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                                    2012年3月28日 安田忠郎
                    第14回安田塾を終えて

 第14回安田塾(協力:幕末史研究会)は3月24日(土)に、武蔵野商工会館4F市民会議室で開かれました。
 ▲ 例会・講演会「フクシマ原発事故から1年『パンドラの箱』を開けたフクシマ!~」は、講師4人による午後1時~5時30分の4時間半に及ぶ長丁場になりました。そこでは、第9回安田塾(2011.4.16)の槌田敦による講演会「いま、福島原発に何が起きているのか?」(安田塾メッセージ№29参照)の思想性が受け止められながら、「原子力→フクシマ」問題が一層多面的に掘り下げられました。
 以下、4人の講師の各講演概要(各人各説のレジュメ)を順次紹介します。
 

 講演Ⅰ:安田忠郎(やすだ・ただお)「日本人は皆『自分だけは死なない』と思っている~私の“エネルギー産業”下の極限的体験に照らして~」
①エネルギー革命(石炭→石油→原子力)の問題
 ・1960(昭和35)年の全国炭鉱数622鉱・労働者数37万人・石炭生産高5300万トン→1973(昭和48)年の全国炭鉱数37鉱・労働者数2万5千人・石炭生産高2100万トン
 ・1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発⇒第一次オイルショック(第一次石油危機不況)
 ・日本における原子力開発・原子炉建設は、戦後のパワー・ポリティックスの決定的な影響下、「平和利用」のお題目を唱えながら、あくまで<核技術を有する⇒その気になれば核兵器を作りだしうる⇒核兵器の潜在的保有国になる⇒日本の大国化⇒国際社会において発言権を得る>という思想的条件のもとで進められた。
②三池争議(三池闘争、1959~60年)の問題
 ・1960年 安保・三池闘争
 ・1963年11月9日 炭塵爆発事故 死者458人・一酸化炭素中毒患者839人
③北炭(ほくたん、北海道炭礦汽船株式会社)[1889(明治22)~1995(平成7)年]の問題
 ・幌内(ほろない)炭鉱 1879(明治12)年、官営の炭鉱として開山→1975年(昭和50年)11月27日、ガス爆発事故、24人死亡→1989(平成元)年閉山
 ・夕張(ゆうばり)新炭鉱 1975(昭和50)年営業出炭→1981年10月16日、ガス突出・坑道火災事故発生、93人死亡→1982年閉山
④私の実践知=経験知
 ・昭和43(1968)年5月28日…5月30日…7月12日、「西部3片3層ロング」(面長180メートル、炭丈1.93メートル)で、「ガス爆発」の可能性の極限を見極める。メタンガスの爆発限界5~15パーセントの問題⇒ガス濃度2パーセントのクライシス(crisis=危機・分岐点)!
 ・昭和43(1968)年5月16日午前9時49分、「養老3片5層(下)ロング」で、「1968年十勝沖地震」(M7.8)に遭遇する。極限状況における人間の行動の問題⇒日本人における主体の意思決定とは何か?

【要諦】
● エネルギー現場は危険なもの―ex.採掘労働、原発なら大量に被爆する仕事―を、弱い立場の人々に押しつける差別の上に成り立っている。
● 日本人にとって、主語はいつもその時々の状況の中に隠れており、主語があるとすれば、それは状況そのものにほかならない。したがって、日本人一人一人の言動が究極的に問われるのは、状況に支配されるのではなく、いかにして状況を支配し、場をつくり出すだけの力を持つことができるかどうかという点である。

 講演Ⅱ:市川恵子(いちかわ・けいこ)「福島第一原発から22キロにいた私、あの日起こった真実と未来へ」 
①自宅は原発から22キロ
 ・東京から福島の過疎地(福島県双葉郡川内村在住)に移住した一家が見た、原発とともにある暮らし
 ・小学生の長男が集めていた資料
 ・3.11 国に捨てられた地域
 ・いのちを守る戦い、川内村で起こったこと
②ヒサイシャになった私
 ・個人事業者、法人経営者、母として、娘として、それぞれの被災
 ・カネと食べ物
③フクシマの内と外では違う風が吹く
 ・都会と田舎、電気をつくる地域とつかう地域と
 ・都会の便利を支える田舎
 ・本気で原発反対を言えますか?今の便利を失うのは恐いですか?
 ・田舎暮らしで見えてきた、本当のこと
④川内村 帰村宣言
 ・東電補償の実態
 ・憧れの田舎暮らしが悲劇に
 ・補償金が地域を崩壊させる
 ・帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人
⑤いのちを守る、ふるさとを守る
 ・79歳の母が直面した東日本大震災
 ・誰も「いのち」を守ってくれない

【集約】
● あの日(3.11)、原発の近くに暮らしていた私は、「国」からイノチ(命)を見捨てられたことを実感した。原発事故後、放射能など、安全か否かでいろいろな議論がなされているが、問題は犠牲になる地域と人を想定しているこの国のシステムにある。自分だけは助かるつもりになっている人が論議している。いざというとき、自分の家族、大切な人を本当に守れると思っているのか。/すでに日本国内に安全な場所はなくなってしまった。まっさらな未来はないという現実を日本中の人々が自覚しなくてはならない。放射能とともに暮らす、その恐怖を福島だけでなく他の地域に暮らす人々も共有するしかない。/震災後、多くの人が口にする「絆」。キズナとは、犠牲になる地域や人々を見ないことにせず、自分の問題として考えること。よりよい選択を奪う「原発」というシステムを見て見ぬふりしないことではないのか。
● 東京電力の補償金が、川内村-地域社会を崩壊させている。帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人、さまざまな思いを抱く地元の人たち。回答はひとつではない。/放射能よりも、人としてのプライドを奪われ、生きていく目標を奪われることが、村の危機となっている。仮設住宅や補償金は期限がくればなくなる。避難者から難民になってしまう。/人が住まなければ、故郷はもう戻らない。どんなに困難な問題があろうとも、帰村すると決めた人たちの原点は、「国から捨てられたイノチ」だったこと。自分たちの故郷は自分たちの手で取り戻すしかない。3.11の前から、過疎の村に暮らすことを決めてがんばっていた人たちの、故郷への思いは強い。
● 都会と田舎、消費地と電源地域、誰かの犠牲によって成り立つ社会の仕組みが、原発事故につながっていった。あのとき何が起こったのか、そして今、何が起こりつつあるのか。原発事故を起こしたシステムは、決してフクシマだけのものではない。イノチを守る、自分の故郷(家族)を守るという問題を決して他人事にしてはいけない。

 講演Ⅲ:杉原淳(すぎはら・すなお)「環境や生態系から、いかに放射能を減らすか~真の放射能対策の実績と提言~」                       
①「福島県浪江町赤宇木塩浸」における実績について 2日で60%の放射能低減
②不思議なペットボトル…エネルギーをもたせてある <生体にも優しい>
③我々の「除染」は、今、実施されているものとは、まったく異なる
④二本松市・針道での100L「除染装置」設置
⑤体からの「除染」;水のエネルギー、細胞の活性化による自己免疫力
⑥水の知られざる力
⑦放射能の遮蔽能力
⑧原子燃料はなぜ、水のプールの中にあるのか
⑨ガンマ線を防ぐために、コンクリート厚さは
⑩セシウムを放射能を出さない物質へ変える
⑪その方法と実績について

【結論】3.11災害による、福島第一原子力発電所からの放射性物質を低減することは、緊急を要する問題である。現状では、ゼオライト等による吸着で、除染というよりも、セシウム等の移動に過ぎない方法が採用されている。私が提案する方法で重要な点は、本質的に放射性物質から放射能を無くすること。それは特殊加工した水を使用する方法であり、その結果、約42時間で初期値の60%の放射能を低減し、また6ヶ月後の結果では、13%にまで低減した。純粋数学的な方法を用いて、セシウムから他の非放射性元素ができることを物理学的に予測し、バリウム (68%)、ランタン (24%) 、そして セリウム (8%)になると推測した。それを機器分析によって半定量的に確認し、 実験的には、バリウム63.3%、ランタン21.3%、そして セリウム15.4%で、比較的上記の理論的予測に近い値が得られたと考えられる。また、もう一つの放射能が低減するアイディアは、水からの陽子/電子のペアが量子力学的に、粒子や波として、セシウムからのガンマ線(光子)と相互作用する結果によるものであると考える。

 講演Ⅳ:小美濃清明(おみの・きよはる)「ホットスポット・浪江町へ入って考えたこと」       
①1972年 アメリカ・ミズーリ州へはじめて訪問
②1979年 アメリカ・ペンシルベニア州・スリーマイル島原発事故
③2011年3月11日 東日本大震災
④2011年5月7日~9日 福島県へ行く
 ・郡山市立薫小学校の校庭
 ・浪江町赤宇木塩浸の農地
⑤アメリカの友人からの電話
⑥韓国から帰国した日本人の友人の話
⑦江戸川区の火葬場
⑧2011年12月20日~22日 福島県・岩手県へ行く
 ・岩手県一関、気仙沼を訪問
 ・福島県浪江町赤宇木塩浸を再訪
⑨海洋汚染の広がり

【余談】 私(小美濃)はアメリカの友人たちの反応―日本人と違う角度からの話―について、興味をそそられた。FUKUSHIMAはTOKYOからどれだけ離れた場所か、それは問題ではなくTOKYOもFUKUSHIMAも一緒だった。太平洋を越えた国から見れば同一場所なのだろう。日本脱出をした外国人グループと同じ心情だったのだ。過剰反応は私には戸惑いでもあり、ありがたくも感じた出来事だった。また、韓国で当の原発事故を知った友人(韓国人)が日本へ来たものの、情報が取りにくい、日本のニュースにはバイアスがかかっているようだという話に、私は内心ドキッとしたものだ。

 【註】安田塾に今回「初めて」参加された方は、22名を数えました。22名のうち13名が吉祥寺界隈の在住者であり、その13名のうち2名の方から次のような感想メールをちょうだいしました。
 照山直子さん(亜細亜大学・非常勤講師):「先日の講演会は、どなたのお話もたいへん学ぶことが多く、また希望が湧きあがるようなご研究に触れさせていただくこともでき、本当に貴重なひとときでした。ありがとうございました。/近くでご開催いただけることがありがたく、これからも是非参加させていただきたく存じております。」
 山村進子さん[劇団「櫂(かい)」女優]:「講演会でのお話、興味深く聞かせて頂きました。聞いていらっしゃる方達の意識の高さにも感銘を受けました。どうしても忙しさに紛れ、劇団だけの生活になりがちですが、今後の講演会にも時間が合えば足を運び、視野を広げたいと思います。/この度は貴重なお話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。」
                                   2012年1月31日 小林伸一
第13回安田塾(2012.1.21)の講演
もしあなたが教育困難校の教員あるいは管理職だったら子ども一人ひとりの輝く未来のために~」
【講師】小林伸一(こばやし・しんいち) 
【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室

 私は第13回安田塾で、講演をする機会に恵まれました。
 現在、教育現場には暴力・器物破損・いじめ・不登校・自殺・学級崩壊・学力低下・学ぶ意欲の低下・主体性の欠如・モラルの低下・モンスターペアレント等々、実に多くの問題・課題が山積しています。
 これらの問題・課題に対し、マスコミ等では著名な評論家が、学校や教師批判を繰り返す一方、課題を歪曲化あるいは単純化して、こうすれば問題が解決できると宣伝しています。また文部科学省を始めとする教育行政も様々な教育施策を打ち出してきています。
 しかし、今年公立中学校で教師生活25年を迎える私だけでなく、1年目の同僚ですら、これらの指摘や施策の一部がいかに的外れなものなのか、現場にいれば実感としてわかるのです。
 今回は前半(約1時間)で教育現場の現状を、そして現場の思いを伝え、中盤から後半(1時間半)にかけて、困難極める教育現場に、もしあなたが直接生徒指導を行える教員だったら、あるいは経営権を持った校長(管理職)だったら、という想定で課題解決のためのブレーンストーミングを行いました。

【講演内容の要約】
(1)公立中学校の問題・課題
 話を行う前に最初に「あなたが教育困難校の教員もしくは管理職だったら、学校の立て直しができるか」という問いを参加者に投げかけた。圧倒的にできないと挙手するものが多い。
 教育に携わるか否かにかかわらず、現場に山積している問題・課題を解決するのは非常に困難であるとの思いは同じようである。
 
 ①現場の裁量権を狭める「統括校長」制度
 教育行政から現場に合わない施策が下りてきた時、今までは校長裁量で無視することもでき、総合的に学校経営がうまくいっていれば咎められることもなかった。
 今は校長の上に統括校長がいるので、校長になっても常に上を見ていなくてはならず、現場の声を吸い上げない校長が増えた。こうした校長の多くは文科省からの通達を教職員に下すだけで、目の前にある問題生徒に対応できず、学校が荒れる原因になっている。
 
 ②設備は区市町村負担、教員は都費負担。
 同じ都内でも財政基盤は特に区中心部と多摩西部ではかなり違う。
 例えば生徒数が同じ規模の新宿と八王子を比較した場合、新宿は区採用の教員が複数名おり、教職員配置数が1.5倍ほど多い。また備品や消耗品の購入金額も大きく異なる。
 教員が多ければ問題行動に対応する余裕があり、金額が多ければより良い授業ができる。教員は都費負担なので特定の区市町村にとどまる義務はないのだ。よって教育困難校・地域に配置された教員は、最初から腰を落ち着かせて仕事をせず、3年の任期を終えると異動するため、保護者や地域とのつながりができない。
 
 ③学校は四面楚歌
 マスコミでは連日教員の不祥事を面白おかしく伝え、学園ドラマでは規範意識を高めようとする教員が分からず屋、不良の立場に立つ教員は物わかりが良いとされる。
 その影響もありテレビのように対応すべきと学校非難を繰り返す保護者と生徒のいかに多いことか。学園ドラマはセンセーショナルでなければ視聴率が取れず、テレビの中だけの異常事態がどこの学校でも見かけられる常識になってしまう。現場では学園ドラマがヒットすると学校が荒れるといわれている。また常に校外で問題行動があるような学校は、地域のみならず警察からも学校の対応が悪いと非難される。支援に回るはずの教育委員会も責任逃れ。
 結局教員・学校だけが叩かれる。教員・学校が一番悪いのか?
 
 ④政治家の無関心
 ホワイトハウスと首相官邸のホームページを比較しても、いかにこの国は教育に力点が置かれていないかがわかる。子育て世代だけが興味関心を示すだけなので、票にならない教育は無視される現実がある。
 こんなことで国家の将来を語ることができるのか。教育は社会の基盤を作っている。その基盤が揺らいでいる。
 
 ⑤学力向上
 遠山敦子元文科省大臣の「学びのすすめ」によって学習指導要領を超える記述が容認され、都立高校でも自校問題作成校が登場、入試問題の難問化がおこる。アルファベットがCまでしか書けない、自分の名前の漢字を間違える、2ケタの加減算がわからない生徒がいる一方、同じ教室に難関高を目指す生徒がいる。
 教員1人に生徒40人。例えば受験の時期に教師は何を教えればよいのか。

 ⑥ゆとり教育
 小学校は学習指導要領に沿って体験学習や自ら学び考える授業に転換してきた。
 「生きる力を育む」という理念は基本的には良いと思う。その反面、繰り返し学習で定着させてきた基礎基本がおろそかになっている。 
 中学校には、今まで以上に学力の差がついて生徒が入学するようになった。高校入試は学習指導要領の意向がある程度反映されているとはいえ、「生きる力」のより高い生徒が難関校に合格するわけではない。
 入り口を変えたら出口も変更してほしい。こうして中学校は基礎学力がない生徒に生きる力を育みつつ、今まで同様の高校入試に対応していかなければならない。矛盾は中学校に一番現れている。      

(2)課題解決策
 こうした現場の問題・課題に関して、様々の貴重な意見がブレーンストーミングで出された。
 ①学校関係者ではない方も、どんどん学校に入っていく。
 ②マスコミ、ドラマは学校を悪く描かない。
 等々。現場でさっそく翌日から使えるご意見もあった。
 しかし、「もう小手先だけで解決できるところにない。ガラガラポンでゼロから始めるべき。」というある参加者の意見に多くの方が賛同しているようだった。

(3)総括
 時間枠の2時間半があっという間に過ぎ去りました。こちらの思いをすべて伝えることはできなかったが、参加者の方の温かいご意見のおかげで良いブレーンストーミングができました。
 教育困難校といっても、8割は一生懸命真面目に生活している生徒です(経験的には普通は95%くらい)。
 我々教員はこうした生徒のためにもあきらめることなく、日々教育活動を行っていかなければなりません。
 きょうは参加者の皆さんと忌憚のない意見を交換することにより、明日から学校でやっていく活力をいただいた気がします。
 
 天候の悪い中、参加していただいた方々には感謝いたします。ありがとうございました。
                                   2012年1月28日 安田忠郎
                    第13回安田塾を終えて

 第13回安田塾は1月21日(土)に、武蔵野商工会館第1会議室で開かれました。
 この報告は㊤㊦に分けます。本号㊤では私の話に関するレジュメ(当日配布)を転載します。また、次号㊦では講師・小林伸一が自らの講演をまとめます。

▲ 例会では最初、私が午後2時から約30分間、「戦後日本の青少年問題・教育問題」を論じました。
 このテーマは既に昨年12月25~28日の「教員免許状更新講習」(公益財団法人・大学セミナーハウス主催、安田塾メッセージ№1~3参照)における私の講義の一環(2時間)として展開されました。そこでは、学校内部の視線と学校外部(特に産業構造)の視線を交差させながら、学校という人間形成装置が戦後日本社会でどのように変貌してきたのかが考察されました。今回の安田塾では、同講義のエッセンスのみが小林講師の講演内容を的確に理解する上で必要な予備知識として提供された次第です。

 レジュメ「戦後日本の青少年問題・教育問題」
1950年代、60年代は主に学校の外での問題
  50年代:集団就職した青少年の適応問題⇒傷害、窃盗
  60年代:青少年の半ば風俗的で半ば逸脱的な問題⇒暴走族
1970年代半ば以降は学校の中での問題(反乱)⇒校内暴力、対教師暴力、いじめ
1980年代以降は学校教育の拒否、学校からの逃走の問題⇒不登校、高校中退
1980年代後半の「夜徘徊する子どもたち」→1990年代以降の「夜眠れない子どもたち」 

