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                                   2011年10月10日 安田忠郎
                   第12回安田塾のご案内

 今回は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】10月29日(土)午後2時~4時30分
【講師】谷川建司(たにかわ・たけし、映画ジャーナリスト・早稲田大学客員教授)
【テーマ】「ハリウッドと日本のアカデミア

【講師略歴】
1962年 東京都生まれ
1989年 日本ヘラルド映画在籍中、「第1回東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」をプロデュースする
1997年 第1回京都映画文化賞受賞
2003年4月~05年9月 茨城大学人文学部助教授
05年10月~10年3月 早稲田大学政治経済学部教授

【安田のコメント】
 私が谷川さんと初めてお会いしたのは、1999年9月、NY(ニューヨーク)のコロンビア大学(CU)においてでした。両人は同年から翌年にかけて、CUの東アジア研究所(EAI)に「客員」として長期滞在しました。
 彼のCUでの研究報告「占領期におけるアメリカの対日映画政策」に、私は強く興味をひかれました。それは戦後日本の民主主義、一層具体的には私個人の「民主主義的」人格の形成にかかわって、大きな示唆に富む話でした。
 また、私の心に焼きついた思い出の一つは、2000年3月、彼と私が連れ立って、NY→サンディエゴ→ロサンゼルスを周遊、特にハリウッド界隈をめぐり、映画俳優・監督のデニス・ホッパー(1936~2010) の自宅兼事務所を訪問したことです。 
 ホッパーと言えば、アメリカ映画史とアメリカのカウンター・カルチャーに大きな足跡を遺し、昨年5月29日に惜しまれつつ世を去りました。彼が監督・脚本・主演の三役を務めた、アメリカン・ニューシネマの代表作「イージー・ライダー」(1969年)は、1960~70年代の私にとって―ジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」(1975年) 、ロバート・デ・ニーロ主演の「タクシードライバー」(1976年)と並んで―、今なお鮮明に記憶に残る映画です。 
 谷川さんはホッパーと、プライベートな部分で、そして仕事の上で20年余に及ぶ交流を重ねてきました。
 そして、彼はホッパーの供養のつもりで、去る2月5日、『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』(キネマ旬報社)を公刊しました。彼がいかに「人間デニス・ホッパーを通じて自分自身を見つめてきた」(同書)かは、言うまでもありません。

 ところで、谷川さんは映画ジャーナリスト・映画評論家以外に、大学教師の仕事(専門は「映画史」・「大衆文化研究」)にも携わりました。2003年度から09年度にかけて7年間、茨城大学人文学部助教授→早稲田大学政治経済学部教授を務めました。彼は同書のなかで、自らの大学人⇔映画ジャーナリストの葛藤に触れて、以下のように述べています。
 「…僕は映画ジャーナリストらしい仕事からはしばらく遠ざかることになった。/代わりに、翌2003年からは大学の専任教員となり、映画史の授業を中心とした教育と、大衆文化をフィールドとする研究者としての研究活動、そして所属する学部・研究科の運営や入試といった学内行政に忙殺される日々を送ることになった。」
 「2009年は、職業人としての僕にとってひとつの岐路に差し掛かった年であった。すなわち、丸7年間を大学の専任教員として過ごした後に、自由な時間と自由なものの考え方を束縛される、組織の中での仕事に見切りをつけて客員教授として授業を受け持つだけのミニマムな関わり方に身分を変更し、本当に自分がやりたい仕事のために自分で自分の時間と仕事をコントロールしていく、という自らの原点に立ち戻る決意を固めたということである。
 大学の専任教員であるということは、社会的なステイタスと安定した収入とが保証されるものである一方、失うものもまた大きい。」
 「かつて1992年に、8年間務めた日本ヘラルド映画を退社してフリーランスの映画ジャーナリストになった際に、ほかの誰の言葉よりも僕に強い勇気を与えてくれたのは、デニス・ホッパーその人が言ってくれた次のような言葉だった。―曰く『自分を殺して誰かのために組織の中で働くというのではなく、インディペンデントになるということは、間違いなく一番よいことだ』 それから丸10年をフリーランスの映画ジャーナリストとして過ごし、その後の7年間を大学の専任教員として過ごしてきた僕にとって、権力争いのような非生産的なことに明け暮れる大学という職場で、否応なくそれに巻き込まれて、自分の時間を浪費し続けることへのストレスはそろそろ限界に差し掛かっていた。…」
 

【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
【会費】1000円

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、10月26日(水)までに、下記にご一報ください。
 Eメール:tadyas2011@excite.co.jp 
                                   2011年10月5日 安田忠郎
第11回安田塾(2011.7.23)の講演
泣き笑い挑戦人生異文化、住んで学んで教えて旅して
【講師】小川彩子(おがわ・あやこ、グローバル教育学者)
【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室

▲ 小川さんは下記の項目に即して順次、話を進めました。その際、注目すべきは、アメリカではお馴染みの「参加」型の手法が導入されたことです。彼女の力量のなせる業でしょう、約2時間、参会者との対話を重ねながら、率直な話し合いが展開されました。
(1)自己変革:自己の壁に挑戦! 
 ①超内気な主婦だった 
 ②内なる挑戦から外への挑戦へ
(2)泣き笑い挑戦人生:年齢の壁に挑戦! 
 ①突然のアメリカ生活 
 ②泣きが笑いより多かった 
 ③叩けよ、さらば 
 ④博士号への道:目標必達 
 ⑤講師からプロフェッサーへ
(3)文化の発信受信:文化の壁に挑戦! 
 ①足元から見たアメリカ文化 
 ②多文化音楽とアートの昼食会 
(4)足と心で異文化交流:ドキドキ地球千鳥足と三無(あてにしない・あわてない・諦めない) 
 ①みどりとケンの物語
(5)自己実現と共生活動の交点:挑戦に適齢期なし! 
 ①「年だ」は「ま~だ」だよ
 ②「人生は壁乗り越える泣き笑い―彩子」
 “Constant renewal keeps the oasis alive” 「静かな泉の水は涸れる」

