安田塾メッセージ№34      ある学校法人(3)

                                   2011年9月1日 安田忠郎
         学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(3)

【急】 月のない闇夜
                                                 

 私立学校法はこう謳っています。
 第1条:「この法律は、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによつて、私立学校の健全な発達を図ることを目的とする。」第2条第3項:「この法律において『私立学校』とは、学校法人の設置する学校をいう。」第3条:「この法律において『学校法人』とは、私立学校の設置を目的として、この法律の定めるところにより設立される法人をいう。」
 戦後の私立学校法が戦前の私立学校令(明治32年勅令)―同令によって私学が国家の教育政策の強い統制下に置かれる―と際立って異なるところは、私立学校を自主的かつ公共的なものとした点、また私立学校の設置者を学校法人とした点です。
 以下、この「自主性」および「公共性」の視点から、「五島育英会-武蔵工大」論を展開することにします。
 

 [Ⅰ] 私学の自主性
 私学の「自主性」とは何か。この私学の基本理念は、「教育の自由」の理念と密接な相関関係にある。
 例えば、国公立と違って、私学には「宗教教育の自由」がある。これは私学における「教育の自由」の理念の一つの表われにほかならない。「建学の精神」を掲げる私学教育では、私人の教育的信念―自主独立の精神―に立脚する教育が尊重される。[cf.(新)教育基本法第15条第2項:「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」]
 

(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題 
 私学の自主性は理念上、私学特有の「建学の精神」と相即不離の関係にある。
 【育英会】の中核校・武蔵工大の場合、建学の精神として、注目すべき標語、すなわち「公正・自由・自治」が掲げられている。
 一体、この校是は、どういう背景のもとで形づくられたのだろうか。『武蔵工業大学五十年史』(1980年)によれば、それは1929(昭和4)年の「武蔵高等工科学校」創設当時、「生徒たちの真摯にして切実な要望と、その熱意に動かされた創立者たちの純粋な愛情と誠意にもとづいて生まれたものである」。
 
 武蔵高等工科学校の創立にいたるまでの経緯は、「きわめて特異な事例」であるといわれる。同上書に従って、その経緯と校是の中身を要約してみよう。
 ♦ 同校はいかにして開校にこぎつけたか。
 1929年5月ごろ、東京高等工商学校(27年設立、芝浦工業大学の前身)の生徒たちが学校側に対して、授業の充実など幾つかの改善要求を出して同盟休校に入る。→しかし、該校は生徒の要求を受け入れないばかりか、約10名の責任者を放校処分とする。→多数の一般生徒はやむなく、該校に退学届を提出する。→生徒のリーダーらは大勢の向学心に燃えた仲間たちの再就学を図って奔走する。→彼らは該校の非常勤講師に慶應義塾大学(以下、慶大)の教授が多かったことから、その関係をたどって、慶大法学部教授の及川恒忠に、「自分たちが安心して勉学できる学び舎をあらたに造りたい」と訴える。→「理想家肌で純な人柄」の及川は、「生徒たちの熱望もだしがたく」、親友で実業家(慶大卒)の西村有作(昭和工船漁業株式会社代表取締役)に働きかけ、彼と相携えて事を進める。→結局、及川、西村、さらに同じ慶大出身の手塚猛昌(東洋印刷株式会社社長)を加えて、3人の連名で、東京府知事宛てに武蔵高等工科学校の設立を申請、同年9月12日付けで認可を得る。
 ♦ 同校の校是はいかにして作られ、その由来はいかがなものか。
 及川恒忠は元来、慶応義塾の建学の精神=<独立自尊>を重視するとともに、中国学者として、当時の中国における「蒋介石の国民革命」⇒その「国民精神昂揚のためのモットー」である「礼儀・廉恥(節操高く恥を知ること)」に関心を寄せていた。そこで彼は最初、問題の校是を<独立自尊>と「礼儀・廉恥」を結び付けて、「自由・廉恥」とするつもりであったが、「これではむづかしいというので『自由・公正・自治』を創造」するにいたった。
 及川は自ら「公正」に関して、こう述べている(抄出)。「『志ある者は事つひに成る』とは千古不滅の真理であり、我々の志とは公正なる人格の陶冶と優秀なる工業技術の修得とにある。我々は最大の努力(最少の努力ではない)を以て最大の効果を挙ぐべく協力奮闘したい。誠の公正は自身のポケットからも出来る丈け多くを出すと同時に他人のポケットからも出来る丈け多くのものを受けるといふことであらねばならない。」
 また、慶大出身で時事新報記者として活躍後、及川に起用され、同校教務主任となった打村鉱三は、「自治」と「自由」と「公正」について、こう解説している(抄出)。
 「学校は諸君の自治・自由を慫慂する。完全に、正確に自治的であってほしい。真の自由を心ゆくばかり享楽するがいい。自由は放縦乱暴、勝手気儘を意味しない。真に自由なる人は先づ真に自尊の人であらねばならぬ。自尊とは畢竟、廉恥即ち恥を知ることである。自ら自己を恥ぢることを知って居る人にしてはじめて自由たり得る。恥を知れ!正義公正こそ我等の心境であらねばならぬ。明るい、態度の鮮明な、少しも卑屈なところのない、きたならしい気持のない、自由無礙な学生こそ本校の学生である。一番いけないことは、根性のきたならしいことである。暗さを持った心である。」 
 さらに、この校是作りに参与した当時の生徒たちの代表・宮尾薫は、こう語っている(抄出)。
 「前の学校では自由がなかったので、私たちのつくった学校は自由に学べるところにしよう。公正とは、世間に恥じない道を歩いてもらいたいということです。そう私たちが要望したことを及川先生に理論づけるというか体系づけていただいたんです。」(1977年6月「学校創立時の座談会」)

