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                                   2011年8月15日 安田忠郎
           学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(2)

【破】 自由からの逃走 
 

 そもそも学校法人・五島育英会(以下、文脈上許せば【育英会】ないし【法人】)とは、どのような組織体なのでしょうか。 
 武蔵工業大学(以下、文脈上許せば武蔵工大ないし工大)に28年間(1980.4~2008.3)在職し、その弊風の改革に努力しつづけた私は、結論的に断言してはばかりません。【育英会】は青少年の「教育」―可能態から現実態」への転化―という「公共性」の高い重要な仕事を行うにふさわしい「学校法人」ではない、と。
 私は長い間、【育英会】という組織の体質を、「大学・学校・教育・学問とは何か」の視点に立って、批判的・構造的にとらえ返しつづけてきました。その全面的批判の開陳は他日に譲ることにし、ここでは次のような組織上の根本的な問題点を4点指摘するにとどめます。それらは【育英会】のあり方を突きつめて考えようとするとき、けっして外してはならない、相互に連関する重大なポイントにほかなりません。
 

 (1)【法人】[1955年設立、創設者(初代理事長)・五島慶太]は、「東急グループ」―東急電鉄(創業者・五島慶太)を中核とする266社9法人(2010年3月末現在)からなる企業グループ―に属する1社である。
 [ちなみに、東京急行電鉄株式会社(公式略称は「東急電鉄」、1922年設立の目黒蒲田電鉄に始まる)は、東急グループ内外を問わず東急グループの事業中核会社として認識されており、「東急本社」・「電鉄本社」と表現されることが多い。]

 問題は【法人】が歴史的に東急電鉄の支配・影響下に置かれ、前者の「理事長」人事―「理事長は、学校法人を代表し、その業務を総理する」[私立学校法(1949年)第37条第1項]―にしても後者に管掌され、現に後者の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい点である。
 (註:【法人】の役員人事の場合、理事長だけでなく、専務理事および常務理事も、多少の例外はあるものの、東急電鉄or東急グループOBの指定席に成り果てている。)

 (2)【法人】の運営する学校群で中枢に位置する学校は、武蔵工大⇒東京都市大学である。
 [ちなみに、工大⇒東京都市大学は、武蔵高等工科学校に端を発する。すなわち、1929年「武蔵高等工科学校」(各種学校)を開校→42年「武蔵高等工業学校」(専門学校)へ昇格→44年「武蔵工業専門学校」へ改称→49年「武蔵工業大学」(新制大学)を開設→2009年工大が「東横学園女子短期大学」(1956年【法人】が設立)を統合して「東京都市大学」と改称。] 
 
 問題は工大の「学長」人事―「学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する」[学校教育法(1947年)第92条第3項]―の実権を、【法人】(理事長←東急電鉄)が手中に収めている点である。
 
 ところで、大学は―私立大学といえども―、単なる会社(営利社団法人)ではない。いやしくも学校教育法で、こう規定された存在である。「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第83条第1項)、「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする」(同第2項)。[cf.(新)教育基本法(2006年)第7条:「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」]
 そして、戦後日本の「民主主義」下の大学は、何しろ日本国憲法(1946年公布・翌年施行)によって「学問の自由」(第23条)⇒「大学の自治」⇒「教授会の自治」が保障された組織体である。 
 「学問の自由(アカデミック・フリーダム)」は、現代民主主義社会における基本的人権の一つである。そこには、具体的に「研究の自由」・「研究発表の自由」・「教育ないし教授の自由」が含まれる。そしてその延長上に当然、主たる学問の場である「大学の自由」、また「大学の自由」を保障するための組織原則である「大学の自治」、さらには「教授会の自治」が含まれる。

 【法人】は一応、工大の「学長」人事に対して、「民主主義」的選挙としての体裁を取り繕う。
 そこでは、3年ごとの学長「選」に際して「学長候補者推薦委員会」が立ち上げられる。同委員会は〖大学側〗委員=「教授会」の代表者と、【非・大学側】委員=「理事会」の代表者+「評議員会」の代表者で構成され、「合議」の結果、学長候補者1or2名を選出する。
 そして、【法人】の「理事会」―「学校法人の業務を決し、理事の職務の執行を監督する」(私立学校法第36条第2項)―では、同委員会において推薦された学長候補者から学長を選定し、理事長がこれを任命する。 
 
 これは一見すると、工大側の「総意」を何らか汲み上げた方策のように思われる。
 だが、問題の根は深い。注意すべきは、同委員会を構成する【非・大学側】委員と〖大学側〗委員の量的関係において―絶対数自体に歴史的変遷はあっても―、前者が後者より相対的に多いという点である。同委員会では、前者の後者に対する数的優勢が常態化しているため、総じて前者の思惑どおりに事が運ぶことになる。
 【非・大学側】委員(「理事会」・「評議員会」の互選による代表者)とは誰か。彼らは【法人】(←東急電鉄)の「特殊意思」(=組織的利益)の体現者―具体的には、工大以外の【育英会】ないし東急グループの関係者―にほかならない。同委員会の席上、彼らは結局、その特殊的組織益にかなう「学長候補者」を選出することに汲々とする。
 そもそも【法人】の意思決定機関たる理事会および評議員会では、その数的構成が工大教員よりも東急グループ主要企業の役員・OBが圧倒的に多い以上、「衆議」自体の必然的帰結が見え見えである。  
 