 講演内容は鳥取県米子出身の「超内気」な主婦・小川彩子の「自己変革」⇒「自己主張」の物語でした。そこでは、とりわけ1990年、定年間際の夫に下されたアメリカ転勤(オハイオ州シンシナティ在住)を機に、チャレンジを自分に課しつづけた異文化体験談が披露されました。
 彼女はこの異文化体験の核心を、著書『突然炎のごとく Suddenly, Like a Flame』(春陽堂、2000年)に手際よくまとめています。以下、同書を心して読み取りながら、私の最も関心の引くところを箇条書きに特記します。
 

 「英語はアメリカに行ったからとて簡単に上達はしない、というのが体験からくる私の意見だ。物件(不動産―引用者註)を見ながら、人と話したあと、テレビやビデオを見ているとき、本や新聞を読んでいるとき、良い表現にであったらすかさずメモする。そのメモ帳をおりあるごとに開き、暗記を試み、文脈上少々不適切でも使ってみるなどの死に物狂いの努力があってこそ表現が豊かさを増す。例外的に語学的センスのずばぬけた人はいざ知らず、凡人は努力してこそはじめて英語が身につくのだ。」(同上書13頁)
 ←安田曰く、まったく同感である、と。
 私・安田はニューヨークに10年も(不法)滞在しながら碌に英語をしゃべれない日本人に出会ったことがあります。小川さんは英語の習得に人知れず努力に努力を重ねたことでしょう。

 「シンシナティで手に紙切れでも持ってうろうろしてごらんなさい。家探しをしていると思って必ず若い人でも誰でも飛んできて、“May I help you ?”と聞いてくれる。欧米人の慣用句だからと何も感じない人が多かろうが、私はいつも、なんて美しい言葉だろうと思う。『お助けさせて頂けませんか』なんて。丁寧語で手助け許可を求めるなんて。/多くの日本人は知っている人にはとても親切だが『見知らぬ人への親切』ではアメリカ人にかなわないと思う。挨拶しようとためらっているうちにチャンスを逸するのかもしれない。アメリカは食わず嫌いだった夫でさえも数年の滞米生活のあと、アメリカ観が変わった。未知の人から予期せぬ親切を受けたこと数知れなかったからだ。『宗教を持つためだろう』と良く二人で話合ったが、社会を形成する人間は助け合って生きていくものだという思想―多分宗教に根ざした―が根底にあるようだ。/助けてあげても直接的な見返りは期待しないし、助けてもらっても『アリガトウ』の言葉だけ。いつか自分ができることで助けの必要な人に手をさしのべれば良いのだ。助けの『手』のあとに『物』の移動が少ないのはスッキリしていて気持ちがいい。」(同22-3頁)
 1998年の大晦日、小川夫妻がレストランで居合わせたアメリカ人と年越しをした際のこと。「十二時が近づくと『肩を組もう』とその中の1人が言った。そして全員が肩を組み、『蛍の光』を合唱し始めた。程なく十二時だ。/“A Happy New Year!”と叫びあって…、お互い知らぬもの同士が抱き合って頬をくっつけ、『サンキュー。ワンダフル!』と賑やかに挨拶を交わす。直前まで知らぬ間柄だった者同士が仲間になり、20人がもれなく頬をくっつけあうこの和やかさ。『なるほどここはアメリカだ!』と温かい気持が胸にあふれた。」(同201-2頁)  
 ←安田曰く、まったく同感である、と。
 私・安田もまたニューヨーク滞在中―シンシナティよりはるかに巨大な都市でも―、“May I help you ?”と声をかけてきた何人ものニューヨーカーに出会いました。そして、各種のパーティー場やレストランで過ごした際、私の周辺には「相手をハッピーな気分にさせる明るく温かい挨拶と微笑み」(同21頁)が満ちていました。
 それに比べて、日本人のほとんどが何とのっぺりして無表情なことか!溌剌とした自己主張もなく、引っ込み思案で辛気臭くて、ウジウジしていて…あー、どうして、こうも違うのか!
 私はこの十数年、この彼我の差を見極めるために、「近代化」の問題を検討するとともに、人間のエートス(生活態度⇒宗教)に立ち入って、主としてユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教と、神道・仏教の多神教を比較検討してきました。そして、どうやら事態は見えてきました。
 私はこの学習成果の一端を、昨年の世田谷市民大学(受講者112名)で初めて発表しました(安田塾メッセージ№20参照)。

 「アメリカでは勉強の適齢期はない。学校を離れるのはドロップ・アウトだけではなく、不必要な時にはストップ・アウトし、また必要なときに学校へ帰るバック・トゥー・スクールのシステムが確立している。人はいくつになっても教育を受ける権利を持っているのだ。だから公教育の時期に関する人生プランは一人一人が異なる。自分の人生を決めるのは自分なのだ。」(同28頁)
 ←安田曰く、アメリカの学校教育がいかに豊かであるかは、一個人の生涯にわたる積極的な自己学習能力を高める教育システムが整備されていることが客観的に実証している、と。

