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                                    2013年1月1日 安田忠郎
                      
                 第6回教員免許状更新講習を終えて

 私は2008年に財団法人・大学セミナーハウス主催の「教員免許状更新講習」のプロジェクトリーダーを務めました。そして、2009年に法人の「教員免許更新センター」長に就き、同講習を推進しつづけてきました(安田塾メッセージ№1~3参照)。[なお、大学セミナーハウス(〒192-0372 東京都八王子市下柚木1987-1、1965年開館、通称「八王子セミナーハウス」)は、2011年4月1日付で公益財団法人に移行する。]

 第6回教員免許状更新講習は昨年(2012年)12月24日~27日に開かれました。
 ここでは、4日間にまたがり、必修4講座(A1~A4、各3時間・計12時間)+選択6講座(B1~B6、各3時間・計18時間)=総計10講座(30時間)が開講され、各講座⇒全講座の試験に合格すれば修了証が交付されます。

 各講座名→担当講師は、次の通りでした。
A1【現代の学校教育が問われているもの】 
  →私・安田    
A2【現代心理学からみた子どもの発達と教育】 
  →高垣マユミ(実践女子大学生活科学部教授)
A3【学校改革・教育改革】 
  →私・安田
A4【安心・安全な教育環境づくりと危機管理体制】 
  →内藤昌孝(元神奈川県立教育センター所長)
B1【何のための教師~「子どもから」神話からの解放をめざして~】 
  →山内芳文(聖徳大学児童学部教授)
B2【現代日本社会における子どもの問題行動と教師の役割】 
  →私・安田
B3【異文化理解と共生の教育】 
  →小川彩子(米国州立シンシナティ大学UCBA助教授)
B4【教師のための環境サイエンス~日本の近代化と環境問題・環境教育~】 
  →吉田真史(東京都市大学知識工学部教授)
B5【グローバル教育者に変身!】 
  →小川彩子
B6【日本人の「人格形成」における特殊日本的エートス~日本文化のアイデンティティに即して~】 
  →私・安田 

 私の各講座内容の主要項目をかいつまんで告げると、
A1【現代の学校教育が問われているもの】 
(1)日本と世界の関係の一大構造変化
 ・「単一の文化宗主国に対する上下垂直関係」から「前後左右の水平多項構造」へ
(2)日本の「近代化」と学校教育の歴史
 ・幕末維新期=「第一の開国」」⇒「第一の教育改革」
 ・太平洋戦争前後=「第二の開国」」⇒「第二の教育改革」 
 ・現在=「第三の開国」」⇒「第三の教育改革」
(3)教師とは何か
 ・教師聖職論―「師範学校令」(1886年)
 ・教師労働者論―日教組「教師の倫理綱領」(1952年)
 ・教師公務員論
 ・教師専門職論―ILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」(1966年)

A3【学校改革・教育改革】
(1)「学力」の構造と「学習指導要領」の変遷―経験主義vs.系統主義
(2)1890年「教育勅語」と1947年「教育基本法」
(3)「教育基本法」の改正(2006年)
(4)戦後日本社会に民主主義は定着しているか
(5)幕末維新期に来朝の欧米人が展開する「日本及び日本人」論
(6)教育における「定期航路方式」と「大航海方式」

B2【現代日本社会における子どもの問題行動と教師の役割】
(1)1973年「石油ショック」に伴う、戦後日本の産業構造上の大転換
(2)高度経済成長と教育拡大(教育爆発)
(3)戦後の青少年問題・教育問題
 ・1968年10~11月「永山則夫連続射殺事件」
(4)1970年代後半以降に噴出する「学校病理」現象
 ・1977年10月「開成高校生殺人事件」
 ・1986年2月「中野富士見中学いじめ自殺事件」
(5)日本社会の「国際化」に対応した教育のあり方
(6)教師の「力量」とは
(7)「信頼される大人・教師・学校」となるために

B6【日本人の“人格形成”における特殊日本的エートス―日本文化のアイデンティティに即して―】 
(1)日本人とは何か―日本民族の伝統的な考え方(宗教)
 ・日本的共同体の構成原理
 ・「和」の信仰
 ・「ケガレ」忌避の信仰
 ・「言霊」信仰
 ・「怨霊」信仰
(2)日本人とは何か―日本人の精神構造の核心
 ・イザナキ-イザナミ神話と「見るなの禁止(タブー)」(『古事記』)
 ・ギリシア神話におけるオルペウスとエウリュディケー
 ・ソクラテスの「ギュゲスの指輪」(プラトン『国家』)
 ・「恥‐原悲」vs.「罪‐原罪」

 同講習は第1回このかた世評を得て、第2~5回は定員60名を大幅に上回り、今回もまた小中高の教職経験者81名(現役69名+非現役12名)が受講しました。 

 ≪受講者81名の内訳≫
 性別―男44名、女37名
 年代別―30代21名、40代31名、50代29名
 学校別―小学校13名、中学校23名、高校20名、中学高校9名、養護学校1名、特別支援学校3名、その他12名(非現役)
 都道府県(現住所)別―東京31名、神奈川22名、埼玉10名、山形・千葉・山梨・長野各2名、岩手・宮城・福島・栃木・茨木・静岡・大阪・岡山・佐賀・沖縄各1名

 受講者はこぞって、4日にわたるハードなスケジュールに追いまくられながらも、全講座に熱心に取り組み、講習を無事終えることができました。彼らは各講師の話をとくと聞き、きちっと理解しようと一筋に努めていました。

 講習の終了後、受講者全員に「本講習・各講座の具体的内容」に関するアンケートが実施されました。
 結果、アンケートの回答者81名(無記名8名+記名73名)の大多数が「講習」全般に高い評価(自由意見)を下しました。好評嘖々(さくさく)たるものがありました。その一端をうかがうと、

・西影芳一さん(50代の非現役)いわく、「受講する前は、どうせお上の作った下らない制度だから早くこういう制度がなくなったらいいと思っていた。しかし実際、受講してお世辞ではなく、本当に有意義で受講料がかえって安いくらいに思えた。安倍晋三氏が意図したものとは違っているのかもしれないが、この内容なら免許状更新の制度は正解だったような気がする。講座内容の細かいことなら少しは問題もあろうが、私は本当にここで受講して良かったと思っている。」
・永島良幸さん(40代の高校教諭)いわく、「とても良かった講習でした。講師の先生方はとても真面目に取り組み、とても良い雰囲気でした。私自身、当初は申請講習そのものに否定的でしたが、講義を聞くうちに、考えも変わりました。それもひとえに先生方のおかげだと思います。今後の私の教員生活に活かせることがたくさんありました。」
・下田知子さん(30代の高校教諭)いわく、「正直なところ、はじめは“めんどうだなあ”という気持ちが強く、ただ“聞く”だけの講義かと思っていましたが、色々と考えさせられることが多くあり、大変勉強になりました。」
・谷中哲也さん(40代の中学高校教諭)いわく、「はじめは30時間の講習!とおびえていましたが、実際の4日間は実に楽しく面白く受講できました。大学生のときよりも経験を積み、知識も蓄えたからか、一睡もせずに!講師の先生方のどんな話も真剣に聞き入り、その考えと経験に本気で学びました。講習を終えて実感したことは、自分は何もわかっていない!ということです。これから先いつまでも、あらゆることを貪欲に学び続けていきたいと、今回思いを新たにした次第です。」
・石井一史さん(30代の中学教諭)いわく、「正直30時間というのはかなりキツかったのですが、どの講師の先生も個性豊かで、とても熱心に教えて下さり、先生方の一挙一動がとても印象に残っています。また全国から集まった先生方とも交流する機会があり、貴重な体験となりました。4日間、長いようで短いものでした。ありがとうございました。」
・町田孝一さん(50代の中学教諭)いわく、「予想していたよりも格段に充実した受講ができました。日常の勤務の中では、なかなかできない経験でした。講師の方々に感謝します。」
・神田美由紀さん(40代の中学教諭)いわく、「この講習に参加できて本当に良かったと思いました。自分が信じてきたこと、拠りどころとしてやってきたことが、これで本当にいいのかと見直すことができる、いい機会になりました。4日間、常に『今のままでいいのか?』と疑問を投げかけられ、心がゆさぶられ続けていました。」
・椹 真幸さん(50代の特別支援学校教諭)いわく、「たいへん勉強になりました。本講習会に参加して良かったです。講師の先生方もそれぞれ個性的な方ばかりで、すばらしかったです。全体を通して、自分が『学んでいく』姿勢、“自ら考え、行動し、学ぶ”ことの大切さを知りました。ありがとうございました。」

 そして、多岐に分かれる各「講座」評(自由意見)の場合、私の担当する4講座が受講者81人中の30人によって対象化され、30人すべてからポジティブな評価を得ました。
 その評言の多くは、人生の妙諦を知る熟年のオジサンの琴線に触れるものでした。教育者冥利(みょうり)に尽きると言うべきでしょうか。例えば、私の学問的な価値を見分ける彼らのまっすぐな言葉の一端は、次のようなものでした。

 和田吉重さん(50代の養護学校教諭)いわく、「受講スケジュールをもらって、一番気がかりだったのは、全講座の十分の四を担当する安田さんがつまらない話をする人だったら、どう時間をやり過ごそうかということでした。結果、取り越し苦労で終わってよかったです。逆に大変よい刺激になりました。教養と批判的精神について学ぶところ大でした。」
 藤田 聡さん(40代の高校教諭)いわく、「私にとって毎日、安田先生のお話を聞くことができたのは幸運でした。先生の数々の問題提起を真剣に受け止め、大いに考えさせられ、触発されつづけました。批評家・思想家といってよい広い教養とそれを総合してテーマ化していく先生の力には敬服しました。」
 長井友理子さん(40代の中学教諭)いわく、「安田先生の講座に、全般的に共鳴と申しますか、納得いくところがありました。もともと“歴史的なもの=『流れ』を知りたい”という気持ちが強いものですから、ハマったのだと思います。先生のいう『鳥の目』と『虫の目』、両方必要なのが教育現場ですので、改めて自分の得手・不得手を確認し、偏りのない教育活動に取り組みたいと思います。」
 樋口 崇さん(30代の中学高校教諭)いわく、「安田先生の講座では、学校教育の諸問題の背景がよく理解することができ、今後の教員生活の中でどう考えるべきかの方向性を見いだすことができました。」 
 宮寺由香さん(30代の小学教諭)いわく、「安田先生のお話は、日本及び日本人の歴史的・文化的背景を盛りだくさんに丁寧に説明していたので、消化不良を起こしながらも、私なりに必死に110%くらい頭を働かせて聞いたり考えたりしました。これから毎日5分でも10分でも幅広く勉強するようがんばります。」
 吉田明宏さん(40代の小学教諭)いわく、「安田先生の各講座は、興味深く拝聴いたしました。講座の『柱』『テーマ』をしっかりお持ちであることを感じられたからです。」
 竹内知子さん(40代の非現役)いわく、「安田先生の講座は4コマ通じて一貫性があり、とても面白い話の連続でした。」 
 小辻裕美子さん(50代の小学教諭)いわく、「安田先生の講座はどれも、さらに詳しく学び直したいと思えるもので、その意味で今回の講習はたいへん意義深いものだった。」
 佐合弦一さん(40代の中学高校教諭)いわく、「安田先生の授業は、これは知っておくべきだったと思うことが多く、日頃もっと研鑽すべきと思わせる充実した内容を伝えてくれました。また、先生がしばしば使われた『…に緊張感を持つべき』という言葉が私の耳の奥に響きました。」
 無記名の意見:「安田先生の講座A1・A3では、歴史的文脈の中で現在の学校教師の立つ位置が考察されており、それは教員生活の日常的業務にいたずらに追いまくられる私にとって、とても有意義なものでした。」

↓ A1 講座(2012年12月24日12:30~15:30)
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↓ B6 講座(2012年12月27日12:30~15:30)
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                                   2011年12月5日 谷川建司
                      

 私は第12回安田塾(2011年10月29日)で、「ハリウッドと日本のアカデミア」と題するお話をしました。
 話の前半は、日本のアカデミアにおける映画のポジションに関するものでした。
 このテーマに関連して、私は以前、“日本における映画研究がどのような状況にあるのか”を考察し、「日本の映画研究の動向と日本映画の現状」という文章にまとめました。それは直接的には、日本のポピュラー・カルチャーを学ぶ香港大学の知人から依頼されたものでした。
 今回、講演の機会に恵まれたこともあり、同文を安田塾ブログに投稿させていただきます。
                     
              日本の映画研究の動向と日本映画の現状
はじめに
 本稿では、日本映画、日本の映画作家、そして日本の映画産業界の状況などに関心を持ち、これを学問の対象として取り上げていきたいと考えるような、大学院クラスの研究者を主たる読者と想定して、彼ら・彼女らにとって研究を始めていく上でのベースとなるような基本的情報―具体的には、日本において映画というメディア/芸術形態/娯楽が発達してきた過程の中で、それが学問の対象としてどのように取り上げられてきたのかについての概観、そして現状において日本の映画産業界がいかなる状況下にあって、今後いかなる方向に向かいつつあるのかについての現状分析―を整理することを目的としている。

1. 日本にフィルム・スタディーズという学問領域は確立されているか
 周知のごとく、フィルム・スタディーズといえば欧米では歴史も実績もある研究分野のひとつとして長年にわたる研究の蓄積がなされてきた。大学などの高等教育機関においてもフィルム・スタディーズを専門的に教える大学、学部、学科というのは珍しくはなく、映画を扱う学問領域の総くくりとしてのフィルム・スタディーズという枠組みが大事にされ、そのイメージがある程度共有されているように思える。
 だが、日本においてフィルム・スタディーズ、あるいはそれをそのまま日本語に訳した場合の映画学という学問領域がきちんと体系だって確立されていて、その学問領域の扱う対象やそのアプローチ方法などについての共通の認識が確立されているか、と問うたときに、残念ながらそれに対してはどちらも“否”という答えが返って来ざるを得ない。
 しかしながら、それは日本において映画の歴史が学問の対象にするだけの十分な長さや質を備えてこなかったわけでも、映画に関する言説の絶対量が少ないからというわけでもない。日本の映画の歴史はすなわち映画というメディアそのものの歴史と同じだけの長い蓄積を有しているし、映画についての言説の絶対量についても(一概に他国と比べて多いか少ないかということは言えないにしても)、むしろ膨大なものであると言うことが出来よう。では、なぜ日本ではフィルム・スタディーズあるいは映画学と呼べるような学問が体系だって確立されていないと考えられるのか。
 理由のひとつは、フィルム・スタディーズあるいは映画学を専門領域とする者であれば須らく所属しているような、その学問領域の母体となるべきプラットホームとしての学会が存在していない現状に端的に示されている。もちろん、日本映像学会や日本マス・コミュニケーション学会のように、映画に関する研究を大いに扱い得る学会というものはあるにしても、共通の作法としての研究のアプローチ方法やバックグラウンドを持つわけではない個々の研究者がそれぞれの庭において研究し、発表しているだけで、互いに交流がほとんどないというような現状が認められるのである。
 美学・哲学・文学といった人文科学系の研究者が映画を研究対象として扱う場合、ほとんどの場合は表象文化論という言葉に集約されるような、映像のテクスト分析の手法を唯一絶対のものとして信奉する傾向がある様に思われる。しかしながら、一方で映画というものを産業として、あるいは制度・文化政策・オーディエンスに対する効果といった社会科学的な関心から研究対象として取り上げる場合は、あくまでも実証的なデータというものに頼った社会学のアプローチ方法になる。
 平たく言えば、たとえば文学研究と同じ手法で映像作家の作品を分析するとしたら、文学において作者の個人的体験がいかにその作品に投影されているかというような、表現者の側の考え方、映像に込めた意味が絶対的に重要であるとみなされるのに対して、筆者を含めて社会学を学んできた立場で言えば、映画作家が自身の映像にどのような意味を持たせているかについてよりも、大多数の観客がその映像作品をどのように受け取ったかの方が意味としてははるかに重要であり、映画というものは流通の仕組みに乗り、観客と接してはじめて何がしかの意味を持つ、というのが映画研究の立脚点ということになる。
 こうした、同じ映画という研究対象に関心を持つ研究者であってもそのスタンドポイントの違いによって相互に繋がりを持たず、したがって両者に共通した尺度を持つ同業者による本当の意味での吟味(ピア・レヴュー)が行われることなくそれぞれに独自に研究が行われているというのが、日本の映画研究の現状であり、問題点であると言えよう。
 もうひとつの理由は、映画に関する重要な研究というものが、必ずしも学術論文というフォーマットに含まれ得る範囲だけに存在しているわけではない、ということである。実際のところ、個々の映画作品や映画作家についての言説のほとんどのものは、論文ではなく評論やエッセイというカテゴリーに入れられるものであり、どういったフォーマットの場合に学術的な価値があり、どういった場合はないのかという基準を作ること自体が難しい。論文としての体裁を整えていないものを日本の映画研究の過去の蓄積から除外してしまうとなると、かなりの数の重要な研究が考慮されないことにもなりかねないのである。これはつまり、映画という関心対象に関して言えば、アカデミズムとジャーナリズムの線引きなど実はあまり意味を持たないということでもある。
 ともあれ、本稿においては、人文科学的映画研究と社会科学的映画研究との間の乖離、そしてアカデミアにおける映画研究と映画ジャーナリズムとの曖昧な区別、といった問題意識を前提としながらも、それらすべてを含めた形での“映画研究”というものがあるとヴァーチャルに仮定して、その歴史や現状について考察していくことにする。

2. 日本における映画研究の潮流と傾向
 日本における“映画研究”の歴史を概観する上で、まずは便宜的にいくつかのカテゴリーに分けて考えてみたい。具体的には以下の五つのカテゴリーである。
(1)映画書誌
(2)映画史研究
(3)映画作家・映画人研究
(4)映画作品論・ジャンル研究
(5)映画政策論・映画産業・観衆論
 以下、五つのカテゴリーそれぞれについて若干の整理を試みたいが、本稿においては紙幅の制限もあるため、比較的近年になって刊行され、入手し易い文献資料についてのみ取り上げることにし、より詳しい日本の映画研究の動向については以下の二編の論文を紹介することによって、関心のある方への便宜としたい。すなわち、映画の黎明期から戦時中にかけての概観としては、牧野守「映画書誌の創生と年鑑に到る映画ジャーナリズムの動向」(岩本憲児・牧野守監修『映画年鑑』昭和編別巻Ⅰ、日本図書センター、1994年)、また戦後の概観については、谷川建司「“戦後の映画”についての研究動向」(メディア史研究会編「メディア史研究」Vol.18、ゆまに書房、2005年)である。

2-1. 映画書誌
 日本における映画研究史にあっては、その黎明期からかなり自覚的に映画書誌編纂への努力がなされてきた。近年の成果の多くはそれらの恩恵の上に初めて成り立っているものであるが、映画図書については辻恭平『事典 映画の図書』(凱風社、1989年)、日外アソシエーツ『映画・音楽・芸能の本 全情報45/94』(1997年)、『映画・音楽・芸能の本 全情報95/99』(2000年)が、映画雑誌については本池陽彦『日本映画雑誌タイトル総覧』(ワイズ出版、2003年)が手頃な情報源であろう。