 戦後日本の産業構造上の大転換
・1973年、「石油ショック」の襲来
・1973年、海外旅行ブーム⇒200万人突破
・1973年、サッポロビールが「天然水“No.1”」を販売
・1974年、「朝日カルチャーセンター」がオープン
・1974年、「コンビニエンス・ストア」の第1号(セブン-イレブン豊洲店)が東京都江東区に開店
・1980年代後半以降、日本の産業は第3次産業が過半数を占める。
  第1次産業(自然の整序)→第2次産業(自然の加工変成)→第3次産業(物の扱い方)
消費資本主義(消費社会・情報社会)の展開
 ⇒個人消費のうち、「必需消費」を「選択消費」が上回る。
・いわゆる「公害」問題は、主に第2次産業と第3次産業の境界に生ずる。⇒「精神の障害」の問題

 高度成長と教育拡大(教育爆発)
・「一人当たり所得水準の変化」→「国民所得層の消費水準の変化」→「中・高等教育進学希望者の変化」
・「一人当たり所得水準の変化」→「生産活動の水準の変化」(第1次産業が減少し、第2次産業や第3次産業が拡大)→「中・高等教育卒業者の雇用量の変化」
・教育拡大の自己増殖メカニズム
 ⇒教育の拡大が個人の便益や経済発展とは無関係にいったん拡大が始まると自己展開が起こり、拡大していく。

 青少年をめぐる具体的・代表的な事件
(1)「永山則夫連続射殺事件」
●永山則夫(ながやま・のりお)は1968(昭和43)年10月から11月にかけて、横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだ拳銃により、「社会への復讐のために」、東京→京都→函館→名古屋において4人を射殺した。69年4月7日、彼(当時19歳9カ月余)は東京で逮捕された。
●69年8月8日、東京地裁で第1回公判が開かれる。70年6月30日の第12回公判で、彼は「こういう(4人も殺した)事件が起きたのは、あの頃、俺が無知だったからだ。それは、貧乏だったから、無知だったんだよ」と述べている。
●71年3月10日、彼が書き記したノートは10冊になっていたが、それを『無知の涙』というタイトルの本にまとめ、合同出版から刊行された。この獄中日記は彼の幼児時代の極貧生活、その背後の社会の歪みを抉って世に衝撃を与え、ベストセラーになった。
●79(昭和54)年7月10日に東京地裁で死刑判決。81年8月21日に東京高裁で無期懲役に一旦は減刑されるものの、90(平成2)年4月17日に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」という理由で死刑判決が確定する(5月8日、最高裁は遠藤誠弁護人の「判決訂正」の申立てを棄却)。
 [87年の東京高裁(第二次)と90年の最高裁(第二次)の量刑理由:「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」]
●87年1月19日、東京高裁における差戻し控訴審の第19回公判で、弁護人を務めた遠藤誠(1930~2002)弁護士は、こう弁論している(抄出)。
 「…ここに永山則夫という、19年の生涯において、親から捨てられ、社会からの差別に次ぐ差別を受け、世を呪い人を呪ったがために罪を犯し、その後の18年の獄中における血のにじむような勉学によって、自分のやったことは間違っていたと衷心より悟り、2度とこのような悲劇を他の者に起こさせないためにどうしたらいいかを考え、その成果を次々に発表している1人の人間がいる。/ここで私は叫びたい。石田裁判長と田尾裁判官と中野裁判官が、控訴棄却の判決を言い渡せば、ここにいる1人の生きた人間が、絞首台に送られて、間違いなく首の骨を折られ、首の筋肉をズタズタに引き裂かれながら、殺されていくのだということを。それでいいのだろうか?最後に、19歳9カ月の彼が自首同様にして逮捕された後、東京拘置所の暗い独房でつづった血の叫び)をもって、私の結論に代える」
 遠藤は永山の詩「キケ人ヤ」(前掲『無知の涙』所載)を朗読する。
  
 キケ人ヤ
 世ノ裏路ヲ歩クモノノ悲哀ナ
 タワゴトヲ
 キケ人ヤ
 貧シキ者トソノ子ノ指先ノ
 冷タキ血ヲ
 キケ人ヤ
 愛ノ心ハ金デナイコトヲ
 心ノ弱者ノウッタエル叫ビヲ
 キケ人ヤ
 世ノハグレ人ノパンヘノ
 セツナイハイアガリヲ
 キケ人ヤ
 日陰[影]者ノアセト涙ヲ
 ソノ力と勇気ヲ
 キケ人ヤ
 武器ナキ者ガ
 武器ヲ得タ時ノ
 命ト引キカエノ抵抗ヲ
 キケ人ヤ
 貧民ノ真ノ願イノ
 ヒト言ノ恐シサヲ
 キケ人ヤ
 昭和元禄ニ酔ウガヨイ
 忘レタト時ニ再ビモエル
 貧シキ若者ノ怒リヲバ

●彼は69年の逮捕から97年の死刑執行までの間、獄中で学問に目覚め、創作活動を続けた小説家である。彼は両親から育児を放棄され、極貧の中、荒れた生活を送り学校教育も受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって識字能力を獲得し、執筆活動を開始した。『無知の涙』をはじめ、多くの文学作品を発表する。84年には、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。続いて『捨て子ごっこ』(87年)、『なぜか、海』(88年)、『異水』(90年)などが出版される。いずれも自伝的な小説であり、貧しい自分の生い立ちや育った場所の風景、あるいは兄弟間の葛藤などの身の回りの事件や家出などが描かれている。この作品群の基底で響いているのは、貧しさと貧しさゆえのサバイバルの問題である。彼の社会的・歴史的な眼差しには、貧困とそこからの脱出としての集団就職、そしてその集団就職における挫折という戦後の高度成長に含まれる闇の部分への着目がある。
●97(平成9)年8月1日、東京拘置所において、彼の死刑が執行された。48歳、獄中28年、娑婆19年という生涯だった。7月31日時点で確定死刑囚が54人おり、彼より前に確定した者が17人いたにもかかわらず、なぜ彼が処刑されたのか。それについては、同年6月28日に逮捕された「神戸連続児童殺傷事件」(別名「酒鬼薔薇事件」「酒鬼薔薇聖斗事件」)の犯人が少年(当時14歳11カ月)であったことが、少なからず影響したとの見方が根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、厳罰化を求める声が高まる中、未成年で犯罪を犯し死刑囚となった彼を処刑することで、その反発を和らげようとしたのではないか、と。
●親族は彼の遺骨の引取りを拒否し、弁護人の遠藤誠が引き取った。彼の遺志により、遺灰は故郷の海、網走沖のオホーツク海に、妻だった「和美」―80年12月12日獄中結婚、86年4月3日協議離婚―の手によって散布された。
●死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの彼の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

(2)「開成高校生殺人事件」
事件概要】1977(昭和52)年10月30日未明、東京都北区に住む飲食店経営のA(当時47歳)が、進学校として知られる開成高校2年生の長男・佐藤健一(さとう・けんいち、16歳)を、寝ている間に帯で首を絞め殺害。その後、心中を図ろうと妻(44歳)と2人で浜名湖に行くが果たせず、31日に自首した。家庭内暴力を苦にしての犯行だった。

家庭内暴力】健一は共働きの両親(大衆酒場開店)とはすれ違い気味で、祖父母に接することが多かった。内向的なおとなしい子どもで、叱られるようなことは決してしなかった。
 私立のミッションスクール星美学園小学校で、成績は常にクラスで1~2番。試験、勉強が好きで、「また1番だよ」と答案を持って帰ってくる子どもだった。両親はあまり「勉強しろ」とは言わなかったとはいえ、一人息子の教育に熱心なところもあった。5、6年生時には有名な進学塾「四谷大塚」に通い、家庭教師もつけられた。
 小学校の教師の熱心な勧めもあり、また本人の、「オレは頭がよいんだ。社会の中枢となる人間なんだ」という自負もあり、学校法人開成学園・開成中学校を受験。合格者300名中56番の上位で入学。当時の新入生紹介の文集「1年生の顔」には「医者になりたい」と書き、未来に希望を燃やしていた。
 中学1年の席次は300人中155位、2年の席次は300人中178位と中位の成績であった。3年ごろから、部屋にこもって読書にふけるようになる。3年の席次は、300人中236位と下位に低迷する。
 76年4月、開成高等学校に進学。徐々に家庭内暴力が悪化していく。自室に閉じこもって泣いたり、大声を出したり、柱を叩いたりする。事あるごとに両親に対して、「お前らみたいのがくっついて結婚したから、俺みたいな鼻の低い子どもが生まれたんだ」とか、「お前ら夫婦は教養もないし、社会的地位もないし、そんな奴が一人前の顔をして俺に説教できるのか。夫婦ともバカだ」とかの反抗的な言葉を浴びせたりする。高校1年の席次は、クラス51人中47位、ほとんど最下位に近い成績だった。
 77年5月、高校2年生の健一は、学校を休んだことを父親のAに注意されると、「抑圧だ」と絶叫し、物を投げ、ガラスを割り、泣きじゃくった。2年生の1学期の成績は、クラス51人中43位。
 夏休みの8月1日、母親は機嫌よさそうな健一に一声かけ、言葉をやりとりする。
 母親「勉強しているの」
 健一「していない」
 母親「大学はどうするの」
 健一「それが悪い!」
 母親の何気ない言葉に激高し、「殺してやる」とわめきながら母親を家中追い回し、当夜Aの帰宅後も「お前らみたいな夫婦が俺を生んだから俺の人生は破滅だ」とののしり、手当たり次第に物を投げつけ、暴れ回った。この日以来、日常的に激しい暴力を繰り返すようになる。
 健一の家庭内暴力は猛烈をきわめた。
 ・母親、祖母の首をしめる。母親、祖母を殴り、蹴る。
 ・洗面器で10杯くらいの水を頭からかけて、祖母をグショぬれにする。
 ・食卓をひっくり返す。
 ・食卓塩、胡椒、醤油、ご飯をまき散らす。
 ・水道からホースを引いて、部屋中を水浸しにする。
 ・浴槽に粉石鹸を箱ごとまいてかき回し、風呂場を泡だらけにする。
 ・布団を池に投げ込む。
 ・仏壇をバットでたたき壊す。
 ・家中の襖を蹴破る。
 ・ピアノの黒鍵をすべてナイフで削り取る。
 ・家の中で洋服やタオルや本に火をつけて燃やす。
 ・庭の池に服、本などを投げ込み、石油をまいて燃やす。
 8月中旬、両親は精神病を疑い、健一を精神病院に連れていく。「精神病ではない。わがまま病だ」との精神科医の診断。治療は通院で行なわれ、注射や薬が処方される。しかし、健一の暴力は一向に納まらなかった。

殺害】77年10月29日、この日もやはり暴力があり、健一は「青春を返せ!人生を返せ!メチャメチャにしたのは親なのだ」と叫んで暴れるだけ暴れると、睡眠薬を飲んで寝てしまった。
 「こんなことが続いたら、本当に家族が殺されるかもしれないし、息子が犯罪者になるかもしれない。そうなれば、かわいそうなのは息子だ」そう考えたAは、息子の殺害を決意した。
 30日午前0時ごろ、長さ1m半ほどの下帯を手にした父親は、豆電灯の下で息子の寝顔を見つめた。健一は仰向けに眠り、父親はその枕元に正座していた。平和で何事もなかったころの健一の思い出。「また一番だよ」と満点の答案を持って家に駆け込んだ小学生のころの笑顔。どうしてそれが、こんな子に育ってしまったのだろう。そう思うと、不憫になって手を出せなくなった。が、すぐに続いて、母親や祖母を追いかける健一の狂ったような顔、逃げる彼女らの必死の顔が、そうした思い出を打ち消した。Aは下帯を息子の首にまわし、無我夢中で締めあげた。
 殺害後、息子の部屋に母親が入ってきた。Aが泣きながら「俺は健一を殺してしまった。死のうと思う」と言い、妻も「私も死にます」と言って、そこで2人して泣きつづけた。
 夫婦は自殺を決意して早朝の新幹線で浜松へ行き、浜名湖周辺で死に場所を探すが、死にきれずに翌31日東京に戻り、Aは結局、妻に付き添われながら赤羽署に自首した。

裁判】78年2月16日、東京地裁はAに対して、求刑懲役8年のところ、懲役3年・執行猶予4年の温情判決を下す。検察は量刑不当として控訴。
 健一の母親は、日記に「死にたい」「死ぬのは勇気がいることだ」「健一のそばに行きたい」と書き、普段は飲まないアルコールを痛飲するようになる。そして同時に、Aに対し攻撃的になる。「健一を帰せ!」「健一は私の生き甲斐だった、あなたより大切だった」「あなたは私をメチャメチャにしてしまった。許せない」「みんな、あなたが悪い。刑が軽すぎるんじゃないの」
 Aはそれに対して、「ともかく死なないで」「勇気をもって生きていこう」「どんなに努力しても(妻に)生きる意欲が起きなければ、そのときは一緒に死のう」と説得、励ましていた。
 しかし78年7月2日、Aの妻は夫への寛大な二審判決を願う遺書を残して、息子の部屋で首吊り自殺した。
 Aはその後、四国の巡礼へと旅立つ。妻子の霊の鎮魂と己の懺悔のため、四国霊場88ヶ所巡りをする。そして帰宅後、「精神的にせっぱつまって(本人談)」、宗教法人「生長の家」に入信する。
 79年2月28日、東京高裁は検察の控訴を棄却。検察は上告せず、刑が確定した。

(3)「中野富士見中学いじめ自殺事件」
事件概要】1986(昭和61)年2月1日、岩手県盛岡駅の駅ビル「フェザン」のB1トイレ内で、東京都中野区立中野富士見中学校2年の鹿川裕史(しかがわ・ひろふみ、13歳)が首を吊って自殺しているのが発見された。遺書が残されており、彼の自殺がいじめによるものだと判明した。いじめは日常的に行われており、「葬式ごっこ」なるいじめには教師も参加していた。

いじめの光景】85年4月、2年A組に進級した裕史は、それまで仲の良かった友達と別々のクラスになった。彼はクラス内のあるグループと交わっていく。だが、温和で152cmと小柄な彼は、買い食いのために店に走り、下校時にバッグを持たされるという役回りを押しつけられる。いわゆる「パシリ」(当時はツカイッパ)である。
 7月下旬には、担任のF教諭(57歳)が裕史の父親(42歳)に「裕史君が仲間の使い走りをさせられているようですよ」と連絡している。このF教諭は定年を数年後に控えたおとなしい教師で、いじめの事実を知っても生徒たちに強く指導することはなかった。
 グループ内で下手に出ていた裕史に対するいじめは、次第にエスカレートしていく。いじめグループにとって、彼はプロレスごっこの投げられ役など、まるで「サンドバッグ」のように「何をしてもいい」存在になっていた。モデルガンの標的にされたり、服にマヨネーズをかけられたり、積み上げられたイスと机に閉じ込められたり、顔にマジックでヒゲを描かれ、廊下で踊らされたり、野球拳が強要されて服を脱がされたり(彼の相手はジャンケンで負けても服を脱がず)、等々。

葬式ごっこ】85年11月14日と15日、2Aのクラスでは裕史が死んだことにして、色紙を書き、教室で花や線香をあげるという「葬式」をした。これはある生徒の「鹿川が死んだことにしようぜ」と言い出したことから始まり、昼の人気番組「笑っていいとも!」の「安産コーナー」をヒントに、生と死を逆にして考えられたものである。
 黒板の前には裕史の机が置かれ、そこには飴玉やミカンが並べられ、遺影と見たてた裕史の写真と牛乳ビンにさした花も置かれていた。その横の色紙には「鹿川君へ さようなら 2Aと その他一同より 昭和60年11月14日」と書かれており、クラスの生徒の署名や寄せ書きがあった。寄せ書きには「バーカ」「いなくなってよかった」「バンザイ」「ざまあみろ」などと書かれており、教室に掲げられていた裕史の係の名札が「もう死んだ人だから」と、黒マジックで塗りつぶされていた。
 しかも、葬式ごっこには担任ら4人の教師まで参加していた。教師らは生徒に「ドッキリだから」と言って頼まれて署名していた。
 当時、裕史はスケートボードで足に怪我をして、遅刻が多く、この日も遅れて教室に入ってきた。自分の机を見るなり、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と言って、笑いを浮かべたが、やがて黙り込んでしまった。
 裕史はこの色紙を持って帰宅。キョトンとした様子で家族にこう言った。「これ見てどう思う?ここに先生も書いているんだよ!」
 また、裕史はのちに仲間に「俺、1度死んだんだよ」と漏らしている。裕史は以前からシカト(無視)されてもいた。この葬式ごっこはシカトの延長だった。

終わらないいじめ】裕史はいじめから逃れるためか、10月あたりから、欠席が目立つようになる。それまでは月に1日あるかないかの欠席が、10月に6日、12月に8日、1月に11日にのぼっている。欠席の日は朝に家を出てから、病院の待合室などで時間をつぶしていたらしい。登校した日も職員用トイレに隠れたり、保健室で休養することが多かった。
 裕史の父親は、いじめの事態をわきまえて、息子を叱る一方、10月から11月にかけてF教諭に「やめさせて欲しい」旨の相談を持ちかけ、また11月から12月にかけて、いじめた子どもの家庭に乗り込み、親に直談判、抗議している。
 だが、年が明けて(86年)3学期になっても、裕史へのいじめは続いた。1月8日、始業式の日、校舎階段の踊り場でグループの8人にひざ蹴りやパンチなどの暴行を受ける。さらに裕史が血のついたカッターシャツを脱ぎカバンに隠して帰ろうとしたところ、校庭で3年生の1人に殴られる。6日ぶりに登校した1月22日、体育の授業中、職員室前のプラタナスの木に登らされ、揺さぶられた。さらに3年生2人に言われ、サザンオールスターズの歌を歌わされた。
 中野富士見中学校の教頭は、3学期始業式の日の、校庭での裕史に対する暴行を目撃していた。裕史と加害生徒に電話をかけたが、双方とも口裏を合わせたかのように事実を否定したため、事態を黙認してしまう。翌日から裕史が欠席するようになっても、教頭も担任も「ズル休みかな」という程度の認識だったという。
 最後に登校した1月30日、裕史は教育相談室での某教諭との話し合いで、いじめに遭っていることを告げ、具体的にカバンを持たされているとか、買い物を言いつけられているとかの悩みを打ち明けた。
 翌1月31日朝、裕史は家を出たまま、その後行方がわからなくなった。父親は池袋、新宿のゲームセンターや音響機器店を探しまわったが、とうとう見つからなかった。

