安田塾メッセージ№19      ある国際人

 皆様へ
                                   2010年11月13日 安田忠郎
                     岡倉天心のアジア主義

 既報(安田塾メッセージ№17)のとおり、私は10月17日、天心記念五浦美術館において、東郷登志子さんの講演「岡倉天心『The Book of Tea』のコード」を拝聴しました。
         ↓ 天心の六角堂 
a0200363_22525278.jpg 今回、私が彼女の講演内容から特に印象づけられたことは、❶彼女が英語をさわやかに発音し、流暢に話した点、❷天心が博覧強記の人であり、『茶の本』の執筆に当たって、万巻の読書にもとづく古今東西の思想を縦横に駆使している点でした。
 彼女は❷に関して、「暗示とは何か」→「暗示を言語化するためにとられた方法」→「枠組みに用いられた西洋の古典・文学」を順を追って説明し、天心の類まれな英語に込められた芸術的な意匠を解析しました。
 ここでは、次の点が最終的に確認されました。『茶の本』における「暗示を言語化する」手法はシェイクスピアの「概念のイコン化(イメージ化・言語化)」の強い影響下にあり、そして『茶の本』全体の思想的枠組みは『聖書』(特に『新約聖書』「マタイ伝」)、『老子』、仏教、「進化論」、シェイクスピアの英語(初期→後期の推移)等々によって設定されていること―。
 

 ところで、私はかねてから、岡倉天心(1863~1913)に特別な関心がありました。それは、「社会思想史」を専攻した学生時代をピークとして、以後も時に希薄化しながらも今日まで私の思想世界の底に命脈を保ってきました。その特別な関心は、次の2点に集約されます。
 
 (1)天心は幼少時代から英語を学び、母国語のように使いこなして、アメリカ世論を動かすほどの英語名人であった。彼の英語力と人柄をよく表わす(半ば伝説的な)エピソードがある。
 1904年、彼が弟子の横山大観らを伴って渡米した際のこと。一行が羽織・袴でボストンの街中を闊歩していたところ、アメリカ人の青年数人から冷やかし半分の声をかけられた。

 Which nese are you, Chinese or Japanese?
 「お前たちはどっちのニーズか。チャイニーズか、ジャパニーズか?」
 これに対して彼は、穏やかに、しかし即座に、こう流暢な英語で切り返した。
 We are Japanese gentlemen. But which kee are you, Yankee, Donkey or Monkey?
 「我々は日本の紳士です。ところで、そういうあなたがたこそ、どんなキーですか。ヤンキーですか、ドンキー(驢馬、馬鹿者)ですか、それともモンキーですか?」

 私はニューヨークに滞在するたびに、ニューヨーカーから今までに何度も“Are you a Chinese?”と聞かれたものです。そして、その段になると決まって、私は天心を幾分意識して“I'm a Japanese gentleman.” と応じながら、次に相手に向かって「日本という国がこの地球上の、どこにあるかご存じですか?」と発問しました。ところが残念ながら、コロンビア大学関係者はともかく、ほとんどの一般ニューヨーカーが日本の世界地図上の位置はおろか、日本という国の名称さえ知りませんでした。
 
 (2)彼は近代日本の思想史上、「アジア諸国が連帯し、西洋からアジア(東洋)を防衛することを目指した」思想、すなわち「アジア主義」思想の父と位置づけられている。
  彼の英文著書『The Ideals of the East with special reference to the art of Japan (東洋の理想)』(ロンドンで1903年に刊行)の冒頭の一節は、つとに有名である。          

 ASIA is one. The Himalayas divide, only to accentuate, two mighty civilisations, the
Chinese with its communism of Confucius, and the Indian with its individualism of the
Vedas. But not even the snowy barriers can interrupt for one moment that broad expanse of
love for the Ultimate and Universal, which is the common thought-inheritance of every
Asiatic race, enabling them to produce all the great religions of the world, and distinguishing
them from those maritime peoples of the Mediterranean and the Baltic, who love to dwell on
the Particular, and to search out the means, not the end, of life.

