<   2011年 09月 ( 3 )   > この月の画像一覧

                                   2011年9月30日 安田忠郎                                       
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(5)

【急】 月のない闇夜

 [Ⅰ] 私学の自主性(安田塾メッセージ№34・35)

 [Ⅱ] 私学の公共性
 私立学校法の第1条は、「私立学校の健全な発達を図る」ために、「自主性」のほかに、「公共性」の重要性について定めている。(ちなみに、この公共性の在りどころは、すでに【急】[Ⅰ]および【破】(1)(2)の問題設定に応じて、暗に示唆されている。)
 日本人は「公共性」ないし「公共」といわれて、何か分かった気になり、つい公会堂とか公園とか図書館とか、or 都市交通とか衛生局とか清掃局とか、そういう国家や都市に近い場所的なものを連想する。
 「公共性」という言葉は、もともと英語のpublicityから明治以降に翻訳されて生まれた言葉(翻訳語)である。
 publicityないしpublic とは、西欧の個人が国家や社会と対決し、長い年月をかけて市民として形成されていく過程で生まれた「市民的公共性」のことである。欲望を持つ個としての「私」が市民生活の中で欲望相互の対立が生じないように調整する必要が出てくる。欲望を満たしながら全体の平和を考えようとする時に生まれているのが「市民的公共性」にほかならない。
 publicity(⇒公共性)は欧米の歴史的現実の中でつくられた概念であり、独語のÖffentlichkeit(⇒公共性)の場合は端的に「開かれている」ことを含意する。
 [ちなみに、西欧における【個人】の起源は12世紀であり(その切っ掛けはカトリック教会における告解の普及と都市の成立⇒「12世紀ルネサンス」)、そして18、9世紀には西欧独自の【市民】が誕生している。]
 

 日本語の「公共」自体は、「公(おおやけ)」という言葉から来ている。訓の「おほやけ」は、「大(オホ)+家(ヤケ)」、大きい家の意のこと。つまり、古代から公(おおやけ)は天皇家を中心とした支配者の家のことを言う。  

 問題は日本では、この公(おおやけ)が一般に「公(コウ)」⇒共同体ととらえられ、したがって「官」(政府と直結している機関)と公の区別がつかなく、公―ひいては翻訳語の公共―が国家と区別されていないことである。日本の現実においては、官と公が密着しており、官とはっきり区別できるような形で公は形成されていない。(ex.役人を「官僚」or「公務員」と言う。また、役人の住まいを「官舎」or「公舎」と言う。) 
 西欧の場合は、publicity=市民的公共性が最終的にフランス革命にいたって王家を倒して共和制を敷くにいたるが、日本の場合は私→「公共」意識は非常に弱く、最終的に市民的公共性は生まれず、今でも天皇が君臨する⇒官が公にかぶさる形態になっている。 
 私たち日本人が厳密に認識すべきは、日本では官と民⇒私の間で「公共」という視点が今にいたるまで全くアイマイな位置しかもっていないことである。ところが、ケッサクなことに、多くの現代日本人―とりわけ学者や評論家などの「知識人」たち―は、欧米由来の翻訳語=「公共性」概念がそのまま通用して―その実質が「安全パイ」のごとく無に等しくても―、すでに日本的現実を表現しているかのごとき幻想に取り付かれている。

(ⅰ) 「理事長」人事
 私は【破】(1)において、こう問題点を指摘しておいた。五島育英会の「理事長」人事は、東急電鉄に管掌され、現に東急電鉄の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい、と。
 【育英会】理事長(任期)は、五島慶太(1955~59)に始まり、五島昇(59~64)→唐澤俊樹(64~67)→星野直樹(67~74)→曽祢益(74~80)→五島昇(80~81)→山田秀介(81~94)→堀江音太郎→(94~2000)→秋山壽(00~03)→山口裕啓(03~11)→安達功(11~)が務めている。この歴代理事長の履歴に多少触れると、
 五島昇は五島慶太の長男で、東急電鉄社長・日本商工会議所会頭、
 唐澤俊樹は戦前⇒東條内閣の内務次官、戦後⇒東條内閣内務次官の廉で公職追放、後に岸信介内閣の法務大臣、
 星野直樹は戦前⇒満州国総務長官、東條内閣の内閣書記官長、戦後⇒A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑を宣告され(1958年に釈放)、後に東急電鉄取締役、
 曽祢益は民社党書記長・衆議院議員、妻が五島慶太の長女、
 そして残り5人は、すべて東急電鉄の役員-山田が専務取締役、堀江が副社長、秋山が専務取締役、山口が副社長、安達が副社長である。
 ここでは、五島慶太の後、五島昇→唐澤→星野→曽祢→五島昇の5代4人が五島慶太の血脈・人脈そのものであり、唐澤と星野という戦前の「名だたる」国家主義的な官僚・政治家がその名を連ねている点が注目されねばならない。特に「A級戦犯」星野直樹(1892~1978)―「満州国」を動かす「2キ3スケ」の1人といわれた札付きの国家主義者(ウルトラ・ナショナリスト)―が約7年間、理事長に就任した事態は一体全体、何を物語るのだろうか。
 [註:「2キ3スケ」とは、東條英機(ヒデキ)・星野直樹(ナオキ)の2人の「キ」+鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)の3人の「スケ」を言う。]
 そしてまた、問題は五島慶太の直接的な血脈・人脈を離れた、東急電鉄からの「天下り」理事長は、どういう人物―精神・思想の持ち主―なのかである。
 

 私が武蔵工大専任教師になった時=1980年4月1日、【育英会】理事長は曽祢益であった。しかし、彼は同年4月25日に死去、五島昇(1916~89)による急場しのぎの約1年間のショート・リリーフを経て、山田が81年6月22日に天下りした。私は武蔵工大に在職中、曽祢および五島に「拝眉する」機会が一度もなかったものの、山田・堀江・山口の3人とは、大学改革をめぐる諸問題に関連して何度も「談論・対論」するにいたった。[ちなみに言うと、秋山理事長(任期:2000.5.27~03.5.26)については、当時の私がコロンビア大学での滞米生活を送ったこと、また彼自身が体調不全で早期に離職したことで、私は一度も「拝顔の栄」に浴することができなかった。]  
 私の山田→堀江→山口の各理事長論の具体的な詳細は他日を期することにし、ここでは彼ら理事長に通底する、日常的な態度設定上の問題点だけを指摘しておきたい。 
 彼らは東急電鉄の定年退職後の「天下り」なるがゆえに、その根本的性向としては、「雇われ」理事長として任期を大過なく無難に勤め上げることに汲々とする、その意味でのサラリーマン的事なかれ主義者である。  
 確かに3人の場合、武蔵工大をめぐる内外の情勢の深刻な変化に即応する態度に各人各様の趣向が凝らされていることは言うまでもない。しかし問題は、彼らが大学改革をめぐる「ここを先途と闘う」決定的な場面において、一様に“東急電鉄ムラ”の極印を押された、滑稽で哀れな習性を引きずる“他律的”な人格にほかならないことである。