 〖大学側〗委員にとって、学長選(同委員会→理事会)の帰趨する所は明白である。誰が学長になるかは分かっている―。この、とんでもない、否、滑稽きわまる事態に直面して、彼らはどのような態度を取るにいたるか。
 彼らは総じて―全教授の互選投票でどういう顔ぶれがそろうかは時代状況に左右されるとはいえ―、この茶番に組するか、はたまた反発するかに分かれる。「偽装民主主義」に依拠する同委員会において、彼らの多くは諦めムードに包まれて、【非・大学側】委員(=育英会の特殊意思)に妥協する・擦り寄る・馴れ合う者であり、彼らの一部はごく少数ながら、大学の理念ないし「一般意思」(ルソー)にこだわり、【非・大学側】委員に負け戦を百も承知で反抗し、ぎりぎりまで挑戦する者である。

 (3)【育英会】には教員、事務員、そして「技術職(員)」(技術員)が存在する。ここでは、事務員のありようを問題視したい。
 【育英会】に採用・雇用された事務員は、【法人】事務局(本部)および傘下校(「東京都市大学グループ」+東急自動車学校)事務局・事務室に配置される。2011年度現在、【育英会】全体の専任事務員は計約230余名、その内、【法人】事務員が約40名、大学事務員が約150名(ほぼ半数が女子、cf.大学専任教員計260余名)である。(ちなみに、同年度の専任技術員は計110余名であり、その約50名が東京都市大学、約60名が東急自動車学校に所属する。)
 憂うべき問題は、【育英会】における全事務部門が「人材」に乏しく、中でも幹部事務員に「力量」不足も甚だしい者が多い点である。

● 大学の事務員に関して、私は学生時代の忘れがたい思い出話のワンシーンに触れてみたい。
 1967年5月の在りし日のこと、私たち大学4年生数人(慶應大学経済学部ゼミ仲間)は、ある飲み屋で、「就職」談議に花を咲かせた。時あたかも高度経済成長期であり、就職先がより取り自由の状況下、私たちは「1度しかない人生における身過ぎ世過ぎとは何か」をテーマに、談論風発に興じた。
 「会社に勤め、給料をもらい、メシを食うって、どういうこと?」、「「資本主義社会じゃ銀行なんかが一番安泰か」、「資本主義の弱肉強食の世界を駆けめぐってみたいね」、「今から定年時の退職金の計算しているオメデタイ野郎がいるぜ」、「名誉とか地位とか財産とかにとらわれない生き方って魅力的だ」、「フリーの一匹狼には作家生活なんてふさわしいのかな」、「すまじきものは宮仕えさ」等々。そしてさらに、次のような会話が消えがたく私の記憶に残った。
 学友N「大学(KEIO)で来年度、事務員を募集する話を知ってるか?」
 学友O「事務員は普通、高卒採用じゃないのか…」
 N 「高卒だけでなく、大卒も採用するとのことだ。」
 O「学校の事務屋に大卒が必要なのかね。だいたい、学校事務―学校事務員が行う事務―なんてのは、ルーチンワークの典型で発展性のない仕事だからな。KEIO卒で学校事務屋になるようなヤツは、それこそ『アホ』『おバカさん』だろうよ。」
 学友K「しかし、学校には会社に比べて、時間に余裕がある。特に大学には長い夏休みがあるしね。この時間を活用して心豊かに生活できれば、これ幸いだ。大学の事務員になる選択肢も軽視すべきではないよ。要は<生きることの核>さえ手放さなければ、どんな仕事に携わっても構わないだろう。」
 私「なるほど、ものは考えよう、どんな職業に就こうと結局は、自分の生き方の質が問われる。自分自身としては、<生の核>に生々しく迫る手応えのある生き方をいつまでも追求したいね。」
 学友H「僕にとって学校の事務員も教師も、全く興味のない職業だ。事務屋についてはOの話に共感するし、教師については論より証拠、これまで小中高をとおして魅力的な教師に出会ったことがなく、KEIOの教師にしても言行不一致のいい加減な連中が多すぎるし…。僕としては、ただ無目的に、惰性で生きたくはない。あくまで今の時代の最前線で活躍してみたい。資本主義が問題的な社会構成であろうと、この現実のただ中―例えば市場争奪戦―で自分の能力を最大限に発揮してみたい。」
 [ちなみに、前出の学友O=大野恒邇(私より4歳年長)はドイツで起業後に雨の朝パリに客死(60歳)、K=河上博昭(私より2歳年長)思想的流転の旅路をたどって頓死(52歳)、H=花渕節夫(私と同年齢)は銀行マンとしての立身出世の途上で急死(53歳)。あるいは人生朝露の如し、あるいは人生無上の愉快…。]