 「8年間のうちに住まいを4回変わった。引越しが趣味だと言われてしまったが、どの家にも限りない良さがあった。アメリカの住居、特に古き良きアメリカの残るシンシナティではアパートも、タウンハウスも、どんなに小さく見える家でも、室内はとてもゆったりと造られている。日本の一般的な家屋と比較すると感動するほど素敵な設計になっている。」(同33頁)
 「シンシナティ界隈はどこに住んでも風景は美しく、コミュニティーは人情に満ちあふれ、リスや小動物をはじめ蛍も多く、かわいい鳥の声がこだましている。」(同40頁)
 ←安田曰く、アメリカの住環境がいかに素晴らしいかは何人と言えども認めざるをえない、と。
 昨年の世田谷市民大学における私・安田の受講生・志村謙一さんは、1989年から93年まで4年間、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ライブルック市に居住しました。彼は私に、こう語ってくれました。
 月2800ドルで借りた一戸建ての家は、500坪ぐらいの庭に飛び込みもできる15メートルのプール付き。プールは温水装置を完備し、春から秋まで使える。家賃は月1回の庭師の作業料込み。庭には野ウサギやリスが棲み、時々鹿やスカンクが訪れる。そこは特別裕福な階層が住む住宅地ではなく、国連職員・高校教師・年金生活者など、ごく普通の人たちが近所の住人である。日本が「GNP世界2位」などと言っても、実はちっとも豊かでない、アメリカはもとよりオーストラリアやニュージーランドに比べても貧しいと痛感!少なくとも住環境のレベルは、アジア諸国と同程度。いったい豊かさ、幸福とは何か。何か違うものを我々日本人は追いかけてきたのではないか―。

 「転勤で夫がシンシナティに赴任する直前に私たちは多くの人を招いてホーム・パーティーをしようと話しあっていた。日本文化を伝え異文化を学び、加えて英会話の練習にもなるからだ。ワインもビールも格安なこの地に来て早速実行にうつした。蛍見パーティーから始まり、アライグマどんじゃらほいパーティー、紅葉見、鹿見、そして雪見酒パーティーなどと銘打ったパーティーは長く続いた。」(同72頁)
 「当時『日本人は情報を取るばかり』とか『閉鎖社会を作っている』などと言われていたが、私たちはそのような批判を返上しようと努力しながらアメリカ生活を楽しんできた。」(同75頁)
 「異文化受信のみでなく日本の文化を伝えようという私たちの試みがアメリカの人たちに日本人に対する親近感をもたらすならば幸いであるという思いで常に文化使節を意識してきた。」(同77頁)
 ←私・安田は、ホーム・パーティーを開き、異文化コミュニケーションを進展させた小川さんの「国際人」としての生き方に絶大なる敬意を表するものです。
 この際、私たちは日米関係史上の日本人移民排斥運動の問題を忘れてはなりません。日露戦争のころから、特にアメリカのカリフォルニア地方では、低賃金で勤勉に長時間働き、しかもアメリカ社会に溶けこもうとしない日本人移民が白人労働者の目の敵にされ、労働組合を中心とする移民排斥運動の矢面にさらされました。やがて1913年―第一次大戦の前年―には、カリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止した「排日土地法」が成立します―。
 この排日的な雰囲気が醸成された背景として、「黄禍論(Yellow peril、黄色人種脅威論)」という当時のアメリカ人の人種的偏見(人種差別)の問題は看過できません。しかし同時に、日本人移民自体が自閉的・集団主義的な共同体を形成して、他者=アメリカ人になじめないorなじまない事態が注視されなければなりません。
 五十路の坂を越えた熟年の小川彩子は、日本人の民族的特性ともいうべき自閉的共同体性を克服する滞米生活を送りつづけました。そこでは現に、「交友関係がグローバルになるほど」に、「ナショナリティーよりも個人のパーソナリティー」が「重要な関心事」となりつつづけました(同75頁)。

 「アメリカでは履歴書に年齢を書かない。うっかり書くと最初に読んだ人が『これはいらない』と必ず注意してくれる。『結婚、未婚』もいらない。そういうことは仕事能力とは無関係という考えが徹底している。アメリカの履歴書を日本の大学への求職に送ったら日本の履歴書形式に直してください、と言われた。年齢給が生きているのが大きな理由だという。多くのアメリカ人は、年齢を重ねているということはそれだけ世の中を見てきたということで、有利になりこそすれマイナスになるのはおかしい、と言う。私も年齢給は求職者だけでなく、求人側にとってもマイナスだと思う。世界の諸システムがからみあい依存しあうグローバル時代の仕事には、人間の生物学的年齢より個性や個人差のほうがものを言うと思うのだが。」(同168頁)
 ←私・安田は滞米生活をとおして、アメリカが人種・年齢・性別・宗教・信条の如何にかかわらず対等の権利が得られるよう常に努力しつづけていることを思い知りました。特に、どんな職場でも多くの高齢者が生き生きと働いていること⇒実年齢にこだわることなく、すがすがしい能力主義の人選を進めていることに強い感銘を受けたものでした。