2-2. 映画史研究
 日本における映画研究の中で、叢書のような形で映画史家の多くが加わったような日本映画通史の決定版的なものはまだなく、個人として佐藤忠男が『日本映画史』全4巻(岩波書店、1995年)を出したのが目立つくらいである。森話社の『日本映画史叢書』全11巻(2004年~)はテーマ別編成で通史ではない。岩波書店の『講座日本映画』全8巻は資料紹介とエッセイであり、あとは個別の時期や場所にのみ焦点を絞ったものということになるが、それらについては数多くの映画研究者がそれぞれ意欲的な研究成果を著している。

2-3. 映画作家・映画人研究
 映画作家研究は古くから盛んであるが、それは即ち日本における映画研究が“作家偏重主義”的傾向を有していたことの証でもある。黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男といった黄金期日本映画の巨匠たちに始まり、増村保造、鈴木清順、岡本喜八のようなプログラム・ピクチュア時代における作家性の強い監督たち、そして北野武、宮崎駿、押井守といった現代における影響力の強い作家に至るまで、作家研究は主として文学・表象文化論の立場からの研究として盛んであり、かつ欧米におけるフィルム・スタディーズの場合と同様に研究対象がマイナーな方向へと蛸壺化していきつつある。作家研究においては作家名での検索が容易なので具体的な研究成果を紹介することは割愛するが、ちなみに俳優論についても同様の蓄積と、同様の蛸壺化の傾向がある。しかしなから、プロデューサーや撮影監督、それ以外の映画人研究となると途端に心許ないというのが現実であろう。

2-4. 映画作品論・ジャンル研究
 映画作品論として取り上げられる個々の作品というのは、上記の映画作家研究と当然ながら密接な関係があり、各論としての個々の作品論を積み重ねた上に作家論があるという側面がある。従って、近年の映画作品論として目に付くものも、上に挙げている作家についてのものが多い。千葉伸夫「置換・表象・歴史――『ペール・ギュント』から『雨月物語』へ」(四方田犬彦編『映画監督 溝口健二』新曜社、1999年)、斉藤綾子「失われたファルスを求めて――木下恵介の“涙の三部作”再考」(長谷正人・中村秀之編著『映画の政治学』青弓社、2003年)、與那覇潤「小津安二郎と帝国史の方法――ひとつの〈反〉ポストコロニアル批評」(坂野徹・慎蒼健編『帝国の視覚/死角――〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社、2010年)、「黒澤明研究会」を主宰する都築政昭による黒澤明の個々の作品論シリーズ(朝日ソノラマ刊)などが目に付く。ジャンル研究はまだ手薄感があるが、たとえば日活無国籍アクション映画とか岩波映画(文化記録映画)などのようにそれまであまり光が当てられていなかった分野に対して研究対象として取り上げようという動きが顕在化しているのは今後の日本映画研究のひとつの方向性として注目に値する。

2-5. 映画政策論・映画産業・観衆論
 社会科学的映画研究として近年最も目覚しい進展を見せているのがこの分野である。具体的には、映画政策論として戦時中の国家による映画統制・検閲などへの関心が高まっていて、ピーター・ハーイ『帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画』(名古屋大学出版会、1995年)、加藤厚子『総動員体制と映画』(新曜社、2003年)、牧野守『日本映画検閲史』(パンドラ、2003年)といった意欲的な研究成果が発表されているほか、加藤幹朗「映画館と観客の歴史―映画都市京都の戦後」(「映像学」第55号、1995年)、谷川建司「戦後映画における観衆」(吉見俊哉・土屋礼子責任編集、叢書・現代のメディアとジャーナリズム4『大衆文化とメディア』ミネルヴァ書房、2010年)といった観衆論などが発表されている。だが、映画産業論というカテゴリーに関してはまだまだ本格的な研究が出て来ているとは言えず、最も今後の発展の余地がある分野であろう。

3. 日本の映画産業の現状
 前節で五つのカテゴリーに分けて状況を整理した日本における“映画研究”の近年の成果の中で、手薄感のある領域として挙げたのは作家・俳優以外の映画人研究、映画ジャンル研究、そして映画産業論ということになるが、その中でも特に映画産業論というカテゴリーがアカデミックな研究として成立することがなかなか難しいのは、日本における映画産業の構造というものがその時代、時代によって大きく変質していて、かつ史的分析を試みることで現在の状況に照らし合わせて現状への理解を深めようにも、現在の日本の映画産業の状況そのものが刻々と変質してきており、たとえば昨年の状況を分析して論文としてまとめたとしてもそれが今年にはすでに古い状況についての陳腐な分析とならざるを得ない、という現実があるからではないかと思う。
 以上のような認識に基づいた上で、敢えて2011年初めの時点での日本の映画産業界の状況というようなものを整理するとしたら、以下のような項目を立て得るであろう。
(1)テレビ局主導のメインストリーム系と小規模インディペンデント系への二極化
(2)ワーナーのローカル・プロダクションの台頭
(3)産学の連携の顕在化
 以下、この三つの視点から若干の整理を試みたい。

3-1. テレビ局主導のメインストリーム系と小規模インディペンデント系への二極化
 テレビ局が日本映画の製作に深くコミットするようになったのはけっして最近のことではない。1997年に『もののけ姫』に抜かれるまで日本映画の歴代興行収入の第一位を占めていた『南極物語』(日本ヘラルド=東宝、1983年)はフジテレビとの提携があって初めて国民的映画というポジションを獲得することが出来たと言える。この成功を受けて、その後在京キー局各社はこぞって日本映画の製作に積極的にコミットするようになり、今日ではむしろテレビ局こそが日本映画政策の中心的ポジションにいて、東宝、松竹、東映などの邦画各社はその枠組みがなければ立ち行かず、独自でのヒット作製作はなかなか難しいというような主客逆転の状況にさえなっている。
 2009年から2010年にかけての作品で言えば、日本テレビの『おっぱいバレー』、『BECK』、『借りぐらしのアリエッティ』ほかのスタジオ・ジブリ作品、『インシテミル 7日間のデスゲーム』、TBSの『ROOKIES 卒業』、『ゼブラーマン―ゼブラシティの逆襲―』、『ハナミズキ』、『大奥』、『SOACE BATTLEP ヤマト』、フジテレビの『海猿』シリーズ、『踊る大走査線』シリーズ、『のだめカンタービレ』前後編、『矢島美容室 THE MOVIE~夢をつかまえネバダ~』、『ノルウェイの森』、テレビ朝日の『TRICK』シリーズ、『ドラえもん』シリーズ、『クレヨンしんちゃん』シリーズ、『仮面ライダー』シリーズ、『十三人の刺客』、テレビ東京の『アウトレイジ』、『きな子 見習い警察犬の物語』、『ポケットモンスター』シリーズ、『NARUTO』シリーズ、『ゴースト』、といった日本映画の話題作のほとんどすべてがテレビ局主体(=製作幹事会社)の製作となっている。
 一方で、小規模インディペンデント系というのは、まず興行面において地盤沈下の著しい洋画(外国映画)と同様に小さな公開規模によって何とかニッチのビジネスとして成立している感がある。但し、その中で『春との旅』、『鉄男 THE BULLET MAN』、『ソラニン』といった作品で存在感を見せているアスミック・エースにしても、『大奥』、『武士の家計簿』では松竹との共同配給、しかも前者はTBS、後者はテレビ朝日と組むことによってメインストリーム系の作品へのアップグレードによって生き残りを図っている。

3-2. ワーナーのローカル・プロダクションの台頭
 洋画配給会社であるワーナー・ブラザース映画は、中堅規模の洋画配給会社の倒産が相次ぐなど、洋画離れが著しいここ数年の配給ビジネスの中にあって、ドル箱の『ハリー・ポッター』シリーズなどの安定した作品を有しているハリウッド・メジャーの会社であるが、ここ5~6年、積極的に「ローカル・プロダクション」という戦略に力を注いでおり、着実に日本映画の一翼を担う存在になりつつある。
 ワーナー製作による日本映画としては『キューティーハニー』(2004年)あたりが先駆けということになるが、2006年の『デス・ノート』前後編のヒットで弾みをつけ、2008年には『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』、『ICHI』、『252生存者あり』、2009年には前述の『おっぱいバレー』(日本テレビ、東映と共同)、『GOEMON』(松竹と共同)、『サマーウォーズ』、『TAJOMARU』、『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』と着実に実績を積み上げ、2010年には日本テレビと組んだ前述の『インシテミル 7日間のデスゲーム』のほか、満を持して本格的時代劇『最後の忠臣蔵』を公開させた。
 ハリウッド映画の場合、そもそも監督にしろ、俳優にしろ、世界中から才能のある者を呼び寄せて発達してきたという歴史的経緯があり、主たる資本がどこから供出されているかということ以外に映画の国籍というものはほとんど意味を持たない。そのハリウッドのメジャー・スタジオが全世界マーケットを視野に入れつつ、世界各地のローカルな映画製作に乗り出しているという現実が、日本の映画産業界に今後どのような影響をもたらしていくのかについて、注視して行かなければならないだろう。
 そしてまた、ワーナーの成功を受けて、ほかのメジャー・スタジオもまた同様のローカル・プロダクションに大きく舵を切っているように見受けられる。たとえば、20世紀フォックスは2009年に『群青 愛が沈んだ海の色』、フジテレビと共同の『サイドウェイズ』で本格参戦し、パラマウントも2010年に自社のヒット作品のリメイクに当たる『ゴースト』を製作、またユニヴァーサルはキアヌ・リーヴス主演による『忠臣蔵』を3D方式によって2012年に公開予定、とまさにナショナルからトランスナショナルへの変貌によって日本映画そのものの定義を再考しなければならないような転換期にあるということが出来るだろう。

3-3. 産学の連携の顕在化
 「産学の連携」というキャッチ・フレーズはこれまでどちらかというと「学」、つまり大学という組織のアウトリーチ活動や、国立大学の独立行政法人化に伴う競争原理の表面化といった状況とともにクローズアップされてきた感があるが、こと映画産業界における「産学の連携」ということになると、前述のような日本の映画産業の構造の劇的変化という状況の中で、映画産業界側にこそ危機感が強く、大学と提携することによってコストダウンやポストプロダクションの効率化といったメリットを得ようと積極的に動いてきたという印象がある。
 具体的には、2007年に京都の立命館大学が映像学部を新設した際に、松竹京都撮影所と京都府が提携することになり、松竹の撮影所内に立命館大学のための実習室が設けられ、山田洋次監督が客員教授として同大学に迎えられたことが先駆的な事例である。この提携の成果としては、山田監督の演出の下で同大学の学生たちがスタッフとして働き、京都市内にて撮影した『京都太秦物語』(2009年)のようなアウトプットが現われ始めている。
 その後、2009年には東宝と早稲田大学との提携も発表された。こちらはそれ以前から、東宝が早大の開発したネットワーク技術を用いたポストプロダクションの効率化を図ってきたというが、提携の発表後は撮影所内に大学の研究室が設けられたりして、より一層の関係強化が図られてきている。その成果としては、『のだめカンタービレ』のCG映像などに役立てているという。
 日活と城西国際大学の場合は、日活が人材育成のために運営してきた日活芸術学院と、城西国際大学に新設された映像芸術コースとの間でカリキュラムを共有する形で、かつてそれぞれの映画会社の中にあったものの、今では失われてしまった人材育成機能を復活させようとしている。
 こうした「産学の連携」は、まだまだ試行錯誤を繰り返す中でその方向性が定まっていく途中の段階であると言えるが、大学、すなわちアカデミアという枠組みの中でも映画を中心とする映像を本格的に学問体系として位置づけて、運営の柱にしていこうという方向性は間違いなく存在しているように見受けられる。たとえば、既に15年の実績を持つ専門学校、デジタル・ハリウッドが本格的に大学、大学院としての教育を開始したり、やはり専門学校であった東放学園が2006年に映画専門大学院大学を設立したり、日本映画学校を母体とする日本映画大学が2011年度からスタートする予定であったり、と俄かに映画を学ぶ大学というのが活況を呈し始めている。

おわりに
 以上見てきたような刻々と変わり行く日本の映画産業界の状況と、アカデミアにおける映画研究の方向性とは、いったいどのように今後リンクしていくと考えられるか。そのひとつの可能性として、昨年(2010年)刊行されたばかりのある映画研究書がヒントを与えてくれている。それは、ミツヨ・ワダ・マルシアーノ『デジタル時代の日本映画――新しい映画のために』(名古屋大学出版会)という本で、前節で述べたようなナショナルなものからトランスナショナルなものへと映画が移行し、さらにそこにデジタル技術の進展がコンテンツに及ぼす影響といった観点での目配せも併せ持った論考となっている。
 一時期の“クール・ジャパン”というような日本のコンテンツ産業の海外におけるアドヴァンテージがアニメやマンガ、TVゲームといったもののみならず、“100年前のニューメディア”であった映画においても当てはまるものになり得るか/当てはまるものであり続けることができるか、という問いへの答えは、ある意味で現在バランスを失ってどちらに傾くか転がるかわからないように思える日本の映画産業界のこの先5年、10年の状況を注意深く見て行かなければ見つからないだろうが、日本の映画研究にあっては、そうした日々の変化を見つめつつ常に自らの立ち位置を確認し続けることこそが求められるのではないだろうか。
                                   2011年9月30日 安田忠郎                                       
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(5)

【急】 月のない闇夜

 [Ⅰ] 私学の自主性(安田塾メッセージ№34・35)

 [Ⅱ] 私学の公共性
 私立学校法の第1条は、「私立学校の健全な発達を図る」ために、「自主性」のほかに、「公共性」の重要性について定めている。(ちなみに、この公共性の在りどころは、すでに【急】[Ⅰ]および【破】(1)(2)の問題設定に応じて、暗に示唆されている。)
 日本人は「公共性」ないし「公共」といわれて、何か分かった気になり、つい公会堂とか公園とか図書館とか、or 都市交通とか衛生局とか清掃局とか、そういう国家や都市に近い場所的なものを連想する。
 「公共性」という言葉は、もともと英語のpublicityから明治以降に翻訳されて生まれた言葉(翻訳語)である。
 publicityないしpublic とは、西欧の個人が国家や社会と対決し、長い年月をかけて市民として形成されていく過程で生まれた「市民的公共性」のことである。欲望を持つ個としての「私」が市民生活の中で欲望相互の対立が生じないように調整する必要が出てくる。欲望を満たしながら全体の平和を考えようとする時に生まれているのが「市民的公共性」にほかならない。
 publicity(⇒公共性)は欧米の歴史的現実の中でつくられた概念であり、独語のÖffentlichkeit(⇒公共性)の場合は端的に「開かれている」ことを含意する。
 [ちなみに、西欧における【個人】の起源は12世紀であり(その切っ掛けはカトリック教会における告解の普及と都市の成立⇒「12世紀ルネサンス」)、そして18、9世紀には西欧独自の【市民】が誕生している。]
 

 日本語の「公共」自体は、「公(おおやけ)」という言葉から来ている。訓の「おほやけ」は、「大(オホ)+家(ヤケ)」、大きい家の意のこと。つまり、古代から公(おおやけ)は天皇家を中心とした支配者の家のことを言う。  

 問題は日本では、この公(おおやけ)が一般に「公(コウ)」⇒共同体ととらえられ、したがって「官」(政府と直結している機関)と公の区別がつかなく、公―ひいては翻訳語の公共―が国家と区別されていないことである。日本の現実においては、官と公が密着しており、官とはっきり区別できるような形で公は形成されていない。(ex.役人を「官僚」or「公務員」と言う。また、役人の住まいを「官舎」or「公舎」と言う。) 
 西欧の場合は、publicity=市民的公共性が最終的にフランス革命にいたって王家を倒して共和制を敷くにいたるが、日本の場合は私→「公共」意識は非常に弱く、最終的に市民的公共性は生まれず、今でも天皇が君臨する⇒官が公にかぶさる形態になっている。 
 私たち日本人が厳密に認識すべきは、日本では官と民⇒私の間で「公共」という視点が今にいたるまで全くアイマイな位置しかもっていないことである。ところが、ケッサクなことに、多くの現代日本人―とりわけ学者や評論家などの「知識人」たち―は、欧米由来の翻訳語=「公共性」概念がそのまま通用して―その実質が「安全パイ」のごとく無に等しくても―、すでに日本的現実を表現しているかのごとき幻想に取り付かれている。

(ⅰ) 「理事長」人事
 私は【破】(1)において、こう問題点を指摘しておいた。五島育英会の「理事長」人事は、東急電鉄に管掌され、現に東急電鉄の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい、と。
 【育英会】理事長(任期)は、五島慶太(1955~59)に始まり、五島昇(59~64)→唐澤俊樹(64~67)→星野直樹(67~74)→曽祢益(74~80)→五島昇(80~81)→山田秀介(81~94)→堀江音太郎→(94~2000)→秋山壽(00~03)→山口裕啓(03~11)→安達功(11~)が務めている。この歴代理事長の履歴に多少触れると、
 五島昇は五島慶太の長男で、東急電鉄社長・日本商工会議所会頭、
 唐澤俊樹は戦前⇒東條内閣の内務次官、戦後⇒東條内閣内務次官の廉で公職追放、後に岸信介内閣の法務大臣、
 星野直樹は戦前⇒満州国総務長官、東條内閣の内閣書記官長、戦後⇒A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑を宣告され(1958年に釈放)、後に東急電鉄取締役、
 曽祢益は民社党書記長・衆議院議員、妻が五島慶太の長女、
 そして残り5人は、すべて東急電鉄の役員-山田が専務取締役、堀江が副社長、秋山が専務取締役、山口が副社長、安達が副社長である。
 ここでは、五島慶太の後、五島昇→唐澤→星野→曽祢→五島昇の5代4人が五島慶太の血脈・人脈そのものであり、唐澤と星野という戦前の「名だたる」国家主義的な官僚・政治家がその名を連ねている点が注目されねばならない。特に「A級戦犯」星野直樹(1892~1978)―「満州国」を動かす「2キ3スケ」の1人といわれた札付きの国家主義者(ウルトラ・ナショナリスト)―が約7年間、理事長に就任した事態は一体全体、何を物語るのだろうか。
 [註:「2キ3スケ」とは、東條英機(ヒデキ)・星野直樹(ナオキ)の2人の「キ」+鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)の3人の「スケ」を言う。]
 そしてまた、問題は五島慶太の直接的な血脈・人脈を離れた、東急電鉄からの「天下り」理事長は、どういう人物―精神・思想の持ち主―なのかである。
 