死に場所】裕史がたどりついたのは岩手県盛岡市だった。父親の実家が岩手県にあり、かつて裕史は父親に連れられて来たことがあった。
 2月1日、裕史は盛岡市の中心部をさまよい歩いた後、国鉄(現・JR)盛岡駅に隣接するデパート「フェザン」の地下トイレの洋服掛けにビニール紐をかけ、首を吊った。
 「フェザン」は午後9時に閉店したが、トイレのドアが閉まったままなので不審に思った警備員がのぞき、死体を発見した。トイレの床には鉛筆の走り書きの遺書が置かれていた。制服のポケットには生徒手帳が入っており、それから身元が判明し、その夜に父親に連絡が入った。

  〔遺書〕
 家の人へ そして友達へ
 突然姿を消して申しわけありません
 くわしいことについては
 〇〇とか〇〇とかにきけばわかると思う
 オレだってまだ死にたくない。
 だけど、このままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。
 ただオレが死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ、
 いみないじゃないか。
 だから、もう君たちもバカなことをするのはやめてくれ、
 最後のお願いだ。
  昭和六十一年二月一日  鹿川裕史
 [註:上記の「〇〇とか〇〇とか」には、いじめグループのリーダー格2人の実名が記されている。]

 2月3日、裕史の遺体は岩手県石鳥谷町で火葬に付された。妹が「お兄ちゃん、行っちゃやだあ」と、棺にとりすがった。遺骨は5日夕方、東京の自宅に戻った。

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                                   2011年11月30日 谷川健司
第12回安田塾(2011.10.29)の講演
「ハリウッドと日本のアカデミア」
【講師】谷川健司(たにかわ・たけし、映画ジャーナリスト・早稲田大学客員教授)) 
【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室

はじめに
 「ハリウッドと日本のアカデミア」というタイトルから具体的にどのような話が可能か。
 ①日本のアカデミアにおいて、ハリウッド映画がどのように研究・教育に用いられているか。
 ②ハリウッド映画産業界(のインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界)と日本のアカデミアという二つの全く異なる世界の比較。
 ③その二つの世界の両方に関わってきた者として、どんな人との出会いを重ね、またどんな経験を積んできたか。今後どのような立ち位置で仕事をしていくつもりか。
 ⇒ 以上の、三つの異なる位相それぞれについて話を進めていく予定。後半は多少、映像資料もお見せする予定で、1時間30分程度で話をまとめ、そのあとは皆様からの質問に答えたり、フリートークに近い形で。

1. 日本のアカデミアにおけるハリウッド映画
1) 米英などにおけるFilm Studiesと日本における映画学の違い
 ⇒  欧米におけるFilm Studiesが、文学研究などと同様の大きな学問分野の一つとして存在しているのと比べて、日本では限られた大学の限られた学部にしか映画を系統だって教える学科は存在せず、「映画学」という学問が存在すると言えるかどうかすら疑問。
 ⇒ 日本の場合、日本映画大学、デジタル・ハリウッド大学、日本大学芸術学部などが映画について系統だって教えるところとして存在するが、いずれも実作者養成が第一義的目的で、純粋な学問としての「映画学」ではない。
 ⇒ 美学、哲学などからの「表象文化論」、文学研究者による「映像のテクスト分析」としての映画研究(作家研究)はある程度の人数の研究者がいるが、社会学、大衆文化論などからのアプローチは少ない。

2) 映画研究のすべての領域、すべての方面からのアプローチの研究者が須らく会員であるような「日本映画学会」は存在しない。
 ⇒ 日本映像学会、日本マス・コミュニケーション学会、映画英語教育学会など、映画を研究する人たちが多く参加する学会はあるものの、それらは、それぞれに専門の領域を持つ人たちが、その立ち位置からアプローチしているということで、やはり「映画学」の研究者とはいいがたい。
 ⇒ それぞれの枠内の研究者にしか読まれない論文。
 ⇒ 本当の意味での「映画学」としてのピア・レヴュー・システムが未確立。
 ⇒ むしろ、アカデミアの外部(民間の映画研究者、コレクターら)による著作などにもクオリティの高いものはあるが、映画関係書には学術的に意味のあるもの、全く無いもののどちらもあり、玉石混交の状態で区別されずに市場に出ている。

3) 「ハリウッド」映画という枠組みに限定するならば、さらに別の問題が浮上する。
 ⇒ すなわち、日本の映画研究者のある意味での主流といえる美学、哲学などからの「表象文化論」や、文学研究者による「映像のテクスト分析」としての映画研究(作家研究)は、往々にして映画の持つ“芸術”としての側面にしか関心を示さないし、 「ハリウッド」映画の大多数を占める“娯楽”映画の研究は価値が低いとみなされやすい。
 ⇒ 映画を著す英語の単語としては、●Film、●Cinema、●Motion Picture、●Movieなどいろいろある。映画とは、人類にとっての科学的な達成物(映画芸術“科学”アカデミー協会)であり、第七芸術であると同時に、何よりもInformativeな“娯楽”として発展してきた。

4) 谷川はどのような立ち位置で映画を研究しているのか?
 ⇒ 谷川は一橋大学の社会学なので、基本的には南博先生などから続く大衆文化研究の系譜に自分自身を位置づけているが、アカデミアにあっては、前任校の茨城大学(今も月に二回、Japanese Film Historyという授業をやっているが)では「カルチュラル・スタディーズ」担当教員というポスト、早稲田大学では(映像を専門とする)「ジャーナリズム論」担当教員というポストでしかなく、どうしてもしっくりこない。
 ⇒ 映画とは、多くの観客の目に触れて初めて意味を持つ。
 ⇒ 多くの観客に好まれる映画こそがいい映画であり、たとえば世界的な巨匠が手がけ、本人が「わが生涯の最高傑作」と自負する映画であっても、それがほとんど人の目に触れたことの無いものであれば意味をなさない。
 ⇒ そういうStandpointで映画に向きあってきているのだが、観客との接点で映画を考えるという枠組みは、正直いって試行錯誤の繰り返し。

5) 大学でどんな授業をやっているのか?
 ⇒ 「映像文化論」では、毎年、テーマを変えて、あるひとつのテーマに沿った映画(主としてハリウッド映画)を選び、2単位=90分×15回の授業で7作品を見せて、観賞後に個々の映画の背景としての時代のムードであるとか、映画がいかに観客に問いかけ、また観客側の潜在的な需要が映画のコンテンツに影響を及ぼしてきたのか、といった観点で考察。
 ⇒ 本年度でいえば、「冷戦時代のパラノイア」というテーマで、前期は「核・放射能への恐怖」、後期は「マッカーシズム」という枠組みで1950年代にハリウッドで製作された映画を題材に学生たちと一緒に考えていく、という構成。
 ⇒ ともかくも、授業で映画を見せてますというだけで、そんなの学問ではない、と思い込むような人が多い、というのがアカデミアにおける問題点。

2. ハリウッドと日本のアカデミアという二つの全く異なる世界の比較
1)アカデミア/映画ジャーナリストという二つの分裂したキャリアの中で、行きつ戻りつしているということの意味。
 ⇒ そもそも、アカデミアに足を踏み入れたのは二つの理由から。
 a) 映画評論家や映画を専門とするジャーナリストだけでずっと食っていくのは大変だろうと思っていたから。(身近なライフモデルとしての祖父)
 b) 映画ジャーナリストとしてどれだけ価値のある仕事をしても、大学という場にいる人たちはおそらく「あれは、研究者じゃなくてジャーナリストが書いた本だからね」と評価の対象にはしようとしない傾向がある(それは蛸壺化している大学人たちのアイデンティティのよりどころだと思うが)ので、「ならば博士号くらいとって、誰にも文句を言われないようにしよう」と思ったから。

2) 専任教員でいること vs. インディペンデントでいること
 ⇒ 専任教員でいること のメリット
 a) 安定した収入
 b) 社会的な信用
 c) 研究室という“狭いながらも自分の城”を確保できる
 ⇒ 専任教員でいること のデメリット
 a) 忙しさ(教授会、委員会、会議、会議、会議…入試、入試、入試……)
 b) 学内ポリティクスに費やされる無駄なエネルギー(派閥抗争、人事案件などでの駆け引き、誹謗中傷合戦)
 c) 専門領域の蛸壺化と、狭い井戸の中で「自分は偉い」と勘違いするメンタリティ
 ⇒ インディペンデントでいることのデメリット
 a) 安定しているとは言えない収入
 b) 研究室がないので資料の置き場所を確保しなければならない
 ⇒ インディペンデントでいることのメリット
 a) 授業・学生指導以外の事には一切関わらないので自由な時間が多い
 b) くだらない事に自分の時間を費やさなければならないイライラの解消
 c) そこそこの社会的な信用の確保
*自分のやりたい仕事をやっていく上で、谷川は専任教員でいるよりも、客員教授というインディペンデントな状態を選択

3) ハリウッド映画産業界(およびそのインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界)ではどうか?
●1950年代半ばまでのハリウッドのスタジオ・システム時代における、メジャー・スタジオの雇用下にある立場と、インディペンデントの映画人(俳優・監督etc)である立場の違い
*メジャーのメリット
 ⇒ 安定した収入/落ち着いて仕事に取り組める環境/潤沢な予算
*メジャーのデメリット
 ⇒ 作家性よりも収益性の高さが優先される構造
*インディペンデントのメリット
 ⇒ 規模は小さいものの作家性は担保(やりたい仕事をやりやすい)
*インディペンデントのデメリット
 ⇒ 安定しない収入/予算のしばり

●1960年代後半の“アメリカン・ニューシネマ期”以降のハリウッドにおける、メジャーとインディペンデントの立場の違い
*メジャーのメリット
 ⇒ 成功の度合いに拠って得られる高収入/潤沢な予算
*メジャーのデメリット
 ⇒ 収益性の高さが追求される結果、作家のエッジが失われやすい
*インディペンデントのメリット
 ⇒ 作家性の担保(ファイナンスさえ得られればやりたい仕事をやれる)
*インディペンデントのデメリット
 ⇒ 安定しない収入/予算のしばり

 ハリウッド映画産業界にしろ、日本のアカデミアにしろ、予算権・人事権などの権力を握る人たちがいて、いったんその世界に入ることを許された人の中でも、その権力に対して従順であれば安定した収入やコンスタントな仕事が保障されるものの、権力に対してクリティカルであろうとし、また自分自身の欲求に忠実にやりたい仕事をやっていこうとすれば、比較的不安定な立場のインディペンデントでいざるを得ない、という点では何一つ変わらない。
 ⇒ どちらがいい、悪いということはない。もの書きとか研究者でもフリーランスの時にいい仕事をしていたのに、大学という組織に組み込まれた途端に守りに入ってエッジを失う人はいるし、逆に安定を得たことで力を発揮する人もいるだろう。映画人でももちろん同じこと。
 ⇒ 要は、自分がどういうタイプの人間なのかということ。たまたま、谷川はいつでも誰に対しても自由にものが言えるような、自由な立場でないとストレスばかりたまってやっていられない、ということ。
 ⇒ それが、アカデミアとジャーナリズムを行きつ戻りつしている理由。

3. 二つの世界の両方に関わってきた者として
1) 映画ジャーナリズムの世界でどんな人立ちと接してきたか
 谷川がアカデミアの世界ではない領域で関わってきたのは、ハリウッド映画産業界のインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界であり、映画作家、俳優、プロデューサーといった人たちへの取材を通じて、言わば“観察者”としてハリウッド映画産業界の様々な立場の人たちを見てきた。
 ⇒ 俳優:S・スタローン、W・スナイプス、L・ディカプリオ、R・デ・ニーロ、K・リーヴス、K・ブラナー、C・オドネル、J・ヴォイト、W・スミス、B・フレイザー、J・ルーリー、D・エイクロイド、J・ニコルソン、 P・フォンダ、J・パトリック、D・クエイド、B・ボブ・ソーントン、 C・ウォーケン、T・ハットン、R・ウォーカーJr、D・ストックウェル、etc
 ⇒ 監督など:A・ライン、J・ウー、T・フーバー、J・シュマッカー、T・バートン、コーエン兄弟、 O・ストーン、 S・ゼインツ、A・ミンゲラ、M・ニコルズ、J・ハリスン、R・ベイカー、G・スティーヴンスJr、etc  
 ⇒ それらの中で、最も深く、強い関係を構築したのがデニス・ホッパーだった。

2) デニス・ホッパー(Dennis Hopper 1936-2010)とは、いかなる映画人で、谷川はいかにして彼との友人関係を構築していったのか?
 ⇒ 谷川自身の、安定はしているが窮屈でストレスがたまる生活よりも、インディペンデントの立場でやりたい仕事をしていきたい、という生き方の基本線。
 ⇒ ハリウッド映画産業界にあってそのお手本であり続け、かつ谷川をそういった生き方へと導き、励ましてくれたのが、デニス・ホッパーという人だった。
 ⇒拙著『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』は、そうした想いを形にしたもの。

 事の発端は、日本ヘラルド映画勤務時代の1986年にニューヨークでデニス・ホッパーによる写真展を見たこと。
 ⇒ 彼の写真家、アーティストとしての仕事を日本に紹介しようと考え、「東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」を企画・プロデュース。
 ⇒ 手始めに、1988年に彼の幻の監督作『ラストムービー』(1971)のロードショー公開を実現。
 ⇒ 1989年11月10日、ベルリンの壁が崩壊したその日にホッパーの初来日を実現させ、渋谷PARCOにて彼の出演作・監督作を集めた映画祭と、彼が1960年代に撮っていた写真を集めた写真展を開催。
 ⇒ ちょうどその頃は、彼自身も長い失意の日々(アルコールとドラッグ漬けの時代)から立ち直り、『ブルーベルベット』で悪役俳優としてカムバックし、再びハリウッドの表舞台に立とうとしていた時期。

3) デニス・ホッパーとは何者だったのか?
 ⇒ 17歳で期待の新人としてワーナー・ブラザースと契約、ジェームズ・ディーンの公私にわたる弟分として映画デビューを果たし、ディーンのたった3本しかない主演作のうち2本(『理由なき反抗』『ジャイアンツ』)で競演した。
 ⇒ ディーンの事故死後も、しばらくの間はメジャー・スタジオという“体制”の中で“反抗的な若者”として居場所があったものの、権力を傘に着て押さえつけようとするスタジオのお偉方や、既得権益を守るべく理不尽なルールを押し付けようとする大人たちに歯向かい続け、ハリウッドを追放されてしまう。
 ⇒ 以後、俳優としてはインディペンデントの立場でB級映画の悪役などを演じたりTV番組のゲスト出演などで糊口をしのぎながら、「将来は監督になって自分たちの撮りたい映画を撮ろう」と共通の夢を語り合っていた故ジェームズ・ディーンとの約束を果たすべく、監督になるための修行の一環として写真を撮り始める。
 ⇒ そして1969年、失敗に次ぐ失敗を重ねたあと、とうとう念願の初監督作品を撮るチャンスを掴む。
 ⇒ その作品、『イージー・ライダー』こそが、たった37万5千ドルの予算で製作されたにも拘らず、最終的に6000万ドルもの収益を上げ、古いスタジオ・システムを完全に葬り去り、今日のハリウッドのビジネス・モデルを生み出すきっかけとなった。
 ⇒ 『イージー・ライダー』の究極の成功(カンヌ国際映画祭新人監督賞受賞/アカデミー賞脚本賞ノミネート)は、デニス・ホッパーをして、一躍“時代の寵児”としてニュー・ハリウッドに君臨させることになり、以降、ハリウッドでは「才能はありそうだが経験の無い新人監督たち」、すなわち、ジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグといった後に続く世代が活躍する下地ができる。
 ⇒ だが、好事魔多しという言葉通り、上げ潮のホッパーが監督・主演第2作として取り組み、南米ペルーでの長期ロケを敢行した問題作『ラストムービー』は、その難解な内容ゆえに資金源のユニヴァーサル映画ともめ、ほとんどお蔵入りの憂き目に会う。
 ⇒ ホッパーの失意の日々の始まり
 ⇒ しかしながら、『ブルーベルベット』で復活を遂げ、監督としても返り咲くまでの間の1970年代にあっても、俳優デニス・ホッパーはヴィム・ヴェンダース監督による主演作『アメリカの友人』(1976)や、短い出番ながら怪演したフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979)といった作品で忘れられない仕事を残している。

4. ホッパーとの出会いで何を学んだのか?
1) 懐に飛び込んだこと
 『ラストムービー』の日本向け配給の権利を持っている相手を探していて、結果的にデニス・ホッパー本人とコンタクトがとれたのだが、始めは住所すら判らないままロサンゼルスに出かけた。
何としても直接会って話をしたいと思い、 『ラストムービー』のビデオ発売用にインタビューさせてもらう話をまとめ、自宅に出向く。
 ⇒ そのとき、ホッパーは、「お前がどうしても俺に会って話がしたいと思った気持ちはよく判る。俺も若い頃、こいつは本物だ、と思った相手には自分から会いに行ったからな。ジェームズ・ディーンと友達になれたのも、どうしたら君のようになれる?、って俺から会いに行ったんだ。だから、オレはお前のことを信用するよ。基本的に同じ種類の人間だと思うからね」と言って、初めから心を開いて接してくれた。