 武蔵高等工科学校が若者(退学者)の尽きぬ向学心と向上心を原動力として誕生したこと、これは日本の学校史上画期をなす出来事である。しかし、そこに発揚された「建学の精神」の思想内容については、注意が必要である。[註:同校の「建学の理念」の立脚点を考えるにしても、もともと史料自体が乏しく、同上の『五十年史』にしても―『75年史』(2005年)にいたっては一層そうであるが―筆者の概念規定がアイマイで、毒にも薬にもならない文章が多く、結局のところ上述の私の要約から推論するのがせいぜいである。]
 同校の創立に直接関わった者は、生徒を除くと、及川をはじめ、すべて慶大関係者である。だから、彼らが福澤諭吉の<独立自尊>という言葉を知らないはずはない。それは何しろ、福澤の人となりを端的に示すものとされ、また福澤の教えの根本を言い表すものともされる言葉である。
 しかし大事な点は、彼らがその名句を単なる「知識」段階を超えて、認識し哲学して、わがものとしているかである。私の個人史に照らすと、慶大出身者には予想外に福澤精神に一知半解の徒が多いことも確かである。 
 問題にすべきは、彼らが公正・自由・自治について、公正⇒廉恥、自由⇒自尊⇒廉恥ととらえ、「廉恥(れんち)」を軸として解釈している点である。
 