 私が武蔵工大専任教師になった時=1980年4月1日、【育英会】理事長は曽祢益であった。しかし、彼は同年4月25日に死去、五島昇(1916~89)による急場しのぎの約1年間のショート・リリーフを経て、山田が81年6月22日に天下りした。私は武蔵工大に在職中、曽祢および五島に「拝眉する」機会が一度もなかったものの、山田・堀江・山口の3人とは、大学改革をめぐる諸問題に関連して何度も「談論・対論」するにいたった。[ちなみに言うと、秋山理事長(任期:2000.5.27~03.5.26)については、当時の私がコロンビア大学での滞米生活を送ったこと、また彼自身が体調不全で早期に離職したことで、私は一度も「拝顔の栄」に浴することができなかった。]  
 私の山田→堀江→山口の各理事長論の具体的な詳細は他日を期することにし、ここでは彼ら理事長に通底する、日常的な態度設定上の問題点だけを指摘しておきたい。 
 彼らは東急電鉄の定年退職後の「天下り」なるがゆえに、その根本的性向としては、「雇われ」理事長として任期を大過なく無難に勤め上げることに汲々とする、その意味でのサラリーマン的事なかれ主義者である。  
 確かに3人の場合、武蔵工大をめぐる内外の情勢の深刻な変化に即応する態度に各人各様の趣向が凝らされていることは言うまでもない。しかし問題は、彼らが大学改革をめぐる「ここを先途と闘う」決定的な場面において、一様に“東急電鉄ムラ”の極印を押された、滑稽で哀れな習性を引きずる“他律的”な人格にほかならないことである。

 私はつい考え込む。そもそも企業人・経営者・経済人が「優秀」という場合、何をもって「優秀」とするのか。東京電鉄の場合、いわゆる「立身出世」がかない、社長・副社長・専務取締役にでもなれば、「優秀」な人物ということなのだろうか?!
 私は「安田塾メッセージ」№21で、私の【北炭】時代の上司、政安裕良(まさやす・ひろよし、1924~97)について、こう書いた。「政安裕良とは何者か。ありていに言えば、彼はいわゆる『日本人』の一典型でした。一般に日本人は人前に出たときに『私』が消えるといわれます。これは主体としての自己主張[ex.『我思う、ゆえに我在り』(デカルト)]がいかに脆弱であるかを物語るものです。彼は土壇場に立たされたとき、この国際的に認知された『日本人』類型を地で行くような歩みをたどりました。」
 この評言自体は【育英会】の歴代理事長にも、そっくりそのまま当てはまる言葉ではある。
 しかし急いで付け加えるなら、私が政安の生き方をそう評したのは、あくまで1981年10月16日に起きた北炭夕張新炭鉱の「ガス突出事故」(93名死亡)をめぐってのことである。私は今にして思う、私の見知った日本人の会社人に限れば、政安裕良は<知情意>すべての「自己表現」において最も「優秀」な人物であった、と。
 彼がいかに「優秀」であるかは、論より証拠、癌が浸潤し死がひたひたと忍び寄る状況下で、回顧録『帰らざる小径』(96年9月20日)および続編『帰らざる小径(短歌編)』(98年2月9日)を何とか自費出版までこぎつけたことである。関係者に配布された『帰らざる小径』の添え状には、こう記されている。「…結果的には、つまらぬ人生ではありましたが、非才ながら其の時其の時に、自分では恐らく、精一杯に生きて来たものと思っております。サラリーマン生活を引退するに当たり、是れを機会に、過去を振り返り、且つさぞ短いではあろうが、将来の展望の為に、自身の赤裸々な人生の軌跡を辿って見た次第でご座居ます。…」
 また、同書は余りにも遅きに失したとはいえ、随所に己れを省みた、貴重な文言を連ねている。かつて私と激論を交わした点に関わる文章を、以下に抄出しておきたい。
 「昭和43年9月16日に(この時期、彼は北炭幌内鉱業所労務課長で、私は同労務課職員であった―引用者註)、会社の機構改革と人事異動の発表があったが、午後1時30分に、札幌より各鉱業所の労務の責任者に対して緊急の呼び出しがあった。至急事務所のジープを借りて、札幌事務所に駆けつけたのだが、当時は全くの箝口令が敷かれていて、何が有ったのかも、中身の事は鉱業所長にも報告するなと云う事であった。/…結局中央で使用された使途不明金の肩代わりを、山元の労務対策費として使用したと云う事にして、山元の労務責任者の責任で処置したと云う、領収書を書けと云う事であった。…多額な労務対策費の領収書を書けと言われた事には、全く内心忸怩たるものがあったが、是れもサラリーマンの悲しさで、作成の上提出せざるをえなかった。/そして誰が何の用に使用したかは、全く知らされなかった」(186-7頁)
 「北炭の命運を語るには、どうしても政商、萩原吉太郎氏を度外視して語る事は出来ない。[安田註:萩原吉太郎(はぎわら・きちたろう、1903~2001)は、慶大理財科(現・経済学部)卒、1955年に北炭の社長に就任、その後会長→相談役になったとはいえ、最後(1995年)まで北炭の実質的な統率者であった。彼は<北炭のドン><北炭の天皇><石炭の鬼>などの異名をとり、また政商として、児玉誉士夫・永田雅一と古くから親交を結んでいたほか、三木武吉・大野伴睦・河野一郎ら党人派政治家と交流を持ち、<石炭ではなく国の金庫を掘った男>とも呼ばれていた。]
 政商としては、昭和35年の安保闘争の際に、当時の自民党の実力者である、岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作氏の会談に、永田雅一、児玉誉士夫氏と共に出席して立会い、当面大野氏が岸氏を応援する代わりに、岸氏が後任に大野氏を推薦すると云う、所謂『帝国ホテル・光琳の間』の政権禅譲会談は有名であり、真偽の程は分からぬが、其の一札は、北炭本店の、社長室の金庫の中に仕舞ってあるとの専らの評判であった。
 此の様な面から、可成の額の政治資金の投入も行われたと思われる。昭和43年9月16日の既述の、山元の労務責任者の札幌への呼び出しによる、使途不明金の労務対策費への切替えの指示も、或いは此の方面に使用されたものではないかと臆測していた。…
 同氏が社長就任後、北炭の消滅迄の間、事実上北炭を牛耳って来れたのには、色々と人事上の対立者を陰で排除して来たものと思われている。/昭和40年頃には、トップの指導権争いは可成熾烈であった模様であり、…萩原氏は…昭和40年4月27日に、全役員から白紙を取り、5月4日の取締役会で、目の上の瘤と思しき役員を退任させて関連会社に追い出した。…
 昭和41年12月13、4日の札幌に於ける労使協議会では、『統制と融和』を標榜して、是れに反する行動をする者は、直ちに排除すると公言された。/そして社内では、『馬鹿は不平を云う』と云う事で、自己の主張に反する意見の人間は排除して行く戦法を取ったと思われ、社内には『物言えば唇寒し』との気風が横溢して来た。」(240-2頁)
 「萩原氏は昭和33年4月には札幌テレビ放送(STV)、同年8月には北海道不動産を設立した。/北海道不動産は、昭和38年に北炭観光開発となり、昭和46年には三井観光開発となって、北炭とは関係の無い独立した会社に成長していった(平成19年、三井観光開発は「グランビスタ ホテル&リゾート」に社名を変更―引用者註)。/此の不動産部門の生成の過程では、苫小牧や千歳、大沼の北炭の土地等を、合法的に安く譲渡させて、折からのバブルの波に乗って、太って行った経緯がある。
 一体、不動産部門を完全に独立させて別会社とし、自己の息子や息のかかった、或る傾向の北炭の社員のみを引き抜いて行ったのはどう云う事だったのだろうか。… 
 勿論観光へ移行して、財産を温存して、三井や三菱や住友等の様に、北炭の命脈を保持し続けたのならば、何も云う事はないが、北炭の命脈を全く途絶えさせて、自己の子息に観光をバトンタッチして行くと云う事は、当初から、北炭を食い物にする魂胆だったのではないかと思われても致し方ない。
 新鉱(北炭夕張新炭鉱―引用者註)開発でも…、いきなり深部開発に入って行けば、危険な事は充分に察知されたところで、此の事を指摘した技術屋さんは沢山いたし、私が新鉱に在籍していた時でさえ、開発段階でも、ガスの突出の危険は充分にあって、此の点を指摘して、営業出炭の時期を引き延ばす様に主張する人も多かったが、そんな事を言えば、直ぐに能力が無いと云う理由で、首が飛ぶと云うのが、一般社員に横溢していた空気であった。
 故に新鉱の事故は、起こるべくして起こった人災であると言われても、誰も否定出来なかったろう。
 社内にはワンマン体制が出来ていて、萩原氏の意向に逆らえる者は一人もいなかった。…
 結論的に言えば、萩原氏は自己の大きな意味の財産保全の為に、北炭を利用したとしか考えられない。其の事に依って何千人もの人間が泣く事になったのである
 私は此の人生に於いて、身を以て、本当に良い事例を見せて貰ったと感謝していると共に、北炭喪失の責任は萩原氏に有りと思うし、又産業と云うものは矢張り永遠ではない事を痛感した次第である。」(244-6頁)

 政安は1973(昭和48)年に49歳で北炭を退職し、N社に入社、総務部長代理→総合企画部長→取締役→常勤監査役→顧問に就任、94年7月総胆管癌で「九死一生」の手術、97年12月24日に死去する(享年73歳)。
 彼はN社で20年間、所を得たのか、それなりに活躍し出世した。そして大手術後の、かろうじて余命を保つ状態下で、はじめて自由な自律の心を構えて、“北炭ムラ”であがきつづけた彼の「個」を描写する「回顧録」を上梓した。
 彼と私は、74年以降20年間にわたって、毎年1度、東京の赤坂で酒を酌み交わす仲であった。彼が70年代後半のある時、こう切り出した話がいまだに私の耳に残って忘れがたい。
 「安田よ、大学の非常勤やライターなど、いろいろやっているようだが、これからどうするんだ。オマエは大学の教師になんか向いているのかね。今どきの大学教師にマトモな人間なんかいるのかい、オレの見るかぎり専門バカというか、変わり者が多いし、碌なヤツはいないな。それより、N社に来て、オレと一緒に仕事をしないか。オマエなら、今すぐ課長で採用できる。N社は北炭ほどの大企業ではないが、北炭に見られるような伏魔殿もないし、オマエにとって働きがいのある職場だと思う。オマエなら、その気になれば10年ぐらいで取締役も可能だな。」                                
 人間・政安裕良は、「去るも地獄・残るも地獄」といわれた炭鉱世界(“北炭ムラ”)で、間欠的に「個」が自己主張して、生々しい苦闘の日々を送りつづけたものである。
 だが、問題の【育英会】理事長-東急電鉄からの「落下傘」理事長は、もともと「個」が“東急電鉄ムラ”に埋没しているために、何かというと、自発的な自由意志の決断とは無縁な、外(他者⇒東急電鉄)から強いられるか、or 外(他者⇒東急電鉄)に見せるための偽善的なポーズを取り繕ったものである。 

 東急電鉄という組織体は、構成員の利益を重視するところのムラ社会である。ここでは、東急電鉄の構成員の個人的利益や組織的利益―つまり、「五島慶太・五島昇・東急電鉄」経営側の利益―が追求された結果、東急電鉄によって一学校法人が「子会社⇒私物」化され、理事長人事の決定権が一手に掌握される。
 事態の核心は、“東急電鉄ムラ”―or 「東急グループ村」―の組織的利益の維持追求にある。
 そして、コンセプトを明確にすべきは、当の組織益があくまでも私企業の私益であり、けっして公益=社会益ではない点である。ここに「公」とは前述したパブリック=公共のことであり、「私」を外に向かって開くところの、対等な個人どうしの「われわれ」市民側の力であることは言うまでもない。組織内にいるムラびとはとかく―組織としての閉鎖性が高まるほどに―、その組織の利益を公益と錯覚し、果ては公益に資する内部告発すらも、「守秘義務」の美名のもとに封殺する愚を極めることになる。
 この日本国では、「企業の社会的責任」などという、まことしやかなキャッチフレーズが久しく唱えられてきた。しかし、それは企業イメージを高めてより多くの顧客を獲得するという「経済性」を動機にしている以上、どれほど「良心的」な企業でも、公益に寄与する方向はしょせん二次的な問題にすぎない。“東急電鉄ムラ”は五島慶太以来、ざっくり言えば、「私の肥大化」としての官(お上)との癒着の道をたどり、したがって「官による公」、「官=公」を発想の基本に据えつづけた企業である。そこでは、「公の喪失」、つまりpublicityが実体を持たないままに、学校法人=公益法人が経営されるにいたり、その結果、当の理事長人事はもとより、学長人事、さらには事務員人事などが「東急電鉄or東急グループ」ムラ(=利益共同体)の特殊意志に専断されるにいたった。当該人事の私物化(お手盛り)は、端的に「公害」ならぬ「私害」(私企業が引き起こす害)として弾劾されなければならない。

(ⅱ) 「学長」人事 
 私は【破】(2)において、こう問題点を指摘しておいた。武蔵工大の「学長」人事の実権は、「偽装民主主義」の支配下、究極的には五島育英会理事長が、したがって東急電鉄が掌握している、と。
 【育英会】-武蔵工大の学長(任期)は、これまで八木秀次(1955~60)→山田良之助(60~78)→石川馨(78~89)→古浜庄一(89~98)→堀川清司(98~2004)→中村英夫(04~)が務めている。この歴代学長の主な履歴に触れると、
 八木秀次は大阪帝国大学総長・東京工業大学学長、
 山田良之助は東京工業大学教授・静岡大学学長、
 石川馨は東京大学教授・東京理科大学教授、
 古浜庄一は武蔵工業大学教授、
 堀川清司は東京大学教授・埼玉大学学長、
 そして、中村英夫は東京大学教授・武蔵工業大学教授である。
 この6人の学長に関して、八木・山田の2人は私にとって一面識もない学長であり、石川・古浜・堀川・中村の4人は私の在職期間中の学長であった。                                

 武蔵工大の場合、1955年八木学長の選出当時までは、学長に関する明文化された規程はなかった。1959年に初めて、八木学長のもとで「武蔵工業大学学長に関する規程」および「武蔵工業大学学長選出に関する細則」が制定される。
 この新規則を適用して選出されたのが山田であり、彼は何と1960年4月1日(63歳)から78年3月末日(81歳)まで18年間も、学長を務めた。
 その後、山田の後に石川学長が選出されるに際して「一騒動」が起きた後、武蔵工大では「学長選」のたびに、「誰を学長にするか」をめぐる、<大学側vs.【育英会】側>の、したがって教員相互間の、何らかの形の確執・争いが繰り返されることになる。 
 そして、私自身は石川学長急逝後の古浜学長の選出時分から、いい加減でウサンクサイ学長選のありさまに義憤を覚え、そして大学全体の鬱屈した閉塞状況を打破するために、個と個の統一としての「われわれの公共」を掲げながら、大学改革・教育改革の険しく長い道に踏み込むにいたった。                 

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                                   2011年9月15日 安田忠郎
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(4)

【急】 月のない闇夜

 [Ⅰ] 私学の自主性
(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題(安田塾メッセージ№34)
(ⅱ) <独立自尊>の問題(同)

(ⅲ) 五島慶太とは誰か
● 1954(昭和29)年11月11日、学校法人・武蔵工業大学の理事長・西村有作(創立者の1人)が引退し、新理事長に「電鉄王」五島慶太が就任する。翌年6月1日、学校法人・武蔵工業大学が学校法人・東横学園を吸収合併し、新しく学校法人・五島育英会として発足する。[ちなみに、五島慶太は1939年に、財団法人・東横学園を設立し、東横商業女学校(翌年「東横女子商業学校」と改称→現「東京都市大学等々力中学校・高等学校」)を創設する。]
 
 私は武蔵工大に在職中、心ある同僚や学生たちから、折に触れて聞かされたものである。「本学にもう“公正・自由・自治”はない!五島慶太が、【育英会】が、本学を経営してから、そんな理念はもう死んでしまったんだ!」と。
 工大では、1981(昭和56)年度から毎年、学生(新入生・2年生・4年生)の「実態調査」が実施されている。このアンケート調査の「自由意見」(無記名)欄に、毎年決まって、「建学の精神」の在りどころを問うor理念とかけ離れた現実の貧しさを憂える学生(特に4年生)の意見が多数書き込まれている。私の在職中のものに限って少々例示すれば、
 ・「“公正・自治・自由”という言葉がありながら学生には自治権があまりないと思う。このことが他の大学との気質の差として現われていると思う」(武蔵工大広報委員会『昭和58年度学生実態調査アンケート集計結果報告書』56頁)。
 ・「自由・公正・自治なんて、ウソッパチ、もっと自由を」(同・昭和61年度、53頁)。
 ・「この大学に公正・自由・自治なんてどこにもない。嘘をかかげることだけはやめてほしい。拘束されることに慣れてしまったのか、自分自身で時間を活用できない学生が多い。」(同・昭和63年度、78頁)
 ・「武蔵工大の“公正・自治・自由”がどこにもない。社会全体の相対的な自由度が増すにつれますます拘束性が強調される」(同・平成2年度、118頁)。「あらゆる面において“自由”を増せばもっと学生の意欲を引き出せると思う」(同前、125頁)
 ・「学生の意見が自由に言えることが必要、大学において教員は神様扱いである。もう少し自由な校風を希望します。そのことが本学発展の推進力となると思います」(同・平成3年度、119頁)。
 ・「大学内の施設を増設・新築するときは、学生の意見を取り入れるべき。本大学の『公正・自由・自治』の精神に反するから」(同・平成6年度、84頁)。「“もっと学生に自由を!!”とにかく建設的な意見がつぶされてしまう環境をなんとかしてほしい」(同前、89頁)。
 ・「大学では“自由・公正・自治”をかかげているがそれは飾りなのか。もっと役立つ興味を持てる授業をしてほしい」(同・平成9年度、84頁)。
 ・「私は、大学というところは開放的で、自分の責任の下で、ある程度の自由があると思っていたが現実は違っていた。…こんな大学に4年もいた自分がバカらしく思え、とても人になんかすすめられない」(同・平成10年度、100頁)。
 ・「『公正・自由・自治』は教職員のみならず、学生にも恩恵があるのが正しい姿だと思います。学生の意見を尊重する姿勢が、学校側に見られなかったのが残念です」(同・平成12年度、110頁)。
 ・「古い気質が残り、全体的に閉鎖的な雰囲気が漂っている」(同・平成13年度、125頁)。
 ・「古い工業大学だからでしょうか。全体的に考え方が古いと思います。過去の武蔵工大は、過去の事です」(同・平成18年度、87頁)。
 
 彼ら学生が「公正・自由・自治」云々をどう理解しているかは定かではない。しかし、彼らにとって武蔵工大は、「知的な挑戦の場」-「知的にチャレンジングな教育・人間形成の場」でないことは間違いないところである。工大という教員をはじめとる大学人の諸関係の構造総体が、多様な背景と資質をもつ学生の学習ニーズに的確に対応できる教育機能を喪失し、教師と学生の相互交流的な、理性と感性が伸びやかに総動員された、個性輝く学校空間を創出できないでいること、これはもはや疑いようがない。
 ・「“教育とは何か”もう一度原点に戻って学長並びに教員は考え直す必要があるのでは」(同・平成6年度、93頁)。
 ・「各授業において、一部の教授に『教える気があるのか?』と問いたくなるような場面がしばしば見られた。…科目、特に専門科目を教える教授たちは、もっと学生に関心、楽しさ、おもしろさを伝えるような教え方を再考した方が良い。学ぶ事は、将来に大切な知識となるので、それを伝える教え方は重要である」(同・平成14年度、126頁)。「学生のやる気を失わせる学校である」(同前、141頁)。「大学の学生に対する対応が官僚的すぎるのではないかと思う。中学・高校ではないのだからもっと学生の判断に委ねるべきであると思う」(同)。
 ・「先生が教えるのが下手すぎる。このような授業ではほとんどの学生が理解できていない」(同・平成15年度、120頁)。
 ・「教授とは教師であるのだから、研究成果より指導能力で選ぶべきである。とりあえずマトモな授業を行なってもらいたいものである」(同・平成16年度、93頁)。
 ・「『教える』という能力のある講師を採用して欲しい。教授の自己満足的授業が多すぎる」(同・平成17年度、86頁)。
 ・「…武蔵工大は何が他大学と違うのでしょうか?正直、ないと言ってもいいと思います。…小さな大学でも、きちんとした目標を掲げ、その大学にしかない技術を伸ばしたり、新しい分野で挑戦し、その成果を社会に発信し、大学の特色を出していけば魅力ある大学になると思います。魅力のない大学には生徒は集まらないと思います」(同・平成19年度、83頁)。

