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安田塾メッセージ№20    「市民大学」講義

 皆様へ
                                   2010年12月18日 安田忠郎
                世田谷市民大学での講義を終えて

 既報(安田塾メッセージ№16)の通り、世田谷市民大学における私の講義(「人間観の基底―日本人における『個』の自立の可能性を考える―」)は、9月16日に始まり、12月9日をもって終了しました。
 
 この講義全12回(9.40~11.00a.m.)のすべてが、私にとって有意義で充実した時間でした。そこでは、私の経験知⇒理論知が率直にフル展開されるとともに、1回80分×12回=960分(16時間)が私の「根源的時間」(ハイデガー)と化して、たちまちのうちに過ぎてしまいました。
 何より嬉しかったのは、私の講義が熱を帯びるにつれ、話が受講生の胸奥まで届き、確かな手応えを受け取ることができた点です。
 
 当の受講生は計112名、その年齢層は60代が過半数を占め、次いで70代が多く、40代・50代・80代がごく少数でした。また性別では男性が64名、女性が48名を数えました。

 受講者の圧倒的多数は、私と同時代人でありました。私と彼らは、何物にも代えがたいことに、戦後日本の「生活困窮」→「高度経済成長」→「石油ショック」→「バブル景気とその崩壊」という同じ激動の時代を生きてきました。だからこそ、私の講義における言葉の数々は、世代間の断層に煩わされることもなく、思想的ないし心情的な共感を呼び起こし、巧まずしてコミュニケーションの円滑化を進展させることができました。

 しかも、悦ばしい限りなのは、彼らの9割方が海外経験―旅行or 出張or 居住―の持ち主であったことです。中には、世界30か国を歴訪した人、ニューヨークに4年間駐在した人も存在しました。数多くの異文化体験者を前にして、私の諸国行脚にもとづく「世界の中の日本&日本人」論は、いやが上にも気勢が上がりました。

 それにしても、私の講義中における教場の雰囲気は、時に熱っぽく、時になごやかで、時に粛然とし、全体として生気に満ちた、実に感じのいいものでした。 
 受講生は総じて熱心に私の話に耳を傾けてくれました。彼らの一部はたとえ私が長広舌を振るっても、話の内容を細大漏らさず受け止めてくれました。また、一部は打てば響くような反応を返してくれました。…
 いや、本当に素晴らしいことに、私は今回、現代日本の一般大学でお馴染みの授業光景―所在なげに虚ろな視線をさまよわせる者、棒くいのように無表情に押し黙る者、机の上に突っ伏していぎたなく眠りこける者等々とは、まったく無縁でありえたのでした。
 
 そして、かたじけなくも、ある受講生から一昨日、次のようなメールも頂戴しました。
 「世田谷市民大学では、興味深い講義大変面白く学ばせていただきました。まだまだ講義を続けていただきたい気持ちで一杯でしたが、残念ながら…。機会あれば又お話を聞かせてください。有難う御座いました。」

 私は各回の講義を終えるたびに、学生時代に読んだ羽仁五郎(故人、歴史学者)の著書(『私の大学―学問のすすめ』講談社現代新書、1966年)における次のような名言を、まざまざと思い浮かべたものです。
 「大学があるところに学問があるのではなく、学問があるところに大学がある。」 
 そうです、「学問」、すなわち「学んで問うこと」、これがすべてなのです。この点は、私がかつて夜間の「専門学校」講師として勤労者の教育活動に携わった折も、実感をもって胸に迫る問題でした。私は世田谷市民大学において、今更のように事の意味を強く噛みしめ直したのでした。
 彼らとの思いがけない出会いの機会に恵まれた幸運を、私としては心より感謝する次第です。

 ところで、今回の講義の進め方について、私としては反省すべき点が多々ありました。以下、私はその、よって来たる事情を顧みることにします。
 
 既報(№16)のとおり、講義では、次のようなテーマが掲げられました。
①幕末維新期に来朝の欧米人(特にイザベラ・バード)が展開する「日本及び日本人」論
②日本の近代化とナショナリズムの問題―「開国」とは何か
③私の諸国(特に米国ニューヨーク)行脚に照らした特殊日本的エートス
④西洋教育思想(特に「ソクラテス-プラトン」問題→ルソー→アダム・スミスの思想的脈絡)における「人間」の問題
⑤西洋哲学(特にカント→ヘーゲル/マルクス→フォイエルバッハ/キルケゴール→ニーチェ→ハイデッガーの思想的脈絡)における「人間」の問題

