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                                   2010年12月18日 安田忠郎
                世田谷市民大学での講義を終えて

 既報(安田塾メッセージ№16)の通り、世田谷市民大学における私の講義(「人間観の基底―日本人における『個』の自立の可能性を考える―」)は、9月16日に始まり、12月9日をもって終了しました。
 
 この講義全12回(9.40~11.00a.m.)のすべてが、私にとって有意義で充実した時間でした。そこでは、私の経験知⇒理論知が率直にフル展開されるとともに、1回80分×12回=960分(16時間)が私の「根源的時間」(ハイデガー)と化して、たちまちのうちに過ぎてしまいました。
 何より嬉しかったのは、私の講義が熱を帯びるにつれ、話が受講生の胸奥まで届き、確かな手応えを受け取ることができた点です。
 
 当の受講生は計112名、その年齢層は60代が過半数を占め、次いで70代が多く、40代・50代・80代がごく少数でした。また性別では男性が64名、女性が48名を数えました。

 受講者の圧倒的多数は、私と同時代人でありました。私と彼らは、何物にも代えがたいことに、戦後日本の「生活困窮」→「高度経済成長」→「石油ショック」→「バブル景気とその崩壊」という同じ激動の時代を生きてきました。だからこそ、私の講義における言葉の数々は、世代間の断層に煩わされることもなく、思想的ないし心情的な共感を呼び起こし、巧まずしてコミュニケーションの円滑化を進展させることができました。

 しかも、悦ばしい限りなのは、彼らの9割方が海外経験―旅行or 出張or 居住―の持ち主であったことです。中には、世界30か国を歴訪した人、ニューヨークに4年間駐在した人も存在しました。数多くの異文化体験者を前にして、私の諸国行脚にもとづく「世界の中の日本&日本人」論は、いやが上にも気勢が上がりました。

 それにしても、私の講義中における教場の雰囲気は、時に熱っぽく、時になごやかで、時に粛然とし、全体として生気に満ちた、実に感じのいいものでした。 
 受講生は総じて熱心に私の話に耳を傾けてくれました。彼らの一部はたとえ私が長広舌を振るっても、話の内容を細大漏らさず受け止めてくれました。また、一部は打てば響くような反応を返してくれました。…
 いや、本当に素晴らしいことに、私は今回、現代日本の一般大学でお馴染みの授業光景―所在なげに虚ろな視線をさまよわせる者、棒くいのように無表情に押し黙る者、机の上に突っ伏していぎたなく眠りこける者等々とは、まったく無縁でありえたのでした。
 
 そして、かたじけなくも、ある受講生から一昨日、次のようなメールも頂戴しました。
 「世田谷市民大学では、興味深い講義大変面白く学ばせていただきました。まだまだ講義を続けていただきたい気持ちで一杯でしたが、残念ながら…。機会あれば又お話を聞かせてください。有難う御座いました。」

 私は各回の講義を終えるたびに、学生時代に読んだ羽仁五郎(故人、歴史学者)の著書(『私の大学―学問のすすめ』講談社現代新書、1966年)における次のような名言を、まざまざと思い浮かべたものです。
 「大学があるところに学問があるのではなく、学問があるところに大学がある。」 
 そうです、「学問」、すなわち「学んで問うこと」、これがすべてなのです。この点は、私がかつて夜間の「専門学校」講師として勤労者の教育活動に携わった折も、実感をもって胸に迫る問題でした。私は世田谷市民大学において、今更のように事の意味を強く噛みしめ直したのでした。
 彼らとの思いがけない出会いの機会に恵まれた幸運を、私としては心より感謝する次第です。

 ところで、今回の講義の進め方について、私としては反省すべき点が多々ありました。以下、私はその、よって来たる事情を顧みることにします。
 
 既報(№16)のとおり、講義では、次のようなテーマが掲げられました。
①幕末維新期に来朝の欧米人(特にイザベラ・バード)が展開する「日本及び日本人」論
②日本の近代化とナショナリズムの問題―「開国」とは何か
③私の諸国(特に米国ニューヨーク)行脚に照らした特殊日本的エートス
④西洋教育思想(特に「ソクラテス-プラトン」問題→ルソー→アダム・スミスの思想的脈絡)における「人間」の問題
⑤西洋哲学(特にカント→ヘーゲル/マルクス→フォイエルバッハ/キルケゴール→ニーチェ→ハイデッガーの思想的脈絡)における「人間」の問題