● 学校事務員は一般に、会計・給与・福利厚生・服務・文書・施設管理等々の事務を処理する。この学校事務は確かに―旧友Oが喝破したように―、基本的にルーチンワーク(日常的に繰り返される業務・作業)そのものであり、あらかじめ決められた段取りや流れに従えば、本来的に誰にでもなしうる仕事である。
 
 私はかつて北炭幌内炭鉱で、学校事務員と同様なルーチンワークに携わったことがある。1968年10月に同鉱「労務課」に配属された私は、「外勤」の職務―「部落」(炭住が集合する地域)管理―に励むかたわら、いっとき(同年12月~翌年1月)「内勤」の職務―給与・福利厚生・備品照合・労働協約手続き・官庁指定統計ほか―に一臂の力を貸した。
 私自身の同課「内勤」体験によれば、「ルーチンワーク」といわれる定期的な事務作業は、一種の「パターン認識」による、単調・平板・容易・退屈な仕事であり、初歩的な手ほどきさえあれば、(旧友Oの侮言どおり)どんな「アホ」・「おバカさん」でも、費やす時間の長短こそあれ、ほどよく処理・遂行することのできる仕事である。
 実際、当時の「内勤」専従者―社員13名(役職者を除く平社員)+鉱員6名―は押しなべて、該ルーチンワークを細大漏らさず、そつなく―自己流ににムダ・ムラ・ムリを無くす工夫を重ねながら―やりこなしたものである。 
 ただし、そこに1人の例外者Uがいた。彼は最終学歴が戦前の小学校卒で40台の鉱員である。彼は決まりきった日常の「社会保険」の事務でも、ややもすると思案投げ首で、惨憺たる苦心を払いつづけた。彼には、自らの本源的な「能力」(=物事を成し遂げることのできる各人の総合的な力)の何かが欠けていた。
 私はデスクワークの万事に悪戦苦闘する彼の様子を見かねて、つい何度となく手を貸した。彼は私の助力を受ける度に、こくんとお辞儀し、思わず知らず破顔一笑したものである。その瞬間の、純粋な善意に満ちた人懐こい屈託のない彼の笑顔が今も、くっきりと私の瞼に浮かんでやまない…。 
 ちなみに、当時の同課「内勤」員19名の学歴は、社員2名が大卒、残りの社員が高卒、鉱員が高卒or中卒or戦前の小卒[2名 (Uを含む)]である。そして、同課「外勤」 員計60名はすべて鉱員であり、彼らの学歴は高卒or中卒or戦前の小卒(約20名)である。また同課の役職者(内勤・外勤の総轄)の学歴は、M課長が東大経済学部卒(M=政安裕良のことは「安田塾メッセージ№21」を参照)、T課長代理が早大政経学部卒、K係長およびS係長が戦前の小卒(⇒実務家上がりの苦労人)である。
 なお、当時の私は同課の数少ない大卒の「新入社員」として、外勤と内勤の双方にまたがる労務本務を全うする「一従業員」であるとともに、どこまでも炭鉱現場の視点から、日本資本主義の原点たる石炭産業の本質を一心に追究する「一学徒」であった。

● 問題の【育英会】の事務員は一体、どのような力量の持ち主であるのか。彼ら事務員の面々は、問題のルーチンワークに対して、どういう態度を持し、どういう能力を発揮してきたのか。
 私は二十数年間、武蔵工大の一教師として、多くの「【育英会】-工大」事務員の言動をつぶさに見聞しつづけた結果、いたく思い知ったものである。彼らの能力の質では全般的な傾向として、当のルーチンワークを何とかやり遂げるだけで精一杯であり、仕事内容の「目的合理性」(マックス・ヴェーバー)⇒効率化を進める点にいたってはおよそ思案の外である、と。 
 彼らの学歴は、ごく少数が高卒ながら、女子がほとんど短大卒であり、男子がほとんど4年制大学卒である。私は時代状況が余りに異なるにせよ、彼らの学歴と炭鉱マンのそれを比較するとき、感情が複雑怪奇にねじ曲がり、名状しがたい感慨に浸る。 
 人間の成長・発展史上、「学歴」と「能力」が比例しないことは周知の事実である。学歴自体がより高まれば(小卒→中卒→高卒→短大卒→大卒)、それだけ総体的な能力もより高まるなどというのは、愚かな謬見以外の何物でもない。各人の人生行路上、決定的に重要な問題は、発達段階の折々の節目で、いかに伸びやかで瑞々しい感性を培かったかである。そして、素朴で素直な、あふれんばかりの好奇心(⇒知性と感性の相互促進化)をはぐくみつづけたかである。
  私は率直に問わざるをえない。果たして、彼らは尽きない可能性を秘めた青少年時代をとおして、多少なりとも夢にチャレンジし、想像力を飛翔させ、豊かな発想力⇒構想力を喚起しつづけただろうか。彼らは多感な青春の一時期に、またたく間の出来事であろうとも、遠大な理想を抱き、理想と現実のギャップに苦しみ、理想と現実の接点を探す努力を重ねただろうか、と。 