 各テーマは総体的な講義の一環として有機的に位置づけられたものであり、特に③は他の諸テーマの基底部を具体的に縁取るように配慮されたものです。
 そして実際上、講義は基本的に、次のような項目順で進められました。
 ここでは、おおむね①が⑴⑵⑶⑷⑸に、②が⑹⑺⑻⑼に、それぞれ小分けされ、④⑤が<個>的実在の足下にこだわるか否かの基準で、⑽と⑾に再編されています。そして③については、⑴~⑾すべてに何ほどか関係するものの、ことさらに⑷⑸への適用に力点が置かれました。なお、①→⑴⑵⑶⑷⑸の内実について、より分析的に言えば、⑶⑷⑸は⑵の論点を一層リアルに闡明するために設定されたものです。

⑴幕末維新期の欧米人による「日本人は優秀」説
⑵幕末維新期の欧米人による「日本人は大嘘つき」説
⑶日本的共同体の構成原理=共通の時間意識+贈与・互酬関係+長幼の序
⑷日本人・日本民族のエートス=「和」+「ケガレ」+「言霊」+「怨霊」
⑸イザナキ-イザナミの日本神話vs.オルペウス-エウリュディケーのギリシア神話
⑹マクロの歴史的視点に立った「日本と世界の関係の変化」論=「単一の文化宗主国に対する上下垂直関係」から「前後左右の水平多項構造」へ
⑺日本の近代化と「第1の開国」→「第2の開国」→「第3の開国」
⑻日本のナショナリズムの問題―特に明治7(1874)年5月の「台湾出兵」に即して
⑼戦後日本の産業構造上の大転換(第3次産業)―特に消費資本主義の展開(必需消費<選択消費)に即して
⑽日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(a)⇒ソクラテス+デカルト+ルソー+アダム・スミス+カント+フォイエルバッハ+キルケゴール+ニーチェ+ハイデガー
⑾日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(b)⇒プラトン+ヘーゲル+マルクス
 

 これら各項目は、どれ一つとして、まともに対象化するなら、とても講義1回80分程度で事足りるものではありません。それゆえ、一般的に言って、限られた一講義枠で、これだけの多岐に及ぶ項目を取り扱うのは無謀な試みというほかありません。
 しかし、今の私には自負があります。
 私は永い時間―少なくも30年!―をかけて、日本人の人間観と、欧米人のそれとの違いが、とりわけ死生観に即して、身にしみて分かるようになってきました。したがって、各項目の話が冗長に流れず、決定的なエッセンスに集中できれば、11項目全部を網羅した所期の講義計画も何とか完遂できるであろうと、講義前の私は楽観していたのでした―。
 

 私が「日本および日本人とは何か」の問いを意識するようになったのは、30代前半の、生まれて初めての海外旅行に端を発します。
 私は当初、ダイビングを楽しむために、旅行社のパックツアーを利用してグアム→サイパンを、そして個人的に計画してタヒチ→ボラボラ→モルディブを旅行しました。これらの島々は、鮮やかなエメラルドグリーンに輝く漫々たる海に囲まれています。私はその自然の景観の美しさに目を奪われました。特にボラボラ島、モルディブ諸島の目も綾な景観は、しばし見とれて時間も忘れるほどのものでした。
 この旅行の際に、私は「外国人」の、特に「衣食住」の生活スタイルをじかに見聞しながら、日本人のそれとの違いをあれやこれやと、とりとめなく考えるようになりました。
 次いで、私は36歳のとき、初めてオーストリアを旅行しました。この時、ウィーン大学の関係者(教師+学生)と、またウィーンおよびザルツブルクの市井人と、何気ない会話を楽しみながら、彼ら「外国人」―何よりも欧州人―の個人としての生き方と日本人の個人としての生き方の違いにはっきりと気づくようになりました。
 やがて30代の終わりから50代前半にかけて、私は主としてフランスのパリ→イタリアのローマ→タイのプーケット→マルタのゴゾを周遊しながら、いよいよ「日本人とは何か(本質)」の問いの重要さを痛切に自覚するようになりました。
 そして50代半ばで、私はニューヨークにたどりつき、コロンビア大学東アジア研究所での約1年2ヶ月の滞在期間中(1999年8月~2000年9月)、「世界の中の日本&日本人」問題に本腰を入れて取り組むにいたりました。ちなみに、前掲の項目⑹⑺⑻の基本的な認識は、その際に養われたものです。