 各テーマは総体的な講義の一環として有機的に位置づけられたものであり、特に③は他の諸テーマの基底部を具体的に縁取るように配慮されたものです。
 そして実際上、講義は基本的に、次のような項目順で進められました。
 ここでは、おおむね①が⑴⑵⑶⑷⑸に、②が⑹⑺⑻⑼に、それぞれ小分けされ、④⑤が<個>的実在の足下にこだわるか否かの基準で、⑽と⑾に再編されています。そして③については、⑴~⑾すべてに何ほどか関係するものの、ことさらに⑷⑸への適用に力点が置かれました。なお、①→⑴⑵⑶⑷⑸の内実について、より分析的に言えば、⑶⑷⑸は⑵の論点を一層リアルに闡明するために設定されたものです。

⑴幕末維新期の欧米人による「日本人は優秀」説
⑵幕末維新期の欧米人による「日本人は大嘘つき」説
⑶日本的共同体の構成原理=共通の時間意識+贈与・互酬関係+長幼の序
⑷日本人・日本民族のエートス=「和」+「ケガレ」+「言霊」+「怨霊」
⑸イザナキ-イザナミの日本神話vs.オルペウス-エウリュディケーのギリシア神話
⑹マクロの歴史的視点に立った「日本と世界の関係の変化」論=「単一の文化宗主国に対する上下垂直関係」から「前後左右の水平多項構造」へ
⑺日本の近代化と「第1の開国」→「第2の開国」→「第3の開国」
⑻日本のナショナリズムの問題―特に明治7(1874)年5月の「台湾出兵」に即して
⑼戦後日本の産業構造上の大転換(第3次産業)―特に消費資本主義の展開(必需消費<選択消費)に即して
⑽日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(a)⇒ソクラテス+デカルト+ルソー+アダム・スミス+カント+フォイエルバッハ+キルケゴール+ニーチェ+ハイデガー
⑾日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(b)⇒プラトン+ヘーゲル+マルクス
 

 これら各項目は、どれ一つとして、まともに対象化するなら、とても講義1回80分程度で事足りるものではありません。それゆえ、一般的に言って、限られた一講義枠で、これだけの多岐に及ぶ項目を取り扱うのは無謀な試みというほかありません。
 しかし、今の私には自負があります。
 私は永い時間―少なくも30年!―をかけて、日本人の人間観と、欧米人のそれとの違いが、とりわけ死生観に即して、身にしみて分かるようになってきました。したがって、各項目の話が冗長に流れず、決定的なエッセンスに集中できれば、11項目全部を網羅した所期の講義計画も何とか完遂できるであろうと、講義前の私は楽観していたのでした―。
 

 私が「日本および日本人とは何か」の問いを意識するようになったのは、30代前半の、生まれて初めての海外旅行に端を発します。
 私は当初、ダイビングを楽しむために、旅行社のパックツアーを利用してグアム→サイパンを、そして個人的に計画してタヒチ→ボラボラ→モルディブを旅行しました。これらの島々は、鮮やかなエメラルドグリーンに輝く漫々たる海に囲まれています。私はその自然の景観の美しさに目を奪われました。特にボラボラ島、モルディブ諸島の目も綾な景観は、しばし見とれて時間も忘れるほどのものでした。
 この旅行の際に、私は「外国人」の、特に「衣食住」の生活スタイルをじかに見聞しながら、日本人のそれとの違いをあれやこれやと、とりとめなく考えるようになりました。
 次いで、私は36歳のとき、初めてオーストリアを旅行しました。この時、ウィーン大学の関係者(教師+学生)と、またウィーンおよびザルツブルクの市井人と、何気ない会話を楽しみながら、彼ら「外国人」―何よりも欧州人―の個人としての生き方と日本人の個人としての生き方の違いにはっきりと気づくようになりました。
 やがて30代の終わりから50代前半にかけて、私は主としてフランスのパリ→イタリアのローマ→タイのプーケット→マルタのゴゾを周遊しながら、いよいよ「日本人とは何か(本質)」の問いの重要さを痛切に自覚するようになりました。
 そして50代半ばで、私はニューヨークにたどりつき、コロンビア大学東アジア研究所での約1年2ヶ月の滞在期間中(1999年8月~2000年9月)、「世界の中の日本&日本人」問題に本腰を入れて取り組むにいたりました。ちなみに、前掲の項目⑹⑺⑻の基本的な認識は、その際に養われたものです。

 翻って私の思想形成過程を考えてみると、「経済学-社会思想史」専攻の大学生時代の大きな関心事は、ヨーロッパ近代思想史でした。
 中でも、私は(1)「近代」出発の胎動的なルネサンス→宗教改革→市民革命の歴史的過程を、(2)近代資本主義の根本矛盾(自己増殖する価値としての資本)の克服を目指すマルクス主義の成立過程(ドイツ古典哲学+イギリス古典経済学+フランス社会主義⇒マルクスおよびエンゲルスの思想体系)を、(3)「宗教改革」+「資本主義」を総体的に問題化するマックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、身を入れて勉強しました。
 とはいえ、私の場合、その勉学自体に何かしら物足りなさを覚えていたのでしょう、大学最終学年の卒業論文は、近代日本最初のマルクス経済学者で、「波乱万丈の人生」を送った河上肇(かわかみ・はじめ、1879~1946)の「生涯と思想」を主題化しながら、彼の一生を貫いた「宗教的真理と社会科学的真理との統一」という彼特有の命題に注意を注ぎました。
 
