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                                   2011年11月30日 谷川健司
第12回安田塾(2011.10.29)の講演
「ハリウッドと日本のアカデミア」
【講師】谷川健司(たにかわ・たけし、映画ジャーナリスト・早稲田大学客員教授)) 
【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室

はじめに
 「ハリウッドと日本のアカデミア」というタイトルから具体的にどのような話が可能か。
 ①日本のアカデミアにおいて、ハリウッド映画がどのように研究・教育に用いられているか。
 ②ハリウッド映画産業界(のインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界)と日本のアカデミアという二つの全く異なる世界の比較。
 ③その二つの世界の両方に関わってきた者として、どんな人との出会いを重ね、またどんな経験を積んできたか。今後どのような立ち位置で仕事をしていくつもりか。
 ⇒ 以上の、三つの異なる位相それぞれについて話を進めていく予定。後半は多少、映像資料もお見せする予定で、1時間30分程度で話をまとめ、そのあとは皆様からの質問に答えたり、フリートークに近い形で。

1. 日本のアカデミアにおけるハリウッド映画
1) 米英などにおけるFilm Studiesと日本における映画学の違い
 ⇒  欧米におけるFilm Studiesが、文学研究などと同様の大きな学問分野の一つとして存在しているのと比べて、日本では限られた大学の限られた学部にしか映画を系統だって教える学科は存在せず、「映画学」という学問が存在すると言えるかどうかすら疑問。
 ⇒ 日本の場合、日本映画大学、デジタル・ハリウッド大学、日本大学芸術学部などが映画について系統だって教えるところとして存在するが、いずれも実作者養成が第一義的目的で、純粋な学問としての「映画学」ではない。
 ⇒ 美学、哲学などからの「表象文化論」、文学研究者による「映像のテクスト分析」としての映画研究(作家研究)はある程度の人数の研究者がいるが、社会学、大衆文化論などからのアプローチは少ない。

2) 映画研究のすべての領域、すべての方面からのアプローチの研究者が須らく会員であるような「日本映画学会」は存在しない。
 ⇒ 日本映像学会、日本マス・コミュニケーション学会、映画英語教育学会など、映画を研究する人たちが多く参加する学会はあるものの、それらは、それぞれに専門の領域を持つ人たちが、その立ち位置からアプローチしているということで、やはり「映画学」の研究者とはいいがたい。
 ⇒ それぞれの枠内の研究者にしか読まれない論文。
 ⇒ 本当の意味での「映画学」としてのピア・レヴュー・システムが未確立。
 ⇒ むしろ、アカデミアの外部(民間の映画研究者、コレクターら)による著作などにもクオリティの高いものはあるが、映画関係書には学術的に意味のあるもの、全く無いもののどちらもあり、玉石混交の状態で区別されずに市場に出ている。

3) 「ハリウッド」映画という枠組みに限定するならば、さらに別の問題が浮上する。
 ⇒ すなわち、日本の映画研究者のある意味での主流といえる美学、哲学などからの「表象文化論」や、文学研究者による「映像のテクスト分析」としての映画研究(作家研究)は、往々にして映画の持つ“芸術”としての側面にしか関心を示さないし、 「ハリウッド」映画の大多数を占める“娯楽”映画の研究は価値が低いとみなされやすい。
 ⇒ 映画を著す英語の単語としては、●Film、●Cinema、●Motion Picture、●Movieなどいろいろある。映画とは、人類にとっての科学的な達成物(映画芸術“科学”アカデミー協会)であり、第七芸術であると同時に、何よりもInformativeな“娯楽”として発展してきた。

4) 谷川はどのような立ち位置で映画を研究しているのか?
 ⇒ 谷川は一橋大学の社会学なので、基本的には南博先生などから続く大衆文化研究の系譜に自分自身を位置づけているが、アカデミアにあっては、前任校の茨城大学(今も月に二回、Japanese Film Historyという授業をやっているが)では「カルチュラル・スタディーズ」担当教員というポスト、早稲田大学では(映像を専門とする)「ジャーナリズム論」担当教員というポストでしかなく、どうしてもしっくりこない。
 ⇒ 映画とは、多くの観客の目に触れて初めて意味を持つ。
 ⇒ 多くの観客に好まれる映画こそがいい映画であり、たとえば世界的な巨匠が手がけ、本人が「わが生涯の最高傑作」と自負する映画であっても、それがほとんど人の目に触れたことの無いものであれば意味をなさない。
 ⇒ そういうStandpointで映画に向きあってきているのだが、観客との接点で映画を考えるという枠組みは、正直いって試行錯誤の繰り返し。