 翻って私の思想形成過程を考えてみると、「経済学-社会思想史」専攻の大学生時代の大きな関心事は、ヨーロッパ近代思想史でした。
 中でも、私は(1)「近代」出発の胎動的なルネサンス→宗教改革→市民革命の歴史的過程を、(2)近代資本主義の根本矛盾(自己増殖する価値としての資本)の克服を目指すマルクス主義の成立過程(ドイツ古典哲学+イギリス古典経済学+フランス社会主義⇒マルクスおよびエンゲルスの思想体系)を、(3)「宗教改革」+「資本主義」を総体的に問題化するマックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、身を入れて勉強しました。
 とはいえ、私の場合、その勉学自体に何かしら物足りなさを覚えていたのでしょう、大学最終学年の卒業論文は、近代日本最初のマルクス経済学者で、「波乱万丈の人生」を送った河上肇(かわかみ・はじめ、1879~1946)の「生涯と思想」を主題化しながら、彼の一生を貫いた「宗教的真理と社会科学的真理との統一」という彼特有の命題に注意を注ぎました。
 
 そして他方、この学問的活動の問題とは別個に、当時の私は日常的な生活態度にかかわる、ある思い(問題意識)にとらわれつづけていました。
 それは要するに、人間個人の内的世界と外的状況との「接点」の問題であり、なぜに周囲・環境世界が状況的に私自身の内的自由を抑圧するのかという問題意識でした。 
 実情に即して言えば、私は事あるごとに、周囲の状況への同調⇒同化⇒いわゆる「和」を強いる力を感じとり、そして決まって、それへの違和感を覚えつづけたものです。この点、大学紛争のような「非常時」はもとより、大学の日常的な光景全般―授業・ゼミ・クラブ活動・体育祭・学園祭・入学式・卒業式等々―もまた、私の割り切れない違和感の対象となりました。
 

 私における周囲の雰囲気や人間関係に対する違和感の問題は、何も大学生活に限られたことではありませんでした。それ以前の幼稚園・小学・中学・高校の各段階でも程度の差はあれ、私が自発的・自主的に振る舞うほどに、その違和感が膨れ上がったものです。少年時代の私は、思うところを率直に実行に移すたびに、周囲の誰彼―特に学校教師―から、「わがまま」とか「生意気」とか「自分勝手」とか「協調性に欠ける」とかの小言を浴びせられ、言動に何らかの掣肘を加えられたものです。
 今にして思えば、この少年時代以来の堆積する違和感に何とか向き合い、その客観的根拠を尋ねはじめたのが、ほかならぬ学生時代の私の思想的態度であったといえましょう。

 この違和感は人間の存在構造上、自己主張的な生命力の発露を圧迫する力を受け止めるところに生起する苦痛の感覚、その意味での「受動的苦痛」=「受苦」(フォイエルバッハの言うLeiden⇒Leidenschaft)にほかなりません。
 私自身の「受苦」の問題は、やがて大学卒業後の「会社」時代→退社後の「大学院」(教育哲学・教育思想史専攻)時代をとおして、一層具体的に顕在化し、広がりを見せていきました。その結果、私の思想世界では、次のような仮説がおいおい頭をもたげ、像を結ぶことになります。 
 すなわち、【この国の】あらゆる「集合」体が―政党でも会社でも組合でも学校でも、また官界でも政界でも財界でも学界でも法曹界でもマスコミ界でも―、当該集団への個々人(構成員)の「同化」(⇒個人の個性・創造性の圧殺)志向を、本質的に内包していること、したがってまた【この社会の】人間一人一人が当該集団の内(ウチワ)と外(ヨソモノ)との「重層的・伸縮的」な区別⇒[表層]ソト―タテマエ―オモテ―ギリ(義理)と[深層]ウチ―ホンネ―ウラ―ニンジョウ(人情)の立体構造という一種の共同体的秩序に何らかの形で寄り添って生きていること、これです。

 こうした私の仮説は、前述した30代前半からの海外めぐりによって、漸次実証されていきました。
 そこでは、何よりも私のニューヨーク体験が決定的でした。

 ↓ 9.11以前のロウアー・マンハッタン
安田塾メッセージ№20      「市民大学」講義_a0200363_16252887.jpg ニューヨークは「世界で最もエキサイティングな街」、「文化が空気の中にある<眠らない街>」です。市内では、およそ170の言語が話され、人口の40%近くがアメリカ合衆国の外で生まれた人―つまり「外国人」―です。
 私はこの「人種のサラダボウル(salad bowl)」たるニューヨークを「居場所」にしたときはじめて、目から鱗が落ちる思いに浸りました。(ちなみに、当時の私の居宅は、ニューヨークが濃厚に凝集するマンハッタンの、そのマンハッタンが濃厚に凝集するミッドタウンの、40階建てアパート―日本でいうマンション―の28階の一住居でした。)
 ようやく、はっきりと分かったのです。問題点が洗い出され、疑点が解明されたのです。ここでは最低限、次の2点だけは特筆大書されなければなりません。
 