 「日本の社会現象の多くはアメリカのたどってきた道を追っかけてきている。経済活動でも教育制度でも変革の試みが速いアメリカには日本のやろうとしていることの成功例、失敗例があふれている。たとえば、日本の高等教育は今変身をせまられているが、1998年10月の大学審答申の内容のほとんどがアメリカで長きにわたってプログラム化されているものである。日本の大学もこの先社会人学生が高等教育の半数を占め、大学の入り口は広く出口は狭く、転校がスムースでプロフェッショナリズムが重視されていってほしい。
 アメリカはまた奨学金その他、多種の利益を心がけて国際学生を惹きつける。惜しみない援助で学ばせてもらった国際学生は必ずや将来母国との架け橋になる。また世界中からやってくる国際学生と共に学び、競争するアメリカの若者、とくに高等教育で研鑽をつむアメリカの学生は、日本の学生と比べグローバル意識、協働・共生能力に大きな差がある。日本に留学している国際学生の数はアメリカにいる留学生の比ではなく、また教授の講義の聞き役を演じ続ける日本の学生に同情を禁じえない。
 われわれ個人も公的機関も、アメリカの個人や公的機関のようにリスクをかけることを恐れず、チャレンジ精神で試行錯誤し、変革は速やかに断行する必要がある。個性を育てる教育の掛け声が聞こえて久しいが、異文化背景の人々が隣り合って住むこのグローバル時代に、説得力を持って意見表明し、協働、共生する能力を育てる多文化共生の教育・グローバル教育が急務だ。長きにわたり異質の人材を受け入れてきたアメリカ、人種、信条、年齢、性別による差別を減らす努力を続け、弱者グループの権利拡大に心を砕くアメリカの社会には日本の明日のモデルが多く見られる。」(同208-9頁)
 ←安田曰く、これまた、まったく同感である、と。

 小川さんは講演の最後を、次のような「個人のグローバル化」論をもって締め括りました。
 ・個人の「グローバル化」とは、グローバル意識が高まること、すなわち「異文化を理解し、異文化背景の人々の直面する問題や懸案事にも関心を寄せ、知識を得、支持、または説得力を持って対話し、異文化背景の人々と隣り合って住み協働することができ、自グループの立脚点からのみでなく地球的視野で正義や平等の実現に向けて意見表明や努力をするようになる」ことである。
 ・グローバル化した人間は端的に言って、言語や心的態度・行為としてのコミュニケーション技術に長けている人である。言語に関しては母国語意外に少なくとも一つの外国語が離せ、心的態度・行為に関しては世界の地理や歴史・政治・経済について知る努力を重ねることが、グローバルな人間の必要条件であろう。    
           ↓ 小川彩子・バックパッカーの旅―ジンバブエで(2011年4月)
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                                   2011年10月1日 安田忠郎
                   第11回安田塾を終えて

 第11回安田塾は、7月23日(土)に開催されました。
 今回は(文章の分量の関係上)㊤㊦の2回に分けて報告します。本号㊤では私自身の話を、次号㊦では講師・小川彩子の講演をまとめます。
▲ 例会では最初、午後2時から30分余り、私が小川講師のプロフィールを紹介がてら―彼女がアメリカの大学教師である点を意識して―、「日本人のアメリカ観」についてお話ししました。
 「日本人」のアメリカ観と言っても、それは主として、(1)わが父・安田次郎(やすだ・じろう、1908~96)、(2)記録文学作家・上野英信(うえの・えいしん、1923~87)、(3)私・安田忠郎(やすだ・ただお)、この三者によるアメリカ評に限定されたものでした。以下、当日のトークの趣旨を敷衍(ふえん)して説明します。
 
