加えるなら、私が政安の生き方をそう評したのは、あくまで1981年10月16日に起きた北炭夕張新炭鉱の「ガス突出事故」(93名死亡)をめぐってのことである。私は今にして思う、私の見知った日本人の会社人に限れば、政安裕良は<知情意>すべての「自己表現」において最も「優秀」な人物であった、と。
彼がいかに「優秀」であるかは、論より証拠、癌が浸潤し死がひたひたと忍び寄る状況下で、回顧録『帰らざる小径』(96年9月20日)および続編『帰らざる小径(短歌編)』(98年2月9日)を何とか自費出版までこぎつけたことである。関係者に配布された『帰らざる小径』の添え状には、こう記されている。「…結果的には、つまらぬ人生ではありましたが、非才ながら其の時其の時に、自分では恐らく、精一杯に生きて来たものと思っております。サラリーマン生活を引退するに当たり、是れを機会に、過去を振り返り、且つさぞ短いではあろうが、将来の展望の為に、自身の赤裸々な人生の軌跡を辿って見た次第でご座居ます。…」
また、同書は余りにも遅きに失したとはいえ、随所に己れを省みた、貴重な文言を連ねている。かつて私と激論を交わした点に関わる文章を、以下に抄出しておきたい。
「昭和43年9月16日に(この時期、彼は北炭幌内鉱業所労務課長で、私は同労務課職員であった―引用者註)、会社の機構改革と人事異動の発表があったが、午後1時30分に、札幌より各鉱業所の労務の責任者に対して緊急の呼び出しがあった。至急事務所のジープを借りて、札幌事務所に駆けつけたのだが、当時は全くの箝口令が敷かれていて、何が有ったのかも、中身の事は鉱業所長にも報告するなと云う事であった。/…結局中央で使用された使途不明金の肩代わりを、山元の労務対策費として使用したと云う事にして、山元の労務責任者の責任で処置したと云う、領収書を書けと云う事であった。…多額な労務対策費の領収書を書けと言われた事には、全く内心忸怩たるものがあったが、是れもサラリーマンの悲しさで、作成の上提出せざるをえなかった。/そして誰が何の用に使用したかは、全く知らされなかった」(186-7頁)
「北炭の命運を語るには、どうしても政商、萩原吉太郎氏を度外視して語る事は出来ない。[安田註:萩原吉太郎(はぎわら・きちたろう、1903~2001)は、慶大理財科(現・経済学部)卒、1955年に北炭の社長に就任、その後会長→相談役になったとはいえ、最後(1995年)まで北炭の実質的な統率者であった。彼は<北炭のドン><北炭の天皇><石炭の鬼>などの異名をとり、また政商として、児玉誉士夫・永田雅一と古くから親交を結んでいたほか、三木武吉・大野伴睦・河野一郎ら党人派政治家と交流を持ち、<石炭ではなく国の金庫を掘った男>とも呼ばれていた。]
政商としては、昭和35年の安保闘争の際に、当時の自民党の実力者である、岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作氏の会談に、永田雅一、児玉誉士夫氏と共に出席して立会い、当面大野氏が岸氏を応援する代わりに、岸氏が後任に大野氏を推薦すると云う、所謂『帝国ホテル・光琳の間』の政権禅譲会談は有名であり、真偽の程は分からぬが、其の一札は、北炭本店の、社長室の金庫の中に仕舞ってあるとの専らの評判であった。
此の様な面から、可成の額の政治資金の投入も行われたと思われる。昭和43年9月16日の既述の、山元の労務責任者の札幌への呼び出しによる、使途不明金の労務対策費への切替えの指示も、或いは此の方面に使用されたものではないかと臆測していた。…
同氏が社長就任後、北炭の消滅迄の間、事実上北炭を牛耳って来れたのには、色々と人事上の対立者を陰で排除して来たものと思われている。/昭和40年頃には、トップの指導権争いは可成熾烈であった模様であり、…萩原氏は…昭和40年4月27日に、全役員から白紙を取り、5月4日の取締役会で、目の上の瘤と思しき役員を退任させて関連会社に追い出した。…
昭和41年12月13、4日の札幌に於ける労使協議会では、『統制と融和』を標榜して、是れに反する行動をする者は、直ちに排除すると公言された。/そして社内では、『馬鹿は不平を云う』と云う事で、自己の主張に反する意見の人間は排除して行く戦法を取ったと思われ、社内には『物言えば唇寒し』との気風が横溢して来た。」(240-2頁)