 第1に、私は日本(日本国家・日本社会)が世界の中の一国であるという当たり前の事実を全身的に認識できました。自分が生まれ育った日本という場を生まれて初めて、まっすぐに対象化し相対化することができました。 
 したがって第2に、私はあえて、自己内部の違和感=「受苦」の事実に立脚した前掲の仮説を全身的に立証できたとする自負心を誇示するものです。増上慢な態度とそしられようと、当の仮説に対して枚挙にいとまがない確証を得た私としては、いささかも動じるものではありません。 



 さて、話は世田谷市民大学での講義のことでした。
 私は講義を項目⑴から始め、順次⑵⑶と、「エッセンス」を語ることに腐心して進めました。それゆえに、⑴⑵⑶は予定どおり、2回の講義で済ますことができました。
 ところが問題は、⑷にいたって頓挫を来たしたことです。実は、この⑷だけに4回もの講義時間が費やされてしまったのです。私は⑵の幕末維新期の日本人論から、⑶の、ゲゼルシャフトvs.ゲマインシャフトの対立軸にもとづく「日本的共同体」の一般原理の話を経て、順調に⑷に移ったものの、そこに予想を大きく上回る時間をかけてしまいました―。
 

 私はニューヨークから帰国後、日本人にとっての宗教である神道・仏教・儒教を本格的に研究することにしました。「日本人(の個性)とは何か」の問題を一層深く掘り下げるためには、日本の民族宗教たる神道と、外来宗教たる仏教(オリジナル版→日本版)および儒教(同)への根本的理解を欠かすわけにはいきません。
 [ちなみに、私が日本(人)の宗教に関心をかき立てられた切っ掛けの一つは、コロンビア大学のJapan Societyで、「仏教学」専攻の大須賀茂さんと知り合ったことです。1999年から翌年にかけて、私は彼と何度かお会いしながら、特に彼の勤務するSeton Hall University (所在地はニュージャージー州サウス・オレンジ、日本の上智大学の交換留学協定校)を訪問したりしながら、仏教に関する彼の薀蓄を拝聴したものでした。]
 

 大学生時代の私は、なるほど前掲(1)の「宗教改革」との関連で、キリスト教に関する基本的知識は学びました。そして必然的に、一神教であるユダヤ教→キリスト教→イスラム教という宗教的系譜への原理的理解にも努めました。ところが、地球人類の過半数が信じる一神教の要所を押さえたとはいえ、眼前の日本の伝統的宗教である神道・仏教・儒教の三者については部分的にはともかく、トータルな構造的・通史的な理解が完全に欠落していました。
 私は大学院生時代には、仏教に関して開祖の釈迦(「初期仏教」)→「鎌倉新仏教・浄土真宗」宗祖の親鸞(唯円『歎異抄』)を、儒教に関して始祖の孔子(『論語』)→孟子(「性善説」・「王道政治」)→荀子(「性悪説」)を、その系統的思想像に即して、私なりに重点的に勉強しました。とは言っても、私の「宗教思想史」研究上、その勉学内容が一神教原理のそれと比較して格段に見劣りするものであったことは否めません。
 しかし、それ以上に問題なのは、神道=「惟神(かんながら)の道」という日本で唯一のオリジナルな宗教に対して、私が不勉強そのものであった点です。
 なるほど神道の聖典ともいえる『古事記』(712年)については、高校→大学→大学院の折あるごとに、その各種の現代語訳を一通り読みつつ、一群の神話を楽しんできました。だが思うに、これは通俗な意味での「一般教養」をひけらかす好事家のなぐさみにすぎませんでした。

 私が決意を新たにして神道・仏教・儒教を探究するにいたったのは、厳密に言えば、アメリカから帰国して1年後の「9.11テロ」―2001年年9月11日に勃発した「アメリカ同時多発テロ事件」―以降のことでした。
 私は2002年3月にニューヨークを再訪し、しばし崩壊した「世界貿易センター(WTC)」ビル跡地(「グラウンド・ゼロ」)にたたずみました。そして、「山川草木うたた荒涼…」と口ずさみつつ、心中密かに思ったものでした。「世界は複雑怪奇をきわめるからこそ面白く、滑稽で、馬鹿馬鹿しい…」と。