 (1)安田次郎は1908(明治41)年1月21日に北海道岩見沢町(明治39年町制施行→昭和18年市制施行)に生まれ、1927(昭和2)年8月に(19歳で)小学校教員―北海道空知郡美唄町沼東尋常高等小学校尋常科訓導―となる。43年3月に空知郡岩見沢北本町国民学校訓導となり、44年7月15日に応召で(36歳で)横須賀海兵隊に入隊し、45年8月15日に復員する。
 次郎は「大東亜戦争」の敗戦後、戦前・戦中の教師時代の至らなさを省みた。自分が「無知」なるがゆえに、時代状況にだまされつづけた、と。そして、『アメリカ教育使節団報告書』(安田塾メッセージ№35参照)に出会って、何か自分が救われ、勇気が身内から湧き上がってくる。ヨシ、この自由主義=民主主義のもとでなら、学校教師としてやっていける、と。
 彼は1947年6月に日教組(日本教職員組合、58年・調査開始時の組織率86.3%、2007年組織率28.3%)が設立されると即刻、その一員(北教祖=北海道教職員組合)となったものの、次第に失望を深め、たしか―私の記憶に誤りがなければ―、50年代の終わりに北教祖を脱退した(→68年3月31日岩見沢市立中央小学校教諭定年退職)。「生涯一教師」をめざした彼には、日教組が傾倒するソ連や中国の社会主義・共産主義イデオロギーに、また日教組が52年に制定した『教師の倫理綱領』―特に第8項「教師は労働者である」―に、どうにも馴染めなかったのである。
 彼は生来、アメリカに好感を持っていたものの、ソ連や中国―特にその社会主義国家体制―に悪感情を抱いていた。私がその点を否応なしに知らされたのは、次のような出来事をとおしてである。
 ①彼は戦後、常々「これからはアメリカの時代だ、英語をしっかり勉強する必要がある」と言いながら、毎朝午前6時に起床して、NHKラジオの「英会話」聴取を励行しつづけた。
 ②彼はある日、小学6年生の私を同道し、岩見沢市の唯一のカトリック教会をだしぬけに訪問した。そして、たまたま居合わせたライアン神父(アメリカ・ボストン出身)に、私に対する「英会話」教授をお願いしたところ即、「じゃあ、タダオく~ん、いっしょにベンキョウしましょうネ」との応諾を得た。
 ③小学~中学をとおして映画が好きで好きでたまらなかった私は、とかく下校直後、カバン(学用品)を机の上に放りだしたまま、岩見沢市の映画館3箇所に通いつめたものである。
 私は中学3年のある夜、映画館でバッタリ次郎と鉢合わせした。二人は期せずして同時に、映画「戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai」(1957年公開の英・米合作映画)を鑑賞した。 
 この映画は私の映画鑑賞史上、忘れがたい戦争大作である。そこでは、第2次世界大戦のただ中である1943年の、タイとビルマの国境付近にある日本軍捕虜収容所を舞台に、捕虜となった英軍・米軍兵士らと、彼らを使ってクワイ河に橋を架けたい日本軍人たちとの対立と交流を通じて、極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の愚かさ・惨(むご)さが描かれている。監督はデヴィッド・リーン、出演はアレック・ギネス、ウィリアム・ホールデン、早川雪洲、ジャック・ホーキンス。第30回(57年度)アカデミー賞受賞(作品賞・監督賞・脚色賞・主演男優賞・撮影賞・作曲賞・編集賞の7部門)。
 彼と私は、この作品を約2時間30分堪能した。そして、連れ立って帰宅途中、彼はおもむろに口を開いた。「忠郎、いい映画だった!あんなイイ映画なら、いくら見てもいいぞ!学校のクダラナイ授業より、ああいう映画の方がよっぽどタメになる。」
 ④1962年2月26日、私は生まれて初めて上京した。それは一応、大学を受験するための上京だった。「一応」と言うのは、私の場合、2月上旬に風邪から肺炎を併発し、医者から2~3月の上京→受験が差し止められたにもかかわらず、熱が多少下がった頃合いに、何とか無理を犯して単身上京し、受験に備えたからにほかならない。だが結局、3月に入って熱がぶり返したため、やむなく受験を断念し、20日近く東京大森の親戚宅の病床に臥すにいたった。私はしばし、わが身の不運を嘆息したものである。
 当時、事実を打ち明ければ、私の受験学力は断トツの実績を上げ、日本のどんな大学の、どんな学部でも難なく合格できる高いレベルにあった。高校3年の私は、札幌市の自校はもとより、北海道の高校全体における数々の模擬試験・学力コンクールで、常にトップの成績を収めていたからである。
 しかし問題は、そもそも私自身が何のために大学に行くのかがわかっていなかったし、大学で何を勉強したらよいのかも一向に見当がついていなかったことである。
 高校生の私は、マジメに考えていた。総じて魅力に乏しい学校教師から教わるものは何もない、と。また、学校の退屈な授業を上の空で聞き、課業に振り回されるよりも、密度の濃い自分自身の時間をフルに活用して、読書に耽り、詩を口ずさみ、映画を見、音楽を聞き、絵を描き、そしてスポーツに親しむ方が人生本来の意義にかなう「自己実現的」営為である、と。
 当時の私の生活は、学校を埒外に置き、札幌の「藻岩山(もいわやま)」山麓の下宿に陣地を築き、その市街地のあちこちを威勢よく羽ばたくことを日課にしていた。学校教師にとって、欠席が余りにも多く、遅刻と早引けの常習犯だった私という生徒は、フマジメで厄介な問題児だったことは間違いない。(註:私は高校2年の3学期から、岩見沢市の一高校から札幌市の一高校に転校した。親元を離れて、札幌の市街地に隣接する藻岩山の麓にある素人下宿で自活しながら、私は文字通り「自由」を満喫した。)

 1962年3月中旬のある日、病臥を余儀なくされた私は、索漠たる思いにとらわれていた。大学受験に失敗したのは、1月から2月にかけての不摂生な生活によって風邪→肺炎を患ったからで、まさに身から出た錆だ…。自業自得なんだ。この失態を―思わぬ失態とはいえ―、謙虚に重く受け止めざるをえない。それにしても、不面目な失態を演じたものだ…。
 そして、ふと私の学友たちは定めし皆、東大に京大に北大に合格したことだろうと思い及んだ瞬間である。ある衝動的な思いつきが私の頭をよぎった。それはソ連のモスクワにある「ルムンバ民族友好大学」(1992年「ロシア諸民族友好大学」と改称)を受験することだった。
 1960年に設立され、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ地域からの留学生が集う同大学の存在を、私が初めて知らされたのは、学友Nを通してである。私は彼から前に聞いた話をまざまざと思い起こした。同大学への日本人留学生の派遣は、日本とソ連の文化交流を促進する「日ソ協会」(1957年創立、92年「日本ユーラシア協会」と改称)が取り仕切っていること、また61年の選抜試験では、日本人「多数」の受験者の中から函館中部高校出身の道産子(どさんこ)・中川某が合格したこと…。
 
 Nは高校3年のとき、偶然にも私と下宿を同じにし、二人は折あるごとに、口角泡を飛ばして「天下国家」―特に資本主義vs.社会主義―の趨勢を論じ合った。それは未熟な「経験・思想」段階の「論争」に終始したとはいえ、私にとって認識対象として関心事にとどまる社会主義・共産主義の問題に、彼がすでに思想的・心情的に心から共感している事態を浮き彫りにするものだった。
 [ちなみに、Nこと沼田清剛は、現役で北海道大学理学部数学科に進学後、「民青」(日本民主青年同盟)に加盟し、自ら日本共産党のシンパをもって任じるにいたった。今にして思えば、彼における社会主義イデオロギーの形成は、少なくとも高校→大学時代を通じて、彼より4歳年長の、日本共産党員である姉Iの強い影響下にありつづけた。Iこと石井郁子は、北海道学芸大学教育学部卒業→大阪教育大学助教授→衆議院議員(5期、共産党)→日本共産党中央委員会幹部会副委員長の経歴の持ち主である。]
 