 「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明―孔子の共同主義をもつ中国文明とヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、両者をただ強調するだけのものとなって、相分かっている。しかし、この雪を頂く障壁といえども、究極普遍的なものを求める広大無辺な愛を、一瞬たりとも妨げることはできない。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、彼らをして世界のすべての大宗教を生み出さしめたものであり、また個別的なものに執着して、人生の目的ならぬ手段を探し出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族から、彼らを区別するところのものである。」

 『東洋の理想』では、インドの仏教や中国の倫理思想が日本の芸術・文化の歴史に総合されていることが文明史的に論じられ、侵略的な西洋近代文明に対する東洋的理想の復興と日本の使命が説かれる。天心の場合、近代日本を「西洋対日本」という図式で考えるのではなく、あくまでもアジア総体のあり方において日本を把握する。
 その意味で、天心の思想のキーワード「アジアは一つ」(「アジアの一体性」)は、彼の文明論的な認識の象徴にほかならない。しかし後に、時代の緊迫した状況下、この言葉は「アジア主義」の単刀直入な主張として尊重されるようになり、「大東亜共栄圏」を支える政治的なスローガンにもなった。

 私は学生時代この方、大雑把に単純化して言えば、岡倉天心を、アジア主義、つまり「欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した」興亜論(こうあろん)の思想的文脈に沿って、また福澤諭吉(1835~1901)を、「アジアを脱して欧米にならう」脱亜論(だつあろん)の思想的文脈に沿って、それぞれ読み分けてきました。
 もとより思想と現実とののっぴきならない相克の事態は本来、その種の単純化を許すものではありません。したがって、福澤vs.天心がしょせんは便宜的な分類にすぎないことを承知して言えば、世界における日本の現在は、福澤的脱亜論と天心的興亜論の両者の現代版が目まぐるしく交錯し、せめぎ合う状況下にあります。その意味で、21世紀のグローバル化の時代を迎えた私たち日本人は、今まさに幕末維新期以上の底深い crisis (分岐点=危機)に立たされていると言っても過言ではありません。

 ついでに言えば、「脱亜論」とは、もともと1885(明治18)年3月16日の新聞「時事新報」紙上に掲載された「無署名」の社説を指します。これが1933(昭和8)年に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に収録されたため、福澤諭吉が執筆した社説と一般に受け取られるようになりました。
 ここでは、「我日本ノ國土ハ亞細亞ノ東邊ニ在リト雖ドモ其國民ノ精神ハ既ニ亞細亞ノ固陋ヲ脫シテ西洋ノ文明ニ移リタリ」→「然ルニ爰ニ不幸ナルハ近隣ニ國アリ一ヲ支那ト云ヒ一ヲ朝鮮ト云フ」→「惡友ヲ親シム者ハ共ニ惡名ヲ免カル可ラズ」→「我ハ心ニ於テ亞細亞東方ノ惡友ヲ謝絶スルモノナリ」と主張され、日本国はアジア諸国との連帯は考えずに西洋近代文明を積極的に摂取し、西洋列強と同様の道を選択すべきだと結論づけられます。



 岡倉天心は明治期日本美術界のリーダーとして、また当時、屈指の国際人として盛名を馳せていました。彼は実際、日本の近代美術史上に揺るぎない地歩を占めています。
 しかし私の見るところ、問題は彼の思想上の情報戦略が独創的で発信力に富むとはいえ、以下に見られるとおり、思想のシステマティックな展開力に乏しく、思想のトータルな論理構造が脆弱であることです。
 まず問題点を端的に指摘すれば、彼には「社会科学」の視点が欠落していることです。
 
 社会認識の何たるかは、自然発生的⇒自然成長的な「社会的分業」の編成態をどう捉え返すかにあります。そして大事な点は、社会的分業の編成問題がそのままに歴史の「不可逆性」の問題と連動することです。たとえて言えば、自動車-運転手の時代を社会的な場面で駕籠-駕籠かきの時代に引き戻すことは不可能です。 
 この社会的分業の現代的な編成は、究極するところ資本(貨幣経済)による「文明化」の作用、ひいてはイマニュエル・ウォーラーステインのいう「近代世界システム」『The Modern World-System(近代世界システム)』第1巻・1974年、第2巻・1980年、第3巻・1989年)に帰結します。
 「近代世界システム」を否定・無視・軽視する思想は、どれほど「高邁な」理想を掲げようとも、必ずや画餅に帰します。世界の近・現代史上、「近代世界システム」に対する抵抗は、性懲りもなく幾度も試みられました。だが、その努力のことごとくが水泡に帰したことは歴史の証明するところです。
 