5) 大学でどんな授業をやっているのか?
 ⇒ 「映像文化論」では、毎年、テーマを変えて、あるひとつのテーマに沿った映画(主としてハリウッド映画)を選び、2単位=90分×15回の授業で7作品を見せて、観賞後に個々の映画の背景としての時代のムードであるとか、映画がいかに観客に問いかけ、また観客側の潜在的な需要が映画のコンテンツに影響を及ぼしてきたのか、といった観点で考察。
 ⇒ 本年度でいえば、「冷戦時代のパラノイア」というテーマで、前期は「核・放射能への恐怖」、後期は「マッカーシズム」という枠組みで1950年代にハリウッドで製作された映画を題材に学生たちと一緒に考えていく、という構成。
 ⇒ ともかくも、授業で映画を見せてますというだけで、そんなの学問ではない、と思い込むような人が多い、というのがアカデミアにおける問題点。

2. ハリウッドと日本のアカデミアという二つの全く異なる世界の比較
1)アカデミア/映画ジャーナリストという二つの分裂したキャリアの中で、行きつ戻りつしているということの意味。
 ⇒ そもそも、アカデミアに足を踏み入れたのは二つの理由から。
 a) 映画評論家や映画を専門とするジャーナリストだけでずっと食っていくのは大変だろうと思っていたから。(身近なライフモデルとしての祖父)
 b) 映画ジャーナリストとしてどれだけ価値のある仕事をしても、大学という場にいる人たちはおそらく「あれは、研究者じゃなくてジャーナリストが書いた本だからね」と評価の対象にはしようとしない傾向がある(それは蛸壺化している大学人たちのアイデンティティのよりどころだと思うが)ので、「ならば博士号くらいとって、誰にも文句を言われないようにしよう」と思ったから。

2) 専任教員でいること vs. インディペンデントでいること
 ⇒ 専任教員でいること のメリット
 a) 安定した収入
 b) 社会的な信用
 c) 研究室という“狭いながらも自分の城”を確保できる
 ⇒ 専任教員でいること のデメリット
 a) 忙しさ(教授会、委員会、会議、会議、会議…入試、入試、入試……)
 b) 学内ポリティクスに費やされる無駄なエネルギー(派閥抗争、人事案件などでの駆け引き、誹謗中傷合戦)
 c) 専門領域の蛸壺化と、狭い井戸の中で「自分は偉い」と勘違いするメンタリティ
 ⇒ インディペンデントでいることのデメリット
 a) 安定しているとは言えない収入
 b) 研究室がないので資料の置き場所を確保しなければならない
 ⇒ インディペンデントでいることのメリット
 a) 授業・学生指導以外の事には一切関わらないので自由な時間が多い
 b) くだらない事に自分の時間を費やさなければならないイライラの解消
 c) そこそこの社会的な信用の確保
*自分のやりたい仕事をやっていく上で、谷川は専任教員でいるよりも、客員教授というインディペンデントな状態を選択

3) ハリウッド映画産業界(およびそのインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界)ではどうか?
●1950年代半ばまでのハリウッドのスタジオ・システム時代における、メジャー・スタジオの雇用下にある立場と、インディペンデントの映画人(俳優・監督etc)である立場の違い
*メジャーのメリット
 ⇒ 安定した収入/落ち着いて仕事に取り組める環境/潤沢な予算
*メジャーのデメリット
 ⇒ 作家性よりも収益性の高さが優先される構造
*インディペンデントのメリット
 ⇒ 規模は小さいものの作家性は担保(やりたい仕事をやりやすい)
*インディペンデントのデメリット
 ⇒ 安定しない収入/予算のしばり

●1960年代後半の“アメリカン・ニューシネマ期”以降のハリウッドにおける、メジャーとインディペンデントの立場の違い
*メジャーのメリット
 ⇒ 成功の度合いに拠って得られる高収入/潤沢な予算
*メジャーのデメリット
 ⇒ 収益性の高さが追求される結果、作家のエッジが失われやすい
*インディペンデントのメリット
 ⇒ 作家性の担保(ファイナンスさえ得られればやりたい仕事をやれる)
*インディペンデントのデメリット
 ⇒ 安定しない収入/予算のしばり

