2011年9月1日 安田忠郎
         学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(3)

【急】 月のない闇夜
                                                 

 私立学校法はこう謳っています。
 第1条:「この法律は、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによつて、私立学校の健全な発達を図ることを目的とする。」第2条第3項:「この法律において『私立学校』とは、学校法人の設置する学校をいう。」第3条:「この法律において『学校法人』とは、私立学校の設置を目的として、この法律の定めるところにより設立される法人をいう。」
 戦後の私立学校法が戦前の私立学校令(明治32年勅令)―同令によって私学が国家の教育政策の強い統制下に置かれる―と際立って異なるところは、私立学校を自主的かつ公共的なものとした点、また私立学校の設置者を学校法人とした点です。
 以下、この「自主性」および「公共性」の視点から、「五島育英会-武蔵工大」論を展開することにします。
 

 [Ⅰ] 私学の自主性
 私学の「自主性」とは何か。この私学の基本理念は、「教育の自由」の理念と密接な相関関係にある。
 例えば、国公立と違って、私学には「宗教教育の自由」がある。これは私学における「教育の自由」の理念の一つの表われにほかならない。「建学の精神」を掲げる私学教育では、私人の教育的信念―自主独立の精神―に立脚する教育が尊重される。[cf.(新)教育基本法第15条第2項:「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」]
 

(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題 
 私学の自主性は理念上、私学特有の「建学の精神」と相即不離の関係にある。
 【育英会】の中核校・武蔵工大の場合、建学の精神として、注目すべき標語、すなわち「公正・自由・自治」が掲げられている。
 一体、この校是は、どういう背景のもとで形づくられたのだろうか。『武蔵工業大学五十年史』(1980年)によれば、それは1929(昭和4)年の「武蔵高等工科学校」創設当時、「生徒たちの真摯にして切実な要望と、その熱意に動かされた創立者たちの純粋な愛情と誠意にもとづいて生まれたものである」。
 
 武蔵高等工科学校の創立にいたるまでの経緯は、「きわめて特異な事例」であるといわれる。同上書に従って、その経緯と校是の中身を要約してみよう。
 ♦ 同校はいかにして開校にこぎつけたか。
 1929年5月ごろ、東京高等工商学校(27年設立、芝浦工業大学の前身)の生徒たちが学校側に対して、授業の充実など幾つかの改善要求を出して同盟休校に入る。→しかし、該校は生徒の要求を受け入れないばかりか、約10名の責任者を放校処分とする。→多数の一般生徒はやむなく、該校に退学届を提出する。→生徒のリーダーらは大勢の向学心に燃えた仲間たちの再就学を図って奔走する。→彼らは該校の非常勤講師に慶應義塾大学(以下、慶大)の教授が多かったことから、その関係をたどって、慶大法学部教授の及川恒忠に、「自分たちが安心して勉学できる学び舎をあらたに造りたい」と訴える。→「理想家肌で純な人柄」の及川は、「生徒たちの熱望もだしがたく」、親友で実業家(慶大卒)の西村有作(昭和工船漁業株式会社代表取締役)に働きかけ、彼と相携えて事を進める。→結局、及川、西村、さらに同じ慶大出身の手塚猛昌(東洋印刷株式会社社長)を加えて、3人の連名で、東京府知事宛てに武蔵高等工科学校の設立を申請、同年9月12日付けで認可を得る。
 ♦ 同校の校是はいかにして作られ、その由来はいかがなものか。
 及川恒忠は元来、慶応義塾の建学の精神=<独立自尊>を重視するとともに、中国学者として、当時の中国における「蒋介石の国民革命」⇒その「国民精神昂揚のためのモットー」である「礼儀・廉恥(節操高く恥を知ること)」に関心を寄せていた。そこで彼は最初、問題の校是を<独立自尊>と「礼儀・廉恥」を結び付けて、「自由・廉恥」とするつもりであったが、「これではむづかしいというので『自由・公正・自治』を創造」するにいたった。
 及川は自ら「公正」に関して、こう述べている(抄出)。「『志ある者は事つひに成る』とは千古不滅の真理であり、我々の志とは公正なる人格の陶冶と優秀なる工業技術の修得とにある。我々は最大の努力(最少の努力ではない)を以て最大の効果を挙ぐべく協力奮闘したい。誠の公正は自身のポケットからも出来る丈け多くを出すと同時に他人のポケットからも出来る丈け多くのものを受けるといふことであらねばならない。」
 また、慶大出身で時事新報記者として活躍後、及川に起用され、同校教務主任となった打村鉱三は、「自治」と「自由」と「公正」について、こう解説している(抄出)。
 「学校は諸君の自治・自由を慫慂する。完全に、正確に自治的であってほしい。真の自由を心ゆくばかり享楽するがいい。自由は放縦乱暴、勝手気儘を意味しない。真に自由なる人は先づ真に自尊の人であらねばならぬ。自尊とは畢竟、廉恥即ち恥を知ることである。自ら自己を恥ぢることを知って居る人にしてはじめて自由たり得る。恥を知れ!正義公正こそ我等の心境であらねばならぬ。明るい、態度の鮮明な、少しも卑屈なところのない、きたならしい気持のない、自由無礙な学生こそ本校の学生である。一番いけないことは、根性のきたならしいことである。暗さを持った心である。」 
 さらに、この校是作りに参与した当時の生徒たちの代表・宮尾薫は、こう語っている(抄出)。
 「前の学校では自由がなかったので、私たちのつくった学校は自由に学べるところにしよう。公正とは、世間に恥じない道を歩いてもらいたいということです。そう私たちが要望したことを及川先生に理論づけるというか体系づけていただいたんです。」(1977年6月「学校創立時の座談会」)

 武蔵高等工科学校が若者(退学者)の尽きぬ向学心と向上心を原動力として誕生したこと、これは日本の学校史上画期をなす出来事である。しかし、そこに発揚された「建学の精神」の思想内容については、注意が必要である。[註:同校の「建学の理念」の立脚点を考えるにしても、もともと史料自体が乏しく、同上の『五十年史』にしても―『75年史』(2005年)にいたっては一層そうであるが―筆者の概念規定がアイマイで、毒にも薬にもならない文章が多く、結局のところ上述の私の要約から推論するのがせいぜいである。]
 同校の創立に直接関わった者は、生徒を除くと、及川をはじめ、すべて慶大関係者である。だから、彼らが福澤諭吉の<独立自尊>という言葉を知らないはずはない。それは何しろ、福澤の人となりを端的に示すものとされ、また福澤の教えの根本を言い表すものともされる言葉である。
 しかし大事な点は、彼らがその名句を単なる「知識」段階を超えて、認識し哲学して、わがものとしているかである。私の個人史に照らすと、慶大出身者には予想外に福澤精神に一知半解の徒が多いことも確かである。 
 問題にすべきは、彼らが公正・自由・自治について、公正⇒廉恥、自由⇒自尊⇒廉恥ととらえ、「廉恥(れんち)」を軸として解釈している点である。
 
 周知のとおり、「廉恥」(心が清らかで、恥を知る心が強いこと)⇒「廉恥心」(清らかで恥を知る心)は、日本古来の―より正確に言えば、中国の儒教(孔子・孟子)に端を発する―、日本人の伝統的な美徳とされている。では、その「恥(はじ・チ)」―耳を赤らめて心で恥じるの意(偏が耳、旁が心)―とは何か。
 それは簡単に言うと、人前で「恥ずかしい」思いをすることによって、その思いを二度としないように振る舞おうとする一種の行為規範である。恥ずかしいという感情は元来、当人の自己評価が対人関係のなかで相対的に低下し⇒自尊心が損なわれる状況下で生じる。この「羞恥心」はそのままに、人の笑い物になったり、世評が悪化するのを心配する気持ちと結び付く。ここではしたがって、人の目による批評が社会的な行為―社会規範への適応―を方向づける上で大きな規制力をもち、人の噂や嘲笑を恐れる余り、恥をかかないようにしようとする意識―「恥を知れ!」―に転化されるにいたる。
 この「恥」意識の脈絡上、私はただちに、アメリカの文化人類学者・ルース・ベネディクト(Ruth Benedict、1887~1948)の古典的名著『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword、1946年)を想起する。アメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である同書では、日本文化が西洋文化の対極の位置に置かれ、後者が内的な良心を意識する「罪の文化」、前者が外的な批判を意識する「恥の文化」と定義された。
 私はさしあたり、この「罪の文化guilty culture」vs.「恥の文化shame culture」という「文化の型(pattern≠type・類型)」の当否を問うつもりはない。しかし、ベネディクトによる、「恥」という日本文化固有の価値の分析自体は、見事な仕事ぶりとして評価する。
 「恥は他の人々の批評に対する反応である。他人から公然とあざけ笑われ、値打ちがないといわれるか、あるいは、あざけられたと思い込むか、そのいずれかによって、人は恥辱を被る。どちらの場合でも、恥はよく効く道徳的拘束となる。だが、それには、実際に人前のことであるか、それとも少なくとも人前でのことだと思い込むか、といった条件が必要である」(同書)。

 恥の感覚(廉恥心)は根本的に、自己の行動に対する世評に気を配ることであり、したがって他者の判断を基準にして自己の行動の方針を定めることである。この行為基準の外在性の問題は、武蔵高等工科学校の校是に即して、(前述のとおり)宮尾薫によって明言されていた。すなわち、「公正」とは「世間に恥じない道を歩いてもらいたい」ことである、と。
 日本人は古来、特に青少年の教育[躾(しつけ)]に当たって、「笑われるぞ」・「名が汚れるぞ」・「恥ずかしくないのか」などという説教を垂れてきた。これが要するに、世間に顔向けできない、世間様に対して申し訳がないといった、世間体を慮っての説教であることははっきりしている。
 この、いわゆる「世間」こそ、【序】で論及された「歴史的・伝統的システム」にほかならない。ここで立ち入った再論は割愛して、歴史学者の阿部謹也(1935~2006)による日本独特の「世間」―フッサール現象学の「生活世界」概念のとらえ返し―に関する優れた考察の一端を紹介しておきたい。
 
 「『世間』とは人を取り巻く人間関係の枠であり、現在と過去に付き合った全ての人々、将来付き合うであろう人を含んでいる。原則として日本人だけであり、外国人は含まれない。『世間』には贈与・互報の原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性という特徴がある。(中略)そのほか『世間』には生者だけでなく死者も含まれていることを忘れてはならない。さらに『世間』は自律した西欧的な個人を主体とする関係ではなく、呪術的な関係を含んでおり、一人一人の人間は『世間』のなかでは全体と密接な関係をもって生きている」(『日本人の歴史意識』岩波新書、2004年)。
 「『世間』とはパーソナルな人的な関係で、いわば個人と個人が結びついているネットワークであり…、その人が利害関係を通じて世界と持っている、いわば絆である…」(『日本社会で生きるということ』朝日新聞社、1999年、抄出)。
 「日本の社会はあらゆるところに『世間』が作られている。私たちは皆その『世間』の中で生きており、その『世間』が私たちの行動を最終的に判定する機関となっている。どのような会社にも官庁にも、新聞社にもあるいは警察署にも『世間』は作られており、『世間』に属していない人は一人もいない。それは冠婚葬祭のすべてにわたって私たちの行動を規定している。…『世間』は差別的で排他的な性格をもっている。仲間以外の者に対しては厳しいのである。現在の日本の社会においても『世間』は厳然として存在しており、どのような組織にもそれがある。自分がどの『世間』に属しているのかを知らない者はいない。しかも『世間』には序列があり、その序列を守らない者は厳しい対応を受ける。それは表立っての処遇ではないが、隠微な形で排除される。それぞれの個人はその『世間』の中で自分の位置を守るべく努力しているのであって、出世とはいわないまでも落ちこぼれないように頑張っているのである」、「わが国の個人は西欧と異なって直接社会を構成しているわけではない。個人と社会の間には『世間』があり、それが個人の行動を規制している」(『学問と「世間」』岩波新書、2001年)。
 「共同体と『世間』は互いにあいいれない概念であるかにみえる。しかし『世間』はいわば浮遊する共同体ともいうべきもので、ここでも我が国における個人のあり方が反映されている」(『「教養」とは何か』講談社現代新書、1997年)。

(ⅱ) <独立自尊>の問題 
 武蔵高等工科学校の創始者一同、慶大関係者&若者たちは究極するところ、自己の行為の基準を「世間」共同態という他者の側に求めている。(註:「共同体」と言えば、村落共同体を連想し、地縁・血縁で結合した何か固い実体的なものを想定しがちである。これに対して、私はもっと個人と個人との流動的で相互作用的なネットワークとしての「準拠集団」の意味を込めて、「共同態」の語を使用する。)
 では、慶應義塾の本元・創設者の福澤諭吉(1835~1901)、彼の代表的な言葉で戒名(「大観院独立自尊居士」)にも用いられた言葉<独立自尊>には、どういう思想内容が盛り込まれているのだろうか。
 福澤は教訓集『修身要領』(慶應義塾編纂、1900年「時事新報」に発表)において、<独立自尊>の人を、「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの」(第2条)と定義し、個人→家族→国民→国家の順でそれぞれの<独立自尊>を省察している。彼はまた、当時の大ベストセラー『学問のすすめ』(1872~76年)において、一身の独立を、「自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきをいう」と定義し、独立の価値の重要性に照らして、「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者は次第にこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる『習い、性となる』とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり」(第三編)と喝破している。
 
 そもそも福澤の思想世界には、「一身独立して一国独立する」という命題がある。
 『学問のすすめ』はこう述べている。「自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり」、「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈(ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず」(初編)。
 福澤の場合、西洋文明の基底をなす人間(一身)および国家(一国)の「自由独立」が正確に受け止められており、その思想的な構えは「一身独立→一国独立」であり、この逆の「一国独立→一身独立」ではない。「わが日本国中も今より学問に志し気力を慥(たし)かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり」(第三編)。
 ただし現実問題として、この福澤における、「一身(一国を構成する個人)独立」→「一国(国際社会を構成する当事国)独立」の命題では、彼の後期の文章・作品におけるほど、前者(一身独立)に対する後者(一国独立)の優位が主張されていく。彼は1880年代に入って、当時の日本を取り巻く国際情勢が逼迫する―ヨーロッパ帝国主義が怒涛のように押し寄せる―につれ、対外強硬論⇒軍備拡張論に説き及んでいる(cf.「東洋の政略果して如何せん」1882年)。
では、福澤の思想は「一国独立→一身独立」に変貌を遂げたのだろうか。彼は国家主義者に成り果て、「民権」の伸長を含む国内の「近代化」こそ対外的独立の前提条件とする年来の思想を、無造作に脱ぎ捨てたのだろうか。
 慎重に考慮すべきは、彼の対外強硬策が重大な国際危機を切り抜けるための戦術であり、その限りにおいて彼の政治上の状況判断にもとづく応急処置にすぎないことである。したがってまた、彼の「一身独立→一国独立」という、根源的な「人間⇒教育」観に立脚した論理構造が確固とした揺るぎない思想的構えにほかならないことである。
 彼の「一身独立→一国独立」(より具体的にいえば、「一身独立→一家独立→一国独立→天下独立」)の原理は、一にかかって、人間個人の「独立自尊」を推進する教育に支えられている。
 彼は『学問のすすめ』のなかで、おぞましい官尊民卑の風潮を嘆じながら―「みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居るの道を知らざる」(第四編)―、日本人の一人一人が<独立自尊>の精神を身に付けるように、教育―私学・慶應義塾に拠った独自の在野的教育活動―に力を尽くすと、高らかに宣言する。
 「わが国の文明を進めてその独立を維持するは、ひとり政府の能くするところに非ず、また今の洋学者流も(おおむね、みな官途につき-引用者)依頼するに足らず、必ずわが輩の任ずるところにして、先ず我より事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、またかの洋学者流のために先駆してその向かう所を示さざるべからず」(第四編)。
 そして、この「独立自尊」の思想的地平から、彼の『文明教育論』(1889年)では、教育そのものがいわゆる「発育」の思想としてとらえ返されるとともに、学校教育が知識・技術の詰め込みに陥いる事態が警告されている。
 「学校は人に物を教うる所にあらず。唯その天資の発達を妨げずして能く之を発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしく之を発育と称すべきなり」。
 「いたずらに難字を解し、文字を書くのみにて、さらに物の役に立たず、教師の苦心はわずかにこの活字引(いきじびき)と写字器械とを製造するにとどまりて、世に無用の人物を増したるのみ」。

 福澤はこうして、「人を束縛してひとり心配を求むる」教育(『学問のすすめ』第三編)―子供たちを学校に縛り付け、知識・技術をやみくもに注入する教育⇒「教育の国家主義」―と断然決別し、「人を放ちてともに苦楽を与(とも)にする」教育(同)―子供たちを自由にして、一緒に学び合いながら、一人一人の子供の学習過程(「発育」)を援助する教育⇒「教育の民主主義」(ジョン・デューイ)―に全力を傾倒する。
 
 彼は言明している、国家があって人間⇒教育があるのではなく、人間⇒教育があって国家がある、と。
 「発育」としての教育は、人間一人一人―上下貴賎・老若男女を問わず―の生涯にわたる問題である。ここではせんじ詰めれば、個々の人間が<独立自尊>の体現者―自分で学問=思想=哲学し、自分で「口に言ふのみにあらず躬行実践」(福澤「慶應義塾の目的」1896年)し、そして自分の国をどこへ持っていくかも、自分の責任において決定できる人間―になったときはじめて、「一身の独立自尊→一国の独立自尊」の論理が現前し、「全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくない」(福澤『福翁自伝』1899年)状況下、個人的自由⇒国民的独立⇒国際的平等が実現する。
 「地球上立国の数少なからずして、各(おのおの)その宗教、言語、習俗を殊にすと雖も、其国人は等しく是れ同類の人間なれば、之と交(まじわ)るには苟(いやしく)軽重厚薄の別ある可らず。独り自ら尊大にして他国人を蔑視するは、独立自尊の旨に反するものなり」(前掲『修身要領』第26条)。

● 以上に見られる通り、慶應義塾と武蔵高等工科学校⇒武蔵工大とでは、建学の精神に関して、一見似てはいるが、本質的には―理念的構えの取り方の点で―大きく異なる。これまで長い間、後者の校是は前者のそれの直接的な影響下にあると巷間に流布されてきたものの、両者における理念・思想の出発点の地平が質的に異なる点が注視されなければならない。
 <独立自尊>の精神では根底的に、人間の行為の基準が内在的⇒「一身の独立」[官(公)vs.民(私)]という自己(個)の生き方を問う「自己」志向性にある。 
 「公正・自由・自治」の精神では根底的に、人間の行為の基準が外在的⇒「世間」という官なり公なりを何かしら含有する共同態に組み込まれた「他者」志向性にある。[ちなみに、日中戦争(「支那事変」)から太平洋戦争(「大東亜戦争」)にかけての一時期、校是の一つである「自由」が除去され、「剛健」がこれに代わっている点が注目される。]
                                   2011年8月15日 安田忠郎
           学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(2)

【破】 自由からの逃走 
 

 そもそも学校法人・五島育英会(以下、文脈上許せば【育英会】ないし【法人】)とは、どのような組織体なのでしょうか。 
 武蔵工業大学(以下、文脈上許せば武蔵工大ないし工大)に28年間(1980.4~2008.3)在職し、その弊風の改革に努力しつづけた私は、結論的に断言してはばかりません。【育英会】は青少年の「教育」―可能態から現実態」への転化―という「公共性」の高い重要な仕事を行うにふさわしい「学校法人」ではない、と。
 私は長い間、【育英会】という組織の体質を、「大学・学校・教育・学問とは何か」の視点に立って、批判的・構造的にとらえ返しつづけてきました。その全面的批判の開陳は他日に譲ることにし、ここでは次のような組織上の根本的な問題点を4点指摘するにとどめます。それらは【育英会】のあり方を突きつめて考えようとするとき、けっして外してはならない、相互に連関する重大なポイントにほかなりません。
 

 (1)【法人】[1955年設立、創設者(初代理事長)・五島慶太]は、「東急グループ」―東急電鉄(創業者・五島慶太)を中核とする266社9法人(2010年3月末現在)からなる企業グループ―に属する1社である。
 [ちなみに、東京急行電鉄株式会社(公式略称は「東急電鉄」、1922年設立の目黒蒲田電鉄に始まる)は、東急グループ内外を問わず東急グループの事業中核会社として認識されており、「東急本社」・「電鉄本社」と表現されることが多い。]

 問題は【法人】が歴史的に東急電鉄の支配・影響下に置かれ、前者の「理事長」人事―「理事長は、学校法人を代表し、その業務を総理する」[私立学校法(1949年)第37条第1項]―にしても後者に管掌され、現に後者の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい点である。
 (註:【法人】の役員人事の場合、理事長だけでなく、専務理事および常務理事も、多少の例外はあるものの、東急電鉄or東急グループOBの指定席に成り果てている。)

 (2)【法人】の運営する学校群で中枢に位置する学校は、武蔵工大⇒東京都市大学である。
 [ちなみに、工大⇒東京都市大学は、武蔵高等工科学校に端を発する。すなわち、1929年「武蔵高等工科学校」(各種学校)を開校→42年「武蔵高等工業学校」(専門学校)へ昇格→44年「武蔵工業専門学校」へ改称→49年「武蔵工業大学」(新制大学)を開設→2009年工大が「東横学園女子短期大学」(1956年【法人】が設立)を統合して「東京都市大学」と改称。] 
 
 問題は工大の「学長」人事―「学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する」[学校教育法(1947年)第92条第3項]―の実権を、【法人】(理事長←東急電鉄)が手中に収めている点である。
 
 ところで、大学は―私立大学といえども―、単なる会社(営利社団法人)ではない。いやしくも学校教育法で、こう規定された存在である。「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第83条第1項)、「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする」(同第2項)。[cf.(新)教育基本法(2006年)第7条:「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」]
 そして、戦後日本の「民主主義」下の大学は、何しろ日本国憲法(1946年公布・翌年施行)によって「学問の自由」(第23条)⇒「大学の自治」⇒「教授会の自治」が保障された組織体である。 
 「学問の自由(アカデミック・フリーダム)」は、現代民主主義社会における基本的人権の一つである。そこには、具体的に「研究の自由」・「研究発表の自由」・「教育ないし教授の自由」が含まれる。そしてその延長上に当然、主たる学問の場である「大学の自由」、また「大学の自由」を保障するための組織原則である「大学の自治」、さらには「教授会の自治」が含まれる。

 【法人】は一応、工大の「学長」人事に対して、「民主主義」的選挙としての体裁を取り繕う。
 そこでは、3年ごとの学長「選」に際して「学長候補者推薦委員会」が立ち上げられる。同委員会は〖大学側〗委員=「教授会」の代表者と、【非・大学側】委員=「理事会」の代表者+「評議員会」の代表者で構成され、「合議」の結果、学長候補者1or2名を選出する。
 そして、【法人】の「理事会」―「学校法人の業務を決し、理事の職務の執行を監督する」(私立学校法第36条第2項)―では、同委員会において推薦された学長候補者から学長を選定し、理事長がこれを任命する。 
 
 これは一見すると、工大側の「総意」を何らか汲み上げた方策のように思われる。
 だが、問題の根は深い。注意すべきは、同委員会を構成する【非・大学側】委員と〖大学側〗委員の量的関係において―絶対数自体に歴史的変遷はあっても―、前者が後者より相対的に多いという点である。同委員会では、前者の後者に対する数的優勢が常態化しているため、総じて前者の思惑どおりに事が運ぶことになる。
 【非・大学側】委員(「理事会」・「評議員会」の互選による代表者)とは誰か。彼らは【法人】(←東急電鉄)の「特殊意思」(=組織的利益)の体現者―具体的には、工大以外の【育英会】ないし東急グループの関係者―にほかならない。同委員会の席上、彼らは結局、その特殊的組織益にかなう「学長候補者」を選出することに汲々とする。
 そもそも【法人】の意思決定機関たる理事会および評議員会では、その数的構成が工大教員よりも東急グループ主要企業の役員・OBが圧倒的に多い以上、「衆議」自体の必然的帰結が見え見えである。  
 
 〖大学側〗委員にとって、学長選(同委員会→理事会)の帰趨する所は明白である。誰が学長になるかは分かっている―。この、とんでもない、否、滑稽きわまる事態に直面して、彼らはどのような態度を取るにいたるか。
 彼らは総じて―全教授の互選投票でどういう顔ぶれがそろうかは時代状況に左右されるとはいえ―、この茶番に組するか、はたまた反発するかに分かれる。「偽装民主主義」に依拠する同委員会において、彼らの多くは諦めムードに包まれて、【非・大学側】委員(=育英会の特殊意思)に妥協する・擦り寄る・馴れ合う者であり、彼らの一部はごく少数ながら、大学の理念ないし「一般意思」(ルソー)にこだわり、【非・大学側】委員に負け戦を百も承知で反抗し、ぎりぎりまで挑戦する者である。

 (3)【育英会】には教員、事務員、そして「技術職(員)」(技術員)が存在する。ここでは、事務員のありようを問題視したい。
 【育英会】に採用・雇用された事務員は、【法人】事務局(本部)および傘下校(「東京都市大学グループ」+東急自動車学校)事務局・事務室に配置される。2011年度現在、【育英会】全体の専任事務員は計約230余名、その内、【法人】事務員が約40名、大学事務員が約150名(ほぼ半数が女子、cf.大学専任教員計260余名)である。(ちなみに、同年度の専任技術員は計110余名であり、その約50名が東京都市大学、約60名が東急自動車学校に所属する。)
 憂うべき問題は、【育英会】における全事務部門が「人材」に乏しく、中でも幹部事務員に「力量」不足も甚だしい者が多い点である。

