安田塾メッセージ№37     第11回安田塾の事後報告㊤

                                   2011年10月1日 安田忠郎
                   第11回安田塾を終えて

 第11回安田塾は、7月23日(土)に開催されました。
 今回は(文章の分量の関係上)㊤㊦の2回に分けて報告します。本号㊤では私自身の話を、次号㊦では講師・小川彩子の講演をまとめます。
▲ 例会では最初、午後2時から30分余り、私が小川講師のプロフィールを紹介がてら―彼女がアメリカの大学教師である点を意識して―、「日本人のアメリカ観」についてお話ししました。
 「日本人」のアメリカ観と言っても、それは主として、(1)わが父・安田次郎(やすだ・じろう、1908~96)、(2)記録文学作家・上野英信(うえの・えいしん、1923~87)、(3)私・安田忠郎(やすだ・ただお)、この三者によるアメリカ評に限定されたものでした。以下、当日のトークの趣旨を敷衍(ふえん)して説明します。
 
 (1)安田次郎は1908(明治41)年1月21日に北海道岩見沢町(明治39年町制施行→昭和18年市制施行)に生まれ、1927(昭和2)年8月に(19歳で)小学校教員―北海道空知郡美唄町沼東尋常高等小学校尋常科訓導―となる。43年3月に空知郡岩見沢北本町国民学校訓導となり、44年7月15日に応召で(36歳で)横須賀海兵隊に入隊し、45年8月15日に復員する。
 次郎は「大東亜戦争」の敗戦後、戦前・戦中の教師時代の至らなさを省みた。自分が「無知」なるがゆえに、時代状況にだまされつづけた、と。そして、『アメリカ教育使節団報告書』(安田塾メッセージ№35参照)に出会って、何か自分が救われ、勇気が身内から湧き上がってくる。ヨシ、この自由主義=民主主義のもとでなら、学校教師としてやっていける、と。
 彼は1947年6月に日教組(日本教職員組合、58年・調査開始時の組織率86.3%、2007年組織率28.3%)が設立されると即刻、その一員(北教祖=北海道教職員組合)となったものの、次第に失望を深め、たしか―私の記憶に誤りがなければ―、50年代の終わりに北教祖を脱退した(→68年3月31日岩見沢市立中央小学校教諭定年退職)。「生涯一教師」をめざした彼には、日教組が傾倒するソ連や中国の社会主義・共産主義イデオロギーに、また日教組が52年に制定した『教師の倫理綱領』―特に第8項「教師は労働者である」―に、どうにも馴染めなかったのである。
 彼は生来、アメリカに好感を持っていたものの、ソ連や中国―特にその社会主義国家体制―に悪感情を抱いていた。私がその点を否応なしに知らされたのは、次のような出来事をとおしてである。
 ①彼は戦後、常々「これからはアメリカの時代だ、英語をしっかり勉強する必要がある」と言いながら、毎朝午前6時に起床して、NHKラジオの「英会話」聴取を励行しつづけた。
 ②彼はある日、小学6年生の私を同道し、岩見沢市の唯一のカトリック教会をだしぬけに訪問した。そして、たまたま居合わせたライアン神父(アメリカ・ボストン出身)に、私に対する「英会話」教授をお願いしたところ即、「じゃあ、タダオく~ん、いっしょにベンキョウしましょうネ」との応諾を得た。
 ③小学~中学をとおして映画が好きで好きでたまらなかった私は、とかく下校直後、カバン(学用品)を机の上に放りだしたまま、岩見沢市の映画館3箇所に通いつめたものである。
 私は中学3年のある夜、映画館でバッタリ次郎と鉢合わせした。二人は期せずして同時に、映画「戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai」(1957年公開の英・米合作映画)を鑑賞した。 
 この映画は私の映画鑑賞史上、忘れがたい戦争大作である。そこでは、第2次世界大戦のただ中である1943年の、タイとビルマの国境付近にある日本軍捕虜収容所を舞台に、捕虜となった英軍・米軍兵士らと、彼らを使ってクワイ河に橋を架けたい日本軍人たちとの対立と交流を通じて、極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の愚かさ・惨(むご)さが描かれている。監督はデヴィッド・リーン、出演はアレック・ギネス、ウィリアム・ホールデン、早川雪洲、ジャック・ホーキンス。第30回(57年度)アカデミー賞受賞(作品賞・監督賞・脚色賞・主演男優賞・撮影賞・作曲賞・編集賞の7部門)。
 彼と私は、この作品を約2時間30分堪能した。そして、連れ立って帰宅途中、彼はおもむろに口を開いた。「忠郎、いい映画だった!あんなイイ映画なら、いくら見てもいいぞ!学校のクダラナイ授業より、ああいう映画の方がよっぽどタメになる。」
 ④1962年2月26日、私は生まれて初めて上京した。それは一応、大学を受験するための上京だった。「一応」と言うのは、私の場合、2月上旬に風邪から肺炎を併発し、医者から2~3月の上京→受験が差し止められたにもかかわらず、熱が多少下がった頃合いに、何とか無理を犯して単身上京し、受験に備えたからにほかならない。だが結局、3月に入って熱がぶり返したため、やむなく受験を断念し、20日近く東京大森の親戚宅の病床に臥すにいたった。私はしばし、わが身の不運を嘆息したものである。
 当時、事実を打ち明ければ、私の受験学力は断トツの実績を上げ、日本のどんな大学の、どんな学部でも難なく合格できる高いレベルにあった。高校3年の私は、札幌市の自校はもとより、北海道の高校全体における数々の模擬試験・学力コンクールで、常にトップの成績を収めていたからである。
 しかし問題は、そもそも私自身が何のために大学に行くのかがわかっていなかったし、大学で何を勉強したらよいのかも一向に見当がついていなかったことである。
 高校生の私は、マジメに考えていた。総じて魅力に乏しい学校教師から教わるものは何もない、と。また、学校の退屈な授業を上の空で聞き、課業に振り回されるよりも、密度の濃い自分自身の時間をフルに活用して、読書に耽り、詩を口ずさみ、映画を見、音楽を聞き、絵を描き、そしてスポーツに親しむ方が人生本来の意義にかなう「自己実現的」営為である、と。
 当時の私の生活は、学校を埒外に置き、札幌の「藻岩山(もいわやま)」山麓の下宿に陣地を築き、その市街地のあちこちを威勢よく羽ばたくことを日課にしていた。学校教師にとって、欠席が余りにも多く、遅刻と早引けの常習犯だった私という生徒は、フマジメで厄介な問題児だったことは間違いない。(註:私は高校2年の3学期から、岩見沢市の一高校から札幌市の一高校に転校した。親元を離れて、札幌の市街地に隣接する藻岩山の麓にある素人下宿で自活しながら、私は文字通り「自由」を満喫した。)