2) 深く心を揺さぶったこと
 その後、「第一回東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」を企画・プロデュースして初来日を実現させたが、それは当時努めていた日本ヘラルド映画の仕事としてやったわけではなく、友人たちと本当に手弁当で、小口のスポンサーをみんなで手分けして探して、足りない分は自腹を切って実現させたもの。
 ⇒ ホッパー夫妻の往復ファースト・クラスの航空券も、ホテルオークラのセミ・スィートルームも、そうやって用意したということを、彼は来日中に初めて知り、深く心を揺さぶられたと思う。
 ⇒ それをきっかけに、その後も密接な付き合いが続き、彼についての本を日本で何冊か出版していたことから、彼自身によって「俺のバイオグラファーだ」と公式に指名され、アメリカとドイツでそれぞれ出版される彼のカタログ・レゾネの編集を頼まれる。

3) 教訓
 本当に自分が情熱を持って取り組めることを見つけ、それに全力で取り組めば、結果はおのずと付いてくる。
 ⇒ 同時に、ホッパー自身の生き方――不器用で、何度も苦境に立たされながらも自分自身の信念に忠実に生きた人だと思う――に憧れ、その生き方をお手本として、僕自身も自分の価値観とか本能とかに忠実に生きようと務めてきた。
 ⇒ 会社をやめてフリーランスになったときに、デニス・ホッパーは「食っていけてるのか?」と心配してくれつつも、「誰かために己を殺して働くということと比べた時に、インディペンデントになるということは絶対的に良いことだ」と背中を押してくれた。

おわりに
 これからの展望
 ⇒ アカデミアと映画ジャーナリズムの二つの世界で、どちらにもインディペンデントの立場で片足ずつ足を突っ込んでいるということは、どちらに重心をかけるも自分次第、という意味では気が楽だが、どちら側の人たちからも「谷川さんって、本当はあっち側の人だよね」と距離を置かれているということでもある。
 ⇒ 昔、デニス・ホッパーも俳優仲間からは“写真家/アーティスト”と思われ、芸術家仲間からは“映画人”と思われ、居場所が無かった、と言っていた。でも、結果的に見れば、デニス・ホッパーという人はその二つの世界の才能と才能を結びつける触媒のような存在として、独特の存在感を示した。
 ⇒ 目標としては、その二つの世界を結びつける架け橋のような仕事を、まだまだあと20年くらいはやっていきたいと考えている。

a0200363_2241435.jpg*デニス・ホッパーとのことの詳細はキネマ旬報社より上梓した『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』(2400円+税、2011年2月)に記してありますので、お読み頂けると嬉しいです。

*同書の出版を記念して本年1月から2月にかけて東京・京橋のLUX Gallerieにて、またその後、大阪の心斎橋STRAND BOOKSTOREにて開催した「谷川コレクションによるデニス・ホッパーの軌跡展」に際して、期間限定で開設していたブログ「デニス・ホッパーの軌跡」は、現在紙面更新は行っていないものの、過去の記事は現在でも閲覧できます。ご関心のある方はhttp://ameblo.jp/dhopper/にてご覧下さい。
                                   2011年11月15日 安田忠郎
                    第12回安田塾を終えて

 第12回安田塾は、10月29日(土)に開催されました。 
 例会では最初、私が午後2時から30分、講師・谷川健司のプロフィールを紹介がてら、「私のアメリカ観」についてお話ししました。
 本号㊤では、そのトークの趣旨を敷衍(ふえん)して述べます。
 そして、谷川講師の講演については、次号㊦で谷川自らが文章にまとめます。

▲ 「第11回安田塾の事後報告㊤」(安田塾メッセージ№37)の(3)は、こう記しました。
 私・安田は「映画狂」、特に「アメリカ映画好き」のゆえに、「アメリカには全体として、多少の屈折はあっても、大変良い印象を持ちつづけてきた。特に小中時代の私の場合、海の彼方のアメリカに強い憧れさえ抱いていた」と。
 この点の意味合いを、私としては児童文学作家・灰谷健次郎(1934~2006)のエッセイ集『アメリカ嫌い』(角川文庫、2002年)を参照しながら、一層明らかにしてみます。
 彼は次のような「アメリカ批判」を表明しています。「はじめ、アメリカが嫌いになったのは、うんと幼いときで、当時、進駐軍と呼ばれていたアメリカ兵に、チューインガムやチョコレートを面白半分にばらまかれ、その屈辱が身にしみた。…/思想形成時代、韓国の民主化闘争やベトナム戦争をつぶさに見てきた。よくここまでやるな、というほどの陰謀と覇権主義に、アメリカにはほとほと愛想がつきるという気分にさせられる。/建国の歴史が先住民虐殺の歴史そのものであり、黒人に対する白人の差別と暴力主義は容易に克服されず、銃社会がしめすように、生命に対するこまやかさのきわめて乏しい国というのが、わたしのアメリカ認識だった。/アメリカスタイルの合理主義というのが、これまた曲者で、商業主義とつるんで、世界中を我がもの顔にのし歩く。/海外に出るようになって、この怪物の、他国への経済侵略、文化破壊のすさまじさに目を見張った。/日本も含めて、世界のおおかたの都市はアメリカナイズされてしまっている。」(同上書84-5頁)

 私はかつて70~80年代に、17年間の小学校教師経験を持つ彼のミリオンセラー『兎の眼』(1974年)を大学教職課程における私の授業の課題図書に指定しつづけました。
 同書は塵芥処理所の隣接する小学校を舞台に、大学を卒業したばかりの若い女性教師が直面する出来事や出会いを通して、児童たちと共に成長する姿を描いた作品です。そこでは、教師(大人)=管理=悪、子ども=自由=善という問題的な二項対立構造が垣間見えるものの、教師が子供に寄り添って共に考える「教育」の根本的なあり方が示されるとともに、学校教育の枠内では見捨てられてしまう底辺の子供たちの個性的なキャラクターが活写されています。
 
 しかし、『アメリカ嫌い』における彼のアメリカ認識・批判は、余りに概念的に過ぎます。
 なるほど同書には、「もしアメリカの文学、映画というものに出会っていなければ、わたしはアメリカを悪魔の住むとんでもない国だと思いこんでいただろう。/当たり前のことだが、アメリカにも思慮深い人、礼儀正しい人、心優しい人は数多くいる」(同85-6頁)という一文が盛り込まれています。
 ところが問題は、彼がアメリカ文学・映画に「出会った」にもかかわらず、何らアメリカ文化の豊かさに裏打ちされたアメリカ社会像を縁取るにいたっていないことです。
 彼は同書のなかで、「社会主義国(ベトナム―引用者註)にストリートチルドレンが多数いるというのは信じ難い話だが、これは現実なのである」、「社会主義国にも官僚主義がある」と言明しています(同181頁)。彼の場合、その思想的構えが社会主義=善vs.資本主義=悪のイデオロギー的枠組みに拘束されているために、アメリカ固有の問題状況を対象化できないのです。ましてアメリカの輝かしい長所を見つめ直せるはずがありません。
 彼のイデオロギー的姿勢では、第11回安田塾の講師・小川彩子(安田塾メッセージ№38参照)の次のような立言は、まったく理解の範囲を超えるものでしょう。「アメリカはヨーロッパ文化をしっかり引きずっており、固有の文化的背景をもつグループが『同化』でなく『共生』を目指している。それぞれの民族グループが先祖から受け継いだ人種的、民族的伝統や習慣などの文化遺産を守り、しかも他の文化も尊重して共生しようという多文化教育が、教師教育において、また現場教師の創意工夫によって促進されている。アメリカ社会を表現するのに今までの『人種のるつぼ』が『トッスド・サラダ(Tossed Salad)」に代わって久しい。固有の人種、民族は溶け合わず、ミックスしているだけのサラダのように、一人一人が個性を主張しているのである。」(『突然炎のごとく』春陽堂、2000年、207-8頁)

 私は、特に少年時代の私は、映画がたまらなく好きでした。とりわけ、強い個人の夢・理想があり、個性きらびやかに躍動する人物を創造するアメリカ映画を熱烈に愛したものです。
 小学生→中学生の私が見た、忘れがたいアメリカ映画は、例えば次のような作品でした。
・「モロッコ Morocco」1930年~監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 主演:マレーネ・ディートリッヒ、ゲイリー・クーパー
・「駅馬車 Stagecoach」1939年~監督:ジョン・フォード 主演:ジョン・ウェイン、トーマス・ミッチェル
・「風と共に去りぬ Gone with the Wind」1939年~監督:ヴィクター・フレミング 主演:ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル
・「哀愁 Waterloo Bridge」1940年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー
・「わが谷は緑なりき How Green Was My Valley」1941年~監督:ジョン・フォード 主演:ドナルド・クリスプ、モーリン・オハラ
・「断崖 Suspicion」1941年~監督:アルフレッド・ヒッチコック 主演:ケーリー・グラント、ジョーン・フォンテイン
・「カサブランカ Casablanca」1942年~監督:マイケル・カーティス 主演:ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン
・「心の旅路 Random Harvest」1942年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ロナルド・コールマン、グリア・ガースン
・「誰(た)が為に鐘は鳴る For Whom the Bell Tolls」1943年~監督:サム・ウッド 主演:ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン
・「キューリー夫人 Madame Curie」1943年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:グリア・ガースン、ウォルター・ピジョン
・「荒野の決闘 My Darling Clementine」1946年~監督:ジョン・フォード 主演:ヘンリー・フォンダ、リンダ・ダーネル
・「白昼の決闘 Duel In The Sun」1946年~監督:キング・ヴィダー 主演:グレゴリー・ペック、ジェニファー・ジョーンズ
・「拳銃無宿 Angel and the Badman」1947年~監督:ジェームズ・エドワード・グラント 主演:ジョン・ウェイン、ゲイル・ラッセル
・「ジャンヌ・ダーク Joan of Ark 」1948年~監督:ヴィクター・フレミング 主演:イングリッド・バーグマン、ホセ・ファーラー
・「折れた矢 Broken Arrow」1950年~監督:デルマー・デイヴィス 主演:ジェームズ・スチュワート、ジェフ・チャンドラー
・「陽のあたる場所 A Place in the Sun」1951年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー 
・「クォ・ヴァディス Quo Vadis」1951年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ロバート・テイラー、デボラ・カー
・「巴里のアメリカ人 An American in Paris」1951年~監督:ヴィンセント・ミネリ 主演:ジーン・ケリー、レスリー・キャロン
・「アフリカの女王 The African Queen」1951年~監督:ジョン・ヒューストン 主演:ハンフリー・ボガート、
キャサリン・ヘプバーン
・「真昼の決闘 High Noon」1952年~監督:フレッド・ジンネマン 主演:ゲイリー・クーパー、グレイス・ケリー
・「ナイアガラ Niagara」1953年~監督:ヘンリー・ハサウェイ 主演:マリリン・モンロー、ジョゼフ・コットン
・「終着駅 Stazione Termini」1953年~監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 主演:ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト
・「シェーン Shane」1953年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:アラン・ラッド、 ジーン・アーサー
・「地上(ここ)より永遠(とわ)に From Here to Eternity」1953年~監督:フレッド・ジンネマン 主演:バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、デボラ・カー、フランク・シナトラ
・「ローマの休日 Roman Holiday」1953年~ 監督:ウィリアム・ワイラー 主演:オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック
・「慕情 Love Is a Many Splendored Thing」1955年~監督:ヘンリー・キング、主演: ジェニファー・ジョーンズ、ウィリアム・ホールデン
・「十戒 The Ten Commandments」1956年~監督:セシル・B・デミル 主演:チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー
・「ジャイアンツ Giant」1956年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェームズ・ディーン
 エトセトラ、エトセトラ…
a0200363_1444414.jpg 私は小学4年(10歳)のとき初めて、映画「シェーン」を見ました。映画のラスト・シーン、去りゆくシェーンを必死で引き止めるジョーイの「シェーン!!カムバック!!」の叫びが心に染みました。そして、テーマ曲「遥かなる山の呼び声」』(The Call for Far-away Hills、作曲:ビクター・ヤング、歌:ドロレス・グレイ) の調べに余韻が残りました。
 私は子供のころ、あくまで少年ジョーイの目線で物語を見ていました(⇒少年の目から見た英雄物語)。しかし高校生になってから、もう一度見直して、男女の三角関係(シェーンとマリアン、夫であるジョーとの間で生じる愛の葛藤)の話に気が付きました。
 「シェーン」はいろいろな要素―豊穣な人間味と美しい景色―が入り交じり、見れば見るほど隠された味に魅せられる作品です。「シェーン」こそ、子供は子供で楽しめるし、大人は大人で楽しめる、何度でも観たくなる「西部劇」屈指の名画です。
 

 当時の私が映画の真の価値を汲み取ることができたかどうかはおぼつきません。
 だが、いずれにせよ、思春期の向こう見ずな少年が絢爛たる娯楽性と芳醇なる文化性に恵まれたアメリカ映画に出会って、人間の意味⇒世界の意味を発見し再発見しつづけた点は間違いありません。アメリカ映画の伝える「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ American way of life」―アメリカの生活・思想・科学・教育・政治・宗教等―を通じて、少年のむき出しの視線は世界大の人間の生活と、その価値の普遍性に向けて、自然に開かれていきました。

 私は―少年期はおろか、青年期を経て今日に至るまで―、アメリカ映画から、人間の営為の偉大さ、世界の広さと厚みを学び取りつづけ、民主主義的諸価値に関する貴い示唆を受けつづけました。そして今なお、アメリカ映画の多くが私に心の糧と安息とをふんだんに与えてくれていることも紛れもない事実です。
                                   2011年10月5日 安田忠郎
第11回安田塾(2011.7.23)の講演
泣き笑い挑戦人生異文化、住んで学んで教えて旅して
【講師】小川彩子(おがわ・あやこ、グローバル教育学者)
【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室

▲ 小川さんは下記の項目に即して順次、話を進めました。その際、注目すべきは、アメリカではお馴染みの「参加」型の手法が導入されたことです。彼女の力量のなせる業でしょう、約2時間、参会者との対話を重ねながら、率直な話し合いが展開されました。
(1)自己変革:自己の壁に挑戦! 
 ①超内気な主婦だった 
 ②内なる挑戦から外への挑戦へ
(2)泣き笑い挑戦人生:年齢の壁に挑戦! 
 ①突然のアメリカ生活 
 ②泣きが笑いより多かった 
 ③叩けよ、さらば 
 ④博士号への道:目標必達 
 ⑤講師からプロフェッサーへ
(3)文化の発信受信:文化の壁に挑戦! 
 ①足元から見たアメリカ文化 
 ②多文化音楽とアートの昼食会 
(4)足と心で異文化交流:ドキドキ地球千鳥足と三無(あてにしない・あわてない・諦めない) 
 ①みどりとケンの物語
(5)自己実現と共生活動の交点:挑戦に適齢期なし! 
 ①「年だ」は「ま~だ」だよ
 ②「人生は壁乗り越える泣き笑い―彩子」
 “Constant renewal keeps the oasis alive” 「静かな泉の水は涸れる」

 講演内容は鳥取県米子出身の「超内気」な主婦・小川彩子の「自己変革」⇒「自己主張」の物語でした。そこでは、とりわけ1990年、定年間際の夫に下されたアメリカ転勤(オハイオ州シンシナティ在住)を機に、チャレンジを自分に課しつづけた異文化体験談が披露されました。
 彼女はこの異文化体験の核心を、著書『突然炎のごとく Suddenly, Like a Flame』(春陽堂、2000年)に手際よくまとめています。以下、同書を心して読み取りながら、私の最も関心の引くところを箇条書きに特記します。
 

 「英語はアメリカに行ったからとて簡単に上達はしない、というのが体験からくる私の意見だ。物件(不動産―引用者註)を見ながら、人と話したあと、テレビやビデオを見ているとき、本や新聞を読んでいるとき、良い表現にであったらすかさずメモする。そのメモ帳をおりあるごとに開き、暗記を試み、文脈上少々不適切でも使ってみるなどの死に物狂いの努力があってこそ表現が豊かさを増す。例外的に語学的センスのずばぬけた人はいざ知らず、凡人は努力してこそはじめて英語が身につくのだ。」(同上書13頁)
 ←安田曰く、まったく同感である、と。
 私・安田はニューヨークに10年も(不法)滞在しながら碌に英語をしゃべれない日本人に出会ったことがあります。小川さんは英語の習得に人知れず努力に努力を重ねたことでしょう。

 「シンシナティで手に紙切れでも持ってうろうろしてごらんなさい。家探しをしていると思って必ず若い人でも誰でも飛んできて、“May I help you ?”と聞いてくれる。欧米人の慣用句だからと何も感じない人が多かろうが、私はいつも、なんて美しい言葉だろうと思う。『お助けさせて頂けませんか』なんて。丁寧語で手助け許可を求めるなんて。/多くの日本人は知っている人にはとても親切だが『見知らぬ人への親切』ではアメリカ人にかなわないと思う。挨拶しようとためらっているうちにチャンスを逸するのかもしれない。アメリカは食わず嫌いだった夫でさえも数年の滞米生活のあと、アメリカ観が変わった。未知の人から予期せぬ親切を受けたこと数知れなかったからだ。『宗教を持つためだろう』と良く二人で話合ったが、社会を形成する人間は助け合って生きていくものだという思想―多分宗教に根ざした―が根底にあるようだ。/助けてあげても直接的な見返りは期待しないし、助けてもらっても『アリガトウ』の言葉だけ。いつか自分ができることで助けの必要な人に手をさしのべれば良いのだ。助けの『手』のあとに『物』の移動が少ないのはスッキリしていて気持ちがいい。」(同22-3頁)
 1998年の大晦日、小川夫妻がレストランで居合わせたアメリカ人と年越しをした際のこと。「十二時が近づくと『肩を組もう』とその中の1人が言った。そして全員が肩を組み、『蛍の光』を合唱し始めた。程なく十二時だ。/“A Happy New Year!”と叫びあって…、お互い知らぬもの同士が抱き合って頬をくっつけ、『サンキュー。ワンダフル!』と賑やかに挨拶を交わす。直前まで知らぬ間柄だった者同士が仲間になり、20人がもれなく頬をくっつけあうこの和やかさ。『なるほどここはアメリカだ!』と温かい気持が胸にあふれた。」(同201-2頁)  
 ←安田曰く、まったく同感である、と。
 私・安田もまたニューヨーク滞在中―シンシナティよりはるかに巨大な都市でも―、“May I help you ?”と声をかけてきた何人ものニューヨーカーに出会いました。そして、各種のパーティー場やレストランで過ごした際、私の周辺には「相手をハッピーな気分にさせる明るく温かい挨拶と微笑み」(同21頁)が満ちていました。
 それに比べて、日本人のほとんどが何とのっぺりして無表情なことか!溌剌とした自己主張もなく、引っ込み思案で辛気臭くて、ウジウジしていて…あー、どうして、こうも違うのか!
 私はこの十数年、この彼我の差を見極めるために、「近代化」の問題を検討するとともに、人間のエートス(生活態度⇒宗教)に立ち入って、主としてユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教と、神道・仏教の多神教を比較検討してきました。そして、どうやら事態は見えてきました。
 私はこの学習成果の一端を、昨年の世田谷市民大学(受講者112名)で初めて発表しました(安田塾メッセージ№20参照)。

