安田塾メッセージ№44     第13回安田塾の事後報告㊤

                                   2012年1月28日 安田忠郎
                    第13回安田塾を終えて

 第13回安田塾は1月21日(土)に、武蔵野商工会館第1会議室で開かれました。
 この報告は㊤㊦に分けます。本号㊤では私の話に関するレジュメ(当日配布)を転載します。また、次号㊦では講師・小林伸一が自らの講演をまとめます。

▲ 例会では最初、私が午後2時から約30分間、「戦後日本の青少年問題・教育問題」を論じました。
 このテーマは既に昨年12月25~28日の「教員免許状更新講習」(公益財団法人・大学セミナーハウス主催、安田塾メッセージ№1~3参照)における私の講義の一環(2時間)として展開されました。そこでは、学校内部の視線と学校外部(特に産業構造)の視線を交差させながら、学校という人間形成装置が戦後日本社会でどのように変貌してきたのかが考察されました。今回の安田塾では、同講義のエッセンスのみが小林講師の講演内容を的確に理解する上で必要な予備知識として提供された次第です。

 レジュメ「戦後日本の青少年問題・教育問題」
1950年代、60年代は主に学校の外での問題
  50年代:集団就職した青少年の適応問題⇒傷害、窃盗
  60年代:青少年の半ば風俗的で半ば逸脱的な問題⇒暴走族
1970年代半ば以降は学校の中での問題(反乱)⇒校内暴力、対教師暴力、いじめ
1980年代以降は学校教育の拒否、学校からの逃走の問題⇒不登校、高校中退
1980年代後半の「夜徘徊する子どもたち」→1990年代以降の「夜眠れない子どもたち」 

 戦後日本の産業構造上の大転換
・1973年、「石油ショック」の襲来
・1973年、海外旅行ブーム⇒200万人突破
・1973年、サッポロビールが「天然水“No.1”」を販売
・1974年、「朝日カルチャーセンター」がオープン
・1974年、「コンビニエンス・ストア」の第1号(セブン-イレブン豊洲店)が東京都江東区に開店
・1980年代後半以降、日本の産業は第3次産業が過半数を占める。
  第1次産業(自然の整序)→第2次産業(自然の加工変成)→第3次産業(物の扱い方)
消費資本主義(消費社会・情報社会)の展開
 ⇒個人消費のうち、「必需消費」を「選択消費」が上回る。
・いわゆる「公害」問題は、主に第2次産業と第3次産業の境界に生ずる。⇒「精神の障害」の問題

 高度成長と教育拡大(教育爆発)
・「一人当たり所得水準の変化」→「国民所得層の消費水準の変化」→「中・高等教育進学希望者の変化」
・「一人当たり所得水準の変化」→「生産活動の水準の変化」(第1次産業が減少し、第2次産業や第3次産業が拡大)→「中・高等教育卒業者の雇用量の変化」
・教育拡大の自己増殖メカニズム
 ⇒教育の拡大が個人の便益や経済発展とは無関係にいったん拡大が始まると自己展開が起こり、拡大していく。

 青少年をめぐる具体的・代表的な事件
(1)「永山則夫連続射殺事件」
●永山則夫(ながやま・のりお)は1968(昭和43)年10月から11月にかけて、横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだ拳銃により、「社会への復讐のために」、東京→京都→函館→名古屋において4人を射殺した。69年4月7日、彼(当時19歳9カ月余)は東京で逮捕された。
●69年8月8日、東京地裁で第1回公判が開かれる。70年6月30日の第12回公判で、彼は「こういう(4人も殺した)事件が起きたのは、あの頃、俺が無知だったからだ。それは、貧乏だったから、無知だったんだよ」と述べている。
●71年3月10日、彼が書き記したノートは10冊になっていたが、それを『無知の涙』というタイトルの本にまとめ、合同出版から刊行された。この獄中日記は彼の幼児時代の極貧生活、その背後の社会の歪みを抉って世に衝撃を与え、ベストセラーになった。
●79(昭和54)年7月10日に東京地裁で死刑判決。81年8月21日に東京高裁で無期懲役に一旦は減刑されるものの、90(平成2)年4月17日に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」という理由で死刑判決が確定する(5月8日、最高裁は遠藤誠弁護人の「判決訂正」の申立てを棄却)。
 [87年の東京高裁(第二次)と90年の最高裁(第二次)の量刑理由:「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」]
●87年1月19日、東京高裁における差戻し控訴審の第19回公判で、弁護人を務めた遠藤誠(1930~2002)弁護士は、こう弁論している(抄出)。
 「…ここに永山則夫という、19年の生涯において、親から捨てられ、社会からの差別に次ぐ差別を受け、世を呪い人を呪ったがために罪を犯し、その後の18年の獄中における血のにじむような勉学によって、自分のやったことは間違っていたと衷心より悟り、2度とこのような悲劇を他の者に起こさせないためにどうしたらいいかを考え、その成果を次々に発表している1人の人間がいる。/ここで私は叫びたい。石田裁判長と田尾裁判官と中野裁判官が、控訴棄却の判決を言い渡せば、ここにいる1人の生きた人間が、絞首台に送られて、間違いなく首の骨を折られ、首の筋肉をズタズタに引き裂かれながら、殺されていくのだということを。それでいいのだろうか?最後に、19歳9カ月の彼が自首同様にして逮捕された後、東京拘置所の暗い独房でつづった血の叫び)をもって、私の結論に代える」
 遠藤は永山の詩「キケ人ヤ」(前掲『無知の涙』所載)を朗読する。
  