 この日本国でも、「ヨーロッパ的普遍主義」対「アジア的特殊性」の二元的構図のもと、後者による前者の「克服」というパターンがここぞという場面で、繰り返されてきました。その典型的な例が、太平洋戦争開戦後の伝説的に有名な「近代の超克」論であり、また最近台頭が著しい「東アジア共同体」構想です。
 
 1942(昭和17)年7月、雑誌「文学界」(文藝春秋社)で企画された座談会「近代の超克」は、明治期以降の日本文化に多大な影響を与えてきた西洋文化の総括と超克を標榜しました(内容は同誌の同年9月号・10月号に掲載)。
 そこに参加した各界の代表的「知識人」は13人、小林秀雄、亀井勝一郎、河上徹太郎、三好達治、西谷啓治、下村寅太郎ら、錚々たる顔ぶれでした。
 彼らは対米英開戦という時局のもと、「西洋対東洋」の対立軸に基づき、「アジア的共同体」による「西洋近代」の超克を宣言しました。しかし、社会科学―社会的集合力の冷厳な構造的理解―に一知半解で、実感信仰に身を任せる彼らは総じて、市井の熊公八公と見まがうばかりに、「超克」すべき「近代」の理解すらおぼつかない、思想的に無内容な発言に終始し、果ては「大東亜戦争」を「近代の超克」のための戦いと宣言し、「大東亜共栄圏」のイデオロギーを補填する役割を演じるにいたりました。

 昨今目を引く「東アジア共同体」構想は、あからさまに言えば、この「近代の超克」論の焼き直しです。
 それは、東アジア各国を統合したブロック経済によって、米国やEU(欧州連合)に対抗する地域共同体を成立させようとする構想です。ここでは基本的に、「グローバリズム」に対して「アジア的共同体」が対置され、東アジアの「地域経済ブロック化」が反グローバリゼーションの旗印の下に推進されることになります。

 翻って考えると、アジア主義・アジア的共同体における「アジア(亜細亜)」とは、いったい何を意味するのでしょうか。
 天心が「アジアは一つ」と高唱したとき、その言葉の意味内容はとりわけ1901年のインド体験(10ヶ月に及ぶ滞在)によって裏打ちされていました。彼はインド中部のアジャンタの石窟寺院壁画と法隆寺金堂壁画との類似性を見いだし、アジアの多様性を支えている文化圏の同一性(宗教の普遍的価値)―インドと日本の本質的一致性―を確信したのです。
 ところが、そのインドがイギリスの帝国主義に蹂躙され、インド民衆は自信を喪失し、誇るべき価値を失いつつあるではないか!瞬間、天心はインドの誇り⇒東洋の誇りの回復を願って、ASIA IS ONE ! と叫ばずにはいられませんでした。
 
 時代は、東洋が総じて欧米列強の植民地支配を受け、黄色人種が白色人種にいいように差別されていた状況下にありました。天心は未刊行の自筆草稿『東洋の目覚め』(1902年頃)において、その実態を胸の底から絞りだすような言葉で告発し、「アジアの兄弟姉妹」の覚醒を希求しています。
 
 「アジアの兄弟姉妹よ! 我々の父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。今や、東洋は衰退の同義語になり、その民は奴隷を意味している。」
 「ヨーロッパの栄光は、アジアの屈辱である!歴史の過程は、西洋と我々の避け難い敵対関係をもたらした歩みの記録である。」 
 「アジアの兄弟姉妹よ!我々は様々な理想の間を長い間さまよってきた。さあ,再び現実に目覚めようではないか。(中略)我々は結晶のような生活を誇りとして、互いに孤立してきた。さあ、共通の苦難という大洋の中で溶け合おうではないか。『黄禍』の幽霊は往々にして、西洋の罪悪感が作り上げたものであった。東洋の静かな凝視を『白禍』に向けようではないか。私は諸君に暴力を呼びかけているのではない。私は諸君の勇気に訴えているのであり、侵略を呼びかけているのではなく、その自覚を求めているのである。」

 こうして「正義の士」天心は義憤に駆られて、西洋の重圧をはね返すべく、「当為としてのアジア」を観念化し、アジアの諸国家・諸民族の連帯が「全一」に帰すべきことを謳い上げました。したがって、天心の「アジアは一つ」というスローガンが東洋=アジア全体を一種の「家族国家」・「運命共同体」とするイデオロギー的な有意味性を発信しつづけたこと、これは間違いありません。
 けれども、事はそれ以上でも、それ以下でもありません。