 私はつい考え込む。そもそも企業人・経営者・経済人が「優秀」という場合、何をもって「優秀」とするのか。東京電鉄の場合、いわゆる「立身出世」がかない、社長・副社長・専務取締役にでもなれば、「優秀」な人物ということなのだろうか?!
 私は「安田塾メッセージ」№21で、私の【北炭】時代の上司、政安裕良(まさやす・ひろよし、1924~97)について、こう書いた。「政安裕良とは何者か。ありていに言えば、彼はいわゆる『日本人』の一典型でした。一般に日本人は人前に出たときに『私』が消えるといわれます。これは主体としての自己主張[ex.『我思う、ゆえに我在り』(デカルト)]がいかに脆弱であるかを物語るものです。彼は土壇場に立たされたとき、この国際的に認知された『日本人』類型を地で行くような歩みをたどりました。」
 この評言自体は【育英会】の歴代理事長にも、そっくりそのまま当てはまる言葉ではある。
 しかし急いで付け加えるなら、私が政安の生き方をそう評したのは、あくまで1981年10月16日に起きた北炭夕張新炭鉱の「ガス突出事故」(93名死亡)をめぐってのことである。私は今にして思う、私の見知った日本人の会社人に限れば、政安裕良は<知情意>すべての「自己表現」において最も「優秀」な人物であった、と。
 彼がいかに「優秀」であるかは、論より証拠、癌が浸潤し死がひたひたと忍び寄る状況下で、回顧録『帰らざる小径』(96年9月20日)および続編『帰らざる小径(短歌編)』(98年2月9日)を何とか自費出版までこぎつけたことである。関係者に配布された『帰らざる小径』の添え状には、こう記されている。「…結果的には、つまらぬ人生ではありましたが、非才ながら其の時其の時に、自分では恐らく、精一杯に生きて来たものと思っております。サラリーマン生活を引退するに当たり、是れを機会に、過去を振り返り、且つさぞ短いではあろうが、将来の展望の為に、自身の赤裸々な人生の軌跡を辿って見た次第でご座居ます。…」
 また、同書は余りにも遅きに失したとはいえ、随所に己れを省みた、貴重な文言を連ねている。かつて私と激論を交わした点に関わる文章を、以下に抄出しておきたい。
 「昭和43年9月16日に(この時期、彼は北炭幌内鉱業所労務課長で、私は同労務課職員であった―引用者註)、会社の機構改革と人事異動の発表があったが、午後1時30分に、札幌より各鉱業所の労務の責任者に対して緊急の呼び出しがあった。至急事務所のジープを借りて、札幌事務所に駆けつけたのだが、当時は全くの箝口令が敷かれていて、何が有ったのかも、中身の事は鉱業所長にも報告するなと云う事であった。/…結局中央で使用された使途不明金の肩代わりを、山元の労務対策費として使用したと云う事にして、山元の労務責任者の責任で処置したと云う、領収書を書けと云う事であった。…多額な労務対策費の領収書を書けと言われた事には、全く内心忸怩たるものがあったが、是れもサラリーマンの悲しさで、作成の上提出せざるをえなかった。/そして誰が何の用に使用したかは、全く知らされなかった」(186-7頁)
 「北炭の命運を語るには、どうしても政商、萩原吉太郎氏を度外視して語る事は出来ない。[安田註:萩原吉太郎(はぎわら・きちたろう、1903~2001)は、慶大理財科(現・経済学部)卒、1955年に北炭の社長に就任、その後会長→相談役になったとはいえ、最後(1995年)まで北炭の実質的な統率者であった。彼は<北炭のドン><北炭の天皇><石炭の鬼>などの異名をとり、また政商として、児玉誉士夫・永田雅一と古くから親交を結んでいたほか、三木武吉・大野伴睦・河野一郎ら党人派政治家と交流を持ち、<石炭ではなく国の金庫を掘った男>とも呼ばれていた。]
 政商としては、昭和35年の安保闘争の際に、当時の自民党の実力者である、岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作氏の会談に、永田雅一、児玉誉士夫氏と共に出席して立会い、当面大野氏が岸氏を応援する代わりに、岸氏が後任に大野氏を推薦すると云う、所謂『帝国ホテル・光琳の間』の政権禅譲会談は有名であり、真偽の程は分からぬが、其の一札は、北炭本店の、社長室の金庫の中に仕舞ってあるとの専らの評判であった。
 此の様な面から、可成の額の政治資金の投入も行われたと思われる。昭和43年9月16日の既述の、山元の労務責任者の札幌への呼び出しによる、使途不明金の労務対策費への切替えの指示も、或いは此の方面に使用されたものではないかと臆測していた。…
 同氏が社長就任後、北炭の消滅迄の間、事実上北炭を牛耳って来れたのには、色々と人事上の対立者を陰で排除して来たものと思われている。/昭和40年頃には、トップの指導権争いは可成熾烈であった模様であり、…萩原氏は…昭和40年4月27日に、全役員から白紙を取り、5月4日の取締役会で、目の上の瘤と思しき役員を退任させて関連会社に追い出した。…
 昭和41年12月13、4日の札幌に於ける労使協議会では、『統制と融和』を標榜して、是れに反する行動をする者は、直ちに排除すると公言された。/そして社内では、『馬鹿は不平を云う』と云う事で、自己の主張に反する意見の人間は排除して行く戦法を取ったと思われ、社内には『物言えば唇寒し』との気風が横溢して来た。」(240-2頁)
 「萩原氏は昭和33年4月には札幌テレビ放送(STV)、同年8月には北海道不動産を設立した。/北海道不動産は、昭和38年に北炭観光開発となり、昭和46年には三井観光開発となって、北炭とは関係の無い独立した会社に成長していった(平成19年、三井観光開発は「グランビスタ ホテル&リゾート」に社名を変更―引用者註)。/此の不動産部門の生成の過程では、苫小牧や千歳、大沼の北炭の土地等を、合法的に安く譲渡させて、折からのバブルの波に乗って、太って行った経緯がある。
 一体、不動産部門を完全に独立させて別会社とし、自己の息子や息のかかった、或る傾向の北炭の社員のみを引き抜いて行ったのはどう云う事だったのだろうか。… 
 勿論観光へ移行して、財産を温存して、三井や三菱や住友等の様に、北炭の命脈を保持し続けたのならば、何も云う事はないが、北炭の命脈を全く途絶えさせて、自己の子息に観光をバトンタッチして行くと云う事は、当初から、北炭を食い物にする魂胆だったのではないかと思われても致し方ない。
 新鉱(北炭夕張新炭鉱―引用者註)開発でも…、いきなり深部開発に入って行けば、危険な事は充分に察知されたところで、此の事を指摘した技術屋さんは沢山いたし、私が新鉱に在籍していた時でさえ、開発段階でも、ガスの突出の危険は充分にあって、此の点を指摘して、営業出炭の時期を引き延ばす様に主張する人も多かったが、そんな事を言えば、直ぐに能力が無いと云う理由で、首が飛ぶと云うのが、一般社員に横溢していた空気であった。
 故に新鉱の事故は、起こるべくして起こった人災であると言われても、誰も否定出来なかったろう。
 社内にはワンマン体制が出来ていて、萩原氏の意向に逆らえる者は一人もいなかった。…
 結論的に言えば、萩原氏は自己の大きな意味の財産保全の為に、北炭を利用したとしか考えられない。其の事に依って何千人もの人間が泣く事になったのである
 私は此の人生に於いて、身を以て、本当に良い事例を見せて貰ったと感謝していると共に、北炭喪失の責任は萩原氏に有りと思うし、又産業と云うものは矢張り永遠ではない事を痛感した次第である。」(244-6頁)

