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                                   2010年8月20日 安田忠郎
            連合三田会大会における「明智憲三郎」講演会のあり方

 7月24日の第6回安田塾にご参加いただき、ありがとうございました。
 いま8月半ばの酷暑の折から、私は忙中閑あり、つれづれに第6回安田塾の講演会を思い返しながら、一筆したためます。

◆ 第6回安田塾では、明智憲三郎さんの「本能寺の変」に関する講演が参会者の視聴を集め、好評を博しました。
 そして今度は、10月24日の「2010年慶應連合三田会大会」 で、同じ講演が行われます。明智さんは今や時の人、得がたいチャンスに恵まれました。
 ちなみに、通称「連合三田会大会」とは、慶應連合三田会(=慶應義塾の同窓会組織)が毎年秋に慶應義塾大学日吉キャンパスで開催する大規模な同窓会のことです。
 当該講演会では、会場の規模次第とはいえ、参会者はおそらく数百人に上ることでしょう。しかも、何より問題なのは、講演の時間帯が13:15~14:00、正味45分にすぎないこと。したがって、この状況・条件下で、「本能寺の変」の何を、どう語るべきかが、彼に端的に問われるわけです。

◆ もともと彼の「本能寺の変」論は、2時間ばかりの、まして45分足らずの講演会で話が尽きるような空疎なシロモノではありません。
 とはいえ、彼はいかなる講演の機会をも、たんなる「一場の戯れ」としてではなく、「歴史の書き変え」の好機として位置づけしていることでしょう。自著『本能寺の変 427年目の真実』は、「四百年以上にわたって伝えられてきた歴史を書き変えるという、これから先も続く壮大な取り組みにご支援を賜れれば幸いに存じます。」と強調しています。
 私はこの澎湃たる執念・気魄に心情的共感を覚えます。そして老婆心ながら、前掲書を熟読玩味した私は、彼の講演のあるべき手順・方法を主題的に一考しました。ここでは、第6回安田塾における彼の講演の仕方が検討されるとともに、今後の彼の講演ができるだけ効果的な発信性・説得性を持つための望ましい構成・段取りについて考察されました。 
 この点に関する私の主張の骨子を以下の(1)および(2)に記して、皆様のご参考に供します。彼の講演をじかに聴かれた皆様には、この私のいわんとする点に、どういう感想を持たれるでしょうか。

(1)結論的に言えば、彼の講演では「本能寺の変」の問題の核心を衝くべく、まず直截に「織田家長期政権」構想にもとづく「構造改革」の問題状況から説き起こすべきです。
 重大事はどこまでも信長の「天下布武」に伴う大改革です。彼はこれを的確に「構造改革」として主題化しました。この視点こそ、彼独自の「経営的論理思考」のなせる卓見にほかなりません。
 
 彼の講演にとって、信長による「第1次→第2次→<第3次>」構造改革に焦点を定めながら、「信長による家康潰し」→「光秀と家康の同盟」→1582(天正10)年6月2日「本能寺の変」→同年6月13日「山崎の合戦」の歴史的な成り行きを見定めることが、根本的に重要な着眼点です。
 
 そして、そこでの主要な論点を思想的脈絡に応じて、
①「土岐桔梗一揆」・「光秀と長宗我部元親の畿内・四国同盟」
②「光秀+家康+斎藤利三+細川藤孝(幽斎)による安土での談合」・「<神君伊賀越え>の作為性」・「秀吉の<中国大返し>を必然化した細川藤孝の寝返り」
③「黒人小姓・彌介がイエズス会関係者に伝えた、信長の最期の言葉」
④「『惟任退治記』における秀吉による愛宕百韻の<言葉と日付>の改竄」
 この4点に絞るべきです。
 

 さらに望むらくは、後日譚の代表見本として最低限、
(1)「春日局」問題、つまり家康が1604年斎藤利三の娘・福を孫の竹千代(後の家光)の乳母(教育係)に採用、福がその後、朝廷から春日局の称号を賜り、大奥で権勢を振るうにいたったこと、
(2)「細川ガラシャ」問題、つまり光秀の娘・玉が細川藤孝の嫡男・忠興の正室となるも、夫と舅が父光秀を裏切ったことで心に大きな傷を負い、1587年キリスト教に救いを求め、ガラシャという洗礼名を与えられたこと、
 この2点に論及できるようにしたいものです。

(2)彼の講演の成否を占う微妙なポイントは、時間配分の問題です。講演の時間に制限がある以上、少なくとも前掲の ①~④ の論点に優先順位をつけて、時間をうまく配分することが、彼にとっての検討課題です。論点①~④において、「本能寺の変」のクライマックスが②である以上、時間の割き方の点で②が最大の比重を占めざるをえないこと、これは言うまでもありません。
 限られた時間内の講演では、あれもこれも網羅するのではなく、要所を押さえて象徴的な表現に工夫をこらすことが腕の見せ所です。そして、文書資料の細部にわたる実証的展開を要する場面(例えば、論点④=前掲書第1章)では、あえて最終的な結論を提出するにとどめ、結論にいたる筋道をたどった説明を思い切って省略し、会衆に向かって「論証の詳細は自著をお読みください。」と、ためらうことなく公言するのも一芸です。

 なお、日本歴史の「書き変え=創成」の大業に挑戦する明智憲三郎の毅然として、ひたむきな態度に、私はここに改めて満腔の敬意を表する次第です。
                                   2010年8月10日 永町匡世
第6回安田塾(2010.7.24)の講演
本能寺の変 427年目の真実通説も新説も覆す『歴史捜査』―」
【講師】明智憲三郎(あけち・けんざぶろう、第一情報システムズ常務取締役)
【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室 
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 明智さんによる講演の概要を、当日配られた各種の資料をもとに簡単にご紹介します。
 大きく八つのテーマにわけて語られました。