 周知のとおり、「廉恥」(心が清らかで、恥を知る心が強いこと)⇒「廉恥心」(清らかで恥を知る心)は、日本古来の―より正確に言えば、中国の儒教(孔子・孟子)に端を発する―、日本人の伝統的な美徳とされている。では、その「恥(はじ・チ)」―耳を赤らめて心で恥じるの意(偏が耳、旁が心)―とは何か。
 それは簡単に言うと、人前で「恥ずかしい」思いをすることによって、その思いを二度としないように振る舞おうとする一種の行為規範である。恥ずかしいという感情は元来、当人の自己評価が対人関係のなかで相対的に低下し⇒自尊心が損なわれる状況下で生じる。この「羞恥心」はそのままに、人の笑い物になったり、世評が悪化するのを心配する気持ちと結び付く。ここではしたがって、人の目による批評が社会的な行為―社会規範への適応―を方向づける上で大きな規制力をもち、人の噂や嘲笑を恐れる余り、恥をかかないようにしようとする意識―「恥を知れ!」―に転化されるにいたる。
 この「恥」意識の脈絡上、私はただちに、アメリカの文化人類学者・ルース・ベネディクト(Ruth Benedict、1887~1948)の古典的名著『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword、1946年)を想起する。アメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である同書では、日本文化が西洋文化の対極の位置に置かれ、後者が内的な良心を意識する「罪の文化」、前者が外的な批判を意識する「恥の文化」と定義された。
 私はさしあたり、この「罪の文化guilty culture」vs.「恥の文化shame culture」という「文化の型(pattern≠type・類型)」の当否を問うつもりはない。しかし、ベネディクトによる、「恥」という日本文化固有の価値の分析自体は、見事な仕事ぶりとして評価する。
 「恥は他の人々の批評に対する反応である。他人から公然とあざけ笑われ、値打ちがないといわれるか、あるいは、あざけられたと思い込むか、そのいずれかによって、人は恥辱を被る。どちらの場合でも、恥はよく効く道徳的拘束となる。だが、それには、実際に人前のことであるか、それとも少なくとも人前でのことだと思い込むか、といった条件が必要である」(同書)。

 恥の感覚(廉恥心)は根本的に、自己の行動に対する世評に気を配ることであり、したがって他者の判断を基準にして自己の行動の方針を定めることである。この行為基準の外在性の問題は、武蔵高等工科学校の校是に即して、(前述のとおり)宮尾薫によって明言されていた。すなわち、「公正」とは「世間に恥じない道を歩いてもらいたい」ことである、と。
 日本人は古来、特に青少年の教育[躾(しつけ)]に当たって、「笑われるぞ」・「名が汚れるぞ」・「恥ずかしくないのか」などという説教を垂れてきた。これが要するに、世間に顔向けできない、世間様に対して申し訳がないといった、世間体を慮っての説教であることははっきりしている。
 この、いわゆる「世間」こそ、【序】で論及された「歴史的・伝統的システム」にほかならない。ここで立ち入った再論は割愛して、歴史学者の阿部謹也(1935~2006)による日本独特の「世間」―フッサール現象学の「生活世界」概念のとらえ返し―に関する優れた考察の一端を紹介しておきたい。
 
 「『世間』とは人を取り巻く人間関係の枠であり、現在と過去に付き合った全ての人々、将来付き合うであろう人を含んでいる。原則として日本人だけであり、外国人は含まれない。『世間』には贈与・互報の原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性という特徴がある。(中略)そのほか『世間』には生者だけでなく死者も含まれていることを忘れてはならない。さらに『世間』は自律した西欧的な個人を主体とする関係ではなく、呪術的な関係を含んでおり、一人一人の人間は『世間』のなかでは全体と密接な関係をもって生きている」(『日本人の歴史意識』岩波新書、2004年)。
 「『世間』とはパーソナルな人的な関係で、いわば個人と個人が結びついているネットワークであり…、その人が利害関係を通じて世界と持っている、いわば絆である…」(『日本社会で生きるということ』朝日新聞社、1999年、抄出)。
 「日本の社会はあらゆるところに『世間』が作られている。私たちは皆その『世間』の中で生きており、その『世間』が私たちの行動を最終的に判定する機関となっている。どのような会社にも官庁にも、新聞社にもあるいは警察署にも『世間』は作られており、『世間』に属していない人は一人もいない。それは冠婚葬祭のすべてにわたって私たちの行動を規定している。…『世間』は差別的で排他的な性格をもっている。仲間以外の者に対しては厳しいのである。現在の日本の社会においても『世間』は厳然として存在しており、どのような組織にもそれがある。自分がどの『世間』に属しているのかを知らない者はいない。しかも『世間』には序列があり、その序列を守らない者は厳しい対応を受ける。それは表立っての処遇ではないが、隠微な形で排除される。それぞれの個人はその『世間』の中で自分の位置を守るべく努力しているのであって、出世とはいわないまでも落ちこぼれないように頑張っているのである」、「わが国の個人は西欧と異なって直接社会を構成しているわけではない。個人と社会の間には『世間』があり、それが個人の行動を規制している」(『学問と「世間」』岩波新書、2001年)。
 「共同体と『世間』は互いにあいいれない概念であるかにみえる。しかし『世間』はいわば浮遊する共同体ともいうべきもので、ここでも我が国における個人のあり方が反映されている」(『「教養」とは何か』講談社現代新書、1997年)。

