安田塾メッセージ№12      ある講演会

 皆様へ
                                   2010年7月20日 安田忠郎
             「夜回り先生」の惻々(そくそく)たる言葉
 

 私は7月14日に「第60回『社会を明るくする運動』記念講演会」(会場:武蔵野公会堂)に出席しました。
 主催者:「社会を明るくする運動」(略称「社明運動」)武蔵野市推進委員会(27構成団体)、記念講演:「あした笑顔になあれ」、講師:水谷修(みずたに・おさむ)―。
 この「社明運動」、何とその開始が昭和24(1949)年とのこと。私としては、その奮った呼称の意味合いが分かったものの、もともと無味乾燥な儀式を思わせる「お役所」的記念講演会自体にさしたる興味はありませんでした。ところが、今回の講師の名前と講演のタイトルを知って、私の第六感が働いたのです。

 10年ほど前だったか、ある大学生が私に向かって発問しました。「『夜回り先生』って知っていますか?」
 私は「いや、知らない、それは誰だ?」と応じると、彼いわく、「深夜パトロールをしながら若者たちと向き合っている教師ですよ。今は、社会からドロップアウトし、夜の街をさまよう若者が多いんだな…。」
 

 私は彼の話に聞き耳をたてながら、なぜか唐突に思ったものでした。「夜の街」というが、水谷某がパトロールするそれには、私がかつて見知った東京のドヤ街「山谷」や横浜の暗黒街「黄金町」や川崎の風俗街「南町」などが含まれるのだろうか、と。それらは昭和37年、北海道札幌から勇躍上京した私が初めて遭遇した貧民窟、初めて手ひどく思い知らされた窮乏のどん底でした。
 私は一学生によって水谷修(以下Mと略)の存在を知らされてから、その著書を2冊、折に触れて一読しました。そして、「闇の教員」の捨身の生きざまに、なるほどと感心した次第です。「夜の世界」で10代から20代前半の若者と触れ合いながら、非行防止と更生、薬物汚染防止に体を張りつづけてきたことが、まざまざと分かりました。

 私は過去の印象を思い起こし、Mによる1時間30分の講演を、忙しい日程をやりくりして拝聴しました。
 彼の講演には、いくら語っても満座300人ばかりを飽きさせない力がありました。ここでは19年にわたる悪戦苦闘の体験知=実践知から導かれる豊かな典型例が、時折ユーモアも交えた巧みな語り口で活写されました。
 我自らの現場にまみれた実践知の強みは、等身大の具体性をもって他者に働きかけ、言々肺腑を衝くことができる点にあります。 
 

 もっとも、現実を具体的な構造総体として把握する私にとって、彼の著書⇒講演は全容的にはいささか物足りなく、隔靴掻痒の感が否めません。彼の思考回路には、「昼の世界」vs.「夜の世界」、「子ども」vs.「大人」の2領域に分別しながら、事の正邪善悪を問う単純な二元的構図が垣間見えます。これでは下手をすると、前者と後者の緊張した相互関係を見失い、安直な通俗的イデオロギーに堕する恐れがあります。 
 

 とはいえ、現時点の私としては、彼の論理構造の問題点をあげつらい、その秀抜な実践躬行の価値を不当に貶めるつもりは毛頭ありません。
 彼は満員の聴衆に向かって、誠意と熱のこもった言葉を矢継ぎ早に発しつづけました。「僕にできるのは子どもたちに寄り添い共に生きること!」、「心ある大人が、子どものそばにいて喜怒哀楽を共に感じてやってほしい!」、「大人は子どもとしっかり向き合うべきだ!」、「親や教師が愛し、守ってやれば子どもは変わる!」、等々と。
 この子どもを想うひたぶるな態度に、誰がいったい難癖を付けることができましょうか。子どもにひたすら同行する彼の、あくまで毅然とした姿勢と覚悟に横槍を入れるとしたら、それは品性下劣な振る舞いとして難詰されるのが落ちでしょう。
 彼の話し言葉には、聴衆の関心と注意を、そして何よりも想像力を喚起する力がありました。一驚すべきことに、彼がリストカットや薬物中毒の子ども、さらには自殺という悲劇的な末路を迎えた子どもを語ったとき、かなりの数の女性が忍び泣きに泣きはじめたのです。
 実は、当日の出席者は大半が女子でした。男子にいたっては、多分その2割にも満たなかったように思います。
 私はふと、左右の隣席に座る二人の40代とおぼしき女性の目頭にうっすらと涙がにじんでいることに気づきました。そして慌てて周囲を見渡したところ、何と多数の女性がハンカチか手の甲でそっと目頭を押さえているではありませんか。瞬間、私は会場の一種異様に静まり返った雰囲気から、会衆の男子を含むほぼ全員が声に出して泣きこそしないものの、声を殺して泣いていたか、泣きたいような思いを噛みしめていたかと、いち早く推し量るとともに、その悲しみの深さを思いやったのでした。
 参会者は今日的状況下の若者たちが「心を病む」状態を、とても他人事とは思えなかったのです。彼らはMの刺激的な言葉によって想像力が促された結果、「他者」の苦しみに対する一種の心情的な共感が誘発されました。
 ただし、彼らの多くはもしかして、問題の若者の悲痛な呻きに、家族か親族か友人知人の何某の具体的な病態をオーバーラップさせながら、講演の劇的展開に固唾をのんで聞き入っていたのかもしれません。だとすれば、涙を誘う物悲しい話に触発されて、総じて彼らは根本的に、裸の親近感を覚える断ち切りがたい特別な個人の苦しみを分かち合いながら、現に目に涙を浮かべたり、心に涙を呑んだりしたのでしょう。
 