 工大時代の私は、彼ら学校事務員の生態を目を逸らさずに直視しつづけた。
 彼らは全体的に、視点―物事を考える立場―が余りに硬直化し、チャレンジ精神―困難な問題や未知の分野に立ち向かう意欲―が余りに阻喪し希薄化している。彼らは学校事務のルーチンワークに呪縛された、その意味での「タコツボ型人間」にほかならない。
 なぜに、彼らが実務のタコツボにはまり、そこから脱出できない状態下にあるのか。
 よって来たるゆえんは第一に、前述の通り、学校事務職に就く以前の彼らの生き方(広義の思想的たたずまい)が問題的である点である。
 私は彼らの、一事が万事杓子定規なやり方に呆れ返るとき、決まって、郷愁のように、炭鉱人(ヤマびと)の躍動する人間的たたずまいを思い起こしたものである。私が見知ったヤマびとは、一種異様な炭鉱世界(地上と地下の往還)の日常に封殺された自らの生そのものを、幼少時から豊かな現場感覚・生活感覚を鍛えつづけながら、また独自の時間意識に基づく死生観(感)→「自然-世界-宇宙」観(感)を紡ぎつづけながら、ひたすらに貪り、しぶとく生き抜いていた…。  
 第二に―これが第一より一層重大な事態を来たす点―、彼らを雇用したところの【育英会】⇒傘下各校という場がもともと「開かれた社会」(カール・ポパー『開かれた社会とその敵』)には程遠い点である。
 この点に関して、前掲(1)の「理事長」人事、(2)の「学長」人事のありさまが重要な示唆に富む。両人事が実質上、【法人】(←東急電鉄ないし東急グループ)の特殊意思によって壟断されつづけた事態こそ、そのままに【育英会】という組織の閉鎖性を物語っている。
 私は工大事務局幹部の口からよく聞かされたものである。「我々は言えない、言わない、言う必要がない」と。
 
 【育英会】(←東急電鉄)は、個々人の利害関係(地位・財産・名誉等⇔裸の自然的生)が絡む、したがって欺瞞(ニセモノ)をはらみ、虚飾(欺瞞をホンモノとして押し付ける手段)に満ちた、一種の「権力支配」の秩序である。そこは批判の自由―「批判はどのような手段で行ってもよい」―が許されない、権威主義に染まった「閉じられた社会」(ポパー)である。ここでは、各人が利害に生きている限り―例えば、オイシイ餌につられて、「もっと出世したい」・「もっと給与を弾んでくれ」・「もっと名誉が欲しい」という具合に―、自発的・心情的に、その権力支配の構造(掟=観念的価値形態)に参入せざるをえない(「強制された“自発的”心情」→もたれ合い)。
 【育英会】事務員各員は、どう生きようとするのか。彼らは果たして、「ニセの意識」が瀰漫する【育英会】ムラのシガラミを断ち切ることができるだろうか。「利害」共同体の大勢順応主義(コンフォーミズム)に組することなく、自分の「志操」を守り、「心に納得できないこと」をしないで済ますことができるだろうか。彼ら一人一人は実際に、「自分とは誰か」・「自分は何者か」という問いを立て、自分を見つめ、自分の立ち位置をはっきりさせることができるだろうか。容易ならざる重荷を背負い込む彼らの行く末やいかに―。

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                                   2011年8月5日 安田忠郎
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(1)

 私は「安田塾メッセージ」№30の最後に予告したように、№32~№36において、「学校法人・五島育英会」と対峙し、該組織の体質を対象化することにします。
 
 私の「武蔵工業大学」論は、これまで4回ばかり展開されました。
 ①論文「岐路に立つ武蔵工大―いま、なぜ大学改革なのか―」(『武蔵工業大学教育年報』第16号・2005年度版)。
 ②論文「『大学改革・日本改革』序説―日本と世界の関係の変化に即して―」(『武蔵工業大学教育年報』第17号・2006年度版)。
 ③論文「専門知と教養」(『武蔵工業大学教職課程研究年報』Vol.3、2008年3月)。
 ④講演「虚妄の大学改革―いわゆる文科系出身者が工学部長に就任して―」(第2回安田塾、2009年6月27日)。
 この①~③では、武蔵工大の、いわば待ったなしの問題状況が「大学改革・教育改革・学問改革」の視点から論述されました。そして④では、主として「武蔵工大」改革の現状が批判的に検討され、その延長線上で五島育英会の旧態依然とした体質―その場しのぎと場当たり主義―がいささか問題化されました。
 
 いずれにせよ、私は今回初めて、少なくとも文章上、五島育英会の組織構造上の問題点を本腰を入れて検討するものです。この批判的作業は、次のように進められます。
 初め()の構成部分では、私自身の過去との真の絆が探し出されます。そして、中()と終わり()の構成部分では、その「序」が受け止められながら、「五島育英会とは何か」という、私自身の体験に根ざした問いが立てられ、私自身の答えが導き出されます。
 なお、№32では【序】が、№33では【破】が、№34~36では【急】が扱われます。