● 大学の事務員に関して、私は学生時代の忘れがたい思い出話のワンシーンに触れてみたい。
 1967年5月の在りし日のこと、私たち大学4年生数人(慶應大学経済学部ゼミ仲間)は、ある飲み屋で、「就職」談議に花を咲かせた。時あたかも高度経済成長期であり、就職先がより取り自由の状況下、私たちは「1度しかない人生における身過ぎ世過ぎとは何か」をテーマに、談論風発に興じた。
 「会社に勤め、給料をもらい、メシを食うって、どういうこと?」、「「資本主義社会じゃ銀行なんかが一番安泰か」、「資本主義の弱肉強食の世界を駆けめぐってみたいね」、「今から定年時の退職金の計算しているオメデタイ野郎がいるぜ」、「名誉とか地位とか財産とかにとらわれない生き方って魅力的だ」、「フリーの一匹狼には作家生活なんてふさわしいのかな」、「すまじきものは宮仕えさ」等々。そしてさらに、次のような会話が消えがたく私の記憶に残った。
 学友N「大学(KEIO)で来年度、事務員を募集する話を知ってるか?」
 学友O「事務員は普通、高卒採用じゃないのか…」
 N 「高卒だけでなく、大卒も採用するとのことだ。」
 O「学校の事務屋に大卒が必要なのかね。だいたい、学校事務―学校事務員が行う事務―なんてのは、ルーチンワークの典型で発展性のない仕事だからな。KEIO卒で学校事務屋になるようなヤツは、それこそ『アホ』『おバカさん』だろうよ。」
 学友K「しかし、学校には会社に比べて、時間に余裕がある。特に大学には長い夏休みがあるしね。この時間を活用して心豊かに生活できれば、これ幸いだ。大学の事務員になる選択肢も軽視すべきではないよ。要は<生きることの核>さえ手放さなければ、どんな仕事に携わっても構わないだろう。」
 私「なるほど、ものは考えよう、どんな職業に就こうと結局は、自分の生き方の質が問われる。自分自身としては、<生の核>に生々しく迫る手応えのある生き方をいつまでも追求したいね。」
 学友H「僕にとって学校の事務員も教師も、全く興味のない職業だ。事務屋についてはOの話に共感するし、教師については論より証拠、これまで小中高をとおして魅力的な教師に出会ったことがなく、KEIOの教師にしても言行不一致のいい加減な連中が多すぎるし…。僕としては、ただ無目的に、惰性で生きたくはない。あくまで今の時代の最前線で活躍してみたい。資本主義が問題的な社会構成であろうと、この現実のただ中―例えば市場争奪戦―で自分の能力を最大限に発揮してみたい。」
 [ちなみに、前出の学友O=大野恒邇(私より4歳年長)はドイツで起業後に雨の朝パリに客死(60歳)、K=河上博昭(私より2歳年長)思想的流転の旅路をたどって頓死(52歳)、H=花渕節夫(私と同年齢)は銀行マンとしての立身出世の途上で急死(53歳)。あるいは人生朝露の如し、あるいは人生無上の愉快…。]

● 学校事務員は一般に、会計・給与・福利厚生・服務・文書・施設管理等々の事務を処理する。この学校事務は確かに―旧友Oが喝破したように―、基本的にルーチンワーク(日常的に繰り返される業務・作業)そのものであり、あらかじめ決められた段取りや流れに従えば、本来的に誰にでもなしうる仕事である。
 
 私はかつて北炭幌内炭鉱で、学校事務員と同様なルーチンワークに携わったことがある。1968年10月に同鉱「労務課」に配属された私は、「外勤」の職務―「部落」(炭住が集合する地域)管理―に励むかたわら、いっとき(同年12月~翌年1月)「内勤」の職務―給与・福利厚生・備品照合・労働協約手続き・官庁指定統計ほか―に一臂の力を貸した。
 私自身の同課「内勤」体験によれば、「ルーチンワーク」といわれる定期的な事務作業は、一種の「パターン認識」による、単調・平板・容易・退屈な仕事であり、初歩的な手ほどきさえあれば、(旧友Oの侮言どおり)どんな「アホ」・「おバカさん」でも、費やす時間の長短こそあれ、ほどよく処理・遂行することのできる仕事である。
 実際、当時の「内勤」専従者―社員13名(役職者を除く平社員)+鉱員6名―は押しなべて、該ルーチンワークを細大漏らさず、そつなく―自己流ににムダ・ムラ・ムリを無くす工夫を重ねながら―やりこなしたものである。 
 ただし、そこに1人の例外者Uがいた。彼は最終学歴が戦前の小学校卒で40台の鉱員である。彼は決まりきった日常の「社会保険」の事務でも、ややもすると思案投げ首で、惨憺たる苦心を払いつづけた。彼には、自らの本源的な「能力」(=物事を成し遂げることのできる各人の総合的な力)の何かが欠けていた。
 私はデスクワークの万事に悪戦苦闘する彼の様子を見かねて、つい何度となく手を貸した。彼は私の助力を受ける度に、こくんとお辞儀し、思わず知らず破顔一笑したものである。その瞬間の、純粋な善意に満ちた人懐こい屈託のない彼の笑顔が今も、くっきりと私の瞼に浮かんでやまない…。 
 ちなみに、当時の同課「内勤」員19名の学歴は、社員2名が大卒、残りの社員が高卒、鉱員が高卒or中卒or戦前の小卒[2名 (Uを含む)]である。そして、同課「外勤」 員計60名はすべて鉱員であり、彼らの学歴は高卒or中卒or戦前の小卒(約20名)である。また同課の役職者(内勤・外勤の総轄)の学歴は、M課長が東大経済学部卒(M=政安裕良のことは「安田塾メッセージ№21」を参照)、T課長代理が早大政経学部卒、K係長およびS係長が戦前の小卒(⇒実務家上がりの苦労人)である。
 なお、当時の私は同課の数少ない大卒の「新入社員」として、外勤と内勤の双方にまたがる労務本務を全うする「一従業員」であるとともに、どこまでも炭鉱現場の視点から、日本資本主義の原点たる石炭産業の本質を一心に追究する「一学徒」であった。

● 問題の【育英会】の事務員は一体、どのような力量の持ち主であるのか。彼ら事務員の面々は、問題のルーチンワークに対して、どういう態度を持し、どういう能力を発揮してきたのか。
 私は二十数年間、武蔵工大の一教師として、多くの「【育英会】-工大」事務員の言動をつぶさに見聞しつづけた結果、いたく思い知ったものである。彼らの能力の質では全般的な傾向として、当のルーチンワークを何とかやり遂げるだけで精一杯であり、仕事内容の「目的合理性」(マックス・ヴェーバー)⇒効率化を進める点にいたってはおよそ思案の外である、と。 
 彼らの学歴は、ごく少数が高卒ながら、女子がほとんど短大卒であり、男子がほとんど4年制大学卒である。私は時代状況が余りに異なるにせよ、彼らの学歴と炭鉱マンのそれを比較するとき、感情が複雑怪奇にねじ曲がり、名状しがたい感慨に浸る。 
 人間の成長・発展史上、「学歴」と「能力」が比例しないことは周知の事実である。学歴自体がより高まれば(小卒→中卒→高卒→短大卒→大卒)、それだけ総体的な能力もより高まるなどというのは、愚かな謬見以外の何物でもない。各人の人生行路上、決定的に重要な問題は、発達段階の折々の節目で、いかに伸びやかで瑞々しい感性を培かったかである。そして、素朴で素直な、あふれんばかりの好奇心(⇒知性と感性の相互促進化)をはぐくみつづけたかである。
  私は率直に問わざるをえない。果たして、彼らは尽きない可能性を秘めた青少年時代をとおして、多少なりとも夢にチャレンジし、想像力を飛翔させ、豊かな発想力⇒構想力を喚起しつづけただろうか。彼らは多感な青春の一時期に、またたく間の出来事であろうとも、遠大な理想を抱き、理想と現実のギャップに苦しみ、理想と現実の接点を探す努力を重ねただろうか、と。 

 工大時代の私は、彼ら学校事務員の生態を目を逸らさずに直視しつづけた。
 彼らは全体的に、視点―物事を考える立場―が余りに硬直化し、チャレンジ精神―困難な問題や未知の分野に立ち向かう意欲―が余りに阻喪し希薄化している。彼らは学校事務のルーチンワークに呪縛された、その意味での「タコツボ型人間」にほかならない。
 なぜに、彼らが実務のタコツボにはまり、そこから脱出できない状態下にあるのか。
 よって来たるゆえんは第一に、前述の通り、学校事務職に就く以前の彼らの生き方(広義の思想的たたずまい)が問題的である点である。
 私は彼らの、一事が万事杓子定規なやり方に呆れ返るとき、決まって、郷愁のように、炭鉱人(ヤマびと)の躍動する人間的たたずまいを思い起こしたものである。私が見知ったヤマびとは、一種異様な炭鉱世界(地上と地下の往還)の日常に封殺された自らの生そのものを、幼少時から豊かな現場感覚・生活感覚を鍛えつづけながら、また独自の時間意識に基づく死生観(感)→「自然-世界-宇宙」観(感)を紡ぎつづけながら、ひたすらに貪り、しぶとく生き抜いていた…。  
 第二に―これが第一より一層重大な事態を来たす点―、彼らを雇用したところの【育英会】⇒傘下各校という場がもともと「開かれた社会」(カール・ポパー『開かれた社会とその敵』)には程遠い点である。
 この点に関して、前掲(1)の「理事長」人事、(2)の「学長」人事のありさまが重要な示唆に富む。両人事が実質上、【法人】(←東急電鉄ないし東急グループ)の特殊意思によって壟断されつづけた事態こそ、そのままに【育英会】という組織の閉鎖性を物語っている。
 私は工大事務局幹部の口からよく聞かされたものである。「我々は言えない、言わない、言う必要がない」と。
 
 【育英会】(←東急電鉄)は、個々人の利害関係(地位・財産・名誉等⇔裸の自然的生)が絡む、したがって欺瞞(ニセモノ)をはらみ、虚飾(欺瞞をホンモノとして押し付ける手段)に満ちた、一種の「権力支配」の秩序である。そこは批判の自由―「批判はどのような手段で行ってもよい」―が許されない、権威主義に染まった「閉じられた社会」(ポパー)である。ここでは、各人が利害に生きている限り―例えば、オイシイ餌につられて、「もっと出世したい」・「もっと給与を弾んでくれ」・「もっと名誉が欲しい」という具合に―、自発的・心情的に、その権力支配の構造(掟=観念的価値形態)に参入せざるをえない(「強制された“自発的”心情」→もたれ合い)。
 【育英会】事務員各員は、どう生きようとするのか。彼らは果たして、「ニセの意識」が瀰漫する【育英会】ムラのシガラミを断ち切ることができるだろうか。「利害」共同体の大勢順応主義(コンフォーミズム)に組することなく、自分の「志操」を守り、「心に納得できないこと」をしないで済ますことができるだろうか。彼ら一人一人は実際に、「自分とは誰か」・「自分は何者か」という問いを立て、自分を見つめ、自分の立ち位置をはっきりさせることができるだろうか。容易ならざる重荷を背負い込む彼らの行く末やいかに―。

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                                   2011年8月5日 安田忠郎
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(1)

 私は「安田塾メッセージ」№30の最後に予告したように、№32~№36において、「学校法人・五島育英会」と対峙し、該組織の体質を対象化することにします。
 
 私の「武蔵工業大学」論は、これまで4回ばかり展開されました。
 ①論文「岐路に立つ武蔵工大―いま、なぜ大学改革なのか―」(『武蔵工業大学教育年報』第16号・2005年度版)。
 ②論文「『大学改革・日本改革』序説―日本と世界の関係の変化に即して―」(『武蔵工業大学教育年報』第17号・2006年度版)。
 ③論文「専門知と教養」(『武蔵工業大学教職課程研究年報』Vol.3、2008年3月)。
 ④講演「虚妄の大学改革―いわゆる文科系出身者が工学部長に就任して―」(第2回安田塾、2009年6月27日)。
 この①~③では、武蔵工大の、いわば待ったなしの問題状況が「大学改革・教育改革・学問改革」の視点から論述されました。そして④では、主として「武蔵工大」改革の現状が批判的に検討され、その延長線上で五島育英会の旧態依然とした体質―その場しのぎと場当たり主義―がいささか問題化されました。
 
 いずれにせよ、私は今回初めて、少なくとも文章上、五島育英会の組織構造上の問題点を本腰を入れて検討するものです。この批判的作業は、次のように進められます。
 初め()の構成部分では、私自身の過去との真の絆が探し出されます。そして、中()と終わり()の構成部分では、その「序」が受け止められながら、「五島育英会とは何か」という、私自身の体験に根ざした問いが立てられ、私自身の答えが導き出されます。
 なお、№32では【序】が、№33では【破】が、№34~36では【急】が扱われます。

【序】 過去との真の絆 
 

 翻って考えると、もともと私は武蔵工大の教職に就いて以来、大いなる問題意識を駆り立てつづけてきました。それは自らの≪生きる場≫で、いかに哲学するかという課題意識にほかなりません。
 この私の問題意識⇒課題意識は、大学生時代に芽生え、以後の炭鉱時代→大学院生時代にはぐくまれ、やがて諸種の非常勤講師を経て、武蔵工大専任講師に就任した時分に(1980年)、一段と活性化しました。
 そして早々に、私はこの自ら開いた思想的境地の意味合いを具体的に明確化する劇的な場面に出くわしました。それは、私にとって夢寐(むび)にも忘れられない凄惨な「大事件」に関わる、旧友Sとの再会の場面でした。 
 

 1981年9月25日、私は自らの炭鉱体験を総体的にとらえ返した著作『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版)を公刊しました。
 本書は予想外に版を重ねて売れました。「売れた」理由は本書の場合、類書がいたって少ない点、書評が多数の新聞・雑誌に掲載された点、私の畏敬する上野英信(1923~87、記録文学作家)、井上光晴(1926~92、小説家)、花崎皋平(1931~、哲学者)の三者の推奨に与った点、何やかや色々あるでしょう。しかし一番大きな理由は、はっきりしています。同年10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」(北海道夕張市、安田塾メッセージ№21参照)が勃発したこと、これにより本書はにわかに世の注目を浴びるにいたりました。
 

 それは痛ましい事故でした。その惨状が今でも私の記憶に生々しくよみがえります。
 …地下810メートルの坑道でガス突出事故が、さらに火災事故が起きる。→救護隊が何とか34名の遺体を収容するも2次災害に見舞われ、坑内に“安否不明者”59名が取り残される。→坑内火災が収まる兆しも見えず、坑口を塞ぐ「密閉」作業が行なわれる。→しかし依然として火勢が衰えず、土壇場に立たされた会社は「坑内注水」による鎮火―炭鉱自体を残すために、火災現場に大量の水を入れて火災を消し止め、その後の採炭開始に備えること―という決断を迫られる。→問題は「注水」が“安否不明者”の確実な死を意味する「非人道的な」措置であること。会社側による「注水」提案は、“安否不明者”家族の猛反発を招く。→「注水」(坑内水没作業)の是非をめぐり、物情騒然たる状況下、林千明・北炭社長は10月22日の説明会で、ついに意を決して必死の声をふりしぼった。「注水することで命を絶ちます。お許しいただきたい。お命を頂戴したい・・・ということです」と。(なお、林社長は12月7日、手首を切って自殺を図る。一命をとりとめたものの、その後人知れず退社する。)会社側は“安否不明者”家族の戸別訪問で、「注水を許可する同意書」を取り付ける。→057.gif翌10月23日午後1時半、サイレンと共に、坑内全域に夕張川の水が注入される。前夜の豪雨で、夕張川の水は汚れて、赤茶けていた。1分間寒々としたサイレンが鳴り響く中、夕張市とその周辺の住民たちは、大人から子供までが黙祷を捧げる。→注水作業は約4ヶ月に及び、その後の排水作業を経て、遺体がようやく全て収容されたのは、事故から約5ヶ月後の1982年3月28日のことである。…
 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故は最終的な死者が93人、炭鉱事故としては、1963年の三井三池炭鉱炭塵爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱ガス爆発事故(福岡県嘉穂郡稲築町)の237人に次ぐ、戦後3番目の大惨事でした。
              ↓ 北炭夕張新炭鉱事故慰霊碑(夕張市清水沢清陵町)
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 1982年4月、私は2年ぶりに夕張の地を踏み、北炭夕張新炭鉱労務課員(当時)のSとの語らいの機会を持ちました。彼との有益な会話のやりとりは、以下の概容に見られる通り、私自身の思想的磁場を鮮明に浮き上がらせるものとなりました。[Sこと沢口忠良は、私の北炭幌内炭鉱入社時(1968年)の同期生であり、幌内炭鉱から夕張炭鉱→夕張新炭鉱(1975年営業出炭)→空知炭鉱(北海道歌志内市)に異動、後に歌志内市議会議員を務める。]

 「…毎日が地獄の苦しみだったかい?」
 S「地獄…ね、何をもって地獄というかだが…。炭鉱人の置かれた状況を形容して、<行くも地獄とどまるも地獄>といわれているしな。それに、人間というのは、地獄に長くいつづければ、それにも慣れてしまう動物だからな…」 
 「遺体の収容・確認作業は難航を極めたそうだが、何か関係したのか?」
 S「ああ、関係したな…、因果なもんだ。人間は最後に皆、骨になる…、見事に骨と灰になるわけだ!」
 「メディアが殺到して、大変だったろうな…」
 S「ああ、ヒドイもんだった!それこそ、この世の地獄を味わったよ!記者野郎が“起こるべくして起きた”事故などと、さも分かったように安直に書き散らすのが、無性に腹立たしかった。マスコミなんてものは、物事を上っ面で判断する中身がカラッポの集団だな。あの連中は炭鉱マンの素朴な生活感覚を土足で踏みにじっても、良心に恥じるところがない不逞のヤカラだ!」
 S「…ところで、安田の本、じっくり読んだよ。あれは長期間、ふつふつと執念を燃やしつづけて書いたんだろう。まあ、オレとは見解が分かれる箇所もあるが、全体として炭鉱問題の核心を鋭くえぐっていると思う。
 ただ、この際、オレは率直に安田に聞きたいんだ。炭鉱経営のエゲツナサとか暴虐性とか前近代性とか、世の人々から色々指弾されるが、じゃあ炭鉱会社は、ほかの企業と根本的に異質・異常な組織体だと言うのか。確かに坑内労働が死と隣り合わせだけに、事故死を遂げる者は他企業よりずっと多いだろう。でもな、マルクス経済学を鵜呑みにするつもりはないが、会社は会社であるかぎり、いつも<資本vs.賃労働>関係の根本矛盾にさらされているわけだ。企業でメシを食う人々―特にいわゆる労働者―は、程度の差こそあれ、みんな資本主義システムの被害者になる可能性を秘めているんだな。
 実は、オレ個人としては、安田に大いに期待していることがある。安田には今後、ぜひとも石炭産業の範疇に属さない会社、できるなら時代の最先端に位置する企業について、その仕組み・カラクリ・デタラメサを批判的に分析してもらいたい。石炭会社と、それ以外の会社を比較検討するとき、はじめて現代日本社会のトータルな企業構造をしっかりと見据えることができるんじゃないか―」
 「すこぶる貴重な意見だな。Sの言いたいことは、よく分かるよ。だが、今のオレはこう考えている。
 それこそ、マルクスの言う<資本の論理>は、貨幣経済が存続するかぎり、半永久的に、世界の隅々まで展開しつづける。今や、資本の自己運動的な展開が世界的普遍性を獲得していると言っても言いすぎじゃないだろう。だから、およそ企業は基本的に営利を目的とする組織体である以上、大なり小なり、利潤をめぐるトラブル・人災・首切り等といった宿痾(しゅくあ)に悩まざるをえないわけだ。
 しかし、そうは言っても、問題は日本の資本主義の場合なんだよ。欧米譲りの“近代”資本主義―これは“近代”民主主義との相互連関システムだ―が、どうやら進展しだすのはせいぜい日清・日露の両戦争あたりからで、全面的に展開するのは太平洋戦争の敗戦後、アメリカのフトコロに抱かれてから、とりわけ1950年代後半以降の高度経済成長期だな。日本の資本主義といい、民主主義といっても、これは内発的なものではなく、あくまでも外発的なものだ。外発的な日本の開化=“近代化”が、これまで見よう見まねで息せき切ってシャニムニ―時にぶっ倒れても―進められてきた。
 問題は日本の明治以降の“近代化”に、内発的な動機付けが欠落している点だ。これは、日本の歴史の内部には“近代化”自体を自発的・主体的に推進する活力が生まれなかったことを物語っている。きっぱりと言えば、日本は有史以来、人々の共同体的な関係の集合力が個人の内発する力―中でも個人の生活・思想における“自由”―を(強制的or誘導的に)抑圧しつづけてきた。この歴史上の問題状況は、古代日本から江戸時代の<鎖国>体制にいたるまで際限なく続き、そして明治以降今日までの“近代化”の過程でも、一定の変貌を遂げた場合はあるにせよ、実質的に脈々と続いている。
 このように見るとき、今のオレの思想的姿勢がSにも、おのずと伝わったんじゃないか。自分の現在の関心事は、資本の論理―つまり貨幣自体の論理―の問題(普遍)よりも、日本の<歴史的・伝統的システム>の問題(特殊)にある。要するに、現代日本のあらゆる組織機構は、“近代化”された形・体裁を取ってはいるが、その内部の人間関係は“近代化”されなかった歴史的・伝統的なシステムに拠っている―という問題だ。この日本的組織体の根本性格は、その組織が不祥事を起こしたり、危機的状況に陥ったりするとき、たちどころに判明する。例えば、ある不祥事が発覚した場合、しばしば1人の上司がそれを隠蔽しようとし、部下がその隠蔽作業に協力する事態が引き起こされる―。そこでは明らかに、“近代化”が標榜するような<人権>、自由・平等などはワレ関知せず、何よりも組織を無事に維持しようとする意識が、理念を捨てても仲間内の結束を守ろうとする意識が、やたら発動されてしまう。理念や目的のために組織があるのではなく、組織をやみくもに維持することがいの一番に要請され、そのために理念や目的も事実上廃棄されてしまうわけだ。
 結論を述べよう。およそ日本的組織は、会社も政党も組合も学校も、程度の大小こそあれ、<近代的システム>と<歴史的・伝統的システム>との、矛盾に満ちた―両者は互いに対立しながらも、結局は癒着し、ここぞという決定的場面で後者が一つの強力な権力として突出する―結合体というべきものだ。…」
 S「…なるほど、なかなか興味深い話だ。そうすると、手っ取り早く言えば、炭鉱も、いま安田が関わる大学も、日本の伝統的特異性が刻印された点で、同質の組織ということになるが…」
 「うんうん、それだ!オレはね、炭鉱人も大学人も<日本人類型>として、さしたる違いはないと、いつぐらいからか考えつづけてきた。たしかに法律上は、例えば北炭(株式会社)は営利法人、いまオレが在職中の武蔵工大(学校法人)は公益法人と区別されるが、しかし両者は共に特殊日本的性格を帯びた組織として、言ってみれば五十歩百歩だな。
 考えてみれば、オレは長年、学校生活に児童・生徒・学生・院生として、また教師として関わりつづけてきた。教えを受ける側として何と21年を費やし、教える側として―大学院博士課程以降1979年までの非常勤講師も含めて―すでに11年を過ごしている。ところが、こんなに長く学校社会の住人でありながら、<学校とは何か>と自らに問いを発した最初は、1960年代後半の<大学紛争>時だった。ここでは、Sも直面しただろう、全共闘の<自己否定>-<大学解体>論、これを自分なりに随分勉強したな。やがて北炭を経て、オレは大学院時代以降、炭鉱問題と比較対照しながら、改めて大学を中心とする学校問題を自らに引き寄せ、掘り起こしつづけてきた。そしてようやく、これまで温めてきた思いが、確信に近いものになりつつある。つまり、<歴史的・伝統的システム>―日本人の日常的な生活態度(エートス)―の観点に立つとき、日本の大学教師をはじめとする学校教師もまた、炭鉱労働者と基本的に同質の、(先に述べた通りの)問題状況下にある―。
 明治の昔、『坑夫と土方がケンカしているのを人間が見ている』と言われた。何しろ炭坑夫は、三井三池炭鉱や北炭幌内炭鉱の使役した<囚人>に象徴されるように、戦前・戦後を通じて、時代の社会的差別と偏見にさらされつづけた。また明治以来、『炭鉱とぬるま湯を出れば風邪を引く』と言われるほどに、炭鉱共同体=石炭城下町の閉鎖性―外部社会への適応性の喪失―が指摘されつづけたものだ。
 しかしオレに言わせれば、日本流の“疑似ないし偽装”近代化の条件下、坑夫-土方-囚人-人間もヘッタクレもない、炭鉱-外部社会もヘッタクレもない!もちろん炭鉱人(肉体労働者)-大学人(知識人)もヘッタクレもあるものか!
 繰り返し強調するが、日本人の日常生活は<歴史的・伝統的システム>によって営まれている。日本人は銘々が日常的に何らかの共同体(村・ムラ)―例えばA炭鉱ムラとかB大学(同窓会)ムラとかC労働組合ムラとかD政党(派閥)ムラとか―に所属し、その内(ウチワ)と外(ヨソモノ)との“重層的・伸縮的”な区別のもとで、対内道徳(⇒以心伝心・仲間意識・身びいき⇔仲間外れ・村八分・スケープゴート)および対外道徳(⇒敬語体系/慇懃無礼/人見知り/差別性・排他性→暴力)の二重性を意識して汲々として生きている―。
 この事態を今日的な<世界の中の日本>の視点から巨視的にとらえ直せば、我々日本人が何者であるかがよく見えてくるわけだ。日本国=日本村の国民=村民はみな一様に、ウチとソトの双方に共通の価値観・規則・態度を設定できないがゆえに究極するところ、【対内的には】日本村全体に情感的に同調・同化し、【対外的には】諸外国に慇懃無礼にorよそよそしくor排外的に振る舞う―総体に<他者>との対等・平等な、実質的に意味あるコミュニケーションをうまく図ることのできない<日本的イナカッペイ>である。それが<近代的な自由な個人(インディヴィデュアル)>に程遠いものであることは言うまでもないだろう。…」
 S「…いつか、大学社会に関する本を著わすつもりかい?オレは『炭鉱(ヤマ)へゆく』の文章スタイル―体験を対象化してとらえる書き方が好きだな。読みやすいというか、それを読みながら安田の中に自分と共通な何か基本的なものを発見して嬉しくなったんだ―」
 「オレは大学問題については、いつか必ず書くよ。ただし、誤解のないよう触れておくが、自分が物事を考え、文章を書くのは、いわゆる学会での業績主義に呪縛されることなく、それを乗り越えた次元に主体的に生きるため、ということだ。
 オレは今までの学会活動を通して、つくづくと痛感しつづけてきた。学会を構成する学者・研究者の大多数は、専門のタコツボにはまり、そこから脱出できない、いわゆる<専門バカ>である、と。彼らは一般人としての教養すら身につけていないため、専門外のことについては常識的な判断すらできない。そして、重箱の隅を楊枝でつついた、箸にも棒にも掛からない、本人の仲間内以外は誰も関心を示さない研究成果を発表しつづける…。彼らの知性の貧しさに痛みを覚えるよ。日本の学会(→学界)は―まあ今のところ一応オレの入会する三つのそれに限っておくが―、<タコツボ型専門人>の共同体として、ひどく自己完結的で、絶望的に閉鎖的だな。
 そもそも1人の人間が生き、考え、書くというのは、何を意味するのだろうか。
 1回限りの生命を享けたオレにとってハッキリしている点は、こうだ。人間が生きるとは即、考えることである。生きつつ考え、考えつつ生きるとは即、<学問(=学び問うこと)>を営むことである。要は、自らの掛け替えのない生を自覚的に生きることがそのままに≪学問する=思想する=哲学する≫ということだ。
 ここで<学問><思想><哲学>という名詞を、あえて動詞化して≪動態化≫した点に注目してほしい。
 哲学史上の話になるが、<哲学 philosophy>という語は、ギリシア語の<知 sophia を愛する philein>という意味に由来する。哲学者とは、<知者 sophos>という知を<所有する>者とは反対に、知を<愛する>者だ。知を愛する場面での<知>は、知識とは区別され、知恵とか英知とか―英語のwisdom―に当たり、実践の知という含みを帯びている。実践とは自己の意志や行為を方向づけるものであり、したがって英知とは善く生きるための知恵にほかならない。英知を愛する者は結局、自己を基準として―『汝自らを知れ』(古代ギリシアの格言→ソクラテス)―、目前の世界をただ観察するだけでなく、その世界に参入し、絶えざる自己還帰による自己実現をめざすことになる。
 だから重要な点は、哲学が、そして思想が、さらに学問が、固定した完成物―完結した知識―ではなく、人間の活動そのものだということ。その動態性(根本精神)において、哲学者は哲学する人であり、思想家は思想する人であり、学者は学問する人であり、この哲学する・思想する・学問するという三者は同等の価値を持つ働きである。
 オレは常日ごろ、人間として<自分が生きているとは、どういうことなのか><自分はいかに生きるべきか>と真面目に考えている。自分が哲学するとは、この種の<自分(の生)>に関する問いを起点かつ基点としながら、自分をめぐる状況(小状況→大状況)と直接向き合うことである。ここでは、自分から出発して、自分の感性⇒体験を大事にしながら、自分の問題意識(歴史意識&社会意識、時間と空間の一体化)が徐々に、小状況(自分の身の回りの<小さな>動きや条件)から大状況(日本国→世界全体の<大きな>動きや条件)にまで広がり、かつ深まっていく。
 ここで問われるのは、小状況→大状況にまつわる事柄を、どこまでも具体的な自分の問題として提示できるかだ。
 小状況→大状況として、日本人はこう、とかく思い浮かべがちだ。最初に小状況としての、自分の家庭とか会社とか学校とかの集団・組織があり、次いでその外に市町村や都道府県があり、さらにその外に日本という国があり、その外に<世界>がある…、と。そして、日本人はこう、とかく考えがちだ。<家族問題や職場問題などは、自分に固有の小さい問題だから、世界とは関係がない>と。
 しかし、しっかりと認識すべきだろうな。世界は自分の外にあるものではない!世界は自分の中にあるものだ!世界の中に自分がいて、自分の中に世界が食い込んでいる以上、自分の家族や職場の問題もまた、世界(史)の問題を内包している、と。
 また、小状況→大状況に関わる原点としての<自分>が拡大・深化する点にも注意する必要がある。オレの場合、炭鉱の現場で自分の存在を揺るがすような体験を重ねただけに、自分そのものがより拡大していき、歴史&社会を見る目も次第に深まり、広がった。つまり、炭鉱の何たるかが自分の奥底で分かったことによって、以前にも増して自分の内奥(世界的・歴史的・思想的文脈)を深く広く掘り起こすことが可能となり、自分の家族問題、自分の職場問題、自分の日常生活に関わる切実な問題、自分にとって焦眉の問題等々をいったん<具体的な世界>の問題として再構成した形で提示できるようになったと思う。
 ところで、これまでの話で、オレは自分の内面に呼応する状況(シチュエーション)について、便宜的に<小状況→大状況>という言葉を使ってきた。しかし、この規模の<大小>に関わる言葉は無用の誤解を与えかねないので、これを少し角度を変えて、分かりやすく≪生きる場≫と言い換えてみたい。
 現在、オレの≪生きる場≫の典型的な例は、家庭もさることながら、職場(勤務先)だ。武蔵工大での教師生活が今後何年続くか予想できないが、少なくとも在職中、この直接的な経験の領域をじっくりと徹底的に哲学しつづけていきたい。そしてまた、機が熟し、その哲学的・思想的成果に関する文章を、私は<書かなければならぬ>と自ら決意することになれば、せっせと余すところなく書くだろう―」
 S「…その安田の書く本がかりに『炭鉱へゆく』の延長線上にあるものだとしたら、タイトルは『大学へゆく』なんかがいいのじゃないか。オレは何歳まで生きるのか分からないが、生きている間に、それが出版されたら、必ず読むよ―」
                                   2011年7月5日 安田忠郎                                                                     
                     第11回安田塾のご案内
 