 キケ人ヤ
 世ノ裏路ヲ歩クモノノ悲哀ナ
 タワゴトヲ
 キケ人ヤ
 貧シキ者トソノ子ノ指先ノ
 冷タキ血ヲ
 キケ人ヤ
 愛ノ心ハ金デナイコトヲ
 心ノ弱者ノウッタエル叫ビヲ
 キケ人ヤ
 世ノハグレ人ノパンヘノ
 セツナイハイアガリヲ
 キケ人ヤ
 日陰[影]者ノアセト涙ヲ
 ソノ力と勇気ヲ
 キケ人ヤ
 武器ナキ者ガ
 武器ヲ得タ時ノ
 命ト引キカエノ抵抗ヲ
 キケ人ヤ
 貧民ノ真ノ願イノ
 ヒト言ノ恐シサヲ
 キケ人ヤ
 昭和元禄ニ酔ウガヨイ
 忘レタト時ニ再ビモエル
 貧シキ若者ノ怒リヲバ

●彼は69年の逮捕から97年の死刑執行までの間、獄中で学問に目覚め、創作活動を続けた小説家である。彼は両親から育児を放棄され、極貧の中、荒れた生活を送り学校教育も受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって識字能力を獲得し、執筆活動を開始した。『無知の涙』をはじめ、多くの文学作品を発表する。84年には、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。続いて『捨て子ごっこ』(87年)、『なぜか、海』(88年)、『異水』(90年)などが出版される。いずれも自伝的な小説であり、貧しい自分の生い立ちや育った場所の風景、あるいは兄弟間の葛藤などの身の回りの事件や家出などが描かれている。この作品群の基底で響いているのは、貧しさと貧しさゆえのサバイバルの問題である。彼の社会的・歴史的な眼差しには、貧困とそこからの脱出としての集団就職、そしてその集団就職における挫折という戦後の高度成長に含まれる闇の部分への着目がある。
●97(平成9)年8月1日、東京拘置所において、彼の死刑が執行された。48歳、獄中28年、娑婆19年という生涯だった。7月31日時点で確定死刑囚が54人おり、彼より前に確定した者が17人いたにもかかわらず、なぜ彼が処刑されたのか。それについては、同年6月28日に逮捕された「神戸連続児童殺傷事件」(別名「酒鬼薔薇事件」「酒鬼薔薇聖斗事件」)の犯人が少年(当時14歳11カ月)であったことが、少なからず影響したとの見方が根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、厳罰化を求める声が高まる中、未成年で犯罪を犯し死刑囚となった彼を処刑することで、その反発を和らげようとしたのではないか、と。
●親族は彼の遺骨の引取りを拒否し、弁護人の遠藤誠が引き取った。彼の遺志により、遺灰は故郷の海、網走沖のオホーツク海に、妻だった「和美」―80年12月12日獄中結婚、86年4月3日協議離婚―の手によって散布された。
●死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの彼の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