 そもそも「アジア」、さらには「ユーラシア」という地域は、実体的な統一体として存在してはいません。
 その中央部は生態学的に大づかみに言えば、遊牧民族と農耕民族との熾烈な争闘の歴史を積み重ねてきました。例えば、「中国」―この語は元来「地理的中心部」という意味である(『詩経』)―というアジア大陸の東部に広がる地域では、現代中国社会の中心の座を占める漢民族を始めとして、一時は中国全土を支配したモンゴルなど、様々な民族による全く異なる王朝の出現・滅亡・戦乱が繰り返されました。そこでは、遊牧民による攻撃・脅威から農耕文明を護るための軍事的な専制王朝(帝国)が築かれるとともに、農耕民と遊牧民とによる覇権争いとしての王朝の交替が次から次へと行われました。中国は長い間、まさに「天下あって国家なし」といえる状態が続いたのです。
 
 中国では大まかに言えば、殷(実在の確認されている最古の王朝)に始まり、周→春秋戦国時代→秦→漢(前漢→後漢)→三国(魏・蜀・呉)時代→晋(西晋→東晋)→五胡十六国時代→南北朝時代→隋→唐→五代十国時代→宋(北宋→南宋)→元→明→清と、目まぐるしい王朝の変遷をたどって、1912年に中華民国というアジア最初の「共和制国家」が、そして1949年に中華人民共和国という「社会主義国家」が組織されました。ちなみに言い添えると、1949年10月1日は、中華民国が台北に遷都した日であり、同時に中華人民共和国が建国された日であり、この日から両国の厄介で危うい関係がずるずると続き、今日にいたっています。
 
 瞠目すべきことに、各種民族が入り乱れて混沌とした中国で、「大東亜戦争」の余燼が冷めきらない、今から60年ほど前の1949年に、何と社会主義「国家」が誕生しました。この20世紀の一大事件は、珍事か、奇跡か、 はたまた19世紀半ば以降、中国が世界的な「主権国家」体制に組み込まれていく過程での必然の結果というべきか。いずれにせよ、当の国家なるものの内実が形成史的に不断に問われなければなりません。

 そして注視すべきことに、アジアという地理的空間の「辺境」に位置した日本の場合、基本的に遊牧民族と農耕民族との命がけの闘争の影響圏外にあり、アジア的停滞性を免れて、農業文明から工業文明への「近代化=西欧化」を自ら―幾多の曲折を経ながらも―、アジア諸国に先駆けて進めることができました。

 明治以降の日本は、この「アジアにおける近代化=文明化の先駆者」という一点に関わって、いわば「アジアにあってアジアではない」という歴史的刻印を帯びることになります。その結果、アジア主義は次第に「アジア連帯主義」の美名の下に、日本を頂点とする一種の「華夷秩序(中華⇔夷狄)」を目指すイデオロギーに変質していきます。
 もともと日本のアジア主義の志向するところは、「欧米の強暴を抑制する」アジア解放のためのアジア連帯でした。その意味で、日本とアジア諸国とが黄色人種どうしの心情的一体感にもとづき、「横並び」で協力しあう、単純かつ純粋な「アジア連帯主義」でした。
 だが、このアジア連帯論の大勢は、日本が近代化の遅れたアジア諸国に対する指導者意識をあらわにした途端、そして日清・日露戦争に勝利して「大国」化するほどに、形骸化・空洞化の一途をたどります。 ここでは、やがて日本のアジア大陸への膨張侵略論を旨とする「大アジア主義」が、ひいてはアジアの盟主たる日本の植民地支配を正当化する「東亜協同体」論→「大東亜共栄圏」構想が展開されるにいたりました。
 こうした日本のアジア観の問題上、忘れてならない点は、興亜論的アジア認識が結局、日本を近隣アジア諸国と別格と見なし、一種の「近代的」な性格を帯びるとともに、脱亜論的アジア認識と近接し、微妙に交錯するにいたったことです。

 岡倉天心のアジア主義―一見ロマン主義的なアジア連帯論―もまた、その思想的土壌自体に致命的な問題を抱えていました。
 彼は日露戦争もたけなわの1904年11月、『The Awakening of Japan (日本の目覚め)』をニューヨークで出版しました。この英文著書全体の結論に当たる最終章(第10章「日本と平和」)は、「日本・朝鮮」関係史について、偏見に満ちた臆断を下しています。