 そして他方、この学問的活動の問題とは別個に、当時の私は日常的な生活態度にかかわる、ある思い(問題意識)にとらわれつづけていました。
 それは要するに、人間個人の内的世界と外的状況との「接点」の問題であり、なぜに周囲・環境世界が状況的に私自身の内的自由を抑圧するのかという問題意識でした。 
 実情に即して言えば、私は事あるごとに、周囲の状況への同調⇒同化⇒いわゆる「和」を強いる力を感じとり、そして決まって、それへの違和感を覚えつづけたものです。この点、大学紛争のような「非常時」はもとより、大学の日常的な光景全般―授業・ゼミ・クラブ活動・体育祭・学園祭・入学式・卒業式等々―もまた、私の割り切れない違和感の対象となりました。
 

 私における周囲の雰囲気や人間関係に対する違和感の問題は、何も大学生活に限られたことではありませんでした。それ以前の幼稚園・小学・中学・高校の各段階でも程度の差はあれ、私が自発的・自主的に振る舞うほどに、その違和感が膨れ上がったものです。少年時代の私は、思うところを率直に実行に移すたびに、周囲の誰彼―特に学校教師―から、「わがまま」とか「生意気」とか「自分勝手」とか「協調性に欠ける」とかの小言を浴びせられ、言動に何らかの掣肘を加えられたものです。
 今にして思えば、この少年時代以来の堆積する違和感に何とか向き合い、その客観的根拠を尋ねはじめたのが、ほかならぬ学生時代の私の思想的態度であったといえましょう。

 この違和感は人間の存在構造上、自己主張的な生命力の発露を圧迫する力を受け止めるところに生起する苦痛の感覚、その意味での「受動的苦痛」=「受苦」(フォイエルバッハの言うLeiden⇒Leidenschaft)にほかなりません。
 私自身の「受苦」の問題は、やがて大学卒業後の「会社」時代→退社後の「大学院」(教育哲学・教育思想史専攻)時代をとおして、一層具体的に顕在化し、広がりを見せていきました。その結果、私の思想世界では、次のような仮説がおいおい頭をもたげ、像を結ぶことになります。 
 すなわち、【この国の】あらゆる「集合」体が―政党でも会社でも組合でも学校でも、また官界でも政界でも財界でも学界でも法曹界でもマスコミ界でも―、当該集団への個々人(構成員)の「同化」(⇒個人の個性・創造性の圧殺)志向を、本質的に内包していること、したがってまた【この社会の】人間一人一人が当該集団の内(ウチワ)と外(ヨソモノ)との「重層的・伸縮的」な区別⇒[表層]ソト―タテマエ―オモテ―ギリ(義理)と[深層]ウチ―ホンネ―ウラ―ニンジョウ(人情)の立体構造という一種の共同体的秩序に何らかの形で寄り添って生きていること、これです。

 こうした私の仮説は、前述した30代前半からの海外めぐりによって、漸次実証されていきました。
 そこでは、何よりも私のニューヨーク体験が決定的でした。

 ↓ 9.11以前のロウアー・マンハッタン
a0200363_16252887.jpg ニューヨークは「世界で最もエキサイティングな街」、「文化が空気の中にある<眠らない街>」です。市内では、およそ170の言語が話され、人口の40%近くがアメリカ合衆国の外で生まれた人―つまり「外国人」―です。
 私はこの「人種のサラダボウル(salad bowl)」たるニューヨークを「居場所」にしたときはじめて、目から鱗が落ちる思いに浸りました。(ちなみに、当時の私の居宅は、ニューヨークが濃厚に凝集するマンハッタンの、そのマンハッタンが濃厚に凝集するミッドタウンの、40階建てアパート―日本でいうマンション―の28階の一住居でした。)
 ようやく、はっきりと分かったのです。問題点が洗い出され、疑点が解明されたのです。ここでは最低限、次の2点だけは特筆大書されなければなりません。
 
 第1に、私は日本(日本国家・日本社会)が世界の中の一国であるという当たり前の事実を全身的に認識できました。自分が生まれ育った日本という場を生まれて初めて、まっすぐに対象化し相対化することができました。 
 したがって第2に、私はあえて、自己内部の違和感=「受苦」の事実に立脚した前掲の仮説を全身的に立証できたとする自負心を誇示するものです。増上慢な態度とそしられようと、当の仮説に対して枚挙にいとまがない確証を得た私としては、いささかも動じるものではありません。 

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