 21世紀に入って、私は特に二人の人物の著作を腰を据えて精読しつづけました。
 一人は評論家の山本七平(1921~91)、もう一人は作家の井沢元彦(1954~)―。
 私は神道・仏教・儒教を介して「日本人の思考様式・行動様式」に肉迫するに際して、彼らの思想と発想法から、多くのヒントを得ることができました。(ちなみに、ここで私は両者の思想の全体像についてイデオロギー的な論評を加えるつもりは、更々ありません。何はともあれ、一個の思想像をそれ自体として、論理展開の整合性・首尾一貫性に即して、ザッハリッヒに把握すること、これが私の思想的な構えの取り方の基本です。)
 前者の著書については、私はすでに1970年のイザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』が物議を醸して以来、折に触れて、80年代まで一定の関心を払ってはいました。
 彼の日本文化論が洞察力に富む見解を展開していることは、紛れもない事実です。中でも私が教わったものの一つに、聖徳太子の「十七条憲法」(604年)における第1条「和を以て貴しと為す」の「和」の解釈があります。彼は「和」の意味内容を、それが最初の同条の後半部分と最後の第17条に見える「論(あげつら)う」に相即する点に照らして、「話し合い絶対主義」と命名しました。この卓見の指示する事態が欧米流のディスカッションでもなく、ディベートでもなく、日本の伝統的な「根回し・談合」であることは言うまでもありません。
 後者の著書については、私はすでに1991年刊行の『言霊(ことだま)―なぜ日本に、本当の自由がないのか』(祥伝社)に出会って以来、その知識性に惹かれて、90年代中に『「言霊の国」解体新書』(93年)→『穢れと茶碗』(94年)→『日本を殺す気か!』(96年)→『歴史の森の影法師』(96年)→『言霊Ⅱ』(97年)を、連続的に一読していました。
 彼の歴史、殊に日本通史に対する造詣の深さは、一世の耳目を奪うものがあります。彼の文章には、読者をして日本史の総体に尽きない興味を持たしめる説得力があります。そして、日本人の精神構造を鋭くあぶり出す文化論は、「和」を尊ぶ国がなぜ「世界の孤児」かの逆説を解いて余りあるものがあります。

 私はこの9年ばかり、両者の主要著作(特に「日本教」という宗教に関するもの)のうち、20世紀までに読了したものは再読し、それ以外の、特に井沢の21世紀に出版されたものは熟読玩味してきました。もっとも、そうは言っても、時あたかも「(虚妄の)大学改革・教育改革」たけなわの時期、それはそれは、思うに任せない、長期にわたる断続的な読書でした。実際問題として、この合目的的な読書に私が心置きなく耽り、やがてその思想内容を自分流に咀嚼できたのは、定年退職後のここ2年余のことでした。

 世田谷市民大学で講義された項目⑷の基本は、山本と井沢の思想像の主体的摂取にもとづき、私の講義史上初めて構想されたものです。ここでは、とりわけ両人の提起する日本人の根本原理たる「日本教」が、換骨奪胎されて「日本人の『エートス』(マックス・ヴェーバー)」として再構成されました。
 

 この⑷に予想外の時間が注ぎ込まれたのは、はっきりしています、一つは私が今回の初の試みに対して用意周到な段取りを立てた時間管理―論点の優先順位に基づく時間の重点的な配分―を怠ったからであり、もう一つは私が元来「すべての歴史は現代の歴史である」(ベネデット・クローチェ)という思想的立場に立つ以上、いかなる日本の古代史の事象といえども、現代の現在的な視点に立って、具体性を損なうことなく批判的にとらえ返す必要があったからです。
 
 私は現に、「和」の話に関する講義中、まず前述の「十七条憲法」を話題化し、次いで「和の精神」=「話し合い教」に根差した現代的事例として「談合」を取り上げ、そしてその反対の「競争入札」との対比的説明も余儀なくされ、さらに「和」の文化が持つ「責任の所在が不明」という欠点を如実に物語るものとして、敗戦直後の東久邇稔彦首相の「一億総懺悔」論(1945年9月5日)、ひいては戦後日本の戦争責任論に説き及ぶ―こういった古代と現代を往還する作業を自らに課したのでした。
 この調子で事を進めていけば、結果は推して知るべしです。が、私は真剣に耳を傾ける受講性の受講態度にすっかり気をよくして、時間管理もどこ吹く風、次から次へと、まるで日本史全体を総点検するかのような言葉の数々を発しつづけました。