 問題は「公正・自由・自治」の精神が開学当初から、近代的な「個」の自覚に立つそれではなく、日本流の「世間」共同態に染め上げられ、したがって理念的に重くひび割れたそれであった点である。
 かてて加えて、決定的に問題なのは、新制大学・武蔵工業大学が誕生(1949年2月21日文部省より認可)してまもなく、五島慶太が登場し、同校が五島育英会の傘下に入ったことである。工大の歴史上、五島慶太といういわく付きの実業家が学校法人【育成会】初代理事長に就任したことは、同校の、まさに命運を決する大事件と言うほかはない。以来、今日にいたるまで、工大では建学の精神が包蔵するのっぴきならない問題―理念の矛盾・ほころび―が随所に露呈し、顕在化しつづけてきた。

● そもそも五島慶太(1882~1959)は、戦後日本の「民主主義」下―それがアメリカ譲りのタテマエ上の「民主主義」にすぎないにせよ―、「学校・私学」を経営・運営するにふさわしい人格なのだろうか。
 ・彼は中学卒後、郷里(長野県青木村)の小学校の代用教員を数年務め、20代に入って東京高等師範学校に入学→卒業後、四日市商業学校で英語教師を務める。
 ・彼は1911年、29歳で東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省→内閣鉄道院に移り、計9年間の「官僚」生活を送る。
 ・彼は戦前から戦後にかけて、実業家として八面六臂の活躍を続ける。⇒数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収し、その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとる。
 ・彼は1944年、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任する。47年、東條内閣の閣僚の廉(かど)でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放令(46年)の適用を受ける。
 ・彼は戦後から1950年代にかけて、西武の堤康次郎(「ピストル堤」の異名を持つ)との間で、箱根の観光事業をめぐる「箱根山戦争」を繰り広げ、世に「強盗慶太vs.ピストル堤」の「箱根山サルカニ合戦」と揶揄される。

 五島という人物の歩みを歴史的に見るかぎり、彼の教育観はおのずと、(ⅱ)に既述した「国家主義的」に帰結せざるをえない。彼はどう転んでも、もう一方の「教育の民主主義」を思想的射程に収めることは、とうてい不可能である。
 彼の経歴上で注目すべきは、戦前の文部省主導の中央集権的学校体制下で、東京高師(前身校は明治5年創立の「師範学校」=日本最初の官立の教員養成機関)に学び、短期間ながら「現場教師」を務めている点である。
 
 戦前の師範教育は一般に、「国家富強の源泉」(国民全体の「普通教育」の推進力)と見なされ、【技術主義】(教科内容の中心課題が「学問」よりも「教授技術」の修得にある)と【道徳主義】(知育よりも「善良なる人物」養成としての徳育に重点を置く)をもって特徴づけられる。ここでは、教育がもっぱら国家の発展の見地から手段視された結果、全体主義的画一教育が展開され、自由な思考方法と批判的精神を欠く、権力に弱い他律的精神に蝕(むしば)まれた、いわゆる「師範タイプ」というステレオタイプが生み出された。(ちなみに、師範教育の性格は、幼年学校から士官学校にいたる軍人教育―軍事技術の修得+軍人精神の涵養―の性格に相似している。)
 [註:明治19年に公布の師範学校令(勅令)(←初代文部大臣・森有礼の主導)の第1条=「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス」。この「順良・信愛・威重」の3徳目が生徒に対して、「兵式体操」=全寮制の軍隊式訓練によって植えつけられた(⇒「道徳教育の外面化」)結果、順良は屈従に、信愛は派閥根性に、威重は偽善に成り果てる。⇒師範学校出身の教師は、「上にへつらい下にいばりちらす」下士官型の人間となる。そして、「世間知らず」といわれ、「三尺下がって」ハラの中で笑われ、「先生といわれるほどのバカ」となり、社会的カタワ者になった―。]

 五島が師範学校―一応「高等」師範学校の名こそあれ―で、この種の師範教育を受けたのは、まさに多情多感な20代前半である。国家主義的・形式主義的・精神主義的な師範教育によって、彼の成長途上の人格は、どういう刻印を押されるにいたっただろうか。
 そして、20代後半の彼が学んだ東京帝大法学部、これまた国家主義的に縁取られた学校の典型である。なるほど大学である以上、一応アカデミックな学問の探究という看板が掲げられてはいる。しかし、それとて国家の必要の枠内においてのことである。
 明治19年に公布の帝国大学令(勅令)(←森有礼文部大臣の主導)の第1条は、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と規定している。学術技芸はけっして学術技芸のための学術技芸にあらずして、あくまで「国家のための」学術技芸である。さらに、その「学問」は、「純正学(ピュ―アサイエンス)」・「応用学(アップライトサイエンス)」共に「国家必須ノ学問」にほかならない(森有礼『学政要領』「修正本」)。
 日本流の国家主義的教育(←古代ギリシアのプラトン以来の「政治的教育主義」)は、教育と国家or広く社会との関係の場面で、教育を優先的に国家や社会の維持と発展との手段として把握する。ここでは必然的に、国家(官と公のごった煮)が教育を、国家の利害に関わる問題として、自分の方へ吸い上げようとする。明治維新以降の歴史上、日本の教育は「後進国」日本のキャッチアップ型「近代化」の目標【富国強兵・殖産興業・文明開化】を達成する最も効果的な手段として把握された。   
 
 五島は学生時代を通して国家主義的教育の洗礼を受け、そして戦前から戦後にかけての「社会人(教師→官僚→実業家→政治家→実業家)」時代を通して国家主義的思想にからめ捕られつづける。
 彼は日本の「国家」資本主義が形成される過程を、あわただしく貪欲に駆け抜けた。阿修羅のごとく、アコギな経営手法―株の買い占めと合併―で、ハゲタカのように弱体化した相手に食らいつき、食い散らしながら、「東急王国」を打ち立てた。彼の旺盛な事業活動⇒「強盗企業」と悪名を立てられるような商法自体が、その大枠としては、国家⇒「富国」⇒「殖産興業」のためのそれであり、その限りにおいて国家主義的色彩に濃厚に彩られている。
 
● 「私鉄王」五島と学校事業との関係をたどると、彼は1920年代から30年代にかけて、東急電鉄沿線の開発のため、土地を無償提供したり資金援助を行なったりして、積極的に学校誘致に乗り出している。東京高等工業学校(東京工大の前身)、慶大、日本医大、武蔵高等工科学校、東京府立高等学校(東京都立大の前身)、青山師範学校(東京学芸大の前身)、昭和女子薬学専門学校等々。中でも、慶大に日吉台の7万2千余坪が無償で提供され、日吉キャンパスが開設された結果、東横沿線は学園都市として付加価値が高まるとともに、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。この学校誘致が「狙った獲物は逃がさない!」五島の経営マインドがなせる、鉄道に集客するための、つまり経済上の利害得失に起因する現実的な行動であることは言うを待たない。

 彼はなぜに、教育事業を自ら営むにいたったのか。
 通俗的に言えば、大コンツェルンを築き上げた男には、「名誉」が欲しかったのかもしれない。実利を得れば、次が名誉、というのが“世間”の相場である。日本社会における名誉とは、まさに“世間”から「立派な人」だと高い評価を受けて誇りに思うことである。学校という、“世間”が「無難」視する文化事業で功績を立てて名誉を手に入れよう-この思いが彼の場合、年を追うごとに強まっていったのだろうか。[ちなみに、彼が1944年2月に死に体―敗戦が目前に迫る状況下―の東條内閣(1941.10.18~44.7.18総辞職)に入閣(在職期間はわずか5ヶ月)したことも、あるいは彼の名誉にしがみつく性癖が現われたのかもしれない。]

 だが、事態はそれにとどまるものではなく、もっと根源的というべき根拠にまで立ち入って考えられなければならない。
 巷間の噂によれば、彼は青年時代に教師を務めていたことから終生、教育事業に関心を持ちつづけ、教育活動に熱心でありつづけたとのこと。また、武蔵工業大学理事長・西村有作は1954年に辞任し、五島慶太に後事を託するに際して、次のように言明している。「人格識見力量兼備へ、その上学校教育に興味ある人などめったに有るものではありません。(ある友人から五島慶太氏を紹介された結果として―引用者注)事業人としての五島氏の力量並に影響力に付いては定評のあるところ、反面又学問に対する造詣の深い事など大いに気を引かれましたので数回面談しました。その結果学校教育に対する同氏の識見抱負熱意等、私としては同氏以外に適格者なしと思ひ込むに至りました」(前掲『五十年史』)。
 しかし、学校教育への関心・熱心or識見・抱負・熱意という場合、端的に問われるべきは、その「関心・熱心or識見・抱負・熱意」の具体的な意味内容⇒思想的ベクトルにほかならない。例えば、体よく学校教育に多大な関心があり、一生懸命努力していると言っても、いったい当の関心→努力が何に向かって、どういう理念的方向性のもとで、どういう教師と生徒の関係の結び方において規定されたものであるのかは慎重な吟味を要する問題である。

 私は躊躇なく言ってのけたい。五島にとって、【教育】は国家の【政治・経済】の発展の手段そのものであり、政治・経済上の状況判断にもとづく国家のための教育がすべてである、と。 
 彼のライフスタイル(生活行動の様式)では、教育と国家⇒社会との関係性において、どこまでも国家⇒社会の発展が先に考えられ、その目的のためにのみ教育の重要さが強調されている(⇒「政治的教育主義」)。裏を返せば、彼の思想的構えでは、人間=市民の一人一人の教育を強調して、その成果がおのずから―自然の結果として―国家⇒社会の発展や福祉の増進に寄与することを期待する考え(⇒「民主主義的教育」・「汎教育主義」)が決して形成されることはない。
 彼は根源から理解できなかったのである。人間がこと教育に関わる場合、相手が直ちに人間である以上、その人間を教育する上での方策の選択がその都度の政治・経済上の状況判断とは別途の事柄であるということを。

 私は厳しく問いただしたい。五島は人間をどう見ていたのか、人間についての思想的要件をどう考えていたのか、と。 
 人間にとって疑いのない真理は、人間が人間であるかぎり、自分で物事を感じ、考え、判断して生きていることである。人間はすべて、誰もが、時の状況がどうであろうとも、それぞれそれなりに、気力も意欲も能力ももって、人間として生きている。したがって何より肝要なのは、一人一人の人間の固有の価値と尊厳を認め、初等教育から高等教育にいたるまで、あるいはむしろ生涯にわたって、各人各様の主体的な働きを「助ける」民主主義的教育体制=「開放的な学校」=「開かれた社会」を築き上げることである。
 五島にとって、1946(昭和21)年4月に公表された、近代日本教育史上に画期的な『アメリカ教育使節団報告書』の、次のような文章(抄出)はおよそ理解の範囲を超えるものであった。
 [註:同書は「太平洋戦争」での敗戦国・日本に対する、戦勝国・占領国アメリカからの教育使節団による、日本の教育の根本的改革に関する「提案・勧告」書である。そこでは、近代教育の普遍的原理に拠って、戦前日本の「国家主義」的教育から、戦後日本の「民主主義」的教育への大転換が高らかに宣言されている。]

 「いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用いて自分自身or全世界に役立つ何かを創造する力を有している。…人間の個人差・独創性・自発性に常に心を配るのが教育者としての民主主義の精神である。…教師の最善の能力は、自由の雰囲気の中でのみ栄える。この雰囲気を備えてやるのが教育行政官の務めである。…子供たちの計り知れない資質は自由主義の陽光の下でのみ豊かな実を結ぶ。この光を供するのが教師の務めである。…どれくらい禁じらるべきかを見つけだすよりも、どれくらい許さるべきかを見つけだすことが、すべて権威の立場に立つ人々の責任なのである。これが自由主義の意味であり、その精神のあるところ、すでに民主主義は根を下ろしている」。  
 

 「理解する」=「わかる(解る=分る=判る)」とは一体、どういうことだろうか。
 「わかる」ということは、それによって自分が変わるということである。それは、ただ知ること以上に自分の人格に関わってくる何かであり、突きつめて言えば根本的な自己批判・自己反省としての自己変革の問題である。
 五島は1945年8月15日(敗戦の日)、また47年に公職追放の身となった際(51年追放解除)、自らを省みて、自らに批判の刃を向けただろうか。彼は戦前の国家主義から戦後の民主主義への、教育理念上の自己変革を、ついに果たせずに終わった。彼には「民主主義」の理念がよくわからなかったのである。
 ただし、私は彼が戦前から戦後までの生涯77年にわたって、終始一貫した、揺るぎない国家主義的教育の信奉者だったと断言するつもりはない。彼はもしかして、戦後(63~77歳の14年間)の処世上、多くの日本国民がそうであったように、いわば国家主義の身体(ホンネ・深層)に民主主義の帽子(タテマエ・表層)をかぶりつづけながら、教育事業家としての道を颯爽と歩んだのかもしれない。 
 とはいえ彼の場合、その種の二重性に支配されたとしても、明治以来身についた国家主義が変わらないままであり、民主主義がタテマエ上の理念にすぎない以上、彼の実際上の思考⇒行動が基本的に国家主義の理念を軸にして旋回することは必至である。 
  
 五島は戦後日本の状況下、性懲りもなく、教育の国家主義的な構えのままに、【育英会】を立ち上げ、教育事業を展開した。この【育英会】の傘下に入った武蔵工大では、福澤諭吉の指摘する[(ⅱ)に先述]「人を束縛してひとり心配を求むる」教育活動が促進されるにいたったのは、理の当然である。
 そこではすべて「上から」、つまり<国家(政治・経済・社会)→五島慶太=【育英会】→工大事務員→工大教員という何らかの形で「権威の立場に立つ人々」>の側から、あらかじめ基本的な学校目標が定められ、それに合わせて学生が十把一絡げに「教化」(外的な権威の要求に沿って教え化すること)の対象として取り扱われる結果、「学生は何も分からないんだから、とにかく分からせなければいけない、教え込まなければいけない―さあ、これだけ覚えなさい、身につけなさい、さあ、分かったか、分かりなさい―、そして必死に勉強してよく分かった者には、いい就職先を世話し、社会の要所に張り付かせたい」といった全学的な教学体制が整備されることになる。ここでは、トータルなキャンパス・ライフを―ほんの一握りの例外的な教師の努力(授業実践)を除いて―、学生の一人一人が人間としてそれぞれに何をどのように学ぶかの問題として工夫し構想していないために、権力・権威の主導に従順な、「他者」志向的な多くの教師が自らの教育機能を熱心かつ忠実に発揮するほどに(⇒一見恩情のこもった「教育愛」)、学生の精神にいわばメッキを施し、あげくの果てに学生自身の主体の喪失という悲劇的な事態を招くことになる。

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                                   2011年9月1日 安田忠郎
         学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(3)

【急】 月のない闇夜
                                                 

 私立学校法はこう謳っています。
 第1条:「この法律は、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによつて、私立学校の健全な発達を図ることを目的とする。」第2条第3項:「この法律において『私立学校』とは、学校法人の設置する学校をいう。」第3条:「この法律において『学校法人』とは、私立学校の設置を目的として、この法律の定めるところにより設立される法人をいう。」
 戦後の私立学校法が戦前の私立学校令(明治32年勅令)―同令によって私学が国家の教育政策の強い統制下に置かれる―と際立って異なるところは、私立学校を自主的かつ公共的なものとした点、また私立学校の設置者を学校法人とした点です。
 以下、この「自主性」および「公共性」の視点から、「五島育英会-武蔵工大」論を展開することにします。
 

 [Ⅰ] 私学の自主性
 私学の「自主性」とは何か。この私学の基本理念は、「教育の自由」の理念と密接な相関関係にある。
 例えば、国公立と違って、私学には「宗教教育の自由」がある。これは私学における「教育の自由」の理念の一つの表われにほかならない。「建学の精神」を掲げる私学教育では、私人の教育的信念―自主独立の精神―に立脚する教育が尊重される。[cf.(新)教育基本法第15条第2項:「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」]
 

(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題 
 私学の自主性は理念上、私学特有の「建学の精神」と相即不離の関係にある。
 【育英会】の中核校・武蔵工大の場合、建学の精神として、注目すべき標語、すなわち「公正・自由・自治」が掲げられている。
 一体、この校是は、どういう背景のもとで形づくられたのだろうか。『武蔵工業大学五十年史』(1980年)によれば、それは1929(昭和4)年の「武蔵高等工科学校」創設当時、「生徒たちの真摯にして切実な要望と、その熱意に動かされた創立者たちの純粋な愛情と誠意にもとづいて生まれたものである」。
 
 武蔵高等工科学校の創立にいたるまでの経緯は、「きわめて特異な事例」であるといわれる。同上書に従って、その経緯と校是の中身を要約してみよう。
 ♦ 同校はいかにして開校にこぎつけたか。
 1929年5月ごろ、東京高等工商学校(27年設立、芝浦工業大学の前身)の生徒たちが学校側に対して、授業の充実など幾つかの改善要求を出して同盟休校に入る。→しかし、該校は生徒の要求を受け入れないばかりか、約10名の責任者を放校処分とする。→多数の一般生徒はやむなく、該校に退学届を提出する。→生徒のリーダーらは大勢の向学心に燃えた仲間たちの再就学を図って奔走する。→彼らは該校の非常勤講師に慶應義塾大学(以下、慶大)の教授が多かったことから、その関係をたどって、慶大法学部教授の及川恒忠に、「自分たちが安心して勉学できる学び舎をあらたに造りたい」と訴える。→「理想家肌で純な人柄」の及川は、「生徒たちの熱望もだしがたく」、親友で実業家(慶大卒)の西村有作(昭和工船漁業株式会社代表取締役)に働きかけ、彼と相携えて事を進める。→結局、及川、西村、さらに同じ慶大出身の手塚猛昌(東洋印刷株式会社社長)を加えて、3人の連名で、東京府知事宛てに武蔵高等工科学校の設立を申請、同年9月12日付けで認可を得る。
 ♦ 同校の校是はいかにして作られ、その由来はいかがなものか。
 及川恒忠は元来、慶応義塾の建学の精神=<独立自尊>を重視するとともに、中国学者として、当時の中国における「蒋介石の国民革命」⇒その「国民精神昂揚のためのモットー」である「礼儀・廉恥(節操高く恥を知ること)」に関心を寄せていた。そこで彼は最初、問題の校是を<独立自尊>と「礼儀・廉恥」を結び付けて、「自由・廉恥」とするつもりであったが、「これではむづかしいというので『自由・公正・自治』を創造」するにいたった。
 及川は自ら「公正」に関して、こう述べている(抄出)。「『志ある者は事つひに成る』とは千古不滅の真理であり、我々の志とは公正なる人格の陶冶と優秀なる工業技術の修得とにある。我々は最大の努力(最少の努力ではない)を以て最大の効果を挙ぐべく協力奮闘したい。誠の公正は自身のポケットからも出来る丈け多くを出すと同時に他人のポケットからも出来る丈け多くのものを受けるといふことであらねばならない。」
 また、慶大出身で時事新報記者として活躍後、及川に起用され、同校教務主任となった打村鉱三は、「自治」と「自由」と「公正」について、こう解説している(抄出)。
 「学校は諸君の自治・自由を慫慂する。完全に、正確に自治的であってほしい。真の自由を心ゆくばかり享楽するがいい。自由は放縦乱暴、勝手気儘を意味しない。真に自由なる人は先づ真に自尊の人であらねばならぬ。自尊とは畢竟、廉恥即ち恥を知ることである。自ら自己を恥ぢることを知って居る人にしてはじめて自由たり得る。恥を知れ!正義公正こそ我等の心境であらねばならぬ。明るい、態度の鮮明な、少しも卑屈なところのない、きたならしい気持のない、自由無礙な学生こそ本校の学生である。一番いけないことは、根性のきたならしいことである。暗さを持った心である。」 
 さらに、この校是作りに参与した当時の生徒たちの代表・宮尾薫は、こう語っている(抄出)。
 「前の学校では自由がなかったので、私たちのつくった学校は自由に学べるところにしよう。公正とは、世間に恥じない道を歩いてもらいたいということです。そう私たちが要望したことを及川先生に理論づけるというか体系づけていただいたんです。」(1977年6月「学校創立時の座談会」)