【序】 過去との真の絆 
 

 翻って考えると、もともと私は武蔵工大の教職に就いて以来、大いなる問題意識を駆り立てつづけてきました。それは自らの≪生きる場≫で、いかに哲学するかという課題意識にほかなりません。
 この私の問題意識⇒課題意識は、大学生時代に芽生え、以後の炭鉱時代→大学院生時代にはぐくまれ、やがて諸種の非常勤講師を経て、武蔵工大専任講師に就任した時分に(1980年)、一段と活性化しました。
 そして早々に、私はこの自ら開いた思想的境地の意味合いを具体的に明確化する劇的な場面に出くわしました。それは、私にとって夢寐(むび)にも忘れられない凄惨な「大事件」に関わる、旧友Sとの再会の場面でした。 
 

 1981年9月25日、私は自らの炭鉱体験を総体的にとらえ返した著作『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版)を公刊しました。
 本書は予想外に版を重ねて売れました。「売れた」理由は本書の場合、類書がいたって少ない点、書評が多数の新聞・雑誌に掲載された点、私の畏敬する上野英信(1923~87、記録文学作家)、井上光晴(1926~92、小説家)、花崎皋平(1931~、哲学者)の三者の推奨に与った点、何やかや色々あるでしょう。しかし一番大きな理由は、はっきりしています。同年10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」(北海道夕張市、安田塾メッセージ№21参照)が勃発したこと、これにより本書はにわかに世の注目を浴びるにいたりました。
 

 それは痛ましい事故でした。その惨状が今でも私の記憶に生々しくよみがえります。
 …地下810メートルの坑道でガス突出事故が、さらに火災事故が起きる。→救護隊が何とか34名の遺体を収容するも2次災害に見舞われ、坑内に“安否不明者”59名が取り残される。→坑内火災が収まる兆しも見えず、坑口を塞ぐ「密閉」作業が行なわれる。→しかし依然として火勢が衰えず、土壇場に立たされた会社は「坑内注水」による鎮火―炭鉱自体を残すために、火災現場に大量の水を入れて火災を消し止め、その後の採炭開始に備えること―という決断を迫られる。→問題は「注水」が“安否不明者”の確実な死を意味する「非人道的な」措置であること。会社側による「注水」提案は、“安否不明者”家族の猛反発を招く。→「注水」(坑内水没作業)の是非をめぐり、物情騒然たる状況下、林千明・北炭社長は10月22日の説明会で、ついに意を決して必死の声をふりしぼった。「注水することで命を絶ちます。お許しいただきたい。お命を頂戴したい・・・ということです」と。(なお、林社長は12月7日、手首を切って自殺を図る。一命をとりとめたものの、その後人知れず退社する。)会社側は“安否不明者”家族の戸別訪問で、「注水を許可する同意書」を取り付ける。→057.gif翌10月23日午後1時半、サイレンと共に、坑内全域に夕張川の水が注入される。前夜の豪雨で、夕張川の水は汚れて、赤茶けていた。1分間寒々としたサイレンが鳴り響く中、夕張市とその周辺の住民たちは、大人から子供までが黙祷を捧げる。→注水作業は約4ヶ月に及び、その後の排水作業を経て、遺体がようやく全て収容されたのは、事故から約5ヶ月後の1982年3月28日のことである。…
 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故は最終的な死者が93人、炭鉱事故としては、1963年の三井三池炭鉱炭塵爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱ガス爆発事故(福岡県嘉穂郡稲築町)の237人に次ぐ、戦後3番目の大惨事でした。
              ↓ 北炭夕張新炭鉱事故慰霊碑(夕張市清水沢清陵町)
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 1982年4月、私は2年ぶりに夕張の地を踏み、北炭夕張新炭鉱労務課員(当時)のSとの語らいの機会を持ちました。彼との有益な会話のやりとりは、以下の概容に見られる通り、私自身の思想的磁場を鮮明に浮き上がらせるものとなりました。[Sこと沢口忠良は、私の北炭幌内炭鉱入社時(1968年)の同期生であり、幌内炭鉱から夕張炭鉱→夕張新炭鉱(1975年営業出炭)→空知炭鉱(北海道歌志内市)に異動、後に歌志内市議会議員を務める。]