 政安は1973(昭和48)年に49歳で北炭を退職し、N社に入社、総務部長代理→総合企画部長→取締役→常勤監査役→顧問に就任、94年7月総胆管癌で「九死一生」の手術、97年12月24日に死去する(享年73歳)。
 彼はN社で20年間、所を得たのか、それなりに活躍し出世した。そして大手術後の、かろうじて余命を保つ状態下で、はじめて自由な自律の心を構えて、“北炭ムラ”であがきつづけた彼の「個」を描写する「回顧録」を上梓した。
 彼と私は、74年以降20年間にわたって、毎年1度、東京の赤坂で酒を酌み交わす仲であった。彼が70年代後半のある時、こう切り出した話がいまだに私の耳に残って忘れがたい。
 「安田よ、大学の非常勤やライターなど、いろいろやっているようだが、これからどうするんだ。オマエは大学の教師になんか向いているのかね。今どきの大学教師にマトモな人間なんかいるのかい、オレの見るかぎり専門バカというか、変わり者が多いし、碌なヤツはいないな。それより、N社に来て、オレと一緒に仕事をしないか。オマエなら、今すぐ課長で採用できる。N社は北炭ほどの大企業ではないが、北炭に見られるような伏魔殿もないし、オマエにとって働きがいのある職場だと思う。オマエなら、その気になれば10年ぐらいで取締役も可能だな。」                                
 人間・政安裕良は、「去るも地獄・残るも地獄」といわれた炭鉱世界(“北炭ムラ”)で、間欠的に「個」が自己主張して、生々しい苦闘の日々を送りつづけたものである。
 だが、問題の【育英会】理事長-東急電鉄からの「落下傘」理事長は、もともと「個」が“東急電鉄ムラ”に埋没しているために、何かというと、自発的な自由意志の決断とは無縁な、外(他者⇒東急電鉄)から強いられるか、or 外(他者⇒東急電鉄)に見せるための偽善的なポーズを取り繕ったものである。 

 東急電鉄という組織体は、構成員の利益を重視するところのムラ社会である。ここでは、東急電鉄の構成員の個人的利益や組織的利益―つまり、「五島慶太・五島昇・東急電鉄」経営側の利益―が追求された結果、東急電鉄によって一学校法人が「子会社⇒私物」化され、理事長人事の決定権が一手に掌握される。
 事態の核心は、“東急電鉄ムラ”―or 「東急グループ村」―の組織的利益の維持追求にある。
 そして、コンセプトを明確にすべきは、当の組織益があくまでも私企業の私益であり、けっして公益=社会益ではない点である。ここに「公」とは前述したパブリック=公共のことであり、「私」を外に向かって開くところの、対等な個人どうしの「われわれ」市民側の力であることは言うまでもない。組織内にいるムラびとはとかく―組織としての閉鎖性が高まるほどに―、その組織の利益を公益と錯覚し、果ては公益に資する内部告発すらも、「守秘義務」の美名のもとに封殺する愚を極めることになる。
 この日本国では、「企業の社会的責任」などという、まことしやかなキャッチフレーズが久しく唱えられてきた。しかし、それは企業イメージを高めてより多くの顧客を獲得するという「経済性」を動機にしている以上、どれほど「良心的」な企業でも、公益に寄与する方向はしょせん二次的な問題にすぎない。“東急電鉄ムラ”は五島慶太以来、ざっくり言えば、「私の肥大化」としての官(お上)との癒着の道をたどり、したがって「官による公」、「官=公」を発想の基本に据えつづけた企業である。そこでは、「公の喪失」、つまりpublicityが実体を持たないままに、学校法人=公益法人が経営されるにいたり、その結果、当の理事長人事はもとより、学長人事、さらには事務員人事などが「東急電鉄or東急グループ」ムラ(=利益共同体)の特殊意志に専断されるにいたった。当該人事の私物化(お手盛り)は、端的に「公害」ならぬ「私害」(私企業が引き起こす害)として弾劾されなければならない。

(ⅱ) 「学長」人事 
 私は【破】(2)において、こう問題点を指摘しておいた。武蔵工大の「学長」人事の実権は、「偽装民主主義」の支配下、究極的には五島育英会理事長が、したがって東急電鉄が掌握している、と。
 【育英会】-武蔵工大の学長(任期)は、これまで八木秀次(1955~60)→山田良之助(60~78)→石川馨(78~89)→古浜庄一(89~98)→堀川清司(98~2004)→中村英夫(04~)が務めている。この歴代学長の主な履歴に触れると、
 八木秀次は大阪帝国大学総長・東京工業大学学長、
 山田良之助は東京工業大学教授・静岡大学学長、
 石川馨は東京大学教授・東京理科大学教授、
 古浜庄一は武蔵工業大学教授、
 堀川清司は東京大学教授・埼玉大学学長、
 そして、中村英夫は東京大学教授・武蔵工業大学教授である。
 この6人の学長に関して、八木・山田の2人は私にとって一面識もない学長であり、石川・古浜・堀川・中村の4人は私の在職期間中の学長であった。                                

 武蔵工大の場合、1955年八木学長の選出当時までは、学長に関する明文化された規程はなかった。1959年に初めて、八木学長のもとで「武蔵工業大学学長に関する規程」および「武蔵工業大学学長選出に関する細則」が制定される。
 この新規則を適用して選出されたのが山田であり、彼は何と1960年4月1日(63歳)から78年3月末日(81歳)まで18年間も、学長を務めた。
 その後、山田の後に石川学長が選出されるに際して「一騒動」が起きた後、武蔵工大では「学長選」のたびに、「誰を学長にするか」をめぐる、<大学側vs.【育英会】側>の、したがって教員相互間の、何らかの形の確執・争いが繰り返されることになる。 
 そして、私自身は石川学長急逝後の古浜学長の選出時分から、いい加減でウサンクサイ学長選のありさまに義憤を覚え、そして大学全体の鬱屈した閉塞状況を打破するために、個と個の統一としての「われわれの公共」を掲げながら、大学改革・教育改革の険しく長い道に踏み込むにいたった。                 

More  続きを読む
                                   2011年9月15日 安田忠郎
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(4)

【急】 月のない闇夜

 [Ⅰ] 私学の自主性
(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題(安田塾メッセージ№34)
(ⅱ) <独立自尊>の問題(同)

(ⅲ) 五島慶太とは誰か
● 1954(昭和29)年11月11日、学校法人・武蔵工業大学の理事長・西村有作(創立者の1人)が引退し、新理事長に「電鉄王」五島慶太が就任する。翌年6月1日、学校法人・武蔵工業大学が学校法人・東横学園を吸収合併し、新しく学校法人・五島育英会として発足する。[ちなみに、五島慶太は1939年に、財団法人・東横学園を設立し、東横商業女学校(翌年「東横女子商業学校」と改称→現「東京都市大学等々力中学校・高等学校」)を創設する。]
 
