安田塾メッセージ№35      ある学校法人(4)

                                   2011年9月15日 安田忠郎
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(4)

【急】 月のない闇夜

 [Ⅰ] 私学の自主性
(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題(安田塾メッセージ№34)
(ⅱ) <独立自尊>の問題(同)

(ⅲ) 五島慶太とは誰か
● 1954(昭和29)年11月11日、学校法人・武蔵工業大学の理事長・西村有作(創立者の1人)が引退し、新理事長に「電鉄王」五島慶太が就任する。翌年6月1日、学校法人・武蔵工業大学が学校法人・東横学園を吸収合併し、新しく学校法人・五島育英会として発足する。[ちなみに、五島慶太は1939年に、財団法人・東横学園を設立し、東横商業女学校(翌年「東横女子商業学校」と改称→現「東京都市大学等々力中学校・高等学校」)を創設する。]
 
 私は武蔵工大に在職中、心ある同僚や学生たちから、折に触れて聞かされたものである。「本学にもう“公正・自由・自治”はない!五島慶太が、【育英会】が、本学を経営してから、そんな理念はもう死んでしまったんだ!」と。
 工大では、1981(昭和56)年度から毎年、学生(新入生・2年生・4年生)の「実態調査」が実施されている。このアンケート調査の「自由意見」(無記名)欄に、毎年決まって、「建学の精神」の在りどころを問うor理念とかけ離れた現実の貧しさを憂える学生(特に4年生)の意見が多数書き込まれている。私の在職中のものに限って少々例示すれば、
 ・「“公正・自治・自由”という言葉がありながら学生には自治権があまりないと思う。このことが他の大学との気質の差として現われていると思う」(武蔵工大広報委員会『昭和58年度学生実態調査アンケート集計結果報告書』56頁)。
 ・「自由・公正・自治なんて、ウソッパチ、もっと自由を」(同・昭和61年度、53頁)。
 ・「この大学に公正・自由・自治なんてどこにもない。嘘をかかげることだけはやめてほしい。拘束されることに慣れてしまったのか、自分自身で時間を活用できない学生が多い。」(同・昭和63年度、78頁)
 ・「武蔵工大の“公正・自治・自由”がどこにもない。社会全体の相対的な自由度が増すにつれますます拘束性が強調される」(同・平成2年度、118頁)。「あらゆる面において“自由”を増せばもっと学生の意欲を引き出せると思う」(同前、125頁)
 ・「学生の意見が自由に言えることが必要、大学において教員は神様扱いである。もう少し自由な校風を希望します。そのことが本学発展の推進力となると思います」(同・平成3年度、119頁)。
 ・「大学内の施設を増設・新築するときは、学生の意見を取り入れるべき。本大学の『公正・自由・自治』の精神に反するから」(同・平成6年度、84頁)。「“もっと学生に自由を!!”とにかく建設的な意見がつぶされてしまう環境をなんとかしてほしい」(同前、89頁)。
 ・「大学では“自由・公正・自治”をかかげているがそれは飾りなのか。もっと役立つ興味を持てる授業をしてほしい」(同・平成9年度、84頁)。
 ・「私は、大学というところは開放的で、自分の責任の下で、ある程度の自由があると思っていたが現実は違っていた。…こんな大学に4年もいた自分がバカらしく思え、とても人になんかすすめられない」(同・平成10年度、100頁)。
 ・「『公正・自由・自治』は教職員のみならず、学生にも恩恵があるのが正しい姿だと思います。学生の意見を尊重する姿勢が、学校側に見られなかったのが残念です」(同・平成12年度、110頁)。
 ・「古い気質が残り、全体的に閉鎖的な雰囲気が漂っている」(同・平成13年度、125頁)。
 ・「古い工業大学だからでしょうか。全体的に考え方が古いと思います。過去の武蔵工大は、過去の事です」(同・平成18年度、87頁)。
 
 彼ら学生が「公正・自由・自治」云々をどう理解しているかは定かではない。しかし、彼らにとって武蔵工大は、「知的な挑戦の場」-「知的にチャレンジングな教育・人間形成の場」でないことは間違いないところである。工大という教員をはじめとる大学人の諸関係の構造総体が、多様な背景と資質をもつ学生の学習ニーズに的確に対応できる教育機能を喪失し、教師と学生の相互交流的な、理性と感性が伸びやかに総動員された、個性輝く学校空間を創出できないでいること、これはもはや疑いようがない。
 ・「“教育とは何か”もう一度原点に戻って学長並びに教員は考え直す必要があるのでは」(同・平成6年度、93頁)。
 ・「各授業において、一部の教授に『教える気があるのか?』と問いたくなるような場面がしばしば見られた。…科目、特に専門科目を教える教授たちは、もっと学生に関心、楽しさ、おもしろさを伝えるような教え方を再考した方が良い。学ぶ事は、将来に大切な知識となるので、それを伝える教え方は重要である」(同・平成14年度、126頁)。「学生のやる気を失わせる学校である」(同前、141頁)。「大学の学生に対する対応が官僚的すぎるのではないかと思う。中学・高校ではないのだからもっと学生の判断に委ねるべきであると思う」(同)。
 ・「先生が教えるのが下手すぎる。このような授業ではほとんどの学生が理解できていない」(同・平成15年度、120頁)。
 ・「教授とは教師であるのだから、研究成果より指導能力で選ぶべきである。とりあえずマトモな授業を行なってもらいたいものである」(同・平成16年度、93頁)。
 ・「『教える』という能力のある講師を採用して欲しい。教授の自己満足的授業が多すぎる」(同・平成17年度、86頁)。
 ・「…武蔵工大は何が他大学と違うのでしょうか?正直、ないと言ってもいいと思います。…小さな大学でも、きちんとした目標を掲げ、その大学にしかない技術を伸ばしたり、新しい分野で挑戦し、その成果を社会に発信し、大学の特色を出していけば魅力ある大学になると思います。魅力のない大学には生徒は集まらないと思います」(同・平成19年度、83頁)。