 ふとした心の弾みから、私は同年の4月か5月ごろの日曜日―突然のあわただしい受験手続き→実際の受験日・試験問題内容に関する私の記憶は希薄である―、勇にはやって、ルムンバ民族友好大学を受験した。
 試験は一次試験(日本語による「国語+社会・歴史+数学」に関する筆記試験)とその合格者若干名に対する二次試験(小論文および面接試験)にまたがっていた。私は何はともあれ、慶應大学三田キャンパスを試験会場とする一次試験に臨んだ。
 会場の三田キャンパス大教室は、意外や意外、200人余りの受験生(学生+社会人)で満席だった。当時の全国の大学進学率が10%強にすぎない点、時期的にすでに日本の全大学の入試が完了している点、当の大学がモスクワ内に設立された国際大学とはいえ、「共産主義思想及びその経済政策を教えるための」歴史的特異性を刻印された大学である点などに照らして、現役・浪人を取り混ぜた受験生は多くとも50~100人と、私は踏んでいたものである。
 当日ようやく体調と自信が回復しつつあった私は、どんな受験戦線の難関でも突破できると、心ひそかに自負していた。そして実際、一次試験はほぼ満点を取って合格した。たしか合格者は私を含む5名前後(?)だったと思う。私は二次試験―受験日は一次試験のそれの2週間(?)後だったか―を、待つともなく待ち構えていた。 
 
 二次試験を数日後に控えた夜半のこと、安田次郎が突如として私の前に現われた。
 父は私が身を寄せる親戚筋の通報により、私がソ連の大学に受験し合格したらしい旨を聞き及び、押っ取り刀で―遠路はるばる(汽車と連絡船を乗り継いで、岩見沢→函館→青森→上野)一日半を費やして―駆けつけてきたものである。私は両親をはじめとする故郷の関係者に、「ルムンバ民族友好大学」受験について一切連絡を控えていた。
 次郎(54歳)と私(19歳)は、夜を徹して思いのたけを語り合った。私と父の関係史(44年)上、それは最も長時間に及んだ話し合いとなった。次郎が私に向かって結論的に言わんとするところは、こうである。
 「忠郎、ソ連の大学には行かないほうがいい。ソ連の社会主義はどうにも信用が置けない。…私はあの第2次大戦終結後のシベリア抑留の問題が片時も頭を去らない。戦争末期の昭和20年8月9日に、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦し⇒ソ連軍が満州を占領した事態は、ヤルタ会談にもとづく、やむをえない必然的な成り行きだったのかもしれない。だが、日本が8月14日に『ポツダム宣言』(7月26日発表)を受諾し、停戦・降伏・武装解除に踏み切ったにもかかわらず、ソ連は60万~70万人(一説には100万人)の日本人捕虜(軍人+民間人)を主にシベリアやモンゴルに送り込んだ。過酷な環境(厳寒の地)と劣悪な労働条件(奴隷的強制労働)で、約6万(一説には二十数万人)の抑留者が死亡した。このソ連の行動は、武装解除した日本軍の各家庭への復帰を保証した『ポツダム宣言』第9条にもとる、許しがたい背信的行為だ。」
 「忠郎、ソ連=ソビエト社会主義共和国連邦には“自由”がないんだ。それはあの国策映画を一目見れば、よく分かること。あれはヤラセもいいところで、日本の戦時中の映画とどっこいどっこいの映画だ。個性きらびやかに輝く人物を描くアメリカ映画とは、それはそれは雲泥の違いだ。」
 「忠郎がアメリカの大学に行くというなら、話は別だ。アメリカには強い個人の夢がある、理想がある。アメリカという場は、忠郎の才能を可能性の極限まで開花させるかもしれない。しかし、よりによってソ連の大学に、それも正体不明の民族友好大学とかに行けば、忠郎の一生が台無しになるかもしれない。」
 「たしかに今、忠郎が言うように、何の目的もなく日本の大学に入っても大して得るところがないだろう。…どうだ、いっそのこと、すべての大学受験をしばらく見送り、東京という日本の大都会を行き当たりばったりに放浪してみないか。…そして独立独歩、自ら学びつつ生き、生きつつ学ぶことだ。マルクス主義―社会主義・共産主義―の理論なども別に大学で学ぶまでもなく、いくらでも独学できるだろう。…東京の喧騒の巷をガムシャラに生きつづければ、いつか必ずや生きることに得心が行き、高校時代とは異なる向学心が燃え立つだろう。忠郎、そのときだ、学問への志が盛んに立ったときだ、改めて大学を視野に入れた、新たな人生を踏み出してみてはどうか―。」

 私は人生の大きな分岐点に立っていた。次郎の言葉を頭の中で何度も反芻しながら、与えられた人生いかに生くべきかをとめどなく考えつづけた。
 歴然たる事実は、私にはルムンバ民族友好大学に進学するに足る合理的な根拠が何もなかったことである。次郎におけるソ連観vs.アメリカ観は、私の素朴な共感を呼び起こすものだった。
 私は同大学の二次試験を放棄し、Going my way、勇躍あてどない放浪の旅に就いた―。 