 武蔵高等工科学校が若者(退学者)の尽きぬ向学心と向上心を原動力として誕生したこと、これは日本の学校史上画期をなす出来事である。しかし、そこに発揚された「建学の精神」の思想内容については、注意が必要である。[註:同校の「建学の理念」の立脚点を考えるにしても、もともと史料自体が乏しく、同上の『五十年史』にしても―『75年史』(2005年)にいたっては一層そうであるが―筆者の概念規定がアイマイで、毒にも薬にもならない文章が多く、結局のところ上述の私の要約から推論するのがせいぜいである。]
 同校の創立に直接関わった者は、生徒を除くと、及川をはじめ、すべて慶大関係者である。だから、彼らが福澤諭吉の<独立自尊>という言葉を知らないはずはない。それは何しろ、福澤の人となりを端的に示すものとされ、また福澤の教えの根本を言い表すものともされる言葉である。
 しかし大事な点は、彼らがその名句を単なる「知識」段階を超えて、認識し哲学して、わがものとしているかである。私の個人史に照らすと、慶大出身者には予想外に福澤精神に一知半解の徒が多いことも確かである。 
 問題にすべきは、彼らが公正・自由・自治について、公正⇒廉恥、自由⇒自尊⇒廉恥ととらえ、「廉恥(れんち)」を軸として解釈している点である。
 
 周知のとおり、「廉恥」(心が清らかで、恥を知る心が強いこと)⇒「廉恥心」(清らかで恥を知る心)は、日本古来の―より正確に言えば、中国の儒教(孔子・孟子)に端を発する―、日本人の伝統的な美徳とされている。では、その「恥(はじ・チ)」―耳を赤らめて心で恥じるの意(偏が耳、旁が心)―とは何か。
 それは簡単に言うと、人前で「恥ずかしい」思いをすることによって、その思いを二度としないように振る舞おうとする一種の行為規範である。恥ずかしいという感情は元来、当人の自己評価が対人関係のなかで相対的に低下し⇒自尊心が損なわれる状況下で生じる。この「羞恥心」はそのままに、人の笑い物になったり、世評が悪化するのを心配する気持ちと結び付く。ここではしたがって、人の目による批評が社会的な行為―社会規範への適応―を方向づける上で大きな規制力をもち、人の噂や嘲笑を恐れる余り、恥をかかないようにしようとする意識―「恥を知れ!」―に転化されるにいたる。
 この「恥」意識の脈絡上、私はただちに、アメリカの文化人類学者・ルース・ベネディクト(Ruth Benedict、1887~1948)の古典的名著『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword、1946年)を想起する。アメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である同書では、日本文化が西洋文化の対極の位置に置かれ、後者が内的な良心を意識する「罪の文化」、前者が外的な批判を意識する「恥の文化」と定義された。
 私はさしあたり、この「罪の文化guilty culture」vs.「恥の文化shame culture」という「文化の型(pattern≠type・類型)」の当否を問うつもりはない。しかし、ベネディクトによる、「恥」という日本文化固有の価値の分析自体は、見事な仕事ぶりとして評価する。
 「恥は他の人々の批評に対する反応である。他人から公然とあざけ笑われ、値打ちがないといわれるか、あるいは、あざけられたと思い込むか、そのいずれかによって、人は恥辱を被る。どちらの場合でも、恥はよく効く道徳的拘束となる。だが、それには、実際に人前のことであるか、それとも少なくとも人前でのことだと思い込むか、といった条件が必要である」(同書)。

 恥の感覚(廉恥心)は根本的に、自己の行動に対する世評に気を配ることであり、したがって他者の判断を基準にして自己の行動の方針を定めることである。この行為基準の外在性の問題は、武蔵高等工科学校の校是に即して、(前述のとおり)宮尾薫によって明言されていた。すなわち、「公正」とは「世間に恥じない道を歩いてもらいたい」ことである、と。
 日本人は古来、特に青少年の教育[躾(しつけ)]に当たって、「笑われるぞ」・「名が汚れるぞ」・「恥ずかしくないのか」などという説教を垂れてきた。これが要するに、世間に顔向けできない、世間様に対して申し訳がないといった、世間体を慮っての説教であることははっきりしている。
 この、いわゆる「世間」こそ、【序】で論及された「歴史的・伝統的システム」にほかならない。ここで立ち入った再論は割愛して、歴史学者の阿部謹也(1935~2006)による日本独特の「世間」―フッサール現象学の「生活世界」概念のとらえ返し―に関する優れた考察の一端を紹介しておきたい。
 
 「『世間』とは人を取り巻く人間関係の枠であり、現在と過去に付き合った全ての人々、将来付き合うであろう人を含んでいる。原則として日本人だけであり、外国人は含まれない。『世間』には贈与・互報の原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性という特徴がある。(中略)そのほか『世間』には生者だけでなく死者も含まれていることを忘れてはならない。さらに『世間』は自律した西欧的な個人を主体とする関係ではなく、呪術的な関係を含んでおり、一人一人の人間は『世間』のなかでは全体と密接な関係をもって生きている」(『日本人の歴史意識』岩波新書、2004年)。
 「『世間』とはパーソナルな人的な関係で、いわば個人と個人が結びついているネットワークであり…、その人が利害関係を通じて世界と持っている、いわば絆である…」(『日本社会で生きるということ』朝日新聞社、1999年、抄出)。
 「日本の社会はあらゆるところに『世間』が作られている。私たちは皆その『世間』の中で生きており、その『世間』が私たちの行動を最終的に判定する機関となっている。どのような会社にも官庁にも、新聞社にもあるいは警察署にも『世間』は作られており、『世間』に属していない人は一人もいない。それは冠婚葬祭のすべてにわたって私たちの行動を規定している。…『世間』は差別的で排他的な性格をもっている。仲間以外の者に対しては厳しいのである。現在の日本の社会においても『世間』は厳然として存在しており、どのような組織にもそれがある。自分がどの『世間』に属しているのかを知らない者はいない。しかも『世間』には序列があり、その序列を守らない者は厳しい対応を受ける。それは表立っての処遇ではないが、隠微な形で排除される。それぞれの個人はその『世間』の中で自分の位置を守るべく努力しているのであって、出世とはいわないまでも落ちこぼれないように頑張っているのである」、「わが国の個人は西欧と異なって直接社会を構成しているわけではない。個人と社会の間には『世間』があり、それが個人の行動を規制している」(『学問と「世間」』岩波新書、2001年)。
 「共同体と『世間』は互いにあいいれない概念であるかにみえる。しかし『世間』はいわば浮遊する共同体ともいうべきもので、ここでも我が国における個人のあり方が反映されている」(『「教養」とは何か』講談社現代新書、1997年)。

(ⅱ) <独立自尊>の問題 
 武蔵高等工科学校の創始者一同、慶大関係者&若者たちは究極するところ、自己の行為の基準を「世間」共同態という他者の側に求めている。(註:「共同体」と言えば、村落共同体を連想し、地縁・血縁で結合した何か固い実体的なものを想定しがちである。これに対して、私はもっと個人と個人との流動的で相互作用的なネットワークとしての「準拠集団」の意味を込めて、「共同態」の語を使用する。)
 では、慶應義塾の本元・創設者の福澤諭吉(1835~1901)、彼の代表的な言葉で戒名(「大観院独立自尊居士」)にも用いられた言葉<独立自尊>には、どういう思想内容が盛り込まれているのだろうか。
 福澤は教訓集『修身要領』(慶應義塾編纂、1900年「時事新報」に発表)において、<独立自尊>の人を、「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの」(第2条)と定義し、個人→家族→国民→国家の順でそれぞれの<独立自尊>を省察している。彼はまた、当時の大ベストセラー『学問のすすめ』(1872~76年)において、一身の独立を、「自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきをいう」と定義し、独立の価値の重要性に照らして、「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者は次第にこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる『習い、性となる』とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり」(第三編)と喝破している。
 
 そもそも福澤の思想世界には、「一身独立して一国独立する」という命題がある。
 『学問のすすめ』はこう述べている。「自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり」、「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈(ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず」(初編)。
 福澤の場合、西洋文明の基底をなす人間(一身)および国家(一国)の「自由独立」が正確に受け止められており、その思想的な構えは「一身独立→一国独立」であり、この逆の「一国独立→一身独立」ではない。「わが日本国中も今より学問に志し気力を慥(たし)かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり」(第三編)。
 ただし現実問題として、この福澤における、「一身(一国を構成する個人)独立」→「一国(国際社会を構成する当事国)独立」の命題では、彼の後期の文章・作品におけるほど、前者(一身独立)に対する後者(一国独立)の優位が主張されていく。彼は1880年代に入って、当時の日本を取り巻く国際情勢が逼迫する―ヨーロッパ帝国主義が怒涛のように押し寄せる―につれ、対外強硬論⇒軍備拡張論に説き及んでいる(cf.「東洋の政略果して如何せん」1882年)。
では、福澤の思想は「一国独立→一身独立」に変貌を遂げたのだろうか。彼は国家主義者に成り果て、「民権」の伸長を含む国内の「近代化」こそ対外的独立の前提条件とする年来の思想を、無造作に脱ぎ捨てたのだろうか。
 慎重に考慮すべきは、彼の対外強硬策が重大な国際危機を切り抜けるための戦術であり、その限りにおいて彼の政治上の状況判断にもとづく応急処置にすぎないことである。したがってまた、彼の「一身独立→一国独立」という、根源的な「人間⇒教育」観に立脚した論理構造が確固とした揺るぎない思想的構えにほかならないことである。
 彼の「一身独立→一国独立」(より具体的にいえば、「一身独立→一家独立→一国独立→天下独立」)の原理は、一にかかって、人間個人の「独立自尊」を推進する教育に支えられている。
 彼は『学問のすすめ』のなかで、おぞましい官尊民卑の風潮を嘆じながら―「みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居るの道を知らざる」(第四編)―、日本人の一人一人が<独立自尊>の精神を身に付けるように、教育―私学・慶應義塾に拠った独自の在野的教育活動―に力を尽くすと、高らかに宣言する。
 「わが国の文明を進めてその独立を維持するは、ひとり政府の能くするところに非ず、また今の洋学者流も(おおむね、みな官途につき-引用者)依頼するに足らず、必ずわが輩の任ずるところにして、先ず我より事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、またかの洋学者流のために先駆してその向かう所を示さざるべからず」(第四編)。
 そして、この「独立自尊」の思想的地平から、彼の『文明教育論』(1889年)では、教育そのものがいわゆる「発育」の思想としてとらえ返されるとともに、学校教育が知識・技術の詰め込みに陥いる事態が警告されている。
 「学校は人に物を教うる所にあらず。唯その天資の発達を妨げずして能く之を発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしく之を発育と称すべきなり」。
 「いたずらに難字を解し、文字を書くのみにて、さらに物の役に立たず、教師の苦心はわずかにこの活字引(いきじびき)と写字器械とを製造するにとどまりて、世に無用の人物を増したるのみ」。

 福澤はこうして、「人を束縛してひとり心配を求むる」教育(『学問のすすめ』第三編)―子供たちを学校に縛り付け、知識・技術をやみくもに注入する教育⇒「教育の国家主義」―と断然決別し、「人を放ちてともに苦楽を与(とも)にする」教育(同)―子供たちを自由にして、一緒に学び合いながら、一人一人の子供の学習過程(「発育」)を援助する教育⇒「教育の民主主義」(ジョン・デューイ)―に全力を傾倒する。
 
 彼は言明している、国家があって人間⇒教育があるのではなく、人間⇒教育があって国家がある、と。
 「発育」としての教育は、人間一人一人―上下貴賎・老若男女を問わず―の生涯にわたる問題である。ここではせんじ詰めれば、個々の人間が<独立自尊>の体現者―自分で学問=思想=哲学し、自分で「口に言ふのみにあらず躬行実践」(福澤「慶應義塾の目的」1896年)し、そして自分の国をどこへ持っていくかも、自分の責任において決定できる人間―になったときはじめて、「一身の独立自尊→一国の独立自尊」の論理が現前し、「全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくない」(福澤『福翁自伝』1899年)状況下、個人的自由⇒国民的独立⇒国際的平等が実現する。
 「地球上立国の数少なからずして、各(おのおの)その宗教、言語、習俗を殊にすと雖も、其国人は等しく是れ同類の人間なれば、之と交(まじわ)るには苟(いやしく)軽重厚薄の別ある可らず。独り自ら尊大にして他国人を蔑視するは、独立自尊の旨に反するものなり」(前掲『修身要領』第26条)。

● 以上に見られる通り、慶應義塾と武蔵高等工科学校⇒武蔵工大とでは、建学の精神に関して、一見似てはいるが、本質的には―理念的構えの取り方の点で―大きく異なる。これまで長い間、後者の校是は前者のそれの直接的な影響下にあると巷間に流布されてきたものの、両者における理念・思想の出発点の地平が質的に異なる点が注視されなければならない。
 <独立自尊>の精神では根底的に、人間の行為の基準が内在的⇒「一身の独立」[官(公)vs.民(私)]という自己(個)の生き方を問う「自己」志向性にある。 
 「公正・自由・自治」の精神では根底的に、人間の行為の基準が外在的⇒「世間」という官なり公なりを何かしら含有する共同態に組み込まれた「他者」志向性にある。[ちなみに、日中戦争(「支那事変」)から太平洋戦争(「大東亜戦争」)にかけての一時期、校是の一つである「自由」が除去され、「剛健」がこれに代わっている点が注目される。]
                                   2011年8月15日 安田忠郎
           学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(2)

【破】 自由からの逃走 
 

 そもそも学校法人・五島育英会(以下、文脈上許せば【育英会】ないし【法人】)とは、どのような組織体なのでしょうか。 
 武蔵工業大学(以下、文脈上許せば武蔵工大ないし工大)に28年間(1980.4~2008.3)在職し、その弊風の改革に努力しつづけた私は、結論的に断言してはばかりません。【育英会】は青少年の「教育」―可能態から現実態」への転化―という「公共性」の高い重要な仕事を行うにふさわしい「学校法人」ではない、と。
 私は長い間、【育英会】という組織の体質を、「大学・学校・教育・学問とは何か」の視点に立って、批判的・構造的にとらえ返しつづけてきました。その全面的批判の開陳は他日に譲ることにし、ここでは次のような組織上の根本的な問題点を4点指摘するにとどめます。それらは【育英会】のあり方を突きつめて考えようとするとき、けっして外してはならない、相互に連関する重大なポイントにほかなりません。
 

 (1)【法人】[1955年設立、創設者(初代理事長)・五島慶太]は、「東急グループ」―東急電鉄(創業者・五島慶太)を中核とする266社9法人(2010年3月末現在)からなる企業グループ―に属する1社である。
 [ちなみに、東京急行電鉄株式会社(公式略称は「東急電鉄」、1922年設立の目黒蒲田電鉄に始まる)は、東急グループ内外を問わず東急グループの事業中核会社として認識されており、「東急本社」・「電鉄本社」と表現されることが多い。]

 問題は【法人】が歴史的に東急電鉄の支配・影響下に置かれ、前者の「理事長」人事―「理事長は、学校法人を代表し、その業務を総理する」[私立学校法(1949年)第37条第1項]―にしても後者に管掌され、現に後者の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい点である。
 (註:【法人】の役員人事の場合、理事長だけでなく、専務理事および常務理事も、多少の例外はあるものの、東急電鉄or東急グループOBの指定席に成り果てている。)

 (2)【法人】の運営する学校群で中枢に位置する学校は、武蔵工大⇒東京都市大学である。
 [ちなみに、工大⇒東京都市大学は、武蔵高等工科学校に端を発する。すなわち、1929年「武蔵高等工科学校」(各種学校)を開校→42年「武蔵高等工業学校」(専門学校)へ昇格→44年「武蔵工業専門学校」へ改称→49年「武蔵工業大学」(新制大学)を開設→2009年工大が「東横学園女子短期大学」(1956年【法人】が設立)を統合して「東京都市大学」と改称。] 
 
 問題は工大の「学長」人事―「学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する」[学校教育法(1947年)第92条第3項]―の実権を、【法人】(理事長←東急電鉄)が手中に収めている点である。
 
 ところで、大学は―私立大学といえども―、単なる会社(営利社団法人)ではない。いやしくも学校教育法で、こう規定された存在である。「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第83条第1項)、「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする」(同第2項)。[cf.(新)教育基本法(2006年)第7条:「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」]
 そして、戦後日本の「民主主義」下の大学は、何しろ日本国憲法(1946年公布・翌年施行)によって「学問の自由」(第23条)⇒「大学の自治」⇒「教授会の自治」が保障された組織体である。 
 「学問の自由(アカデミック・フリーダム)」は、現代民主主義社会における基本的人権の一つである。そこには、具体的に「研究の自由」・「研究発表の自由」・「教育ないし教授の自由」が含まれる。そしてその延長上に当然、主たる学問の場である「大学の自由」、また「大学の自由」を保障するための組織原則である「大学の自治」、さらには「教授会の自治」が含まれる。

 【法人】は一応、工大の「学長」人事に対して、「民主主義」的選挙としての体裁を取り繕う。
 そこでは、3年ごとの学長「選」に際して「学長候補者推薦委員会」が立ち上げられる。同委員会は〖大学側〗委員=「教授会」の代表者と、【非・大学側】委員=「理事会」の代表者+「評議員会」の代表者で構成され、「合議」の結果、学長候補者1or2名を選出する。
 そして、【法人】の「理事会」―「学校法人の業務を決し、理事の職務の執行を監督する」(私立学校法第36条第2項)―では、同委員会において推薦された学長候補者から学長を選定し、理事長がこれを任命する。 
 