 私は武蔵工大に在職中、心ある同僚や学生たちから、折に触れて聞かされたものである。「本学にもう“公正・自由・自治”はない!五島慶太が、【育英会】が、本学を経営してから、そんな理念はもう死んでしまったんだ!」と。
 工大では、1981(昭和56)年度から毎年、学生(新入生・2年生・4年生)の「実態調査」が実施されている。このアンケート調査の「自由意見」(無記名)欄に、毎年決まって、「建学の精神」の在りどころを問うor理念とかけ離れた現実の貧しさを憂える学生(特に4年生)の意見が多数書き込まれている。私の在職中のものに限って少々例示すれば、
 ・「“公正・自治・自由”という言葉がありながら学生には自治権があまりないと思う。このことが他の大学との気質の差として現われていると思う」(武蔵工大広報委員会『昭和58年度学生実態調査アンケート集計結果報告書』56頁)。
 ・「自由・公正・自治なんて、ウソッパチ、もっと自由を」(同・昭和61年度、53頁)。
 ・「この大学に公正・自由・自治なんてどこにもない。嘘をかかげることだけはやめてほしい。拘束されることに慣れてしまったのか、自分自身で時間を活用できない学生が多い。」(同・昭和63年度、78頁)
 ・「武蔵工大の“公正・自治・自由”がどこにもない。社会全体の相対的な自由度が増すにつれますます拘束性が強調される」(同・平成2年度、118頁)。「あらゆる面において“自由”を増せばもっと学生の意欲を引き出せると思う」(同前、125頁)
 ・「学生の意見が自由に言えることが必要、大学において教員は神様扱いである。もう少し自由な校風を希望します。そのことが本学発展の推進力となると思います」(同・平成3年度、119頁)。
 ・「大学内の施設を増設・新築するときは、学生の意見を取り入れるべき。本大学の『公正・自由・自治』の精神に反するから」(同・平成6年度、84頁)。「“もっと学生に自由を!!”とにかく建設的な意見がつぶされてしまう環境をなんとかしてほしい」(同前、89頁)。
 ・「大学では“自由・公正・自治”をかかげているがそれは飾りなのか。もっと役立つ興味を持てる授業をしてほしい」(同・平成9年度、84頁)。
 ・「私は、大学というところは開放的で、自分の責任の下で、ある程度の自由があると思っていたが現実は違っていた。…こんな大学に4年もいた自分がバカらしく思え、とても人になんかすすめられない」(同・平成10年度、100頁)。
 ・「『公正・自由・自治』は教職員のみならず、学生にも恩恵があるのが正しい姿だと思います。学生の意見を尊重する姿勢が、学校側に見られなかったのが残念です」(同・平成12年度、110頁)。
 ・「古い気質が残り、全体的に閉鎖的な雰囲気が漂っている」(同・平成13年度、125頁)。
 ・「古い工業大学だからでしょうか。全体的に考え方が古いと思います。過去の武蔵工大は、過去の事です」(同・平成18年度、87頁)。
 
 彼ら学生が「公正・自由・自治」云々をどう理解しているかは定かではない。しかし、彼らにとって武蔵工大は、「知的な挑戦の場」-「知的にチャレンジングな教育・人間形成の場」でないことは間違いないところである。工大という教員をはじめとる大学人の諸関係の構造総体が、多様な背景と資質をもつ学生の学習ニーズに的確に対応できる教育機能を喪失し、教師と学生の相互交流的な、理性と感性が伸びやかに総動員された、個性輝く学校空間を創出できないでいること、これはもはや疑いようがない。
 ・「“教育とは何か”もう一度原点に戻って学長並びに教員は考え直す必要があるのでは」(同・平成6年度、93頁)。
 ・「各授業において、一部の教授に『教える気があるのか?』と問いたくなるような場面がしばしば見られた。…科目、特に専門科目を教える教授たちは、もっと学生に関心、楽しさ、おもしろさを伝えるような教え方を再考した方が良い。学ぶ事は、将来に大切な知識となるので、それを伝える教え方は重要である」(同・平成14年度、126頁)。「学生のやる気を失わせる学校である」(同前、141頁)。「大学の学生に対する対応が官僚的すぎるのではないかと思う。中学・高校ではないのだからもっと学生の判断に委ねるべきであると思う」(同)。
 ・「先生が教えるのが下手すぎる。このような授業ではほとんどの学生が理解できていない」(同・平成15年度、120頁)。
 ・「教授とは教師であるのだから、研究成果より指導能力で選ぶべきである。とりあえずマトモな授業を行なってもらいたいものである」(同・平成16年度、93頁)。
 ・「『教える』という能力のある講師を採用して欲しい。教授の自己満足的授業が多すぎる」(同・平成17年度、86頁)。
 ・「…武蔵工大は何が他大学と違うのでしょうか?正直、ないと言ってもいいと思います。…小さな大学でも、きちんとした目標を掲げ、その大学にしかない技術を伸ばしたり、新しい分野で挑戦し、その成果を社会に発信し、大学の特色を出していけば魅力ある大学になると思います。魅力のない大学には生徒は集まらないと思います」(同・平成19年度、83頁)。

 問題は「公正・自由・自治」の精神が開学当初から、近代的な「個」の自覚に立つそれではなく、日本流の「世間」共同態に染め上げられ、したがって理念的に重くひび割れたそれであった点である。
 かてて加えて、決定的に問題なのは、新制大学・武蔵工業大学が誕生(1949年2月21日文部省より認可)してまもなく、五島慶太が登場し、同校が五島育英会の傘下に入ったことである。工大の歴史上、五島慶太といういわく付きの実業家が学校法人【育成会】初代理事長に就任したことは、同校の、まさに命運を決する大事件と言うほかはない。以来、今日にいたるまで、工大では建学の精神が包蔵するのっぴきならない問題―理念の矛盾・ほころび―が随所に露呈し、顕在化しつづけてきた。

● そもそも五島慶太(1882~1959)は、戦後日本の「民主主義」下―それがアメリカ譲りのタテマエ上の「民主主義」にすぎないにせよ―、「学校・私学」を経営・運営するにふさわしい人格なのだろうか。
 ・彼は中学卒後、郷里(長野県青木村)の小学校の代用教員を数年務め、20代に入って東京高等師範学校に入学→卒業後、四日市商業学校で英語教師を務める。
 ・彼は1911年、29歳で東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省→内閣鉄道院に移り、計9年間の「官僚」生活を送る。
 ・彼は戦前から戦後にかけて、実業家として八面六臂の活躍を続ける。⇒数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収し、その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとる。
 ・彼は1944年、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任する。47年、東條内閣の閣僚の廉(かど)でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放令(46年)の適用を受ける。
 ・彼は戦後から1950年代にかけて、西武の堤康次郎(「ピストル堤」の異名を持つ)との間で、箱根の観光事業をめぐる「箱根山戦争」を繰り広げ、世に「強盗慶太vs.ピストル堤」の「箱根山サルカニ合戦」と揶揄される。

 五島という人物の歩みを歴史的に見るかぎり、彼の教育観はおのずと、(ⅱ)に既述した「国家主義的」に帰結せざるをえない。彼はどう転んでも、もう一方の「教育の民主主義」を思想的射程に収めることは、とうてい不可能である。
 彼の経歴上で注目すべきは、戦前の文部省主導の中央集権的学校体制下で、東京高師(前身校は明治5年創立の「師範学校」=日本最初の官立の教員養成機関)に学び、短期間ながら「現場教師」を務めている点である。
 
 戦前の師範教育は一般に、「国家富強の源泉」(国民全体の「普通教育」の推進力)と見なされ、【技術主義】(教科内容の中心課題が「学問」よりも「教授技術」の修得にある)と【道徳主義】(知育よりも「善良なる人物」養成としての徳育に重点を置く)をもって特徴づけられる。ここでは、教育がもっぱら国家の発展の見地から手段視された結果、全体主義的画一教育が展開され、自由な思考方法と批判的精神を欠く、権力に弱い他律的精神に蝕(むしば)まれた、いわゆる「師範タイプ」というステレオタイプが生み出された。(ちなみに、師範教育の性格は、幼年学校から士官学校にいたる軍人教育―軍事技術の修得+軍人精神の涵養―の性格に相似している。)
 [註:明治19年に公布の師範学校令(勅令)(←初代文部大臣・森有礼の主導)の第1条=「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス」。この「順良・信愛・威重」の3徳目が生徒に対して、「兵式体操」=全寮制の軍隊式訓練によって植えつけられた(⇒「道徳教育の外面化」)結果、順良は屈従に、信愛は派閥根性に、威重は偽善に成り果てる。⇒師範学校出身の教師は、「上にへつらい下にいばりちらす」下士官型の人間となる。そして、「世間知らず」といわれ、「三尺下がって」ハラの中で笑われ、「先生といわれるほどのバカ」となり、社会的カタワ者になった―。]