(ⅱ) <独立自尊>の問題 
 武蔵高等工科学校の創始者一同、慶大関係者&若者たちは究極するところ、自己の行為の基準を「世間」共同態という他者の側に求めている。(註:「共同体」と言えば、村落共同体を連想し、地縁・血縁で結合した何か固い実体的なものを想定しがちである。これに対して、私はもっと個人と個人との流動的で相互作用的なネットワークとしての「準拠集団」の意味を込めて、「共同態」の語を使用する。)
 では、慶應義塾の本元・創設者の福澤諭吉(1835~1901)、彼の代表的な言葉で戒名(「大観院独立自尊居士」)にも用いられた言葉<独立自尊>には、どういう思想内容が盛り込まれているのだろうか。
 福澤は教訓集『修身要領』(慶應義塾編纂、1900年「時事新報」に発表)において、<独立自尊>の人を、「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの」(第2条)と定義し、個人→家族→国民→国家の順でそれぞれの<独立自尊>を省察している。彼はまた、当時の大ベストセラー『学問のすすめ』(1872~76年)において、一身の独立を、「自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきをいう」と定義し、独立の価値の重要性に照らして、「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者は次第にこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる『習い、性となる』とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり」(第三編)と喝破している。
 
 そもそも福澤の思想世界には、「一身独立して一国独立する」という命題がある。
 『学問のすすめ』はこう述べている。「自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり」、「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈(ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず」(初編)。
 福澤の場合、西洋文明の基底をなす人間(一身)および国家(一国)の「自由独立」が正確に受け止められており、その思想的な構えは「一身独立→一国独立」であり、この逆の「一国独立→一身独立」ではない。「わが日本国中も今より学問に志し気力を慥(たし)かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり」(第三編)。
 ただし現実問題として、この福澤における、「一身(一国を構成する個人)独立」→「一国(国際社会を構成する当事国)独立」の命題では、彼の後期の文章・作品におけるほど、前者(一身独立)に対する後者(一国独立)の優位が主張されていく。彼は1880年代に入って、当時の日本を取り巻く国際情勢が逼迫する―ヨーロッパ帝国主義が怒涛のように押し寄せる―につれ、対外強硬論⇒軍備拡張論に説き及んでいる(cf.「東洋の政略果して如何せん」1882年)。
では、福澤の思想は「一国独立→一身独立」に変貌を遂げたのだろうか。彼は国家主義者に成り果て、「民権」の伸長を含む国内の「近代化」こそ対外的独立の前提条件とする年来の思想を、無造作に脱ぎ捨てたのだろうか。
 慎重に考慮すべきは、彼の対外強硬策が重大な国際危機を切り抜けるための戦術であり、その限りにおいて彼の政治上の状況判断にもとづく応急処置にすぎないことである。したがってまた、彼の「一身独立→一国独立」という、根源的な「人間⇒教育」観に立脚した論理構造が確固とした揺るぎない思想的構えにほかならないことである。
 彼の「一身独立→一国独立」(より具体的にいえば、「一身独立→一家独立→一国独立→天下独立」)の原理は、一にかかって、人間個人の「独立自尊」を推進する教育に支えられている。
 彼は『学問のすすめ』のなかで、おぞましい官尊民卑の風潮を嘆じながら―「みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居るの道を知らざる」(第四編)―、日本人の一人一人が<独立自尊>の精神を身に付けるように、教育―私学・慶應義塾に拠った独自の在野的教育活動―に力を尽くすと、高らかに宣言する。
 「わが国の文明を進めてその独立を維持するは、ひとり政府の能くするところに非ず、また今の洋学者流も(おおむね、みな官途につき-引用者)依頼するに足らず、必ずわが輩の任ずるところにして、先ず我より事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、またかの洋学者流のために先駆してその向かう所を示さざるべからず」(第四編)。
 そして、この「独立自尊」の思想的地平から、彼の『文明教育論』(1889年)では、教育そのものがいわゆる「発育」の思想としてとらえ返されるとともに、学校教育が知識・技術の詰め込みに陥いる事態が警告されている。
 「学校は人に物を教うる所にあらず。唯その天資の発達を妨げずして能く之を発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしく之を発育と称すべきなり」。
 「いたずらに難字を解し、文字を書くのみにて、さらに物の役に立たず、教師の苦心はわずかにこの活字引(いきじびき)と写字器械とを製造するにとどまりて、世に無用の人物を増したるのみ」。