 1962年3月中旬のある日、病臥を余儀なくされた私は、索漠たる思いにとらわれていた。大学受験に失敗したのは、1月から2月にかけての不摂生な生活によって風邪→肺炎を患ったからで、まさに身から出た錆だ…。自業自得なんだ。この失態を―思わぬ失態とはいえ―、謙虚に重く受け止めざるをえない。それにしても、不面目な失態を演じたものだ…。
 そして、ふと私の学友たちは定めし皆、東大に京大に北大に合格したことだろうと思い及んだ瞬間である。ある衝動的な思いつきが私の頭をよぎった。それはソ連のモスクワにある「ルムンバ民族友好大学」(1992年「ロシア諸民族友好大学」と改称)を受験することだった。
 1960年に設立され、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ地域からの留学生が集う同大学の存在を、私が初めて知らされたのは、学友Nを通してである。私は彼から前に聞いた話をまざまざと思い起こした。同大学への日本人留学生の派遣は、日本とソ連の文化交流を促進する「日ソ協会」(1957年創立、92年「日本ユーラシア協会」と改称)が取り仕切っていること、また61年の選抜試験では、日本人「多数」の受験者の中から函館中部高校出身の道産子(どさんこ)・中川某が合格したこと…。
 
 Nは高校3年のとき、偶然にも私と下宿を同じにし、二人は折あるごとに、口角泡を飛ばして「天下国家」―特に資本主義vs.社会主義―の趨勢を論じ合った。それは未熟な「経験・思想」段階の「論争」に終始したとはいえ、私にとって認識対象として関心事にとどまる社会主義・共産主義の問題に、彼がすでに思想的・心情的に心から共感している事態を浮き彫りにするものだった。
 [ちなみに、Nこと沼田清剛は、現役で北海道大学理学部数学科に進学後、「民青」(日本民主青年同盟)に加盟し、自ら日本共産党のシンパをもって任じるにいたった。今にして思えば、彼における社会主義イデオロギーの形成は、少なくとも高校→大学時代を通じて、彼より4歳年長の、日本共産党員である姉Iの強い影響下にありつづけた。Iこと石井郁子は、北海道学芸大学教育学部卒業→大阪教育大学助教授→衆議院議員(5期、共産党)→日本共産党中央委員会幹部会副委員長の経歴の持ち主である。]
 
 ふとした心の弾みから、私は同年の4月か5月ごろの日曜日―突然のあわただしい受験手続き→実際の受験日・試験問題内容に関する私の記憶は希薄である―、勇にはやって、ルムンバ民族友好大学を受験した。
 試験は一次試験(日本語による「国語+社会・歴史+数学」に関する筆記試験)とその合格者若干名に対する二次試験(小論文および面接試験)にまたがっていた。私は何はともあれ、慶應大学三田キャンパスを試験会場とする一次試験に臨んだ。
 会場の三田キャンパス大教室は、意外や意外、200人余りの受験生(学生+社会人)で満席だった。当時の全国の大学進学率が10%強にすぎない点、時期的にすでに日本の全大学の入試が完了している点、当の大学がモスクワ内に設立された国際大学とはいえ、「共産主義思想及びその経済政策を教えるための」歴史的特異性を刻印された大学である点などに照らして、現役・浪人を取り混ぜた受験生は多くとも50~100人と、私は踏んでいたものである。
 当日ようやく体調と自信が回復しつつあった私は、どんな受験戦線の難関でも突破できると、心ひそかに自負していた。そして実際、一次試験はほぼ満点を取って合格した。たしか合格者は私を含む5名前後(?)だったと思う。私は二次試験―受験日は一次試験のそれの2週間(?)後だったか―を、待つともなく待ち構えていた。 
 