 ハリウッド映画産業界にしろ、日本のアカデミアにしろ、予算権・人事権などの権力を握る人たちがいて、いったんその世界に入ることを許された人の中でも、その権力に対して従順であれば安定した収入やコンスタントな仕事が保障されるものの、権力に対してクリティカルであろうとし、また自分自身の欲求に忠実にやりたい仕事をやっていこうとすれば、比較的不安定な立場のインディペンデントでいざるを得ない、という点では何一つ変わらない。
 ⇒ どちらがいい、悪いということはない。もの書きとか研究者でもフリーランスの時にいい仕事をしていたのに、大学という組織に組み込まれた途端に守りに入ってエッジを失う人はいるし、逆に安定を得たことで力を発揮する人もいるだろう。映画人でももちろん同じこと。
 ⇒ 要は、自分がどういうタイプの人間なのかということ。たまたま、谷川はいつでも誰に対しても自由にものが言えるような、自由な立場でないとストレスばかりたまってやっていられない、ということ。
 ⇒ それが、アカデミアとジャーナリズムを行きつ戻りつしている理由。

3. 二つの世界の両方に関わってきた者として
1) 映画ジャーナリズムの世界でどんな人立ちと接してきたか
 谷川がアカデミアの世界ではない領域で関わってきたのは、ハリウッド映画産業界のインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界であり、映画作家、俳優、プロデューサーといった人たちへの取材を通じて、言わば“観察者”としてハリウッド映画産業界の様々な立場の人たちを見てきた。
 ⇒ 俳優:S・スタローン、W・スナイプス、L・ディカプリオ、R・デ・ニーロ、K・リーヴス、K・ブラナー、C・オドネル、J・ヴォイト、W・スミス、B・フレイザー、J・ルーリー、D・エイクロイド、J・ニコルソン、 P・フォンダ、J・パトリック、D・クエイド、B・ボブ・ソーントン、 C・ウォーケン、T・ハットン、R・ウォーカーJr、D・ストックウェル、etc
 ⇒ 監督など:A・ライン、J・ウー、T・フーバー、J・シュマッカー、T・バートン、コーエン兄弟、 O・ストーン、 S・ゼインツ、A・ミンゲラ、M・ニコルズ、J・ハリスン、R・ベイカー、G・スティーヴンスJr、etc  
 ⇒ それらの中で、最も深く、強い関係を構築したのがデニス・ホッパーだった。

2) デニス・ホッパー(Dennis Hopper 1936-2010)とは、いかなる映画人で、谷川はいかにして彼との友人関係を構築していったのか?
 ⇒ 谷川自身の、安定はしているが窮屈でストレスがたまる生活よりも、インディペンデントの立場でやりたい仕事をしていきたい、という生き方の基本線。
 ⇒ ハリウッド映画産業界にあってそのお手本であり続け、かつ谷川をそういった生き方へと導き、励ましてくれたのが、デニス・ホッパーという人だった。
 ⇒拙著『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』は、そうした想いを形にしたもの。

 事の発端は、日本ヘラルド映画勤務時代の1986年にニューヨークでデニス・ホッパーによる写真展を見たこと。
 ⇒ 彼の写真家、アーティストとしての仕事を日本に紹介しようと考え、「東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」を企画・プロデュース。
 ⇒ 手始めに、1988年に彼の幻の監督作『ラストムービー』(1971)のロードショー公開を実現。
 ⇒ 1989年11月10日、ベルリンの壁が崩壊したその日にホッパーの初来日を実現させ、渋谷PARCOにて彼の出演作・監督作を集めた映画祭と、彼が1960年代に撮っていた写真を集めた写真展を開催。
 ⇒ ちょうどその頃は、彼自身も長い失意の日々(アルコールとドラッグ漬けの時代)から立ち直り、『ブルーベルベット』で悪役俳優としてカムバックし、再びハリウッドの表舞台に立とうとしていた時期。