 「…毎日が地獄の苦しみだったかい?」
 S「地獄…ね、何をもって地獄というかだが…。炭鉱人の置かれた状況を形容して、<行くも地獄とどまるも地獄>といわれているしな。それに、人間というのは、地獄に長くいつづければ、それにも慣れてしまう動物だからな…」 
 「遺体の収容・確認作業は難航を極めたそうだが、何か関係したのか?」
 S「ああ、関係したな…、因果なもんだ。人間は最後に皆、骨になる…、見事に骨と灰になるわけだ!」
 「メディアが殺到して、大変だったろうな…」
 S「ああ、ヒドイもんだった!それこそ、この世の地獄を味わったよ!記者野郎が“起こるべくして起きた”事故などと、さも分かったように安直に書き散らすのが、無性に腹立たしかった。マスコミなんてものは、物事を上っ面で判断する中身がカラッポの集団だな。あの連中は炭鉱マンの素朴な生活感覚を土足で踏みにじっても、良心に恥じるところがない不逞のヤカラだ!」
 S「…ところで、安田の本、じっくり読んだよ。あれは長期間、ふつふつと執念を燃やしつづけて書いたんだろう。まあ、オレとは見解が分かれる箇所もあるが、全体として炭鉱問題の核心を鋭くえぐっていると思う。
 ただ、この際、オレは率直に安田に聞きたいんだ。炭鉱経営のエゲツナサとか暴虐性とか前近代性とか、世の人々から色々指弾されるが、じゃあ炭鉱会社は、ほかの企業と根本的に異質・異常な組織体だと言うのか。確かに坑内労働が死と隣り合わせだけに、事故死を遂げる者は他企業よりずっと多いだろう。でもな、マルクス経済学を鵜呑みにするつもりはないが、会社は会社であるかぎり、いつも<資本vs.賃労働>関係の根本矛盾にさらされているわけだ。企業でメシを食う人々―特にいわゆる労働者―は、程度の差こそあれ、みんな資本主義システムの被害者になる可能性を秘めているんだな。
 実は、オレ個人としては、安田に大いに期待していることがある。安田には今後、ぜひとも石炭産業の範疇に属さない会社、できるなら時代の最先端に位置する企業について、その仕組み・カラクリ・デタラメサを批判的に分析してもらいたい。石炭会社と、それ以外の会社を比較検討するとき、はじめて現代日本社会のトータルな企業構造をしっかりと見据えることができるんじゃないか―」
 「すこぶる貴重な意見だな。Sの言いたいことは、よく分かるよ。だが、今のオレはこう考えている。
 それこそ、マルクスの言う<資本の論理>は、貨幣経済が存続するかぎり、半永久的に、世界の隅々まで展開しつづける。今や、資本の自己運動的な展開が世界的普遍性を獲得していると言っても言いすぎじゃないだろう。だから、およそ企業は基本的に営利を目的とする組織体である以上、大なり小なり、利潤をめぐるトラブル・人災・首切り等といった宿痾(しゅくあ)に悩まざるをえないわけだ。
 しかし、そうは言っても、問題は日本の資本主義の場合なんだよ。欧米譲りの“近代”資本主義―これは“近代”民主主義との相互連関システムだ―が、どうやら進展しだすのはせいぜい日清・日露の両戦争あたりからで、全面的に展開するのは太平洋戦争の敗戦後、アメリカのフトコロに抱かれてから、とりわけ1950年代後半以降の高度経済成長期だな。日本の資本主義といい、民主主義といっても、これは内発的なものではなく、あくまでも外発的なものだ。外発的な日本の開化=“近代化”が、これまで見よう見まねで息せき切ってシャニムニ―時にぶっ倒れても―進められてきた。
 問題は日本の明治以降の“近代化”に、内発的な動機付けが欠落している点だ。これは、日本の歴史の内部には“近代化”自体を自発的・主体的に推進する活力が生まれなかったことを物語っている。きっぱりと言えば、日本は有史以来、人々の共同体的な関係の集合力が個人の内発する力―中でも個人の生活・思想における“自由”―を(強制的or誘導的に)抑圧しつづけてきた。この歴史上の問題状況は、古代日本から江戸時代の<鎖国>体制にいたるまで際限なく続き、そして明治以降今日までの“近代化”の過程でも、一定の変貌を遂げた場合はあるにせよ、実質的に脈々と続いている。
 このように見るとき、今のオレの思想的姿勢がSにも、おのずと伝わったんじゃないか。自分の現在の関心事は、資本の論理―つまり貨幣自体の論理―の問題(普遍)よりも、日本の<歴史的・伝統的システム>の問題(特殊)にある。要するに、現代日本のあらゆる組織機構は、“近代化”された形・体裁を取ってはいるが、その内部の人間関係は“近代化”されなかった歴史的・伝統的なシステムに拠っている―という問題だ。この日本的組織体の根本性格は、その組織が不祥事を起こしたり、危機的状況に陥ったりするとき、たちどころに判明する。例えば、ある不祥事が発覚した場合、しばしば1人の上司がそれを隠蔽しようとし、部下がその隠蔽作業に協力する事態が引き起こされる―。そこでは明らかに、“近代化”が標榜するような<人権>、自由・平等などはワレ関知せず、何よりも組織を無事に維持しようとする意識が、理念を捨てても仲間内の結束を守ろうとする意識が、やたら発動されてしまう。理念や目的のために組織があるのではなく、組織をやみくもに維持することがいの一番に要請され、そのために理念や目的も事実上廃棄されてしまうわけだ。