 五島が師範学校―一応「高等」師範学校の名こそあれ―で、この種の師範教育を受けたのは、まさに多情多感な20代前半である。国家主義的・形式主義的・精神主義的な師範教育によって、彼の成長途上の人格は、どういう刻印を押されるにいたっただろうか。
 そして、20代後半の彼が学んだ東京帝大法学部、これまた国家主義的に縁取られた学校の典型である。なるほど大学である以上、一応アカデミックな学問の探究という看板が掲げられてはいる。しかし、それとて国家の必要の枠内においてのことである。
 明治19年に公布の帝国大学令(勅令)(←森有礼文部大臣の主導)の第1条は、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と規定している。学術技芸はけっして学術技芸のための学術技芸にあらずして、あくまで「国家のための」学術技芸である。さらに、その「学問」は、「純正学(ピュ―アサイエンス)」・「応用学(アップライトサイエンス)」共に「国家必須ノ学問」にほかならない(森有礼『学政要領』「修正本」)。
 日本流の国家主義的教育(←古代ギリシアのプラトン以来の「政治的教育主義」)は、教育と国家or広く社会との関係の場面で、教育を優先的に国家や社会の維持と発展との手段として把握する。ここでは必然的に、国家(官と公のごった煮)が教育を、国家の利害に関わる問題として、自分の方へ吸い上げようとする。明治維新以降の歴史上、日本の教育は「後進国」日本のキャッチアップ型「近代化」の目標【富国強兵・殖産興業・文明開化】を達成する最も効果的な手段として把握された。   
 
 五島は学生時代を通して国家主義的教育の洗礼を受け、そして戦前から戦後にかけての「社会人(教師→官僚→実業家→政治家→実業家)」時代を通して国家主義的思想にからめ捕られつづける。
 彼は日本の「国家」資本主義が形成される過程を、あわただしく貪欲に駆け抜けた。阿修羅のごとく、アコギな経営手法―株の買い占めと合併―で、ハゲタカのように弱体化した相手に食らいつき、食い散らしながら、「東急王国」を打ち立てた。彼の旺盛な事業活動⇒「強盗企業」と悪名を立てられるような商法自体が、その大枠としては、国家⇒「富国」⇒「殖産興業」のためのそれであり、その限りにおいて国家主義的色彩に濃厚に彩られている。
 
● 「私鉄王」五島と学校事業との関係をたどると、彼は1920年代から30年代にかけて、東急電鉄沿線の開発のため、土地を無償提供したり資金援助を行なったりして、積極的に学校誘致に乗り出している。東京高等工業学校(東京工大の前身)、慶大、日本医大、武蔵高等工科学校、東京府立高等学校(東京都立大の前身)、青山師範学校(東京学芸大の前身)、昭和女子薬学専門学校等々。中でも、慶大に日吉台の7万2千余坪が無償で提供され、日吉キャンパスが開設された結果、東横沿線は学園都市として付加価値が高まるとともに、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。この学校誘致が「狙った獲物は逃がさない!」五島の経営マインドがなせる、鉄道に集客するための、つまり経済上の利害得失に起因する現実的な行動であることは言うを待たない。

 彼はなぜに、教育事業を自ら営むにいたったのか。
 通俗的に言えば、大コンツェルンを築き上げた男には、「名誉」が欲しかったのかもしれない。実利を得れば、次が名誉、というのが“世間”の相場である。日本社会における名誉とは、まさに“世間”から「立派な人」だと高い評価を受けて誇りに思うことである。学校という、“世間”が「無難」視する文化事業で功績を立てて名誉を手に入れよう-この思いが彼の場合、年を追うごとに強まっていったのだろうか。[ちなみに、彼が1944年2月に死に体―敗戦が目前に迫る状況下―の東條内閣(1941.10.18~44.7.18総辞職)に入閣(在職期間はわずか5ヶ月)したことも、あるいは彼の名誉にしがみつく性癖が現われたのかもしれない。]

 だが、事態はそれにとどまるものではなく、もっと根源的というべき根拠にまで立ち入って考えられなければならない。
 巷間の噂によれば、彼は青年時代に教師を務めていたことから終生、教育事業に関心を持ちつづけ、教育活動に熱心でありつづけたとのこと。また、武蔵工業大学理事長・西村有作は1954年に辞任し、五島慶太に後事を託するに際して、次のように言明している。「人格識見力量兼備へ、その上学校教育に興味ある人などめったに有るものではありません。(ある友人から五島慶太氏を紹介された結果として―引用者注)事業人としての五島氏の力量並に影響力に付いては定評のあるところ、反面又学問に対する造詣の深い事など大いに気を引かれましたので数回面談しました。その結果学校教育に対する同氏の識見抱負熱意等、私としては同氏以外に適格者なしと思ひ込むに至りました」(前掲『五十年史』)。
 しかし、学校教育への関心・熱心or識見・抱負・熱意という場合、端的に問われるべきは、その「関心・熱心or識見・抱負・熱意」の具体的な意味内容⇒思想的ベクトルにほかならない。例えば、体よく学校教育に多大な関心があり、一生懸命努力していると言っても、いったい当の関心→努力が何に向かって、どういう理念的方向性のもとで、どういう教師と生徒の関係の結び方において規定されたものであるのかは慎重な吟味を要する問題である。

 私は躊躇なく言ってのけたい。五島にとって、【教育】は国家の【政治・経済】の発展の手段そのものであり、政治・経済上の状況判断にもとづく国家のための教育がすべてである、と。 
 彼のライフスタイル(生活行動の様式)では、教育と国家⇒社会との関係性において、どこまでも国家⇒社会の発展が先に考えられ、その目的のためにのみ教育の重要さが強調されている(⇒「政治的教育主義」)。裏を返せば、彼の思想的構えでは、人間=市民の一人一人の教育を強調して、その成果がおのずから―自然の結果として―国家⇒社会の発展や福祉の増進に寄与することを期待する考え(⇒「民主主義的教育」・「汎教育主義」)が決して形成されることはない。
 彼は根源から理解できなかったのである。人間がこと教育に関わる場合、相手が直ちに人間である以上、その人間を教育する上での方策の選択がその都度の政治・経済上の状況判断とは別途の事柄であるということを。

 私は厳しく問いただしたい。五島は人間をどう見ていたのか、人間についての思想的要件をどう考えていたのか、と。 
 人間にとって疑いのない真理は、人間が人間であるかぎり、自分で物事を感じ、考え、判断して生きていることである。人間はすべて、誰もが、時の状況がどうであろうとも、それぞれそれなりに、気力も意欲も能力ももって、人間として生きている。したがって何より肝要なのは、一人一人の人間の固有の価値と尊厳を認め、初等教育から高等教育にいたるまで、あるいはむしろ生涯にわたって、各人各様の主体的な働きを「助ける」民主主義的教育体制=「開放的な学校」=「開かれた社会」を築き上げることである。
 五島にとって、1946(昭和21)年4月に公表された、近代日本教育史上に画期的な『アメリカ教育使節団報告書』の、次のような文章(抄出)はおよそ理解の範囲を超えるものであった。
 [註:同書は「太平洋戦争」での敗戦国・日本に対する、戦勝国・占領国アメリカからの教育使節団による、日本の教育の根本的改革に関する「提案・勧告」書である。そこでは、近代教育の普遍的原理に拠って、戦前日本の「国家主義」的教育から、戦後日本の「民主主義」的教育への大転換が高らかに宣言されている。]