(2)「開成高校生殺人事件」
事件概要】1977(昭和52)年10月30日未明、東京都北区に住む飲食店経営のA(当時47歳)が、進学校として知られる開成高校2年生の長男・佐藤健一(さとう・けんいち、16歳)を、寝ている間に帯で首を絞め殺害。その後、心中を図ろうと妻(44歳)と2人で浜名湖に行くが果たせず、31日に自首した。家庭内暴力を苦にしての犯行だった。

家庭内暴力】健一は共働きの両親(大衆酒場開店)とはすれ違い気味で、祖父母に接することが多かった。内向的なおとなしい子どもで、叱られるようなことは決してしなかった。
 私立のミッションスクール星美学園小学校で、成績は常にクラスで1~2番。試験、勉強が好きで、「また1番だよ」と答案を持って帰ってくる子どもだった。両親はあまり「勉強しろ」とは言わなかったとはいえ、一人息子の教育に熱心なところもあった。5、6年生時には有名な進学塾「四谷大塚」に通い、家庭教師もつけられた。
 小学校の教師の熱心な勧めもあり、また本人の、「オレは頭がよいんだ。社会の中枢となる人間なんだ」という自負もあり、学校法人開成学園・開成中学校を受験。合格者300名中56番の上位で入学。当時の新入生紹介の文集「1年生の顔」には「医者になりたい」と書き、未来に希望を燃やしていた。
 中学1年の席次は300人中155位、2年の席次は300人中178位と中位の成績であった。3年ごろから、部屋にこもって読書にふけるようになる。3年の席次は、300人中236位と下位に低迷する。
 76年4月、開成高等学校に進学。徐々に家庭内暴力が悪化していく。自室に閉じこもって泣いたり、大声を出したり、柱を叩いたりする。事あるごとに両親に対して、「お前らみたいのがくっついて結婚したから、俺みたいな鼻の低い子どもが生まれたんだ」とか、「お前ら夫婦は教養もないし、社会的地位もないし、そんな奴が一人前の顔をして俺に説教できるのか。夫婦ともバカだ」とかの反抗的な言葉を浴びせたりする。高校1年の席次は、クラス51人中47位、ほとんど最下位に近い成績だった。
 77年5月、高校2年生の健一は、学校を休んだことを父親のAに注意されると、「抑圧だ」と絶叫し、物を投げ、ガラスを割り、泣きじゃくった。2年生の1学期の成績は、クラス51人中43位。
 夏休みの8月1日、母親は機嫌よさそうな健一に一声かけ、言葉をやりとりする。
 母親「勉強しているの」
 健一「していない」
 母親「大学はどうするの」
 健一「それが悪い!」
 母親の何気ない言葉に激高し、「殺してやる」とわめきながら母親を家中追い回し、当夜Aの帰宅後も「お前らみたいな夫婦が俺を生んだから俺の人生は破滅だ」とののしり、手当たり次第に物を投げつけ、暴れ回った。この日以来、日常的に激しい暴力を繰り返すようになる。
 健一の家庭内暴力は猛烈をきわめた。
 ・母親、祖母の首をしめる。母親、祖母を殴り、蹴る。
 ・洗面器で10杯くらいの水を頭からかけて、祖母をグショぬれにする。
 ・食卓をひっくり返す。
 ・食卓塩、胡椒、醤油、ご飯をまき散らす。
 ・水道からホースを引いて、部屋中を水浸しにする。
 ・浴槽に粉石鹸を箱ごとまいてかき回し、風呂場を泡だらけにする。
 ・布団を池に投げ込む。
 ・仏壇をバットでたたき壊す。
 ・家中の襖を蹴破る。
 ・ピアノの黒鍵をすべてナイフで削り取る。
 ・家の中で洋服やタオルや本に火をつけて燃やす。
 ・庭の池に服、本などを投げ込み、石油をまいて燃やす。
 8月中旬、両親は精神病を疑い、健一を精神病院に連れていく。「精神病ではない。わがまま病だ」との精神科医の診断。治療は通院で行なわれ、注射や薬が処方される。しかし、健一の暴力は一向に納まらなかった。