 二次試験を数日後に控えた夜半のこと、安田次郎が突如として私の前に現われた。
 父は私が身を寄せる親戚筋の通報により、私がソ連の大学に受験し合格したらしい旨を聞き及び、押っ取り刀で―遠路はるばる(汽車と連絡船を乗り継いで、岩見沢→函館→青森→上野)一日半を費やして―駆けつけてきたものである。私は両親をはじめとする故郷の関係者に、「ルムンバ民族友好大学」受験について一切連絡を控えていた。
 次郎(54歳)と私(19歳)は、夜を徹して思いのたけを語り合った。私と父の関係史(44年)上、それは最も長時間に及んだ話し合いとなった。次郎が私に向かって結論的に言わんとするところは、こうである。
 「忠郎、ソ連の大学には行かないほうがいい。ソ連の社会主義はどうにも信用が置けない。…私はあの第2次大戦終結後のシベリア抑留の問題が片時も頭を去らない。戦争末期の昭和20年8月9日に、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦し⇒ソ連軍が満州を占領した事態は、ヤルタ会談にもとづく、やむをえない必然的な成り行きだったのかもしれない。だが、日本が8月14日に『ポツダム宣言』(7月26日発表)を受諾し、停戦・降伏・武装解除に踏み切ったにもかかわらず、ソ連は60万~70万人(一説には100万人)の日本人捕虜(軍人+民間人)を主にシベリアやモンゴルに送り込んだ。過酷な環境(厳寒の地)と劣悪な労働条件(奴隷的強制労働)で、約6万(一説には二十数万人)の抑留者が死亡した。このソ連の行動は、武装解除した日本軍の各家庭への復帰を保証した『ポツダム宣言』第9条にもとる、許しがたい背信的行為だ。」
 「忠郎、ソ連=ソビエト社会主義共和国連邦には“自由”がないんだ。それはあの国策映画を一目見れば、よく分かること。あれはヤラセもいいところで、日本の戦時中の映画とどっこいどっこいの映画だ。個性きらびやかに輝く人物を描くアメリカ映画とは、それはそれは雲泥の違いだ。」
 「忠郎がアメリカの大学に行くというなら、話は別だ。アメリカには強い個人の夢がある、理想がある。アメリカという場は、忠郎の才能を可能性の極限まで開花させるかもしれない。しかし、よりによってソ連の大学に、それも正体不明の民族友好大学とかに行けば、忠郎の一生が台無しになるかもしれない。」
 「たしかに今、忠郎が言うように、何の目的もなく日本の大学に入っても大して得るところがないだろう。…どうだ、いっそのこと、すべての大学受験をしばらく見送り、東京という日本の大都会を行き当たりばったりに放浪してみないか。…そして独立独歩、自ら学びつつ生き、生きつつ学ぶことだ。マルクス主義―社会主義・共産主義―の理論なども別に大学で学ぶまでもなく、いくらでも独学できるだろう。…東京の喧騒の巷をガムシャラに生きつづければ、いつか必ずや生きることに得心が行き、高校時代とは異なる向学心が燃え立つだろう。忠郎、そのときだ、学問への志が盛んに立ったときだ、改めて大学を視野に入れた、新たな人生を踏み出してみてはどうか―。」

 私は人生の大きな分岐点に立っていた。次郎の言葉を頭の中で何度も反芻しながら、与えられた人生いかに生くべきかをとめどなく考えつづけた。
 歴然たる事実は、私にはルムンバ民族友好大学に進学するに足る合理的な根拠が何もなかったことである。次郎におけるソ連観vs.アメリカ観は、私の素朴な共感を呼び起こすものだった。
 私は同大学の二次試験を放棄し、Going my way、勇躍あてどない放浪の旅に就いた―。 

 (2)上野英信は私の人生史上、最も畏敬する作家・思想者の一人である。
 [註:拙著『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版、1981年、290-1頁)(安田塾メッセージ№32参照)では、また拙著『人間観の基底―マルクスからフォイエルバッハへ―』(JCA出版、1994年、266-8頁)では、彼の人間・思想像の一端が私自身の思想形成過程にかかわる範囲で描かれている。なお、私は上野英信を、個人的に「英信」ないし「英信さん」と呼びつづけてきた関係上、以下の文章もそれに準じたい。]

 ● 英信は1923(大正12)年8月7日、山口県吉敷郡井関村(現・山口市)に出生する。41(昭和16)年、貧乏ゆえに授業料無料の満州国の建国大学に入学する。この植民地支配のエリートを育てるための国策大学で、日本の戦争や占領に反発する中国人らと交流した。在学中に学徒兵として招集され、45年8月6日、駐屯中の広島市宇品で被爆(爆心地4km)する。
 彼は戦後、46年に京都大学文学部支那文学科に復学、しかし翌年に中退し、48年から53年にかけて九州・筑豊の坑夫(炭鉱労働者)となる。学歴を「小学校卒」と逆詐称し、海老津炭鉱・高松炭鉱・崎戸炭鉱等で、掘進夫・採炭夫として地の底に降り立つ。58年、谷川雁、森崎和江らと筑豊の炭鉱労働者の自立共同体「サークル村」を結成、機関誌『サークル村』を創刊する。同誌からは石牟礼道子や中村きい子らを輩出した。64年、新目尾(しんしゃかのお)炭鉱閉山後の廃坑長屋に居を構え(福岡県鞍手郡鞍手町)、そこを「筑豊文庫」と名付けて、公民館兼炭鉱資料館兼図書館―「おとなも子どもも自由に利用できる、学習と話しあいと宿泊の場」(英信)―として開放する。
 65年1月15日、筑豊文庫が正式に発足⇒「筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人びとによって創立されたこの筑豊文庫を足場として、われわれは炭鉱労働者の自立と解放のためにすべてをささげて闘うことをここに宣言する。」(英信の宣言文)
 87年11月21日、筑豊の地獄を生き抜いた、人間的・思想的に強靭な英信は、食道癌のため64歳で死去する。
 96年4月、筑豊文庫が閉鎖・解体される。