 「朝鮮半島はおそらく有史以前の時代には日本の領土の一部であったのだろう。朝鮮の考古学的遺物は、わが国の古代古墳から発見されるものとまったく同種類のものである。朝鮮語は今日でも、アジア諸言語のなかで最も私たちの言語と近い。わが国最古の神話では、皇祖天照大神の弟であるスサノオノミコトは朝鮮に移り住んだと伝えている。朝鮮の最初の王である檀君は、スサノオノミコトの子息であったと考える歴史家もいる。3世紀に神功皇后が現われ、多くの小独立王国の勃興ゆえに脅威にさらされるようになった支配権を再興するべく、朝鮮半島に進軍した。わが国の史書には、8世紀まで朝鮮半島における日本領の保護についての記述が数多く見られる。(後略)」

 ①古代朝鮮は日本の植民地である、②朝鮮の文化は日本から伝来したものである、③朝鮮の建国者は日本の皇祖神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の弟神「素戔鳴尊(すさのおのみこと)」の息子である(「日鮮同祖」論)―。
 同書では、この独善的な「朝鮮」観は、次のような熱烈な「神道・日本精神」信仰と表裏一体をなしています。

 「19世紀はじめに体系化された神道は、祖先崇拝の宗教であり、神代から伝わる古代の純正を崇拝する宗教である。その教えは、『日本民族古来の理想である簡素誠実の精神を固守すべし』『万世一系の天皇の親政に従うべし』『いまだその岸辺に異人の足跡の刻まれたことのない神聖な神の国、わが父祖の地のために身を捧げよ』というものである。」
 「歴史の黎明期以来、私たち日本人がつねに愛国心と天皇への忠誠心を抱き続けてきたことは、古来の理想に対する日本人の一貫性を示している。また、古代中国やインドの美術や習慣が、その発祥地では亡びてしまった今でも、わが国には保存されていることも、伝統を尊重する日本人の特質を余すところなく語るものである。」

 万世一系の天皇、神国、愛国心と忠誠心、伝統・国粋の尊重…。これでは、いわゆる「皇国史観」もいいところです。天心はイデオロギー的価値判断が極まる皇国史観をもって、「朝鮮史」像を縁取りました。
 
 一体なぜ、同書が日露戦争の真っ最中に、国際社会に向けて、執筆されたのでしょうか。この書の根本的な狙いは、欧米諸国―特に天心の「第二の祖国」たるアメリカと、当時同盟関係を結んでいたイギリス―に、日露戦争を戦う日本の戦争理由を、日本の朝鮮支配の正当化と絡めて説明することにありました。

 「いかなる敵国も、朝鮮半島を占領すれば、いとも簡単に日本に軍隊を投入できるだろう。朝鮮はまさに日本の心臓を狙って突きつけられた短剣のような位置にあるからだ。さらに、朝鮮と満州の独立は、日本民族存続のために、経済的にも必要なことである。増大し続けている人口を抱えるわが国が、朝鮮と満州の未開拓地に合法的なそのはけ口を得ることができなければ、前途に待っているのは飢餓であるからだ。現在その地域にはロシア人が触手を伸ばしており、それに対抗できるのは私たちしかいないのである。このような状況下では、古代には日本の領土であった朝鮮は、私たちの正当な国防線の内側にあるものと見なさざるをえない。日本がやむなく1894年に清との戦闘状態に入ったのは、朝鮮半島の独立が清国によって脅かされたからであった。まったく同じ理由から、日本は1904年にロシアと戦ったのである。」

 彼の言わんとすることを、前述の①②③も加味してパラフレーズしてみましょう。
・日本は朝鮮半島の「独立」を大義名分として、日清戦争を戦ったし、また日露戦争をいま現に戦っている。
・日本が朝鮮半島の「独立」を確保しなければならないのは、同半島(+満州、「満鮮不可分論」参照)が「新生国家」日本―明治維新から三十数年後の揺籃期の「ネーション・ステート(国民国家)」―の存亡にかかわる、いわゆる「生命線」(=そのものの生存・存立のために絶対に守らなくてならない限界点)にほかならないからである。
・「元来」朝鮮半島は、古代日本の植民地として日本の領土(属国・属領)である。この点、もう一歩踏み込んで言えば、日本と朝鮮は太古の昔から「同祖」、近親の一体不可分性のもとにあり、したがって「元来」二国ならぬ同種同文の一域=一国である。
・支那(清)→ロシアが朝鮮半島―日本の元来の領土(同祖同文の一域)、かつ、日本の「生命線」―の「存立」を脅かした以上、日本が日清戦争→日露戦争を開戦することは理の当然であり、また日本が同半島を統治下に置き、日本人の中に朝鮮人を―その独自性を否定して―包括・吸収することは必然的な成り行きである。