 「アメリカでは勉強の適齢期はない。学校を離れるのはドロップ・アウトだけではなく、不必要な時にはストップ・アウトし、また必要なときに学校へ帰るバック・トゥー・スクールのシステムが確立している。人はいくつになっても教育を受ける権利を持っているのだ。だから公教育の時期に関する人生プランは一人一人が異なる。自分の人生を決めるのは自分なのだ。」(同28頁)
 ←安田曰く、アメリカの学校教育がいかに豊かであるかは、一個人の生涯にわたる積極的な自己学習能力を高める教育システムが整備されていることが客観的に実証している、と。

 「8年間のうちに住まいを4回変わった。引越しが趣味だと言われてしまったが、どの家にも限りない良さがあった。アメリカの住居、特に古き良きアメリカの残るシンシナティではアパートも、タウンハウスも、どんなに小さく見える家でも、室内はとてもゆったりと造られている。日本の一般的な家屋と比較すると感動するほど素敵な設計になっている。」(同33頁)
 「シンシナティ界隈はどこに住んでも風景は美しく、コミュニティーは人情に満ちあふれ、リスや小動物をはじめ蛍も多く、かわいい鳥の声がこだましている。」(同40頁)
 ←安田曰く、アメリカの住環境がいかに素晴らしいかは何人と言えども認めざるをえない、と。
 昨年の世田谷市民大学における私・安田の受講生・志村謙一さんは、1989年から93年まで4年間、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ライブルック市に居住しました。彼は私に、こう語ってくれました。
 月2800ドルで借りた一戸建ての家は、500坪ぐらいの庭に飛び込みもできる15メートルのプール付き。プールは温水装置を完備し、春から秋まで使える。家賃は月1回の庭師の作業料込み。庭には野ウサギやリスが棲み、時々鹿やスカンクが訪れる。そこは特別裕福な階層が住む住宅地ではなく、国連職員・高校教師・年金生活者など、ごく普通の人たちが近所の住人である。日本が「GNP世界2位」などと言っても、実はちっとも豊かでない、アメリカはもとよりオーストラリアやニュージーランドに比べても貧しいと痛感!少なくとも住環境のレベルは、アジア諸国と同程度。いったい豊かさ、幸福とは何か。何か違うものを我々日本人は追いかけてきたのではないか―。

 「転勤で夫がシンシナティに赴任する直前に私たちは多くの人を招いてホーム・パーティーをしようと話しあっていた。日本文化を伝え異文化を学び、加えて英会話の練習にもなるからだ。ワインもビールも格安なこの地に来て早速実行にうつした。蛍見パーティーから始まり、アライグマどんじゃらほいパーティー、紅葉見、鹿見、そして雪見酒パーティーなどと銘打ったパーティーは長く続いた。」(同72頁)
 「当時『日本人は情報を取るばかり』とか『閉鎖社会を作っている』などと言われていたが、私たちはそのような批判を返上しようと努力しながらアメリカ生活を楽しんできた。」(同75頁)
 「異文化受信のみでなく日本の文化を伝えようという私たちの試みがアメリカの人たちに日本人に対する親近感をもたらすならば幸いであるという思いで常に文化使節を意識してきた。」(同77頁)
 ←私・安田は、ホーム・パーティーを開き、異文化コミュニケーションを進展させた小川さんの「国際人」としての生き方に絶大なる敬意を表するものです。
 この際、私たちは日米関係史上の日本人移民排斥運動の問題を忘れてはなりません。日露戦争のころから、特にアメリカのカリフォルニア地方では、低賃金で勤勉に長時間働き、しかもアメリカ社会に溶けこもうとしない日本人移民が白人労働者の目の敵にされ、労働組合を中心とする移民排斥運動の矢面にさらされました。やがて1913年―第一次大戦の前年―には、カリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止した「排日土地法」が成立します―。
 この排日的な雰囲気が醸成された背景として、「黄禍論(Yellow peril、黄色人種脅威論)」という当時のアメリカ人の人種的偏見(人種差別)の問題は看過できません。しかし同時に、日本人移民自体が自閉的・集団主義的な共同体を形成して、他者=アメリカ人になじめないorなじまない事態が注視されなければなりません。
 五十路の坂を越えた熟年の小川彩子は、日本人の民族的特性ともいうべき自閉的共同体性を克服する滞米生活を送りつづけました。そこでは現に、「交友関係がグローバルになるほど」に、「ナショナリティーよりも個人のパーソナリティー」が「重要な関心事」となりつつづけました(同75頁)。

 「アメリカでは履歴書に年齢を書かない。うっかり書くと最初に読んだ人が『これはいらない』と必ず注意してくれる。『結婚、未婚』もいらない。そういうことは仕事能力とは無関係という考えが徹底している。アメリカの履歴書を日本の大学への求職に送ったら日本の履歴書形式に直してください、と言われた。年齢給が生きているのが大きな理由だという。多くのアメリカ人は、年齢を重ねているということはそれだけ世の中を見てきたということで、有利になりこそすれマイナスになるのはおかしい、と言う。私も年齢給は求職者だけでなく、求人側にとってもマイナスだと思う。世界の諸システムがからみあい依存しあうグローバル時代の仕事には、人間の生物学的年齢より個性や個人差のほうがものを言うと思うのだが。」(同168頁)
 ←私・安田は滞米生活をとおして、アメリカが人種・年齢・性別・宗教・信条の如何にかかわらず対等の権利が得られるよう常に努力しつづけていることを思い知りました。特に、どんな職場でも多くの高齢者が生き生きと働いていること⇒実年齢にこだわることなく、すがすがしい能力主義の人選を進めていることに強い感銘を受けたものでした。

 「日本の社会現象の多くはアメリカのたどってきた道を追っかけてきている。経済活動でも教育制度でも変革の試みが速いアメリカには日本のやろうとしていることの成功例、失敗例があふれている。たとえば、日本の高等教育は今変身をせまられているが、1998年10月の大学審答申の内容のほとんどがアメリカで長きにわたってプログラム化されているものである。日本の大学もこの先社会人学生が高等教育の半数を占め、大学の入り口は広く出口は狭く、転校がスムースでプロフェッショナリズムが重視されていってほしい。
 アメリカはまた奨学金その他、多種の利益を心がけて国際学生を惹きつける。惜しみない援助で学ばせてもらった国際学生は必ずや将来母国との架け橋になる。また世界中からやってくる国際学生と共に学び、競争するアメリカの若者、とくに高等教育で研鑽をつむアメリカの学生は、日本の学生と比べグローバル意識、協働・共生能力に大きな差がある。日本に留学している国際学生の数はアメリカにいる留学生の比ではなく、また教授の講義の聞き役を演じ続ける日本の学生に同情を禁じえない。
 われわれ個人も公的機関も、アメリカの個人や公的機関のようにリスクをかけることを恐れず、チャレンジ精神で試行錯誤し、変革は速やかに断行する必要がある。個性を育てる教育の掛け声が聞こえて久しいが、異文化背景の人々が隣り合って住むこのグローバル時代に、説得力を持って意見表明し、協働、共生する能力を育てる多文化共生の教育・グローバル教育が急務だ。長きにわたり異質の人材を受け入れてきたアメリカ、人種、信条、年齢、性別による差別を減らす努力を続け、弱者グループの権利拡大に心を砕くアメリカの社会には日本の明日のモデルが多く見られる。」(同208-9頁)
 ←安田曰く、これまた、まったく同感である、と。

 小川さんは講演の最後を、次のような「個人のグローバル化」論をもって締め括りました。
 ・個人の「グローバル化」とは、グローバル意識が高まること、すなわち「異文化を理解し、異文化背景の人々の直面する問題や懸案事にも関心を寄せ、知識を得、支持、または説得力を持って対話し、異文化背景の人々と隣り合って住み協働することができ、自グループの立脚点からのみでなく地球的視野で正義や平等の実現に向けて意見表明や努力をするようになる」ことである。
 ・グローバル化した人間は端的に言って、言語や心的態度・行為としてのコミュニケーション技術に長けている人である。言語に関しては母国語意外に少なくとも一つの外国語が離せ、心的態度・行為に関しては世界の地理や歴史・政治・経済について知る努力を重ねることが、グローバルな人間の必要条件であろう。    
           ↓ 小川彩子・バックパッカーの旅―ジンバブエで(2011年4月)
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                                   2011年10月1日 安田忠郎
                   第11回安田塾を終えて

 第11回安田塾は、7月23日(土)に開催されました。
 今回は(文章の分量の関係上)㊤㊦の2回に分けて報告します。本号㊤では私自身の話を、次号㊦では講師・小川彩子の講演をまとめます。
▲ 例会では最初、午後2時から30分余り、私が小川講師のプロフィールを紹介がてら―彼女がアメリカの大学教師である点を意識して―、「日本人のアメリカ観」についてお話ししました。
 「日本人」のアメリカ観と言っても、それは主として、(1)わが父・安田次郎(やすだ・じろう、1908~96)、(2)記録文学作家・上野英信(うえの・えいしん、1923~87)、(3)私・安田忠郎(やすだ・ただお)、この三者によるアメリカ評に限定されたものでした。以下、当日のトークの趣旨を敷衍(ふえん)して説明します。
 
 (1)安田次郎は1908(明治41)年1月21日に北海道岩見沢町(明治39年町制施行→昭和18年市制施行)に生まれ、1927(昭和2)年8月に(19歳で)小学校教員―北海道空知郡美唄町沼東尋常高等小学校尋常科訓導―となる。43年3月に空知郡岩見沢北本町国民学校訓導となり、44年7月15日に応召で(36歳で)横須賀海兵隊に入隊し、45年8月15日に復員する。
 次郎は「大東亜戦争」の敗戦後、戦前・戦中の教師時代の至らなさを省みた。自分が「無知」なるがゆえに、時代状況にだまされつづけた、と。そして、『アメリカ教育使節団報告書』(安田塾メッセージ№35参照)に出会って、何か自分が救われ、勇気が身内から湧き上がってくる。ヨシ、この自由主義=民主主義のもとでなら、学校教師としてやっていける、と。
 彼は1947年6月に日教組(日本教職員組合、58年・調査開始時の組織率86.3%、2007年組織率28.3%)が設立されると即刻、その一員(北教祖=北海道教職員組合)となったものの、次第に失望を深め、たしか―私の記憶に誤りがなければ―、50年代の終わりに北教祖を脱退した(→68年3月31日岩見沢市立中央小学校教諭定年退職)。「生涯一教師」をめざした彼には、日教組が傾倒するソ連や中国の社会主義・共産主義イデオロギーに、また日教組が52年に制定した『教師の倫理綱領』―特に第8項「教師は労働者である」―に、どうにも馴染めなかったのである。
 彼は生来、アメリカに好感を持っていたものの、ソ連や中国―特にその社会主義国家体制―に悪感情を抱いていた。私がその点を否応なしに知らされたのは、次のような出来事をとおしてである。
 ①彼は戦後、常々「これからはアメリカの時代だ、英語をしっかり勉強する必要がある」と言いながら、毎朝午前6時に起床して、NHKラジオの「英会話」聴取を励行しつづけた。
 ②彼はある日、小学6年生の私を同道し、岩見沢市の唯一のカトリック教会をだしぬけに訪問した。そして、たまたま居合わせたライアン神父(アメリカ・ボストン出身)に、私に対する「英会話」教授をお願いしたところ即、「じゃあ、タダオく~ん、いっしょにベンキョウしましょうネ」との応諾を得た。
 ③小学~中学をとおして映画が好きで好きでたまらなかった私は、とかく下校直後、カバン(学用品)を机の上に放りだしたまま、岩見沢市の映画館3箇所に通いつめたものである。
 私は中学3年のある夜、映画館でバッタリ次郎と鉢合わせした。二人は期せずして同時に、映画「戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai」(1957年公開の英・米合作映画)を鑑賞した。 
 この映画は私の映画鑑賞史上、忘れがたい戦争大作である。そこでは、第2次世界大戦のただ中である1943年の、タイとビルマの国境付近にある日本軍捕虜収容所を舞台に、捕虜となった英軍・米軍兵士らと、彼らを使ってクワイ河に橋を架けたい日本軍人たちとの対立と交流を通じて、極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の愚かさ・惨(むご)さが描かれている。監督はデヴィッド・リーン、出演はアレック・ギネス、ウィリアム・ホールデン、早川雪洲、ジャック・ホーキンス。第30回(57年度)アカデミー賞受賞(作品賞・監督賞・脚色賞・主演男優賞・撮影賞・作曲賞・編集賞の7部門)。
 彼と私は、この作品を約2時間30分堪能した。そして、連れ立って帰宅途中、彼はおもむろに口を開いた。「忠郎、いい映画だった!あんなイイ映画なら、いくら見てもいいぞ!学校のクダラナイ授業より、ああいう映画の方がよっぽどタメになる。」
 ④1962年2月26日、私は生まれて初めて上京した。それは一応、大学を受験するための上京だった。「一応」と言うのは、私の場合、2月上旬に風邪から肺炎を併発し、医者から2~3月の上京→受験が差し止められたにもかかわらず、熱が多少下がった頃合いに、何とか無理を犯して単身上京し、受験に備えたからにほかならない。だが結局、3月に入って熱がぶり返したため、やむなく受験を断念し、20日近く東京大森の親戚宅の病床に臥すにいたった。私はしばし、わが身の不運を嘆息したものである。
 当時、事実を打ち明ければ、私の受験学力は断トツの実績を上げ、日本のどんな大学の、どんな学部でも難なく合格できる高いレベルにあった。高校3年の私は、札幌市の自校はもとより、北海道の高校全体における数々の模擬試験・学力コンクールで、常にトップの成績を収めていたからである。
 しかし問題は、そもそも私自身が何のために大学に行くのかがわかっていなかったし、大学で何を勉強したらよいのかも一向に見当がついていなかったことである。
 高校生の私は、マジメに考えていた。総じて魅力に乏しい学校教師から教わるものは何もない、と。また、学校の退屈な授業を上の空で聞き、課業に振り回されるよりも、密度の濃い自分自身の時間をフルに活用して、読書に耽り、詩を口ずさみ、映画を見、音楽を聞き、絵を描き、そしてスポーツに親しむ方が人生本来の意義にかなう「自己実現的」営為である、と。
 当時の私の生活は、学校を埒外に置き、札幌の「藻岩山(もいわやま)」山麓の下宿に陣地を築き、その市街地のあちこちを威勢よく羽ばたくことを日課にしていた。学校教師にとって、欠席が余りにも多く、遅刻と早引けの常習犯だった私という生徒は、フマジメで厄介な問題児だったことは間違いない。(註:私は高校2年の3学期から、岩見沢市の一高校から札幌市の一高校に転校した。親元を離れて、札幌の市街地に隣接する藻岩山の麓にある素人下宿で自活しながら、私は文字通り「自由」を満喫した。)

 1962年3月中旬のある日、病臥を余儀なくされた私は、索漠たる思いにとらわれていた。大学受験に失敗したのは、1月から2月にかけての不摂生な生活によって風邪→肺炎を患ったからで、まさに身から出た錆だ…。自業自得なんだ。この失態を―思わぬ失態とはいえ―、謙虚に重く受け止めざるをえない。それにしても、不面目な失態を演じたものだ…。
 そして、ふと私の学友たちは定めし皆、東大に京大に北大に合格したことだろうと思い及んだ瞬間である。ある衝動的な思いつきが私の頭をよぎった。それはソ連のモスクワにある「ルムンバ民族友好大学」(1992年「ロシア諸民族友好大学」と改称)を受験することだった。
 1960年に設立され、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ地域からの留学生が集う同大学の存在を、私が初めて知らされたのは、学友Nを通してである。私は彼から前に聞いた話をまざまざと思い起こした。同大学への日本人留学生の派遣は、日本とソ連の文化交流を促進する「日ソ協会」(1957年創立、92年「日本ユーラシア協会」と改称)が取り仕切っていること、また61年の選抜試験では、日本人「多数」の受験者の中から函館中部高校出身の道産子(どさんこ)・中川某が合格したこと…。
 
 Nは高校3年のとき、偶然にも私と下宿を同じにし、二人は折あるごとに、口角泡を飛ばして「天下国家」―特に資本主義vs.社会主義―の趨勢を論じ合った。それは未熟な「経験・思想」段階の「論争」に終始したとはいえ、私にとって認識対象として関心事にとどまる社会主義・共産主義の問題に、彼がすでに思想的・心情的に心から共感している事態を浮き彫りにするものだった。
 [ちなみに、Nこと沼田清剛は、現役で北海道大学理学部数学科に進学後、「民青」(日本民主青年同盟)に加盟し、自ら日本共産党のシンパをもって任じるにいたった。今にして思えば、彼における社会主義イデオロギーの形成は、少なくとも高校→大学時代を通じて、彼より4歳年長の、日本共産党員である姉Iの強い影響下にありつづけた。Iこと石井郁子は、北海道学芸大学教育学部卒業→大阪教育大学助教授→衆議院議員(5期、共産党)→日本共産党中央委員会幹部会副委員長の経歴の持ち主である。]
 