 今回は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】2011年7月23日(土)午後2時~4時30分
【講師】小川彩子(おがわ・あやこ、グローバル・多文化教育者)
【テーマ】「泣き笑い挑戦人生:異文化、住んで学んで教えて旅して

【講演内容の項目】 
(1)自己変革:自己の壁に挑戦! 
(2)泣き笑い挑戦人生:年齢の壁に挑戦! 
(3)文化の発信受信:文化の壁に挑戦! 
(4)足と心で異文化交流:ドキドキ地球千鳥足と三無
(5)自己実現と共生活動の交点:挑戦に適齢期なし!

【安田のコメント】
 小川さんは1990年に52歳で渡米、93年にオハイオ州のザビエル大学大学院で「教育学」修士号を取得、98年に州立シンシナティ大学大学院で「教育学」博士号を取得、以後州立シンシナティ大学助教授として、「日本語・日本文化・グローバル教育」講座を担当してきました。
 その人生の歩み方は、「魅力的」の一語に尽きます。彼女は自己変革を不断に志向しながら、「年齢の壁」・「文化の壁」に敢然と挑戦しつづけ、教師としての教育活動はもとより、地球探訪バックパッキング―すでに約90カ国踏破―、異文化交流促進活動にも活発に打ち込みつづけて、今日にいたっています。
 90年6月、彼女は米国に向かう飛行機の中で、三つの誓いを立てました。①在米中に大学院で学び、ゆくゆくは大学か企業で教える、②ホーム・パーティーを開いて、生け花・食文化・音楽などの日本文化をアメリカ人に伝える、③日本文化に満ちた短編物語集を英文で出版する。 
 2006年4月、彼女は『Across the Milky Way 流るる月も心して』 (Wanderglobe Publishing)を公刊しました。この英文和文併記の本がついに出版された結果、その念願の三つの誓いは見事にかなえられました。
 彼女はまもなく―この7月10日―、東京都府中市に陣地を構えながら、「小川地球村塾」を立ち上げます(第1回テーマ「異文化共生のヒントを求めて」)。それは強い理念的希求を体現した「学問」的活動にほかなりません。彼女の今後ますますのご活躍が期待されます。

【会場】「武蔵野商工会館」4階 市民会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分
〔サンロードを約150メートル直進→最初の十字路(本町新道との交差点)で左折→本町新道を約150メートル直進・丁字路右側〕
【会費】1000円

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、7月20日(水)までに、下記にご一報ください。
 Eメール:tadyas2011@excite.co.jp 
                                   2011年7月1日 安田忠郎
                  第10回安田塾を終えて

 第10回安田塾は、第9回安田塾(緊急集会、4月16日)のわずか1週間後の4月23日(土)に開催されました。
▲ 例会では最初、午後6時から20分ばかり、私が前回(第9回)と同じ題目「北炭幌内炭鉱で『1968年十勝沖地震』に遭遇して」を掲げて、①炭鉱災害、②炭鉱文化についてお話ししました。
 ①では、災害中最も恐るべき「ガス爆発」と「炭塵爆発」の情景が描写されるとともに、人間の生命が「消耗品」のごとく操作され軽視される実態が直視されました。事故死を遂げた者1人に対する会社側の弔慰金は130万円であり、ところが一日の生産停止に起因する会社側の損失は最小限2000~3000万円に上る―。これが1968年当時の冷厳な北炭資本の論理が帰結する事態でした。
 ②では、炭鉱労働が死と隣り合わせの過酷な労働でありながらも、そこから「炭坑節」の唄と踊りが、さらに「川筋者(かわすじもん)」→「フラガール」の物語が生まれたことが強調されました。
 

 「炭坑節」は「月が出た出た月が出た、ヨイヨイ」のフレーズで有名な、現代の盆踊りの最もスタンダードな楽曲として全国に広く浸透している。「川筋者」という、筑豊炭田を流れる遠賀川沿いに住む荒くれ者どもの物語は、東映ヤクザ映画や火野葦平『花と龍』、五木寛之『青春の門』などによって数多く描写されてきた。「フラガール」という、衰退した常磐炭鉱の町を再生する炭鉱の娘たち⇒ハワイアンダンサーの物語―福島県いわき市にある「常磐ハワイアンセンター」(現・スパリゾートハワイアンズ)誕生の実話―は、2006年9月に全国公開の映画「フラガール」(李相日監督、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品)で、今や人口に膾炙している。炭鉱労働の背後の奥行きある特殊日本的な唄や物語=文化がこうして、長い間歌われ語られ、いかに広く国民の共感を得つづけてきたことか!

 しかし、原発労働からは唄も物語も何も生まれませんでした。
 原発労働者は産業的には炭鉱労働者と同様にエネルギー産業従事者に分類されます。だが、前者の世界は、後者のそれとは根本的に異なります。
 原発労働者はずばり言いきると、その労働を被爆量測定単位のシーベルトだけで評価する世界に生息しています。一定以上の被爆量に達した彼らは、使い捨ての「労働力商品」そのものとして、原発会社から即お払い箱となります。
 現在、北海道から九州まで日本列島には、18ヶ所の原子力プラント(青森県六ヶ所村にある「六ヶ所再処理工場」を含む)が存在し、54基もの原子炉がひしめています。この狭い上に無数の「活断層」が走り、地震と噴火が続く国土に、一体なぜに、これほど多くの原発が建設されてしまったのでしょうか!
 私は原発と聞くと、いつも寒々とした印象に付きまとわれます。また現に各所の原発のたたずまいを眺めるたびに、私の背筋をうすら寒いものが走るばかりでした。ただし、私がかつて見知った失業坑夫が原発労働者(下請け)に成り果てた事態に思いをいたすときだけ、瞬間的に、原発の妙に甘酸っぱい鈍重な情景がセピア色の歴史のかなたに浮かび上がったものでした―。

▲ 次に、菊野暁(きくの・さとし)さんが約2時間(質疑応答を含む)、「教員の考課査定を考える―学校法人・五島育英会の人事制度をめぐって―」と題する講演を行いました。
 五島育英会(1955年設立)は「東京都市大学グループ」を運営する「学校法人」(私立学校法の定めるところにより設置される法人)です。同グループには現在、東京都市大学、東京都市大学付属中学校・高等学校、東京都市大学等々力中学校・高等学校、東京都市大学塩尻高等学校、東京都市大学付属小学校、東京都市大学二子幼稚園の8校が属しています。 
 学校法人・五島育英会(以下、法人)は昨年(2010年)度より、幼稚園を除く小学・中学・高校の「教育職(員)」(教員)に対し、考課査定を柱にした人事制度を導入しました。
 菊野さんは1990年に武蔵工業大学(2009年、東京都市大学と改称)付属中学校・高等学校(以下、付属中高)の教諭となり、2006年に付属中高「教職員労働組合」(以下、教労組)の委員長に就任、そして法人の導入する「新人事制度」に正面から立ち向かうにいたりました。
 

 彼の話―(1)(2)(3)(4)―の骨子は、次のとおりでした。
(1)新人事制度の導入前夜と導入経過
・法人は「事務職(員)」(事務員)に考課査定を導入(2007年表明→2008年度より査定→2009年度より賃金に反映)する。
・2008年度、法人傘下校(中学・高校)統一「生徒による授業評価アンケート」を実施する(⇒代々木ゼミナールに委託)。法人は「アンケート結果を考課査定には利用しない」と説明する。ちなみに、2006・2007年度は、各学校独自の「授業アンケート」を実施する。
・2009年11月、法人理事会は傘下校(小学・中学・高校)教員への新人事制度の導入を表明する(目的は「資質向上」であり、「賃金削減ではない」)。
・2009年12月および2010年1月、各学校で法人による新人事制度の説明会を行う(コンサルティング事業を営む「株式会社プロサーブ」同席)。
・2010年3月、各学校で法人による新人事制度の研修会を行う(プロサーブ社が説明)。
(2)新人事制度の概要
・各教員はT1~T3の3段階のいずれかに格付けされる。
・各教員は「能力」、「行動」、「目標」(自己目標管理)の各評価(S・A・B・C・Dの各評定)にもとづく(平均的な)総合評価S・A・B・C・D次第で、T3→T2→T1へ昇格し、その昇格に応じて昇給する。
・「能力」を構成する評価項目は知識技能・判断力・企画力・コミュニケーション力等、「行動」を構成する評価項目は規律性・責任性・協調性・積極性等である。
・各教員は【経験7年+直近3年間で総合評価Aを1回】でT3からT2に、【経験17年+直近3年間で総合評価Aを2回】でT2からT1に昇格する。
・各教員は格付けが上がらなければ、賃金が頭打ちになる。また、T3、T2、T1それぞれの基礎給(年齢給)および職能給に上限を設ける。一時金はS=1.15、A=1.075、B=1、C=0.925、D=0.85の割合である。
(3)新人事制度の運用の実状
・各教員は「目標設定シート」 [各欄:教科指導・校務分掌・向上目標に関する●期初時点での課題、●目標事項(期末時点での到達目標)、●目標達成への具体的取り組み事項、●期末時点での目標達成状況結果、等に記入]を作成する。
・主幹教諭(2009年度配置)・教頭・校長による、各教員(「目標設定シート」)に対する「期初面談」→「中間面談」→「期末面談」を実施する(⇒「評価結果」)。
(4)新人事制度の問題点
①同制度は教労組にとって、「わからないことがいっぱいある」制度であり、一貫した定義にもとづく制度ではない。法人の制度に関する説明自体が時に「理論値では全員がS・A評価になることはありうる」、「A評価を取るのに苦労しない制度設計をしている」、時に「Sは本当に頑張って、というレアケース。Aは到達目標などを本当に明確に上回る場合」、「Bでも評価されたと思ってほしい」と、大きくぶれる始末である。ここでは、昇格や報酬(昇給・一時金)に反映される評価・評定の基準自体があいまいである以上、評価が「評価者」の恣意にさらされ、「最終評価者」の学校長の強権的な査定につながりかねない。
②「授業アンケート」の扱いに関する法人の説明は2008年度以降、「生徒によるアンケートを教師の処遇に反映させたり、序列化させることに使わない」→「できる限りアンケートを活用して『向上目標』を立てて欲しい」→「評価者はアンケートに留意する必要がある」と、くるくる変転しつづける。
③教労組は2010年4月15日の団交で、「幾多の懸念を残したまま新人事制度を導入することに反対します。導入を延期し、労使交渉を通じて課題を詰めていく必要があると考えています」と宣言したものの、法人は結局、「実際にやってみないとわからないことがいっぱいある。しかし実際運用していく中で解決できる」と強弁し、同制度の2010年度からの導入を強行する。
④この1年間、同制度の支配下、付属中高の職場の一体感が崩れつつある。教師の多くがストレスを抱え、人間関係が悪化(萎縮や無意味な反発)しつつある…。
 

 私は彼の諄々と語る話をとくと聞きながら、しばし沈思黙考に耽ったものでした。また、彼の配付した資料=教労組機関紙「広場」における、「目標設定シート」の書き方に関する次のような文章を一読しながら、声にならない溜め息をそっと漏らしたものでした。
 「私たちは『合格〇人』『偏差値〇〇』といった目標を立てるべきでしょうか?このような数値は、個人の目標にはふさわしくない、と教労組は考えます。なぜなら生徒の成長は、教師1人だけの力でなし得るものではないからです。クラス担任としても、授業担当者としても、クラブ顧問としても、さまざまな場面で生徒を支えるのが私たちの使命です。」[第2110号(2010.6.9)]
 「(5月24日の教労組との団交で)目標設定において『教育現場の中では数値化されない目標も当然ある』との見解が法人(H総務部長)から示されています。」[第2111号(2010.6.21)]
 法人本部(事務局)は果たして、学校教育における「数値目標」の問題を、「形式合理性⇔実質合理性」(マックス・ヴェーバー)という一対の合理性に即して、まっとうに根源から理解しているのでしょうか。ここでは、「日本社会-学校教育」における明治以降の「近代化」の質を見極める透徹した歴史認識もまた、絶対に必要不可欠なものです。
 

 周知のように、2006年度以降、文科省(←2002年2月の中教審答申「今後の教員免許制度の在り方について」)の指導のもと、成果主義の発想に立った「教員評価」制度の本格的導入が、全国的な広がりを見せています。同制度は従来の「勤務評定」のような業績判定のみではなく、能力開発・育成もめざすものです。
 五島育英会はその時流に乗って、曲折をはらみながらも、2010年度に同制度の導入・実施に踏み切りました。しかし、問題は学校現場サイド=付属中高教師の多くが同制度そのものの正当性や有効性に疑義を呈し、一定の抵抗感を抱いていることです。
 

 そもそも学校には、“現場の文化”ともいうべき、教師たちの具体的・経験的な思考様式や行動様式の体系が息づいています。教師は「教師-生徒」関係を基軸としながら、現場の学校文化に生き続けています。
 したがって、この「現場の文化」を無視して断行された教員評価のもとでは、人事管理のための評価がまかり通りはしても、教育それ自体の改善―教師一人一人の力量向上や学校組織の活性化―は到底おぼつきません。

 教職という「専門職」労働は、本質的にマニュアル化しがたい、その成果自体が短期的にはとらえにくい営みです。「教える-学ぶ」というトータルな過程における「教える」という仕事はしたがって、外形的に―外から明確に―評価することは至難の業です。いかにアカウンタビリティ(説明責任)が求められる現代日本社会の状況下でも、複雑で多様で微妙で繊細な教育労働そのものを定型化された言葉や数字で要素的にとらえ価値付けることは、難事中の難事であり、慎重の上にも慎重を要する大事です。

 望ましい教員評価があるとしたら、それはどこまでも、学校現場の教育力=教師力=人間力を一層高めるるための、適時・適正・適切な“手段”でなければなりません。問題の根本は、学校現場サイドの自発性・自主性に貫かれた、教師の教師による教師のための、人材育成型の評価制度をいかにして構築することができるかにあります。

 五島育英会は果たして、この本来的な、現場教師のやる気⇒力量を向上せしめる教員評価制度を主体的に推進するにふさわしい学校法人といえるのでしょうか―。

 今回、菊野さんは正直律儀を表に立てて、閑却できない問題的な学校状況に正対する、凛とした思想的姿勢を示しました。私はその彼の誠意がこもる意味深長な言葉の数々を噛みしめながら、「五島育英会」とは一体どういう組織体なのかを、今更のように考え続けました。この私の脳裏にわだかまる考え事は、稿を新たにし、「安田塾メッセージ」の№32~№36に書き記すことにします。
                                   2011年6月16日 安田忠郎
               第9回安田塾(緊急集会)を終えて

a0200363_0495620.jpg▲ 東日本大震災→福島原発事故を受けて、「槌田敦」講演会があわただしくも4月16日(土)午後2時~4時30分、東京マスダ学院(JR総武線「平井駅」下車)で開かれました。
 第9回安田塾の参加者は、常連が数えるほどながらも、主に会場を設営した松田敦さん及び東京マスダ学院の関係者が集い、計48名に達しました。その意味で、今回は「一般市民」に門戸を開放する安田塾の所期の目的がなにがしか達成された会合となりました。

a0200363_1872164.jpg▲ 最初、私が「北炭幌内炭鉱で『1968年十勝沖地震』に遭遇して」と題して、約20分お話ししました。
 私はかつて1968年5月16日午前9時49分、地下850メートルの坑底で、マグニチュード7.8の「十勝沖地震」に遭いました。この半死半生の極限的体験をとおして、当時から今日まで、「石炭産業とは何か」→「石炭→石油→原子力とは何か」→「日本&日本人とは何か」の諸問題に、私なりの思考をめぐらしつづけてきました。
 しかし、20分程度の語りで、この一連の問題を本格的に取り上げ掘り下げることは、とても無理です。私としては今回、あくまでも真打ちの槌田さんの前座を務めるべく、①炭鉱と地震の問題に軽く触れ、②炭鉱の閉山で失業したヤマ男たちの一部が原発の下請け⇒被爆労働者に成り果てた事態に言及し、③「私たち日本人は人間としての<怒り>を持つことができるか」を問題化しました。
 ③では、羽仁五郎(1901~83)のある講演内容が意識化されました。1960年代後半の大学紛争時、羽仁は学生聴衆に向かって、1837(天保8)年の「大塩平八郎の乱」―大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎とその門人らによる江戸幕府に対する反乱―に触れながら、挑発的に言葉を発しました。「君たちは今までに本当に怒ったことがあるか?許せない現実というものがある!だが、私たちは余りにも怒りを忘れつづけているんだな―。」
 
 ここで対照的に、東日本大震災(地震・津波・原発事故)による「被災地の悲惨な状況に深く心を痛め(る)」今上天皇の、次のようなメッセージ(3月16日)が注目されます。
 「(前略)この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。(中略)海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。(後略)」

 私たち日本人は、いつまで予定調和的な運命共同体に安住しつづけなければならないのか!
 フクシマでは、人間存在を根底から脅かす、史上最大規模の核災害が進行しています。一度でも事故を起こせば、もはや取り返しのつかない、リスク無限大の巨大技術。私たちは何としても、核の時代に終止符を打たなければなりません。
 そして併せて考えるべきは、この国における空疎な知的光景の問題です。戦後日本の社会的状況下、水俣でも成田でも原子力でも、結局のところ異議申し立て=対抗的文化(カウンターカルチャー)が排除され、封じ込められてきました。日本には政治・行政・議会・司法万般にわたって、これまで馴れ合いの「偽装民主主義」はあっても、真の意味での民主主義はなかったのです。
 私たち日本民衆は今こそ、一人一人が内なる満腔の<怒り>をもって、原子力立国の呪縛を解き、「理念なき政治」・「人格なき学識」・「道徳なき商業」・「人間性なき科学」といった一連の「社会的な罪」を裁かなければなりません。
 

▲ 続いて、槌田敦(つちだ・あつし、物理学者、1933~)さんが「いま、福島原発に何が起きているのか?」の演題で、2時間余の講演を行いました。
 講演内容の基本は、「政治の民主化」にもとづき、原子力という悪魔を「安楽死」させようとする、したがって産・官・政・学・メディア一体の「原発」利益共同体の構造的欠陥を仮借なく暴こうとする、彼の年来の思想的立場が如実に現われたものでした。福島原発事故の事態を見極める彼の鋭角的な視点は、多くの参会者の耳目を集めました。その論調全体(←大状況と小状況の緊張関係)から、私は既成権威の暴圧に屈しない彼の不撓不屈の精神をうかがい知ることができました。
 話は大別して3項目(Ⅰ~Ⅲ)に関するものであり、その大要(私による再構成)は以下の通りです。