殺害】77年10月29日、この日もやはり暴力があり、健一は「青春を返せ!人生を返せ!メチャメチャにしたのは親なのだ」と叫んで暴れるだけ暴れると、睡眠薬を飲んで寝てしまった。
 「こんなことが続いたら、本当に家族が殺されるかもしれないし、息子が犯罪者になるかもしれない。そうなれば、かわいそうなのは息子だ」そう考えたAは、息子の殺害を決意した。
 30日午前0時ごろ、長さ1m半ほどの下帯を手にした父親は、豆電灯の下で息子の寝顔を見つめた。健一は仰向けに眠り、父親はその枕元に正座していた。平和で何事もなかったころの健一の思い出。「また一番だよ」と満点の答案を持って家に駆け込んだ小学生のころの笑顔。どうしてそれが、こんな子に育ってしまったのだろう。そう思うと、不憫になって手を出せなくなった。が、すぐに続いて、母親や祖母を追いかける健一の狂ったような顔、逃げる彼女らの必死の顔が、そうした思い出を打ち消した。Aは下帯を息子の首にまわし、無我夢中で締めあげた。
 殺害後、息子の部屋に母親が入ってきた。Aが泣きながら「俺は健一を殺してしまった。死のうと思う」と言い、妻も「私も死にます」と言って、そこで2人して泣きつづけた。
 夫婦は自殺を決意して早朝の新幹線で浜松へ行き、浜名湖周辺で死に場所を探すが、死にきれずに翌31日東京に戻り、Aは結局、妻に付き添われながら赤羽署に自首した。

裁判】78年2月16日、東京地裁はAに対して、求刑懲役8年のところ、懲役3年・執行猶予4年の温情判決を下す。検察は量刑不当として控訴。
 健一の母親は、日記に「死にたい」「死ぬのは勇気がいることだ」「健一のそばに行きたい」と書き、普段は飲まないアルコールを痛飲するようになる。そして同時に、Aに対し攻撃的になる。「健一を帰せ!」「健一は私の生き甲斐だった、あなたより大切だった」「あなたは私をメチャメチャにしてしまった。許せない」「みんな、あなたが悪い。刑が軽すぎるんじゃないの」
 Aはそれに対して、「ともかく死なないで」「勇気をもって生きていこう」「どんなに努力しても(妻に)生きる意欲が起きなければ、そのときは一緒に死のう」と説得、励ましていた。
 しかし78年7月2日、Aの妻は夫への寛大な二審判決を願う遺書を残して、息子の部屋で首吊り自殺した。
 Aはその後、四国の巡礼へと旅立つ。妻子の霊の鎮魂と己の懺悔のため、四国霊場88ヶ所巡りをする。そして帰宅後、「精神的にせっぱつまって(本人談)」、宗教法人「生長の家」に入信する。
 79年2月28日、東京高裁は検察の控訴を棄却。検察は上告せず、刑が確定した。

(3)「中野富士見中学いじめ自殺事件」
事件概要】1986(昭和61)年2月1日、岩手県盛岡駅の駅ビル「フェザン」のB1トイレ内で、東京都中野区立中野富士見中学校2年の鹿川裕史(しかがわ・ひろふみ、13歳)が首を吊って自殺しているのが発見された。遺書が残されており、彼の自殺がいじめによるものだと判明した。いじめは日常的に行われており、「葬式ごっこ」なるいじめには教師も参加していた。

いじめの光景】85年4月、2年A組に進級した裕史は、それまで仲の良かった友達と別々のクラスになった。彼はクラス内のあるグループと交わっていく。だが、温和で152cmと小柄な彼は、買い食いのために店に走り、下校時にバッグを持たされるという役回りを押しつけられる。いわゆる「パシリ」(当時はツカイッパ)である。
 7月下旬には、担任のF教諭(57歳)が裕史の父親(42歳)に「裕史君が仲間の使い走りをさせられているようですよ」と連絡している。このF教諭は定年を数年後に控えたおとなしい教師で、いじめの事実を知っても生徒たちに強く指導することはなかった。
 グループ内で下手に出ていた裕史に対するいじめは、次第にエスカレートしていく。いじめグループにとって、彼はプロレスごっこの投げられ役など、まるで「サンドバッグ」のように「何をしてもいい」存在になっていた。モデルガンの標的にされたり、服にマヨネーズをかけられたり、積み上げられたイスと机に閉じ込められたり、顔にマジックでヒゲを描かれ、廊下で踊らされたり、野球拳が強要されて服を脱がされたり(彼の相手はジャンケンで負けても服を脱がず)、等々。