 これは一見すると、工大側の「総意」を何らか汲み上げた方策のように思われる。
 だが、問題の根は深い。注意すべきは、同委員会を構成する【非・大学側】委員と〖大学側〗委員の量的関係において―絶対数自体に歴史的変遷はあっても―、前者が後者より相対的に多いという点である。同委員会では、前者の後者に対する数的優勢が常態化しているため、総じて前者の思惑どおりに事が運ぶことになる。
 【非・大学側】委員(「理事会」・「評議員会」の互選による代表者)とは誰か。彼らは【法人】(←東急電鉄)の「特殊意思」(=組織的利益)の体現者―具体的には、工大以外の【育英会】ないし東急グループの関係者―にほかならない。同委員会の席上、彼らは結局、その特殊的組織益にかなう「学長候補者」を選出することに汲々とする。
 そもそも【法人】の意思決定機関たる理事会および評議員会では、その数的構成が工大教員よりも東急グループ主要企業の役員・OBが圧倒的に多い以上、「衆議」自体の必然的帰結が見え見えである。  
 
 〖大学側〗委員にとって、学長選(同委員会→理事会)の帰趨する所は明白である。誰が学長になるかは分かっている―。この、とんでもない、否、滑稽きわまる事態に直面して、彼らはどのような態度を取るにいたるか。
 彼らは総じて―全教授の互選投票でどういう顔ぶれがそろうかは時代状況に左右されるとはいえ―、この茶番に組するか、はたまた反発するかに分かれる。「偽装民主主義」に依拠する同委員会において、彼らの多くは諦めムードに包まれて、【非・大学側】委員(=育英会の特殊意思)に妥協する・擦り寄る・馴れ合う者であり、彼らの一部はごく少数ながら、大学の理念ないし「一般意思」(ルソー)にこだわり、【非・大学側】委員に負け戦を百も承知で反抗し、ぎりぎりまで挑戦する者である。

 (3)【育英会】には教員、事務員、そして「技術職(員)」(技術員)が存在する。ここでは、事務員のありようを問題視したい。
 【育英会】に採用・雇用された事務員は、【法人】事務局(本部)および傘下校(「東京都市大学グループ」+東急自動車学校)事務局・事務室に配置される。2011年度現在、【育英会】全体の専任事務員は計約230余名、その内、【法人】事務員が約40名、大学事務員が約150名(ほぼ半数が女子、cf.大学専任教員計260余名)である。(ちなみに、同年度の専任技術員は計110余名であり、その約50名が東京都市大学、約60名が東急自動車学校に所属する。)
 憂うべき問題は、【育英会】における全事務部門が「人材」に乏しく、中でも幹部事務員に「力量」不足も甚だしい者が多い点である。

● 大学の事務員に関して、私は学生時代の忘れがたい思い出話のワンシーンに触れてみたい。
 1967年5月の在りし日のこと、私たち大学4年生数人(慶應大学経済学部ゼミ仲間)は、ある飲み屋で、「就職」談議に花を咲かせた。時あたかも高度経済成長期であり、就職先がより取り自由の状況下、私たちは「1度しかない人生における身過ぎ世過ぎとは何か」をテーマに、談論風発に興じた。
 「会社に勤め、給料をもらい、メシを食うって、どういうこと?」、「「資本主義社会じゃ銀行なんかが一番安泰か」、「資本主義の弱肉強食の世界を駆けめぐってみたいね」、「今から定年時の退職金の計算しているオメデタイ野郎がいるぜ」、「名誉とか地位とか財産とかにとらわれない生き方って魅力的だ」、「フリーの一匹狼には作家生活なんてふさわしいのかな」、「すまじきものは宮仕えさ」等々。そしてさらに、次のような会話が消えがたく私の記憶に残った。
 学友N「大学(KEIO)で来年度、事務員を募集する話を知ってるか?」
 学友O「事務員は普通、高卒採用じゃないのか…」
 N 「高卒だけでなく、大卒も採用するとのことだ。」
 O「学校の事務屋に大卒が必要なのかね。だいたい、学校事務―学校事務員が行う事務―なんてのは、ルーチンワークの典型で発展性のない仕事だからな。KEIO卒で学校事務屋になるようなヤツは、それこそ『アホ』『おバカさん』だろうよ。」
 学友K「しかし、学校には会社に比べて、時間に余裕がある。特に大学には長い夏休みがあるしね。この時間を活用して心豊かに生活できれば、これ幸いだ。大学の事務員になる選択肢も軽視すべきではないよ。要は<生きることの核>さえ手放さなければ、どんな仕事に携わっても構わないだろう。」
 私「なるほど、ものは考えよう、どんな職業に就こうと結局は、自分の生き方の質が問われる。自分自身としては、<生の核>に生々しく迫る手応えのある生き方をいつまでも追求したいね。」
 学友H「僕にとって学校の事務員も教師も、全く興味のない職業だ。事務屋についてはOの話に共感するし、教師については論より証拠、これまで小中高をとおして魅力的な教師に出会ったことがなく、KEIOの教師にしても言行不一致のいい加減な連中が多すぎるし…。僕としては、ただ無目的に、惰性で生きたくはない。あくまで今の時代の最前線で活躍してみたい。資本主義が問題的な社会構成であろうと、この現実のただ中―例えば市場争奪戦―で自分の能力を最大限に発揮してみたい。」
 [ちなみに、前出の学友O=大野恒邇(私より4歳年長)はドイツで起業後に雨の朝パリに客死(60歳)、K=河上博昭(私より2歳年長)思想的流転の旅路をたどって頓死(52歳)、H=花渕節夫(私と同年齢)は銀行マンとしての立身出世の途上で急死(53歳)。あるいは人生朝露の如し、あるいは人生無上の愉快…。]

● 学校事務員は一般に、会計・給与・福利厚生・服務・文書・施設管理等々の事務を処理する。この学校事務は確かに―旧友Oが喝破したように―、基本的にルーチンワーク(日常的に繰り返される業務・作業)そのものであり、あらかじめ決められた段取りや流れに従えば、本来的に誰にでもなしうる仕事である。
 
 私はかつて北炭幌内炭鉱で、学校事務員と同様なルーチンワークに携わったことがある。1968年10月に同鉱「労務課」に配属された私は、「外勤」の職務―「部落」(炭住が集合する地域)管理―に励むかたわら、いっとき(同年12月~翌年1月)「内勤」の職務―給与・福利厚生・備品照合・労働協約手続き・官庁指定統計ほか―に一臂の力を貸した。
 私自身の同課「内勤」体験によれば、「ルーチンワーク」といわれる定期的な事務作業は、一種の「パターン認識」による、単調・平板・容易・退屈な仕事であり、初歩的な手ほどきさえあれば、(旧友Oの侮言どおり)どんな「アホ」・「おバカさん」でも、費やす時間の長短こそあれ、ほどよく処理・遂行することのできる仕事である。
 実際、当時の「内勤」専従者―社員13名(役職者を除く平社員)+鉱員6名―は押しなべて、該ルーチンワークを細大漏らさず、そつなく―自己流ににムダ・ムラ・ムリを無くす工夫を重ねながら―やりこなしたものである。 
 ただし、そこに1人の例外者Uがいた。彼は最終学歴が戦前の小学校卒で40台の鉱員である。彼は決まりきった日常の「社会保険」の事務でも、ややもすると思案投げ首で、惨憺たる苦心を払いつづけた。彼には、自らの本源的な「能力」(=物事を成し遂げることのできる各人の総合的な力)の何かが欠けていた。
 私はデスクワークの万事に悪戦苦闘する彼の様子を見かねて、つい何度となく手を貸した。彼は私の助力を受ける度に、こくんとお辞儀し、思わず知らず破顔一笑したものである。その瞬間の、純粋な善意に満ちた人懐こい屈託のない彼の笑顔が今も、くっきりと私の瞼に浮かんでやまない…。 
 ちなみに、当時の同課「内勤」員19名の学歴は、社員2名が大卒、残りの社員が高卒、鉱員が高卒or中卒or戦前の小卒[2名 (Uを含む)]である。そして、同課「外勤」 員計60名はすべて鉱員であり、彼らの学歴は高卒or中卒or戦前の小卒(約20名)である。また同課の役職者(内勤・外勤の総轄)の学歴は、M課長が東大経済学部卒(M=政安裕良のことは「安田塾メッセージ№21」を参照)、T課長代理が早大政経学部卒、K係長およびS係長が戦前の小卒(⇒実務家上がりの苦労人)である。
 なお、当時の私は同課の数少ない大卒の「新入社員」として、外勤と内勤の双方にまたがる労務本務を全うする「一従業員」であるとともに、どこまでも炭鉱現場の視点から、日本資本主義の原点たる石炭産業の本質を一心に追究する「一学徒」であった。

● 問題の【育英会】の事務員は一体、どのような力量の持ち主であるのか。彼ら事務員の面々は、問題のルーチンワークに対して、どういう態度を持し、どういう能力を発揮してきたのか。
 私は二十数年間、武蔵工大の一教師として、多くの「【育英会】-工大」事務員の言動をつぶさに見聞しつづけた結果、いたく思い知ったものである。彼らの能力の質では全般的な傾向として、当のルーチンワークを何とかやり遂げるだけで精一杯であり、仕事内容の「目的合理性」(マックス・ヴェーバー)⇒効率化を進める点にいたってはおよそ思案の外である、と。 
 彼らの学歴は、ごく少数が高卒ながら、女子がほとんど短大卒であり、男子がほとんど4年制大学卒である。私は時代状況が余りに異なるにせよ、彼らの学歴と炭鉱マンのそれを比較するとき、感情が複雑怪奇にねじ曲がり、名状しがたい感慨に浸る。 
 人間の成長・発展史上、「学歴」と「能力」が比例しないことは周知の事実である。学歴自体がより高まれば(小卒→中卒→高卒→短大卒→大卒)、それだけ総体的な能力もより高まるなどというのは、愚かな謬見以外の何物でもない。各人の人生行路上、決定的に重要な問題は、発達段階の折々の節目で、いかに伸びやかで瑞々しい感性を培かったかである。そして、素朴で素直な、あふれんばかりの好奇心(⇒知性と感性の相互促進化)をはぐくみつづけたかである。
  私は率直に問わざるをえない。果たして、彼らは尽きない可能性を秘めた青少年時代をとおして、多少なりとも夢にチャレンジし、想像力を飛翔させ、豊かな発想力⇒構想力を喚起しつづけただろうか。彼らは多感な青春の一時期に、またたく間の出来事であろうとも、遠大な理想を抱き、理想と現実のギャップに苦しみ、理想と現実の接点を探す努力を重ねただろうか、と。 

 工大時代の私は、彼ら学校事務員の生態を目を逸らさずに直視しつづけた。
 彼らは全体的に、視点―物事を考える立場―が余りに硬直化し、チャレンジ精神―困難な問題や未知の分野に立ち向かう意欲―が余りに阻喪し希薄化している。彼らは学校事務のルーチンワークに呪縛された、その意味での「タコツボ型人間」にほかならない。
 なぜに、彼らが実務のタコツボにはまり、そこから脱出できない状態下にあるのか。
 よって来たるゆえんは第一に、前述の通り、学校事務職に就く以前の彼らの生き方(広義の思想的たたずまい)が問題的である点である。
 私は彼らの、一事が万事杓子定規なやり方に呆れ返るとき、決まって、郷愁のように、炭鉱人(ヤマびと)の躍動する人間的たたずまいを思い起こしたものである。私が見知ったヤマびとは、一種異様な炭鉱世界(地上と地下の往還)の日常に封殺された自らの生そのものを、幼少時から豊かな現場感覚・生活感覚を鍛えつづけながら、また独自の時間意識に基づく死生観(感)→「自然-世界-宇宙」観(感)を紡ぎつづけながら、ひたすらに貪り、しぶとく生き抜いていた…。  
 第二に―これが第一より一層重大な事態を来たす点―、彼らを雇用したところの【育英会】⇒傘下各校という場がもともと「開かれた社会」(カール・ポパー『開かれた社会とその敵』)には程遠い点である。
 この点に関して、前掲(1)の「理事長」人事、(2)の「学長」人事のありさまが重要な示唆に富む。両人事が実質上、【法人】(←東急電鉄ないし東急グループ)の特殊意思によって壟断されつづけた事態こそ、そのままに【育英会】という組織の閉鎖性を物語っている。
 私は工大事務局幹部の口からよく聞かされたものである。「我々は言えない、言わない、言う必要がない」と。
 
 【育英会】(←東急電鉄)は、個々人の利害関係(地位・財産・名誉等⇔裸の自然的生)が絡む、したがって欺瞞(ニセモノ)をはらみ、虚飾(欺瞞をホンモノとして押し付ける手段)に満ちた、一種の「権力支配」の秩序である。そこは批判の自由―「批判はどのような手段で行ってもよい」―が許されない、権威主義に染まった「閉じられた社会」(ポパー)である。ここでは、各人が利害に生きている限り―例えば、オイシイ餌につられて、「もっと出世したい」・「もっと給与を弾んでくれ」・「もっと名誉が欲しい」という具合に―、自発的・心情的に、その権力支配の構造(掟=観念的価値形態)に参入せざるをえない(「強制された“自発的”心情」→もたれ合い)。
 【育英会】事務員各員は、どう生きようとするのか。彼らは果たして、「ニセの意識」が瀰漫する【育英会】ムラのシガラミを断ち切ることができるだろうか。「利害」共同体の大勢順応主義(コンフォーミズム)に組することなく、自分の「志操」を守り、「心に納得できないこと」をしないで済ますことができるだろうか。彼ら一人一人は実際に、「自分とは誰か」・「自分は何者か」という問いを立て、自分を見つめ、自分の立ち位置をはっきりさせることができるだろうか。容易ならざる重荷を背負い込む彼らの行く末やいかに―。

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                                   2011年8月5日 安田忠郎
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(1)

 私は「安田塾メッセージ」№30の最後に予告したように、№32~№36において、「学校法人・五島育英会」と対峙し、該組織の体質を対象化することにします。
 
 私の「武蔵工業大学」論は、これまで4回ばかり展開されました。
 ①論文「岐路に立つ武蔵工大―いま、なぜ大学改革なのか―」(『武蔵工業大学教育年報』第16号・2005年度版)。
 ②論文「『大学改革・日本改革』序説―日本と世界の関係の変化に即して―」(『武蔵工業大学教育年報』第17号・2006年度版)。
 ③論文「専門知と教養」(『武蔵工業大学教職課程研究年報』Vol.3、2008年3月)。
 ④講演「虚妄の大学改革―いわゆる文科系出身者が工学部長に就任して―」(第2回安田塾、2009年6月27日)。
 この①~③では、武蔵工大の、いわば待ったなしの問題状況が「大学改革・教育改革・学問改革」の視点から論述されました。そして④では、主として「武蔵工大」改革の現状が批判的に検討され、その延長線上で五島育英会の旧態依然とした体質―その場しのぎと場当たり主義―がいささか問題化されました。
 
 いずれにせよ、私は今回初めて、少なくとも文章上、五島育英会の組織構造上の問題点を本腰を入れて検討するものです。この批判的作業は、次のように進められます。
 初め()の構成部分では、私自身の過去との真の絆が探し出されます。そして、中()と終わり()の構成部分では、その「序」が受け止められながら、「五島育英会とは何か」という、私自身の体験に根ざした問いが立てられ、私自身の答えが導き出されます。
 なお、№32では【序】が、№33では【破】が、№34~36では【急】が扱われます。

【序】 過去との真の絆 
 

 翻って考えると、もともと私は武蔵工大の教職に就いて以来、大いなる問題意識を駆り立てつづけてきました。それは自らの≪生きる場≫で、いかに哲学するかという課題意識にほかなりません。
 この私の問題意識⇒課題意識は、大学生時代に芽生え、以後の炭鉱時代→大学院生時代にはぐくまれ、やがて諸種の非常勤講師を経て、武蔵工大専任講師に就任した時分に(1980年)、一段と活性化しました。
 そして早々に、私はこの自ら開いた思想的境地の意味合いを具体的に明確化する劇的な場面に出くわしました。それは、私にとって夢寐(むび)にも忘れられない凄惨な「大事件」に関わる、旧友Sとの再会の場面でした。 
 

 1981年9月25日、私は自らの炭鉱体験を総体的にとらえ返した著作『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版)を公刊しました。
 本書は予想外に版を重ねて売れました。「売れた」理由は本書の場合、類書がいたって少ない点、書評が多数の新聞・雑誌に掲載された点、私の畏敬する上野英信(1923~87、記録文学作家)、井上光晴(1926~92、小説家)、花崎皋平(1931~、哲学者)の三者の推奨に与った点、何やかや色々あるでしょう。しかし一番大きな理由は、はっきりしています。同年10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」(北海道夕張市、安田塾メッセージ№21参照)が勃発したこと、これにより本書はにわかに世の注目を浴びるにいたりました。
 

 それは痛ましい事故でした。その惨状が今でも私の記憶に生々しくよみがえります。
 …地下810メートルの坑道でガス突出事故が、さらに火災事故が起きる。→救護隊が何とか34名の遺体を収容するも2次災害に見舞われ、坑内に“安否不明者”59名が取り残される。→坑内火災が収まる兆しも見えず、坑口を塞ぐ「密閉」作業が行なわれる。→しかし依然として火勢が衰えず、土壇場に立たされた会社は「坑内注水」による鎮火―炭鉱自体を残すために、火災現場に大量の水を入れて火災を消し止め、その後の採炭開始に備えること―という決断を迫られる。→問題は「注水」が“安否不明者”の確実な死を意味する「非人道的な」措置であること。会社側による「注水」提案は、“安否不明者”家族の猛反発を招く。→「注水」(坑内水没作業)の是非をめぐり、物情騒然たる状況下、林千明・北炭社長は10月22日の説明会で、ついに意を決して必死の声をふりしぼった。「注水することで命を絶ちます。お許しいただきたい。お命を頂戴したい・・・ということです」と。(なお、林社長は12月7日、手首を切って自殺を図る。一命をとりとめたものの、その後人知れず退社する。)会社側は“安否不明者”家族の戸別訪問で、「注水を許可する同意書」を取り付ける。→057.gif翌10月23日午後1時半、サイレンと共に、坑内全域に夕張川の水が注入される。前夜の豪雨で、夕張川の水は汚れて、赤茶けていた。1分間寒々としたサイレンが鳴り響く中、夕張市とその周辺の住民たちは、大人から子供までが黙祷を捧げる。→注水作業は約4ヶ月に及び、その後の排水作業を経て、遺体がようやく全て収容されたのは、事故から約5ヶ月後の1982年3月28日のことである。…
 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故は最終的な死者が93人、炭鉱事故としては、1963年の三井三池炭鉱炭塵爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱ガス爆発事故(福岡県嘉穂郡稲築町)の237人に次ぐ、戦後3番目の大惨事でした。
              ↓ 北炭夕張新炭鉱事故慰霊碑(夕張市清水沢清陵町)
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 1982年4月、私は2年ぶりに夕張の地を踏み、北炭夕張新炭鉱労務課員(当時)のSとの語らいの機会を持ちました。彼との有益な会話のやりとりは、以下の概容に見られる通り、私自身の思想的磁場を鮮明に浮き上がらせるものとなりました。[Sこと沢口忠良は、私の北炭幌内炭鉱入社時(1968年)の同期生であり、幌内炭鉱から夕張炭鉱→夕張新炭鉱(1975年営業出炭)→空知炭鉱(北海道歌志内市)に異動、後に歌志内市議会議員を務める。]