 (2)上野英信は私の人生史上、最も畏敬する作家・思想者の一人である。
 [註:拙著『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版、1981年、290-1頁)(安田塾メッセージ№32参照)では、また拙著『人間観の基底―マルクスからフォイエルバッハへ―』(JCA出版、1994年、266-8頁)では、彼の人間・思想像の一端が私自身の思想形成過程にかかわる範囲で描かれている。なお、私は上野英信を、個人的に「英信」ないし「英信さん」と呼びつづけてきた関係上、以下の文章もそれに準じたい。]

 ● 英信は1923(大正12)年8月7日、山口県吉敷郡井関村(現・山口市)に出生する。41(昭和16)年、貧乏ゆえに授業料無料の満州国の建国大学に入学する。この植民地支配のエリートを育てるための国策大学で、日本の戦争や占領に反発する中国人らと交流した。在学中に学徒兵として招集され、45年8月6日、駐屯中の広島市宇品で被爆(爆心地4km)する。
 彼は戦後、46年に京都大学文学部支那文学科に復学、しかし翌年に中退し、48年から53年にかけて九州・筑豊の坑夫(炭鉱労働者)となる。学歴を「小学校卒」と逆詐称し、海老津炭鉱・高松炭鉱・崎戸炭鉱等で、掘進夫・採炭夫として地の底に降り立つ。58年、谷川雁、森崎和江らと筑豊の炭鉱労働者の自立共同体「サークル村」を結成、機関誌『サークル村』を創刊する。同誌からは石牟礼道子や中村きい子らを輩出した。64年、新目尾(しんしゃかのお)炭鉱閉山後の廃坑長屋に居を構え(福岡県鞍手郡鞍手町)、そこを「筑豊文庫」と名付けて、公民館兼炭鉱資料館兼図書館―「おとなも子どもも自由に利用できる、学習と話しあいと宿泊の場」(英信)―として開放する。
 65年1月15日、筑豊文庫が正式に発足⇒「筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人びとによって創立されたこの筑豊文庫を足場として、われわれは炭鉱労働者の自立と解放のためにすべてをささげて闘うことをここに宣言する。」(英信の宣言文)
 87年11月21日、筑豊の地獄を生き抜いた、人間的・思想的に強靭な英信は、食道癌のため64歳で死去する。
 96年4月、筑豊文庫が閉鎖・解体される。

 ● それは1983年5月27日のことだった。私は英信と、初めて、じきじき対面する機会に恵まれた。
 事のきっかけは、私が81年9月25日に前掲『炭鉱へゆく』を公刊してまもなく―2週間後だったか―、同書を「著者謹呈」、英信宛てに小包郵便で―「…ご笑覧に供します」の一文を添えて―発送したことにある。 
 

 私が英信の出世作『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年8月20日刊行)に出会ったのは、64年9月のこと。筑豊の中小炭鉱、いわゆる「小ヤマ」とそこを転々と渡り歩く、いわゆる「渡り坑夫」たちをありありと“記録”した同書は、21歳の私の心に、ただならぬ衝撃を与えた。地底から追い払われていく坑夫大衆の飢餓と絶望をえぐり出す「上野文学」は、私という惰弱なる生者の魂を荒々しく揺さぶった。
 私は60年代後半以降、英信の書くあらゆる文章の愛読者でありつづけた。そして、いつか「筑豊文庫」を訪ねたいと一心に念じつづけていた。しかし、60年代後半~70年代をとおして所用かたがた、全国各地の炭鉱―九州地方に限れば、三池炭鉱(福岡県大牟田市、97年閉山)と高島炭鉱(長崎県長崎市、86年閉山)―を巡り歩きながらも、筑豊の廃鉱地帯まで足を延ばすにはいたらなかった。

 1981年10月下旬だった。私は英信の妻・上野晴子(うえの・はるこ、1927~97)から、私の贈呈本に対する礼状をいただいた。そこには、英信が今「著書」執筆のための取材で沖縄に長期滞在中であること、この10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が勃発して(安田塾メッセージ№21・32参照)、拙著が切り込む「北炭」問題をとても身近に感じることなどが書き添えられていた。それは気取りのない人柄を思わせる率直な文面だった。
 英信はその頃、『眉屋私記』―沖縄名護地方の「眉屋(まゆや)」と呼ばれる一族(貧農)の顛末記―を書き上げるために、沖縄で取材中だった。
 彼は1974年3~9月の200日余り、筑豊の坑夫⇒炭鉱離職者たち(死者を含む150人)の足跡をたどって、南米のブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの地を訪ね歩いている(資金はカンパや借金や原稿料の前借りで調達された)。この海外移住先で「渡り坑夫」ならぬ「渡り百姓」として悪戦苦闘する炭鉱離職者の実態(農業移民⇒棄民)を記録した作品が『出ニッポン記』(潮出版社、1977年10月10日刊行)である。
 彼はその追跡取材をとおして、多くの沖縄出身者と出会った。それを機縁として、彼はさらに沖縄からメキシコまで、広く精細な調査と取材を敢行する(78年4~6月にメキシコ取材)。その成果がほかならぬ『眉屋私記』であり、84年3月10日に刊行(潮出版社)されている。
 この記念碑的傑作では、特に眉屋の嫡子・山入端萬栄(やまのは・まんえい)の波瀾万丈の人生にスポットライトが当てられている。かれ萬栄は、貧困のどん底にあえぐ眉屋一族を救おうと、移民として1907年(21歳で)メキシコに渡って炭坑夫となり→折からのメキシコ革命に翻弄されて後、16年キューバに脱出し→ついに帰郷の夢を果たせぬまま、59年ハバナでその生涯を閉じた―。[ちなみに、萬栄の跡を追いつづけた英信は当時、社会主義国家・キューバへの入国を許されなかった。彼いわく、「私の無念は深い」(『眉屋私記』「あとがき」)と。]