 福澤はこうして、「人を束縛してひとり心配を求むる」教育(『学問のすすめ』第三編)―子供たちを学校に縛り付け、知識・技術をやみくもに注入する教育⇒「教育の国家主義」―と断然決別し、「人を放ちてともに苦楽を与(とも)にする」教育(同)―子供たちを自由にして、一緒に学び合いながら、一人一人の子供の学習過程(「発育」)を援助する教育⇒「教育の民主主義」(ジョン・デューイ)―に全力を傾倒する。
 
 彼は言明している、国家があって人間⇒教育があるのではなく、人間⇒教育があって国家がある、と。
 「発育」としての教育は、人間一人一人―上下貴賎・老若男女を問わず―の生涯にわたる問題である。ここではせんじ詰めれば、個々の人間が<独立自尊>の体現者―自分で学問=思想=哲学し、自分で「口に言ふのみにあらず躬行実践」(福澤「慶應義塾の目的」1896年)し、そして自分の国をどこへ持っていくかも、自分の責任において決定できる人間―になったときはじめて、「一身の独立自尊→一国の独立自尊」の論理が現前し、「全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくない」(福澤『福翁自伝』1899年)状況下、個人的自由⇒国民的独立⇒国際的平等が実現する。
 「地球上立国の数少なからずして、各(おのおの)その宗教、言語、習俗を殊にすと雖も、其国人は等しく是れ同類の人間なれば、之と交(まじわ)るには苟(いやしく)軽重厚薄の別ある可らず。独り自ら尊大にして他国人を蔑視するは、独立自尊の旨に反するものなり」(前掲『修身要領』第26条)。

● 以上に見られる通り、慶應義塾と武蔵高等工科学校⇒武蔵工大とでは、建学の精神に関して、一見似てはいるが、本質的には―理念的構えの取り方の点で―大きく異なる。これまで長い間、後者の校是は前者のそれの直接的な影響下にあると巷間に流布されてきたものの、両者における理念・思想の出発点の地平が質的に異なる点が注視されなければならない。
 <独立自尊>の精神では根底的に、人間の行為の基準が内在的⇒「一身の独立」[官(公)vs.民(私)]という自己(個)の生き方を問う「自己」志向性にある。 
 「公正・自由・自治」の精神では根底的に、人間の行為の基準が外在的⇒「世間」という官なり公なりを何かしら含有する共同態に組み込まれた「他者」志向性にある。[ちなみに、日中戦争(「支那事変」)から太平洋戦争(「大東亜戦争」)にかけての一時期、校是の一つである「自由」が除去され、「剛健」がこれに代わっている点が注目される。]
by tadyas2011 | 2011-09-01 02:45 | 安田塾以外 | Trackback | Comments(0)
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