 「…毎日が地獄の苦しみだったかい?」
 S「地獄…ね、何をもって地獄というかだが…。炭鉱人の置かれた状況を形容して、<行くも地獄とどまるも地獄>といわれているしな。それに、人間というのは、地獄に長くいつづければ、それにも慣れてしまう動物だからな…」 
 「遺体の収容・確認作業は難航を極めたそうだが、何か関係したのか?」
 S「ああ、関係したな…、因果なもんだ。人間は最後に皆、骨になる…、見事に骨と灰になるわけだ!」
 「メディアが殺到して、大変だったろうな…」
 S「ああ、ヒドイもんだった!それこそ、この世の地獄を味わったよ!記者野郎が“起こるべくして起きた”事故などと、さも分かったように安直に書き散らすのが、無性に腹立たしかった。マスコミなんてものは、物事を上っ面で判断する中身がカラッポの集団だな。あの連中は炭鉱マンの素朴な生活感覚を土足で踏みにじっても、良心に恥じるところがない不逞のヤカラだ!」
 S「…ところで、安田の本、じっくり読んだよ。あれは長期間、ふつふつと執念を燃やしつづけて書いたんだろう。まあ、オレとは見解が分かれる箇所もあるが、全体として炭鉱問題の核心を鋭くえぐっていると思う。
 ただ、この際、オレは率直に安田に聞きたいんだ。炭鉱経営のエゲツナサとか暴虐性とか前近代性とか、世の人々から色々指弾されるが、じゃあ炭鉱会社は、ほかの企業と根本的に異質・異常な組織体だと言うのか。確かに坑内労働が死と隣り合わせだけに、事故死を遂げる者は他企業よりずっと多いだろう。でもな、マルクス経済学を鵜呑みにするつもりはないが、会社は会社であるかぎり、いつも<資本vs.賃労働>関係の根本矛盾にさらされているわけだ。企業でメシを食う人々―特にいわゆる労働者―は、程度の差こそあれ、みんな資本主義システムの被害者になる可能性を秘めているんだな。
 実は、オレ個人としては、安田に大いに期待していることがある。安田には今後、ぜひとも石炭産業の範疇に属さない会社、できるなら時代の最先端に位置する企業について、その仕組み・カラクリ・デタラメサを批判的に分析してもらいたい。石炭会社と、それ以外の会社を比較検討するとき、はじめて現代日本社会のトータルな企業構造をしっかりと見据えることができるんじゃないか―」
 「すこぶる貴重な意見だな。Sの言いたいことは、よく分かるよ。だが、今のオレはこう考えている。
 それこそ、マルクスの言う<資本の論理>は、貨幣経済が存続するかぎり、半永久的に、世界の隅々まで展開しつづける。今や、資本の自己運動的な展開が世界的普遍性を獲得していると言っても言いすぎじゃないだろう。だから、およそ企業は基本的に営利を目的とする組織体である以上、大なり小なり、利潤をめぐるトラブル・人災・首切り等といった宿痾(しゅくあ)に悩まざるをえないわけだ。
 しかし、そうは言っても、問題は日本の資本主義の場合なんだよ。欧米譲りの“近代”資本主義―これは“近代”民主主義との相互連関システムだ―が、どうやら進展しだすのはせいぜい日清・日露の両戦争あたりからで、全面的に展開するのは太平洋戦争の敗戦後、アメリカのフトコロに抱かれてから、とりわけ1950年代後半以降の高度経済成長期だな。日本の資本主義といい、民主主義といっても、これは内発的なものではなく、あくまでも外発的なものだ。外発的な日本の開化=“近代化”が、これまで見よう見まねで息せき切ってシャニムニ―時にぶっ倒れても―進められてきた。
 問題は日本の明治以降の“近代化”に、内発的な動機付けが欠落している点だ。これは、日本の歴史の内部には“近代化”自体を自発的・主体的に推進する活力が生まれなかったことを物語っている。きっぱりと言えば、日本は有史以来、人々の共同体的な関係の集合力が個人の内発する力―中でも個人の生活・思想における“自由”―を(強制的or誘導的に)抑圧しつづけてきた。この歴史上の問題状況は、古代日本から江戸時代の<鎖国>体制にいたるまで際限なく続き、そして明治以降今日までの“近代化”の過程でも、一定の変貌を遂げた場合はあるにせよ、実質的に脈々と続いている。
 このように見るとき、今のオレの思想的姿勢がSにも、おのずと伝わったんじゃないか。自分の現在の関心事は、資本の論理―つまり貨幣自体の論理―の問題(普遍)よりも、日本の<歴史的・伝統的システム>の問題(特殊)にある。要するに、現代日本のあらゆる組織機構は、“近代化”された形・体裁を取ってはいるが、その内部の人間関係は“近代化”されなかった歴史的・伝統的なシステムに拠っている―という問題だ。この日本的組織体の根本性格は、その組織が不祥事を起こしたり、危機的状況に陥ったりするとき、たちどころに判明する。例えば、ある不祥事が発覚した場合、しばしば1人の上司がそれを隠蔽しようとし、部下がその隠蔽作業に協力する事態が引き起こされる―。そこでは明らかに、“近代化”が標榜するような<人権>、自由・平等などはワレ関知せず、何よりも組織を無事に維持しようとする意識が、理念を捨てても仲間内の結束を守ろうとする意識が、やたら発動されてしまう。理念や目的のために組織があるのではなく、組織をやみくもに維持することがいの一番に要請され、そのために理念や目的も事実上廃棄されてしまうわけだ。
 結論を述べよう。およそ日本的組織は、会社も政党も組合も学校も、程度の大小こそあれ、<近代的システム>と<歴史的・伝統的システム>との、矛盾に満ちた―両者は互いに対立しながらも、結局は癒着し、ここぞという決定的場面で後者が一つの強力な権力として突出する―結合体というべきものだ。…」
 S「…なるほど、なかなか興味深い話だ。そうすると、手っ取り早く言えば、炭鉱も、いま安田が関わる大学も、日本の伝統的特異性が刻印された点で、同質の組織ということになるが…」
 「うんうん、それだ!オレはね、炭鉱人も大学人も<日本人類型>として、さしたる違いはないと、いつぐらいからか考えつづけてきた。たしかに法律上は、例えば北炭(株式会社)は営利法人、いまオレが在職中の武蔵工大(学校法人)は公益法人と区別されるが、しかし両者は共に特殊日本的性格を帯びた組織として、言ってみれば五十歩百歩だな。
 考えてみれば、オレは長年、学校生活に児童・生徒・学生・院生として、また教師として関わりつづけてきた。教えを受ける側として何と21年を費やし、教える側として―大学院博士課程以降1979年までの非常勤講師も含めて―すでに11年を過ごしている。ところが、こんなに長く学校社会の住人でありながら、<学校とは何か>と自らに問いを発した最初は、1960年代後半の<大学紛争>時だった。ここでは、Sも直面しただろう、全共闘の<自己否定>-<大学解体>論、これを自分なりに随分勉強したな。やがて北炭を経て、オレは大学院時代以降、炭鉱問題と比較対照しながら、改めて大学を中心とする学校問題を自らに引き寄せ、掘り起こしつづけてきた。そしてようやく、これまで温めてきた思いが、確信に近いものになりつつある。つまり、<歴史的・伝統的システム>―日本人の日常的な生活態度(エートス)―の観点に立つとき、日本の大学教師をはじめとする学校教師もまた、炭鉱労働者と基本的に同質の、(先に述べた通りの)問題状況下にある―。
 明治の昔、『坑夫と土方がケンカしているのを人間が見ている』と言われた。何しろ炭坑夫は、三井三池炭鉱や北炭幌内炭鉱の使役した<囚人>に象徴されるように、戦前・戦後を通じて、時代の社会的差別と偏見にさらされつづけた。また明治以来、『炭鉱とぬるま湯を出れば風邪を引く』と言われるほどに、炭鉱共同体=石炭城下町の閉鎖性―外部社会への適応性の喪失―が指摘されつづけたものだ。
 しかしオレに言わせれば、日本流の“疑似ないし偽装”近代化の条件下、坑夫-土方-囚人-人間もヘッタクレもない、炭鉱-外部社会もヘッタクレもない!もちろん炭鉱人(肉体労働者)-大学人(知識人)もヘッタクレもあるものか!
 繰り返し強調するが、日本人の日常生活は<歴史的・伝統的システム>によって営まれている。日本人は銘々が日常的に何らかの共同体(村・ムラ)―例えばA炭鉱ムラとかB大学(同窓会)ムラとかC労働組合ムラとかD政党(派閥)ムラとか―に所属し、その内(ウチワ)と外(ヨソモノ)との“重層的・伸縮的”な区別のもとで、対内道徳(⇒以心伝心・仲間意識・身びいき⇔仲間外れ・村八分・スケープゴート)および対外道徳(⇒敬語体系/慇懃無礼/人見知り/差別性・排他性→暴力)の二重性を意識して汲々として生きている―。
 この事態を今日的な<世界の中の日本>の視点から巨視的にとらえ直せば、我々日本人が何者であるかがよく見えてくるわけだ。日本国=日本村の国民=村民はみな一様に、ウチとソトの双方に共通の価値観・規則・態度を設定できないがゆえに究極するところ、【対内的には】日本村全体に情感的に同調・同化し、【対外的には】諸外国に慇懃無礼にorよそよそしくor排外的に振る舞う―総体に<他者>との対等・平等な、実質的に意味あるコミュニケーションをうまく図ることのできない<日本的イナカッペイ>である。それが<近代的な自由な個人(インディヴィデュアル)>に程遠いものであることは言うまでもないだろう。…」
 S「…いつか、大学社会に関する本を著わすつもりかい?オレは『炭鉱(ヤマ)へゆく』の文章スタイル―体験を対象化してとらえる書き方が好きだな。読みやすいというか、それを読みながら安田の中に自分と共通な何か基本的なものを発見して嬉しくなったんだ―」
 「オレは大学問題については、いつか必ず書くよ。ただし、誤解のないよう触れておくが、自分が物事を考え、文章を書くのは、いわゆる学会での業績主義に呪縛されることなく、それを乗り越えた次元に主体的に生きるため、ということだ。
 オレは今までの学会活動を通して、つくづくと痛感しつづけてきた。学会を構成する学者・研究者の大多数は、専門のタコツボにはまり、そこから脱出できない、いわゆる<専門バカ>である、と。彼らは一般人としての教養すら身につけていないため、専門外のことについては常識的な判断すらできない。そして、重箱の隅を楊枝でつついた、箸にも棒にも掛からない、本人の仲間内以外は誰も関心を示さない研究成果を発表しつづける…。彼らの知性の貧しさに痛みを覚えるよ。日本の学会(→学界)は―まあ今のところ一応オレの入会する三つのそれに限っておくが―、<タコツボ型専門人>の共同体として、ひどく自己完結的で、絶望的に閉鎖的だな。
 そもそも1人の人間が生き、考え、書くというのは、何を意味するのだろうか。
 1回限りの生命を享けたオレにとってハッキリしている点は、こうだ。人間が生きるとは即、考えることである。生きつつ考え、考えつつ生きるとは即、<学問(=学び問うこと)>を営むことである。要は、自らの掛け替えのない生を自覚的に生きることがそのままに≪学問する=思想する=哲学する≫ということだ。
 ここで<学問><思想><哲学>という名詞を、あえて動詞化して≪動態化≫した点に注目してほしい。
 哲学史上の話になるが、<哲学 philosophy>という語は、ギリシア語の<知 sophia を愛する philein>という意味に由来する。哲学者とは、<知者 sophos>という知を<所有する>者とは反対に、知を<愛する>者だ。知を愛する場面での<知>は、知識とは区別され、知恵とか英知とか―英語のwisdom―に当たり、実践の知という含みを帯びている。実践とは自己の意志や行為を方向づけるものであり、したがって英知とは善く生きるための知恵にほかならない。英知を愛する者は結局、自己を基準として―『汝自らを知れ』(古代ギリシアの格言→ソクラテス)―、目前の世界をただ観察するだけでなく、その世界に参入し、絶えざる自己還帰による自己実現をめざすことになる。
 だから重要な点は、哲学が、そして思想が、さらに学問が、固定した完成物―完結した知識―ではなく、人間の活動そのものだということ。その動態性(根本精神)において、哲学者は哲学する人であり、思想家は思想する人であり、学者は学問する人であり、この哲学する・思想する・学問するという三者は同等の価値を持つ働きである。
 オレは常日ごろ、人間として<自分が生きているとは、どういうことなのか><自分はいかに生きるべきか>と真面目に考えている。自分が哲学するとは、この種の<自分(の生)>に関する問いを起点かつ基点としながら、自分をめぐる状況(小状況→大状況)と直接向き合うことである。ここでは、自分から出発して、自分の感性⇒体験を大事にしながら、自分の問題意識(歴史意識&社会意識、時間と空間の一体化)が徐々に、小状況(自分の身の回りの<小さな>動きや条件)から大状況(日本国→世界全体の<大きな>動きや条件)にまで広がり、かつ深まっていく。
 ここで問われるのは、小状況→大状況にまつわる事柄を、どこまでも具体的な自分の問題として提示できるかだ。
 小状況→大状況として、日本人はこう、とかく思い浮かべがちだ。最初に小状況としての、自分の家庭とか会社とか学校とかの集団・組織があり、次いでその外に市町村や都道府県があり、さらにその外に日本という国があり、その外に<世界>がある…、と。そして、日本人はこう、とかく考えがちだ。<家族問題や職場問題などは、自分に固有の小さい問題だから、世界とは関係がない>と。
 しかし、しっかりと認識すべきだろうな。世界は自分の外にあるものではない!世界は自分の中にあるものだ!世界の中に自分がいて、自分の中に世界が食い込んでいる以上、自分の家族や職場の問題もまた、世界(史)の問題を内包している、と。
 また、小状況→大状況に関わる原点としての<自分>が拡大・深化する点にも注意する必要がある。オレの場合、炭鉱の現場で自分の存在を揺るがすような体験を重ねただけに、自分そのものがより拡大していき、歴史&社会を見る目も次第に深まり、広がった。つまり、炭鉱の何たるかが自分の奥底で分かったことによって、以前にも増して自分の内奥(世界的・歴史的・思想的文脈)を深く広く掘り起こすことが可能となり、自分の家族問題、自分の職場問題、自分の日常生活に関わる切実な問題、自分にとって焦眉の問題等々をいったん<具体的な世界>の問題として再構成した形で提示できるようになったと思う。
 ところで、これまでの話で、オレは自分の内面に呼応する状況(シチュエーション)について、便宜的に<小状況→大状況>という言葉を使ってきた。しかし、この規模の<大小>に関わる言葉は無用の誤解を与えかねないので、これを少し角度を変えて、分かりやすく≪生きる場≫と言い換えてみたい。
 現在、オレの≪生きる場≫の典型的な例は、家庭もさることながら、職場(勤務先)だ。武蔵工大での教師生活が今後何年続くか予想できないが、少なくとも在職中、この直接的な経験の領域をじっくりと徹底的に哲学しつづけていきたい。そしてまた、機が熟し、その哲学的・思想的成果に関する文章を、私は<書かなければならぬ>と自ら決意することになれば、せっせと余すところなく書くだろう―」
 S「…その安田の書く本がかりに『炭鉱へゆく』の延長線上にあるものだとしたら、タイトルは『大学へゆく』なんかがいいのじゃないか。オレは何歳まで生きるのか分からないが、生きている間に、それが出版されたら、必ず読むよ―」
                                   2011年5月31日 安田忠郎
         「ショートショートフィルムフェスティバル&アジア」のご案内
 

 「松田敦」監督・脚色・撮影・編集の短編映画のコンペ上映会についてお知らせします。
 
 松田敦(まつだ・つとむ、写真家)さんは、安田塾の第7~10回に出席されました。

 ショートショートフィルムフェスティバル&アジア(SSFF&ASIA)は、米国アカデミー賞公認の、アジア最大規模を誇る国際短編映画祭です。このショートフィルムの祭典が今年で13年目を迎え、6月16日から26日までの日程で開催されます。

a0200363_1538932.jpg 彼が昨年初めて制作した作品「Tokyo Tower Neo #1」は、SSFF&ASIA2011の第2回「旅ショーット!プロジェクト」部門で入賞しました。 
 同作は「建設中の東京スカイツリーのふもと、写真家の青年とたこ焼き屋の少女との短いふれあいを新緑のすみだ周辺の景色を織り交ぜながら描いた短編ドキュメンタリー」です。       
 
 同作のコンペティション上映会は、6月17日・25日の両日に開かれます(無料上映061.gif)。

・6月17日(金)13:30~ 表参道ヒルズ スペース オー(東京都渋谷区神宮前4-12-10) 東京メトロ銀座線・千代田線・半蔵門線「表参道駅」A2出口より徒歩2分
・6月25日(土)17:10~ ブリリアショートショートシアター(横浜市西区みなとみらい5-3-1 フィルミー2F) みなとみらい線「新高島駅」より徒歩5分 

 お時間が許せば、皆様お誘い合わせの上、ご鑑賞いただければ幸いです。

 なお、詳しくは http://www.shortshorts.org/2011/ja/ts/travel-b.html をご参照ください。
 皆様へ
                                   2010年12月18日 安田忠郎
                世田谷市民大学での講義を終えて

 既報(安田塾メッセージ№16)の通り、世田谷市民大学における私の講義(「人間観の基底―日本人における『個』の自立の可能性を考える―」)は、9月16日に始まり、12月9日をもって終了しました。
 
 この講義全12回(9.40~11.00a.m.)のすべてが、私にとって有意義で充実した時間でした。そこでは、私の経験知⇒理論知が率直にフル展開されるとともに、1回80分×12回=960分(16時間)が私の「根源的時間」(ハイデガー)と化して、たちまちのうちに過ぎてしまいました。
 何より嬉しかったのは、私の講義が熱を帯びるにつれ、話が受講生の胸奥まで届き、確かな手応えを受け取ることができた点です。
 
 当の受講生は計112名、その年齢層は60代が過半数を占め、次いで70代が多く、40代・50代・80代がごく少数でした。また性別では男性が64名、女性が48名を数えました。

 受講者の圧倒的多数は、私と同時代人でありました。私と彼らは、何物にも代えがたいことに、戦後日本の「生活困窮」→「高度経済成長」→「石油ショック」→「バブル景気とその崩壊」という同じ激動の時代を生きてきました。だからこそ、私の講義における言葉の数々は、世代間の断層に煩わされることもなく、思想的ないし心情的な共感を呼び起こし、巧まずしてコミュニケーションの円滑化を進展させることができました。

 しかも、悦ばしい限りなのは、彼らの9割方が海外経験―旅行or 出張or 居住―の持ち主であったことです。中には、世界30か国を歴訪した人、ニューヨークに4年間駐在した人も存在しました。数多くの異文化体験者を前にして、私の諸国行脚にもとづく「世界の中の日本&日本人」論は、いやが上にも気勢が上がりました。