 83年5月26日のことだった。私のもとに、英信さんから突然の電話が入った。晴子さんからの礼状を拝受して約1年7ヵ月が経っていた。「上野英信です。…ぼくは今、東京におります。時間がありますので、お会いしませんか―」
 私は電話口でお辞儀した。願ってもない朗報だった。ついに、あの英信さんに見(まみ)えることができる!悦びが私の体の中を駆けめぐった。
 私は彼と、翌27日午後1時に、渋谷の喫茶店(渋谷東急プラザ2階)で待ち合わせた。その際、私の手には大きなカバンが引っ提げられていた。そこには、私の読後感や疑問点・注意点などをメモった付箋を随所に挟んだ彼の著作10点、すなわち前掲『追われゆく坑夫たち』『出ニッポン記』+『日本陥没期』(未来社、61年)・『地の底の笑い話』(岩波新書、67年)・『どきゅめんと筑豊―この国の火床に生きて』(社会新報、69年)・『天皇陛下萬才―爆弾三勇士序説』(筑摩書房、71年)・『骨を噛む』(大和書房、73年)・『廃鉱譜』(筑摩書房、78年)・『火を掘る日日』(大和書房、79年)・『親と子の夜』(未来社、新装版82年)が押し込まれていた。
 初対面の挨拶を交わした後、私はやおら、カバンの中を探り、彼の著書を取り出し、その付箋箇所を見ながら単刀直入な質問を切り出した。この私の探究的で真率な態度にほだされたのか、彼は「場所を変えましょう。近くに仕事用の臨時のアパートを借りています。そこで、ゆっくり語らいましょう」と言い、そそくさと喫茶店を出て、タクシーを拾い、青山にあるアパート(集合住宅)まで私を誘導した。
 

 彼と私の、静けさに満ちた6畳一間のアパートにおける対談は、4時間半に及んだ。その対話的問答は、私からの、主として次のような問題提起のもとで進められた。 
 ・彼における原爆症の問題
 ・「サークル村」の思想性の問題―特に谷川雁、森崎和江、石牟礼道子に即して―
 ・「坑夫」と文学者(「インテリ」)の関係の問題―知の紡ぎ方―
 ・千客万来のにぎわいに包まれた「筑豊文庫」の問題―特に岡村昭彦、松下竜一、野坂昭如、五木寛之(『青春の門・筑豊篇』)に即して―
 ・『追われゆく坑夫たち』→『出ニッポン記』の思想的文脈の問題―彼にとって「南米」滞在6ヵ月の旅とは何か―
 

 時間がまたたく間に過ぎた。彼の発する重い言葉の数々が私の心に響いた。充実感が私の胸の中に広がった。
 この彼と共有できた4時間半こそ、私の人生にとって“永遠”そのものである。この彼との運命的な―最初で最後の!―出会いを、私は永久に忘れることができない。私の他者との交流史上、それはまさしく最も劇的な、空前絶後の出会いにほかならなかった。

 ● 英信の思想・表現の原点は、すぐれて1945年の8月6日と8月15日の経験にある。
 彼は22歳の誕生日の前日に広島で被爆し、後遺症に苦しんだ。「自分は8月6日に一度死んだのだ」。彼はこの6日から敗戦の15日までの間を「ゆきつもどりつ」して、「その10日間から出られない」がゆえに、「その地獄を生きるしかない」と決意し、「資本主義が作った地獄」=炭鉱に飛びこむ。そして、地上・広島の地獄⇒地下・筑豊の地獄のただ中で、一介の坑夫として働くとともに、ツルハシで石炭を掘り出す作業と「同じ感覚の重さ」を持った、ペンで言葉を掘り起こす作業に没入する。

 英信は誕生日の8月7日―広島原爆の翌日―がめぐってきて、「オメデトウ」と言われるたびに、あの忌まわしい「昭和」⇒戦争⇒原爆投下を思いだすとともに、アメリカ憎しの高ぶりが体の中を駆けめぐる。彼はヒロシマを思い、ヒロシマにこだわるとき決まって、「アメリカ人を皆殺しにしたい」の衝動につき動かされる。
 なにしろ彼は生涯を賭して、満州→広島→筑豊に盤踞して、坑夫への深い愛と共感のもと、炭鉱→部落→朝鮮人、そして天皇制と、いわれなき差別→いわれなき死の現実に敢然と立ち向かいつづけた人だ。「人生はもっとも愚かしいものに賭けるだけの価値がある」と信じ、「一人は万人のために、万人は一人のために」の旗印のもと、誰もが差別されることなく生きられるための社会革命の理想=「見果てぬ夢」を執拗に追いつづけた人である。
 彼はヒロシマ→ナガサキに原爆を投下し、無辜(むこ)の民を無数殺傷した太平洋戦争中のアメリカを、さらには「ソンミ村虐殺事件」(1968年3月16日)を引き起こし、非武装のベトナム民間人を大量に虐殺したベトナム戦争中のアメリカを、蛇蝎のように忌み嫌ったものだった。

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