 Ⅰ.「スリーマイル島」酷似事故から「チェルノブイリ」酷似事故へ 
 原子力発電所(原発)事故では、「止める」「「冷やす」「閉じ込める」が3大鉄則である。ウラン燃料の核分裂が止まっても、その直後から大量の「崩壊熱」が半永久的に発生し続けるので、炉心に水を循環させて、冷やし続けなければならない。また、原子炉から放射性物質が外部に漏れないよう密閉性を保たなければならない。
 福島第一原発(沸騰水型軽水炉、東京電力の施設)事故とスリーマイル島原発2号炉(加圧水型軽水炉)事故(1979年、米国ペンシルベニア州)。両者はよく似た経緯をたどっている。そこでは、トラブルの発生直後に、原子炉を「止める」ことはできたが、「冷やす」と「閉じ込める」機能を失った結果、「放射能」汚染(環境中への放射性物質の漏出)、周辺住民の避難という重大な事態を招いた。ちなみに、スリーマイル島原発事故は国際原子力事象評価尺度(INES)で「レベル5」(施設外へのリスクを伴う事故)である。
 これに対して、チェルノブイリ原発4号炉(黒鉛減速炉)事故(1986年、ウクライナ共和国・旧ソ連)では、原子炉停止を想定した、電源喪失の対応実験中に制御不能に陥り、原子炉自体が核分裂反応の暴走の末に大爆発を起こし、その結果ヒロシマに投下された原爆約500発分もの放射性物質が大気中に飛散し、世界を震撼させる原発史上最悪の被害をもたらした[INES・最悪の「レベル7」(深刻な事故)]。
 
 スリーマイル島およびチェルノブイリの原発事故は、1基の原子炉だけに発生した。
 ところが福島原発の場合、運転中の1~3号機で、緊急自動停止後、「非常用電源を含む全電源」の喪失→「緊急炉心冷却システム(ECCS)」の注水不能のため、核燃料が「空焚き」状態となり、原子炉圧力容器と格納容器の圧力と温度が上昇し、ついに何らかの爆発が起きた。
 [安田註:この爆発について、各種メディアの報道では微妙な相違が見られるものの、概して1号機と3号機における「原子炉建屋」の水素爆発、2号機における「圧力抑制プール」の爆発、さらに定期点検で炉が停止中の4号機・「使用済み核燃料プール」の水素爆発が指摘されている。しかし槌田講師の「仮説」によれば、福島原発事故は4つの「原子炉」と4つの「使用済み核燃料プール」の事故であり、「炉心溶融」を除く、「過酷事故(シビアアクシデント)」(燃料崩壊・原子炉底抜け・水蒸気爆発・格納容器破裂・核爆発・核暴走・定常臨界…)のあらゆる可能性が現前した「複雑怪奇」な事故である(水素爆発が起きたのは、1号機の原子炉建屋だけである)。] 
 
 この間、東京電力が肝心の「電源復旧」作業よりも先に行った緊急対策は、炉心と核燃料プールに「海水」をかけ、熱を冷やすことであった。自衛隊・警視庁・東京消防庁も、あげて決死の放水を敢行する。しかし、海水(後に真水に切り替え)の大量注水によって、原発内の放射性物質を外部環境へジャブジャブと「洗い流し」、「ジャジャ漏れ」させる最悪の状況が生じる。
 福島原発の事故は、複数の原子炉に問題が広がった人類史上初めての複合原子力事故である。

 原発事故の「収束」とは、核燃料を「冷やす」ことであり(→100℃未満の「冷温停止状態」)、また放射性物質を「閉じ込める」ことである(→「施設から外に放射性物質が出ない状態」)。この点、スリーマイル島原発事故は「16時間」で、チェルノブイリ原発事故は「10日」で、何とか収束したといわれる。
 しかし、福島原発事故は現在進行中であり、まだ1ヶ月を過ぎても収束の目途が立たず、1号機から4号機の四つの施設から大気中と海中に放射性物質を放出する事態に追いこまれ続けている。ここでの放射性物質のトータルな放出量は、今後の成り行き次第では、チェルノブイリ事故のそれを超えることになろう。ちなみに、日本政府はこの4月12日、福島事故がINESでチェルノブイリ事故と同級の「レベル7」(暫定)にあたると発表した。
 
 チェルノブイリでは、大量の放射性物質が一気に一帯に飛散した。その放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアに及び、さらに風に乗って北半球全域に広まった。
 フクシマから吹き上げられた放射性物質は、今なお風に乗って関東地方に飛来している。東北および関東地方は、放射性物質が徐々に降り積もる汚染地域と化している。フクシマはチェルノブイリに限りなく近づいている―。
 高汚染地帯は半径50km圏、飯舘・南相馬・福島・郡山・高萩…。中汚染地帯は半径200km圏、仙台・山形・前橋・さいたま・東京・川崎…。 

    ↓ 福島原発事故がチェルノブイリ原発事故と同じ規模になった場合の避難範囲(100km→200km→300km) 
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Ⅱ.「3悪人」の犯罪 
 福島第一原発の大事故は、人知の及ばない自然災害ではない。人間の悪意・無知・無能によって引き起こされた人災である。この人災犯罪を起こした最大の責任者は、次の3悪人である。
 班目春樹(まだらめ・はるき、1948~):「原子力安全委員会」(以下、安全委)現委員長、「原子力安全・保安院」(以下、保安院)⇔「東京電力」(以下、東電)のデタラメな事故処理を放置した。 
 鈴木篤之(すずき・あつゆき、1942~):安全委・前委員長、必要な安全規制をサボり、ECCS電源機能の欠陥を放置した。 
 勝俣恒久(かつまた・つねひさ、1940~):東電現会長・前社長、費用を理由に安全対策をないがしろにした。

 日本の原発の安全管理は一義的には、原発を所有する電力会社が責任をもって行うことになっている。しかし、原子力は国策として進められているエネルギーのため、その電力会社による安全管理の内実を国家としてもチェックする体制になっている。
 具体的には、保安院と安全委が日本の原子力行政の安全対策を担う組織である。前者は経済産業省・資源エネルギー庁の「特別の機関」であり、電力会社による原発の定期検査の妥当性をチェックしたり、現実に検査官が原発に常駐して、施設の検査を行ったりする。そして、後者は内閣府に属する、原子力研究の専門家が集まる組織であり、保安院による検査・安全管理の妥当性を専門的にチェックする役割を務める。
 問題は現代日本社会の状況下で、原子力施設の安全をこの二つの行政機関がダブルチェックする体制がきちんと正しく機能してきたのかどうかである。
 

 (1) 班目春樹の人災犯罪⇒事故拡大(INESのレベル5からレベル7への深刻化)の原因
①班目・安全委委員長(在任:2010.4~)は、事故処理に当たって、その実行者(東電への直接的な安全規制の担当者)である保安院を監督する責務を放棄した。彼は原発を本当に理解した技術者が少なく、原子炉運転の基本も知らない保安院の悲劇的な愚行を許した。すなわち、
・ 原子炉に水を入れるには、原子炉の圧力を下げること―ex. 主蒸気バイパス弁を開いて水蒸気を復水器に移送すること、または圧力逃がし弁を開放すること―が必要であるにもかかわらず、事態を放置した。 
・ 原子炉への「海水」の注入を許した。結果、海水が蒸発して塩になり、燃料棒の隙間を塞ぎ、炉心の冷却を妨害する事態を招いた。
・ 空焚きの使用済み核燃料に大量の海水を「ぶっかける」ことを許した。この作業は放射性物質を微粒子にして大気中に拡散させ、また建物内部や敷地を水浸しにした。また、海水の使用でイオン交換による除染を不可能にした。
・ 復水器(原子炉の重要な構成要素)に床などにたまる海水の泥水を投入することを許した。結果、この大切な復水器を用いて原子炉を冷却する方法の有効性が失われた。
②彼は使用済み核燃料に対して、鉛粒をヘリで落とし、鉛(融点327℃)で包み、液体窒素で冷やす方法を採用しなかった。現にチェルノブイリ事故で「鉛を投入する」対策が実効を上げたにもかかわらず、これを無視した。
 

 (2) 鈴木篤之の人災犯罪⇒災害の根本原因
①彼は昨年8月、高速増殖炉「もんじゅ」を運営する「独立行政法人・日本原子力研究開発機構」理事長に就任した。安全委という原発の「お目付け役」から無節操にも、原発の推進役への横滑りである。
②彼は安全委委員長時代(在任:2006.4~10.4)―
a. 07年に発覚した電力各社の不祥事(臨海事故隠しや制御棒トラブル隠しなど)をめぐって、「国の検査をいたずらに増やすと、現場の負担が増えて安全上マイナス」と電力業界ベッタリの仰天発言をした。
b. 「2007年新潟県中越沖地震」(M6.8)→東電・柏崎刈羽原発事故(「想定を上回る地震動」→変圧器の火災)に触発された、原発の耐震安全性の総点検を促す各種の住民運動(ex. 福島原発の耐震性確保と津波対策の徹底を求める「福島県議・県民」の声)に対して、これをいっさい無視し、現状追認に終始した。
c. 保安院の審議会(09年6月24日の第32回「地震・津波、地質・地盤合同WG」)で、福島原発の耐震安全性評価に関して、地震学者(産業技術総合研究所)の岡村行信によって、「原発の安全性は十分な余裕を持つべきであり、869年の『貞観地震』(三陸沖を震源として甚大な津波被害が発生、マグニチュード8.5前後と推定される)が示唆するリスクを考慮すべきである」旨が提案されたものの、これを平然と無視した。
d. 06年10月27日の衆議院内閣委員会で、吉井英勝・衆院議員(共産党)によって、非常用を含めた「電源喪失」が招く、「機器冷却系の不作動→炉心溶融の危険性」の事態が指摘されたとき、ぬけぬけと答弁した。日本の原発には「多重・多様な」電源設備があり、他の原発からの電力融通も可能だから、「電源喪失の事態は想定できない、大丈夫だ」と。なお、昨年5月26日の衆院経済産業委員会で、同じ吉井議員に対して、保安院の寺坂信昭院長もこの鈴木の答弁と同趣旨の考えを表明している。
 ところが福島第一原発では、ECCSを駆動する非常用ディーゼル発電機13台(原子炉全6基=1~6号機の各機に2台、6号機だけ3台)すべてが仲良く海側の地下室1箇所に並べられていた。これでは、事と次第によって、非常用電源機能の全体が同時に消滅する可能性が大である。
 案の定、今回の福島原発事故では、非常用発電機が地震による津波で13台中12台が―6号機の1台を除いて―使用不能となり、ECCSが稼動せず、大惨事をもたらすにいたった。

 (3) 勝俣恒久の人災犯罪⇒直接の事故原因
①彼は東電の社長(在任:2002.10~08.6)→会長(08.6~)―子飼いの清水正孝を社長にし「院政」を行う―として、「勝俣東電=勝俣王朝」に傲然と君臨してきた。しかし、何がしからしめたか、3月11日は彼の運命を暗転させた忌まわしい日となった。
②彼は前掲(2)の②b.c.d.における鈴木篤之と同様―
(ⅰ)住民運動体「原発の安全性を求める福島県連絡会」による、福島原発の抜本的な「地震・津波」対策を希求する文書=東電社長宛ての「申し入れ」(07年7月24日←さかのぼって05年5月10日)を事もなげに無視した。
(ⅱ)869年の、仙台平野を襲った「貞観地震」並みの地震が再来するという警告を冷然と無視した。
(ⅲ)福島原発のECCS機能を改善することもなく、非常用電源の配置も手をつかねて放置した。
 この(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)は彼の場合、基本的にはコスト・パフォーマンスのなせる業であり、安全対策にかかるコストを最小限にし、東電の利益を最大限にする経営マインドに由来する。東大経済学部→東電企画部の主流コース→社長に就任した彼は、市場原理に基づく経営効率化を優先課題とするとともに、原発のリスク管理を怠った。
 「安全」対策には当然、金がかかる。原子力安全が割りに合わず高くつくのなら、断じて原子力という「ダモクレスの剣」を利用すべきではない!
③今回の「東北地方太平洋沖地震」は、「国内観測(気象庁)史上最大のM(マグニチュード)9.0」―「千年に1度の巨大地震」・「想定外の地震」であると、世に大きく喧伝された。
 Mはその数字が0.2大きくなるとエネルギーが約2倍になるので、9.0とは1923年9月1日の関東大震災を引き起こした7.9の「大正関東地震」に比べて45倍ものエネルギーがあったことになる。果たして、そうなのか?!
 東北地方太平洋沖地震のMは、気象庁の当初の発表では7.9であった。しかし、それが8.4に修正され、やがて8.8への再修正を経て、最後に9.0にまで「引き上げられた」のだ。
 実は、日本の従来の地震ではすべて、「気象庁マグニチュード(Mj)」の計算法が採用されてきた。ところが今回、気象庁は突如として、しかも何の説明もなく、8.8の段階から「モーメントマグニチュード(Mw)」の計算法を導入し、9.0にまで上昇させるにいたった。Mwは巨大地震の規模の表現に適したものとして国際的に広く使われているものの、日本ではこれまで地震学者間にしか通用していなかった。
 勝俣東電は前代未聞のM9.0を発表することで、「想定外」の大地震→大津波の方へ情報操作・世論誘導して、責任逃れを図っている。法律的に「未必の故意」として断罪されることを「想定外」で言い逃れようとしている。ここには、さらに「原子力損害賠償法」(原賠法)に絡む次のような隠れた事情も透けて見える。
 原賠法は原子力損害に対する電力会社の賠償責任を定めているものの、第3条第1項で「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」と電力会社の免責規定を設けている。
 勝俣東電の腹の内はこうである。福島第一原発事故の損害賠償が巨額(何兆円?)に上れば、一挙に経営に破綻を来たすので、賠償額のコストはできる限り小さくしたい。そこで原賠法の例外規定=「<想定外の天災>による原子力事故が生じた場合は、企業だけに責任を負わせるのではなく、国民の税金で被害補償をすることがある」、これをぜひとも発動させたいものである―。

 (4) 今ここにある「人災の闇」
班目、鈴木、勝俣の3悪人を告発して、裁判にかけよう !!
● 安全委は改組すべし!少なくとも班目ならぬデタラメ委員長は解雇すべし!
● 東電は事故処理費用と損害賠償額を、自社の全資産を売却して捻出すべし!
 電気料金の値上げなど論外である。発電装置と送電装置は、様々な電力会社に、従業員付きで売る―。
 はっきりしている点は、史上最悪の事故を生んだ原因企業・東電を安易に救済してはいけないことである。まずは東電が身を切り、国民負担はその後である。東電倒産後の事故処理と損害(国民の被害)を国民の税金で補償すること、これは致し方がない。

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                                   2011年5月31日 安田忠郎
         「ショートショートフィルムフェスティバル&アジア」のご案内
 

 「松田敦」監督・脚色・撮影・編集の短編映画のコンペ上映会についてお知らせします。
 
 松田敦(まつだ・つとむ、写真家)さんは、安田塾の第7~10回に出席されました。

 ショートショートフィルムフェスティバル&アジア(SSFF&ASIA)は、米国アカデミー賞公認の、アジア最大規模を誇る国際短編映画祭です。このショートフィルムの祭典が今年で13年目を迎え、6月16日から26日までの日程で開催されます。

a0200363_1538932.jpg 彼が昨年初めて制作した作品「Tokyo Tower Neo #1」は、SSFF&ASIA2011の第2回「旅ショーット!プロジェクト」部門で入賞しました。 
 同作は「建設中の東京スカイツリーのふもと、写真家の青年とたこ焼き屋の少女との短いふれあいを新緑のすみだ周辺の景色を織り交ぜながら描いた短編ドキュメンタリー」です。       
 
 同作のコンペティション上映会は、6月17日・25日の両日に開かれます(無料上映061.gif)。

・6月17日(金)13:30~ 表参道ヒルズ スペース オー(東京都渋谷区神宮前4-12-10) 東京メトロ銀座線・千代田線・半蔵門線「表参道駅」A2出口より徒歩2分
・6月25日(土)17:10~ ブリリアショートショートシアター(横浜市西区みなとみらい5-3-1 フィルミー2F) みなとみらい線「新高島駅」より徒歩5分 

 お時間が許せば、皆様お誘い合わせの上、ご鑑賞いただければ幸いです。

 なお、詳しくは http://www.shortshorts.org/2011/ja/ts/travel-b.html をご参照ください。
                                   2011年4月10日 安田忠郎                              
                    第10回安田塾のご案内
 

 今回は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】2011年4月23日(土)午後6時~8時30分
【講師】菊野暁(きくの・さとし、東京都市大学付属中学校・高等学校教諭)
【テーマ】「教員の考課査定を考える―学校法人・五島育英会の人事制度をめぐって―

【講師の宣言】 
「学校法人・五島育英会は2010年度に、高校以下の学校の教員に対し、考課査定を柱にした人事制度を導入しました。これは教員を3段階にランク分けし、賃金にも格差が生じる制度です。毎年の人事考課をもとに昇格・昇給が決まりますが、果たして公正・公平な評価がなされるのか、現場教員の不安は大きく、反発もしています。講演では、導入後1年の経験を踏まえ、制度の概要と学校現場での実状を紹介します。また労働組合の役員として団体交渉で感じた学校経営者から見た教師像なども織り交ぜて話を進めます。教員評価のあり方を考える手がかりになれればと思います。」

【講師略歴】
1981年 武蔵工大電気工学科入学
1983年 米国ルイジアナ州ノースウエスタン州立大学留学
1986年3月 武蔵工大卒業
1986年 日刊工業新聞社
1988年 埼玉県鷲宮町立鷲宮中学校 臨任
1989年 品川区立中学校 非常勤講師
1990年 武蔵工大付属中学校・高等学校 教諭
2006年 「東京都市大学付属中学校・高等学校」教職員労働組合 委員長

【安田のコメント】
 私は大学生時代の菊野さんを、明瞭に記憶しています。彼は次の2点に関して、当時の武蔵工大学生としては稀有な存在でした。
 ①彼が大学3年の1983年8月から84年2月まで、アメリカの地方都市の一大学に留学した点。
 日本では1970年代後半から海外に旅行・遊学する者が増加の一途をたどったとはいえ、当時はまだ「バブル景気」―通説では1986年12月から91年2月までの4年3か月間―の前夜であり、少なくとも武蔵工大では彼のように休学して留学に踏み切った者はそれまで絶無でした。
 ②彼が達意の文章を書くことができた点。
 私は約30年間、武蔵工大の教壇に立ちながら、学生に数多くの課題レポートの提出を義務づけました。そして、その都度痛感したのは、彼らの文章が総じて稚拙で、しかも理系の学生とは名ばかりで、論理性に乏しいことでした。私は彼らの多くに、日本語の文章の書き方を考えてもらうために、しばしば本多勝一『日本語の作文技術』を、時に谷崎潤一郎『文章読本』→川端康成『新文章読本』→三島由紀夫『文章読本』→丸谷才一 『文章読本』を勉強するよう指示したものです。しかし、菊野さんに対して、私はその種のアドバイスを何ら与えませんでした。彼の文章には優れた表現力が備わっていたからです。

【会場】「武蔵野商工会館」5階 第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」 中央口・北口(駅前ロータリー) 徒歩5分
〔サンロードを約150メートル直進→最初の十字路(本町新道との交差点)で左折→本町新道を約150メートル直進・丁字路右側〕
【会費】1000円

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、4月21日(木)までに、下記にご一報ください。
 Eメール:tadyas2011@excite.co.jp 
                                   2011年4月6日 安田忠郎
                   第9回安田塾のご案内 
 

 今回(第9回)は急遽、物理学者・環境経済学者の槌田敦(つちだ・あつし)さんによる講演会がセッティングされました。
 なお、この緊急集会の開催に伴い、既報(安田塾メッセージ№23)の、安田塾の第9回、第10回、第11回は今後、それぞれ第10回、第11回、第12回に変更されます。

【テーマ】「いま、福島原発に何が起きているのか?」
【日時】2011年4月16日(土)午後2時~4時30分 (開場・午後1時30分)

【講師略歴】
1958年 東京大学大学院物理課程入学
1962年 東京大学理学部物理教室助手
1966年 理化学研究所研究員(94年定年退職)
1994年 名城大学経済学部教授(2006年定年退職) 

【講師著書】
『石油と原子力に未来はあるか』亜紀書房 1978
『石油文明の次は何か』農山漁村文化協会 1981
『資源物理学入門』NHKブックス 1982
『エントロピーとエコロジー』ダイヤモンド社 1986
『原発安楽死のすすめ 』学陽書房 1992
『熱学外論 生命・環境を含む開放系の熱理論』朝倉書店 1992
『エコロジー神話の功罪 サルとして感じ、人として歩め』ほたる出版 1998
『CO2温暖化説は間違っている』ほたる出版 2006(誰も言わない環境論)
『弱者のための「エントロピー経済学」入門』ほたる出版 2007(誰も言わない環境論)
『「地球生態学」で暮らそう』ほたる出版 2009 (誰も言わない環境論)

【安田のコメント】
 巨大地震発生時に懸念された原発の大事故がついに発生しました。
 東日本大震災に伴う原発事故から目が離せない日々が続いています。
 フクシマはひとたび暴走した巨大システムの怖さを見せつけています。
 私たちは事故がいつ収束するか予断を許さない深刻な事態に直面しています。 
 人間は果たして原子力エネルギーを制御できるのか。そもそも原発という技術を、未来にわたって使いつづけるのか否かについて主体的な是非を決するよう、私たちは端的に迫られています。  
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 槌田敦さんは、環境問題を開放系熱力学により分析する「槌田エントロピー理論」を掲げて、長い間、反核・反原発・反核融合技術の立場を貫きつづけてきました。その人生は学者とは何か、学問とは何か、知的誠実さとは何かを示唆して余りあるものがあります。
 いま、私たちにできることは何か。何をなすべきか。何から始めるべきか。 
 何はともあれ、国策になびく御用学者・専門家・評論家のウサンクサイ無機質な言葉を遠ざけて、一人の良心的な学者の、表裏のないハートに響くお話に、じっくりと素直に耳を傾けることにしましょう―。

【会場】東京マスダ学院・多目的ホール
【住所】東京都江戸川区平井4-13-4
【tel】03-3684-2255
【アクセス】JR総武線「平井駅」南口・徒歩2分
【会費】1000円

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、4月15日(金)までに、下記にご一報ください。
 Eメール:tadyas2011@excite.co.jp 
                                   2011年4月1日 安田忠郎
 
 「安田塾」ブログを開設しました。 

 安田塾 は、2008年6月に発足しました。
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 同塾では、これまで学校教師をはじめとする多様な職種の方々が定期的(原則として3~4ヶ月ごとの土/日曜日)に会合し、広義の「文化」総体に関わる「教養」知をテーマ化した「学習・研究」活動を展開してきました。
 
 今回、安田塾の一層の発展・成長を期して、ブログを開設し、同塾メッセージを一般に公開するものです。
 会合(例会+懇親会)には、どなたでも自由に参加できます。ご参加いただき、お互いが隔意のない意見を交わし合うことができれば幸いです。
 
 安田塾の過去に開かれた会合(例会)は、次の通りです。                           

第1回安田塾>日時:2008年6月28日(土)午後6時~8時 「安田塾の発会」

第2回安田塾>日時:2009年6月27日(土)午後6時~9時 
   テーマ:「虚妄の大学改革―いわゆる文科系出身者が工学部長に就任して―」 
   講師:安田忠郎(やすだ・ただお、安田塾主宰)  

第3回安田塾>日時:2009年10月24日(土)午後6時~8時30分 
   テーマ:「一筋縄では行かない生徒たち―ニューヨーク・ブロンクスでの体験を通して―」 
   講師:原田淳(はらだ・じゅん、獨協中学・高等学校教諭)

第4回安田塾>日時:2010年1月30日(土)午後6時~8時30分
   テーマ:「脳科学を生かした授業を創る」  
   講師:荒川信行(あらかわ・のぶゆき、東京都品川区立三木小学校教諭)

第5回安田塾>日時:2010年4月24日(土)午後6時~8時30分 
   テーマ:「子どもの非行問題と警察や児童相談所との連携、生徒の処遇について」 
   講師:扇浩治(おうぎ・こうじ、東京都立六郷工科高等学校教諭)

第6回安田塾>日時:2010年7月24日(土)午後2時~4時30分 
   テーマ:「本能寺の変 427年目の真実―通説も新説も覆す『歴史捜査』―」   
   講師:明智憲三郎(あけち・けんざぶろう、第一情報システムズ常務取締役)

第7回安田塾>日時:2010年10月30日(土)午後6時~8時30分 
   テーマ:「公立学校の実態―中学教師から美術商へ―」 
   講師:伊藤仁(いとう・ひとし、アートディーラー) 

第8回安田塾>日時:2011年1月29日(土)午後2時~4時30分
   テーマ:「ネット時代の落とし穴―子どもたちをネットトラブルから守るには―」 
   講師:丹羽大恭(にわ・ひろやす、埼玉県熊谷市立大里中学校教頭)

 この第1回~第8回の開催に(直接・間接に)関わって、今まで、多数の各種メールが関係者に配信されました。安田塾の活動実態(発足~ブログ開設)を大方からご理解いただくために、それらを「安田塾メッセージ」№1~№24にまとめました。
 したがって、このブログ開設の報は、通し番号で安田塾メッセージ№25となる次第です。                  
 皆様へ 
                                   2011年2月19日 安田忠郎
                   第8回安田塾を終えて 

a0200363_20114924.jpg▲ 1月29日(土)の第8回安田塾・例会では、初めて参加した者が12名を数え、うち5名が「世田谷市民大学」関係者、4名が「武蔵工大」関係者でした。

▲ 例会では最初、私が「日本人は『自己主張』が苦手である!」と題して、午後2時から30分ばかりお話ししました。
 この話のきっかけを作ったのは、『週刊新潮』1月13日号のグラビア「藤原正彦の管見妄語・宣伝下手」という一文でした。そこでは、「世界一宣伝下手な日本は世界一宣伝上手の中国に翻弄され続けている」点が指摘され、直近の尖閣諸島中国漁船衝突事件、また昭和6年の満州事変前後、戦後の東京裁判などの例証が挙げられています。
 中国が「世界一宣伝上手」かどうかはともかく、日本が世界一、英語が下手で自己主張⇒自己宣伝が下手・苦手云々の点は、世界的に周知の事実です。この因って来たる根が歴史的・構造的にきわめて深いことを、私は過日の世田谷市民大学における講義で問題化したところでした。
 今回の私の話では、あくまで現象論的に、特にニューヨークの日常茶飯の光景を見すえながら、欧米人の自己主張の豊かさ・巧みさ・したたかさを描写しました。地下鉄・バス・映画館・劇場・レストラン・バー・路上等々における彼らの立居振舞はもとより、ホームレスや売春婦の生態についても、いかに日本人の場合と異なるかに私の関心が集中しました。
 なお、私は参会者一同に2件の宿題を出しておきました。①古代中華文明をかなり忠実に受け入れた日本人が中国の「宦官(かんがん)」制度を取り入れなかったのは、なぜか?②中国では古くからベッド(寝台)が使われていたのに、もともと―今はともかく―日本家屋にベッドがなかったのは、なぜか?