葬式ごっこ】85年11月14日と15日、2Aのクラスでは裕史が死んだことにして、色紙を書き、教室で花や線香をあげるという「葬式」をした。これはある生徒の「鹿川が死んだことにしようぜ」と言い出したことから始まり、昼の人気番組「笑っていいとも!」の「安産コーナー」をヒントに、生と死を逆にして考えられたものである。
 黒板の前には裕史の机が置かれ、そこには飴玉やミカンが並べられ、遺影と見たてた裕史の写真と牛乳ビンにさした花も置かれていた。その横の色紙には「鹿川君へ さようなら 2Aと その他一同より 昭和60年11月14日」と書かれており、クラスの生徒の署名や寄せ書きがあった。寄せ書きには「バーカ」「いなくなってよかった」「バンザイ」「ざまあみろ」などと書かれており、教室に掲げられていた裕史の係の名札が「もう死んだ人だから」と、黒マジックで塗りつぶされていた。
 しかも、葬式ごっこには担任ら4人の教師まで参加していた。教師らは生徒に「ドッキリだから」と言って頼まれて署名していた。
 当時、裕史はスケートボードで足に怪我をして、遅刻が多く、この日も遅れて教室に入ってきた。自分の机を見るなり、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と言って、笑いを浮かべたが、やがて黙り込んでしまった。
 裕史はこの色紙を持って帰宅。キョトンとした様子で家族にこう言った。「これ見てどう思う?ここに先生も書いているんだよ!」
 また、裕史はのちに仲間に「俺、1度死んだんだよ」と漏らしている。裕史は以前からシカト(無視)されてもいた。この葬式ごっこはシカトの延長だった。

終わらないいじめ】裕史はいじめから逃れるためか、10月あたりから、欠席が目立つようになる。それまでは月に1日あるかないかの欠席が、10月に6日、12月に8日、1月に11日にのぼっている。欠席の日は朝に家を出てから、病院の待合室などで時間をつぶしていたらしい。登校した日も職員用トイレに隠れたり、保健室で休養することが多かった。
 裕史の父親は、いじめの事態をわきまえて、息子を叱る一方、10月から11月にかけてF教諭に「やめさせて欲しい」旨の相談を持ちかけ、また11月から12月にかけて、いじめた子どもの家庭に乗り込み、親に直談判、抗議している。
 だが、年が明けて(86年)3学期になっても、裕史へのいじめは続いた。1月8日、始業式の日、校舎階段の踊り場でグループの8人にひざ蹴りやパンチなどの暴行を受ける。さらに裕史が血のついたカッターシャツを脱ぎカバンに隠して帰ろうとしたところ、校庭で3年生の1人に殴られる。6日ぶりに登校した1月22日、体育の授業中、職員室前のプラタナスの木に登らされ、揺さぶられた。さらに3年生2人に言われ、サザンオールスターズの歌を歌わされた。
 中野富士見中学校の教頭は、3学期始業式の日の、校庭での裕史に対する暴行を目撃していた。裕史と加害生徒に電話をかけたが、双方とも口裏を合わせたかのように事実を否定したため、事態を黙認してしまう。翌日から裕史が欠席するようになっても、教頭も担任も「ズル休みかな」という程度の認識だったという。
 最後に登校した1月30日、裕史は教育相談室での某教諭との話し合いで、いじめに遭っていることを告げ、具体的にカバンを持たされているとか、買い物を言いつけられているとかの悩みを打ち明けた。
 翌1月31日朝、裕史は家を出たまま、その後行方がわからなくなった。父親は池袋、新宿のゲームセンターや音響機器店を探しまわったが、とうとう見つからなかった。

死に場所】裕史がたどりついたのは岩手県盛岡市だった。父親の実家が岩手県にあり、かつて裕史は父親に連れられて来たことがあった。
 2月1日、裕史は盛岡市の中心部をさまよい歩いた後、国鉄(現・JR)盛岡駅に隣接するデパート「フェザン」の地下トイレの洋服掛けにビニール紐をかけ、首を吊った。
 「フェザン」は午後9時に閉店したが、トイレのドアが閉まったままなので不審に思った警備員がのぞき、死体を発見した。トイレの床には鉛筆の走り書きの遺書が置かれていた。制服のポケットには生徒手帳が入っており、それから身元が判明し、その夜に父親に連絡が入った。