3) デニス・ホッパーとは何者だったのか?
 ⇒ 17歳で期待の新人としてワーナー・ブラザースと契約、ジェームズ・ディーンの公私にわたる弟分として映画デビューを果たし、ディーンのたった3本しかない主演作のうち2本(『理由なき反抗』『ジャイアンツ』)で競演した。
 ⇒ ディーンの事故死後も、しばらくの間はメジャー・スタジオという“体制”の中で“反抗的な若者”として居場所があったものの、権力を傘に着て押さえつけようとするスタジオのお偉方や、既得権益を守るべく理不尽なルールを押し付けようとする大人たちに歯向かい続け、ハリウッドを追放されてしまう。
 ⇒ 以後、俳優としてはインディペンデントの立場でB級映画の悪役などを演じたりTV番組のゲスト出演などで糊口をしのぎながら、「将来は監督になって自分たちの撮りたい映画を撮ろう」と共通の夢を語り合っていた故ジェームズ・ディーンとの約束を果たすべく、監督になるための修行の一環として写真を撮り始める。
 ⇒ そして1969年、失敗に次ぐ失敗を重ねたあと、とうとう念願の初監督作品を撮るチャンスを掴む。
 ⇒ その作品、『イージー・ライダー』こそが、たった37万5千ドルの予算で製作されたにも拘らず、最終的に6000万ドルもの収益を上げ、古いスタジオ・システムを完全に葬り去り、今日のハリウッドのビジネス・モデルを生み出すきっかけとなった。
 ⇒ 『イージー・ライダー』の究極の成功(カンヌ国際映画祭新人監督賞受賞/アカデミー賞脚本賞ノミネート)は、デニス・ホッパーをして、一躍“時代の寵児”としてニュー・ハリウッドに君臨させることになり、以降、ハリウッドでは「才能はありそうだが経験の無い新人監督たち」、すなわち、ジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグといった後に続く世代が活躍する下地ができる。
 ⇒ だが、好事魔多しという言葉通り、上げ潮のホッパーが監督・主演第2作として取り組み、南米ペルーでの長期ロケを敢行した問題作『ラストムービー』は、その難解な内容ゆえに資金源のユニヴァーサル映画ともめ、ほとんどお蔵入りの憂き目に会う。
 ⇒ ホッパーの失意の日々の始まり
 ⇒ しかしながら、『ブルーベルベット』で復活を遂げ、監督としても返り咲くまでの間の1970年代にあっても、俳優デニス・ホッパーはヴィム・ヴェンダース監督による主演作『アメリカの友人』(1976)や、短い出番ながら怪演したフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979)といった作品で忘れられない仕事を残している。

4. ホッパーとの出会いで何を学んだのか?
1) 懐に飛び込んだこと
 『ラストムービー』の日本向け配給の権利を持っている相手を探していて、結果的にデニス・ホッパー本人とコンタクトがとれたのだが、始めは住所すら判らないままロサンゼルスに出かけた。
何としても直接会って話をしたいと思い、 『ラストムービー』のビデオ発売用にインタビューさせてもらう話をまとめ、自宅に出向く。
 ⇒ そのとき、ホッパーは、「お前がどうしても俺に会って話がしたいと思った気持ちはよく判る。俺も若い頃、こいつは本物だ、と思った相手には自分から会いに行ったからな。ジェームズ・ディーンと友達になれたのも、どうしたら君のようになれる?、って俺から会いに行ったんだ。だから、オレはお前のことを信用するよ。基本的に同じ種類の人間だと思うからね」と言って、初めから心を開いて接してくれた。

2) 深く心を揺さぶったこと
 その後、「第一回東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」を企画・プロデュースして初来日を実現させたが、それは当時努めていた日本ヘラルド映画の仕事としてやったわけではなく、友人たちと本当に手弁当で、小口のスポンサーをみんなで手分けして探して、足りない分は自腹を切って実現させたもの。
 ⇒ ホッパー夫妻の往復ファースト・クラスの航空券も、ホテルオークラのセミ・スィートルームも、そうやって用意したということを、彼は来日中に初めて知り、深く心を揺さぶられたと思う。
 ⇒ それをきっかけに、その後も密接な付き合いが続き、彼についての本を日本で何冊か出版していたことから、彼自身によって「俺のバイオグラファーだ」と公式に指名され、アメリカとドイツでそれぞれ出版される彼のカタログ・レゾネの編集を頼まれる。