 私は話のリズムに乗りまくって、気分壮快に項目⑷を話し終えたのも束の間、今度は項目⑸にも講義2回をかけて、じっくりと取り組むことになりました。
 ⑸の「イザナキ-イザナミ」神話に関する講義は、⑷の「ケガレ」(≠「ヨゴレ」、日本人の一種の原始的な宗教感情)の話に相即して、イザナキ(男神)によるケガレを清めるためのミソギのありさまを問題化するものでした。
 『古事記』上巻の神話は、イザナキがイザナミ(女神)の願いである「見るなの禁止」(タブー)を破った自らの罪を不問に付したまま、ケガレ=不浄性(⇒「黄泉国」)を沐浴で「水に流す」ミソギにきゅうきゅうとし、清浄性(⇒「葦原中国」)を確保することに余念がない姿を伝えています。ここでは、何かにつけて「水に流す」という今でも日本人における最大の「美徳」の一つが語られ、タブーを犯した者に何らの罰も与えられず、タブーを犯された者が結局は排除されてしまう日本人独特の「価値倒錯的」構図が描かれています。
 そして、注意と関心を払うべきは、この禁を破った側の罪を問わない意識構造の問題がその後、日本の数多くの昔話(民話)―ex.「うぐいすの里」・「蛇女房」・「鶴の恩返し」、木下順二『夕鶴』(初演1949年)等々―に連綿と受け継がれてきたことです。
 
 私は講義⑸のレジュメ(受講生に配布)で、こう強調しました。
 「禁を犯したイザナキの罪をいわば〈原罪〉として受け止めないところに、日本人における罪悪感の本質がある(⇒他律的)。日本神話や昔話が象徴的に語るものは、深刻な問題を掘り下げずに表層の安定を継続する知恵=生活感覚にほかならない。その意味で、イザナキ的な行為性向は、日本人・日本文化としてのアイデンティティ―日本的美意識―にかかわりながら、一千年以上の長きにわたって日本的共同体の秩序を守る方法でありつづけた。しかし、この共同体としての日本の意識構造では、タブーを破った側の責任や罪悪感が曖昧になるとともに、〈きれいごと〉・〈見て見ぬふり〉・〈臭いものに蓋〉・〈言わぬが花〉などの問題状況が生み出され、ひいては何らかの差別感情の共謀―ex.ケガレとしての部落差別問題―にまで行き着かざるをえない。今日の日本人に今改めて必要なことは、一人一人が勇を鼓して、日本神話の原初の場面にまで立ち戻り、イザナキの罪を〈原罪〉として我が身一つに受け止め直すことであり、よってもって産みの痛みを伴う罪悪感に基づく真正の倫理観を形成することである(⇒自律的)。この過去と現在との倫理的な往還こそ、現代日本人が今後の国際社会の中で生きるために必要欠くべからざる条件・責務である。」
 
 私はこの日本神話が秘める問題点―日本人の倫理的な精神構造の問題性―を、さらに⑸の終盤で、一層具体的に浮き彫りにしました。一つは西洋の源流たる古代ギリシアの「オルペウス-エウリュディケー」神話と比較対照(類似点と相違点)することによって、もう一つは本年6月に米国ミシガン州アナーバーで観た初めてのアルゼンチン映画「瞳の奥の秘密」の思想内容(人生上の過去と現在との緊張関係下で積極的に生き抜く人間力の壮烈さ!)を紹介することによって。
 (ついでに言うと、映画「瞳の奥の秘密」は、2010年度・第82回アカデミー賞「最優秀外国語映画賞」を受賞した話題作です。本作は日本では8月14日から公開され、世田谷市民大学に近い「下高井戸シネマ」では11月下旬に上映されました。11月11日の講義⑸に触発された受講生3人(女性)は、下高井戸シネマで上映中の本作を鑑賞して、私にこう語ってくれました。「人間の生き方を深く考えさせる、凄い映画でした!」)