▲ 次いで、埼玉県熊谷市立大里中学校教頭の丹羽大恭(にわ・ひろやす)さんが約2時間、パワーポイントを使いながら、「ネット時代の落とし穴―子どもたちをネットトラブルから守るには―」と題する講演をしました。
 彼は2006年4月から4年間、埼玉県教育局北部教育事務所指導主事を務めた際、「子どもを取り巻くインターネットの現状」に関する調査研究に励みました。今回の彼の話は、その成果が反映されたものです。

 話の大略は、こうでした。
(1)現代社会は「高度情報通信社会」として、携帯電話―「ケータイ」に進化―やパソコンから、いつでもどこでも気軽にインターネットに接続できる大変便利な社会である。しかし反面、様々なネット犯罪やトラブルが起き、それに子どもたちが巻き込まれるケースが増加するとともに、子どもが被害者だけでなく加害者になるケースも多発している。
(2)実際に身近で起きたネット犯罪・トラブルの代表的な事例は、「出会い系サイト等による性的な被害」、「架空請求やワンクリック詐欺等による金銭被害」、「学校裏サイトやプロフ等によるネットいじめ」、「個人情報の書き込み等による情報流失」である。
(3)子どもに起こりがちな問題として特に、①ケータイ依存症、②高額な料金の請求、③被害者になりがちなネットトラブル(出会い系サイト・架空請求・フィッシング詐欺等)、④加害者にもなりうるネットトラブル(詐欺・チェーンメール・誹謗中傷・なりすまし等)が注目される。
(4)インターネットトラブルの原因となる要素は、a.知識・スキル不足、b.家庭や学校でのコミュニケーション不足に大別できる。したがって、その予防策・対処方法は、a.(知識・スキルの観点から)子どもたちがネット上の情報を見分け、ネット上の自分の行動を律しうる力を持つことであり、 b.(コミュニケーションの観点から)子どもたちが日頃から周囲の保護者や教師、友人などとコミュニケーションを図り、気軽に相談できる関係を築くことである。
(5)要は、情報社会の光と影を正しく理解し、子どもたちが安全に楽しく、良好なコミュニケーションのためにインターネットを利用できる環境を確実に整備することである。

 講演の各論中、私個人が最も興味を持ったのは、「学校裏サイト」の実態でした。
 学校裏サイトとは、学校の公式サイトとは別に立ち上げられたサイトであり、当初は学校行事や定期テストに関する情報交換を目的としたものの、最近では実名を挙げての心ない中傷が飛び交うなど、いじめの温床と目されるサイトです。そこでは、特定の児童生徒がいじめのターゲットにされ、いわれのない誹謗中傷を書き込まれた結果、強いショックを受け、大きな不安感に襲われ、あげくの果てに自殺に追い込まれています。
 
 文部科学省は2008年4月、中高生を対象とした「学校裏サイト」に関する実態調査―「青少年が利用する学校非公式サイト(匿名掲示板)等に関する調査」―の結果を公表しました。
 調査によると、存在が確認された学校裏サイトの数は全国で38260件を数えました。このうち、群馬県・静岡県・兵庫県の3県の2010件について、実際の書き込み内容を分析したところ、「きもい」「うざい」など誹謗中傷の32語が含まれていたサイトは全体の50%、性器の俗称など猥褻な12語が含まれていたサイトは全体の37%、「死ね」「消えろ」「殺す」など暴力を誘発する20語が含まれていたサイトは全体の27%に上りました。

 講演では、「ネットいじめ」への対応策として「情報モラル教育」の必要性が強調されるとともに、「日頃から『言葉』を大切にしましょう。『うざい』『きもい』『むかつく』『死ね』こんな嫌な言葉を学校や家庭から追放しましょう。● 『ありがとう』のあふれる学校や家庭にしましょう。」というスローガンが提起されていました。
 

 私はこの一種の「言葉狩り」について、参会者の注意を促しました。
 認識すべきは、「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」という、言ってはいけない言葉を追放すれば、能事終われりかといえば、決してそうではないという点です。いわゆる差別語(ないし侮蔑語)を使わせないようにしたところで、差別という現実がなくなるわけではありません。肝心なのは、差別を助長する言葉を消すことよりも、差別を押しつける現実自体を改革することにあります。
 私たちは単なる言葉狩りにうつつを抜かせば、必ずや次のような愚行を演じるにいたるでしょう。言葉を追放したり言い換えたりしただけで現実を改革したつもりになること。また、現実を改革することが困難な場合に、せめて言葉だけでも一時しのぎにごまかしてしまうこと。
 しかし、はっきりしている点は、「ネットいじめ」における「いじめ」それ自体が現代日本社会の構造的な問題であり、1970年代後半以降今日まで生起し続けてきた現実の「学校病理」現象にほかならないことです。
 もちろん、当の言葉の機能上、今日の子どもたちの言葉が貧困で、豊かな表現ができない点については注意を傾ける必要があります。
 人は例えば、力強い言葉に励まされ、思慮深い言葉で鍛えられ、瑞々しい言葉で癒される場合があります。一般に豊かな言葉には、豊かなボキャブラリー(語彙)が必要です。けれども、語彙が貧弱であれば、例えば「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」などと、けちな感情丸出しでしか表現できないのは理の当然です。感情をストレートに出すこと自体は時に人間的な価値の一環として評価されはしても、少なくとも「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」といった、対他関係の場面で否定的な条件を背負う言葉を弄してひとり悦に入るのは、とうてい許されません。そこでは最低限、なぜ、どのように「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」なのか、一体どんな印象を焼きつけられたのかを、一歩反省的に掘り下げて表現できる語彙力=人間力の強化が要請されます。
 ただし、言葉に出して表現するという場合、その表現力は必ずしも語彙の量(語彙数)に比例するものではない点が考慮されなければなりません。およそ表現力というものに必須の基本語彙があるとはいえ、表現力を高めるには、何よりも言葉そのものを自家薬籠中の物にする必要があります。これはお気に入りの言葉を区々まちまちに丸暗記するといった作業ではありません。そこでは書き言葉にせよ、話し言葉にせよ、両者の緊張関係のもと、あくまで言葉と価値観がワンセットになった「生きた言葉」として、自分の思想的文脈に沿って自在に使いこなせるようになることが肝要です。

 私たちは肝に銘ずべきです。子どもたちの言葉のあり方が問われるとき、根本的には、保護者や教師など周りの大人たちの言葉自体が問われていることを。 今の大人は果たして、自分自身の言葉を身につけているのでしょうか。子どもの言葉使いにとやかく干渉する前に、大人こそが断片的な知識の寄せ集めではない、自らの血肉として定着した言葉を紡ぐよう率先して力を尽くさなければなりません。大人が範を垂れてこそ、子ども自身の言葉の人間的な成長も促進されることでしょう。
 皆様へ
                                   2011年1月21日 安田忠郎
                第9回~第11回安田塾の予告

 第9回・第10回・第11回の安田塾を、下記の通りセッティングしました。
 今後の日程を組まれるに際して、安田塾の開催日をご考慮いただければ幸いです。

▼ 第9回安田塾は、次の通りです。
【日時】4月23日(土)午後6時~8時30分
【場所】「武蔵野商工会館」5階 第1会議室
【講師】菊野暁(きくの・さとし、東京都市大学付属中学校・高等学校教諭)
【テーマ】「教員の考課査定を考える―学校法人・五島育英会の人事制度をめぐって―

【安田のコメント】
 いわゆる「教員評価」制度は今や、日本の学校教師にとって死活にかかわる問題です。
 「小中高大」全体にまたがる一種の教員評価の問題が表面化したのは、1984年に設置された「臨時教育審議会」(当時の中曽根康弘首相の私的諮問機関)の4次にわたる答申においてでした。
 そこでは、第2次答申(1986年)で「適格性を欠く教師の排除」、第3次答申(1987年)で「大学教員の任期制」がうたわれた点が注目されます。そして幾多の曲折を経ながら、21世紀に入って次第に、同制度の導入が「指導力不足の教員」への対応策と相まって、全国の諸学校―大雑把に分類すれば、手始めは公立学校、続いて私立学校―で推進されつつあります。
 私は断言します。いやしくも学校教師たるもの、すべからく現代日本社会における教員評価(人事考課)システムをたじろがず直視すべし、と。

▼ 第10回安田塾は、次の通りです。
【日時】7月23日(土)午後2時~4時30分
【講師】小川彩子(おがわ・あやこ、グローバル・多文化教育者)
【テーマ】「泣き笑い挑戦人生:異文化、住んで学んで教えて旅して

【安田のコメント】
 小川さんは52歳で渡米、オハイオ州のザビエル大学修士課程→シンシナティ大学博士課程を修了(1998年「教育学博士」)、以後シンシナティ大学助教授として、「日本語・日本文化・グローバル教育」講座を担当してきました。
 彼女の人生の歩み方は、「魅力的」の一語に尽きます。彼女は自己変革を不断に志向しながら、「年齢の壁」・「文化の壁」に敢然と挑戦しつづけ、教師としての教育活動はもとより、地球探訪バックパッキング、異文化交流促進活動にも活発に打ち込みつづけて、今日にいたっています。
 私は2007年9月、ゆくりなくも日本社会で、彼女と初めてお会いしました。以来、折に触れて、彼女と談笑するたびに、「open-minded behavior」・「コスモポリタン性」・「社交性」の何たるかを心に反芻してきたものです。

▼ 第11回安田塾は、次の通りです。
【日時】10月29日(土)午後2時~4時30分
【講師】谷川建司(たにかわ・たけし、映画ジャーナリスト・早稲田大学客員教授)
【テーマ】「ハリウッドと日本のアカデミア

【安田のコメント】
 私が谷川さんと初めてお会いしたのは、1999年9月、NY(ニューヨーク)のコロンビア大学(CU)においてでした。両人は同年から翌年にかけて、CUの東アジア研究所(EAI)に「客員」として長期滞在しました。
 この間の今なお懐かしく思い出されるワンシーンは、2000年3月、彼と私が連れ立って、NY→サンディエゴ→ロサンゼルスを周遊、特にハリウッド界隈をめぐり、映画俳優・監督のデニス・ホッパー(1936~2010) の自宅兼事務所を訪問したことです。
 ホッパーはアメリカ映画史とアメリカのカウンター・カルチャーに大きな足跡を遺し、昨年5月29日に惜しまれつつ世を去りました。
 谷川さんは近々(2月5日)、ホッパーの供養のつもりで『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』(キネマ旬報社)を公刊します。それは素顔のホッパーとの20年余に及ぶ交遊録、「誰もが知っているデニス・ホッパーの、誰も見たことのない素顔」を貴重な写真の数々と共に浮き彫りにするものです。

 ところで、谷川さんは映画ジャーナリスト・映画評論家以外に、大学教師の仕事(専門は「映画史」・「大衆文化研究」)にも携わりました。2003年度から2009年度にかけて、茨城大学人文学部助教授→早稲田大学政治経済学部教授を務めました。
 この7年にわたる大学生活を総評して、彼は私にこう語ってくれました。「日本の大学、特に教員の力量がこれほどまでにレベルが低いとは!余りのヒドサに呆れ返るよ!」と。
 日本の大学、少なくともその現状をどう見るか、その基本的なところで、彼と私は見事に意見の一致を見たのでした。
 皆様へ
                                   2011年1月6日 安田忠郎
                    第8回安田塾のご案内 

 第8回安田塾は、下記の要領で開催されます。
 新春のひとときをご歓談いただければ幸いです。

■ 例会
【日時】2011年1月29日(土)午後2時~4時30分
【講師】丹羽大恭(にわ・ひろやす、埼玉県熊谷市立大里中学校教頭)
【テーマ】「ネット時代の落とし穴―子どもたちをネットトラブルから守るには―

【講師の宣言】
「今日的な状況下、携帯電話はケータイとなり、通話という本来の機能を離れ、新しいツールとなっている。子どもたちにとっても、自由な情報発信が可能となり、ネットいじめという新たな問題を引き起こしたり、さまざまな犯罪の引き金ともなっている。そこで、子どもたちをネットトラブルの被害者、そして加害者にしないために、大人として何ができるかを、私としては参加者の皆さんと一緒に考えてみたい。」

【講師略歴】
1984年3月、武蔵工大工学部機械工学科を卒業。
同年4月から埼玉県の公立中学校教諭として計22年、深谷市立深谷中学校→深谷市立藤沢中学校→妻沼町立(⇒熊谷市立)妻沼東中学校に勤務。
2006年4月、埼玉県教育局北部教育事務所指導主事に就任。
2010年4月より現職。

【会場】「武蔵野商工会館」5階 第1・第2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」 中央口・北口(駅前ロータリー) 徒歩5分
〔サンロードを約150メートル直進→最初の十字路(本町新道との交差点)で左折→本町新道を約150メートル直進・丁字路右側〕
【会費】1000円

■ 懇親会(例会終了後、講師を囲んで)
【日時】同日午後5時~7時
【会場】イタリアンレストラン「La Creaturaラ・クレアトゥーラ」(吉祥寺駅中央口・北口徒歩2分)
【住所】武蔵野市吉祥寺本町1-9-10 ファミリープラザビル3F
【tel】0422-28-4077
【会費】4000円

■ 第8回安田塾のご出欠について、該当する箇所( )に〇印をつけて、23日(日)までに、ご返信をお願いします。
・講演会のみに出席( )
・講演会および懇親会に出席( )
・講演会・懇親会を欠席( )
 皆様へ
                                   2011年1月4日 安田忠郎   
                    第7回安田塾を終えて 

▲ 第7回安田塾(2010.10.30)の例会では、最初に私が「日本人とは何か―私の炭鉱時代に出会った上司の生き方・死に方について―」と題して、40分ばかりのお話をしました。
 それは一人の「日本人」男子―私の「北炭幌内炭鉱(ほくたん・ほろないたんこう)」時代の忘れがたい上司・政安裕良(まさやす・ひろよし、1924.4.8~97.12.24)―の「実存的決断」にかかわる生き方・死に方の問題についてでした。

 彼は1994年に総胆管癌で手術後、余命いくばくもないことを悟り、「一体自分の一生は何だったのだろうかと、自ら振り返って考える縁として、過去の日記を繙き、其の当時に何を考え、何をやって来たのかを、もう一度良く考え直してみたいと思いた」ち、96年に回顧録『帰らざる小径』を、98年―死の直後―に続編『帰らざる小径(短歌編)』を自費出版しました(関係者に配布)。
 その回顧録の「あとがき」には、「人生齢72歳、今会社勤めも完全に終わって、わが来し方をふり返って見ると、人生漠々として、自分は一体何の為に、何をやって生きて来たのか、甚だ懐疑的にならざるをえない。今はこちらからでは無くて、死の方から着々と自分に近づいて来ている様な、その足音が聞こえてくる今日この頃である。」と記されています。

 彼は東京帝国大学経済学部を卒業し、「炭鉱マンにあらずば人にあらず」の時代に「北炭」に入社した「優秀な」企業人でした。1968年7月、同社の幌内炭鉱(1879年開拓使、開坑→高島炭鉱、三池炭鉱に次ぐ巨大炭鉱に発展)で、24歳の新入社員の私は、44歳の労務課長の彼と初めて出会いました。

    ↓ 1968年4月 幌内炭鉱 入坑直前                  ↓ 同年6月 出坑直後
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 彼は私の以後の人生行路上、折につけて私の運命を左右する重要な鍵を握る人物でした。とはいえ、彼は難局に当たって、私とは決定的に異なる態度を取る人間でした。
 

 二人の間に劇的な葛藤が生じたのは、1981(昭和56)年10月16日に発生した北炭夕張新炭鉱の「ガス突出事故」をめぐってのことです。彼と私は、以前に相前後して同社を退社していたにもかかわらず、連携を取りながら、93名もが死亡したこの大事件の背後に潜む問題を剔抉することを余儀なくされました。ところが、両者が一種の「限界状況」に追い込まれるにつれ、両者間の亀裂が深まり、両者の死生観および現状認識の根本的な違いが浮き彫りになりました。
 問題は彼が炭鉱という死に付きまとわれた世界をどう体感し把握したかです。彼の一生では結局のところ「死への先駆的覚悟性」(ハイデガー)とは無縁で、死ぬまでの一個の人生をいかに輝かせるかの視点が欠落していました。彼は実際上、ここを先途と闘う場面でも、生きる場のシガラミにとらわれるあまり、事の不正・欠陥を主体的に暴きだすことに逡巡し、及び腰になりつづけました。
 要するに、彼の生のたたずまいは、いわゆる「場の空気」に自らの意志決定を拘束された、したがって自律の心を失い、自由な批判精神が欠如した思考様式・行動様式に終始するものでした。

 政安裕良とは何者か。ありていに言えば、彼はいわゆる「日本人」の一典型でした。一般に日本人は人前に出たときに「私」が消えるといわれます。これは主体としての自己主張[ex.「我思う、ゆえに我在り」(デカルト)]がいかに脆弱であるかを物語るものです。彼は土壇場に立たされたとき、この国際的に認知された「日本人」類型を地で行くような歩みをたどりました。
 

 [ちなみに、1982年10月14日に北炭夕張新炭鉱が閉山→87年10月9日に北炭真谷地炭鉱が閉山→89(平成元)年9月29日に北炭幌内炭鉱が閉山→95年3月18日に北炭空知炭鉱が閉山。結果、1889(明治22)年に創立された北海道炭礦鉄道会社→(1906年に改称して)北海道炭礦汽船株式会社(通称「北炭」)は、ついに106年にわたる生命を閉じるにいたりました。]
 

 1997年も押し詰まって、彼の死の報がもたらされたとき、喪失感と寂寥感が不意に私を襲いました。何か心にポッカリ穴があいたような空虚感でもありました。
 やがて翌年に入って、私は勇を鼓して、彼の死に正面から向かい合う決意を固めました。以来、十数年、私は彼との交流にまつわる悲喜こもごもの思いを噛みしめ続けるとともに、「日本および日本人とは何か」、「日本文化のアイデンティティとは何か」という私の年来の問題意識を駆り立て続けてきたのでした。

▲ 引き続き、元中学教師で現在アートディーラーの伊藤仁(いとう・ひとし)さんが約2時間、「公立学校の実態―中学教師から美術商へ―」と題するお話をしました。
 彼はビデオや写真を多用しながら、(1)過去19年間の「教師」生活を振り返り、(2)ここ6年間の「美術商」生活を描写しました。

 彼は1986年3月に武蔵工大を卒業後、東京都大田区立大森第四中学校→品川区立鈴ヶ森中学校→港区立朝日中学校→台東区立桜橋中学校に勤務しました。
 (1)では、当の4校での実地検証にもとづく「中学教員の実務と研修」、「教員・生徒・保護者の実態」が具体的に例示・説明されました。個々の問題として、特に「ふれあい教育」、「ゼロ・トレランス(zero tolerance、不寛容)」、「学級崩壊」、「モンスターぺアレント」、「パワーハラスメント」などが参会者の関心を集めました。

 彼は2004年10月、桜橋中学校を退職し、Gallery p_prince collection を起業、現在にいたっています。
 (2)では、「美術品の真贋」にかかわる「美術品市場の裏表」、オークションのありようが赤裸々に語られました。ゴッホ(1853~90)の作品「ある男の肖像画」(オーストラリア・メルボルンのビクトリア州立美術館所蔵)の「真贋鑑定」問題など、興味深い話題がはずみました。
 彼の次の言葉が参会者の耳朶を打ちました。「美術品を売買するには、作品そのものをしっかり見る眼がなくてはいけない。あくまで自分が気に入って、納得した値段で購入すべきであり、利殖や投機目的で美術品には手を出さない方が無難である。たとえ無名作家や作者不詳の絵画でも、素晴らしい作品はある。ゴッホの作品だって、生前はたった1枚しか売れなかった!大金で贋作をつかまされるよりも、自分の感性にフィットした、かけがえのない作品を手に入れるのが一番である。」

 ところで、伊藤さんが教師→美術商の各職業の仕事内容を個別的に語りつづけ、終盤に及んだとき、単刀直入な質問が投げかけられました。「なぜ学校教師を辞めて、美術商になったのか!?」
 それは安田塾に今回初めて参加した、写真家の松田敦(まつだ・つとむ)さんによる、ずばりと核心を衝く直言でした。
 伊藤さんはこれに対して、「今の教師には自由がない!」と言い放ちながら、今日の学校教育の「管理体制」に対する批判的な立場を押し出しました―。

 人間の有限な生にとって職業とは、いかなるものでしょうか。人間は生き生きと精一杯生きようとするかぎり、必然的にロマンとリアリティーを兼ね備えた起伏の多い人生を歩むにいたります。この理想と現実のギリギリの接点を形成する場の一つが、社会的分業の一環としての職業にほかなりません。
 実存的な「職業の選択⇒変更の自由」が意味するところは、さすらいの旅人たる「個」が生活感覚のリアルさと理念的方向性のせめぎ合いで、自由意志の発露たる旅路をたどって、飽かず旅寝の宿りと渡世のなりわいを探し求めつづけることです。

 

 この職業における働くことの内実について、20世紀最大の思想家の一人であるハンナ・アーレント(1906~75)の知見に即して一考してみます。
 アーレントによれば、人間の活動力の基本的要素は「労働(labor)」と「仕事(work)」と「行為(action)」の三つであり、労働が「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」(生命を維持するための、やらざるを得ないからやる活動)であり、仕事が「人間存在の非自然性に対応する活動力」(自己実現的な、やりたいからやる活動)であり、行為が「ものや物質の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力」(言論による草の根の政治活動)である(『人間の条件』1958年)。
 私はかつて過酷な炭坑労働に身をもってまみれ、やがて逃走(≠逃避)した者として、ユダヤ人女性政治哲学者である彼女の場合、なぜに人間の「活動的生活」を構成する労働・仕事・行為という三つの能力に注目し、個々の特殊的意義を強調するにいたったのか、それが痛いほどよく分かります。
 彼女はナチスのユダヤ人迫害を逃れてドイツから1933年にフランスに、次いで1940年にアメリカに亡命しました。そして1951年、この自らを襲った「全体主義」の衝撃を命がけで受け止めながら、現代の記念碑的著作『全体主義の起源』を著わし、ナチスドイツやスターリン統治下のソ連で、いかにして「人間をまったく無用にするようなシステム」である全体主義が形成されたかを徹底的に分析しました。
 彼女は主張しています。問題の根本は、「労働」の優位のもと、「仕事」と「行為」が人間的意味を失った近代以降、とりわけ第1次世界大戦の終わりとともに「国民国家」と「階級社会」が崩壊し、「大衆社会」(人々の政治的無関心=現実逃避の傾向が強まる社会)が到来したことにある、と。
 そこでは、アトム化した大衆の根無し草の混沌の中から、テロとイデオロギーによる恐るべき政治現象としての全体主義が制度化されていきました―。

 最近、日本では「ワーク・ライフ・バランス」が声高に叫ばれています。それは、やりがいのある仕事と充実した私生活を両立させる社会への変革をめざすものです。
 この点、私たちは今や、彼女アーレントのいう労働・仕事・行為、さらには「遊び」(cf.ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』1938年)の多面的な視点に立って、身過ぎ世過ぎとしての職業の全容をとらえ直し再構成しなければなりません。
 そこでは、労働主義―労働を人生の第一義とする風潮―から解放された、緊張と余裕、秩序と自由の間を繰り返し行き来する自己実現的な活動を基底的な了解とする職業観がことのほか重要となります。

 伊藤さんの、松田さんへの応答内容には、裸の魂の脈動を感じさせるものがありました。自己実現をめざして、自分を奮い立たせるための「個」の実存的エネルギーが発露した結果、彼は教師→美術商という職業変更に踏み切りました。
 (ちなみに言い添えると、「自己実現(self-realization)」とは元々は心理学用語で、「個人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」を意味する。)
 皆様へ
                                   2010年12月18日 安田忠郎
                世田谷市民大学での講義を終えて