「萩原氏は昭和33年4月には札幌テレビ放送(STV)、同年8月には北海道不動産を設立した。/北海道不動産は、昭和38年に北炭観光開発となり、昭和46年には三井観光開発となって、北炭とは関係の無い独立した会社に成長していった(平成19年、三井観光開発は「グランビスタ ホテル&リゾート」に社名を変更―引用者註)。/此の不動産部門の生成の過程では、苫小牧や千歳、大沼の北炭の土地等を、合法的に安く譲渡させて、折からのバブルの波に乗って、太って行った経緯がある。
一体、不動産部門を完全に独立させて別会社とし、自己の息子や息のかかった、或る傾向の北炭の社員のみを引き抜いて行ったのはどう云う事だったのだろうか。…
勿論観光へ移行して、財産を温存して、三井や三菱や住友等の様に、北炭の命脈を保持し続けたのならば、何も云う事はないが、北炭の命脈を全く途絶えさせて、自己の子息に観光をバトンタッチして行くと云う事は、当初から、北炭を食い物にする魂胆だったのではないかと思われても致し方ない。
新鉱(北炭夕張新炭鉱―引用者註)開発でも…、いきなり深部開発に入って行けば、危険な事は充分に察知されたところで、此の事を指摘した技術屋さんは沢山いたし、私が新鉱に在籍していた時でさえ、開発段階でも、ガスの突出の危険は充分にあって、此の点を指摘して、営業出炭の時期を引き延ばす様に主張する人も多かったが、そんな事を言えば、直ぐに能力が無いと云う理由で、首が飛ぶと云うのが、一般社員に横溢していた空気であった。
故に新鉱の事故は、起こるべくして起こった人災であると言われても、誰も否定出来なかったろう。
社内にはワンマン体制が出来ていて、萩原氏の意向に逆らえる者は一人もいなかった。…
結論的に言えば、萩原氏は自己の大きな意味の財産保全の為に、北炭を利用したとしか考えられない。其の事に依って何千人もの人間が泣く事になったのである。
私は此の人生に於いて、身を以て、本当に良い事例を見せて貰ったと感謝していると共に、北炭喪失の責任は萩原氏に有りと思うし、又産業と云うものは矢張り永遠ではない事を痛感した次第である。」(244-6頁)
政安は1973(昭和48)年に49歳で北炭を退職し、N社に入社、総務部長代理→総合企画部長→取締役→常勤監査役→顧問に就任、94年7月総胆管癌で「九死一生」の手術、97年12月24日に死去する(享年73歳)。
彼はN社で20年間、所を得たのか、それなりに活躍し出世した。そして大手術後の、かろうじて余命を保つ状態下で、はじめて自由な自律の心を構えて、“北炭ムラ”であがきつづけた彼の「個」を描写する「回顧録」を上梓した。
彼と私は、74年以降20年間にわたって、毎年1度、東京の赤坂で酒を酌み交わす仲であった。彼が70年代後半のある時、こう切り出した話がいまだに私の耳に残って忘れがたい。
「安田よ、大学の非常勤やライターなど、いろいろやっているようだが、これからどうするんだ。オマエは大学の教師になんか向いているのかね。今どきの大学教師にマトモな人間なんかいるのかい、オレの見るかぎり専門バカというか、変わり者が多いし、碌なヤツはいないな。それより、N社に来て、オレと一緒に仕事をしないか。オマエなら、今すぐ課長で採用できる。N社は北炭ほどの大企業ではないが、北炭に見られるような伏魔殿もないし、オマエにとって働きがいのある職場だと思う。オマエなら、その気になれば10年ぐらいで取締役も可能だな。」
人間・政安裕良は、「去るも地獄・残るも地獄」といわれた炭鉱世界(“北炭ムラ”)で、間欠的に「個」が自己主張して、生々しい苦闘の日々を送りつづけたものである。
だが、問題の【育英会】理事長-東急電鉄からの「落下傘」理事長は、もともと「個」が“東急電鉄ムラ”に埋没しているために、何かというと、自発的な自由意志の決断とは無縁な、外(他者⇒東急電鉄)から強いられるか、or 外(他者⇒東急電鉄)に見せるための偽善的なポーズを取り繕ったものである。
東急電鉄という組織体は、構成員の利益を重視するところのムラ社会である。ここでは、東急電鉄の構成員の個人的利益や組織的利益―つまり、「五島慶太・五島昇・東急電鉄」経営側の利益―が追求された結果、東急電鉄によって一学校法人が「子会社⇒私物」化され、理事長人事の決定権が一手に掌握される。
事態の核心は、“東急電鉄ムラ”―or 「東急グループ村」―の組織的利益の維持追求にある。