 ここには人間の存在構造上、難問が待ち構えています。つまり、彼らの悲しみの流露たる涙の結晶作用では、カタルシス(心の浄化)を生みだしはしても、はたして第三者的「他者」の計り知れない苦しみ・切なさを「我が事」として受け止めることができるでしょうか(「一人称⇔三人称」的存在構造)。そもそも彼ら(特に圧倒的多数を占める彼女ら)の「一人称的」悲嘆の涙は、例のヨン様(ペ・ヨンジュン)にようやく出会って感激のあまり嬉し泣きに泣くオバサンの「一人称的」甘美な涙と、どう質的に異なるのでしょうか。
 

 しかし、そうは言っても、彼らのほとんどが特定の「苦しむ人」の瞬時の共感的な理解者として、内的な自己変革(精神革命)のとば口に立ったことは間違いありません。彼らは定めし、Mの講演を聴き終わった瞬間、暗闇に一条の光芒を見出し、彼との運命的な出会いを天に向かって感謝したい思いにとらわれたことでしょう。

 ところで、私自身はMの講演の初めから終わりまで、涙する行為一切(涙を光らせること・押しぬぐうこと・こらえること)と無縁でいました。話に身じろぎもせずに耳をそばだてていました。ところが、彼が「若者の自殺」に言及したとき、思いがけなく私の個人的な過去の記憶―二人の自殺した青年の面影がありありと私の脳裏によみがえってきたのです。

 ・坂間真人(さかま・まさと)-私の学友で同憂の士。1974年に学者(大学教師)をめざしてドイツに自費留学、しかし「心身症」を患い帰国直後の76年に自殺。享年28歳。
 ・深井幸泰(ふかい・ゆきやす)-私の甥で同心の友。大学卒業直後の1984年に建築家をめざしてイタリアに公費留学、しかし「心身症」を患い2年後に帰国、何とか身を持ちこたえてきたものの、94年に自殺。享年35歳。
 真人の自殺、幸泰の自殺に直面した私は、それぞれ30代前半の私、50代前半の私でした。どちらのケースでも、私は「何ということだ、何ということだ!」と絶叫しました。「かわいそうに、追いつめられて…」とつぶやきました。そして、私は全身がわなわなと震え、行き場のない苦しみと悲しみに襲われたものでした。落涙とどめ難し、やがて喪失感が私の胸をえぐりました…。
 

 私は確信します。人生とは人と人の出会いである、と。人間は出会いをとおして、人間の意味、世界の意味を発見する。同時にまた、出会いのあとには、二人の心の傷跡が悲しく残る。人間が生きるとは、この出会いにまつわる悦びと苦しみをゆっくり噛みしめながら、一歩一歩を確実に踏みしめていくことである、と。
 

 それにしても、Mの言葉の数々は臨場感と緊迫感に満ちていました。彼はパワーポイントも文書資料も一切使わずに、手垢にまみれた実践知がもたらす、凛として力強い言葉を駆使することに一意専心しました。この強い喚起力を備えた彼の言葉にあずかって、まさしく私の想像力→記憶がかき立てられ、亡き友の在りし面影が「痛み」をもって呼び起こされるにいたったものです。