 まず、自身の研究姿勢について
(1)「なぜ私は真実にたどりつけたか」
・今まで容認されてきた「軍記物」の記述を排除し、信憑性のある証拠のみを採用した。
・光秀の信長に対する「私情」論を排除し、光秀を一人の「経営者」としてとらえた。
・答えの先出しと、論理の後付けを排除し、証拠に基づく答えを合理的に導いた。

 そして本題へ
(2)「誰が『通説』を作ったのか」
・光秀⇒怨恨説・野望説・単独犯行説、家康⇒「神君伊賀越え」、秀吉⇒「中国大返し」などの通説。
・光秀亡き後、秀吉の命で書かれた、大村由己『惟任退治記』→江戸時代の軍記物→現代の小説やテレビドラマなどから検証。
・結論→通説(⇒俗説・虚説)を作った大本は「豊臣秀吉」。

(3)「光秀は信長を怨んでいたか」
・信長の性格や二人の仲を『惟任退治記』、太田牛一『信長公記』から検証。
・結論→信長と光秀は信頼しあっていた。光秀は信長の腹心であった。

(4)「光秀の謀反の動機は何か」
・「愛宕百韻」で光秀が詠んだ句、「時は今あめが下しる五月かな」の秀吉による改竄。
・光秀が「土岐氏」であることの重要な意味性。
・信長の国家戦略、つまり長宗我部征伐・徳川つぶし・光秀移封などから検証。
・結論→光秀の謀反の動機は「土岐氏」滅亡を防ぐため。

(5)「なぜ光秀は謀反に踏み切れたのか」
・家康の「神君伊賀越え」の真相、家康の岡崎帰着後の行動、安土城天主放火事件、イスパニア人の証言などから検証。
・結論→光秀は家康と同盟を結んでいた。

(6)「なぜ光秀の謀反は成功したか」
・信長が家康を滅ぼす最善の手とは?
・「本能寺の変」当日の家康の行動、信長の中国出陣、兵たちの証言、信長の最期の言葉などから検証。
・結論→「本能寺の変」は、もともと信長が計画した家康討ちだった。

(7)「なぜ光秀の謀反は結局、失敗に終わったか」
・秀吉の「中国大返し」、杉原家次・細川忠興・安國寺恵瓊らの行動などから検証。
・結論→秀吉はあらかじめ準備万端整えていた。

(8)「後日譚」
・家康の光秀への恩義の事例を検証。

 講演は上記①~⑧の全体的脈絡をたどりながら行なわれました。

★☆ 明智さんは今、使命感に導かれて、400年以上にわたって歪曲されてきた歴史を書き変えるという難事に敢然と挑まれています。「本能寺の変」の真実を天下に普及するために、2009年3月に『本能寺の変 427年目の真実』(プレジデント社)を著わし、2010年1月2日にブログ「明智憲三郎的世界 天下布文!」を自ら開設し、そして数多の講演活動を積極的にこなしつづけて、現在にいたっております。
 皆様へ
                                   2010年8月5日 安田忠郎
                   第6回安田塾を終えて

▲ 第6回安田塾(7月24日)の例会・「明智憲三郎」講演会は、これまでを倍加する計62名が参集し、盛会裏に終わりました。
 今回の特筆すべき点は、初の参加者が36名の多きに上ったこと、中でも慶應義塾大学卒業生が19名、武蔵野市在住の「一般市民」が13名を数えたことです。
 また、武蔵工大教職課程修了生としては、愛知県の中学教師・酒井昌明さん、富山県の高校教師・高木義春さん、ご両人が遠路わざわざ足を運ばれ、(講演会→懇親会→2次会を通して)私との再会の時間を享受されたこと、これは私にとって望外の喜びでした。
 
 今回は安田塾の今後の運営上、持続可能な文化活動の視点から数々のヒントを得た集いとなりました。

▲ 私は例会の劈頭で「歴史とは何か(序説)―私の歴史体験に即して―」と題して、30分ばかり前座を務めました。ここでは歴史とは結局、人間存在の基底に関わる問題である点に触れながら、私のこだわり続ける日本史上の決定的な事件(謎)として、①1867年「孝明天皇」崩御の謎、②663年「白村江の戦い」の謎、③1582年「本能寺の変」における「彌介(やすけ)」―織田信長に仕えた黒人小姓(アフリカ生まれの黒人奴隷)―の行動の謎、この「三つの謎」を簡潔に問題化しました。

▲ 明智さんの講演「本能寺の変 427年目の真実―通説も新説も覆す『歴史捜査』―」は、2時間余にわたって会衆の耳目を集めました。
 そこでは、参会者各自の歴史感覚を刺激し純化するのに十分な内容が語られました。事後、数名の参会者から「臨場感あふれる講演から多くを教わった」旨のメールが私に寄せられたほどです。

 ところが、「明智さんを囲む」懇親会の方に、問題がありました。出席者は31名の適正規模に収まったものの、会場は3000円程度の会費のしからしめるところ、「居酒屋」然としてしまいました。
 2時間の「懇親」会では、顔見知りどうしが思い思いに盛り上がるばかりで、初対面の人どうしの出会いの場にそぐわない雰囲気がみなぎりました。
 私は常日頃、いかに対等な人間どうしの社交的コミュニケーションを図るかに腐心し、そして「一期一会」の思想を自ら持してきました。
 しかし今回、私としては素直に、至らなさを反省しております。多士済々の顔触れがそろった「懇親会」であったにもかかわらず、会の実質を活かしめるための配慮が欠けていた、と。