3) 教訓
 本当に自分が情熱を持って取り組めることを見つけ、それに全力で取り組めば、結果はおのずと付いてくる。
 ⇒ 同時に、ホッパー自身の生き方――不器用で、何度も苦境に立たされながらも自分自身の信念に忠実に生きた人だと思う――に憧れ、その生き方をお手本として、僕自身も自分の価値観とか本能とかに忠実に生きようと務めてきた。
 ⇒ 会社をやめてフリーランスになったときに、デニス・ホッパーは「食っていけてるのか?」と心配してくれつつも、「誰かために己を殺して働くということと比べた時に、インディペンデントになるということは絶対的に良いことだ」と背中を押してくれた。

おわりに
 これからの展望
 ⇒ アカデミアと映画ジャーナリズムの二つの世界で、どちらにもインディペンデントの立場で片足ずつ足を突っ込んでいるということは、どちらに重心をかけるも自分次第、という意味では気が楽だが、どちら側の人たちからも「谷川さんって、本当はあっち側の人だよね」と距離を置かれているということでもある。
 ⇒ 昔、デニス・ホッパーも俳優仲間からは“写真家/アーティスト”と思われ、芸術家仲間からは“映画人”と思われ、居場所が無かった、と言っていた。でも、結果的に見れば、デニス・ホッパーという人はその二つの世界の才能と才能を結びつける触媒のような存在として、独特の存在感を示した。
 ⇒ 目標としては、その二つの世界を結びつける架け橋のような仕事を、まだまだあと20年くらいはやっていきたいと考えている。

a0200363_2241435.jpg*デニス・ホッパーとのことの詳細はキネマ旬報社より上梓した『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』(2400円+税、2011年2月)に記してありますので、お読み頂けると嬉しいです。

*同書の出版を記念して本年1月から2月にかけて東京・京橋のLUX Gallerieにて、またその後、大阪の心斎橋STRAND BOOKSTOREにて開催した「谷川コレクションによるデニス・ホッパーの軌跡展」に際して、期間限定で開設していたブログ「デニス・ホッパーの軌跡」は、現在紙面更新は行っていないものの、過去の記事は現在でも閲覧できます。ご関心のある方はhttp://ameblo.jp/dhopper/にてご覧下さい。
                                   2011年11月15日 安田忠郎
                    第12回安田塾を終えて

 第12回安田塾は、10月29日(土)に開催されました。 
 例会では最初、私が午後2時から30分、講師・谷川健司のプロフィールを紹介がてら、「私のアメリカ観」についてお話ししました。
 本号㊤では、そのトークの趣旨を敷衍(ふえん)して述べます。
 そして、谷川講師の講演については、次号㊦で谷川自らが文章にまとめます。

▲ 「第11回安田塾の事後報告㊤」(安田塾メッセージ№37)の(3)は、こう記しました。
 私・安田は「映画狂」、特に「アメリカ映画好き」のゆえに、「アメリカには全体として、多少の屈折はあっても、大変良い印象を持ちつづけてきた。特に小中時代の私の場合、海の彼方のアメリカに強い憧れさえ抱いていた」と。
 この点の意味合いを、私としては児童文学作家・灰谷健次郎(1934~2006)のエッセイ集『アメリカ嫌い』(角川文庫、2002年)を参照しながら、一層明らかにしてみます。
 彼は次のような「アメリカ批判」を表明しています。「はじめ、アメリカが嫌いになったのは、うんと幼いときで、当時、進駐軍と呼ばれていたアメリカ兵に、チューインガムやチョコレートを面白半分にばらまかれ、その屈辱が身にしみた。…/思想形成時代、韓国の民主化闘争やベトナム戦争をつぶさに見てきた。よくここまでやるな、というほどの陰謀と覇権主義に、アメリカにはほとほと愛想がつきるという気分にさせられる。/建国の歴史が先住民虐殺の歴史そのものであり、黒人に対する白人の差別と暴力主義は容易に克服されず、銃社会がしめすように、生命に対するこまやかさのきわめて乏しい国というのが、わたしのアメリカ認識だった。/アメリカスタイルの合理主義というのが、これまた曲者で、商業主義とつるんで、世界中を我がもの顔にのし歩く。/海外に出るようになって、この怪物の、他国への経済侵略、文化破壊のすさまじさに目を見張った。/日本も含めて、世界のおおかたの都市はアメリカナイズされてしまっている。」(同上書84-5頁)