 一体全体、この立論は、どういうことでしょうか。 
 
 天心は世上に評判が高い人物です。彼を評して、人々は「日本文化を世界に発信した最初の国際人」、「リアルタイムの著作で世界に通用した明治人」、「博引旁証に優れた博覧強記の教養人」、「日本を代表する国際的大知識人」などと賞賛しています。ある論者にいたっては、「スケールの大きい、日本人としての誇りと美意識を兼ね備え、世界情勢を冷静に見つめる大局観を持った」人物、といった最大級の賛辞さえ呈しています(『日本の目覚め』、入交雅道「解説」〈PHP研究所、2004年〉参照)。 
 
 が、しかし事実上、彼はファナティックな国学的「日鮮同祖論」に組し、日本の朝鮮支配の忌まわしい「合理化」(=もっともらしい理由づけ)を図りました。何というテイタラクか、歴史事象を恣意的に解釈し、いわゆる「世界の一等国」たる大日本帝国の膨張に好都合な屁理屈をこじつけるとは!その場しのぎの牽強付会の説を振り回すようでは、「国際人」・「教養人」・「知識人」の名が泣くというものです。
 

 天心の思想の核心をなす命題は、「アジアは一つ」でした。そこでの「一つ」の意味内容は、「一つであるべきこと」(当為)として要請されたものであり、そしてそのようなものとして彼の年来の熱望・悲願の集中的表現にほかなりません。
 ところが、彼の思想は抜き差しならない自家撞着に陥りました。なぜなら、彼自ら「アジアは一つ」の大理念を物ともせず、「日鮮同祖」論および「生命線」論を掲げて、つまり現実の歴史的・政治的・経済的・軍事的な視点から、日本の朝鮮支配の「正当性根拠」を強弁・捏造するにいたったからです。
 彼の「高尚な」思想の全体像は、この論理矛盾の重みで自己崩壊しました。
 

 私に言わせると、彼における思想構造上の最大の問題点は、「アジアは一つであるべき」という要請そのものが、さしたる実在的根拠のない永遠の幻想にすぎなかったことにあります。
 たんなる幻想的理念(夢物語)では、現実の政治経済的・権力支配的な容赦のない物象力に圧倒され翻弄されるのが落ちです。彼の場合、現に具体的な特殊問題に踏み込み、国家論や政治論や社会的実践論を企てた途端、その「見果てぬ夢」が空中分解するとともに、その「社会政治的・実践的」帰結が当時の戦時体制下のイデオローグ(アジア主義的歴史学者+国体論者+神ががり的人間)のそれと寸分違わぬものとなりました。
 誤解を恐れず言えば、彼は「アジアは一つであるべき」というガランドウの幻想世界に安住したとき、悲喜劇を演じる善意きわまるドン・キホーテでありました。だが、「帝国主義」勃興期の、魑魅魍魎が跋扈する、脚下の日本的現実に振り回されたとき、彼は大日本帝国体制の狂言回しかプロパガンディストでありました。ハムレットならぬドン・キホーテである場合は、時に歴史変革の頂門の一針、痛切な刺激的要因たりえても、主役ならぬ狂言回しかプロパガンディストである場合は、ただ虚しく歴史の大海の藻屑と消えるばかりです。

 この10月17日、私は天心が瞑想に耽った六角堂から風光明媚な五浦海岸を見やりながら、また旧天心邸に隣接する「亜細亜は一なり」の堅牢な石碑を見つめながら、ある思いを胸の内で何度も反芻しました。 
 そもそも「国際人」とは何か、「日本の国際化」とは何か、「プリンシプル(物事を判断するための原則)を持った日本人」とは何か…、と。
by tadyas2011 | 2010-11-13 00:00 | 安田塾以外 | Trackback | Comments(0)
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