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安田塾メッセージ№21      第7回安田塾の事後報告

 皆様へ
                                   2011年1月4日 安田忠郎   
                    第7回安田塾を終えて 

▲ 第7回安田塾(2010.10.30)の例会では、最初に私が「日本人とは何か―私の炭鉱時代に出会った上司の生き方・死に方について―」と題して、40分ばかりのお話をしました。
 それは一人の「日本人」男子―私の「北炭幌内炭鉱(ほくたん・ほろないたんこう)」時代の忘れがたい上司・政安裕良(まさやす・ひろよし、1924.4.8~97.12.24)―の「実存的決断」にかかわる生き方・死に方の問題についてでした。

 彼は1994年に総胆管癌で手術後、余命いくばくもないことを悟り、「一体自分の一生は何だったのだろうかと、自ら振り返って考える縁として、過去の日記を繙き、其の当時に何を考え、何をやって来たのかを、もう一度良く考え直してみたいと思いた」ち、96年に回顧録『帰らざる小径』を、98年―死の直後―に続編『帰らざる小径(短歌編)』を自費出版しました(関係者に配布)。
 その回顧録の「あとがき」には、「人生齢72歳、今会社勤めも完全に終わって、わが来し方をふり返って見ると、人生漠々として、自分は一体何の為に、何をやって生きて来たのか、甚だ懐疑的にならざるをえない。今はこちらからでは無くて、死の方から着々と自分に近づいて来ている様な、その足音が聞こえてくる今日この頃である。」と記されています。

 彼は東京帝国大学経済学部を卒業し、「炭鉱マンにあらずば人にあらず」の時代に「北炭」に入社した「優秀な」企業人でした。1968年7月、同社の幌内炭鉱(1879年開拓使、開坑→高島炭鉱、三池炭鉱に次ぐ巨大炭鉱に発展)で、24歳の新入社員の私は、44歳の労務課長の彼と初めて出会いました。

    ↓ 1968年4月 幌内炭鉱 入坑直前                  ↓ 同年6月 出坑直後
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 彼は私の以後の人生行路上、折につけて私の運命を左右する重要な鍵を握る人物でした。とはいえ、彼は難局に当たって、私とは決定的に異なる態度を取る人間でした。
 

 二人の間に劇的な葛藤が生じたのは、1981(昭和56)年10月16日に発生した北炭夕張新炭鉱の「ガス突出事故」をめぐってのことです。彼と私は、以前に相前後して同社を退社していたにもかかわらず、連携を取りながら、93名もが死亡したこの大事件の背後に潜む問題を剔抉することを余儀なくされました。ところが、両者が一種の「限界状況」に追い込まれるにつれ、両者間の亀裂が深まり、両者の死生観および現状認識の根本的な違いが浮き彫りになりました。
 問題は彼が炭鉱という死に付きまとわれた世界をどう体感し把握したかです。彼の一生では結局のところ「死への先駆的覚悟性」(ハイデガー)とは無縁で、死ぬまでの一個の人生をいかに輝かせるかの視点が欠落していました。彼は実際上、ここを先途と闘う場面でも、生きる場のシガラミにとらわれるあまり、事の不正・欠陥を主体的に暴きだすことに逡巡し、及び腰になりつづけました。
 要するに、彼の生のたたずまいは、いわゆる「場の空気」に自らの意志決定を拘束された、したがって自律の心を失い、自由な批判精神が欠如した思考様式・行動様式に終始するものでした。

 政安裕良とは何者か。ありていに言えば、彼はいわゆる「日本人」の一典型でした。一般に日本人は人前に出たときに「私」が消えるといわれます。これは主体としての自己主張[ex.「我思う、ゆえに我在り」(デカルト)]がいかに脆弱であるかを物語るものです。彼は土壇場に立たされたとき、この国際的に認知された「日本人」類型を地で行くような歩みをたどりました。
 

 [ちなみに、1982年10月14日に北炭夕張新炭鉱が閉山→87年10月9日に北炭真谷地炭鉱が閉山→89(平成元)年9月29日に北炭幌内炭鉱が閉山→95年3月18日に北炭空知炭鉱が閉山。結果、1889(明治22)年に創立された北海道炭礦鉄道会社→(1906年に改称して)北海道炭礦汽船株式会社(通称「北炭」)は、ついに106年にわたる生命を閉じるにいたりました。]
 

 1997年も押し詰まって、彼の死の報がもたらされたとき、喪失感と寂寥感が不意に私を襲いました。何か心にポッカリ穴があいたような空虚感でもありました。
 やがて翌年に入って、私は勇を鼓して、彼の死に正面から向かい合う決意を固めました。以来、十数年、私は彼との交流にまつわる悲喜こもごもの思いを噛みしめ続けるとともに、「日本および日本人とは何か」、「日本文化のアイデンティティとは何か」という私の年来の問題意識を駆り立て続けてきたのでした。

▲ 引き続き、元中学教師で現在アートディーラーの伊藤仁(いとう・ひとし)さんが約2時間、「公立学校の実態―中学教師から美術商へ―」と題するお話をしました。
 彼はビデオや写真を多用しながら、(1)過去19年間の「教師」生活を振り返り、(2)ここ6年間の「美術商」生活を描写しました。