 既報(安田塾メッセージ№16)の通り、世田谷市民大学における私の講義(「人間観の基底―日本人における『個』の自立の可能性を考える―」)は、9月16日に始まり、12月9日をもって終了しました。
 
 この講義全12回(9.40~11.00a.m.)のすべてが、私にとって有意義で充実した時間でした。そこでは、私の経験知⇒理論知が率直にフル展開されるとともに、1回80分×12回=960分(16時間)が私の「根源的時間」(ハイデガー)と化して、たちまちのうちに過ぎてしまいました。
 何より嬉しかったのは、私の講義が熱を帯びるにつれ、話が受講生の胸奥まで届き、確かな手応えを受け取ることができた点です。
 
 当の受講生は計112名、その年齢層は60代が過半数を占め、次いで70代が多く、40代・50代・80代がごく少数でした。また性別では男性が64名、女性が48名を数えました。

 受講者の圧倒的多数は、私と同時代人でありました。私と彼らは、何物にも代えがたいことに、戦後日本の「生活困窮」→「高度経済成長」→「石油ショック」→「バブル景気とその崩壊」という同じ激動の時代を生きてきました。だからこそ、私の講義における言葉の数々は、世代間の断層に煩わされることもなく、思想的ないし心情的な共感を呼び起こし、巧まずしてコミュニケーションの円滑化を進展させることができました。

 しかも、悦ばしい限りなのは、彼らの9割方が海外経験―旅行or 出張or 居住―の持ち主であったことです。中には、世界30か国を歴訪した人、ニューヨークに4年間駐在した人も存在しました。数多くの異文化体験者を前にして、私の諸国行脚にもとづく「世界の中の日本&日本人」論は、いやが上にも気勢が上がりました。

 それにしても、私の講義中における教場の雰囲気は、時に熱っぽく、時になごやかで、時に粛然とし、全体として生気に満ちた、実に感じのいいものでした。 
 受講生は総じて熱心に私の話に耳を傾けてくれました。彼らの一部はたとえ私が長広舌を振るっても、話の内容を細大漏らさず受け止めてくれました。また、一部は打てば響くような反応を返してくれました。…
 いや、本当に素晴らしいことに、私は今回、現代日本の一般大学でお馴染みの授業光景―所在なげに虚ろな視線をさまよわせる者、棒くいのように無表情に押し黙る者、机の上に突っ伏していぎたなく眠りこける者等々とは、まったく無縁でありえたのでした。
 
 そして、かたじけなくも、ある受講生から一昨日、次のようなメールも頂戴しました。
 「世田谷市民大学では、興味深い講義大変面白く学ばせていただきました。まだまだ講義を続けていただきたい気持ちで一杯でしたが、残念ながら…。機会あれば又お話を聞かせてください。有難う御座いました。」

 私は各回の講義を終えるたびに、学生時代に読んだ羽仁五郎(故人、歴史学者)の著書(『私の大学―学問のすすめ』講談社現代新書、1966年)における次のような名言を、まざまざと思い浮かべたものです。
 「大学があるところに学問があるのではなく、学問があるところに大学がある。」 
 そうです、「学問」、すなわち「学んで問うこと」、これがすべてなのです。この点は、私がかつて夜間の「専門学校」講師として勤労者の教育活動に携わった折も、実感をもって胸に迫る問題でした。私は世田谷市民大学において、今更のように事の意味を強く噛みしめ直したのでした。
 彼らとの思いがけない出会いの機会に恵まれた幸運を、私としては心より感謝する次第です。

 ところで、今回の講義の進め方について、私としては反省すべき点が多々ありました。以下、私はその、よって来たる事情を顧みることにします。
 
 既報(№16)のとおり、講義では、次のようなテーマが掲げられました。
①幕末維新期に来朝の欧米人(特にイザベラ・バード)が展開する「日本及び日本人」論
②日本の近代化とナショナリズムの問題―「開国」とは何か
③私の諸国(特に米国ニューヨーク)行脚に照らした特殊日本的エートス
④西洋教育思想(特に「ソクラテス-プラトン」問題→ルソー→アダム・スミスの思想的脈絡)における「人間」の問題
⑤西洋哲学(特にカント→ヘーゲル/マルクス→フォイエルバッハ/キルケゴール→ニーチェ→ハイデッガーの思想的脈絡)における「人間」の問題

 各テーマは総体的な講義の一環として有機的に位置づけられたものであり、特に③は他の諸テーマの基底部を具体的に縁取るように配慮されたものです。
 そして実際上、講義は基本的に、次のような項目順で進められました。
 ここでは、おおむね①が⑴⑵⑶⑷⑸に、②が⑹⑺⑻⑼に、それぞれ小分けされ、④⑤が<個>的実在の足下にこだわるか否かの基準で、⑽と⑾に再編されています。そして③については、⑴~⑾すべてに何ほどか関係するものの、ことさらに⑷⑸への適用に力点が置かれました。なお、①→⑴⑵⑶⑷⑸の内実について、より分析的に言えば、⑶⑷⑸は⑵の論点を一層リアルに闡明するために設定されたものです。

⑴幕末維新期の欧米人による「日本人は優秀」説
⑵幕末維新期の欧米人による「日本人は大嘘つき」説
⑶日本的共同体の構成原理=共通の時間意識+贈与・互酬関係+長幼の序
⑷日本人・日本民族のエートス=「和」+「ケガレ」+「言霊」+「怨霊」
⑸イザナキ-イザナミの日本神話vs.オルペウス-エウリュディケーのギリシア神話
⑹マクロの歴史的視点に立った「日本と世界の関係の変化」論=「単一の文化宗主国に対する上下垂直関係」から「前後左右の水平多項構造」へ
⑺日本の近代化と「第1の開国」→「第2の開国」→「第3の開国」
⑻日本のナショナリズムの問題―特に明治7(1874)年5月の「台湾出兵」に即して
⑼戦後日本の産業構造上の大転換(第3次産業)―特に消費資本主義の展開(必需消費<選択消費)に即して
⑽日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(a)⇒ソクラテス+デカルト+ルソー+アダム・スミス+カント+フォイエルバッハ+キルケゴール+ニーチェ+ハイデガー
⑾日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(b)⇒プラトン+ヘーゲル+マルクス
 

 これら各項目は、どれ一つとして、まともに対象化するなら、とても講義1回80分程度で事足りるものではありません。それゆえ、一般的に言って、限られた一講義枠で、これだけの多岐に及ぶ項目を取り扱うのは無謀な試みというほかありません。
 しかし、今の私には自負があります。
 私は永い時間―少なくも30年!―をかけて、日本人の人間観と、欧米人のそれとの違いが、とりわけ死生観に即して、身にしみて分かるようになってきました。したがって、各項目の話が冗長に流れず、決定的なエッセンスに集中できれば、11項目全部を網羅した所期の講義計画も何とか完遂できるであろうと、講義前の私は楽観していたのでした―。
 

 私が「日本および日本人とは何か」の問いを意識するようになったのは、30代前半の、生まれて初めての海外旅行に端を発します。
 私は当初、ダイビングを楽しむために、旅行社のパックツアーを利用してグアム→サイパンを、そして個人的に計画してタヒチ→ボラボラ→モルディブを旅行しました。これらの島々は、鮮やかなエメラルドグリーンに輝く漫々たる海に囲まれています。私はその自然の景観の美しさに目を奪われました。特にボラボラ島、モルディブ諸島の目も綾な景観は、しばし見とれて時間も忘れるほどのものでした。
 この旅行の際に、私は「外国人」の、特に「衣食住」の生活スタイルをじかに見聞しながら、日本人のそれとの違いをあれやこれやと、とりとめなく考えるようになりました。
 次いで、私は36歳のとき、初めてオーストリアを旅行しました。この時、ウィーン大学の関係者(教師+学生)と、またウィーンおよびザルツブルクの市井人と、何気ない会話を楽しみながら、彼ら「外国人」―何よりも欧州人―の個人としての生き方と日本人の個人としての生き方の違いにはっきりと気づくようになりました。
 やがて30代の終わりから50代前半にかけて、私は主としてフランスのパリ→イタリアのローマ→タイのプーケット→マルタのゴゾを周遊しながら、いよいよ「日本人とは何か(本質)」の問いの重要さを痛切に自覚するようになりました。
 そして50代半ばで、私はニューヨークにたどりつき、コロンビア大学東アジア研究所での約1年2ヶ月の滞在期間中(1999年8月~2000年9月)、「世界の中の日本&日本人」問題に本腰を入れて取り組むにいたりました。ちなみに、前掲の項目⑹⑺⑻の基本的な認識は、その際に養われたものです。

 翻って私の思想形成過程を考えてみると、「経済学-社会思想史」専攻の大学生時代の大きな関心事は、ヨーロッパ近代思想史でした。
 中でも、私は(1)「近代」出発の胎動的なルネサンス→宗教改革→市民革命の歴史的過程を、(2)近代資本主義の根本矛盾(自己増殖する価値としての資本)の克服を目指すマルクス主義の成立過程(ドイツ古典哲学+イギリス古典経済学+フランス社会主義⇒マルクスおよびエンゲルスの思想体系)を、(3)「宗教改革」+「資本主義」を総体的に問題化するマックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、身を入れて勉強しました。
 とはいえ、私の場合、その勉学自体に何かしら物足りなさを覚えていたのでしょう、大学最終学年の卒業論文は、近代日本最初のマルクス経済学者で、「波乱万丈の人生」を送った河上肇(かわかみ・はじめ、1879~1946)の「生涯と思想」を主題化しながら、彼の一生を貫いた「宗教的真理と社会科学的真理との統一」という彼特有の命題に注意を注ぎました。
 
 そして他方、この学問的活動の問題とは別個に、当時の私は日常的な生活態度にかかわる、ある思い(問題意識)にとらわれつづけていました。
 それは要するに、人間個人の内的世界と外的状況との「接点」の問題であり、なぜに周囲・環境世界が状況的に私自身の内的自由を抑圧するのかという問題意識でした。 
 実情に即して言えば、私は事あるごとに、周囲の状況への同調⇒同化⇒いわゆる「和」を強いる力を感じとり、そして決まって、それへの違和感を覚えつづけたものです。この点、大学紛争のような「非常時」はもとより、大学の日常的な光景全般―授業・ゼミ・クラブ活動・体育祭・学園祭・入学式・卒業式等々―もまた、私の割り切れない違和感の対象となりました。
 

 私における周囲の雰囲気や人間関係に対する違和感の問題は、何も大学生活に限られたことではありませんでした。それ以前の幼稚園・小学・中学・高校の各段階でも程度の差はあれ、私が自発的・自主的に振る舞うほどに、その違和感が膨れ上がったものです。少年時代の私は、思うところを率直に実行に移すたびに、周囲の誰彼―特に学校教師―から、「わがまま」とか「生意気」とか「自分勝手」とか「協調性に欠ける」とかの小言を浴びせられ、言動に何らかの掣肘を加えられたものです。
 今にして思えば、この少年時代以来の堆積する違和感に何とか向き合い、その客観的根拠を尋ねはじめたのが、ほかならぬ学生時代の私の思想的態度であったといえましょう。

 この違和感は人間の存在構造上、自己主張的な生命力の発露を圧迫する力を受け止めるところに生起する苦痛の感覚、その意味での「受動的苦痛」=「受苦」(フォイエルバッハの言うLeiden⇒Leidenschaft)にほかなりません。
 私自身の「受苦」の問題は、やがて大学卒業後の「会社」時代→退社後の「大学院」(教育哲学・教育思想史専攻)時代をとおして、一層具体的に顕在化し、広がりを見せていきました。その結果、私の思想世界では、次のような仮説がおいおい頭をもたげ、像を結ぶことになります。 
 すなわち、【この国の】あらゆる「集合」体が―政党でも会社でも組合でも学校でも、また官界でも政界でも財界でも学界でも法曹界でもマスコミ界でも―、当該集団への個々人(構成員)の「同化」(⇒個人の個性・創造性の圧殺)志向を、本質的に内包していること、したがってまた【この社会の】人間一人一人が当該集団の内(ウチワ)と外(ヨソモノ)との「重層的・伸縮的」な区別⇒[表層]ソト―タテマエ―オモテ―ギリ(義理)と[深層]ウチ―ホンネ―ウラ―ニンジョウ(人情)の立体構造という一種の共同体的秩序に何らかの形で寄り添って生きていること、これです。

 こうした私の仮説は、前述した30代前半からの海外めぐりによって、漸次実証されていきました。
 そこでは、何よりも私のニューヨーク体験が決定的でした。

 ↓ 9.11以前のロウアー・マンハッタン
a0200363_16252887.jpg ニューヨークは「世界で最もエキサイティングな街」、「文化が空気の中にある<眠らない街>」です。市内では、およそ170の言語が話され、人口の40%近くがアメリカ合衆国の外で生まれた人―つまり「外国人」―です。
 私はこの「人種のサラダボウル(salad bowl)」たるニューヨークを「居場所」にしたときはじめて、目から鱗が落ちる思いに浸りました。(ちなみに、当時の私の居宅は、ニューヨークが濃厚に凝集するマンハッタンの、そのマンハッタンが濃厚に凝集するミッドタウンの、40階建てアパート―日本でいうマンション―の28階の一住居でした。)
 ようやく、はっきりと分かったのです。問題点が洗い出され、疑点が解明されたのです。ここでは最低限、次の2点だけは特筆大書されなければなりません。
 
 第1に、私は日本(日本国家・日本社会)が世界の中の一国であるという当たり前の事実を全身的に認識できました。自分が生まれ育った日本という場を生まれて初めて、まっすぐに対象化し相対化することができました。 
 したがって第2に、私はあえて、自己内部の違和感=「受苦」の事実に立脚した前掲の仮説を全身的に立証できたとする自負心を誇示するものです。増上慢な態度とそしられようと、当の仮説に対して枚挙にいとまがない確証を得た私としては、いささかも動じるものではありません。 

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                                   2010年11月13日 安田忠郎
                     岡倉天心のアジア主義

 既報(安田塾メッセージ№17)のとおり、私は10月17日、天心記念五浦美術館において、東郷登志子さんの講演「岡倉天心『The Book of Tea』のコード」を拝聴しました。
         ↓ 天心の六角堂 
a0200363_22525278.jpg 今回、私が彼女の講演内容から特に印象づけられたことは、❶彼女が英語をさわやかに発音し、流暢に話した点、❷天心が博覧強記の人であり、『茶の本』の執筆に当たって、万巻の読書にもとづく古今東西の思想を縦横に駆使している点でした。
 彼女は❷に関して、「暗示とは何か」→「暗示を言語化するためにとられた方法」→「枠組みに用いられた西洋の古典・文学」を順を追って説明し、天心の類まれな英語に込められた芸術的な意匠を解析しました。
 ここでは、次の点が最終的に確認されました。『茶の本』における「暗示を言語化する」手法はシェイクスピアの「概念のイコン化(イメージ化・言語化)」の強い影響下にあり、そして『茶の本』全体の思想的枠組みは『聖書』(特に『新約聖書』「マタイ伝」)、『老子』、仏教、「進化論」、シェイクスピアの英語(初期→後期の推移)等々によって設定されていること―。
 

 ところで、私はかねてから、岡倉天心(1863~1913)に特別な関心がありました。それは、「社会思想史」を専攻した学生時代をピークとして、以後も時に希薄化しながらも今日まで私の思想世界の底に命脈を保ってきました。その特別な関心は、次の2点に集約されます。
 
 (1)天心は幼少時代から英語を学び、母国語のように使いこなして、アメリカ世論を動かすほどの英語名人であった。彼の英語力と人柄をよく表わす(半ば伝説的な)エピソードがある。
 1904年、彼が弟子の横山大観らを伴って渡米した際のこと。一行が羽織・袴でボストンの街中を闊歩していたところ、アメリカ人の青年数人から冷やかし半分の声をかけられた。

 Which nese are you, Chinese or Japanese?
 「お前たちはどっちのニーズか。チャイニーズか、ジャパニーズか?」
 これに対して彼は、穏やかに、しかし即座に、こう流暢な英語で切り返した。
 We are Japanese gentlemen. But which kee are you, Yankee, Donkey or Monkey?
 「我々は日本の紳士です。ところで、そういうあなたがたこそ、どんなキーですか。ヤンキーですか、ドンキー(驢馬、馬鹿者)ですか、それともモンキーですか?」

 私はニューヨークに滞在するたびに、ニューヨーカーから今までに何度も“Are you a Chinese?”と聞かれたものです。そして、その段になると決まって、私は天心を幾分意識して“I'm a Japanese gentleman.” と応じながら、次に相手に向かって「日本という国がこの地球上の、どこにあるかご存じですか?」と発問しました。ところが残念ながら、コロンビア大学関係者はともかく、ほとんどの一般ニューヨーカーが日本の世界地図上の位置はおろか、日本という国の名称さえ知りませんでした。
 
 (2)彼は近代日本の思想史上、「アジア諸国が連帯し、西洋からアジア(東洋)を防衛することを目指した」思想、すなわち「アジア主義」思想の父と位置づけられている。
  彼の英文著書『The Ideals of the East with special reference to the art of Japan (東洋の理想)』(ロンドンで1903年に刊行)の冒頭の一節は、つとに有名である。          

 ASIA is one. The Himalayas divide, only to accentuate, two mighty civilisations, the
Chinese with its communism of Confucius, and the Indian with its individualism of the
Vedas. But not even the snowy barriers can interrupt for one moment that broad expanse of
love for the Ultimate and Universal, which is the common thought-inheritance of every
Asiatic race, enabling them to produce all the great religions of the world, and distinguishing
them from those maritime peoples of the Mediterranean and the Baltic, who love to dwell on
the Particular, and to search out the means, not the end, of life.

 「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明―孔子の共同主義をもつ中国文明とヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、両者をただ強調するだけのものとなって、相分かっている。しかし、この雪を頂く障壁といえども、究極普遍的なものを求める広大無辺な愛を、一瞬たりとも妨げることはできない。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、彼らをして世界のすべての大宗教を生み出さしめたものであり、また個別的なものに執着して、人生の目的ならぬ手段を探し出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族から、彼らを区別するところのものである。」

 『東洋の理想』では、インドの仏教や中国の倫理思想が日本の芸術・文化の歴史に総合されていることが文明史的に論じられ、侵略的な西洋近代文明に対する東洋的理想の復興と日本の使命が説かれる。天心の場合、近代日本を「西洋対日本」という図式で考えるのではなく、あくまでもアジア総体のあり方において日本を把握する。
 その意味で、天心の思想のキーワード「アジアは一つ」(「アジアの一体性」)は、彼の文明論的な認識の象徴にほかならない。しかし後に、時代の緊迫した状況下、この言葉は「アジア主義」の単刀直入な主張として尊重されるようになり、「大東亜共栄圏」を支える政治的なスローガンにもなった。

 私は学生時代この方、大雑把に単純化して言えば、岡倉天心を、アジア主義、つまり「欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した」興亜論(こうあろん)の思想的文脈に沿って、また福澤諭吉(1835~1901)を、「アジアを脱して欧米にならう」脱亜論(だつあろん)の思想的文脈に沿って、それぞれ読み分けてきました。
 もとより思想と現実とののっぴきならない相克の事態は本来、その種の単純化を許すものではありません。したがって、福澤vs.天心がしょせんは便宜的な分類にすぎないことを承知して言えば、世界における日本の現在は、福澤的脱亜論と天心的興亜論の両者の現代版が目まぐるしく交錯し、せめぎ合う状況下にあります。その意味で、21世紀のグローバル化の時代を迎えた私たち日本人は、今まさに幕末維新期以上の底深い crisis (分岐点=危機)に立たされていると言っても過言ではありません。

 ついでに言えば、「脱亜論」とは、もともと1885(明治18)年3月16日の新聞「時事新報」紙上に掲載された「無署名」の社説を指します。これが1933(昭和8)年に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に収録されたため、福澤諭吉が執筆した社説と一般に受け取られるようになりました。
 ここでは、「我日本ノ國土ハ亞細亞ノ東邊ニ在リト雖ドモ其國民ノ精神ハ既ニ亞細亞ノ固陋ヲ脫シテ西洋ノ文明ニ移リタリ」→「然ルニ爰ニ不幸ナルハ近隣ニ國アリ一ヲ支那ト云ヒ一ヲ朝鮮ト云フ」→「惡友ヲ親シム者ハ共ニ惡名ヲ免カル可ラズ」→「我ハ心ニ於テ亞細亞東方ノ惡友ヲ謝絶スルモノナリ」と主張され、日本国はアジア諸国との連帯は考えずに西洋近代文明を積極的に摂取し、西洋列強と同様の道を選択すべきだと結論づけられます。

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                                   2010年10月3日 安田忠郎
                    第7回安田塾のご案内

 第7回安田塾は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】2010年10月30日(土)午後6時~8時30分
【講師】伊藤仁(いとう・ひとし、アートディーラー)
【テーマ】「公立学校の実態―中学教師から美術商へ―

【内容】
教師⇔美術商の複眼的思考からの「教育現場」の探索・切開いかんが注目されます。とりわけ教師の本音と建前の問題など、現職の教師ではなかなか語りがたい、学校社会の裏表に通じた話が期待されます。

【講師略歴】
1986年に武蔵工大工学部機械工学科を卒業後、19年にわたって東京都の公立中学校教諭を務め、2004年にギャラリー経営に転身、現在Gallery p_prince collection 代表として、また「星の王子さまファンクラブ」会長として活躍中です。

【会場】「武蔵野商工会館」5階 第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」 中央口・北口(駅前ロータリー) 徒歩5分
〔サンロードを約150メートル直進→最初の十字路(本町新道との交差点)で左折→本町新道を約150メートル直進・丁字路右側〕
【会費】1000円

■ 懇親会(例会終了後、講師を囲んで)
【日時】同日午後8時40分~10時30分
【会場】「えん」吉祥寺店(吉祥寺駅北口徒歩2分)
【住所】武蔵野市吉祥寺本町1-2-8 真栄ビル2F
【tel】0422-29-0309
【会費】4700円(食事3200円+飲み放題1500円)

■ 第7回安田塾へのご出席について、該当する箇所( )に〇印をつけて、23日(土)までに、ご返信をお願いします。
・講演会のみに出席( )
・講演会および懇親会に出席( )
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                                   2010年9月27日 安田忠郎
                 「観月会2010講演会」のご案内 
 

 私の知人―先の第6回安田塾に出席された東郷登志子さんの講演会についてお知らせします。
 

茨城県天心記念五浦美術館の「観月会2010講演会」
演題:「岡倉天心『茶の本』のコード:ルネッサンス的伝統の継承と画期的創造への挑戦
講師:東郷登志子(とうごう・としこ、目白大学講師、茶の湯学会員)
日時:10月17日(日)午後1時30分~3時30分
会場:「茨城県天心記念五浦美術館」講堂
住所:茨城県北茨城市大津町椿2083
tel: 0293-46-5311
アクセス:JR東日本・常磐線・大津港駅下車 タクシー約5分

 ↓ 岡倉天心         ↓ 天心が愛した五浦海岸          
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 天心記念五浦美術館は、岡倉天心(おかくら・てんしん、本名は覚三、1863~1913)やその指導を受けた横山大観・下村観山・菱田春草らの業績を顕彰するとともに、優れた作品が鑑賞できる美術館として、1997(平成9)年11月8日に開館しました。
 
 1903(明治36)年、茨城県の五浦(いづら)を訪れた天心は、この太平洋に臨む人里離れた景勝地に魅了され、早速土地と家屋を購入し別荘としました。そして1905年、自らの設計により邸宅と「六角堂」を新築しました。天心邸は建坪107坪の広大なものであり、朱塗りの六角堂は波頭が寄せる岩頭に建つ「芸術鑑賞と対話のための茶室的空間」です。
 天心はこの五浦に転居して以後、夏は五浦、冬はアメリカのボストン(1904年ボストン美術館勤務→1910年同中国・日本美術部長)と、ほぼ半年ごとに往復する生活を送ることになります。
 ちなみに、五浦海岸の大小の入江と美しい松林は「日本の渚100選」に、海岸の波音は「日本の音風景100選」に選ばれています。

 東郷登志子さんは、岡倉天心―才知溢れる「国際人」にして「日本文化」の伝道師―の思想と言語芸術を長年研究してきました。そして2006年8月には、『岡倉天心「茶の本」の思想と文体―The Book of Tea の象徴技法―』(慧文社)を著わし、天心の不朽の名著『The Book of Tea (茶の本)』(ニューヨークで1906年に刊行)を、様々な角度から検討し、現代的メッセージを含んだ「天心コード」を読み解くにいたりました。
 観月会講演では、ダヴィンチ・コードならぬ天心コードの一端が分析され、天心の類まれな才能と深い洞察力が緻密に計算されたものであることが明かされます。

 私は当日の講演会に出席します。
 私はかねてから、天心には大きな関心がありました。特に天心が当代きっての英語名人であり、また「アジア主義」思想の持ち主であることに注目しつづけてきました―。
 

 なお、講演会の前日には、「天心邸茶会」が開かれます。また、観月会の期間中ですので、「堅山南風(かたやま・なんぷう、1887~1980)」展が開催されるとともに、国内・国外の見ごたえのある数々の名品も展示されます。天心の旧居宅や、天心が読書と思索にふけった六角堂、別名「観瀾亭(かんらんてい)」[=「瀾(大波)を観るあずまや」]も必見に値します。   
 

 皆様には、お時間が許せば、ぜひ足をお運びください。
 ご参加を希望される方は、恐縮ですが、その旨私にご一報ください。
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                                   2010年9月5日 安田忠郎
                世田谷市民大学における私の講義
 