 ● それは1983年5月27日のことだった。私は英信と、初めて、じきじき対面する機会に恵まれた。
 事のきっかけは、私が81年9月25日に前掲『炭鉱へゆく』を公刊してまもなく―2週間後だったか―、同書を「著者謹呈」、英信宛てに小包郵便で―「…ご笑覧に供します」の一文を添えて―発送したことにある。 
 

 私が英信の出世作『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年8月20日刊行)に出会ったのは、64年9月のこと。筑豊の中小炭鉱、いわゆる「小ヤマ」とそこを転々と渡り歩く、いわゆる「渡り坑夫」たちをありありと“記録”した同書は、21歳の私の心に、ただならぬ衝撃を与えた。地底から追い払われていく坑夫大衆の飢餓と絶望をえぐり出す「上野文学」は、私という惰弱なる生者の魂を荒々しく揺さぶった。
 私は60年代後半以降、英信の書くあらゆる文章の愛読者でありつづけた。そして、いつか「筑豊文庫」を訪ねたいと一心に念じつづけていた。しかし、60年代後半~70年代をとおして所用かたがた、全国各地の炭鉱―九州地方に限れば、三池炭鉱(福岡県大牟田市、97年閉山)と高島炭鉱(長崎県長崎市、86年閉山)―を巡り歩きながらも、筑豊の廃鉱地帯まで足を延ばすにはいたらなかった。

 1981年10月下旬だった。私は英信の妻・上野晴子(うえの・はるこ、1927~97)から、私の贈呈本に対する礼状をいただいた。そこには、英信が今「著書」執筆のための取材で沖縄に長期滞在中であること、この10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が勃発して(安田塾メッセージ№21・32参照)、拙著が切り込む「北炭」問題をとても身近に感じることなどが書き添えられていた。それは気取りのない人柄を思わせる率直な文面だった。
 英信はその頃、『眉屋私記』―沖縄名護地方の「眉屋(まゆや)」と呼ばれる一族(貧農)の顛末記―を書き上げるために、沖縄で取材中だった。
 彼は1974年3~9月の200日余り、筑豊の坑夫⇒炭鉱離職者たち(死者を含む150人)の足跡をたどって、南米のブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの地を訪ね歩いている(資金はカンパや借金や原稿料の前借りで調達された)。この海外移住先で「渡り坑夫」ならぬ「渡り百姓」として悪戦苦闘する炭鉱離職者の実態(農業移民⇒棄民)を記録した作品が『出ニッポン記』(潮出版社、1977年10月10日刊行)である。
 彼はその追跡取材をとおして、多くの沖縄出身者と出会った。それを機縁として、彼はさらに沖縄からメキシコまで、広く精細な調査と取材を敢行する(78年4~6月にメキシコ取材)。その成果がほかならぬ『眉屋私記』であり、84年3月10日に刊行(潮出版社)されている。
 この記念碑的傑作では、特に眉屋の嫡子・山入端萬栄(やまのは・まんえい)の波瀾万丈の人生にスポットライトが当てられている。かれ萬栄は、貧困のどん底にあえぐ眉屋一族を救おうと、移民として1907年(21歳で)メキシコに渡って炭坑夫となり→折からのメキシコ革命に翻弄されて後、16年キューバに脱出し→ついに帰郷の夢を果たせぬまま、59年ハバナでその生涯を閉じた―。[ちなみに、萬栄の跡を追いつづけた英信は当時、社会主義国家・キューバへの入国を許されなかった。彼いわく、「私の無念は深い」(『眉屋私記』「あとがき」)と。]

 83年5月26日のことだった。私のもとに、英信さんから突然の電話が入った。晴子さんからの礼状を拝受して約1年7ヵ月が経っていた。「上野英信です。…ぼくは今、東京におります。時間がありますので、お会いしませんか―」
 私は電話口でお辞儀した。願ってもない朗報だった。ついに、あの英信さんに見(まみ)えることができる!悦びが私の体の中を駆けめぐった。
 私は彼と、翌27日午後1時に、渋谷の喫茶店(渋谷東急プラザ2階)で待ち合わせた。その際、私の手には大きなカバンが引っ提げられていた。そこには、私の読後感や疑問点・注意点などをメモった付箋を随所に挟んだ彼の著作10点、すなわち前掲『追われゆく坑夫たち』『出ニッポン記』+『日本陥没期』(未来社、61年)・『地の底の笑い話』(岩波新書、67年)・『どきゅめんと筑豊―この国の火床に生きて』(社会新報、69年)・『天皇陛下萬才―爆弾三勇士序説』(筑摩書房、71年)・『骨を噛む』(大和書房、73年)・『廃鉱譜』(筑摩書房、78年)・『火を掘る日日』(大和書房、79年)・『親と子の夜』(未来社、新装版82年)が押し込まれていた。
 初対面の挨拶を交わした後、私はやおら、カバンの中を探り、彼の著書を取り出し、その付箋箇所を見ながら単刀直入な質問を切り出した。この私の探究的で真率な態度にほだされたのか、彼は「場所を変えましょう。近くに仕事用の臨時のアパートを借りています。そこで、ゆっくり語らいましょう」と言い、そそくさと喫茶店を出て、タクシーを拾い、青山にあるアパート(集合住宅)まで私を誘導した。
 