 Mの講演内容を敷衍して述べます。
 彼は1980年代後半のバブル景気のころ、「夜徘徊する子どもたち」-暴走族、非行少年、買春される子、家出少年、コンビニ等でただボンヤリするだけの子などに、関心を向けました。
 ところが、1990年代に入ってバブル崩壊が始まると、彼の関心の対象は「夜眠れない子どもたち」に移行していきます。自殺願望・リストカット・OD(オーバードーズ:薬の過剰摂取)・いじめ・不登校・ひきこもり等々-各種要因は個別的にして相互依存的である-で、夜も昼も間断なく不眠に苦しむ子どもたちが大量に、彼の眼前に現われ出ました。

 注目すべきことに例えば、いま明瞭な動機のない、あいまいな自殺願望を持つ若者が増えています。彼らは「この人生はいつも不安に満ちている」→「生きづらい人生は終わってしまってもいい」→「とりあえず生きているけど、もう死んでもいい、死んだ方が楽になれそう」→「消えたい」、「死にたい」といった心的傾向下にあります。
 また、「リストカット」(略称「リスカ」)。10代から20代にかけての若者-特に女性が多い-は、なぜ自分の手首(まれに脚や足の甲、顔・腕・腹部など)をカッターや剃刀で切るにいたるのか。注意すべきことに、この自傷行為は「死ぬためにやる」ものではなく、「生きるためにやる」ものなのです。
 彼らは自分の体を傷つけ、さいなむことによって、生きている自分を実感します。真っ赤な血が流れてはじめて、自分自身を確認でき、ほっと気持ちが楽になり、胸苦しい不安が一時的に消える…。自分の血の一滴一滴を見ているときだけ、彼らは自分が自分でいられるのです。
 Mによれば、現下の日本国で、リストカットは若者の間で伝染病のごとく伝染し、その自傷者の実数が何と百万人の大台を超えたとのこと。

 この国は今や深い所で病んでいます。
 この昨今の子どもをめぐる問題状況を、1970年後半以降今日まで噴出しつづける、いわゆる「教育病理・学校病理」現象に重ね合わせるとき、危機的な状況がいっそう見えてきます。
 すなわち、家庭内暴力→校内暴力・対教師暴力→いじめ・不登校・高校中退→授業崩壊・学級崩壊の経過をたどって、主として「学校⇔子ども」問題が深刻度を深めるとともに、「夜の街を徘徊する子どもたち」→「夜眠れない子どもたち」の破滅的な事態が日一日とはっきりしてきました。そこでは子どもの心(内的自然)の「抑圧」状態が次第に険悪化し、その抑圧感の高まりにいたっては、いよいよ来るべきときが来たのです。
 

 現下の日本国の最大の危機は、明日の時代を担う特に10代~20代の若者が精神的に疲労困憊している事態にあります。
 はたして、学校教師はこの今日的なのっぴきならない状況下で、どう生きるべきであり、何を行うべきでしょうか。まじめで、まともな教師なら、子どもとの関係の結び方で、これまでに何度も非力を嘆き、惨めな無力感にとらわれたに違いありません。
 
 

 Mはこの問いに対して、どこまでも教育の原点に立った真剣な言葉で、こう応えます。
 「教師という仕事は、一人の人間として子どもたちと関わり、明日を開く仕事です。先生のお蔭で人生間違えたとなったら、大変なわけで、人生を左右する仕事の責任は重い。私は子どもが好きで心配だから、当たり前のことをやっているだけです。すべての子どもには花の種があります。言葉でなく心でつながっていけば、必ず花が咲きます。私は子どもから種を見つけるのが仕事だと思っています。
 私は先生にもよく問います。『生徒を褒めた数とけなした数、今までどちらが多いですか?』と。けなした数が多い先生はすぐに辞めるべきです。子どもたちは褒めることで自信を持つし、目を輝かせて学ぼうとします。ところが日本の教育現場では、幼稚園から小中高と行くにしたがって子どもの笑顔が減り、目が死んでいくのです。子どもと向き合い、その子の持っている良いところや価値に気づかせ、責任ある生き方をするよう指導してほしいと切に思います。」
 

 それは、彼の精魂が傾けられた実践知が紡ぎだすところの説得性に富む言葉でした。
 教師諸君、否、大人諸君!私としては、この彼の生きた言葉が皆様の五臓六腑にしみじみと染み渡るよう願ってやみません。
by tadyas2011 | 2010-07-20 00:00 | 安田塾以外 | Trackback | Comments(0)
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