 私はこの9月16日~12月9日の各週木曜日、「世田谷市民大学」において、2010年度「人間コース・後期1時限」の講義を担当します。
 講義名は「人間観の基底―日本人における『個』の自立の可能性を考える―」。
 回数は全12回、時間は各回80分(9.40~11.00a.m.)です。受講者は110名前後に上ります。
 

 世田谷市民大学は、1981年4月に「市民のための新しい大学」という理念のもとに開学し、たんなる「生涯学習」とは一線を画したシティズンシップの形成をめざすリベラル・エデュケーションを励行しつづけ、ちょうど今年で30周年を迎えました。今では他に類例を見ない特色ある市民教育機関として広く注目される存在となっています。

 私が世田谷市民大学の講師を進んで引き受けたのは、受講生が話者である私の良き聴者となることは間違いないと判断したからにほかなりません。その大部分は、私と歴史的現実を共有した同時代の人々です。そうした彼らなら、1960年代以降の私の思想的・実践的営為に素朴な共感をいだくとともに、私の「経験⇒理論」的な探求精神にもとづく「世界の中の日本&日本人」論に格別の関心を寄せることでしょう―。

 なお、私は先日、市民大学事務局に講義の「概要」(A4判)を提出しました。以下に転記して、皆様のご参考に供します。

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                                   2010年8月20日 安田忠郎
            連合三田会大会における「明智憲三郎」講演会のあり方

 7月24日の第6回安田塾にご参加いただき、ありがとうございました。
 いま8月半ばの酷暑の折から、私は忙中閑あり、つれづれに第6回安田塾の講演会を思い返しながら、一筆したためます。

◆ 第6回安田塾では、明智憲三郎さんの「本能寺の変」に関する講演が参会者の視聴を集め、好評を博しました。
 そして今度は、10月24日の「2010年慶應連合三田会大会」 で、同じ講演が行われます。明智さんは今や時の人、得がたいチャンスに恵まれました。
 ちなみに、通称「連合三田会大会」とは、慶應連合三田会(=慶應義塾の同窓会組織)が毎年秋に慶應義塾大学日吉キャンパスで開催する大規模な同窓会のことです。
 当該講演会では、会場の規模次第とはいえ、参会者はおそらく数百人に上ることでしょう。しかも、何より問題なのは、講演の時間帯が13:15~14:00、正味45分にすぎないこと。したがって、この状況・条件下で、「本能寺の変」の何を、どう語るべきかが、彼に端的に問われるわけです。

◆ もともと彼の「本能寺の変」論は、2時間ばかりの、まして45分足らずの講演会で話が尽きるような空疎なシロモノではありません。
 とはいえ、彼はいかなる講演の機会をも、たんなる「一場の戯れ」としてではなく、「歴史の書き変え」の好機として位置づけしていることでしょう。自著『本能寺の変 427年目の真実』は、「四百年以上にわたって伝えられてきた歴史を書き変えるという、これから先も続く壮大な取り組みにご支援を賜れれば幸いに存じます。」と強調しています。
 私はこの澎湃たる執念・気魄に心情的共感を覚えます。そして老婆心ながら、前掲書を熟読玩味した私は、彼の講演のあるべき手順・方法を主題的に一考しました。ここでは、第6回安田塾における彼の講演の仕方が検討されるとともに、今後の彼の講演ができるだけ効果的な発信性・説得性を持つための望ましい構成・段取りについて考察されました。 
 この点に関する私の主張の骨子を以下の(1)および(2)に記して、皆様のご参考に供します。彼の講演をじかに聴かれた皆様には、この私のいわんとする点に、どういう感想を持たれるでしょうか。

(1)結論的に言えば、彼の講演では「本能寺の変」の問題の核心を衝くべく、まず直截に「織田家長期政権」構想にもとづく「構造改革」の問題状況から説き起こすべきです。
 重大事はどこまでも信長の「天下布武」に伴う大改革です。彼はこれを的確に「構造改革」として主題化しました。この視点こそ、彼独自の「経営的論理思考」のなせる卓見にほかなりません。
 
 彼の講演にとって、信長による「第1次→第2次→<第3次>」構造改革に焦点を定めながら、「信長による家康潰し」→「光秀と家康の同盟」→1582(天正10)年6月2日「本能寺の変」→同年6月13日「山崎の合戦」の歴史的な成り行きを見定めることが、根本的に重要な着眼点です。
 
 そして、そこでの主要な論点を思想的脈絡に応じて、
①「土岐桔梗一揆」・「光秀と長宗我部元親の畿内・四国同盟」
②「光秀+家康+斎藤利三+細川藤孝(幽斎)による安土での談合」・「<神君伊賀越え>の作為性」・「秀吉の<中国大返し>を必然化した細川藤孝の寝返り」
③「黒人小姓・彌介がイエズス会関係者に伝えた、信長の最期の言葉」
④「『惟任退治記』における秀吉による愛宕百韻の<言葉と日付>の改竄」
 この4点に絞るべきです。
 

 さらに望むらくは、後日譚の代表見本として最低限、
(1)「春日局」問題、つまり家康が1604年斎藤利三の娘・福を孫の竹千代(後の家光)の乳母(教育係)に採用、福がその後、朝廷から春日局の称号を賜り、大奥で権勢を振るうにいたったこと、
(2)「細川ガラシャ」問題、つまり光秀の娘・玉が細川藤孝の嫡男・忠興の正室となるも、夫と舅が父光秀を裏切ったことで心に大きな傷を負い、1587年キリスト教に救いを求め、ガラシャという洗礼名を与えられたこと、
 この2点に論及できるようにしたいものです。

(2)彼の講演の成否を占う微妙なポイントは、時間配分の問題です。講演の時間に制限がある以上、少なくとも前掲の ①~④ の論点に優先順位をつけて、時間をうまく配分することが、彼にとっての検討課題です。論点①~④において、「本能寺の変」のクライマックスが②である以上、時間の割き方の点で②が最大の比重を占めざるをえないこと、これは言うまでもありません。
 限られた時間内の講演では、あれもこれも網羅するのではなく、要所を押さえて象徴的な表現に工夫をこらすことが腕の見せ所です。そして、文書資料の細部にわたる実証的展開を要する場面(例えば、論点④=前掲書第1章)では、あえて最終的な結論を提出するにとどめ、結論にいたる筋道をたどった説明を思い切って省略し、会衆に向かって「論証の詳細は自著をお読みください。」と、ためらうことなく公言するのも一芸です。

 なお、日本歴史の「書き変え=創成」の大業に挑戦する明智憲三郎の毅然として、ひたむきな態度に、私はここに改めて満腔の敬意を表する次第です。
                                   2010年8月10日 永町匡世
第6回安田塾(2010.7.24)の講演
本能寺の変 427年目の真実通説も新説も覆す『歴史捜査』―」
【講師】明智憲三郎(あけち・けんざぶろう、第一情報システムズ常務取締役)
【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室 
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 明智さんによる講演の概要を、当日配られた各種の資料をもとに簡単にご紹介します。
 大きく八つのテーマにわけて語られました。

 まず、自身の研究姿勢について
(1)「なぜ私は真実にたどりつけたか」
・今まで容認されてきた「軍記物」の記述を排除し、信憑性のある証拠のみを採用した。
・光秀の信長に対する「私情」論を排除し、光秀を一人の「経営者」としてとらえた。
・答えの先出しと、論理の後付けを排除し、証拠に基づく答えを合理的に導いた。

 そして本題へ
(2)「誰が『通説』を作ったのか」
・光秀⇒怨恨説・野望説・単独犯行説、家康⇒「神君伊賀越え」、秀吉⇒「中国大返し」などの通説。
・光秀亡き後、秀吉の命で書かれた、大村由己『惟任退治記』→江戸時代の軍記物→現代の小説やテレビドラマなどから検証。
・結論→通説(⇒俗説・虚説)を作った大本は「豊臣秀吉」。

(3)「光秀は信長を怨んでいたか」
・信長の性格や二人の仲を『惟任退治記』、太田牛一『信長公記』から検証。
・結論→信長と光秀は信頼しあっていた。光秀は信長の腹心であった。

(4)「光秀の謀反の動機は何か」
・「愛宕百韻」で光秀が詠んだ句、「時は今あめが下しる五月かな」の秀吉による改竄。
・光秀が「土岐氏」であることの重要な意味性。
・信長の国家戦略、つまり長宗我部征伐・徳川つぶし・光秀移封などから検証。
・結論→光秀の謀反の動機は「土岐氏」滅亡を防ぐため。

(5)「なぜ光秀は謀反に踏み切れたのか」
・家康の「神君伊賀越え」の真相、家康の岡崎帰着後の行動、安土城天主放火事件、イスパニア人の証言などから検証。
・結論→光秀は家康と同盟を結んでいた。

(6)「なぜ光秀の謀反は成功したか」
・信長が家康を滅ぼす最善の手とは?
・「本能寺の変」当日の家康の行動、信長の中国出陣、兵たちの証言、信長の最期の言葉などから検証。
・結論→「本能寺の変」は、もともと信長が計画した家康討ちだった。

(7)「なぜ光秀の謀反は結局、失敗に終わったか」
・秀吉の「中国大返し」、杉原家次・細川忠興・安國寺恵瓊らの行動などから検証。
・結論→秀吉はあらかじめ準備万端整えていた。

(8)「後日譚」
・家康の光秀への恩義の事例を検証。

 講演は上記①~⑧の全体的脈絡をたどりながら行なわれました。

★☆ 明智さんは今、使命感に導かれて、400年以上にわたって歪曲されてきた歴史を書き変えるという難事に敢然と挑まれています。「本能寺の変」の真実を天下に普及するために、2009年3月に『本能寺の変 427年目の真実』(プレジデント社)を著わし、2010年1月2日にブログ「明智憲三郎的世界 天下布文!」を自ら開設し、そして数多の講演活動を積極的にこなしつづけて、現在にいたっております。
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                                   2010年8月5日 安田忠郎
                   第6回安田塾を終えて

▲ 第6回安田塾(7月24日)の例会・「明智憲三郎」講演会は、これまでを倍加する計62名が参集し、盛会裏に終わりました。
 今回の特筆すべき点は、初の参加者が36名の多きに上ったこと、中でも慶應義塾大学卒業生が19名、武蔵野市在住の「一般市民」が13名を数えたことです。
 また、武蔵工大教職課程修了生としては、愛知県の中学教師・酒井昌明さん、富山県の高校教師・高木義春さん、ご両人が遠路わざわざ足を運ばれ、(講演会→懇親会→2次会を通して)私との再会の時間を享受されたこと、これは私にとって望外の喜びでした。
 
 今回は安田塾の今後の運営上、持続可能な文化活動の視点から数々のヒントを得た集いとなりました。

▲ 私は例会の劈頭で「歴史とは何か(序説)―私の歴史体験に即して―」と題して、30分ばかり前座を務めました。ここでは歴史とは結局、人間存在の基底に関わる問題である点に触れながら、私のこだわり続ける日本史上の決定的な事件(謎)として、①1867年「孝明天皇」崩御の謎、②663年「白村江の戦い」の謎、③1582年「本能寺の変」における「彌介(やすけ)」―織田信長に仕えた黒人小姓(アフリカ生まれの黒人奴隷)―の行動の謎、この「三つの謎」を簡潔に問題化しました。

▲ 明智さんの講演「本能寺の変 427年目の真実―通説も新説も覆す『歴史捜査』―」は、2時間余にわたって会衆の耳目を集めました。
 そこでは、参会者各自の歴史感覚を刺激し純化するのに十分な内容が語られました。事後、数名の参会者から「臨場感あふれる講演から多くを教わった」旨のメールが私に寄せられたほどです。

 ところが、「明智さんを囲む」懇親会の方に、問題がありました。出席者は31名の適正規模に収まったものの、会場は3000円程度の会費のしからしめるところ、「居酒屋」然としてしまいました。
 2時間の「懇親」会では、顔見知りどうしが思い思いに盛り上がるばかりで、初対面の人どうしの出会いの場にそぐわない雰囲気がみなぎりました。
 私は常日頃、いかに対等な人間どうしの社交的コミュニケーションを図るかに腐心し、そして「一期一会」の思想を自ら持してきました。
 しかし今回、私としては素直に、至らなさを反省しております。多士済々の顔触れがそろった「懇親会」であったにもかかわらず、会の実質を活かしめるための配慮が欠けていた、と。
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                                   2010年7月20日 安田忠郎
             「夜回り先生」の惻々(そくそく)たる言葉
 

 私は7月14日に「第60回『社会を明るくする運動』記念講演会」(会場:武蔵野公会堂)に出席しました。
 主催者:「社会を明るくする運動」(略称「社明運動」)武蔵野市推進委員会(27構成団体)、記念講演:「あした笑顔になあれ」、講師:水谷修(みずたに・おさむ)―。
 この「社明運動」、何とその開始が昭和24(1949)年とのこと。私としては、その奮った呼称の意味合いが分かったものの、もともと無味乾燥な儀式を思わせる「お役所」的記念講演会自体にさしたる興味はありませんでした。ところが、今回の講師の名前と講演のタイトルを知って、私の第六感が働いたのです。

 10年ほど前だったか、ある大学生が私に向かって発問しました。「『夜回り先生』って知っていますか?」
 私は「いや、知らない、それは誰だ?」と応じると、彼いわく、「深夜パトロールをしながら若者たちと向き合っている教師ですよ。今は、社会からドロップアウトし、夜の街をさまよう若者が多いんだな…。」
 

 私は彼の話に聞き耳をたてながら、なぜか唐突に思ったものでした。「夜の街」というが、水谷某がパトロールするそれには、私がかつて見知った東京のドヤ街「山谷」や横浜の暗黒街「黄金町」や川崎の風俗街「南町」などが含まれるのだろうか、と。それらは昭和37年、北海道札幌から勇躍上京した私が初めて遭遇した貧民窟、初めて手ひどく思い知らされた窮乏のどん底でした。
 私は一学生によって水谷修(以下Mと略)の存在を知らされてから、その著書を2冊、折に触れて一読しました。そして、「闇の教員」の捨身の生きざまに、なるほどと感心した次第です。「夜の世界」で10代から20代前半の若者と触れ合いながら、非行防止と更生、薬物汚染防止に体を張りつづけてきたことが、まざまざと分かりました。

 私は過去の印象を思い起こし、Mによる1時間30分の講演を、忙しい日程をやりくりして拝聴しました。
 彼の講演には、いくら語っても満座300人ばかりを飽きさせない力がありました。ここでは19年にわたる悪戦苦闘の体験知=実践知から導かれる豊かな典型例が、時折ユーモアも交えた巧みな語り口で活写されました。
 我自らの現場にまみれた実践知の強みは、等身大の具体性をもって他者に働きかけ、言々肺腑を衝くことができる点にあります。 
 

 もっとも、現実を具体的な構造総体として把握する私にとって、彼の著書⇒講演は全容的にはいささか物足りなく、隔靴掻痒の感が否めません。彼の思考回路には、「昼の世界」vs.「夜の世界」、「子ども」vs.「大人」の2領域に分別しながら、事の正邪善悪を問う単純な二元的構図が垣間見えます。これでは下手をすると、前者と後者の緊張した相互関係を見失い、安直な通俗的イデオロギーに堕する恐れがあります。 
 

 とはいえ、現時点の私としては、彼の論理構造の問題点をあげつらい、その秀抜な実践躬行の価値を不当に貶めるつもりは毛頭ありません。
 彼は満員の聴衆に向かって、誠意と熱のこもった言葉を矢継ぎ早に発しつづけました。「僕にできるのは子どもたちに寄り添い共に生きること!」、「心ある大人が、子どものそばにいて喜怒哀楽を共に感じてやってほしい!」、「大人は子どもとしっかり向き合うべきだ!」、「親や教師が愛し、守ってやれば子どもは変わる!」、等々と。
 この子どもを想うひたぶるな態度に、誰がいったい難癖を付けることができましょうか。子どもにひたすら同行する彼の、あくまで毅然とした姿勢と覚悟に横槍を入れるとしたら、それは品性下劣な振る舞いとして難詰されるのが落ちでしょう。
 彼の話し言葉には、聴衆の関心と注意を、そして何よりも想像力を喚起する力がありました。一驚すべきことに、彼がリストカットや薬物中毒の子ども、さらには自殺という悲劇的な末路を迎えた子どもを語ったとき、かなりの数の女性が忍び泣きに泣きはじめたのです。
 実は、当日の出席者は大半が女子でした。男子にいたっては、多分その2割にも満たなかったように思います。
 私はふと、左右の隣席に座る二人の40代とおぼしき女性の目頭にうっすらと涙がにじんでいることに気づきました。そして慌てて周囲を見渡したところ、何と多数の女性がハンカチか手の甲でそっと目頭を押さえているではありませんか。瞬間、私は会場の一種異様に静まり返った雰囲気から、会衆の男子を含むほぼ全員が声に出して泣きこそしないものの、声を殺して泣いていたか、泣きたいような思いを噛みしめていたかと、いち早く推し量るとともに、その悲しみの深さを思いやったのでした。
 参会者は今日的状況下の若者たちが「心を病む」状態を、とても他人事とは思えなかったのです。彼らはMの刺激的な言葉によって想像力が促された結果、「他者」の苦しみに対する一種の心情的な共感が誘発されました。
 ただし、彼らの多くはもしかして、問題の若者の悲痛な呻きに、家族か親族か友人知人の何某の具体的な病態をオーバーラップさせながら、講演の劇的展開に固唾をのんで聞き入っていたのかもしれません。だとすれば、涙を誘う物悲しい話に触発されて、総じて彼らは根本的に、裸の親近感を覚える断ち切りがたい特別な個人の苦しみを分かち合いながら、現に目に涙を浮かべたり、心に涙を呑んだりしたのでしょう。
 

 ここには人間の存在構造上、難問が待ち構えています。つまり、彼らの悲しみの流露たる涙の結晶作用では、カタルシス(心の浄化)を生みだしはしても、はたして第三者的「他者」の計り知れない苦しみ・切なさを「我が事」として受け止めることができるでしょうか(「一人称⇔三人称」的存在構造)。そもそも彼ら(特に圧倒的多数を占める彼女ら)の「一人称的」悲嘆の涙は、例のヨン様(ペ・ヨンジュン)にようやく出会って感激のあまり嬉し泣きに泣くオバサンの「一人称的」甘美な涙と、どう質的に異なるのでしょうか。
 

 しかし、そうは言っても、彼らのほとんどが特定の「苦しむ人」の瞬時の共感的な理解者として、内的な自己変革(精神革命)のとば口に立ったことは間違いありません。彼らは定めし、Mの講演を聴き終わった瞬間、暗闇に一条の光芒を見出し、彼との運命的な出会いを天に向かって感謝したい思いにとらわれたことでしょう。

 ところで、私自身はMの講演の初めから終わりまで、涙する行為一切(涙を光らせること・押しぬぐうこと・こらえること)と無縁でいました。話に身じろぎもせずに耳をそばだてていました。ところが、彼が「若者の自殺」に言及したとき、思いがけなく私の個人的な過去の記憶―二人の自殺した青年の面影がありありと私の脳裏によみがえってきたのです。

 ・坂間真人(さかま・まさと)-私の学友で同憂の士。1974年に学者(大学教師)をめざしてドイツに自費留学、しかし「心身症」を患い帰国直後の76年に自殺。享年28歳。
 ・深井幸泰(ふかい・ゆきやす)-私の甥で同心の友。大学卒業直後の1984年に建築家をめざしてイタリアに公費留学、しかし「心身症」を患い2年後に帰国、何とか身を持ちこたえてきたものの、94年に自殺。享年35歳。
 真人の自殺、幸泰の自殺に直面した私は、それぞれ30代前半の私、50代前半の私でした。どちらのケースでも、私は「何ということだ、何ということだ!」と絶叫しました。「かわいそうに、追いつめられて…」とつぶやきました。そして、私は全身がわなわなと震え、行き場のない苦しみと悲しみに襲われたものでした。落涙とどめ難し、やがて喪失感が私の胸をえぐりました…。
 

 私は確信します。人生とは人と人の出会いである、と。人間は出会いをとおして、人間の意味、世界の意味を発見する。同時にまた、出会いのあとには、二人の心の傷跡が悲しく残る。人間が生きるとは、この出会いにまつわる悦びと苦しみをゆっくり噛みしめながら、一歩一歩を確実に踏みしめていくことである、と。
 

 それにしても、Mの言葉の数々は臨場感と緊迫感に満ちていました。彼はパワーポイントも文書資料も一切使わずに、手垢にまみれた実践知がもたらす、凛として力強い言葉を駆使することに一意専心しました。この強い喚起力を備えた彼の言葉にあずかって、まさしく私の想像力→記憶がかき立てられ、亡き友の在りし面影が「痛み」をもって呼び起こされるにいたったものです。

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                                   2010年7月10日 安田忠郎 
                    第5回安田塾を終えて 
 

 私はこの5、6月、海外に雄飛しました。
 5月はフィリピンのマニラ→ターラックに、6月はアメリカのデトロイト→ノースビル→ニューヨークに滞在しました。
 人生は本来「一場の戯れ」(福沢諭吉)とはいえ、私の諸国行脚はおしなべて「天命を知る」旅であり、そして今回は基本的に「怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心」(サムエル・ウルマン)を実感する旅でした―。

▲ 4月24日の第5回安田塾・例会では最初、私が30分ばかり「中国及び中国人とは何か(序説)~入亜と脱亜に即して~」と題するお話をしました。
 たまたま中国で4月6~9日のわずか4日間に、邦人4人が立て続けに死刑(麻薬密輸罪)を執行されました。これが「日本側の対中感情に影響を与える可能性がある」事件として、日本の各種マスコミに報道された結果、私はにわかに「和合-葛藤」の日中交渉史を想起し、当の談話と相成った次第です。
 
 私は大学時代に中国「文化大革命」に際会し、以後アメリカ・タイ・香港・フィリピン等の諸国で数多の中国人と出会うたびに、欧米人や日本人と異なる中国人の存在様式を対象化し、問題視しつづけてきました。
 年来の私の問題意識は大雑把に言えば、中国人における「中華-夷狄(いてき)」意識と大陸的大様さ(→粗っぽさ)のアンビバレンス(両価性)に焦点を当てるものです。

▲ 次いで例会では、扇浩治(東京都立六郷工科高等学校教諭)さんが約1時間30分、「子どもの非行問題―学校と警察や児童相談所との連携、生徒の処遇について―」と題するお話をしました。
 ここでは論点・論脈上、まず学校が警察や児相と関わる場合が点検され、次いで少年事件(「保護事件」)の背景が多面的に考察され、最終的に少年事件の「審判」手続きが検討されました。家庭裁判所、少年鑑別所、試験観察→保護処分の機能・実態が順々に分かりやすく説明されました。
 
 注目されるのは、彼が具体的な事例に言及したときの言葉が生き生きと生彩を帯びた点です。つまり、①児童自立支援ホームからきたY.K.君、②保護観察がついて入学してきたH.M.君、③暴走族に入っていたK.I.君、この三者の歴史的歩みに、学校教師として、また東京都薬物乱用防止指導員として誠実に対応したからでしょう、彼の肉声が私の胸の底にリズミカルに響いたものでした。
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                                   2010年7月3日 安田忠郎
                    第6回安田塾のご案内

 第6回安田塾を下記の要領で開催します。
 今回の開催に当たって、関係者のご要望で、門戸を一層開き、多くの方々のご参加を呼びかけるものです。

■ 例会
【日時】2010年7月24日(土)午後2時~4時30分
【講師】明智憲三郎(あけち・けんざぶろう)
【テーマ】「本能寺の変 427年目の真実~通説も新説も覆す『歴史捜査』~

【明智憲三郎とは誰か】
 彼は誰あろう、1582年〈本能寺の変〉の「主役」たる明智光秀の子孫です。
 彼は1972年に慶應義塾大学大学院工学研究科修士課程を修了後、三菱電機に入社、一貫して情報システム分野で活躍、現在、第一情報システムズ常務取締役を務めています。
 彼は会社勤めのかたわら、〈本能寺の変〉を研究・調査しつづけました。そして昨年3月、長年にわたる刻苦勉励のかいあって、〈本能寺の変〉の全貌を科学的・論理的に解明した『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社)を出版するにいたりました。同書は今や刷りを重ねて「第7刷」を発売中、巷間に流布する話題の書となっています。
 彼独自の「歴史捜査」は、〈本能寺の変〉に関する数々の真実を掘り出しました。歴史の真実が「犯罪捜査」のごとく情報システム的に捜し当てられた結果、信憑性のある史料のみから〈本能寺の変〉に関連する史実が総ざらいされ、その全ての史実が矛盾なく成立する〈本能寺の変〉のストーリーが復元されました。この卓絶した見識は、まさに通俗的な常識・偏見に囚われた多くの現代日本人の蒙を啓くものにほかなりません。

【会場】「武蔵野商工会館」4階 市民会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」 中央口・北口(駅前ロータリー) 徒歩5分
〔サンロードを約150メートル直進→最初の十字路(本町新道との交差点)で左折→本町新道を約150メートル直進・丁字路右側〕
【会費】1000円

■ 懇親会(例会終了後、講師を囲んで)
【日時】同午後5時~7時
【会場】吉祥寺ビアホール
【住所】武蔵野市吉祥寺本町1-15-9 岩崎吉祥寺ビルB1F
【tel】0422-20-2301
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」 中央口・北口(駅前ロータリー) 徒歩1分(吉祥寺大通り)
【会費】3000円