 このようにして項目⑷と⑸がやっと完了して、はたと気がつけば、講義回数は残すところ4回のみ、これにはさすがに私としても慌てました、焦りました。
 私はとりあえず講義の2回を項目⑹⑺⑻⑼に、残り2回を項目⑽⑾に割り当てながら、文字通りキーワード→キーポイントに絞って、必死の気魄で講義をやりくりしました。そして、12月9日午前11時かっきりに(正確には3分ほどオーバーか)、辛うじてゴールイン―課題全11項目にわたる全12回の講義の仕事をやり終えました。
 とはいえ、そこには閑却できない問題がありました。
 第一に、講義が絞りに絞った論点に即して猛スピードで進められたため、受講生が総じて消化不良を起こした可能性が大きいこと。
 第二に、⑹⑺⑻⑼については基本的に、現実の社会的・歴史的な事件に関する話が多かったため、何とか受講生の理解の範囲に収まったものの、少なくとも項目⑻の「日本のナショナリズムの問題」については、明治7年の「台湾出兵」の話のみに限定されたため、日本の海外への「進出・ナショナリズム」の態様⇒日本人の国家主義的・集団主義的性格を考える講義内容としては不十分の謗りを免れないこと。
 第三に、⑽⑾における高度に専門的な西洋哲学の諸思想を、しかも私の「日本人」論的文脈下でとらえ返されたそれを、どれほど勘所を押さえたところで、2回の講義程度で能事終われりとするのは、とうてい神経の行き届いた仕事ぶりとはいえないこと。

 この第三の問題点を敷衍して述べます。
 項目⑽⑾の講義は、⑴~⑼における私の「日本&日本人」論―世界的・国際的な観点に立って相対化・客観化された―を踏まえながら、「日本社会に果たして近代的な個人は存在するのか」⇒「日本社会はいったい独立・平等・自由な市民の存在を前提とする市民社会であるのか」という問題意識のもとに進められました。
 私は⑽⑾のレジュメの冒頭に、こう記しました。
 「私たち日本人は今こそ、有史以来の『群れの思想』―平均的で一般的かつ概念的な世界の表象―から抜け出し、個的実在の足下の広がりにこだわる『個の思想』を確立し、<群れ>から<個>への自己変革を徹底的に遂行すべきである。
 人間が生きるとは、要するに普遍的な一般者としてではなく、他の誰とも代替不可能な一個の実在者(個別者)としてどう生きるかということである。真の人間的知性にほかならぬ『個の思想』を確立するためには最低限、次の諸点が了解されなければならない。
(ⅰ)人間はそれぞれ異なった、多様な個性を持つ、したがって独立した個々別々の存在である。
(ⅱ)人間は一人一人が全く異なるがゆえに、相互の尊厳と価値を認めあうべきである。
(ⅲ)各人は世界中で唯一無二、自分だけに与えられた<個>である以上、あらゆる可能性を追求して、敢然と未来に向けて自分自身を<投企>(サルトルの言うprojet、ハイデガーの言うEntwurf))し、豊かで多様な個性を全面的に(100%)開花させるべきである。
(ⅳ)『個の思想』は、いわゆる個人主義(インディヴィデュアリズム)(→利己主義→ミーイズム→自分病・<ふれあい恐怖>)とは一線を画する。個人主義という究極の『群れの思想』では、<群れ>の一員(平均人)としての平均的自我・平均的欲求が必ずや他の個体(他者)の欲求と競合し対立しあい、他者の自由を犠牲にする事態に立ち至る。しかし『個の思想』では、各人は一個の独立した<差異的存在>であり、決して他者の欲求と重複することがないから、他者を犠牲にすることなく、相互の差異を認めあい尊重しあって、相互補完的な連帯を推進するとともに、掛け替えのない自分独自の生き方を思う存分貫徹することができる。
(ⅴ)『個の思想』は人間の単なる主観的願望ではなく、今や社会生活上の現実的要求となるほどに、その実在的基盤(←産業構造の大転換)が1970年代後半以降の日本資本主義の動態的展開によって準備されてきている。」

 [ちなみに、前文中の(ⅴ)は、すでに項目⑼で論断された状況認識です。そこで確認された点はこうでした。―日本社会では、1973年の「石油ショック」以降、日本資本主義の大転換―産業構造(国内総生産GDPおよび労働人口)における第3次産業の比重の増大化―が進行し、やがて80年代半ばにいわゆる「消費社会」が現前しました。消費社会とは、個人の平均所得のうち50%以上を消費に充て、かつ、個人の全消費のうち50%以上を選択消費に充てる―生存に最低限必要な「必需消費」を必ずしも必要ではない(使わなければ使わなくてもいい)「選択消費」が上回る―という条件を満たす社会です。日本では、ついにアメリカ、西欧諸国と並んで、社会と個人生活の中心軸が生産と労働中心主義―食うために or ただ生きるために働く―のスタイルから非生産・非労働中心のスタイルへと変化し、個人的な「快楽」の追求⇒個人の自由で豊かな生活の追求を、人間の基本的な生き方の第一番目として承認する状況が生ずるにいたりました。]