 「いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用いて自分自身or全世界に役立つ何かを創造する力を有している。…人間の個人差・独創性・自発性に常に心を配るのが教育者としての民主主義の精神である。…教師の最善の能力は、自由の雰囲気の中でのみ栄える。この雰囲気を備えてやるのが教育行政官の務めである。…子供たちの計り知れない資質は自由主義の陽光の下でのみ豊かな実を結ぶ。この光を供するのが教師の務めである。…どれくらい禁じらるべきかを見つけだすよりも、どれくらい許さるべきかを見つけだすことが、すべて権威の立場に立つ人々の責任なのである。これが自由主義の意味であり、その精神のあるところ、すでに民主主義は根を下ろしている」。  
 

 「理解する」=「わかる(解る=分る=判る)」とは一体、どういうことだろうか。
 「わかる」ということは、それによって自分が変わるということである。それは、ただ知ること以上に自分の人格に関わってくる何かであり、突きつめて言えば根本的な自己批判・自己反省としての自己変革の問題である。
 五島は1945年8月15日(敗戦の日)、また47年に公職追放の身となった際(51年追放解除)、自らを省みて、自らに批判の刃を向けただろうか。彼は戦前の国家主義から戦後の民主主義への、教育理念上の自己変革を、ついに果たせずに終わった。彼には「民主主義」の理念がよくわからなかったのである。
 ただし、私は彼が戦前から戦後までの生涯77年にわたって、終始一貫した、揺るぎない国家主義的教育の信奉者だったと断言するつもりはない。彼はもしかして、戦後(63~77歳の14年間)の処世上、多くの日本国民がそうであったように、いわば国家主義の身体(ホンネ・深層)に民主主義の帽子(タテマエ・表層)をかぶりつづけながら、教育事業家としての道を颯爽と歩んだのかもしれない。 
 とはいえ彼の場合、その種の二重性に支配されたとしても、明治以来身についた国家主義が変わらないままであり、民主主義がタテマエ上の理念にすぎない以上、彼の実際上の思考⇒行動が基本的に国家主義の理念を軸にして旋回することは必至である。 
  
 五島は戦後日本の状況下、性懲りもなく、教育の国家主義的な構えのままに、【育英会】を立ち上げ、教育事業を展開した。この【育英会】の傘下に入った武蔵工大では、福澤諭吉の指摘する[(ⅱ)に先述]「人を束縛してひとり心配を求むる」教育活動が促進されるにいたったのは、理の当然である。
 そこではすべて「上から」、つまり<国家(政治・経済・社会)→五島慶太=【育英会】→工大事務員→工大教員という何らかの形で「権威の立場に立つ人々」>の側から、あらかじめ基本的な学校目標が定められ、それに合わせて学生が十把一絡げに「教化」(外的な権威の要求に沿って教え化すること)の対象として取り扱われる結果、「学生は何も分からないんだから、とにかく分からせなければいけない、教え込まなければいけない―さあ、これだけ覚えなさい、身につけなさい、さあ、分かったか、分かりなさい―、そして必死に勉強してよく分かった者には、いい就職先を世話し、社会の要所に張り付かせたい」といった全学的な教学体制が整備されることになる。ここでは、トータルなキャンパス・ライフを―ほんの一握りの例外的な教師の努力(授業実践)を除いて―、学生の一人一人が人間としてそれぞれに何をどのように学ぶかの問題として工夫し構想していないために、権力・権威の主導に従順な、「他者」志向的な多くの教師が自らの教育機能を熱心かつ忠実に発揮するほどに(⇒一見恩情のこもった「教育愛」)、学生の精神にいわばメッキを施し、あげくの果てに学生自身の主体の喪失という悲劇的な事態を招くことになる。

More  続きを読む
                                   2011年9月1日 安田忠郎
         学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(3)

【急】 月のない闇夜
                                                 

 私立学校法はこう謳っています。
 第1条:「この法律は、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによつて、私立学校の健全な発達を図ることを目的とする。」第2条第3項:「この法律において『私立学校』とは、学校法人の設置する学校をいう。」第3条:「この法律において『学校法人』とは、私立学校の設置を目的として、この法律の定めるところにより設立される法人をいう。」
 戦後の私立学校法が戦前の私立学校令(明治32年勅令)―同令によって私学が国家の教育政策の強い統制下に置かれる―と際立って異なるところは、私立学校を自主的かつ公共的なものとした点、また私立学校の設置者を学校法人とした点です。
 以下、この「自主性」および「公共性」の視点から、「五島育英会-武蔵工大」論を展開することにします。
 

 [Ⅰ] 私学の自主性
 私学の「自主性」とは何か。この私学の基本理念は、「教育の自由」の理念と密接な相関関係にある。
 例えば、国公立と違って、私学には「宗教教育の自由」がある。これは私学における「教育の自由」の理念の一つの表われにほかならない。「建学の精神」を掲げる私学教育では、私人の教育的信念―自主独立の精神―に立脚する教育が尊重される。[cf.(新)教育基本法第15条第2項:「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」]
 

(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題 
 私学の自主性は理念上、私学特有の「建学の精神」と相即不離の関係にある。
 【育英会】の中核校・武蔵工大の場合、建学の精神として、注目すべき標語、すなわち「公正・自由・自治」が掲げられている。
 一体、この校是は、どういう背景のもとで形づくられたのだろうか。『武蔵工業大学五十年史』(1980年)によれば、それは1929(昭和4)年の「武蔵高等工科学校」創設当時、「生徒たちの真摯にして切実な要望と、その熱意に動かされた創立者たちの純粋な愛情と誠意にもとづいて生まれたものである」。
 
 武蔵高等工科学校の創立にいたるまでの経緯は、「きわめて特異な事例」であるといわれる。同上書に従って、その経緯と校是の中身を要約してみよう。
 ♦ 同校はいかにして開校にこぎつけたか。
 1929年5月ごろ、東京高等工商学校(27年設立、芝浦工業大学の前身)の生徒たちが学校側に対して、授業の充実など幾つかの改善要求を出して同盟休校に入る。→しかし、該校は生徒の要求を受け入れないばかりか、約10名の責任者を放校処分とする。→多数の一般生徒はやむなく、該校に退学届を提出する。→生徒のリーダーらは大勢の向学心に燃えた仲間たちの再就学を図って奔走する。→彼らは該校の非常勤講師に慶應義塾大学(以下、慶大)の教授が多かったことから、その関係をたどって、慶大法学部教授の及川恒忠に、「自分たちが安心して勉学できる学び舎をあらたに造りたい」と訴える。→「理想家肌で純な人柄」の及川は、「生徒たちの熱望もだしがたく」、親友で実業家(慶大卒)の西村有作(昭和工船漁業株式会社代表取締役)に働きかけ、彼と相携えて事を進める。→結局、及川、西村、さらに同じ慶大出身の手塚猛昌(東洋印刷株式会社社長)を加えて、3人の連名で、東京府知事宛てに武蔵高等工科学校の設立を申請、同年9月12日付けで認可を得る。
 ♦ 同校の校是はいかにして作られ、その由来はいかがなものか。
 及川恒忠は元来、慶応義塾の建学の精神=<独立自尊>を重視するとともに、中国学者として、当時の中国における「蒋介石の国民革命」⇒その「国民精神昂揚のためのモットー」である「礼儀・廉恥(節操高く恥を知ること)」に関心を寄せていた。そこで彼は最初、問題の校是を<独立自尊>と「礼儀・廉恥」を結び付けて、「自由・廉恥」とするつもりであったが、「これではむづかしいというので『自由・公正・自治』を創造」するにいたった。
 及川は自ら「公正」に関して、こう述べている(抄出)。「『志ある者は事つひに成る』とは千古不滅の真理であり、我々の志とは公正なる人格の陶冶と優秀なる工業技術の修得とにある。我々は最大の努力(最少の努力ではない)を以て最大の効果を挙ぐべく協力奮闘したい。誠の公正は自身のポケットからも出来る丈け多くを出すと同時に他人のポケットからも出来る丈け多くのものを受けるといふことであらねばならない。」
 また、慶大出身で時事新報記者として活躍後、及川に起用され、同校教務主任となった打村鉱三は、「自治」と「自由」と「公正」について、こう解説している(抄出)。
 「学校は諸君の自治・自由を慫慂する。完全に、正確に自治的であってほしい。真の自由を心ゆくばかり享楽するがいい。自由は放縦乱暴、勝手気儘を意味しない。真に自由なる人は先づ真に自尊の人であらねばならぬ。自尊とは畢竟、廉恥即ち恥を知ることである。自ら自己を恥ぢることを知って居る人にしてはじめて自由たり得る。恥を知れ!正義公正こそ我等の心境であらねばならぬ。明るい、態度の鮮明な、少しも卑屈なところのない、きたならしい気持のない、自由無礙な学生こそ本校の学生である。一番いけないことは、根性のきたならしいことである。暗さを持った心である。」 
 さらに、この校是作りに参与した当時の生徒たちの代表・宮尾薫は、こう語っている(抄出)。
 「前の学校では自由がなかったので、私たちのつくった学校は自由に学べるところにしよう。公正とは、世間に恥じない道を歩いてもらいたいということです。そう私たちが要望したことを及川先生に理論づけるというか体系づけていただいたんです。」(1977年6月「学校創立時の座談会」)