 ふとした心の弾みから、私は同年の4月か5月ごろの日曜日―突然のあわただしい受験手続き→実際の受験日・試験問題内容に関する私の記憶は希薄である―、勇にはやって、ルムンバ民族友好大学を受験した。
 試験は一次試験(日本語による「国語+社会・歴史+数学」に関する筆記試験)とその合格者若干名に対する二次試験(小論文および面接試験)にまたがっていた。私は何はともあれ、慶應大学三田キャンパスを試験会場とする一次試験に臨んだ。
 会場の三田キャンパス大教室は、意外や意外、200人余りの受験生(学生+社会人)で満席だった。当時の全国の大学進学率が10%強にすぎない点、時期的にすでに日本の全大学の入試が完了している点、当の大学がモスクワ内に設立された国際大学とはいえ、「共産主義思想及びその経済政策を教えるための」歴史的特異性を刻印された大学である点などに照らして、現役・浪人を取り混ぜた受験生は多くとも50~100人と、私は踏んでいたものである。
 当日ようやく体調と自信が回復しつつあった私は、どんな受験戦線の難関でも突破できると、心ひそかに自負していた。そして実際、一次試験はほぼ満点を取って合格した。たしか合格者は私を含む5名前後(?)だったと思う。私は二次試験―受験日は一次試験のそれの2週間(?)後だったか―を、待つともなく待ち構えていた。 
 
 二次試験を数日後に控えた夜半のこと、安田次郎が突如として私の前に現われた。
 父は私が身を寄せる親戚筋の通報により、私がソ連の大学に受験し合格したらしい旨を聞き及び、押っ取り刀で―遠路はるばる(汽車と連絡船を乗り継いで、岩見沢→函館→青森→上野)一日半を費やして―駆けつけてきたものである。私は両親をはじめとする故郷の関係者に、「ルムンバ民族友好大学」受験について一切連絡を控えていた。
 次郎(54歳)と私(19歳)は、夜を徹して思いのたけを語り合った。私と父の関係史(44年)上、それは最も長時間に及んだ話し合いとなった。次郎が私に向かって結論的に言わんとするところは、こうである。
 「忠郎、ソ連の大学には行かないほうがいい。ソ連の社会主義はどうにも信用が置けない。…私はあの第2次大戦終結後のシベリア抑留の問題が片時も頭を去らない。戦争末期の昭和20年8月9日に、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦し⇒ソ連軍が満州を占領した事態は、ヤルタ会談にもとづく、やむをえない必然的な成り行きだったのかもしれない。だが、日本が8月14日に『ポツダム宣言』(7月26日発表)を受諾し、停戦・降伏・武装解除に踏み切ったにもかかわらず、ソ連は60万~70万人(一説には100万人)の日本人捕虜(軍人+民間人)を主にシベリアやモンゴルに送り込んだ。過酷な環境(厳寒の地)と劣悪な労働条件(奴隷的強制労働)で、約6万(一説には二十数万人)の抑留者が死亡した。このソ連の行動は、武装解除した日本軍の各家庭への復帰を保証した『ポツダム宣言』第9条にもとる、許しがたい背信的行為だ。」
 「忠郎、ソ連=ソビエト社会主義共和国連邦には“自由”がないんだ。それはあの国策映画を一目見れば、よく分かること。あれはヤラセもいいところで、日本の戦時中の映画とどっこいどっこいの映画だ。個性きらびやかに輝く人物を描くアメリカ映画とは、それはそれは雲泥の違いだ。」
 「忠郎がアメリカの大学に行くというなら、話は別だ。アメリカには強い個人の夢がある、理想がある。アメリカという場は、忠郎の才能を可能性の極限まで開花させるかもしれない。しかし、よりによってソ連の大学に、それも正体不明の民族友好大学とかに行けば、忠郎の一生が台無しになるかもしれない。」
 「たしかに今、忠郎が言うように、何の目的もなく日本の大学に入っても大して得るところがないだろう。…どうだ、いっそのこと、すべての大学受験をしばらく見送り、東京という日本の大都会を行き当たりばったりに放浪してみないか。…そして独立独歩、自ら学びつつ生き、生きつつ学ぶことだ。マルクス主義―社会主義・共産主義―の理論なども別に大学で学ぶまでもなく、いくらでも独学できるだろう。…東京の喧騒の巷をガムシャラに生きつづければ、いつか必ずや生きることに得心が行き、高校時代とは異なる向学心が燃え立つだろう。忠郎、そのときだ、学問への志が盛んに立ったときだ、改めて大学を視野に入れた、新たな人生を踏み出してみてはどうか―。」

 私は人生の大きな分岐点に立っていた。次郎の言葉を頭の中で何度も反芻しながら、与えられた人生いかに生くべきかをとめどなく考えつづけた。
 歴然たる事実は、私にはルムンバ民族友好大学に進学するに足る合理的な根拠が何もなかったことである。次郎におけるソ連観vs.アメリカ観は、私の素朴な共感を呼び起こすものだった。
 私は同大学の二次試験を放棄し、Going my way、勇躍あてどない放浪の旅に就いた―。 

 (2)上野英信は私の人生史上、最も畏敬する作家・思想者の一人である。
 [註:拙著『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版、1981年、290-1頁)(安田塾メッセージ№32参照)では、また拙著『人間観の基底―マルクスからフォイエルバッハへ―』(JCA出版、1994年、266-8頁)では、彼の人間・思想像の一端が私自身の思想形成過程にかかわる範囲で描かれている。なお、私は上野英信を、個人的に「英信」ないし「英信さん」と呼びつづけてきた関係上、以下の文章もそれに準じたい。]

 ● 英信は1923(大正12)年8月7日、山口県吉敷郡井関村(現・山口市)に出生する。41(昭和16)年、貧乏ゆえに授業料無料の満州国の建国大学に入学する。この植民地支配のエリートを育てるための国策大学で、日本の戦争や占領に反発する中国人らと交流した。在学中に学徒兵として招集され、45年8月6日、駐屯中の広島市宇品で被爆(爆心地4km)する。
 彼は戦後、46年に京都大学文学部支那文学科に復学、しかし翌年に中退し、48年から53年にかけて九州・筑豊の坑夫(炭鉱労働者)となる。学歴を「小学校卒」と逆詐称し、海老津炭鉱・高松炭鉱・崎戸炭鉱等で、掘進夫・採炭夫として地の底に降り立つ。58年、谷川雁、森崎和江らと筑豊の炭鉱労働者の自立共同体「サークル村」を結成、機関誌『サークル村』を創刊する。同誌からは石牟礼道子や中村きい子らを輩出した。64年、新目尾(しんしゃかのお)炭鉱閉山後の廃坑長屋に居を構え(福岡県鞍手郡鞍手町)、そこを「筑豊文庫」と名付けて、公民館兼炭鉱資料館兼図書館―「おとなも子どもも自由に利用できる、学習と話しあいと宿泊の場」(英信)―として開放する。
 65年1月15日、筑豊文庫が正式に発足⇒「筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人びとによって創立されたこの筑豊文庫を足場として、われわれは炭鉱労働者の自立と解放のためにすべてをささげて闘うことをここに宣言する。」(英信の宣言文)
 87年11月21日、筑豊の地獄を生き抜いた、人間的・思想的に強靭な英信は、食道癌のため64歳で死去する。
 96年4月、筑豊文庫が閉鎖・解体される。

 ● それは1983年5月27日のことだった。私は英信と、初めて、じきじき対面する機会に恵まれた。
 事のきっかけは、私が81年9月25日に前掲『炭鉱へゆく』を公刊してまもなく―2週間後だったか―、同書を「著者謹呈」、英信宛てに小包郵便で―「…ご笑覧に供します」の一文を添えて―発送したことにある。 
 

 私が英信の出世作『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年8月20日刊行)に出会ったのは、64年9月のこと。筑豊の中小炭鉱、いわゆる「小ヤマ」とそこを転々と渡り歩く、いわゆる「渡り坑夫」たちをありありと“記録”した同書は、21歳の私の心に、ただならぬ衝撃を与えた。地底から追い払われていく坑夫大衆の飢餓と絶望をえぐり出す「上野文学」は、私という惰弱なる生者の魂を荒々しく揺さぶった。
 私は60年代後半以降、英信の書くあらゆる文章の愛読者でありつづけた。そして、いつか「筑豊文庫」を訪ねたいと一心に念じつづけていた。しかし、60年代後半~70年代をとおして所用かたがた、全国各地の炭鉱―九州地方に限れば、三池炭鉱(福岡県大牟田市、97年閉山)と高島炭鉱(長崎県長崎市、86年閉山)―を巡り歩きながらも、筑豊の廃鉱地帯まで足を延ばすにはいたらなかった。

 1981年10月下旬だった。私は英信の妻・上野晴子(うえの・はるこ、1927~97)から、私の贈呈本に対する礼状をいただいた。そこには、英信が今「著書」執筆のための取材で沖縄に長期滞在中であること、この10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が勃発して(安田塾メッセージ№21・32参照)、拙著が切り込む「北炭」問題をとても身近に感じることなどが書き添えられていた。それは気取りのない人柄を思わせる率直な文面だった。
 英信はその頃、『眉屋私記』―沖縄名護地方の「眉屋(まゆや)」と呼ばれる一族(貧農)の顛末記―を書き上げるために、沖縄で取材中だった。
 彼は1974年3~9月の200日余り、筑豊の坑夫⇒炭鉱離職者たち(死者を含む150人)の足跡をたどって、南米のブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの地を訪ね歩いている(資金はカンパや借金や原稿料の前借りで調達された)。この海外移住先で「渡り坑夫」ならぬ「渡り百姓」として悪戦苦闘する炭鉱離職者の実態(農業移民⇒棄民)を記録した作品が『出ニッポン記』(潮出版社、1977年10月10日刊行)である。
 彼はその追跡取材をとおして、多くの沖縄出身者と出会った。それを機縁として、彼はさらに沖縄からメキシコまで、広く精細な調査と取材を敢行する(78年4~6月にメキシコ取材)。その成果がほかならぬ『眉屋私記』であり、84年3月10日に刊行(潮出版社)されている。
 この記念碑的傑作では、特に眉屋の嫡子・山入端萬栄(やまのは・まんえい)の波瀾万丈の人生にスポットライトが当てられている。かれ萬栄は、貧困のどん底にあえぐ眉屋一族を救おうと、移民として1907年(21歳で)メキシコに渡って炭坑夫となり→折からのメキシコ革命に翻弄されて後、16年キューバに脱出し→ついに帰郷の夢を果たせぬまま、59年ハバナでその生涯を閉じた―。[ちなみに、萬栄の跡を追いつづけた英信は当時、社会主義国家・キューバへの入国を許されなかった。彼いわく、「私の無念は深い」(『眉屋私記』「あとがき」)と。]

 83年5月26日のことだった。私のもとに、英信さんから突然の電話が入った。晴子さんからの礼状を拝受して約1年7ヵ月が経っていた。「上野英信です。…ぼくは今、東京におります。時間がありますので、お会いしませんか―」
 私は電話口でお辞儀した。願ってもない朗報だった。ついに、あの英信さんに見(まみ)えることができる!悦びが私の体の中を駆けめぐった。
 私は彼と、翌27日午後1時に、渋谷の喫茶店(渋谷東急プラザ2階)で待ち合わせた。その際、私の手には大きなカバンが引っ提げられていた。そこには、私の読後感や疑問点・注意点などをメモった付箋を随所に挟んだ彼の著作10点、すなわち前掲『追われゆく坑夫たち』『出ニッポン記』+『日本陥没期』(未来社、61年)・『地の底の笑い話』(岩波新書、67年)・『どきゅめんと筑豊―この国の火床に生きて』(社会新報、69年)・『天皇陛下萬才―爆弾三勇士序説』(筑摩書房、71年)・『骨を噛む』(大和書房、73年)・『廃鉱譜』(筑摩書房、78年)・『火を掘る日日』(大和書房、79年)・『親と子の夜』(未来社、新装版82年)が押し込まれていた。
 初対面の挨拶を交わした後、私はやおら、カバンの中を探り、彼の著書を取り出し、その付箋箇所を見ながら単刀直入な質問を切り出した。この私の探究的で真率な態度にほだされたのか、彼は「場所を変えましょう。近くに仕事用の臨時のアパートを借りています。そこで、ゆっくり語らいましょう」と言い、そそくさと喫茶店を出て、タクシーを拾い、青山にあるアパート(集合住宅)まで私を誘導した。
 

 彼と私の、静けさに満ちた6畳一間のアパートにおける対談は、4時間半に及んだ。その対話的問答は、私からの、主として次のような問題提起のもとで進められた。 
 ・彼における原爆症の問題
 ・「サークル村」の思想性の問題―特に谷川雁、森崎和江、石牟礼道子に即して―
 ・「坑夫」と文学者(「インテリ」)の関係の問題―知の紡ぎ方―
 ・千客万来のにぎわいに包まれた「筑豊文庫」の問題―特に岡村昭彦、松下竜一、野坂昭如、五木寛之(『青春の門・筑豊篇』)に即して―
 ・『追われゆく坑夫たち』→『出ニッポン記』の思想的文脈の問題―彼にとって「南米」滞在6ヵ月の旅とは何か―
 

 時間がまたたく間に過ぎた。彼の発する重い言葉の数々が私の心に響いた。充実感が私の胸の中に広がった。
 この彼と共有できた4時間半こそ、私の人生にとって“永遠”そのものである。この彼との運命的な―最初で最後の!―出会いを、私は永久に忘れることができない。私の他者との交流史上、それはまさしく最も劇的な、空前絶後の出会いにほかならなかった。

 ● 英信の思想・表現の原点は、すぐれて1945年の8月6日と8月15日の経験にある。
 彼は22歳の誕生日の前日に広島で被爆し、後遺症に苦しんだ。「自分は8月6日に一度死んだのだ」。彼はこの6日から敗戦の15日までの間を「ゆきつもどりつ」して、「その10日間から出られない」がゆえに、「その地獄を生きるしかない」と決意し、「資本主義が作った地獄」=炭鉱に飛びこむ。そして、地上・広島の地獄⇒地下・筑豊の地獄のただ中で、一介の坑夫として働くとともに、ツルハシで石炭を掘り出す作業と「同じ感覚の重さ」を持った、ペンで言葉を掘り起こす作業に没入する。

 英信は誕生日の8月7日―広島原爆の翌日―がめぐってきて、「オメデトウ」と言われるたびに、あの忌まわしい「昭和」⇒戦争⇒原爆投下を思いだすとともに、アメリカ憎しの高ぶりが体の中を駆けめぐる。彼はヒロシマを思い、ヒロシマにこだわるとき決まって、「アメリカ人を皆殺しにしたい」の衝動につき動かされる。
 なにしろ彼は生涯を賭して、満州→広島→筑豊に盤踞して、坑夫への深い愛と共感のもと、炭鉱→部落→朝鮮人、そして天皇制と、いわれなき差別→いわれなき死の現実に敢然と立ち向かいつづけた人だ。「人生はもっとも愚かしいものに賭けるだけの価値がある」と信じ、「一人は万人のために、万人は一人のために」の旗印のもと、誰もが差別されることなく生きられるための社会革命の理想=「見果てぬ夢」を執拗に追いつづけた人である。
 彼はヒロシマ→ナガサキに原爆を投下し、無辜(むこ)の民を無数殺傷した太平洋戦争中のアメリカを、さらには「ソンミ村虐殺事件」(1968年3月16日)を引き起こし、非武装のベトナム民間人を大量に虐殺したベトナム戦争中のアメリカを、蛇蝎のように忌み嫌ったものだった。

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                                   2011年7月1日 安田忠郎
                  第10回安田塾を終えて

 第10回安田塾は、第9回安田塾(緊急集会、4月16日)のわずか1週間後の4月23日(土)に開催されました。
▲ 例会では最初、午後6時から20分ばかり、私が前回(第9回)と同じ題目「北炭幌内炭鉱で『1968年十勝沖地震』に遭遇して」を掲げて、①炭鉱災害、②炭鉱文化についてお話ししました。
 ①では、災害中最も恐るべき「ガス爆発」と「炭塵爆発」の情景が描写されるとともに、人間の生命が「消耗品」のごとく操作され軽視される実態が直視されました。事故死を遂げた者1人に対する会社側の弔慰金は130万円であり、ところが一日の生産停止に起因する会社側の損失は最小限2000~3000万円に上る―。これが1968年当時の冷厳な北炭資本の論理が帰結する事態でした。
 ②では、炭鉱労働が死と隣り合わせの過酷な労働でありながらも、そこから「炭坑節」の唄と踊りが、さらに「川筋者(かわすじもん)」→「フラガール」の物語が生まれたことが強調されました。
 

 「炭坑節」は「月が出た出た月が出た、ヨイヨイ」のフレーズで有名な、現代の盆踊りの最もスタンダードな楽曲として全国に広く浸透している。「川筋者」という、筑豊炭田を流れる遠賀川沿いに住む荒くれ者どもの物語は、東映ヤクザ映画や火野葦平『花と龍』、五木寛之『青春の門』などによって数多く描写されてきた。「フラガール」という、衰退した常磐炭鉱の町を再生する炭鉱の娘たち⇒ハワイアンダンサーの物語―福島県いわき市にある「常磐ハワイアンセンター」(現・スパリゾートハワイアンズ)誕生の実話―は、2006年9月に全国公開の映画「フラガール」(李相日監督、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品)で、今や人口に膾炙している。炭鉱労働の背後の奥行きある特殊日本的な唄や物語=文化がこうして、長い間歌われ語られ、いかに広く国民の共感を得つづけてきたことか!