 私はかつて70~80年代に、17年間の小学校教師経験を持つ彼のミリオンセラー『兎の眼』(1974年)を大学教職課程における私の授業の課題図書に指定しつづけました。
 同書は塵芥処理所の隣接する小学校を舞台に、大学を卒業したばかりの若い女性教師が直面する出来事や出会いを通して、児童たちと共に成長する姿を描いた作品です。そこでは、教師(大人)=管理=悪、子ども=自由=善という問題的な二項対立構造が垣間見えるものの、教師が子供に寄り添って共に考える「教育」の根本的なあり方が示されるとともに、学校教育の枠内では見捨てられてしまう底辺の子供たちの個性的なキャラクターが活写されています。
 
 しかし、『アメリカ嫌い』における彼のアメリカ認識・批判は、余りに概念的に過ぎます。
 なるほど同書には、「もしアメリカの文学、映画というものに出会っていなければ、わたしはアメリカを悪魔の住むとんでもない国だと思いこんでいただろう。/当たり前のことだが、アメリカにも思慮深い人、礼儀正しい人、心優しい人は数多くいる」(同85-6頁)という一文が盛り込まれています。
 ところが問題は、彼がアメリカ文学・映画に「出会った」にもかかわらず、何らアメリカ文化の豊かさに裏打ちされたアメリカ社会像を縁取るにいたっていないことです。
 彼は同書のなかで、「社会主義国(ベトナム―引用者註)にストリートチルドレンが多数いるというのは信じ難い話だが、これは現実なのである」、「社会主義国にも官僚主義がある」と言明しています(同181頁)。彼の場合、その思想的構えが社会主義=善vs.資本主義=悪のイデオロギー的枠組みに拘束されているために、アメリカ固有の問題状況を対象化できないのです。ましてアメリカの輝かしい長所を見つめ直せるはずがありません。
 彼のイデオロギー的姿勢では、第11回安田塾の講師・小川彩子(安田塾メッセージ№38参照)の次のような立言は、まったく理解の範囲を超えるものでしょう。「アメリカはヨーロッパ文化をしっかり引きずっており、固有の文化的背景をもつグループが『同化』でなく『共生』を目指している。それぞれの民族グループが先祖から受け継いだ人種的、民族的伝統や習慣などの文化遺産を守り、しかも他の文化も尊重して共生しようという多文化教育が、教師教育において、また現場教師の創意工夫によって促進されている。アメリカ社会を表現するのに今までの『人種のるつぼ』が『トッスド・サラダ(Tossed Salad)」に代わって久しい。固有の人種、民族は溶け合わず、ミックスしているだけのサラダのように、一人一人が個性を主張しているのである。」(『突然炎のごとく』春陽堂、2000年、207-8頁)