そして、コンセプトを明確にすべきは、当の組織益があくまでも私企業の私益であり、けっして公益=社会益ではない点である。ここに「公」とは前述したパブリック=公共のことであり、「私」を外に向かって開くところの、対等な個人どうしの「われわれ」市民側の力であることは言うまでもない。組織内にいるムラびとはとかく―組織としての閉鎖性が高まるほどに―、その組織の利益を公益と錯覚し、果ては公益に資する内部告発すらも、「守秘義務」の美名のもとに封殺する愚を極めることになる。
この日本国では、「企業の社会的責任」などという、まことしやかなキャッチフレーズが久しく唱えられてきた。しかし、それは企業イメージを高めてより多くの顧客を獲得するという「経済性」を動機にしている以上、どれほど「良心的」な企業でも、公益に寄与する方向はしょせん二次的な問題にすぎない。“東急電鉄ムラ”は五島慶太以来、ざっくり言えば、「私の肥大化」としての官(お上)との癒着の道をたどり、したがって「官による公」、「官=公」を発想の基本に据えつづけた企業である。そこでは、「公の喪失」、つまりpublicityが実体を持たないままに、学校法人=公益法人が経営されるにいたり、その結果、当の理事長人事はもとより、学長人事、さらには事務員人事などが「東急電鉄or東急グループ」ムラ(=利益共同体)の特殊意志に専断されるにいたった。当該人事の私物化(お手盛り)は、端的に「公害」ならぬ「私害」(私企業が引き起こす害)として弾劾されなければならない。
(ⅱ) 「学長」人事
私は【破】の(2)において、こう問題点を指摘しておいた。武蔵工大の「学長」人事の実権は、「偽装民主主義」の支配下、究極的には五島育英会理事長が、したがって東急電鉄が掌握している、と。
【育英会】-武蔵工大の学長(任期)は、これまで八木秀次(1955~60)→山田良之助(60~78)→石川馨(78~89)→古浜庄一(89~98)→堀川清司(98~2004)→中村英夫(04~)が務めている。この歴代学長の主な履歴に触れると、
八木秀次は大阪帝国大学総長・東京工業大学学長、
山田良之助は東京工業大学教授・静岡大学学長、
石川馨は東京大学教授・東京理科大学教授、
古浜庄一は武蔵工業大学教授、
堀川清司は東京大学教授・埼玉大学学長、
そして、中村英夫は東京大学教授・武蔵工業大学教授である。
この6人の学長に関して、八木・山田の2人は私にとって一面識もない学長であり、石川・古浜・堀川・中村の4人は私の在職期間中の学長であった。
武蔵工大の場合、1955年八木学長の選出当時までは、学長に関する明文化された規程はなかった。1959年に初めて、八木学長のもとで「武蔵工業大学学長に関する規程」および「武蔵工業大学学長選出に関する細則」が制定される。
この新規則を適用して選出されたのが山田であり、彼は何と1960年4月1日(63歳)から78年3月末日(81歳)まで18年間も、学長を務めた。
その後、山田の後に石川学長が選出されるに際して「一騒動」が起きた後、武蔵工大では「学長選」のたびに、「誰を学長にするか」をめぐる、<大学側vs.【育英会】側>の、したがって教員相互間の、何らかの形の確執・争いが繰り返されることになる。
そして、私自身は石川学長急逝後の古浜学長の選出時分から、いい加減でウサンクサイ学長選のありさまに義憤を覚え、そして大学全体の鬱屈した閉塞状況を打破するために、個と個の統一としての「われわれの公共」を掲げながら、大学改革・教育改革の険しく長い道に踏み込むにいたった。
私が接した石川→古浜→堀川→中村の4代の各学長論の具体的な詳細(全面的な展開)は後日に譲ることにし、ここでは彼ら4人の「人間・思想」像を総括的に縁取るに際して必須の客観的な視点を定めておきたい。
● それは近代哲学の祖・イマヌエル・カント(1724-1804)の論文『啓蒙とは何か』(1784年)で提示されたテーマに関わる。[ちなみに、「全ての哲学はカントに流れ込み、全ての哲学はカントから流れ出す」の言葉通り、カント哲学には現代にいたる全哲学のエッセンスが凝縮している。そして、カント60歳の時の作品『啓蒙とは何か』を一読すれば、私たち現代人は日常的な問題と原理的な問題を往還するカントの哲学的精神がいかに瑞々しい生命の輝きにあふれているかを実感できる。]
カントはこの論文の中で、「啓蒙」の定義に即して、「理性」(心的能力一般としての思考)―自分で合理的に判断する能力―における【私的】&〖公的(öffentlich)〗の使用形態を考察している。その彼の主張を要約すれば、こうである。