 しかし、原発労働からは唄も物語も何も生まれませんでした。
 原発労働者は産業的には炭鉱労働者と同様にエネルギー産業従事者に分類されます。だが、前者の世界は、後者のそれとは根本的に異なります。
 原発労働者はずばり言いきると、その労働を被爆量測定単位のシーベルトだけで評価する世界に生息しています。一定以上の被爆量に達した彼らは、使い捨ての「労働力商品」そのものとして、原発会社から即お払い箱となります。
 現在、北海道から九州まで日本列島には、18ヶ所の原子力プラント(青森県六ヶ所村にある「六ヶ所再処理工場」を含む)が存在し、54基もの原子炉がひしめています。この狭い上に無数の「活断層」が走り、地震と噴火が続く国土に、一体なぜに、これほど多くの原発が建設されてしまったのでしょうか!
 私は原発と聞くと、いつも寒々とした印象に付きまとわれます。また現に各所の原発のたたずまいを眺めるたびに、私の背筋をうすら寒いものが走るばかりでした。ただし、私がかつて見知った失業坑夫が原発労働者(下請け)に成り果てた事態に思いをいたすときだけ、瞬間的に、原発の妙に甘酸っぱい鈍重な情景がセピア色の歴史のかなたに浮かび上がったものでした―。

▲ 次に、菊野暁(きくの・さとし)さんが約2時間(質疑応答を含む)、「教員の考課査定を考える―学校法人・五島育英会の人事制度をめぐって―」と題する講演を行いました。
 五島育英会(1955年設立)は「東京都市大学グループ」を運営する「学校法人」(私立学校法の定めるところにより設置される法人)です。同グループには現在、東京都市大学、東京都市大学付属中学校・高等学校、東京都市大学等々力中学校・高等学校、東京都市大学塩尻高等学校、東京都市大学付属小学校、東京都市大学二子幼稚園の8校が属しています。 
 学校法人・五島育英会(以下、法人)は昨年(2010年)度より、幼稚園を除く小学・中学・高校の「教育職(員)」(教員)に対し、考課査定を柱にした人事制度を導入しました。
 菊野さんは1990年に武蔵工業大学(2009年、東京都市大学と改称)付属中学校・高等学校(以下、付属中高)の教諭となり、2006年に付属中高「教職員労働組合」(以下、教労組)の委員長に就任、そして法人の導入する「新人事制度」に正面から立ち向かうにいたりました。
 

 彼の話―(1)(2)(3)(4)―の骨子は、次のとおりでした。
(1)新人事制度の導入前夜と導入経過
・法人は「事務職(員)」(事務員)に考課査定を導入(2007年表明→2008年度より査定→2009年度より賃金に反映)する。
・2008年度、法人傘下校(中学・高校)統一「生徒による授業評価アンケート」を実施する(⇒代々木ゼミナールに委託)。法人は「アンケート結果を考課査定には利用しない」と説明する。ちなみに、2006・2007年度は、各学校独自の「授業アンケート」を実施する。
・2009年11月、法人理事会は傘下校(小学・中学・高校)教員への新人事制度の導入を表明する(目的は「資質向上」であり、「賃金削減ではない」)。
・2009年12月および2010年1月、各学校で法人による新人事制度の説明会を行う(コンサルティング事業を営む「株式会社プロサーブ」同席)。
・2010年3月、各学校で法人による新人事制度の研修会を行う(プロサーブ社が説明)。
(2)新人事制度の概要
・各教員はT1~T3の3段階のいずれかに格付けされる。
・各教員は「能力」、「行動」、「目標」(自己目標管理)の各評価(S・A・B・C・Dの各評定)にもとづく(平均的な)総合評価S・A・B・C・D次第で、T3→T2→T1へ昇格し、その昇格に応じて昇給する。
・「能力」を構成する評価項目は知識技能・判断力・企画力・コミュニケーション力等、「行動」を構成する評価項目は規律性・責任性・協調性・積極性等である。
・各教員は【経験7年+直近3年間で総合評価Aを1回】でT3からT2に、【経験17年+直近3年間で総合評価Aを2回】でT2からT1に昇格する。
・各教員は格付けが上がらなければ、賃金が頭打ちになる。また、T3、T2、T1それぞれの基礎給(年齢給)および職能給に上限を設ける。一時金はS=1.15、A=1.075、B=1、C=0.925、D=0.85の割合である。
(3)新人事制度の運用の実状
・各教員は「目標設定シート」 [各欄:教科指導・校務分掌・向上目標に関する●期初時点での課題、●目標事項(期末時点での到達目標)、●目標達成への具体的取り組み事項、●期末時点での目標達成状況結果、等に記入]を作成する。
・主幹教諭(2009年度配置)・教頭・校長による、各教員(「目標設定シート」)に対する「期初面談」→「中間面談」→「期末面談」を実施する(⇒「評価結果」)。
(4)新人事制度の問題点
①同制度は教労組にとって、「わからないことがいっぱいある」制度であり、一貫した定義にもとづく制度ではない。法人の制度に関する説明自体が時に「理論値では全員がS・A評価になることはありうる」、「A評価を取るのに苦労しない制度設計をしている」、時に「Sは本当に頑張って、というレアケース。Aは到達目標などを本当に明確に上回る場合」、「Bでも評価されたと思ってほしい」と、大きくぶれる始末である。ここでは、昇格や報酬(昇給・一時金)に反映される評価・評定の基準自体があいまいである以上、評価が「評価者」の恣意にさらされ、「最終評価者」の学校長の強権的な査定につながりかねない。
②「授業アンケート」の扱いに関する法人の説明は2008年度以降、「生徒によるアンケートを教師の処遇に反映させたり、序列化させることに使わない」→「できる限りアンケートを活用して『向上目標』を立てて欲しい」→「評価者はアンケートに留意する必要がある」と、くるくる変転しつづける。
③教労組は2010年4月15日の団交で、「幾多の懸念を残したまま新人事制度を導入することに反対します。導入を延期し、労使交渉を通じて課題を詰めていく必要があると考えています」と宣言したものの、法人は結局、「実際にやってみないとわからないことがいっぱいある。しかし実際運用していく中で解決できる」と強弁し、同制度の2010年度からの導入を強行する。
④この1年間、同制度の支配下、付属中高の職場の一体感が崩れつつある。教師の多くがストレスを抱え、人間関係が悪化(萎縮や無意味な反発)しつつある…。
 

 私は彼の諄々と語る話をとくと聞きながら、しばし沈思黙考に耽ったものでした。また、彼の配付した資料=教労組機関紙「広場」における、「目標設定シート」の書き方に関する次のような文章を一読しながら、声にならない溜め息をそっと漏らしたものでした。
 「私たちは『合格〇人』『偏差値〇〇』といった目標を立てるべきでしょうか?このような数値は、個人の目標にはふさわしくない、と教労組は考えます。なぜなら生徒の成長は、教師1人だけの力でなし得るものではないからです。クラス担任としても、授業担当者としても、クラブ顧問としても、さまざまな場面で生徒を支えるのが私たちの使命です。」[第2110号(2010.6.9)]
 「(5月24日の教労組との団交で)目標設定において『教育現場の中では数値化されない目標も当然ある』との見解が法人(H総務部長)から示されています。」[第2111号(2010.6.21)]
 法人本部(事務局)は果たして、学校教育における「数値目標」の問題を、「形式合理性⇔実質合理性」(マックス・ヴェーバー)という一対の合理性に即して、まっとうに根源から理解しているのでしょうか。ここでは、「日本社会-学校教育」における明治以降の「近代化」の質を見極める透徹した歴史認識もまた、絶対に必要不可欠なものです。
 

 周知のように、2006年度以降、文科省(←2002年2月の中教審答申「今後の教員免許制度の在り方について」)の指導のもと、成果主義の発想に立った「教員評価」制度の本格的導入が、全国的な広がりを見せています。同制度は従来の「勤務評定」のような業績判定のみではなく、能力開発・育成もめざすものです。
 五島育英会はその時流に乗って、曲折をはらみながらも、2010年度に同制度の導入・実施に踏み切りました。しかし、問題は学校現場サイド=付属中高教師の多くが同制度そのものの正当性や有効性に疑義を呈し、一定の抵抗感を抱いていることです。
 

 そもそも学校には、“現場の文化”ともいうべき、教師たちの具体的・経験的な思考様式や行動様式の体系が息づいています。教師は「教師-生徒」関係を基軸としながら、現場の学校文化に生き続けています。
 したがって、この「現場の文化」を無視して断行された教員評価のもとでは、人事管理のための評価がまかり通りはしても、教育それ自体の改善―教師一人一人の力量向上や学校組織の活性化―は到底おぼつきません。

 教職という「専門職」労働は、本質的にマニュアル化しがたい、その成果自体が短期的にはとらえにくい営みです。「教える-学ぶ」というトータルな過程における「教える」という仕事はしたがって、外形的に―外から明確に―評価することは至難の業です。いかにアカウンタビリティ(説明責任)が求められる現代日本社会の状況下でも、複雑で多様で微妙で繊細な教育労働そのものを定型化された言葉や数字で要素的にとらえ価値付けることは、難事中の難事であり、慎重の上にも慎重を要する大事です。

 望ましい教員評価があるとしたら、それはどこまでも、学校現場の教育力=教師力=人間力を一層高めるるための、適時・適正・適切な“手段”でなければなりません。問題の根本は、学校現場サイドの自発性・自主性に貫かれた、教師の教師による教師のための、人材育成型の評価制度をいかにして構築することができるかにあります。

 五島育英会は果たして、この本来的な、現場教師のやる気⇒力量を向上せしめる教員評価制度を主体的に推進するにふさわしい学校法人といえるのでしょうか―。

 今回、菊野さんは正直律儀を表に立てて、閑却できない問題的な学校状況に正対する、凛とした思想的姿勢を示しました。私はその彼の誠意がこもる意味深長な言葉の数々を噛みしめながら、「五島育英会」とは一体どういう組織体なのかを、今更のように考え続けました。この私の脳裏にわだかまる考え事は、稿を新たにし、「安田塾メッセージ」の№32~№36に書き記すことにします。
                                   2011年6月16日 安田忠郎
               第9回安田塾(緊急集会)を終えて

a0200363_0495620.jpg▲ 東日本大震災→福島原発事故を受けて、「槌田敦」講演会があわただしくも4月16日(土)午後2時~4時30分、東京マスダ学院(JR総武線「平井駅」下車)で開かれました。
 第9回安田塾の参加者は、常連が数えるほどながらも、主に会場を設営した松田敦さん及び東京マスダ学院の関係者が集い、計48名に達しました。その意味で、今回は「一般市民」に門戸を開放する安田塾の所期の目的がなにがしか達成された会合となりました。

a0200363_1872164.jpg▲ 最初、私が「北炭幌内炭鉱で『1968年十勝沖地震』に遭遇して」と題して、約20分お話ししました。
 私はかつて1968年5月16日午前9時49分、地下850メートルの坑底で、マグニチュード7.8の「十勝沖地震」に遭いました。この半死半生の極限的体験をとおして、当時から今日まで、「石炭産業とは何か」→「石炭→石油→原子力とは何か」→「日本&日本人とは何か」の諸問題に、私なりの思考をめぐらしつづけてきました。
 しかし、20分程度の語りで、この一連の問題を本格的に取り上げ掘り下げることは、とても無理です。私としては今回、あくまでも真打ちの槌田さんの前座を務めるべく、①炭鉱と地震の問題に軽く触れ、②炭鉱の閉山で失業したヤマ男たちの一部が原発の下請け⇒被爆労働者に成り果てた事態に言及し、③「私たち日本人は人間としての<怒り>を持つことができるか」を問題化しました。
 ③では、羽仁五郎(1901~83)のある講演内容が意識化されました。1960年代後半の大学紛争時、羽仁は学生聴衆に向かって、1837(天保8)年の「大塩平八郎の乱」―大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎とその門人らによる江戸幕府に対する反乱―に触れながら、挑発的に言葉を発しました。「君たちは今までに本当に怒ったことがあるか?許せない現実というものがある!だが、私たちは余りにも怒りを忘れつづけているんだな―。」
 
 ここで対照的に、東日本大震災(地震・津波・原発事故)による「被災地の悲惨な状況に深く心を痛め(る)」今上天皇の、次のようなメッセージ(3月16日)が注目されます。
 「(前略)この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。(中略)海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。(後略)」

 私たち日本人は、いつまで予定調和的な運命共同体に安住しつづけなければならないのか!
 フクシマでは、人間存在を根底から脅かす、史上最大規模の核災害が進行しています。一度でも事故を起こせば、もはや取り返しのつかない、リスク無限大の巨大技術。私たちは何としても、核の時代に終止符を打たなければなりません。
 そして併せて考えるべきは、この国における空疎な知的光景の問題です。戦後日本の社会的状況下、水俣でも成田でも原子力でも、結局のところ異議申し立て=対抗的文化(カウンターカルチャー)が排除され、封じ込められてきました。日本には政治・行政・議会・司法万般にわたって、これまで馴れ合いの「偽装民主主義」はあっても、真の意味での民主主義はなかったのです。
 私たち日本民衆は今こそ、一人一人が内なる満腔の<怒り>をもって、原子力立国の呪縛を解き、「理念なき政治」・「人格なき学識」・「道徳なき商業」・「人間性なき科学」といった一連の「社会的な罪」を裁かなければなりません。
 

▲ 続いて、槌田敦(つちだ・あつし、物理学者、1933~)さんが「いま、福島原発に何が起きているのか?」の演題で、2時間余の講演を行いました。
 講演内容の基本は、「政治の民主化」にもとづき、原子力という悪魔を「安楽死」させようとする、したがって産・官・政・学・メディア一体の「原発」利益共同体の構造的欠陥を仮借なく暴こうとする、彼の年来の思想的立場が如実に現われたものでした。福島原発事故の事態を見極める彼の鋭角的な視点は、多くの参会者の耳目を集めました。その論調全体(←大状況と小状況の緊張関係)から、私は既成権威の暴圧に屈しない彼の不撓不屈の精神をうかがい知ることができました。
 話は大別して3項目(Ⅰ~Ⅲ)に関するものであり、その大要(私による再構成)は以下の通りです。

 Ⅰ.「スリーマイル島」酷似事故から「チェルノブイリ」酷似事故へ 
 原子力発電所(原発)事故では、「止める」「「冷やす」「閉じ込める」が3大鉄則である。ウラン燃料の核分裂が止まっても、その直後から大量の「崩壊熱」が半永久的に発生し続けるので、炉心に水を循環させて、冷やし続けなければならない。また、原子炉から放射性物質が外部に漏れないよう密閉性を保たなければならない。
 福島第一原発(沸騰水型軽水炉、東京電力の施設)事故とスリーマイル島原発2号炉(加圧水型軽水炉)事故(1979年、米国ペンシルベニア州)。両者はよく似た経緯をたどっている。そこでは、トラブルの発生直後に、原子炉を「止める」ことはできたが、「冷やす」と「閉じ込める」機能を失った結果、「放射能」汚染(環境中への放射性物質の漏出)、周辺住民の避難という重大な事態を招いた。ちなみに、スリーマイル島原発事故は国際原子力事象評価尺度(INES)で「レベル5」(施設外へのリスクを伴う事故)である。
 これに対して、チェルノブイリ原発4号炉(黒鉛減速炉)事故(1986年、ウクライナ共和国・旧ソ連)では、原子炉停止を想定した、電源喪失の対応実験中に制御不能に陥り、原子炉自体が核分裂反応の暴走の末に大爆発を起こし、その結果ヒロシマに投下された原爆約500発分もの放射性物質が大気中に飛散し、世界を震撼させる原発史上最悪の被害をもたらした[INES・最悪の「レベル7」(深刻な事故)]。
 
 スリーマイル島およびチェルノブイリの原発事故は、1基の原子炉だけに発生した。
 ところが福島原発の場合、運転中の1~3号機で、緊急自動停止後、「非常用電源を含む全電源」の喪失→「緊急炉心冷却システム(ECCS)」の注水不能のため、核燃料が「空焚き」状態となり、原子炉圧力容器と格納容器の圧力と温度が上昇し、ついに何らかの爆発が起きた。
 [安田註:この爆発について、各種メディアの報道では微妙な相違が見られるものの、概して1号機と3号機における「原子炉建屋」の水素爆発、2号機における「圧力抑制プール」の爆発、さらに定期点検で炉が停止中の4号機・「使用済み核燃料プール」の水素爆発が指摘されている。しかし槌田講師の「仮説」によれば、福島原発事故は4つの「原子炉」と4つの「使用済み核燃料プール」の事故であり、「炉心溶融」を除く、「過酷事故(シビアアクシデント)」(燃料崩壊・原子炉底抜け・水蒸気爆発・格納容器破裂・核爆発・核暴走・定常臨界…)のあらゆる可能性が現前した「複雑怪奇」な事故である(水素爆発が起きたのは、1号機の原子炉建屋だけである)。] 
 
 この間、東京電力が肝心の「電源復旧」作業よりも先に行った緊急対策は、炉心と核燃料プールに「海水」をかけ、熱を冷やすことであった。自衛隊・警視庁・東京消防庁も、あげて決死の放水を敢行する。しかし、海水(後に真水に切り替え)の大量注水によって、原発内の放射性物質を外部環境へジャブジャブと「洗い流し」、「ジャジャ漏れ」させる最悪の状況が生じる。
 福島原発の事故は、複数の原子炉に問題が広がった人類史上初めての複合原子力事故である。

 原発事故の「収束」とは、核燃料を「冷やす」ことであり(→100℃未満の「冷温停止状態」)、また放射性物質を「閉じ込める」ことである(→「施設から外に放射性物質が出ない状態」)。この点、スリーマイル島原発事故は「16時間」で、チェルノブイリ原発事故は「10日」で、何とか収束したといわれる。
 しかし、福島原発事故は現在進行中であり、まだ1ヶ月を過ぎても収束の目途が立たず、1号機から4号機の四つの施設から大気中と海中に放射性物質を放出する事態に追いこまれ続けている。ここでの放射性物質のトータルな放出量は、今後の成り行き次第では、チェルノブイリ事故のそれを超えることになろう。ちなみに、日本政府はこの4月12日、福島事故がINESでチェルノブイリ事故と同級の「レベル7」(暫定)にあたると発表した。
 
 チェルノブイリでは、大量の放射性物質が一気に一帯に飛散した。その放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアに及び、さらに風に乗って北半球全域に広まった。
 フクシマから吹き上げられた放射性物質は、今なお風に乗って関東地方に飛来している。東北および関東地方は、放射性物質が徐々に降り積もる汚染地域と化している。フクシマはチェルノブイリに限りなく近づいている―。
 高汚染地帯は半径50km圏、飯舘・南相馬・福島・郡山・高萩…。中汚染地帯は半径200km圏、仙台・山形・前橋・さいたま・東京・川崎…。 