 結論を述べよう。およそ日本的組織は、会社も政党も組合も学校も、程度の大小こそあれ、<近代的システム>と<歴史的・伝統的システム>との、矛盾に満ちた―両者は互いに対立しながらも、結局は癒着し、ここぞという決定的場面で後者が一つの強力な権力として突出する―結合体というべきものだ。…」
 S「…なるほど、なかなか興味深い話だ。そうすると、手っ取り早く言えば、炭鉱も、いま安田が関わる大学も、日本の伝統的特異性が刻印された点で、同質の組織ということになるが…」
 「うんうん、それだ!オレはね、炭鉱人も大学人も<日本人類型>として、さしたる違いはないと、いつぐらいからか考えつづけてきた。たしかに法律上は、例えば北炭(株式会社)は営利法人、いまオレが在職中の武蔵工大(学校法人)は公益法人と区別されるが、しかし両者は共に特殊日本的性格を帯びた組織として、言ってみれば五十歩百歩だな。
 考えてみれば、オレは長年、学校生活に児童・生徒・学生・院生として、また教師として関わりつづけてきた。教えを受ける側として何と21年を費やし、教える側として―大学院博士課程以降1979年までの非常勤講師も含めて―すでに11年を過ごしている。ところが、こんなに長く学校社会の住人でありながら、<学校とは何か>と自らに問いを発した最初は、1960年代後半の<大学紛争>時だった。ここでは、Sも直面しただろう、全共闘の<自己否定>-<大学解体>論、これを自分なりに随分勉強したな。やがて北炭を経て、オレは大学院時代以降、炭鉱問題と比較対照しながら、改めて大学を中心とする学校問題を自らに引き寄せ、掘り起こしつづけてきた。そしてようやく、これまで温めてきた思いが、確信に近いものになりつつある。つまり、<歴史的・伝統的システム>―日本人の日常的な生活態度(エートス)―の観点に立つとき、日本の大学教師をはじめとする学校教師もまた、炭鉱労働者と基本的に同質の、(先に述べた通りの)問題状況下にある―。
 明治の昔、『坑夫と土方がケンカしているのを人間が見ている』と言われた。何しろ炭坑夫は、三井三池炭鉱や北炭幌内炭鉱の使役した<囚人>に象徴されるように、戦前・戦後を通じて、時代の社会的差別と偏見にさらされつづけた。また明治以来、『炭鉱とぬるま湯を出れば風邪を引く』と言われるほどに、炭鉱共同体=石炭城下町の閉鎖性―外部社会への適応性の喪失―が指摘されつづけたものだ。
 しかしオレに言わせれば、日本流の“疑似ないし偽装”近代化の条件下、坑夫-土方-囚人-人間もヘッタクレもない、炭鉱-外部社会もヘッタクレもない!もちろん炭鉱人(肉体労働者)-大学人(知識人)もヘッタクレもあるものか!
 繰り返し強調するが、日本人の日常生活は<歴史的・伝統的システム>によって営まれている。日本人は銘々が日常的に何らかの共同体(村・ムラ)―例えばA炭鉱ムラとかB大学(同窓会)ムラとかC労働組合ムラとかD政党(派閥)ムラとか―に所属し、その内(ウチワ)と外(ヨソモノ)との“重層的・伸縮的”な区別のもとで、対内道徳(⇒以心伝心・仲間意識・身びいき⇔仲間外れ・村八分・スケープゴート)および対外道徳(⇒敬語体系/慇懃無礼/人見知り/差別性・排他性→暴力)の二重性を意識して汲々として生きている―。
 この事態を今日的な<世界の中の日本>の視点から巨視的にとらえ直せば、我々日本人が何者であるかがよく見えてくるわけだ。日本国=日本村の国民=村民はみな一様に、ウチとソトの双方に共通の価値観・規則・態度を設定できないがゆえに究極するところ、【対内的には】日本村全体に情感的に同調・同化し、【対外的には】諸外国に慇懃無礼にorよそよそしくor排外的に振る舞う―総体に<他者>との対等・平等な、実質的に意味あるコミュニケーションをうまく図ることのできない<日本的イナカッペイ>である。それが<近代的な自由な個人(インディヴィデュアル)>に程遠いものであることは言うまでもないだろう。…」
 S「…いつか、大学社会に関する本を著わすつもりかい?オレは『炭鉱(ヤマ)へゆく』の文章スタイル―体験を対象化してとらえる書き方が好きだな。読みやすいというか、それを読みながら安田の中に自分と共通な何か基本的なものを発見して嬉しくなったんだ―」
 「オレは大学問題については、いつか必ず書くよ。ただし、誤解のないよう触れておくが、自分が物事を考え、文章を書くのは、いわゆる学会での業績主義に呪縛されることなく、それを乗り越えた次元に主体的に生きるため、ということだ。
 オレは今までの学会活動を通して、つくづくと痛感しつづけてきた。学会を構成する学者・研究者の大多数は、専門のタコツボにはまり、そこから脱出できない、いわゆる<専門バカ>である、と。彼らは一般人としての教養すら身につけていないため、専門外のことについては常識的な判断すらできない。そして、重箱の隅を楊枝でつついた、箸にも棒にも掛からない、本人の仲間内以外は誰も関心を示さない研究成果を発表しつづける…。彼らの知性の貧しさに痛みを覚えるよ。日本の学会(→学界)は―まあ今のところ一応オレの入会する三つのそれに限っておくが―、<タコツボ型専門人>の共同体として、ひどく自己完結的で、絶望的に閉鎖的だな。