 武蔵高等工科学校が若者(退学者)の尽きぬ向学心と向上心を原動力として誕生したこと、これは日本の学校史上画期をなす出来事である。しかし、そこに発揚された「建学の精神」の思想内容については、注意が必要である。[註:同校の「建学の理念」の立脚点を考えるにしても、もともと史料自体が乏しく、同上の『五十年史』にしても―『75年史』(2005年)にいたっては一層そうであるが―筆者の概念規定がアイマイで、毒にも薬にもならない文章が多く、結局のところ上述の私の要約から推論するのがせいぜいである。]
 同校の創立に直接関わった者は、生徒を除くと、及川をはじめ、すべて慶大関係者である。だから、彼らが福澤諭吉の<独立自尊>という言葉を知らないはずはない。それは何しろ、福澤の人となりを端的に示すものとされ、また福澤の教えの根本を言い表すものともされる言葉である。
 しかし大事な点は、彼らがその名句を単なる「知識」段階を超えて、認識し哲学して、わがものとしているかである。私の個人史に照らすと、慶大出身者には予想外に福澤精神に一知半解の徒が多いことも確かである。 
 問題にすべきは、彼らが公正・自由・自治について、公正⇒廉恥、自由⇒自尊⇒廉恥ととらえ、「廉恥(れんち)」を軸として解釈している点である。
 
 周知のとおり、「廉恥」(心が清らかで、恥を知る心が強いこと)⇒「廉恥心」(清らかで恥を知る心)は、日本古来の―より正確に言えば、中国の儒教(孔子・孟子)に端を発する―、日本人の伝統的な美徳とされている。では、その「恥(はじ・チ)」―耳を赤らめて心で恥じるの意(偏が耳、旁が心)―とは何か。
 それは簡単に言うと、人前で「恥ずかしい」思いをすることによって、その思いを二度としないように振る舞おうとする一種の行為規範である。恥ずかしいという感情は元来、当人の自己評価が対人関係のなかで相対的に低下し⇒自尊心が損なわれる状況下で生じる。この「羞恥心」はそのままに、人の笑い物になったり、世評が悪化するのを心配する気持ちと結び付く。ここではしたがって、人の目による批評が社会的な行為―社会規範への適応―を方向づける上で大きな規制力をもち、人の噂や嘲笑を恐れる余り、恥をかかないようにしようとする意識―「恥を知れ!」―に転化されるにいたる。
 この「恥」意識の脈絡上、私はただちに、アメリカの文化人類学者・ルース・ベネディクト(Ruth Benedict、1887~1948)の古典的名著『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword、1946年)を想起する。アメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である同書では、日本文化が西洋文化の対極の位置に置かれ、後者が内的な良心を意識する「罪の文化」、前者が外的な批判を意識する「恥の文化」と定義された。
 私はさしあたり、この「罪の文化guilty culture」vs.「恥の文化shame culture」という「文化の型(pattern≠type・類型)」の当否を問うつもりはない。しかし、ベネディクトによる、「恥」という日本文化固有の価値の分析自体は、見事な仕事ぶりとして評価する。
 「恥は他の人々の批評に対する反応である。他人から公然とあざけ笑われ、値打ちがないといわれるか、あるいは、あざけられたと思い込むか、そのいずれかによって、人は恥辱を被る。どちらの場合でも、恥はよく効く道徳的拘束となる。だが、それには、実際に人前のことであるか、それとも少なくとも人前でのことだと思い込むか、といった条件が必要である」(同書)。

 恥の感覚(廉恥心)は根本的に、自己の行動に対する世評に気を配ることであり、したがって他者の判断を基準にして自己の行動の方針を定めることである。この行為基準の外在性の問題は、武蔵高等工科学校の校是に即して、(前述のとおり)宮尾薫によって明言されていた。すなわち、「公正」とは「世間に恥じない道を歩いてもらいたい」ことである、と。
 日本人は古来、特に青少年の教育[躾(しつけ)]に当たって、「笑われるぞ」・「名が汚れるぞ」・「恥ずかしくないのか」などという説教を垂れてきた。これが要するに、世間に顔向けできない、世間様に対して申し訳がないといった、世間体を慮っての説教であることははっきりしている。
 この、いわゆる「世間」こそ、【序】で論及された「歴史的・伝統的システム」にほかならない。ここで立ち入った再論は割愛して、歴史学者の阿部謹也(1935~2006)による日本独特の「世間」―フッサール現象学の「生活世界」概念のとらえ返し―に関する優れた考察の一端を紹介しておきたい。
 
 「『世間』とは人を取り巻く人間関係の枠であり、現在と過去に付き合った全ての人々、将来付き合うであろう人を含んでいる。原則として日本人だけであり、外国人は含まれない。『世間』には贈与・互報の原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性という特徴がある。(中略)そのほか『世間』には生者だけでなく死者も含まれていることを忘れてはならない。さらに『世間』は自律した西欧的な個人を主体とする関係ではなく、呪術的な関係を含んでおり、一人一人の人間は『世間』のなかでは全体と密接な関係をもって生きている」(『日本人の歴史意識』岩波新書、2004年)。
 「『世間』とはパーソナルな人的な関係で、いわば個人と個人が結びついているネットワークであり…、その人が利害関係を通じて世界と持っている、いわば絆である…」(『日本社会で生きるということ』朝日新聞社、1999年、抄出)。
 「日本の社会はあらゆるところに『世間』が作られている。私たちは皆その『世間』の中で生きており、その『世間』が私たちの行動を最終的に判定する機関となっている。どのような会社にも官庁にも、新聞社にもあるいは警察署にも『世間』は作られており、『世間』に属していない人は一人もいない。それは冠婚葬祭のすべてにわたって私たちの行動を規定している。…『世間』は差別的で排他的な性格をもっている。仲間以外の者に対しては厳しいのである。現在の日本の社会においても『世間』は厳然として存在しており、どのような組織にもそれがある。自分がどの『世間』に属しているのかを知らない者はいない。しかも『世間』には序列があり、その序列を守らない者は厳しい対応を受ける。それは表立っての処遇ではないが、隠微な形で排除される。それぞれの個人はその『世間』の中で自分の位置を守るべく努力しているのであって、出世とはいわないまでも落ちこぼれないように頑張っているのである」、「わが国の個人は西欧と異なって直接社会を構成しているわけではない。個人と社会の間には『世間』があり、それが個人の行動を規制している」(『学問と「世間」』岩波新書、2001年)。
 「共同体と『世間』は互いにあいいれない概念であるかにみえる。しかし『世間』はいわば浮遊する共同体ともいうべきもので、ここでも我が国における個人のあり方が反映されている」(『「教養」とは何か』講談社現代新書、1997年)。