 彼と私の、静けさに満ちた6畳一間のアパートにおける対談は、4時間半に及んだ。その対話的問答は、私からの、主として次のような問題提起のもとで進められた。 
 ・彼における原爆症の問題
 ・「サークル村」の思想性の問題―特に谷川雁、森崎和江、石牟礼道子に即して―
 ・「坑夫」と文学者(「インテリ」)の関係の問題―知の紡ぎ方―
 ・千客万来のにぎわいに包まれた「筑豊文庫」の問題―特に岡村昭彦、松下竜一、野坂昭如、五木寛之(『青春の門・筑豊篇』)に即して―
 ・『追われゆく坑夫たち』→『出ニッポン記』の思想的文脈の問題―彼にとって「南米」滞在6ヵ月の旅とは何か―
 

 時間がまたたく間に過ぎた。彼の発する重い言葉の数々が私の心に響いた。充実感が私の胸の中に広がった。
 この彼と共有できた4時間半こそ、私の人生にとって“永遠”そのものである。この彼との運命的な―最初で最後の!―出会いを、私は永久に忘れることができない。私の他者との交流史上、それはまさしく最も劇的な、空前絶後の出会いにほかならなかった。

 ● 英信の思想・表現の原点は、すぐれて1945年の8月6日と8月15日の経験にある。
 彼は22歳の誕生日の前日に広島で被爆し、後遺症に苦しんだ。「自分は8月6日に一度死んだのだ」。彼はこの6日から敗戦の15日までの間を「ゆきつもどりつ」して、「その10日間から出られない」がゆえに、「その地獄を生きるしかない」と決意し、「資本主義が作った地獄」=炭鉱に飛びこむ。そして、地上・広島の地獄⇒地下・筑豊の地獄のただ中で、一介の坑夫として働くとともに、ツルハシで石炭を掘り出す作業と「同じ感覚の重さ」を持った、ペンで言葉を掘り起こす作業に没入する。

 英信は誕生日の8月7日―広島原爆の翌日―がめぐってきて、「オメデトウ」と言われるたびに、あの忌まわしい「昭和」⇒戦争⇒原爆投下を思いだすとともに、アメリカ憎しの高ぶりが体の中を駆けめぐる。彼はヒロシマを思い、ヒロシマにこだわるとき決まって、「アメリカ人を皆殺しにしたい」の衝動につき動かされる。
 なにしろ彼は生涯を賭して、満州→広島→筑豊に盤踞して、坑夫への深い愛と共感のもと、炭鉱→部落→朝鮮人、そして天皇制と、いわれなき差別→いわれなき死の現実に敢然と立ち向かいつづけた人だ。「人生はもっとも愚かしいものに賭けるだけの価値がある」と信じ、「一人は万人のために、万人は一人のために」の旗印のもと、誰もが差別されることなく生きられるための社会革命の理想=「見果てぬ夢」を執拗に追いつづけた人である。
 彼はヒロシマ→ナガサキに原爆を投下し、無辜(むこ)の民を無数殺傷した太平洋戦争中のアメリカを、さらには「ソンミ村虐殺事件」(1968年3月16日)を引き起こし、非武装のベトナム民間人を大量に虐殺したベトナム戦争中のアメリカを、蛇蝎のように忌み嫌ったものだった。



 ● ところで英信の思想的軌跡をたどるとき、私としては晩年の彼が筑豊から南米→沖縄→メキシコにまで、つまり日本を離れてラテンアメリカ諸国にまで現実に足を運んだ点に注目せざるをえない。
 彼の場合、生涯にわたって、炭鉱が念頭を離れることはなかった。『出ニッポン記』(1977年)も『眉屋私記』(84年)も、『追われゆく坑夫たち』(60年)の延長下、何らかの形で地下の鉱脈につながる作品である。
 しかし大事な点は、どういうモチベーションであれ、彼の関心事が微妙に坑夫→炭鉱離職者→ディアスポラ(diaspora、故郷・故国から隔てられ離散する人々、眉屋一族は沖縄の底辺に生きたディアスポラの代表例)に移行するにつれ(各概念の内包の微妙な差異に注目!)、彼の身体が次第に具体的に筑豊→日本→世界(地球の反対側)へと開かれたことである。そこでは、日本という国家・社会の底辺に生きたディアスポラの存在⇒行方が照射されるほどに、筑豊⇒日本自体が世界の中の一場として対象化され相対化されていく―。

 彼は筑豊の小ヤマに生きる人々を自分の等身大として描き上げた。彼らの生きざま・死にざま―喜怒哀楽や息づかいや肌合いなど―を、それこそ地を這うような「虫の眼」をもって把握しつづけた。
 しかし、問題のディアスポラたちを追いかけ、中南米各地を取材するにいたったとき、その視点はもはや自己言及的な「虫の眼」にとどまることはできない。歴史の闇を照らし、真実に迫るには、世界に媒介された「自-他」認識(対象認識と主体形成の連動性)をわがものとする、いわば「鳥の眼」が必要である。「鳥の眼」(⇒鳥瞰)とは、鳥が空から見おろすように、高所から全体を広く見渡し、自分の現在の位置を確認することである(⇒自己の客観視)。いま自分が、どういう森の中の、どういう木の葉の下にうごめいているのかを、事あるごとに空高く舞い上がって俯瞰することが大切である。
 