 私は、特に少年時代の私は、映画がたまらなく好きでした。とりわけ、強い個人の夢・理想があり、個性きらびやかに躍動する人物を創造するアメリカ映画を熱烈に愛したものです。
 小学生→中学生の私が見た、忘れがたいアメリカ映画は、例えば次のような作品でした。
・「モロッコ Morocco」1930年~監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 主演:マレーネ・ディートリッヒ、ゲイリー・クーパー
・「駅馬車 Stagecoach」1939年~監督:ジョン・フォード 主演:ジョン・ウェイン、トーマス・ミッチェル
・「風と共に去りぬ Gone with the Wind」1939年~監督:ヴィクター・フレミング 主演:ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル
・「哀愁 Waterloo Bridge」1940年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー
・「わが谷は緑なりき How Green Was My Valley」1941年~監督:ジョン・フォード 主演:ドナルド・クリスプ、モーリン・オハラ
・「断崖 Suspicion」1941年~監督:アルフレッド・ヒッチコック 主演:ケーリー・グラント、ジョーン・フォンテイン
・「カサブランカ Casablanca」1942年~監督:マイケル・カーティス 主演:ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン
・「心の旅路 Random Harvest」1942年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ロナルド・コールマン、グリア・ガースン
・「誰(た)が為に鐘は鳴る For Whom the Bell Tolls」1943年~監督:サム・ウッド 主演:ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン
・「キューリー夫人 Madame Curie」1943年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:グリア・ガースン、ウォルター・ピジョン
・「荒野の決闘 My Darling Clementine」1946年~監督:ジョン・フォード 主演:ヘンリー・フォンダ、リンダ・ダーネル
・「白昼の決闘 Duel In The Sun」1946年~監督:キング・ヴィダー 主演:グレゴリー・ペック、ジェニファー・ジョーンズ
・「拳銃無宿 Angel and the Badman」1947年~監督:ジェームズ・エドワード・グラント 主演:ジョン・ウェイン、ゲイル・ラッセル
・「ジャンヌ・ダーク Joan of Ark 」1948年~監督:ヴィクター・フレミング 主演:イングリッド・バーグマン、ホセ・ファーラー
・「折れた矢 Broken Arrow」1950年~監督:デルマー・デイヴィス 主演:ジェームズ・スチュワート、ジェフ・チャンドラー
・「陽のあたる場所 A Place in the Sun」1951年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー 
・「クォ・ヴァディス Quo Vadis」1951年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ロバート・テイラー、デボラ・カー
・「巴里のアメリカ人 An American in Paris」1951年~監督:ヴィンセント・ミネリ 主演:ジーン・ケリー、レスリー・キャロン
・「アフリカの女王 The African Queen」1951年~監督:ジョン・ヒューストン 主演:ハンフリー・ボガート、
キャサリン・ヘプバーン
・「真昼の決闘 High Noon」1952年~監督:フレッド・ジンネマン 主演:ゲイリー・クーパー、グレイス・ケリー
・「ナイアガラ Niagara」1953年~監督:ヘンリー・ハサウェイ 主演:マリリン・モンロー、ジョゼフ・コットン
・「終着駅 Stazione Termini」1953年~監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 主演:ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト
・「シェーン Shane」1953年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:アラン・ラッド、 ジーン・アーサー
・「地上(ここ)より永遠(とわ)に From Here to Eternity」1953年~監督:フレッド・ジンネマン 主演:バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、デボラ・カー、フランク・シナトラ
・「ローマの休日 Roman Holiday」1953年~ 監督:ウィリアム・ワイラー 主演:オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック
・「慕情 Love Is a Many Splendored Thing」1955年~監督:ヘンリー・キング、主演: ジェニファー・ジョーンズ、ウィリアム・ホールデン
・「十戒 The Ten Commandments」1956年~監督:セシル・B・デミル 主演:チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー
・「ジャイアンツ Giant」1956年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェームズ・ディーン
 エトセトラ、エトセトラ…
a0200363_1444414.jpg 私は小学4年(10歳)のとき初めて、映画「シェーン」を見ました。映画のラスト・シーン、去りゆくシェーンを必死で引き止めるジョーイの「シェーン!!カムバック!!」の叫びが心に染みました。そして、テーマ曲「遥かなる山の呼び声」』(The Call for Far-away Hills、作曲:ビクター・ヤング、歌:ドロレス・グレイ) の調べに余韻が残りました。
 私は子供のころ、あくまで少年ジョーイの目線で物語を見ていました(⇒少年の目から見た英雄物語)。しかし高校生になってから、もう一度見直して、男女の三角関係(シェーンとマリアン、夫であるジョーとの間で生じる愛の葛藤)の話に気が付きました。
 「シェーン」はいろいろな要素―豊穣な人間味と美しい景色―が入り交じり、見れば見るほど隠された味に魅せられる作品です。「シェーン」こそ、子供は子供で楽しめるし、大人は大人で楽しめる、何度でも観たくなる「西部劇」屈指の名画です。
 

 当時の私が映画の真の価値を汲み取ることができたかどうかはおぼつきません。
 だが、いずれにせよ、思春期の向こう見ずな少年が絢爛たる娯楽性と芳醇なる文化性に恵まれたアメリカ映画に出会って、人間の意味⇒世界の意味を発見し再発見しつづけた点は間違いありません。アメリカ映画の伝える「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ American way of life」―アメリカの生活・思想・科学・教育・政治・宗教等―を通じて、少年のむき出しの視線は世界大の人間の生活と、その価値の普遍性に向けて、自然に開かれていきました。

 私は―少年期はおろか、青年期を経て今日に至るまで―、アメリカ映画から、人間の営為の偉大さ、世界の広さと厚みを学び取りつづけ、民主主義的諸価値に関する貴い示唆を受けつづけました。そして今なお、アメリカ映画の多くが私に心の糧と安息とをふんだんに与えてくれていることも紛れもない事実です。