「啓蒙(Aufklärung)」―「英語enlightenment」・「光で照らされる⇒蒙(くら)きを啓(あき)らむ」―とは、人間が「自ら招いた未成年状態(Unmündigkeit)から抜け出る」ことである。未成年状態とは、「他人の指示を仰がなければ自らの理性を使うことができないこと」である。人間が未成年状態であるのは、理性がないからではなく、「他人の指示を仰がないと、自らの理性を使う決意も勇気も持てない」からである。
では、どうすれば、この啓蒙を成就することができるのか。啓蒙の可能性の核心は、人が理性の【私的】使用に制限を加えて、「理性をあらゆる点で〖公的〗に使用する自由」を持つことにある。
理性の【私的】な使用とは、「ある人が市民としての地位または官職に就いている者として、自らの理性を行使すること」である。市民・職業人が特定な組織体の利害に合致する命令・規律・規則を守り、業務・職務に精励することは、理性の【私的】な使用にすぎない。例えば、将校が軍務に服しているときや、市民が納税義務を履行するときや、牧師が聖職者としての勤めを果たすときに、各人が理性を行使する仕方は、その【私的】使用にほかならない。
これに対して、理性の〖公的〗な使用とは、「ある人が学識者として(als Gelehrter)、読者であるすべての公衆の前で、自らの理性を行使すること」である。それは「学識者の資格」において、つまり自らを「世界市民社会(Weltbürgergesellschaft)の一員」と見なす〖普遍的〗な立場に立って、自主的・主体的な考えを公表して公衆の判断を仰ぐことである。先の例に準じて言えば、将校が戦時の軍務における失策を指摘し、その所見を公表すること、市民が課税の適正と公平とを欠くことに反対する見解を公表すること、そして牧師が教会の信条書の欠点を議論し、教会制度の問題点に関する改善案を公衆に提示することは、理性の〖公的〗使用にほかならない。
要するに、理性の原理に則(のっと)るとき、その【私的】な使用とは<他人の指示を仰ぎ>⇒<既成の思考の枠組みに従って>考えることであり、反対にその〖公的〗な使用とは人間が<自分の頭で>⇒<いかなる思考の枠組みからも自由に>考えることである。
ところで現実問題として、理性の【私的】使用自体は人間が生きる上で不可欠であり、いたずらに否定されるべきものではない。人間は思考の枠組みから自由ではなく、知らず知らずのうちに、何らかの【私的】な枠組みで考えることを余儀なくされる。
しかし問われるべきは、人間の理性がその【私的】使用だけに限定された場合である。理性の【私的】使用のみに明け暮れる者は、公務・職務・義務の規定にのみ拘束され、他人の指示に従って行為する「未成年状態」に固定化されてしまう。
したがって人間が「未成年状態」から抜け出るためには、理性を【私的】のみならず、〖公的〗にも使用できることが現実的に必要である。私的使用を実質的に前提する理性の公的使用に励む彼・彼女は、他人の指示を受けつつ、しかも他人の指示を脱するという二つの立場を往還できる弾力的な精神の持ち主である。ここでは、自分に直接関わる理性の【私的】使用を手放さず、それでいて自分の意見を公衆に開き、他人の批判に供するという理性の〖公的〗使用が優先的に重視される。
こうして結局のところ、「未成年状態」からの脱出―未成年から成年への転換―という啓蒙のプロセスは、「読者世界の全公衆」という、開かれた公共的な言論社会のなかで進展する。そこでは、人間個人があくまで一個の自立した「世界市民」(コスモポリタン)として考え、全世界に向かって発言するとともに、他者との関係を断ち、独り善がりの思索にこもるのではなく、自分自身の理性と「他者の理性」との関わりで、限りなく「普遍的人間理性」という人類の共通財産に接近するにいたる。
カントはこのように、理性の【私的】な枠組みを〖公的〗⇒普遍的に、ダイナミックに乗り越える不断の作業の重要性を強調した。そして、この試みの成否・展開の重要な鍵となるのが「個人の自由」の問題である点を力説した。彼が前述の牧師の例に即して、「牧師が学識者として…公衆に、すなわち世界に向かって文章を発表し、語りかける時には、理性を公的に利用する聖職者として行動しており、自らの理性を使用し、独自の人格として語りかける無制約の自由を享受している」と述べるとき、そこでは人間精神の根源的な要求としての「自由」が最大限尊重され、精神の自由→行動の自由が標榜されている。