    ↓ 福島原発事故がチェルノブイリ原発事故と同じ規模になった場合の避難範囲(100km→200km→300km) 
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Ⅱ.「3悪人」の犯罪 
 福島第一原発の大事故は、人知の及ばない自然災害ではない。人間の悪意・無知・無能によって引き起こされた人災である。この人災犯罪を起こした最大の責任者は、次の3悪人である。
 班目春樹(まだらめ・はるき、1948~):「原子力安全委員会」(以下、安全委)現委員長、「原子力安全・保安院」(以下、保安院)⇔「東京電力」(以下、東電)のデタラメな事故処理を放置した。 
 鈴木篤之(すずき・あつゆき、1942~):安全委・前委員長、必要な安全規制をサボり、ECCS電源機能の欠陥を放置した。 
 勝俣恒久(かつまた・つねひさ、1940~):東電現会長・前社長、費用を理由に安全対策をないがしろにした。

 日本の原発の安全管理は一義的には、原発を所有する電力会社が責任をもって行うことになっている。しかし、原子力は国策として進められているエネルギーのため、その電力会社による安全管理の内実を国家としてもチェックする体制になっている。
 具体的には、保安院と安全委が日本の原子力行政の安全対策を担う組織である。前者は経済産業省・資源エネルギー庁の「特別の機関」であり、電力会社による原発の定期検査の妥当性をチェックしたり、現実に検査官が原発に常駐して、施設の検査を行ったりする。そして、後者は内閣府に属する、原子力研究の専門家が集まる組織であり、保安院による検査・安全管理の妥当性を専門的にチェックする役割を務める。
 問題は現代日本社会の状況下で、原子力施設の安全をこの二つの行政機関がダブルチェックする体制がきちんと正しく機能してきたのかどうかである。
 

 (1) 班目春樹の人災犯罪⇒事故拡大(INESのレベル5からレベル7への深刻化)の原因
①班目・安全委委員長(在任:2010.4~)は、事故処理に当たって、その実行者(東電への直接的な安全規制の担当者)である保安院を監督する責務を放棄した。彼は原発を本当に理解した技術者が少なく、原子炉運転の基本も知らない保安院の悲劇的な愚行を許した。すなわち、
・ 原子炉に水を入れるには、原子炉の圧力を下げること―ex. 主蒸気バイパス弁を開いて水蒸気を復水器に移送すること、または圧力逃がし弁を開放すること―が必要であるにもかかわらず、事態を放置した。 
・ 原子炉への「海水」の注入を許した。結果、海水が蒸発して塩になり、燃料棒の隙間を塞ぎ、炉心の冷却を妨害する事態を招いた。
・ 空焚きの使用済み核燃料に大量の海水を「ぶっかける」ことを許した。この作業は放射性物質を微粒子にして大気中に拡散させ、また建物内部や敷地を水浸しにした。また、海水の使用でイオン交換による除染を不可能にした。
・ 復水器(原子炉の重要な構成要素)に床などにたまる海水の泥水を投入することを許した。結果、この大切な復水器を用いて原子炉を冷却する方法の有効性が失われた。
②彼は使用済み核燃料に対して、鉛粒をヘリで落とし、鉛(融点327℃)で包み、液体窒素で冷やす方法を採用しなかった。現にチェルノブイリ事故で「鉛を投入する」対策が実効を上げたにもかかわらず、これを無視した。
 

 (2) 鈴木篤之の人災犯罪⇒災害の根本原因
①彼は昨年8月、高速増殖炉「もんじゅ」を運営する「独立行政法人・日本原子力研究開発機構」理事長に就任した。安全委という原発の「お目付け役」から無節操にも、原発の推進役への横滑りである。
②彼は安全委委員長時代(在任:2006.4~10.4)―
a. 07年に発覚した電力各社の不祥事(臨海事故隠しや制御棒トラブル隠しなど)をめぐって、「国の検査をいたずらに増やすと、現場の負担が増えて安全上マイナス」と電力業界ベッタリの仰天発言をした。
b. 「2007年新潟県中越沖地震」(M6.8)→東電・柏崎刈羽原発事故(「想定を上回る地震動」→変圧器の火災)に触発された、原発の耐震安全性の総点検を促す各種の住民運動(ex. 福島原発の耐震性確保と津波対策の徹底を求める「福島県議・県民」の声)に対して、これをいっさい無視し、現状追認に終始した。
c. 保安院の審議会(09年6月24日の第32回「地震・津波、地質・地盤合同WG」)で、福島原発の耐震安全性評価に関して、地震学者(産業技術総合研究所)の岡村行信によって、「原発の安全性は十分な余裕を持つべきであり、869年の『貞観地震』(三陸沖を震源として甚大な津波被害が発生、マグニチュード8.5前後と推定される)が示唆するリスクを考慮すべきである」旨が提案されたものの、これを平然と無視した。
d. 06年10月27日の衆議院内閣委員会で、吉井英勝・衆院議員(共産党)によって、非常用を含めた「電源喪失」が招く、「機器冷却系の不作動→炉心溶融の危険性」の事態が指摘されたとき、ぬけぬけと答弁した。日本の原発には「多重・多様な」電源設備があり、他の原発からの電力融通も可能だから、「電源喪失の事態は想定できない、大丈夫だ」と。なお、昨年5月26日の衆院経済産業委員会で、同じ吉井議員に対して、保安院の寺坂信昭院長もこの鈴木の答弁と同趣旨の考えを表明している。
 ところが福島第一原発では、ECCSを駆動する非常用ディーゼル発電機13台(原子炉全6基=1~6号機の各機に2台、6号機だけ3台)すべてが仲良く海側の地下室1箇所に並べられていた。これでは、事と次第によって、非常用電源機能の全体が同時に消滅する可能性が大である。
 案の定、今回の福島原発事故では、非常用発電機が地震による津波で13台中12台が―6号機の1台を除いて―使用不能となり、ECCSが稼動せず、大惨事をもたらすにいたった。

 (3) 勝俣恒久の人災犯罪⇒直接の事故原因
①彼は東電の社長(在任:2002.10~08.6)→会長(08.6~)―子飼いの清水正孝を社長にし「院政」を行う―として、「勝俣東電=勝俣王朝」に傲然と君臨してきた。しかし、何がしからしめたか、3月11日は彼の運命を暗転させた忌まわしい日となった。
②彼は前掲(2)の②b.c.d.における鈴木篤之と同様―
(ⅰ)住民運動体「原発の安全性を求める福島県連絡会」による、福島原発の抜本的な「地震・津波」対策を希求する文書=東電社長宛ての「申し入れ」(07年7月24日←さかのぼって05年5月10日)を事もなげに無視した。
(ⅱ)869年の、仙台平野を襲った「貞観地震」並みの地震が再来するという警告を冷然と無視した。
(ⅲ)福島原発のECCS機能を改善することもなく、非常用電源の配置も手をつかねて放置した。
 この(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)は彼の場合、基本的にはコスト・パフォーマンスのなせる業であり、安全対策にかかるコストを最小限にし、東電の利益を最大限にする経営マインドに由来する。東大経済学部→東電企画部の主流コース→社長に就任した彼は、市場原理に基づく経営効率化を優先課題とするとともに、原発のリスク管理を怠った。
 「安全」対策には当然、金がかかる。原子力安全が割りに合わず高くつくのなら、断じて原子力という「ダモクレスの剣」を利用すべきではない!
③今回の「東北地方太平洋沖地震」は、「国内観測(気象庁)史上最大のM(マグニチュード)9.0」―「千年に1度の巨大地震」・「想定外の地震」であると、世に大きく喧伝された。
 Mはその数字が0.2大きくなるとエネルギーが約2倍になるので、9.0とは1923年9月1日の関東大震災を引き起こした7.9の「大正関東地震」に比べて45倍ものエネルギーがあったことになる。果たして、そうなのか?!
 東北地方太平洋沖地震のMは、気象庁の当初の発表では7.9であった。しかし、それが8.4に修正され、やがて8.8への再修正を経て、最後に9.0にまで「引き上げられた」のだ。
 実は、日本の従来の地震ではすべて、「気象庁マグニチュード(Mj)」の計算法が採用されてきた。ところが今回、気象庁は突如として、しかも何の説明もなく、8.8の段階から「モーメントマグニチュード(Mw)」の計算法を導入し、9.0にまで上昇させるにいたった。Mwは巨大地震の規模の表現に適したものとして国際的に広く使われているものの、日本ではこれまで地震学者間にしか通用していなかった。
 勝俣東電は前代未聞のM9.0を発表することで、「想定外」の大地震→大津波の方へ情報操作・世論誘導して、責任逃れを図っている。法律的に「未必の故意」として断罪されることを「想定外」で言い逃れようとしている。ここには、さらに「原子力損害賠償法」(原賠法)に絡む次のような隠れた事情も透けて見える。
 原賠法は原子力損害に対する電力会社の賠償責任を定めているものの、第3条第1項で「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」と電力会社の免責規定を設けている。
 勝俣東電の腹の内はこうである。福島第一原発事故の損害賠償が巨額(何兆円?)に上れば、一挙に経営に破綻を来たすので、賠償額のコストはできる限り小さくしたい。そこで原賠法の例外規定=「<想定外の天災>による原子力事故が生じた場合は、企業だけに責任を負わせるのではなく、国民の税金で被害補償をすることがある」、これをぜひとも発動させたいものである―。

 (4) 今ここにある「人災の闇」
班目、鈴木、勝俣の3悪人を告発して、裁判にかけよう !!
● 安全委は改組すべし!少なくとも班目ならぬデタラメ委員長は解雇すべし!
● 東電は事故処理費用と損害賠償額を、自社の全資産を売却して捻出すべし!
 電気料金の値上げなど論外である。発電装置と送電装置は、様々な電力会社に、従業員付きで売る―。
 はっきりしている点は、史上最悪の事故を生んだ原因企業・東電を安易に救済してはいけないことである。まずは東電が身を切り、国民負担はその後である。東電倒産後の事故処理と損害(国民の被害)を国民の税金で補償すること、これは致し方がない。

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 皆様へ 
                                   2011年2月19日 安田忠郎
                   第8回安田塾を終えて 

a0200363_20114924.jpg▲ 1月29日(土)の第8回安田塾・例会では、初めて参加した者が12名を数え、うち5名が「世田谷市民大学」関係者、4名が「武蔵工大」関係者でした。

▲ 例会では最初、私が「日本人は『自己主張』が苦手である!」と題して、午後2時から30分ばかりお話ししました。
 この話のきっかけを作ったのは、『週刊新潮』1月13日号のグラビア「藤原正彦の管見妄語・宣伝下手」という一文でした。そこでは、「世界一宣伝下手な日本は世界一宣伝上手の中国に翻弄され続けている」点が指摘され、直近の尖閣諸島中国漁船衝突事件、また昭和6年の満州事変前後、戦後の東京裁判などの例証が挙げられています。
 中国が「世界一宣伝上手」かどうかはともかく、日本が世界一、英語が下手で自己主張⇒自己宣伝が下手・苦手云々の点は、世界的に周知の事実です。この因って来たる根が歴史的・構造的にきわめて深いことを、私は過日の世田谷市民大学における講義で問題化したところでした。
 今回の私の話では、あくまで現象論的に、特にニューヨークの日常茶飯の光景を見すえながら、欧米人の自己主張の豊かさ・巧みさ・したたかさを描写しました。地下鉄・バス・映画館・劇場・レストラン・バー・路上等々における彼らの立居振舞はもとより、ホームレスや売春婦の生態についても、いかに日本人の場合と異なるかに私の関心が集中しました。
 なお、私は参会者一同に2件の宿題を出しておきました。①古代中華文明をかなり忠実に受け入れた日本人が中国の「宦官(かんがん)」制度を取り入れなかったのは、なぜか?②中国では古くからベッド(寝台)が使われていたのに、もともと―今はともかく―日本家屋にベッドがなかったのは、なぜか?

▲ 次いで、埼玉県熊谷市立大里中学校教頭の丹羽大恭(にわ・ひろやす)さんが約2時間、パワーポイントを使いながら、「ネット時代の落とし穴―子どもたちをネットトラブルから守るには―」と題する講演をしました。
 彼は2006年4月から4年間、埼玉県教育局北部教育事務所指導主事を務めた際、「子どもを取り巻くインターネットの現状」に関する調査研究に励みました。今回の彼の話は、その成果が反映されたものです。

 話の大略は、こうでした。
(1)現代社会は「高度情報通信社会」として、携帯電話―「ケータイ」に進化―やパソコンから、いつでもどこでも気軽にインターネットに接続できる大変便利な社会である。しかし反面、様々なネット犯罪やトラブルが起き、それに子どもたちが巻き込まれるケースが増加するとともに、子どもが被害者だけでなく加害者になるケースも多発している。
(2)実際に身近で起きたネット犯罪・トラブルの代表的な事例は、「出会い系サイト等による性的な被害」、「架空請求やワンクリック詐欺等による金銭被害」、「学校裏サイトやプロフ等によるネットいじめ」、「個人情報の書き込み等による情報流失」である。
(3)子どもに起こりがちな問題として特に、①ケータイ依存症、②高額な料金の請求、③被害者になりがちなネットトラブル(出会い系サイト・架空請求・フィッシング詐欺等)、④加害者にもなりうるネットトラブル(詐欺・チェーンメール・誹謗中傷・なりすまし等)が注目される。
(4)インターネットトラブルの原因となる要素は、a.知識・スキル不足、b.家庭や学校でのコミュニケーション不足に大別できる。したがって、その予防策・対処方法は、a.(知識・スキルの観点から)子どもたちがネット上の情報を見分け、ネット上の自分の行動を律しうる力を持つことであり、 b.(コミュニケーションの観点から)子どもたちが日頃から周囲の保護者や教師、友人などとコミュニケーションを図り、気軽に相談できる関係を築くことである。
(5)要は、情報社会の光と影を正しく理解し、子どもたちが安全に楽しく、良好なコミュニケーションのためにインターネットを利用できる環境を確実に整備することである。

 講演の各論中、私個人が最も興味を持ったのは、「学校裏サイト」の実態でした。
 学校裏サイトとは、学校の公式サイトとは別に立ち上げられたサイトであり、当初は学校行事や定期テストに関する情報交換を目的としたものの、最近では実名を挙げての心ない中傷が飛び交うなど、いじめの温床と目されるサイトです。そこでは、特定の児童生徒がいじめのターゲットにされ、いわれのない誹謗中傷を書き込まれた結果、強いショックを受け、大きな不安感に襲われ、あげくの果てに自殺に追い込まれています。
 
 文部科学省は2008年4月、中高生を対象とした「学校裏サイト」に関する実態調査―「青少年が利用する学校非公式サイト(匿名掲示板)等に関する調査」―の結果を公表しました。
 調査によると、存在が確認された学校裏サイトの数は全国で38260件を数えました。このうち、群馬県・静岡県・兵庫県の3県の2010件について、実際の書き込み内容を分析したところ、「きもい」「うざい」など誹謗中傷の32語が含まれていたサイトは全体の50%、性器の俗称など猥褻な12語が含まれていたサイトは全体の37%、「死ね」「消えろ」「殺す」など暴力を誘発する20語が含まれていたサイトは全体の27%に上りました。

 講演では、「ネットいじめ」への対応策として「情報モラル教育」の必要性が強調されるとともに、「日頃から『言葉』を大切にしましょう。『うざい』『きもい』『むかつく』『死ね』こんな嫌な言葉を学校や家庭から追放しましょう。● 『ありがとう』のあふれる学校や家庭にしましょう。」というスローガンが提起されていました。
 

 私はこの一種の「言葉狩り」について、参会者の注意を促しました。
 認識すべきは、「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」という、言ってはいけない言葉を追放すれば、能事終われりかといえば、決してそうではないという点です。いわゆる差別語(ないし侮蔑語)を使わせないようにしたところで、差別という現実がなくなるわけではありません。肝心なのは、差別を助長する言葉を消すことよりも、差別を押しつける現実自体を改革することにあります。
 私たちは単なる言葉狩りにうつつを抜かせば、必ずや次のような愚行を演じるにいたるでしょう。言葉を追放したり言い換えたりしただけで現実を改革したつもりになること。また、現実を改革することが困難な場合に、せめて言葉だけでも一時しのぎにごまかしてしまうこと。
 しかし、はっきりしている点は、「ネットいじめ」における「いじめ」それ自体が現代日本社会の構造的な問題であり、1970年代後半以降今日まで生起し続けてきた現実の「学校病理」現象にほかならないことです。
 もちろん、当の言葉の機能上、今日の子どもたちの言葉が貧困で、豊かな表現ができない点については注意を傾ける必要があります。
 人は例えば、力強い言葉に励まされ、思慮深い言葉で鍛えられ、瑞々しい言葉で癒される場合があります。一般に豊かな言葉には、豊かなボキャブラリー(語彙)が必要です。けれども、語彙が貧弱であれば、例えば「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」などと、けちな感情丸出しでしか表現できないのは理の当然です。感情をストレートに出すこと自体は時に人間的な価値の一環として評価されはしても、少なくとも「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」といった、対他関係の場面で否定的な条件を背負う言葉を弄してひとり悦に入るのは、とうてい許されません。そこでは最低限、なぜ、どのように「きもい」「うざい」「むかつく」「死ね」なのか、一体どんな印象を焼きつけられたのかを、一歩反省的に掘り下げて表現できる語彙力=人間力の強化が要請されます。
 ただし、言葉に出して表現するという場合、その表現力は必ずしも語彙の量(語彙数)に比例するものではない点が考慮されなければなりません。およそ表現力というものに必須の基本語彙があるとはいえ、表現力を高めるには、何よりも言葉そのものを自家薬籠中の物にする必要があります。これはお気に入りの言葉を区々まちまちに丸暗記するといった作業ではありません。そこでは書き言葉にせよ、話し言葉にせよ、両者の緊張関係のもと、あくまで言葉と価値観がワンセットになった「生きた言葉」として、自分の思想的文脈に沿って自在に使いこなせるようになることが肝要です。

 私たちは肝に銘ずべきです。子どもたちの言葉のあり方が問われるとき、根本的には、保護者や教師など周りの大人たちの言葉自体が問われていることを。 今の大人は果たして、自分自身の言葉を身につけているのでしょうか。子どもの言葉使いにとやかく干渉する前に、大人こそが断片的な知識の寄せ集めではない、自らの血肉として定着した言葉を紡ぐよう率先して力を尽くさなければなりません。大人が範を垂れてこそ、子ども自身の言葉の人間的な成長も促進されることでしょう。