 それにしても、私の講義中における教場の雰囲気は、時に熱っぽく、時になごやかで、時に粛然とし、全体として生気に満ちた、実に感じのいいものでした。 
 受講生は総じて熱心に私の話に耳を傾けてくれました。彼らの一部はたとえ私が長広舌を振るっても、話の内容を細大漏らさず受け止めてくれました。また、一部は打てば響くような反応を返してくれました。…
 いや、本当に素晴らしいことに、私は今回、現代日本の一般大学でお馴染みの授業光景―所在なげに虚ろな視線をさまよわせる者、棒くいのように無表情に押し黙る者、机の上に突っ伏していぎたなく眠りこける者等々とは、まったく無縁でありえたのでした。
 
 そして、かたじけなくも、ある受講生から一昨日、次のようなメールも頂戴しました。
 「世田谷市民大学では、興味深い講義大変面白く学ばせていただきました。まだまだ講義を続けていただきたい気持ちで一杯でしたが、残念ながら…。機会あれば又お話を聞かせてください。有難う御座いました。」

 私は各回の講義を終えるたびに、学生時代に読んだ羽仁五郎(故人、歴史学者)の著書(『私の大学―学問のすすめ』講談社現代新書、1966年)における次のような名言を、まざまざと思い浮かべたものです。
 「大学があるところに学問があるのではなく、学問があるところに大学がある。」 
 そうです、「学問」、すなわち「学んで問うこと」、これがすべてなのです。この点は、私がかつて夜間の「専門学校」講師として勤労者の教育活動に携わった折も、実感をもって胸に迫る問題でした。私は世田谷市民大学において、今更のように事の意味を強く噛みしめ直したのでした。
 彼らとの思いがけない出会いの機会に恵まれた幸運を、私としては心より感謝する次第です。

 ところで、今回の講義の進め方について、私としては反省すべき点が多々ありました。以下、私はその、よって来たる事情を顧みることにします。
 
 既報(№16)のとおり、講義では、次のようなテーマが掲げられました。
①幕末維新期に来朝の欧米人(特にイザベラ・バード)が展開する「日本及び日本人」論
②日本の近代化とナショナリズムの問題―「開国」とは何か
③私の諸国(特に米国ニューヨーク)行脚に照らした特殊日本的エートス
④西洋教育思想(特に「ソクラテス-プラトン」問題→ルソー→アダム・スミスの思想的脈絡)における「人間」の問題
⑤西洋哲学(特にカント→ヘーゲル/マルクス→フォイエルバッハ/キルケゴール→ニーチェ→ハイデッガーの思想的脈絡)における「人間」の問題

 各テーマは総体的な講義の一環として有機的に位置づけられたものであり、特に③は他の諸テーマの基底部を具体的に縁取るように配慮されたものです。
 そして実際上、講義は基本的に、次のような項目順で進められました。
 ここでは、おおむね①が⑴⑵⑶⑷⑸に、②が⑹⑺⑻⑼に、それぞれ小分けされ、④⑤が<個>的実在の足下にこだわるか否かの基準で、⑽と⑾に再編されています。そして③については、⑴~⑾すべてに何ほどか関係するものの、ことさらに⑷⑸への適用に力点が置かれました。なお、①→⑴⑵⑶⑷⑸の内実について、より分析的に言えば、⑶⑷⑸は⑵の論点を一層リアルに闡明するために設定されたものです。

⑴幕末維新期の欧米人による「日本人は優秀」説
⑵幕末維新期の欧米人による「日本人は大嘘つき」説
⑶日本的共同体の構成原理=共通の時間意識+贈与・互酬関係+長幼の序
⑷日本人・日本民族のエートス=「和」+「ケガレ」+「言霊」+「怨霊」
⑸イザナキ-イザナミの日本神話vs.オルペウス-エウリュディケーのギリシア神話
⑹マクロの歴史的視点に立った「日本と世界の関係の変化」論=「単一の文化宗主国に対する上下垂直関係」から「前後左右の水平多項構造」へ
⑺日本の近代化と「第1の開国」→「第2の開国」→「第3の開国」
⑻日本のナショナリズムの問題―特に明治7(1874)年5月の「台湾出兵」に即して
⑼戦後日本の産業構造上の大転換(第3次産業)―特に消費資本主義の展開(必需消費<選択消費)に即して
⑽日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(a)⇒ソクラテス+デカルト+ルソー+アダム・スミス+カント+フォイエルバッハ+キルケゴール+ニーチェ+ハイデガー
⑾日本人は西洋哲学(人間・社会観)をどう受け止めるべきか(b)⇒プラトン+ヘーゲル+マルクス
 

 これら各項目は、どれ一つとして、まともに対象化するなら、とても講義1回80分程度で事足りるものではありません。それゆえ、一般的に言って、限られた一講義枠で、これだけの多岐に及ぶ項目を取り扱うのは無謀な試みというほかありません。
 しかし、今の私には自負があります。
 私は永い時間―少なくも30年!―をかけて、日本人の人間観と、欧米人のそれとの違いが、とりわけ死生観に即して、身にしみて分かるようになってきました。したがって、各項目の話が冗長に流れず、決定的なエッセンスに集中できれば、11項目全部を網羅した所期の講義計画も何とか完遂できるであろうと、講義前の私は楽観していたのでした―。
 

 私が「日本および日本人とは何か」の問いを意識するようになったのは、30代前半の、生まれて初めての海外旅行に端を発します。
 私は当初、ダイビングを楽しむために、旅行社のパックツアーを利用してグアム→サイパンを、そして個人的に計画してタヒチ→ボラボラ→モルディブを旅行しました。これらの島々は、鮮やかなエメラルドグリーンに輝く漫々たる海に囲まれています。私はその自然の景観の美しさに目を奪われました。特にボラボラ島、モルディブ諸島の目も綾な景観は、しばし見とれて時間も忘れるほどのものでした。
 この旅行の際に、私は「外国人」の、特に「衣食住」の生活スタイルをじかに見聞しながら、日本人のそれとの違いをあれやこれやと、とりとめなく考えるようになりました。
 次いで、私は36歳のとき、初めてオーストリアを旅行しました。この時、ウィーン大学の関係者(教師+学生)と、またウィーンおよびザルツブルクの市井人と、何気ない会話を楽しみながら、彼ら「外国人」―何よりも欧州人―の個人としての生き方と日本人の個人としての生き方の違いにはっきりと気づくようになりました。
 やがて30代の終わりから50代前半にかけて、私は主としてフランスのパリ→イタリアのローマ→タイのプーケット→マルタのゴゾを周遊しながら、いよいよ「日本人とは何か(本質)」の問いの重要さを痛切に自覚するようになりました。
 そして50代半ばで、私はニューヨークにたどりつき、コロンビア大学東アジア研究所での約1年2ヶ月の滞在期間中(1999年8月~2000年9月)、「世界の中の日本&日本人」問題に本腰を入れて取り組むにいたりました。ちなみに、前掲の項目⑹⑺⑻の基本的な認識は、その際に養われたものです。

 翻って私の思想形成過程を考えてみると、「経済学-社会思想史」専攻の大学生時代の大きな関心事は、ヨーロッパ近代思想史でした。
 中でも、私は(1)「近代」出発の胎動的なルネサンス→宗教改革→市民革命の歴史的過程を、(2)近代資本主義の根本矛盾(自己増殖する価値としての資本)の克服を目指すマルクス主義の成立過程(ドイツ古典哲学+イギリス古典経済学+フランス社会主義⇒マルクスおよびエンゲルスの思想体系)を、(3)「宗教改革」+「資本主義」を総体的に問題化するマックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、身を入れて勉強しました。
 とはいえ、私の場合、その勉学自体に何かしら物足りなさを覚えていたのでしょう、大学最終学年の卒業論文は、近代日本最初のマルクス経済学者で、「波乱万丈の人生」を送った河上肇(かわかみ・はじめ、1879~1946)の「生涯と思想」を主題化しながら、彼の一生を貫いた「宗教的真理と社会科学的真理との統一」という彼特有の命題に注意を注ぎました。
 
 そして他方、この学問的活動の問題とは別個に、当時の私は日常的な生活態度にかかわる、ある思い(問題意識)にとらわれつづけていました。
 それは要するに、人間個人の内的世界と外的状況との「接点」の問題であり、なぜに周囲・環境世界が状況的に私自身の内的自由を抑圧するのかという問題意識でした。 
 実情に即して言えば、私は事あるごとに、周囲の状況への同調⇒同化⇒いわゆる「和」を強いる力を感じとり、そして決まって、それへの違和感を覚えつづけたものです。この点、大学紛争のような「非常時」はもとより、大学の日常的な光景全般―授業・ゼミ・クラブ活動・体育祭・学園祭・入学式・卒業式等々―もまた、私の割り切れない違和感の対象となりました。
 

 私における周囲の雰囲気や人間関係に対する違和感の問題は、何も大学生活に限られたことではありませんでした。それ以前の幼稚園・小学・中学・高校の各段階でも程度の差はあれ、私が自発的・自主的に振る舞うほどに、その違和感が膨れ上がったものです。少年時代の私は、思うところを率直に実行に移すたびに、周囲の誰彼―特に学校教師―から、「わがまま」とか「生意気」とか「自分勝手」とか「協調性に欠ける」とかの小言を浴びせられ、言動に何らかの掣肘を加えられたものです。
 今にして思えば、この少年時代以来の堆積する違和感に何とか向き合い、その客観的根拠を尋ねはじめたのが、ほかならぬ学生時代の私の思想的態度であったといえましょう。

 この違和感は人間の存在構造上、自己主張的な生命力の発露を圧迫する力を受け止めるところに生起する苦痛の感覚、その意味での「受動的苦痛」=「受苦」(フォイエルバッハの言うLeiden⇒Leidenschaft)にほかなりません。
 私自身の「受苦」の問題は、やがて大学卒業後の「会社」時代→退社後の「大学院」(教育哲学・教育思想史専攻)時代をとおして、一層具体的に顕在化し、広がりを見せていきました。その結果、私の思想世界では、次のような仮説がおいおい頭をもたげ、像を結ぶことになります。 
 すなわち、【この国の】あらゆる「集合」体が―政党でも会社でも組合でも学校でも、また官界でも政界でも財界でも学界でも法曹界でもマスコミ界でも―、当該集団への個々人(構成員)の「同化」(⇒個人の個性・創造性の圧殺)志向を、本質的に内包していること、したがってまた【この社会の】人間一人一人が当該集団の内(ウチワ)と外(ヨソモノ)との「重層的・伸縮的」な区別⇒[表層]ソト―タテマエ―オモテ―ギリ(義理)と[深層]ウチ―ホンネ―ウラ―ニンジョウ(人情)の立体構造という一種の共同体的秩序に何らかの形で寄り添って生きていること、これです。

 こうした私の仮説は、前述した30代前半からの海外めぐりによって、漸次実証されていきました。
 そこでは、何よりも私のニューヨーク体験が決定的でした。

 ↓ 9.11以前のロウアー・マンハッタン
a0200363_16252887.jpg ニューヨークは「世界で最もエキサイティングな街」、「文化が空気の中にある<眠らない街>」です。市内では、およそ170の言語が話され、人口の40%近くがアメリカ合衆国の外で生まれた人―つまり「外国人」―です。
 私はこの「人種のサラダボウル(salad bowl)」たるニューヨークを「居場所」にしたときはじめて、目から鱗が落ちる思いに浸りました。(ちなみに、当時の私の居宅は、ニューヨークが濃厚に凝集するマンハッタンの、そのマンハッタンが濃厚に凝集するミッドタウンの、40階建てアパート―日本でいうマンション―の28階の一住居でした。)
 ようやく、はっきりと分かったのです。問題点が洗い出され、疑点が解明されたのです。ここでは最低限、次の2点だけは特筆大書されなければなりません。
 
 第1に、私は日本(日本国家・日本社会)が世界の中の一国であるという当たり前の事実を全身的に認識できました。自分が生まれ育った日本という場を生まれて初めて、まっすぐに対象化し相対化することができました。 
 したがって第2に、私はあえて、自己内部の違和感=「受苦」の事実に立脚した前掲の仮説を全身的に立証できたとする自負心を誇示するものです。増上慢な態度とそしられようと、当の仮説に対して枚挙にいとまがない確証を得た私としては、いささかも動じるものではありません。 

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 皆様へ
                                   2010年11月13日 安田忠郎
                     岡倉天心のアジア主義

 既報(安田塾メッセージ№17)のとおり、私は10月17日、天心記念五浦美術館において、東郷登志子さんの講演「岡倉天心『The Book of Tea』のコード」を拝聴しました。
         ↓ 天心の六角堂 
a0200363_22525278.jpg 今回、私が彼女の講演内容から特に印象づけられたことは、❶彼女が英語をさわやかに発音し、流暢に話した点、❷天心が博覧強記の人であり、『茶の本』の執筆に当たって、万巻の読書にもとづく古今東西の思想を縦横に駆使している点でした。
 彼女は❷に関して、「暗示とは何か」→「暗示を言語化するためにとられた方法」→「枠組みに用いられた西洋の古典・文学」を順を追って説明し、天心の類まれな英語に込められた芸術的な意匠を解析しました。
 ここでは、次の点が最終的に確認されました。『茶の本』における「暗示を言語化する」手法はシェイクスピアの「概念のイコン化(イメージ化・言語化)」の強い影響下にあり、そして『茶の本』全体の思想的枠組みは『聖書』(特に『新約聖書』「マタイ伝」)、『老子』、仏教、「進化論」、シェイクスピアの英語(初期→後期の推移)等々によって設定されていること―。
 

 ところで、私はかねてから、岡倉天心(1863~1913)に特別な関心がありました。それは、「社会思想史」を専攻した学生時代をピークとして、以後も時に希薄化しながらも今日まで私の思想世界の底に命脈を保ってきました。その特別な関心は、次の2点に集約されます。
 
 (1)天心は幼少時代から英語を学び、母国語のように使いこなして、アメリカ世論を動かすほどの英語名人であった。彼の英語力と人柄をよく表わす(半ば伝説的な)エピソードがある。
 1904年、彼が弟子の横山大観らを伴って渡米した際のこと。一行が羽織・袴でボストンの街中を闊歩していたところ、アメリカ人の青年数人から冷やかし半分の声をかけられた。

 Which nese are you, Chinese or Japanese?
 「お前たちはどっちのニーズか。チャイニーズか、ジャパニーズか?」
 これに対して彼は、穏やかに、しかし即座に、こう流暢な英語で切り返した。
 We are Japanese gentlemen. But which kee are you, Yankee, Donkey or Monkey?
 「我々は日本の紳士です。ところで、そういうあなたがたこそ、どんなキーですか。ヤンキーですか、ドンキー(驢馬、馬鹿者)ですか、それともモンキーですか?」

 私はニューヨークに滞在するたびに、ニューヨーカーから今までに何度も“Are you a Chinese?”と聞かれたものです。そして、その段になると決まって、私は天心を幾分意識して“I'm a Japanese gentleman.” と応じながら、次に相手に向かって「日本という国がこの地球上の、どこにあるかご存じですか?」と発問しました。ところが残念ながら、コロンビア大学関係者はともかく、ほとんどの一般ニューヨーカーが日本の世界地図上の位置はおろか、日本という国の名称さえ知りませんでした。
 
 (2)彼は近代日本の思想史上、「アジア諸国が連帯し、西洋からアジア(東洋)を防衛することを目指した」思想、すなわち「アジア主義」思想の父と位置づけられている。
  彼の英文著書『The Ideals of the East with special reference to the art of Japan (東洋の理想)』(ロンドンで1903年に刊行)の冒頭の一節は、つとに有名である。          

 ASIA is one. The Himalayas divide, only to accentuate, two mighty civilisations, the
Chinese with its communism of Confucius, and the Indian with its individualism of the
Vedas. But not even the snowy barriers can interrupt for one moment that broad expanse of
love for the Ultimate and Universal, which is the common thought-inheritance of every
Asiatic race, enabling them to produce all the great religions of the world, and distinguishing
them from those maritime peoples of the Mediterranean and the Baltic, who love to dwell on
the Particular, and to search out the means, not the end, of life.

 「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明―孔子の共同主義をもつ中国文明とヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、両者をただ強調するだけのものとなって、相分かっている。しかし、この雪を頂く障壁といえども、究極普遍的なものを求める広大無辺な愛を、一瞬たりとも妨げることはできない。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、彼らをして世界のすべての大宗教を生み出さしめたものであり、また個別的なものに執着して、人生の目的ならぬ手段を探し出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族から、彼らを区別するところのものである。」

 『東洋の理想』では、インドの仏教や中国の倫理思想が日本の芸術・文化の歴史に総合されていることが文明史的に論じられ、侵略的な西洋近代文明に対する東洋的理想の復興と日本の使命が説かれる。天心の場合、近代日本を「西洋対日本」という図式で考えるのではなく、あくまでもアジア総体のあり方において日本を把握する。
 その意味で、天心の思想のキーワード「アジアは一つ」(「アジアの一体性」)は、彼の文明論的な認識の象徴にほかならない。しかし後に、時代の緊迫した状況下、この言葉は「アジア主義」の単刀直入な主張として尊重されるようになり、「大東亜共栄圏」を支える政治的なスローガンにもなった。

 私は学生時代この方、大雑把に単純化して言えば、岡倉天心を、アジア主義、つまり「欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した」興亜論(こうあろん)の思想的文脈に沿って、また福澤諭吉(1835~1901)を、「アジアを脱して欧米にならう」脱亜論(だつあろん)の思想的文脈に沿って、それぞれ読み分けてきました。
 もとより思想と現実とののっぴきならない相克の事態は本来、その種の単純化を許すものではありません。したがって、福澤vs.天心がしょせんは便宜的な分類にすぎないことを承知して言えば、世界における日本の現在は、福澤的脱亜論と天心的興亜論の両者の現代版が目まぐるしく交錯し、せめぎ合う状況下にあります。その意味で、21世紀のグローバル化の時代を迎えた私たち日本人は、今まさに幕末維新期以上の底深い crisis (分岐点=危機)に立たされていると言っても過言ではありません。

 ついでに言えば、「脱亜論」とは、もともと1885(明治18)年3月16日の新聞「時事新報」紙上に掲載された「無署名」の社説を指します。これが1933(昭和8)年に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に収録されたため、福澤諭吉が執筆した社説と一般に受け取られるようになりました。
 ここでは、「我日本ノ國土ハ亞細亞ノ東邊ニ在リト雖ドモ其國民ノ精神ハ既ニ亞細亞ノ固陋ヲ脫シテ西洋ノ文明ニ移リタリ」→「然ルニ爰ニ不幸ナルハ近隣ニ國アリ一ヲ支那ト云ヒ一ヲ朝鮮ト云フ」→「惡友ヲ親シム者ハ共ニ惡名ヲ免カル可ラズ」→「我ハ心ニ於テ亞細亞東方ノ惡友ヲ謝絶スルモノナリ」と主張され、日本国はアジア諸国との連帯は考えずに西洋近代文明を積極的に摂取し、西洋列強と同様の道を選択すべきだと結論づけられます。

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