カントの言う「自由」とは、自己の社会的な位置を保ちつつ、社会の内側から、自己の属する諸領域―一個の集団→多数の集団→社会全体(世界)にまで及ぶ、したがって各集団(「内輪の集まり」)が規模の大小を問わず社会全体から見てすべて【私的】領域にすぎない―に対する理性的批判(【私的】→〖公的〗)を、一切の制約も受けずに展開する自由である。
[註:カントによれば、あらゆる集団の営みは、いずれも「家族的」で【私的】なものでしかない。ある集団の規約は、その集団の全構成員が守るべきである点で「公的」なものとされるが、その規約は別の集団の構成員から見れば何ら「公的」なものではない。それゆえ、〖公的(=公共的)〗がすべての人間に普遍妥当する点を含意するのであれば、その人間集団の分母はある国家ではなく、「世界市民」的な公共体でなくてはならない。ある国家のみの利害関係にもとづく活動は、世界に対しては普遍妥当性を欠くがゆえに私的なものでしかない。]
カントの「啓蒙⇒理性の【私的】/〖公的】な使用」論は、「民主主義」社会の維持・発展にとって画期的な意義を持つ思想である。
啓蒙されつつある彼・彼女は、理性の【私的】な面では当面する体制・制度・法規・決まりに従いつつも、理性の〖公的〗な面では躊躇なく、当の体制・制度・法規・決まりの問題点を洗い出し、徹底的に議論してやまない。この自由な〖公的〗理性が行使されてはじめて、当該社会により一層の健全な発展がもたらされることを、彼らは経験的・理論的に確信しているからである。民主主義社会を改善するための不断の批判的な思考=議論を展開することこそが、自由意志を行使する彼らに課せられた使命にほかならない。
カントは「我々が生活している現代は、すでに啓蒙された時代であるか」と自問し、いみじくも「否、しかし―恐らくは啓蒙されつつある時代であろう」と自答している。
カント的啓蒙は、近代の“未完の、そして永遠に継続されるべきプロジェクト”である。啓蒙とは、過去にあった出来事ではなく、現在も続き、そして現在も失われつつある人間精神の崇高な格闘である。人々・民衆・人類の完全な啓蒙は、現実的に達成されるものではなくて、むしろ現代の民主主義の時代に生きる私たちがその達成にうまずたゆまず努力していかねばならない、未来に燦然と輝く一個の理念というべきものである。
● ここにおいて、武蔵工大の「学長」問題について、論を進めたい。
即座に結論を下せば、石川・古浜・堀川・中村の4人は、まさにカントの言うところの「未成年状態」にある。しかし、この未成年状態の度合いに関連して、私は急ぎ注釈的に書き添えねばならない。
カントは啓蒙について、「未成年状態でなくなる」と否定辞を用いて規定はしているものの、積極的に「成年状態」を規定しているわけではない。彼にとって最大の関心事は、成年⇒<大人>という状態ではなく、未成年(「子供⇔大人」)という状態を脱却しようとする持続的な努力そのものである。
もともとカントの対象化する「未成年」は、「年齢が達していない」がゆえの「自然的」未成年ないし「市民的・法律的」未成年という既成概念ではなく、人間の根本的な思考様式・行動様式に関わる「未成年」という人間学的な新概念である。そこでは、時間が経過すれば自動的に逃れようなく成年になる事態が問題とされるのではなく、政治的な(制度上の)革命以上に困難な、個人の「未成年→成年」という内面的な(道徳上の)革命が主題化されている。
この「未成年状態」の真意は、子供から大人に変化する、その途上にある人間の状態、すなわち「アドレッセンス」(英語adolescence、思春期・青年期)である。アドレッセンスは静心とてない焦燥と不安に駆られながらも、理想を憧憬し、野心に満ち、疲れを知らぬ時代である。カント的啓蒙の真髄は、この子供と大人の動的な狭間に身を置きつづけながら、「大人になった」という開き直りの態度を取ることなく、いつでも雄々しく「自分の理性を使う勇気」を奮って、他者まかせの<子供>状態からあたうかぎり蝉脱(せんだつ)しつづけることである。自由意志を持ち、民主主義を社会的に支える人間は、当の実現すべき、多くの困難を伴う、永遠の課題⇒「正義」に向かって、一歩一歩確実に努力を積み重ねていかなければならない。