 英信は「鳥の眼」を養いながら、『出ニッポン記』→『眉屋私記』という画期的な文字を刻んだ。より正確に言えば、彼は特に『眉屋私記』において、世界に媒介された「虫の眼」⇒「鳥の眼」をもって―「虫の眼」と「鳥の眼」の相互交流的な視点に立って―、日系海外移民・山入端萬栄の、あくまでも「個」として生きた劇的な生涯を、萬栄の妹・つる―彼女もまた数奇な運命をたどったディアスポラである―からの「聞き書き」をもとに、見事に活写するにいたった。
 [註:山入端つる(やまのは・つる)は13歳で辻遊郭に身売りされながらも、祖父譲りの三味線の腕を磨き、19歳で年季が明けて後、戦前から戦後にかけて、三味線片手に宮古・和歌山・大阪・奄美・東京・千葉・川崎などを渡り歩き、琉球舞踊の地方(じかた)として身を立てる。2006年、100歳で死去。東恩納寛惇(山入端つるからの聞き書き)『三味線放浪記』(ニライ社、1996年)参照。]

 英信はあくなき執念を燃やしながら、ディアスポラの行く末を明らかにしようと、中南米諸国を遍歴した。そこには、「虫の眼」と「鳥の眼」を併せ持つ、他者に対して自らを開いた英信が存在した。「カリブに浮かぶ赤い島」に入国できなかった彼は、山入端萬栄が孤独な晩年を過ごしたハバナの街を徘徊できずに、何とも無念の思いに押し包まれたものである。 
 しかし問題は、彼が生前、アメリカ行きに何らの関心も示さなかった点である。
 アメリカ合衆国のそこかしこにも、沖縄出身移民をはじめとする多数の日本人移民⇒ディアスポラの多年にわたる苦難の歴史が刻み込まれていることは言うまでもない。だが、彼は一度たりとも米国に渡航することはなかった。米国各地における日系ディアスポラの痕跡を探し回り、新たな人や風景との出会いを楽しむ機会を持つことなく、生涯に終止符を打った。
 彼にとってアメリカは、しょせん無縁の、問題外の対象にすぎなかったのか。だとすれば、彼が培養した「鳥の眼」の質―「主体」形成と「対象」認識の相互促進化の程度―が今改めて問われなければならない。

 私は想像する。彼が少なくとも70代まで生きていたら、『眉屋私記』の続き(戦後編)を、どう書いただろうか。また、同書以外に、どんな記録文学を物しただろうか、と。
 英信の子息・上野朱(うえの・あかし、1956~)は、父親を、こう評している。英信は「なにかにつけ『全力の人』」であり、「とりあえず前に進む」人であり、「地位のため金のために節を曲げることはしない」人であり、「挫けて落ち込むことのない強靭な頭と無駄のない回路、なにものにも左右されない信念」の持ち主である、と(上野朱『蕨の家―上野英信と晴子』海鳥社、2000年、108・132・158・186頁)。
 英信は定めし、「鳥の眼」と「虫の眼」を交互に今までより一層ダイナミックに駆使し⇒世界を見る窓を全開しながら、グローバル化の時代状況下のディアスポラの全貌を明らかにするにちがいない…。

 そして彼の場合、このように「鳥の眼」の世界的な視野の広がりを切り開くにいたれば、先に問題化した「ヒロシマ→ナガサキ」および「ベトナム戦争」におけるアメリカの「唾棄すべき」行動を、もはや単なるアメリカ憎しの感情論で一刀両断に片づけるわけにはいかないだろう。
 上野朱は父親が「よく怒る人」⇒国家や権力に対する「怒りの強さと持続」が際立つ人であると言う。
 「権力や搾取するものへの怒り、そして支配されていることに気付こうともせず、中流意識にふやけている多数への怒りだった。父の若いころの文章を見るとその怒りが露出しているのが見てとれる。硬い文体で言葉も鋭角的だ。それが次第に静かな文章になり、同時に一層の深みが感じられるようになってゆくのは五十歳を過ぎたあたりからだろうか。晩年には暗い水の底にひっそりと沈んでいる悲しみを、両手でそっと掬いあげるような文章に変わっていった。だからといって父の人柄が丸くなったとか好々爺になったとかいうわけではけっしてなく、以前と同じように常に怒っている人だった」(同上書161頁)。 

 英信は太平洋戦争にしろ、ベトナム戦争にしろ、戦争そのものに抑えようのない怒りをぶつけてきた。
 この純粋な怒りが悲しみに溶けるとき、彼は恐らく、「鳥の眼」⇔「虫の眼」の生々たるダイナミズムのもと、戦争という複雑怪奇に絡み合った問題状況を、いかに超克するかに腐心することだろう。そして結局のところ、日本はもとより、各国を世界の中の「一国」として相対化し⇒徹底した人間としての<個>の立場に立つことによって、すべての国家―国民国家・民族国家―の垣根を越えた“個と個の統一”[各個の、相互の差異を認めあい尊重しあうところの、相互補完的な「連帯」(とりわけ言葉の通じない他者とのコミュニケーションをいかに図るべきかが重大事!)]を目指して、倦(う)まずたゆまず努力することだろう…(「個」の問題に関しては安田塾メッセージ№20を参照)。

 上野英信は1987(昭和62)年11月21日、帰らぬ人となった。
 彼はその年の初めに食道癌が見つかり、約3ヵ月の入院・加療を経て一時回復したものの、8月下旬に『眉屋私記・戦後編』の取材のため沖縄へ行こうとして倒れる。癌が脳橋部に転移し、死期が近づく頃、彼は息子の朱に向かって、「ゆっくりと穏やかな口調」で、こう話している。
 「おとうさんはもういつ死んでもいいのだ」
 「おとうさんはこれまで精一杯やってきた。いい加減な仕事をしたつもりはない。ここでこう言い切れる自分をほめてやってもいいと思う」
(同上19ページ)