 私は1960年代から70年代にかけて、殊に大学院時代をとおして、「個の思想」の地平を切り開く作業に打ち込みました。ここでは、何よりもヘーゲル→マルクスの思想の全体像に批判的検討が加えられた末にフォイエルバッハ(1804~72)の人間観(「受苦的⇒情熱的」)が掘り起こされるとともに、このフォイエルバッハ的<個>の思想を起点かつ基点とする私の思想的世界がだんだん形作られていきました。
 
 私はフォイエルバッハの<個>的立脚点に照らして、西洋哲学思想史を再構成しました。その結果、主要な哲学者・思想家が、広義の<個>の思想的系列に連なる者、<群れ>のそれに連なる者に大別されました。そして、項目⑽には前者のほぼ全員が、項目⑾には後者の一部・大物が、その名を連ねた次第です。
 しかし実際の講義では、彼ら計12人を取り上げる時間的余裕は全くなく、⑽については、フォイエルバッハの「受苦」の思想を中心に、キルケゴール(1813~55)の「単独者」・「例外者」・「主体的真理」の思想、ニーチェ(1844~1900)の「力への意志」・「超人」・「永遠回帰」の思想、ハイデガー(1889~1976)の「世界内存在」・「死への先駆的決意性」の思想をかいつまんで話し、「個の思想」の根本性格、とりわけ死生観の特性を浮き彫りにしました。そして⑾については、「群れの思想」の代表格としてヘーゲル(1770~1831)→マルクス(1818~83)の「個・即・類」・「人間=社会的諸関係総体」の思想的構えに焦点を当て、「個の思想」と際立って異なるゆえんを明らかにしました。
 

 私のレジュメ最終号「おわりに―個人的な補足」は、次のような文章(A)(B)で、本講義を締めくくりました。
(A)「暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの」(斎藤茂吉)
 人間の人生にとって、いかに「自分のために使う時間」が大切なことか!
 私たち―私および受講生の皆様―は、137億年におよぶ宇宙の歴史―地球の46億年の歴史―上、偶然にも20世紀半ばに至ってたった一度だけ与えられた生命です。しかも、これから後、宇宙の終焉まで、いや永遠に何事かを感じたり考えたりするチャンスに恵まれることは二度とありえません。にもかかわらず、このまま「公的なことや義務的なことのために」アクセク働き、いたずらに時を過ごして死んでしまうのだとしたら…、何というモッタイナイ話ではありませんか。いや、慚愧に焼きたてられる思いに取りつかれる人も多いことでしょう。
 究極するところ、私たち一人一人が根本的に問われるのは、日本民族の絶滅とか人類の滅亡よりも、「自分が死ぬ」事態こそ何にもまさる大事件であると如実に思い知ることができるかどうかなのです(「実在論者(realist)」vs.「唯名論者(nominalist)」)。
 あなたは「自分の(残された)時間」を確保し、終着としての「死」につねに向き合い、これまでの「人生」についてトコトン考えるべきである!「いま存在している私がまもなく死ぬ」というこの恐るべき謎をかたわらに押しやって、膨大な時間をこれとは別の「一般的なこと」にけっして費やすべきではない!
(B)本講義・全12回は、たちまちのうちに終了しました。私の意識の中を過ぎた時間は、まさに「須臾の間」、それだけ隅々まで力の充実した時間でした。
 ただし素直に反省すべきは、限られた時間内の講義に、日本文化を共時論的に再構築する私の年来の構想に誘導されるままに、余りにも多岐にわたる課題テーマを詰め込みすぎたことでした。
 受講生の皆様が本講義に触発されて、「特殊日本的エートス」の何かについて少しでも自分の頭を働かせ、哲学していただけたなら、私としては望外の喜びです。

 なお、本講義各項目に対する多くの受講生の「感想」を集約したところ、一番に注目と関心を集めた項目は⑸であり、次が⑷でした。この⑸と⑷に対して、ほとんどの受講生が津々たる興味を覚え、熱心に聞き耳をそばだてたことは間違いありません。しかし一方で、海外に長期間滞在した受講者数人から、⑶⑷⑻よりも、⑽と⑾に「もっと時間をかけるべき」との要望が寄せられたことも事実でした。
by tadyas2011 | 2010-12-18 00:00 | 安田塾以外