したがって、当の未成年状態の内容性は結局、「子供⇔大人」の内面的な相克の程度に規定されることになる。その相克の程度次第が問題であり、程度が高まり流動化するほどに、子供→大人の道が開けるものの、反対に程度が低まり固定化するほどに子供→大人の道が閉じられ、未成年状態=アドレッセンス以前に、つまり<子供>にまで退行していかざるをえない。前者がカントの説く、理性の全的=【私的】+〖公的〗な使用の場面であり、後者が理性の一方的=【私的】な使用の場面であることは断わるまでもない。
[なお以下、文脈上許せば、理性の〖公的〗使用を〖公的理性〗、理性の【私的】使用を【私的理性】と便宜的に略称する。【私的理性】から〖公的理性〗への構造転換=止揚(アウフヘーベンaufheben)!これが、カントの「公共」哲学からのメッセージである。]
こうした思想的文脈上、石川・古浜・堀川・中村の4学長における「未成年状態」は、次のような具合である。
①石川・中村の2人の場合、<子供>と<大人>の相克が断続的に生起することによって、【私的理性】と〖公的理性〗の二重的活動が思考の泥沼に足を取られて、肝心の後者がとかく停滞しがちながらも、辛うじて細々と命脈を保っている。
②古浜・堀川の2人の場合、<子供>と<大人>の相克自体が消滅している点が特徴的である。彼らはすでに「大人である」と勝手に思い込むことで、逆行して<子供>の段階に戻り、【私的理性】のみをもっぱらにする。彼らにとって、【育英会】(←東急電鉄)に「雇われた」学長としての立場をおもんぱかることがすべてであり、ひたすら自らに課された役割・職務を受動的に受け入れ、その範囲内でのみ精励恪勤するのが、ほかならぬ彼らの務めである。それはカント的表現にあやかれば、動物園の檻の中に閉じ込められた動物のような振る舞いである。その意味で、彼らは大人になれない単なる「年寄り」にすぎない。
私は個々の学長の微妙な相違点を踏まえて、上記の①②として差別化を図った。しかし、①の場合も事実上、〖公的理性〗が“積極的”に推進されなかった以上、①と②を一緒にして、こう概括することは許されるだろう。彼らは基本的に、武蔵工大「学長」という【私的】な枠組みに拘束された⇒「他人」の直接・間接の指示という足枷をはめられた⇒普遍的・自律的・批判的な思考を展開できない「未成年状態」の人々にほかならない。
カントは未成年を指示・指導・監督する「他人」を「後見人(Vormünder)」として主題化している。「後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚かな者にする。そして家畜たちを歩行器のうちに閉じ込めておき、この穏やかな家畜たちが外に出ることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜がひとりで外に出ようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ」(前掲書)。
武蔵工大の場合、学長(未成年)の「後見人」は、その思想的ベクトルを単純化して具体的に表示すれば、工大事務局長←【育英会】理事長・専務理事・事務局長←東急電鉄社長である。この後見人(経営側)⇔未成年(学長)の関係こそ、後見人あっての未成年、未成年あっての後見人という支配⇔被支配の相互依存関係を構造化する。学長が未成年状態の軛(くびき)につながれて、学者としての良心を骨抜きにされるほどに、大学そのものも衰弱していかざるをえない。
[註:カントの啓蒙の哲学は、「未成年」と「後見人」の相互依存関係に終止符を打つものである。後見人⇔未成年の関係は共同体において、入れ子の箱のように何重にも連鎖している。誰かが誰かの後見人となり、その誰かもまた誰かに後見される未成年となる。カントはこの枠組みに自閉するかぎり、「言論の自由」は実現できないと考え、この枠組みの外部で思考するための自由の実践として、「理性の公的使用」を提示した。なお、この「後見人-未成年」の論理は、ヘーゲル(1770~1831)の言う「主人と奴隷の弁証法」につながる。主奴関係(≠「相互承認」関係)という、誰かが誰かを、意のままになる奴隷として支配する社会関係では、何人(なんぴと)たりとも自立・自律した人間ではありえない。]