 人間は2度死ぬと言う。1度目は本人が死ぬ―肉体・命が滅びる―時であり、2度目は当人が人々から忘れ去られる―当人を生前見知っていて、何らかの形で当人の思い出を持つ人がこの世から誰一人としていなくなってしまう―時である。
 
 英信さん、私はあなたのことを決して忘れません。
 私は1964年に『追われゆく坑夫たち』と出会って以来、あなたの熱心な読者でありつづけました。その全著作を再読し、精読しつづけました。83年5月27日に、あなたにようやく邂逅(かいこう)できた際、私がご著書を繰り返し熟読玩味している旨を告げたところ、あなたは大変喜んでくれましたね。
 さすがに、あなたが息子さんに語った「百人の読者に一回ずつ読まれるより、たったひとりの人に百回読まれるほうが嬉しい」(上野朱『父を焼く―上野英信と筑豊』岩波書店、2010年、43頁)という「百回」には及ばないものの、今日にいたるまで、私はあなたの全作品を何度となく、手ずれがするまで読み返してきたものです。
 
 私は5月27日当日お話ししたように、1968年に短期間ながらも、北炭幌内炭鉱および同夕張炭鉱の「坑底の人」となりました。そして、炭鉱(坑内)労働が過酷きわまりない労働であることを身をもって嫌というほど知りました。 
 採炭切羽は見ると聞くとは大違い、高温多湿で、狭苦しく、炭塵が舞い、ガスがたまり、息も詰まらんばかり、おまけにホーベル(剥離採炭機械)の轟音で鼓膜が破裂しそう、そして上半身裸で、全身汗と炭塵で黒光りした「坑夫」がうごめく…、この世の生き地獄の光景を呈してました。
                 ↓ 北炭幌内炭鉱竪坑(廃鉱跡)
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 私はつくづく思いました。「なんで、こんなヒドイ所で働く人間がいるのか?! なんで人間たるもの、こんなヒドイ所で働かなければならないのか?! オレは炭鉱労働にはとても耐えられない!」
 頭が重く、体がだるい、喉がひりひりし、神経がいらいらする日々が続きました。私は刻一刻と、耐えきれぬ苦痛に打ちひしがれていきました。そんな時です、私は決まって、ある情景を思い浮かべたものです。
 それはほかでもありません、英信さん、長身痩躯の(カンテラを提げ、ツルハシを担ぐ)あなたがひたすら光明を求めて、奈落の底を必死に這いずり回る鬼気迫る情景でした。

 英信さん、あの5月27日の対談終了間際に、私はこう言いました。
 「いま、私は大学教師を続けるべきか迷っているんです。英信さんの生き方を考えるたびに、この日本で私には教師以上にしなければならないことがタクサンあるように思うんです。何もこれは大学教師・学者・研究者に限られないでしょうが、彼らの場合は余りにも言葉の世界と生活の世界が分離しています。しかし英信さんの場合、書くという行為といかに生きるかという行為がぴったり重なり合っています。私流に言わせれば、英信さんは自分の身近な生活を見つめながら、自分の学問=『生活の学問』を組み立てているからこそ、『力ある言葉』『生きた思想』を編み出すことができるんです」
 「私は随分前から、思うことがありました。英信さんに関する本格的な物語を書きたい、と。私は自分の炭鉱行きの問題をはじめとして、英信さんから少なからぬ影響を受けてきました。そろそろ、私自身の思想形成過程を確認・点検するためにも、英信さんの人間・思想像をトータルに縁取ってみたい―。私から見て、英信さんの人間的な歩みは、限りなく魅力的であるとともに、厳かな畏怖を呼び起こすものでした。その歩みを、一読み手としてたどる段階から、今度は一書き手として積極的に対象化し再構成する段階へと一歩前進できればと願うものです」
 そして、英信さんはこう応じてくれたのでした。
 「ぼくは書くに当たって、難しい左翼言語・運動言語・思想言語を極力排除するよう努力してきた。声なき声を大事にしたい!物言わぬ、あるいは物言えぬ人たちと一緒に何かをしようと苦闘しつづけた。…安田さんの言う“言葉”と“生活”の分離という問題は、今の大学教授たちには恐らく理解できないだろうね。筑豊文庫の数多くの来訪者にしても、一体何人が緊張感をもって、その問題に立ち向かっていただろうか。…ぼくは安田さんが大学卒業後ひとたび炭鉱に入り、そして辞めて今は大学教師を務める、その歩み自体に関心がある。そういう人生行路を歩んだ人は日本の歴史上、ほかに誰かいただろうか。大卒組で工学系の炭鉱技術者の場合には、ひよっとして、過去にいたかもしれない。しかし、ぼくの知るかぎり、いわゆる文科系出身者では、安田さんのほかに例が見いだせない。…安田さん、あなたがたとえ短期間でも入坑し地底の闇を知った以上、大学での生活は精神構造上の彼我のギャップが大きすぎて、相当キツイんじゃないか。苦労がさぞやとしのばれるね。ただし逆に言えば、学校組織にとって安田さんのような人こそ価値ある存在であり、あなたがそこで頑張って種々の変革にいそしむのも大事なのかもしれない。あなたの『炭鉱へゆく』という本を読むかぎり、ぼくは思うな。あなたの場合、今後どこに行っても、炭鉱で必死に培った問題意識をけっして風化することはないだろうと」
 「安田さんがぼくのことを書いてくれるのは、ウレシイことです―。しかし、ぼくの本当の気持ちを言えば、ぼくなんかよりも、あなたが今までに炭鉱で出会った無名の人々のことを書いてほしい。彼らの、一人でもいいから、生きてきた足跡を徹底的に掘り起こしてもらいたい。ぼくは安田さんなら、それができると思う。ただし、それは大学教師の勤めの合間にできるようなヤワな仕事ではない。それにしっかり踏み込むほどに、あなたが何をもって自らの職業とするか苦渋の選択を迫られることは間違いないだろう―」