 そもそも1人の人間が生き、考え、書くというのは、何を意味するのだろうか。
 1回限りの生命を享けたオレにとってハッキリしている点は、こうだ。人間が生きるとは即、考えることである。生きつつ考え、考えつつ生きるとは即、<学問(=学び問うこと)>を営むことである。要は、自らの掛け替えのない生を自覚的に生きることがそのままに≪学問する=思想する=哲学する≫ということだ。
 ここで<学問><思想><哲学>という名詞を、あえて動詞化して≪動態化≫した点に注目してほしい。
 哲学史上の話になるが、<哲学 philosophy>という語は、ギリシア語の<知 sophia を愛する philein>という意味に由来する。哲学者とは、<知者 sophos>という知を<所有する>者とは反対に、知を<愛する>者だ。知を愛する場面での<知>は、知識とは区別され、知恵とか英知とか―英語のwisdom―に当たり、実践の知という含みを帯びている。実践とは自己の意志や行為を方向づけるものであり、したがって英知とは善く生きるための知恵にほかならない。英知を愛する者は結局、自己を基準として―『汝自らを知れ』(古代ギリシアの格言→ソクラテス)―、目前の世界をただ観察するだけでなく、その世界に参入し、絶えざる自己還帰による自己実現をめざすことになる。
 だから重要な点は、哲学が、そして思想が、さらに学問が、固定した完成物―完結した知識―ではなく、人間の活動そのものだということ。その動態性(根本精神)において、哲学者は哲学する人であり、思想家は思想する人であり、学者は学問する人であり、この哲学する・思想する・学問するという三者は同等の価値を持つ働きである。
 オレは常日ごろ、人間として<自分が生きているとは、どういうことなのか><自分はいかに生きるべきか>と真面目に考えている。自分が哲学するとは、この種の<自分(の生)>に関する問いを起点かつ基点としながら、自分をめぐる状況(小状況→大状況)と直接向き合うことである。ここでは、自分から出発して、自分の感性⇒体験を大事にしながら、自分の問題意識(歴史意識&社会意識、時間と空間の一体化)が徐々に、小状況(自分の身の回りの<小さな>動きや条件)から大状況(日本国→世界全体の<大きな>動きや条件)にまで広がり、かつ深まっていく。
 ここで問われるのは、小状況→大状況にまつわる事柄を、どこまでも具体的な自分の問題として提示できるかだ。
 小状況→大状況として、日本人はこう、とかく思い浮かべがちだ。最初に小状況としての、自分の家庭とか会社とか学校とかの集団・組織があり、次いでその外に市町村や都道府県があり、さらにその外に日本という国があり、その外に<世界>がある…、と。そして、日本人はこう、とかく考えがちだ。<家族問題や職場問題などは、自分に固有の小さい問題だから、世界とは関係がない>と。
 しかし、しっかりと認識すべきだろうな。世界は自分の外にあるものではない!世界は自分の中にあるものだ!世界の中に自分がいて、自分の中に世界が食い込んでいる以上、自分の家族や職場の問題もまた、世界(史)の問題を内包している、と。
 また、小状況→大状況に関わる原点としての<自分>が拡大・深化する点にも注意する必要がある。オレの場合、炭鉱の現場で自分の存在を揺るがすような体験を重ねただけに、自分そのものがより拡大していき、歴史&社会を見る目も次第に深まり、広がった。つまり、炭鉱の何たるかが自分の奥底で分かったことによって、以前にも増して自分の内奥(世界的・歴史的・思想的文脈)を深く広く掘り起こすことが可能となり、自分の家族問題、自分の職場問題、自分の日常生活に関わる切実な問題、自分にとって焦眉の問題等々をいったん<具体的な世界>の問題として再構成した形で提示できるようになったと思う。
 ところで、これまでの話で、オレは自分の内面に呼応する状況(シチュエーション)について、便宜的に<小状況→大状況>という言葉を使ってきた。しかし、この規模の<大小>に関わる言葉は無用の誤解を与えかねないので、これを少し角度を変えて、分かりやすく≪生きる場≫と言い換えてみたい。
 現在、オレの≪生きる場≫の典型的な例は、家庭もさることながら、職場(勤務先)だ。武蔵工大での教師生活が今後何年続くか予想できないが、少なくとも在職中、この直接的な経験の領域をじっくりと徹底的に哲学しつづけていきたい。そしてまた、機が熟し、その哲学的・思想的成果に関する文章を、私は<書かなければならぬ>と自ら決意することになれば、せっせと余すところなく書くだろう―」
 S「…その安田の書く本がかりに『炭鉱へゆく』の延長線上にあるものだとしたら、タイトルは『大学へゆく』なんかがいいのじゃないか。オレは何歳まで生きるのか分からないが、生きている間に、それが出版されたら、必ず読むよ―」