では、①の石川、中村、②の古浜、堀川における理性の行使の仕方は、具体的にいかがなものであったか。私の記憶に刻まれた、その悲喜劇的な事例は枚挙に暇(いとま)がない。ここでは、さしあたり②の古浜に代表してもらい、彼が演じた、数々の愚行のうちの一例―笑うべき、否、笑うに笑えない実例―のみを挙げるにとどめたい。
1994年4月のある日、私は古浜学長から学長室に呼び出された。この年度から助教授から教授に「昇格」した私に、彼から何がしかの「訓示」が与えられるとのことであった。
古浜「教授昇格、おめでとう!…ところで、君はなかなかの“論客”だそうだね。前の石川学長も君に興味を覚えて、いろいろ噂していたよ。…ただ、正直言ってね、教授会では君に余りしゃべってもらいたくないんだ。いろんな発言で会議がかき回されるのが私は嫌いなんで。静かに私の話を聞いてくれればいいんだ…」
私「(一瞬、笑いをこらえながら)いや、学長、ご心配には及びません。私はいつも虚心に話をしますので、問題はありません。」
古浜「君ね、その“虚心”が問題なんだよ。教授会で活発に議論して物事を決めるなんて無理なんだな…」
私「私自身は日ごろ、何事も隔意なく意見を交換することを旨としています。難問が山積している武蔵工大で何ができるかを模索しつづけながら、わが道を凛(りん)として進んでいきます。」
私は数日後に開かれた、最初の教授会で、古浜学長の「戒め」の言葉も物かは、あえて言挙げすることに執心した。提起された議題・案件に対して、「新米」教授の私がいの一番に質問し、意見を述べつづけたものの、後に続いた者はわずかに2名、会議の内実は何とも「お寒い」限りであった。
村夫子然とした学長のもとで、「関係者一同が自らの職場=『運命共同体』の本質意志を直感・確認するための一種の儀式・儀礼と化した教授会」(【破】(4)参照)。私は武蔵工大教授会の初体験を切っ掛けにして、「重要な事項を審議する」教授会をいかにして〖公的理性〗を縦横無尽に発揮できる場に改変できるか-この難事中の難事に正面切って挑む決意を固めるにいたった。
さて、私はこれまで、特に【破】の(1)(2)→【急】[Ⅱ]の(ⅰ)において、「理事長&学長」問題を検討しながら、「組織益は公益ではない」旨を強調しておいた。この論点を今や、〖公的理性〗&【私的理性】の地平から明晰判明にとらえ返すことができる。
組織体は一般に―営利性を帯びるほど、また日本流の「世間共同態」的性格が強まるほど―、構成員の共通善⇒【私的理性】を当然のごとく優先する。しかし、この立場は組織体の利益追求のためならば、その組織体の外の人々にとっては不正でしかない行為を暗黙のうちに承認してしまう可能性を秘めている。【私的理性】のもとでは、例えば、自国の繁栄に名を借りた植民地主義の暴力行為でさえもが理論的に正当化されてしまう。この、組織体⇒共同体の他者を犠牲にすることに目を瞑(つぶ)るような理論構成が問題なのである。〖公的理性〗こそ、まさに「公正」の論理として、【私的理性】の排他的な論理を的確に批判してやまない。
東急電鉄(⇒東急グループ)は、「営利社団法人」として営利(=法人が外部的経済活動によって得た利益をその構成員・社員へ分配すること)、つまり【私的理性】を重視する組織体である。
ところが、この営利会社がよりによって、学校法人(非営利法人=公益法人)を、「自主的かつ公共的な」私立学校を経営・運営するとは、いったい何を意味するのだろうか。
東急電鉄(⇒東急グループ)という【私的】な営利事業体のもとで果たして、〖公〗教育を担う学校法人にふさわしい〖公的理性〗の道が開かれ―「万事において自分の理性を公的に使用する自由」が謳歌され―、究極的には「世界市民」の視座から世界に対して語りかける「公共的」世界が形成されるのだろうか。どう見ても、これは「百年河清を待つ」話というべきである。
この約60年にわたる五島育英会(←東急電鉄)による学校経営の実体が、この憂慮すべき事態の深刻さを雄弁に物語っている。何よりも【育英会】理事長人事、武蔵工大学長人事をはじめとする【育英会】傘下の諸学校長人事、そして【育英会】事務局長人事・工大事務局長人事…、これら各種の人事の実態をありのままに直視するがよい。【育英会】⇒諸学校では組織全体として―理事長、事務局長・事務員、学長・校長・教員・技術員、学生・生徒・児童・幼児の全構成員間で―、世界への眼差しを遮る「後見人」と、その後見人に庇護を求める「未成年」の相互依存関係の論理が広く展開されている。