(ⅱ) <独立自尊>の問題 
 武蔵高等工科学校の創始者一同、慶大関係者&若者たちは究極するところ、自己の行為の基準を「世間」共同態という他者の側に求めている。(註:「共同体」と言えば、村落共同体を連想し、地縁・血縁で結合した何か固い実体的なものを想定しがちである。これに対して、私はもっと個人と個人との流動的で相互作用的なネットワークとしての「準拠集団」の意味を込めて、「共同態」の語を使用する。)
 では、慶應義塾の本元・創設者の福澤諭吉(1835~1901)、彼の代表的な言葉で戒名(「大観院独立自尊居士」)にも用いられた言葉<独立自尊>には、どういう思想内容が盛り込まれているのだろうか。
 福澤は教訓集『修身要領』(慶應義塾編纂、1900年「時事新報」に発表)において、<独立自尊>の人を、「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの」(第2条)と定義し、個人→家族→国民→国家の順でそれぞれの<独立自尊>を省察している。彼はまた、当時の大ベストセラー『学問のすすめ』(1872~76年)において、一身の独立を、「自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきをいう」と定義し、独立の価値の重要性に照らして、「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者は次第にこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる『習い、性となる』とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり」(第三編)と喝破している。
 
 そもそも福澤の思想世界には、「一身独立して一国独立する」という命題がある。
 『学問のすすめ』はこう述べている。「自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり」、「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈(ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず」(初編)。
 福澤の場合、西洋文明の基底をなす人間(一身)および国家(一国)の「自由独立」が正確に受け止められており、その思想的な構えは「一身独立→一国独立」であり、この逆の「一国独立→一身独立」ではない。「わが日本国中も今より学問に志し気力を慥(たし)かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり」(第三編)。
 ただし現実問題として、この福澤における、「一身(一国を構成する個人)独立」→「一国(国際社会を構成する当事国)独立」の命題では、彼の後期の文章・作品におけるほど、前者(一身独立)に対する後者(一国独立)の優位が主張されていく。彼は1880年代に入って、当時の日本を取り巻く国際情勢が逼迫する―ヨーロッパ帝国主義が怒涛のように押し寄せる―につれ、対外強硬論⇒軍備拡張論に説き及んでいる(cf.「東洋の政略果して如何せん」1882年)。
では、福澤の思想は「一国独立→一身独立」に変貌を遂げたのだろうか。彼は国家主義者に成り果て、「民権」の伸長を含む国内の「近代化」こそ対外的独立の前提条件とする年来の思想を、無造作に脱ぎ捨てたのだろうか。
 慎重に考慮すべきは、彼の対外強硬策が重大な国際危機を切り抜けるための戦術であり、その限りにおいて彼の政治上の状況判断にもとづく応急処置にすぎないことである。したがってまた、彼の「一身独立→一国独立」という、根源的な「人間⇒教育」観に立脚した論理構造が確固とした揺るぎない思想的構えにほかならないことである。
 彼の「一身独立→一国独立」(より具体的にいえば、「一身独立→一家独立→一国独立→天下独立」)の原理は、一にかかって、人間個人の「独立自尊」を推進する教育に支えられている。
 彼は『学問のすすめ』のなかで、おぞましい官尊民卑の風潮を嘆じながら―「みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居るの道を知らざる」(第四編)―、日本人の一人一人が<独立自尊>の精神を身に付けるように、教育―私学・慶應義塾に拠った独自の在野的教育活動―に力を尽くすと、高らかに宣言する。
 「わが国の文明を進めてその独立を維持するは、ひとり政府の能くするところに非ず、また今の洋学者流も(おおむね、みな官途につき-引用者)依頼するに足らず、必ずわが輩の任ずるところにして、先ず我より事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、またかの洋学者流のために先駆してその向かう所を示さざるべからず」(第四編)。
 そして、この「独立自尊」の思想的地平から、彼の『文明教育論』(1889年)では、教育そのものがいわゆる「発育」の思想としてとらえ返されるとともに、学校教育が知識・技術の詰め込みに陥いる事態が警告されている。
 「学校は人に物を教うる所にあらず。唯その天資の発達を妨げずして能く之を発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしく之を発育と称すべきなり」。
 「いたずらに難字を解し、文字を書くのみにて、さらに物の役に立たず、教師の苦心はわずかにこの活字引(いきじびき)と写字器械とを製造するにとどまりて、世に無用の人物を増したるのみ」。

 福澤はこうして、「人を束縛してひとり心配を求むる」教育(『学問のすすめ』第三編)―子供たちを学校に縛り付け、知識・技術をやみくもに注入する教育⇒「教育の国家主義」―と断然決別し、「人を放ちてともに苦楽を与(とも)にする」教育(同)―子供たちを自由にして、一緒に学び合いながら、一人一人の子供の学習過程(「発育」)を援助する教育⇒「教育の民主主義」(ジョン・デューイ)―に全力を傾倒する。
 
 彼は言明している、国家があって人間⇒教育があるのではなく、人間⇒教育があって国家がある、と。
 「発育」としての教育は、人間一人一人―上下貴賎・老若男女を問わず―の生涯にわたる問題である。ここではせんじ詰めれば、個々の人間が<独立自尊>の体現者―自分で学問=思想=哲学し、自分で「口に言ふのみにあらず躬行実践」(福澤「慶應義塾の目的」1896年)し、そして自分の国をどこへ持っていくかも、自分の責任において決定できる人間―になったときはじめて、「一身の独立自尊→一国の独立自尊」の論理が現前し、「全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくない」(福澤『福翁自伝』1899年)状況下、個人的自由⇒国民的独立⇒国際的平等が実現する。
 「地球上立国の数少なからずして、各(おのおの)その宗教、言語、習俗を殊にすと雖も、其国人は等しく是れ同類の人間なれば、之と交(まじわ)るには苟(いやしく)軽重厚薄の別ある可らず。独り自ら尊大にして他国人を蔑視するは、独立自尊の旨に反するものなり」(前掲『修身要領』第26条)。

● 以上に見られる通り、慶應義塾と武蔵高等工科学校⇒武蔵工大とでは、建学の精神に関して、一見似てはいるが、本質的には―理念的構えの取り方の点で―大きく異なる。これまで長い間、後者の校是は前者のそれの直接的な影響下にあると巷間に流布されてきたものの、両者における理念・思想の出発点の地平が質的に異なる点が注視されなければならない。
 <独立自尊>の精神では根底的に、人間の行為の基準が内在的⇒「一身の独立」[官(公)vs.民(私)]という自己(個)の生き方を問う「自己」志向性にある。 
 「公正・自由・自治」の精神では根底的に、人間の行為の基準が外在的⇒「世間」という官なり公なりを何かしら含有する共同態に組み込まれた「他者」志向性にある。[ちなみに、日中戦争(「支那事変」)から太平洋戦争(「大東亜戦争」)にかけての一時期、校是の一つである「自由」が除去され、「剛健」がこれに代わっている点が注目される。]