  〔遺書〕
 家の人へ そして友達へ
 突然姿を消して申しわけありません
 くわしいことについては
 〇〇とか〇〇とかにきけばわかると思う
 オレだってまだ死にたくない。
 だけど、このままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。
 ただオレが死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ、
 いみないじゃないか。
 だから、もう君たちもバカなことをするのはやめてくれ、
 最後のお願いだ。
  昭和六十一年二月一日  鹿川裕史
 [註:上記の「〇〇とか〇〇とか」には、いじめグループのリーダー格2人の実名が記されている。]

 2月3日、裕史の遺体は岩手県石鳥谷町で火葬に付された。妹が「お兄ちゃん、行っちゃやだあ」と、棺にとりすがった。遺骨は5日夕方、東京の自宅に戻った。



処分】86年3月、東京都教育委員会はF教諭が無届けで学習塾アルバイトをしていた件も併せて問い、同教諭を諭旨免職。さらに校長と教頭、葬式ごっこに参加した4人の教師らに減給処分を下した。「単なるいじめだと思っていた」という教師や校長の話に対して、行政側はそれを認めず、明確な「いじめ」と断定した上での処分だった。処分された教師のうち、校長と2教諭は数年後の定年を待たずに3月末で依願退職している。
 4月、警視庁と所轄の中野署は、日頃から裕史のいじめに加わった16人の生徒を傷害や暴行容疑で書類送検した。
 6月、裕史の両親は東京都と中野区、それにいじめグループのリーダー格である2人の両親を相手に、総額2200万円の損害賠償請求を東京地裁に起こした。
 9月、東京家裁はいじめグループのリーダー格の2人に保護観察処分を言い渡した。
 91年3月27日、東京地裁はいじめと自殺の因果関係、予見可能性を認めず、いじめの存在そのものも否定。「これらはむしろ悪ふざけ、いたずら、偶発的なけんか、あるいは仲間内での暗黙の了解事項違反に対する筋をとおすための行動又はそれに近いものであったとみる方がより適切であって、そこには集団による継続的、執拗、陰湿かつ残酷ないじめという色彩はほとんどなかった」。「『葬式ごっこ』はいじめではなく、むしろひとつのエピソードとみるべきもので、自殺と直結させて考えるべきではない。鹿川君の心理的・精神的反応を予見することは不可能だった」。
 証人として校長、教頭、担任、養護教員も出廷し、いじめの存在とその緊迫感を否定した。リーダー格の2人のいじめというよりも家族仲に問題があるとし、遺書の「バカなことをするのはやめてくれ」というのは両親に対して、「他のヤツ」は妹のこと、というように解釈できると主張した。
 東京地裁は自殺については学校側や加害者側の責任を認めなかったものの、自殺直前に加えられた暴行による精神的苦痛に対する慰謝料は認めて、中野区など被告側に、弁護士費用100万円を合わせ、総額400万円の支払いを命じた。

 原告の被告側は、いじめを認めない東京地裁の判決を不服として控訴する。
 94年5月20日、東京高裁は「いじめは通常人であれば屈辱感など心理的苦痛を感じないことはあり得ない」、「いじめはなかったとした一審判決を変更し、自殺の前年から『葬式ごっこ』を始めとするいじめは続いており、学校側にはいじめを防止できなかった責任がある」として、いじめの事実と被告の責任を認め、都と区、リーダー格2人の4者に総額1150万円の支払いを命じた。
 しかし、ここでも、自殺の「予見可能性」はなかったとの判断で、いじめによる自殺については加害生徒側や学校側の賠償責任はないとした。

 青少年をめぐる如上の悲劇的な事件は果たして、現代日本社会の状況から弧絶した「特殊」なものだろうか。反対に、むしろ状況を反映する「象徴的」なものだろうか。この種の事件が起きると、一般の関心はまず主人公の個人的特質―性格や家族環境に、しかもそれだけに向けられやすい。それはたしかに重要な因子だけれど、すべての個人はそれぞれ異なった性格や家族環境を持っている。それぞれが特殊といえば特殊である。問題はそれらの個人的特質を通して、その時代の背景が具体的な姿を現わすことである。個人的特質は時代的特質と並列的に考えるべき原因ではなく、直列的というか、構造的上下関係にある。
by tadyas2011 | 2012-01-28 22:10 | 安田塾の事後報告 | Trackback | Comments(0)
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