 彼は1986年3月に武蔵工大を卒業後、東京都大田区立大森第四中学校→品川区立鈴ヶ森中学校→港区立朝日中学校→台東区立桜橋中学校に勤務しました。
 (1)では、当の4校での実地検証にもとづく「中学教員の実務と研修」、「教員・生徒・保護者の実態」が具体的に例示・説明されました。個々の問題として、特に「ふれあい教育」、「ゼロ・トレランス(zero tolerance、不寛容)」、「学級崩壊」、「モンスターぺアレント」、「パワーハラスメント」などが参会者の関心を集めました。

 彼は2004年10月、桜橋中学校を退職し、Gallery p_prince collection を起業、現在にいたっています。
 (2)では、「美術品の真贋」にかかわる「美術品市場の裏表」、オークションのありようが赤裸々に語られました。ゴッホ(1853~90)の作品「ある男の肖像画」(オーストラリア・メルボルンのビクトリア州立美術館所蔵)の「真贋鑑定」問題など、興味深い話題がはずみました。
 彼の次の言葉が参会者の耳朶を打ちました。「美術品を売買するには、作品そのものをしっかり見る眼がなくてはいけない。あくまで自分が気に入って、納得した値段で購入すべきであり、利殖や投機目的で美術品には手を出さない方が無難である。たとえ無名作家や作者不詳の絵画でも、素晴らしい作品はある。ゴッホの作品だって、生前はたった1枚しか売れなかった!大金で贋作をつかまされるよりも、自分の感性にフィットした、かけがえのない作品を手に入れるのが一番である。」

 ところで、伊藤さんが教師→美術商の各職業の仕事内容を個別的に語りつづけ、終盤に及んだとき、単刀直入な質問が投げかけられました。「なぜ学校教師を辞めて、美術商になったのか!?」
 それは安田塾に今回初めて参加した、写真家の松田敦(まつだ・つとむ)さんによる、ずばりと核心を衝く直言でした。
 伊藤さんはこれに対して、「今の教師には自由がない!」と言い放ちながら、今日の学校教育の「管理体制」に対する批判的な立場を押し出しました―。

 人間の有限な生にとって職業とは、いかなるものでしょうか。人間は生き生きと精一杯生きようとするかぎり、必然的にロマンとリアリティーを兼ね備えた起伏の多い人生を歩むにいたります。この理想と現実のギリギリの接点を形成する場の一つが、社会的分業の一環としての職業にほかなりません。
 実存的な「職業の選択⇒変更の自由」が意味するところは、さすらいの旅人たる「個」が生活感覚のリアルさと理念的方向性のせめぎ合いで、自由意志の発露たる旅路をたどって、飽かず旅寝の宿りと渡世のなりわいを探し求めつづけることです。

 

 この職業における働くことの内実について、20世紀最大の思想家の一人であるハンナ・アーレント(1906~75)の知見に即して一考してみます。
 アーレントによれば、人間の活動力の基本的要素は「労働(labor)」と「仕事(work)」と「行為(action)」の三つであり、労働が「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」(生命を維持するための、やらざるを得ないからやる活動)であり、仕事が「人間存在の非自然性に対応する活動力」(自己実現的な、やりたいからやる活動)であり、行為が「ものや物質の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力」(言論による草の根の政治活動)である(『人間の条件』1958年)。
 私はかつて過酷な炭坑労働に身をもってまみれ、やがて逃走(≠逃避)した者として、ユダヤ人女性政治哲学者である彼女の場合、なぜに人間の「活動的生活」を構成する労働・仕事・行為という三つの能力に注目し、個々の特殊的意義を強調するにいたったのか、それが痛いほどよく分かります。
 彼女はナチスのユダヤ人迫害を逃れてドイツから1933年にフランスに、次いで1940年にアメリカに亡命しました。そして1951年、この自らを襲った「全体主義」の衝撃を命がけで受け止めながら、現代の記念碑的著作『全体主義の起源』を著わし、ナチスドイツやスターリン統治下のソ連で、いかにして「人間をまったく無用にするようなシステム」である全体主義が形成されたかを徹底的に分析しました。
 彼女は主張しています。問題の根本は、「労働」の優位のもと、「仕事」と「行為」が人間的意味を失った近代以降、とりわけ第1次世界大戦の終わりとともに「国民国家」と「階級社会」が崩壊し、「大衆社会」(人々の政治的無関心=現実逃避の傾向が強まる社会)が到来したことにある、と。
 そこでは、アトム化した大衆の根無し草の混沌の中から、テロとイデオロギーによる恐るべき政治現象としての全体主義が制度化されていきました―。

 最近、日本では「ワーク・ライフ・バランス」が声高に叫ばれています。それは、やりがいのある仕事と充実した私生活を両立させる社会への変革をめざすものです。
 この点、私たちは今や、彼女アーレントのいう労働・仕事・行為、さらには「遊び」(cf.ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』1938年)の多面的な視点に立って、身過ぎ世過ぎとしての職業の全容をとらえ直し再構成しなければなりません。
 そこでは、労働主義―労働を人生の第一義とする風潮―から解放された、緊張と余裕、秩序と自由の間を繰り返し行き来する自己実現的な活動を基底的な了解とする職業観がことのほか重要となります。

 伊藤さんの、松田さんへの応答内容には、裸の魂の脈動を感じさせるものがありました。自己実現をめざして、自分を奮い立たせるための「個」の実存的エネルギーが発露した結果、彼は教師→美術商という職業変更に踏み切りました。
 (ちなみに言い添えると、「自己実現(self-realization)」とは元々は心理学用語で、「個人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」を意味する。)