公益=〖公的理性〗よりも組織益=【私的理性】を優先し⇒未成年状態以前に退行して「もの言えば唇寒し秋の風」の全体主義的な傾向を帯びつづけてきた“学校法人”は今や、「教育の民主主義」はおろか、民主主義の理念全般をさっぱり理解できず、カント的啓蒙⇒自由を恐れるばかりで、まして理性および自由を単なる近代合理主義の地平を超えて「野生の思考」(レヴィ・ストロース)にまで拡張する発想・思想にいたっては問題外、思考と道徳の埒外に押し出すばかりである。
“誰に対しても開かれてしかるべきものが閉じられている”学校教育機関に未来はない。
≪跋≫
1983年1月19日、武蔵工大で、池田満寿夫(いけだ・ますお、1934~97)による講演会―「芸術における東と西~わが芸術的遍歴に沿って~」―が開かれました。
当時の工大(工学部)教務委員会では、教務委員の教員(計9名)が担当して、学生向けの「総合講演会」を年に2度開催していました。それは何らかの知的啓発をめざす催しながらも、講師が他大学関係者で、大学の授業のようにオモシロクナイ講演の連続で、学生からは不人気の極みでした。来聴者も少数のため、一部の担当教員が学生の出席を強要する事態も生じたりしたものです。
一教務委員だった私は、こうした沈滞ムードを打破するために、自ら企画立案し―社会の第一線で活躍中の著名人を講師に招き、学生大衆の今日的な興味と関心を集める講演を行うこと―、前出の講演会の主催にこぎつけたのでした。
池田満寿夫はつとに国際的な版画家として定評があり、1977年に小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞、エロスの作家としてテレビ・マスコミ界で活躍中でした。私はたまたま82年の秋に、彼と初めて会う機会を得て、彼に「安い」講演料ながらも当該講師をお願いしたところ、快諾を得ることができました。
講演会当日、彼の盛名ゆえでしょう、会場は優に200人を超える大入り満員の盛況を呈しました。
彼の講演内容の圧巻は、私の要望に応えた―ちなみに、副題は私が付けたもの―、貧苦と彷徨の自らの青少年時代の語りでした。満州に生まれ、11歳で満州を引き揚げたこと、中学校時分から図画と作文の才能が担任教師の注目を浴びたこと、長野北高を卒業後、上京し東京芸大をめざしたが受験に3度失敗したこと、似顔絵などで生活をしながら油絵を書きつづけたこと、等々。
これらはまさに、「偏差値教育」に毒されてきた現代日本の学生たちを豁然として悟らしめるような言葉の数々でした。彼独得の芸術的エロチシズムの根底には苦悩の人生があったことを、私自身改めて確認したものです。
ところで、ここで私が彼のことを引き合いに出したのは、彼の講演自体を紹介するためではありません。実は、その講演の直前と直後に、私が今なお忘れがたい出来事が出来(しゅったい)していました。
彼は私の案内で―彼の自宅からタクシーに同乗して―、武蔵工大正門をくぐり、1号館(本館)前に第一歩を印した際、おもむろに周囲を見渡しながら、声を発したものでした。「暗い!この大学は暗い、随分暗い!」と。
そして直後、1号館1階の「事務局」全体を見渡しながら、私に小声で呟(つぶや)いたものでした。「これは、まるで村役場だな…」と。
さらに1時間半の講演終了直後に、彼は私に向かって、問わず語りに語りだしたものでした。
「工学部の学生は一般に地味で堅実だとは聞いていた。僕の話を真面目に静かに聞いているようにも思ったよ。しかし、それは表面的な見方だな。200人以上もの学生の、この聞き具合・乗り具合は、やっぱり普通じゃない。得体の知れぬ“暗い”雰囲気といい―僕はこれだけ“暗い”大学を体験したのは初めてだ!―、これは“自由”がないんだな。学生たちは自由の風に吹かれていないんだよ。若者が過ごす空間としては最悪だろうな…」
それは事物の本質や全体を一挙にとらえる美的直観のなせる業であり、私自身のかねてからの思いでもありました。この時以来、武蔵工大はなぜ「暗い」のか、なぜ「村役場」的な雰囲気を醸すのか、なぜ「自由」を謳歌できないのか、という一連の根源的な問いが私の念頭に置かれた重い課題意識となりつづけました。
[註:この池田満寿夫に関する文章は、部分的には拙論「文化講演会の思想的射程」(『武蔵工業大学教育年報』第3号・1992年度版、126頁)に掲載された。]
by tadyas2011
| 2011-09-30 02:03
| 安田塾以外