■ 第6回安田塾のご出欠について、該当する箇所( )に〇印をつけて、17日(土)までに、ご返信をお願いします。
・講演会のみに出席( )
・講演会および懇親会に出席( )
・講演会・懇親会を欠席( )
皆様へ
                                   2010年4月4日 安田忠郎
                   第5回安田塾のご案内 

 第5回安田塾を下記のとおり開催します。
 今回は場所を「吉祥寺」に取り、例会を開き、例会終了後に懇親会を行います。

■ 例会
【日時】2010年4月24日(土)午後6時~8時30分
【講師】扇浩治(おうぎ・こうじ、東京都立六郷工科高等学校教諭、東京都薬物乱用防止指導員)
【テーマ】「子どもの非行問題―学校と警察や児童相談所との連携、生徒の処遇について―

【内容】
「子どもは非行に走り、警察に逮捕されたあと、一体どのような経緯で、鑑別所や少年院に送られるのか、また保護観察がついて戻されるのか」といった問題状況が、主として家庭や学校の見地から具体的に検証されます。

【在りし日の思い出】
 私・安田が扇さんと出会ったのは、1987(昭和62)年3月、東京電機大学を卒業後の彼が教科「技術」の教員免許状を取得するために、武蔵工大教職課程の「聴講制」の門をたたいたときです。
 以来23年、彼との交渉史のなかで懐かしく想いだされるのは、滞米生活(1999~2000年)を目前にした私がパソコンの使い方について、彼の手ほどきを受けたことです。着任先のコロンビア大学で、私はパソコンを駆使し、何の支障もなく、アメリカでの情報収集にいそしむことができました。

【会場】「武蔵野商工会館」5階 第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」 中央口・北口(駅前ロータリー) 徒歩5分
〔サンロードを約150メートル直進→最初の十字路(本町新道との交差点)で左折→本町新道を約150メートル直進・丁字路右側〕
会費:1000円

■ 懇親会
【日時】同月同日午後8時30分~10時30分
【会場】清龍(せいりゅう)(吉祥寺駅中央口・北口徒歩1分)
【住所】武蔵野市吉祥寺本町1-1-12 小野山ビルB1F(ダイヤ街チェリーナード)
【tel】0422-21-4406
【会費】約2500円

*先日、私は「幕末史研究会」会長の小美濃清明(おみの・きよはる)さんとお会いしました。幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から「市民」レベルの活動を続けている歴史研究グループです。彼との話し合いで、安田塾のセッティングについて、私は数々のヒントを得ました。

*吉祥寺(きちじょうじ)は、東京都武蔵野市にある吉祥寺駅を中心とする街です。この、東京都のほぼ中心に位置する街は、市場調査会社などが主催する「住みたい街ランキング」で度々全国第1位に選出されています。また、そこはお茶の水や下北沢と並ぶ東京有数の「学生の街」としても知られています。

■ 第5回安田塾のご出欠について、該当する箇所( )に〇印をつけて、18日(日)までに、ご返信をお願いします。
・講演会のみに出席( )
・講演会および懇親会に出席( )
・講演会・懇親会を欠席( )
 皆様へ
                                   2010年2月17日 安田忠郎
                第6回安田塾―「明智憲三郎」講演会

 来る第6回安田塾の例会を、「明智憲三郎」講演会としてセッティングいたします。

◆ 私は昨年10月27日、ある慶應義塾関係者の集い(銀座BRB)に出席しました。そこで明智憲三郎(あけち・けんざぶろう)さんが自著『本能寺の変 四二七年目の真実』(2009年3月刊、プレジデント社)について講演しました。
 彼はかの明智光秀の末裔です。「本能寺の変」に続く「山崎の合戦」の後、明智残党狩りの手を逃れた、光秀の側室の子、於寉丸(おづるまる)の血筋を引いています。講演では実証的・説得的に、「本能寺の変」の錯綜する謎が解かれ、事の真相が明かされました。

 私たち日本人は、小学校以来、学校教育をとおして日本の歴史に関するウサンクサイ話をゴマント教わってきました。問題の「本能寺の変」などは、その最たるものでしょう。
 私自身、高校生の時分から、そのウサンクササに気づき、折に触れて各種文献に当たり、実態調査に乗り出したものです。また2000年2月に、私はコロンビア大学東アジア研究所で関係者30人ばかりを前にして、「日本及び日本人とは何か」のテーマのもと、具体例として645年「大化の改新」、1582年「本能寺の変」などを問題化し、歴史をウソで塗りつぶす事態を見極めたものでした。

 
 明智さんの前掲書は現在、「第4刷」を発売中、大きな反響を呼びつつあります。
 私は同書を読了して数々の意外な事実を知らされました。同書は私の「本能寺の変」に関する知見の、まさに盲点を衝くものでした。そこに展開された、地道な証拠探しと理詰めの推理の積み重ねにもとづく「歴史捜査」は、称賛に値するものです。
 彼は同書のプロローグを、「四百年以上にわたって伝えられてきた歴史を書き変えるという、これから先も続く壮大な取り組みにご支援を賜れれば幸いに存じます。」と結んでいます。彼の並々ならぬ執念・気魄に、私はただ脱帽するほかありません。

 
 明智さんは、慶應義塾の普通部→高等部→大学工学部→大学院工学研究科修士課程を経て、三菱電機に入社、そして現在(株)第一情報システムズ常務取締役を務めています。
 私は10月27日当日、彼と初めてお会いしました。私の慶應義塾大学院時代の学友で、第3回安田塾にご出席の池田光さんがご紹介の労を取ってくれたものです。明智さんと池田さんは、同じ慶應義塾普通部で席を並べた同級生でした。
 その際の話し合いで、私は彼と、来年の7月ごろに、「歴史とは何か」を考えるために「本能寺の変」に関してご講演いただく旨の約束を交わしました。

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                                   2010年2月12日 安田忠郎
              第4回安田塾を終えて、そして次回以降の予告

▲ 第4回安田塾(1月30日)が終了しました。
 最初、私が約30分、「近代社会は法と所有と契約に基づく社会である」と題するお話をしました。
 そこでは、特に「契約」の問題に焦点が定められ、日本人がいかに契約下手であるかが日常生活に即して説明されました。その趣旨は以下の通りです。
 契約とは、人と人、国と国、あるいは神と人の間で、これを守ろうと約束を取り交わすこと。しかし日本人の場合、ペナルティーをきちんと決めるのが非常に下手なため、相手にいいようにされ、契約は往々にして失敗に終わる。日本人は将来における不吉な想定ができないために、契約書に罰則を付けられない仕儀になる。だからこそ、いかなる催し物が開かれようとも、出欠問題(⇒費用問題)一つすら当事者間の約束事の基準が曖昧化され、何らか交わした約束を反故にして恬として省みない輩がぞろぞろと現われるにいたる―。

▲ 次いで、荒川信行(東京都品川区立三木小学校教諭)さんが「脳科学を生かした授業を創る」と題して、多重知能理論に基づく積年の授業研究の成果を語りました。
 そこでは、多重知能理論による「八つの学び方」と「かしこい子ども発見リスト(好きなこと・できること・得意なこと)」が精細に描写されるとともに、それらを駆使した「小学5年 算数科学習指導案」(2008年12月3日実施・児童計51名)が筋道を立てて説明されました。
 
 それは「教師」荒川の面目躍如たるものがありました。熱心に聴いた参会者は、子ども一人一人の知能の発達を促す授業=教育とは何かについて、大いに啓発されたことでしょう。彼の今後の一層のご研鑽とご活躍が期待されます。
 なお、私個人としては、習熟度別・少人数別の授業にとどまらず、個に応じた授業を追究し、精緻な指導方法を工夫する彼の姿勢に共感したものの、他方でふと、何の脈絡もなしに、1950年代の小学生の私たち悪ガキ約50人に向かい合う教師「工藤某」の全身的な、粗っぽいがエネルギッシュな授業っぷりを思い出したものでした。

▲ 安田塾への各回ご出席者は今のところ、大体20~30人前後を数えます。そこでは、常連十数人に加えて、その都度「新入り」が参加し、新旧が入り混じった集いが常態化しています。
 今回初のご出席者は5人、そのうち武蔵工大教職課程関係者(修了者+履修生)は平山かおり(修了者)、金谷道昭(修了者)、鳥潟一文(履修生)、松下哲也(履修生)の4人でした。現在、平山さんは会社員、金谷さんは同大大学院修士課程1年、鳥潟さんは同大3年生、松下さんは同大1年生です。
 なお、安田塾への現役の学生のご参加は、今回が初めてのことです。

▼ 次回(第5回)の安田塾は、4月24日(土)に開催されます。
 東京都立六郷工科高等学校教諭の扇浩治(おうぎ・こうじ)さんに、「子どもの非行問題と警察や児童相談所との連携、生徒の処遇について」という話題を提供していただきます。

▼ 第6回安田塾は、7月24日(土) or 31日(土)に開催されます。
 第一情報システムズ常務取締役の明智憲三郎(あけち・けんざぶろう)さんが「本能寺の変 四二七年目の真実―通説も新説も覆す『歴史捜査』―」と題する講演を行います。
 本件のセッティングの詳細は、次号の安田塾メッセージ№8でお知らせします。

▼ 第7回安田塾は、10月30日(土)に開催されます。
 19年間の教員生活(東京都)を経て、ギャラリー経営に転身した伊藤仁(いとう・ひとし)さんに、「公立学校の実態―中学教師から美術商へ―」という話題を提供していただきます。
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                                   2010年1月12日 安田忠郎                                                                                                                                                                 
                    第4回安田塾のご案内                       

 第4回安田塾は、下記のとおり開催されます。

■ 例会
【日時】2010年1月30日(土)18:00~20:30
【テーマ】「脳科学を生かした授業を創る
【講師】荒川信行(あらかわ・のぶゆき、東京都品川区立三木小学校教諭)

【講師略歴】
1979年3月、武蔵工業大学工学部電気工学科を卒業。
1981年4月から東京都大田区・世田谷区・品川区立の小学校教諭を務め、2001年4月より現職。 
2008年3月、聖徳大学大学院児童学研究科博士前期課程(通信課程)を修了。

【在りし日の思い出】
 私・安田と荒川さんとの出会いは、私が武蔵工大「非常勤講師」を務めた今から30余年前のことです。
 私は学生時代の彼に向かって、常々力説していました。人間は一つの職業・仕事にとらえこまれ、タコツボにはまりこんではならない、と。そして、人間は有限の人生を精神の「旅人」として生きつづけなければならない、と。それは突きつめれば、広い意味での教養知と専門知の葛藤⇔融合の問題にほかなりません。
 当時、私の授業「教育哲学」(4単位・通年)では、工学部学生の読書量が余りにも少ない点をおもんぱかり、彼をはじめとする受講生十数人に週に1度の宿題「読書レポート」を課しました。課題図書としては、文芸作品のジャンルを問わず、特に「人間-社会」の深淵を覗かせるものが特定されました。
 それは実験・実習に追われつづける彼らにとってハード・ワークそのものでした。実際、課題レポートを毎度すべて提出した者は4名に限られたほどです。この4名中の一人が彼であり、その事績によって、私は彼の名を記憶にとどめるにいたりました。
 彼は最終レポートを私に提出した際、ぽつりと呟くように言ったものでした。「本をたくさん読んで、何か人生観が変わったような気がする…」と。
 そして、現在の彼は述懐しています。課題図書の中でも、遠藤周作『沈黙』『わたしが・棄てた・女』、柴田翔『されどわれらが日々―』の3作が今なお時折、記憶の底からよみがえってくる、と。

【会場】「大田区民プラザ」第一会議室
【住所】東京都大田区下丸子三丁目1番3号
【tel】03-3750-1611
【アクセス】東急多摩川線下丸子駅下車徒歩約1分、東急池上線千鳥町駅下車徒歩約7分。
【会費】1500円

*興味・関心をお持ちの方々をお誘いの上、自由にご参加ください。
*ご出席の場合は1月28日(木)までに、安田宛てメール等で、その旨お知らせください。
 皆様へ                                                      
                                   2009年11月10日 永町匡世 

 私は10月24日の第3回安田塾に出席しました。
 原田淳さんのご講演を拝聴しました。重厚な体験にもとづく貴重な言葉にあふれたお話でした。
 私としては、話だけで済ますのはいかにも惜しいと考え、その講演内容を記録・要約しました。細大漏らさず書き記した講演録には程遠いものの、私の努力の所産をあえて皆様のご参考に供します。
 なお、この講演録は私の原文に原田淳さん→安田忠郎さんが修正を加えて成ったものです。お二人のご尽力に心より感謝いたします。

第3回安田塾(2009.10.24)の講演       
「一筋縄では行かない生徒たち~ニューヨーク・ブロンクスでの体験を通して~」
【講師】原田淳(はらだ・じゅん、獨協中学・高等学校教諭)
【記録者】永町匡世(ながまち・まさよ、ライター)
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安田忠郎さんの序言:
「これから2時間ばかり、原田さんはニューヨークと日本を往還した、内容のある興味深い話を熱意をもって語られます。彼は人間として、そして教師として、力一杯生きつづけてきました。自己に忠実な、誇りに満ちた彼の生き方から、今日ご出席の皆さんは、教師とは何か、そして人間が生きるとはどういいうことかについて、大きな示唆を受けるにちがいありません―。」

そこは、ニューヨークの貧困地域!
「こんな学校の教師にはなりたくない!」
ベテラン教師にそう言わしめたほどの高校における新米教師の奮闘記!


 第1部 「私の履歴書」
◆ 学生時代
千葉大学経済学部に学ぶ。
英語が好きで、成人後、「英語オタク」になった。TVドラマ「スクール☆ウオーズ」に感動し、「自分も熱血教師に!」「日本の英語教育を変えるぞ!」「不良たちと格闘したい!」という熱い思いを抱く。

◆ 会社に就職して
民間企業で経理や営業を担当。待遇は良かった。が、英語への熱い思いが消えない。5年後退職。

ニューヨークのコロンビア大学ティーチャーズカレッジで、英語教授法を学ぶ。
学位を取得し、1年間の就労許可を得る。就職先を求めて、日本人学校に電話をしたが、学校の事情で、専任での就職はかなわなかった。

「ブロンクスなら就職の可能性があるぞ」との助言を得る。
ブロンクスは貧困地域で、教育現場は荒廃している。原田いわく、「やけのやんぱちで、ブロンクスにある全校50校に就職希望の手紙を出しました。」
公立校セオドア・ルーズベルト高校でESL、つまり非英語圏の子供たちに、英語を教える教師となる。生徒は主に英語が未熟な移民の子たちである。

★ 写真によるブロンクス地区の紹介
荒れた空き地、古びたビル、割れた窓ガラス、落書きだらけの壁、ゴミが散乱する街角、薄汚れた狭い建物の中で暮らす大家族、排泄物の匂いに満ちたエレベーター…。
圧倒的多数がスペイン語をしゃべるため、街の看板はスペイン語。そこに英語の注釈がつく…。
ちなみに、日本人野球選手・松井秀喜が所属する、メジャー屈指の名門球団「ニューヨーク・ヤンキース」は、この地区の希望の星でもある。

セオドア・ルーズベルト高校で
(1)生徒の大半はヒスパニック系。担当のクラスの生徒数は34名、彼らのほとんどがドミニカ共和国・プエルトリコなどのカリブ海の国の移民の子。

(2)教師も、アジア・ヒスパニック・アフリカなど、多人種
教科主任だけが、アメリカ人。主任は「苦労しながら英語を勉強した人こそ、子供たちに教えるべきです」という考えの持ち主だった。

(3)先輩教師からのアドバイス 
▪ 「今日が初日の授業だ」とは生徒に決して言わないこと。なめられるから。
「10年位勤めているという顔をしろ!」原田いわく、「このアドバイスは、とてもありがたかったです。」
▪ 「授業中に生徒をトイレに行かせてはいけない。」なめられるから。
1人行かせると、次から次へ行ってしまう。原田いわく、「僕は一人の生徒に1度だけ、トイレ行きを強行突破されたことがあります。が、このブロンクスで、トイレに行かれたのが『たった1度だけ』は自慢だったんです。」

(4)学校の中はどうなってるの?
学校の入口には、「金属探知機」があり、生徒による刃物の所持状況がチェックされる。
廊下には「警官」がいて、地下には子を持つ生徒のための「託児所」がある。
生徒同士が喧嘩をすると、生徒に触ることが許されない教師は廊下を行き来する警官を呼ぶ。場合によっては警官は、そのまま生徒を地下の生徒指導室へと連行する。時々、警官がいない時もある。原田いわく、「これが困りましたね!」
17歳で子供が3人いる女子生徒もいる。原田いわく、「日本では『14歳の母』がテレビドラマにもなるが、アメリカでは17歳で肝っ玉かあさんなんですよ。」

(5)授業の内容―どんなことを教えるのか
▪ 大文字と小文字の書き方。
▪ 疑問文のつくりかた。猫の絵の紙を見せ、「Is this a cat ?」など初歩的なやり取りから始める。
▪ 日本の中学1年生レベルの読み物を読ませる。

(6)生徒は「本当の初級者」と「本当の上級者」の2通りいる。
「本当の上級者」は、幼いころからアメリカにいる子で、口喧嘩をしたらペラペラ英語をしゃべる。しかし、書くことはほとんどできない。「cat」を「kat」と書いたりする。彼らは入学時のペーパーテストで成績が悪いので、初級コースに入ってくる。

(7)「Do–now」について
アメリカの授業は1コマ42分間。その冒頭に、生徒を着席させるため、3分ぐらいでできる簡単な作業をさせる。それが「Do–now」。例えば、「この10個の単語をノートに書きなさい」、「ノートと教科書を机の上に出しなさい」、「静かに〇〇なさい」など。
「Do the do–now quietly!」と教師が言っても、実際は20分かかるのが現実。
生徒が教室に入らない。廊下でたむろする。クラスに関係のない生徒が来る。教室内で走り回る。食べる、こぼす…。「ヘイ、チノー(中国人)!」と教師を挑発する。生徒同士の大喧嘩。
実際上、「Do–now」は崩壊していた。

(8)生徒の喧嘩をめぐる問題状況
喧嘩は止めてはいけない。教師は生徒に触れてもいけない。触れると、訴訟になったとき問題になるから。
教師はとにかく生徒に警官を呼びに行かせ、喧嘩の成り行きを観察し、後で報告できるようにする。
ある時、原田は喧嘩する女生徒を止めるため、彼女を後ろから羽交い絞めにしたことがあった。
「Don’t try to be a hero!」原田いわく、「つまり、かっこつけるんじゃないわよ、と主任に言われたんです。」
そこには、警官が怪我をしても保険が利くが、教師が怪我をしても保険が利かないという現実がある。
教師は「teach」だけをしていればいいので、学校行事やクラブ指導・進路指導などの仕事はほとんどやらない。教師は警官への連絡、他の生徒の安全を最優先にする。

(9)「学校に行きたくない…」
原田いわく、「ちりがみ、紙コップなどのゴミを投げつけられたこともあるんですよ。」
「板書の際、ベテラン教師は絶対に背中を見せません。半身で書くのがいいんです。でも僕は左利きですから、半身で英語を左から書くのはしんどいんです。」そんな時にゴミが飛んでくる。
「42分間、モグラたたきでした。静かにしろ、本を出せ、ゲームをしまえ!1週間で声がかれ、2週間で僕は不登校寸前になりました。月曜の朝3時になると目が覚めるんですよ。行きたくないなって。そんな気持ちのまま地下鉄に乗っていました。今思うと、アメリカに行って教師になることを、もっと強く両親に止めてほしかったです(笑)。」
「会社の営業で、お客さんに謝っている方が楽ですから。僕は身長160㎝、相手の生徒は190㎝ですからやっぱり威圧感はありますね。」

不祥事を起こす生徒は、警官を呼び、地下の指導室に連行してもらう。
原田いわく、「説教専門のカウンセラーがいるんです。でも、説教はせいぜい10分。すぐ教室に戻ってくるので、結局は何も変わらないんですよ。」
何度も問題を起こす生徒は、その都度地下室に送られる。すると、警官に「いい加減にしてくれ!」と言われる。仕方なく、問題児の親に電話をする。だが、そこには言葉の壁がある。スペイン語しか話せない親もいるからだ。なかには、電話のない家庭もある。
「相手がスペイン語しか話せない場合、スー・イホ・アブラ・ムチョ あなたの息子はおしゃべりが多くて困ると、覚えたてのスペイン語でまくしたて、すぐにガチャっと電話を切るんです。相手の母親にスペイン語をまくしたてられる前にね(笑)。」
それでも子供には親の厳しい指導が通じているらしく、翌日その生徒は一応神妙な態度でいる。しかし、だいたい2日後には、生徒の態度は元の木阿弥だ。

◆ 帰国後、横浜のサポート校に勤める。
サポート校は通信制高校との連係を保って、不登校の生徒やいじめられっ子を扱う。
授業は9時半開始。寝坊してもいいようにとの配慮。制服は任意。学校行事も少しはある。
授業内容はレポート作成指導やスクーリング指導。

「おとなしい系」クラスでは、「一流大学」受験レベルの「優秀な」子もいれば、生きているか死んでいるか判別できない「無反応な」子もいる。
「やんちゃ」系クラスでは、元暴走族も多く、喫煙・恫喝がある。教師に対して「ヤキを入れるぞ!」、「家に火をつけるぞ!」。
サポート校では、ブロンクスとは異なり、警官はいないものの、授業はつねに不成立。
学校に来ても、男子は「飲みすぎたー」と足を机の上にのせてマンガを読んだり、机の上にごろ寝したり。女子はお化粧に夢中。注意しても生徒はニヤニヤするばかり。

 ~ここで安田塾参加者からの質問コーナー~
Q「ブロンクスの高校と日本のサポート校では、違いはありましたか?」
A「違いは言葉ですね。日本は言葉が通じるのがいい。ブロンクスでは、スペイン語でまくしたてられたら太刀打ちできないから、こちらも日本語でまくしたててやるんです。このクソガキ!ってね。それと、サポート校の生徒は、英語を学ぶ動機がない。その点、ブロンクスの生徒は英語を学ばないと生活がなりたたない。そこが違いますね。」

Q「ブロンクスの貧困度はどうですか?」
A「貧困家庭は多いです。父と名字が違う子供もいる。ステップマザー(継母)がビッチでクソ女だ、と言う生徒もいます。ポバティライン(中間層と貧困層の境界線)を下回る人々が多いです。」

Q「宗教上の問題はありましたか?」
A「特にありませんでした。」

Q「生徒たちは卒業後どうするのですか?」
A「僕の学年は、50人中6人が卒業しました。途中で留年したり、いなくなったり、タクシーの運転手になる生徒もいます。」

Q「原田さんはつらい時、どうやって自分の気持ちを立て直したのですか?」
A「僕は英語が好きで、アメリカで暮らしたいという夢が28歳でかなった。だから簡単にアメリカを離れたくな かった。生徒にバカにされないくらい英語がうまくならないと、日本に帰ってもだめだと常に思い続けた。発音も勉強した。保護者との関係は、今の日本での方が大変だ!ブロンクスでは、教師は純粋に『教える』ことに専念すればいい。進路指導や学校行事には、専門の職員がいるからだ。でも、その分給料は低い。30歳で手取り20万円くらい。ニューヨークは家賃が高いから、それなりに厳しかった。」

 第2部 「悩みを共有しませんか」
◆ 2003年より、獨協中学・高等学校教諭。
今の勤務も楽じゃない。生徒はいつも反抗期。学力は極度な二極化。保護者からの苦情は初体験であり、これには驚いた!

 ~ここで反抗期の生徒をめぐるフリートーク~
安田塾参加者二十数人が4班にわかれ、日本の「一筋縄では行かない生徒たち」について話し合った。
家に愛人を連れ込む父親、教師を階段からつきおとす小学生など、各班の代表者から、種々の生々しい体験談が発表された。

 最終章「だけど、こんないいこともあった!」
▪ ブロンクスにて
原田いわく、「教室に入っちゃダメだよと生徒に言われ、また悪さかと思ったら、教卓にケーキが準備されていました。生徒たちが僕の誕生日を祝ってくれたんです。」
ケーキを前にした、原田と生徒たちの笑顔の写真が披露された。「僕が英語の授業で、『私の誕生日は◯◯です』なんて例文を使ったことを覚えてくれていたんですね。」


▪ サポート校にて
原田いわく、「僕がサポート校をやめるとき、ある女生徒が手紙をくれたんです。」
ここで、やおら「太陽にほえろ!」のBGMとともに、その手紙が読み上げられる。
「先生、先生のこと大好きだよ。なんで行っちゃうんだよ。悲しいよ。私たちのこと忘れないでよ。また戻ってきてよ。絶対だよ!」
反抗したい!でも、本当は先生が好き、という揺れ動く女子の気持ちがいっぱいの手紙だ。
原田いわく、「『太陽にほえろ!』を、この手紙のBGMにしたくて、わざわざ重たいデッキを幹事さんに持ってきてもらったんです。」


安田忠郎さんの結語:
「私がブロンクスで見た、原田さんの授業光景は、ダイナミックでスサマジイものだった!全精力を注ぎ込んだかのようだったね。授業後、彼とカフェで一服したが、彼はあまりの疲労で、眠ってしまうほどだ。私がたまたま彼のクラスの一女生徒をつかまえて、『Mr.原田はどんな教師だ?』と質問したところ、彼女はHe's a good teacher. と即答した。彼の溌剌とした飾らない肉声が、バイタリティーに満ち溢れたヒスパニックの少年少女の胸にびんびん響くんだろうな―。」