 英信さんの訃報に接したとき、私はしばし呆然自失しました。たまらないほどの虚脱感が私を襲いました。
 「ああ、まだまだ、お会いしたかったのに!お話ししたかったのに!ああ、何ということだ、ついに筑豊文庫を訪ねることができなかった!『酒闘・武闘・文闘』を好んだ英信さんの砦『筑豊文庫』で、夜もすがら、とことん飲み明かし、飽かず語り明かしたかったのに!…」

 しかし、英信さん、あなたはまだ、2度目の死を迎えてはおりませんよ。
 私は息子の朱さんが父親のあなたをどれほど恋い慕っているかを、前二著から思い知らされました。数ある中で、とりわけ朱さんが最初の子ども―つまり、英信さんの孫―の名前を、あなたに告げた場面は、鮮烈な印象を私の胸に彫りつけました。
 「…私が黒板に向かって『民記』と書き、読みは原爆詩人の原民喜さんに、字は民衆を記録し続けたこの子の祖父に因み、と言って振り返ると父が泣いていた。」(前掲『蕨の家』203頁)
 原民喜(はら・たみき、1905~51)と言えば、自身のヒロシマ被爆体験を基に書いた小説「夏の花」(1947年)が有名です。私は学生時代に、それを悲傷にくれながら読んだものでした。
 [註:原民喜は徹底して人間の苦しみに連帯した詩人・小説家である。名作『夏の花』は、「現代日本文学史上最も美しい散文」と絶賛を受け、第一回水上滝太郎賞を受賞する。51年3月13日、彼は慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅‐西荻窪駅間で鉄道自殺する。私は大学1年のとき、『夏の花』と『追われゆく坑夫たち』を相前後して読んだ。私が原民喜の存在を知ったのは、遠藤周作(1923~96)の小説・随筆等を読み漁る過程においてである。原と遠藤は同じ慶應義塾大学文学部出身、遠藤は原の後進として、原から文学修業上の手ほどきを受けた。]

 英信さん、息子さんによる命名には、私の目頭をじんと熱くするものがありました。
 親は願いをこめて子をつくります。その願いは子どもの名前に出るのが普通です。
 朱さんも、そして民記さんも、あなたを絶対に忘れることはありません。

 さらに、私もまた、命あるかぎり、あなたの力強い足跡を忘れることができません。
 私はあなたから、志(こころざし)というものを教わりました。
 私があなたから教わったものは、志を高く持った生き方・暮らし方にわが身を投じるという姿勢でした。
 

 (3)私のアメリカ観は、これまでの安田塾の会合のたびに、話の種として小刻みに表明されてきた。そして、次回(第12回)の安田塾―谷川建司の講演「ハリウッドと日本のアカデミア」―でも、その講演内容との関連で「私にとってアメリカとは何か」が話題化される予定である。

 今回は前記(1)(2)の思想的文脈に沿った、次のような点を強調するにとどめたい。
 私は今まで、アメリカには全体として、多少の屈折はあっても、大変良い印象を持ちつづけてきた。特に小中時代の私の場合、海の彼方のアメリカに強い憧れさえ抱いていた。
 なぜ、私はアメリカに引き付けられ、好感をいだきつづけたのだろうか。それは根源的には、(2)の私と父の関係史に触れた4点中の③に明示された点、つまり私がすこぶる付きの映画好き(「映画狂」)であったことに起因している。
 私は小学2年ごろから、中学→高校2年ぐらいまで、両親や教師の目をかすめて、諸種の無数の映画を手当たり次第に見つづけたものである。小学時代の級友F―映画館の経営者の息子!―から入場券を何枚もせしめたり、成人映画を見て教師に補導されたり、時に深更まで、時に郷里の岩見沢以外の映画館にまで出かけるなど、私はたいへんなワルだったのだ!
 私の見た映画はほとんど(8、9割方?)が洋画であり、洋画のほとんどがアメリカのハリウッド映画だった(1、2割?の邦画の場合はほとんどが時代劇である)。 
 私はまさに―今にして思う!―、このような大量のアメリカ映画から人生の真実の諸相を、民主主義⇒人権、とりわけ自由の価値を学び取っていたのである。早熟で多感な少年・忠郎は、自由の鐘が鳴り響くアメリカ映画―真に動き、笑い、泣き、呼吸し、生活するイメージ―をこよなく愛して、映画館に―時に弁当持参で―日参していたのだった。
 
 私―少なくとも小中高時代の私―にとって、最大にして最良の「教師」は、映画、それもアメリカ映画にほかならなかった。
by tadyas2011 | 2011-10-01 01:55 | 安田塾の事後報告 | Trackback | Comments(0)
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