 問題は「公正・自由・自治」の精神が開学当初から、近代的な「個」の自覚に立つそれではなく、日本流の「世間」共同態に染め上げられ、したがって理念的に重くひび割れたそれであった点である。
 かてて加えて、決定的に問題なのは、新制大学・武蔵工業大学が誕生(1949年2月21日文部省より認可)してまもなく、五島慶太が登場し、同校が五島育英会の傘下に入ったことである。工大の歴史上、五島慶太といういわく付きの実業家が学校法人【育成会】初代理事長に就任したことは、同校の、まさに命運を決する大事件と言うほかはない。以来、今日にいたるまで、工大では建学の精神が包蔵するのっぴきならない問題―理念の矛盾・ほころび―が随所に露呈し、顕在化しつづけてきた。

● そもそも五島慶太(1882~1959)は、戦後日本の「民主主義」下―それがアメリカ譲りのタテマエ上の「民主主義」にすぎないにせよ―、「学校・私学」を経営・運営するにふさわしい人格なのだろうか。
 ・彼は中学卒後、郷里(長野県青木村)の小学校の代用教員を数年務め、20代に入って東京高等師範学校に入学→卒業後、四日市商業学校で英語教師を務める。
 ・彼は1911年、29歳で東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省→内閣鉄道院に移り、計9年間の「官僚」生活を送る。
 ・彼は戦前から戦後にかけて、実業家として八面六臂の活躍を続ける。⇒数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収し、その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとる。
 ・彼は1944年、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任する。47年、東條内閣の閣僚の廉(かど)でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放令(46年)の適用を受ける。
 ・彼は戦後から1950年代にかけて、西武の堤康次郎(「ピストル堤」の異名を持つ)との間で、箱根の観光事業をめぐる「箱根山戦争」を繰り広げ、世に「強盗慶太vs.ピストル堤」の「箱根山サルカニ合戦」と揶揄される。

 五島という人物の歩みを歴史的に見るかぎり、彼の教育観はおのずと、(ⅱ)に既述した「国家主義的」に帰結せざるをえない。彼はどう転んでも、もう一方の「教育の民主主義」を思想的射程に収めることは、とうてい不可能である。
 彼の経歴上で注目すべきは、戦前の文部省主導の中央集権的学校体制下で、東京高師(前身校は明治5年創立の「師範学校」=日本最初の官立の教員養成機関)に学び、短期間ながら「現場教師」を務めている点である。
 
 戦前の師範教育は一般に、「国家富強の源泉」(国民全体の「普通教育」の推進力)と見なされ、【技術主義】(教科内容の中心課題が「学問」よりも「教授技術」の修得にある)と【道徳主義】(知育よりも「善良なる人物」養成としての徳育に重点を置く)をもって特徴づけられる。ここでは、教育がもっぱら国家の発展の見地から手段視された結果、全体主義的画一教育が展開され、自由な思考方法と批判的精神を欠く、権力に弱い他律的精神に蝕(むしば)まれた、いわゆる「師範タイプ」というステレオタイプが生み出された。(ちなみに、師範教育の性格は、幼年学校から士官学校にいたる軍人教育―軍事技術の修得+軍人精神の涵養―の性格に相似している。)
 [註:明治19年に公布の師範学校令(勅令)(←初代文部大臣・森有礼の主導)の第1条=「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス」。この「順良・信愛・威重」の3徳目が生徒に対して、「兵式体操」=全寮制の軍隊式訓練によって植えつけられた(⇒「道徳教育の外面化」)結果、順良は屈従に、信愛は派閥根性に、威重は偽善に成り果てる。⇒師範学校出身の教師は、「上にへつらい下にいばりちらす」下士官型の人間となる。そして、「世間知らず」といわれ、「三尺下がって」ハラの中で笑われ、「先生といわれるほどのバカ」となり、社会的カタワ者になった―。]

 五島が師範学校―一応「高等」師範学校の名こそあれ―で、この種の師範教育を受けたのは、まさに多情多感な20代前半である。国家主義的・形式主義的・精神主義的な師範教育によって、彼の成長途上の人格は、どういう刻印を押されるにいたっただろうか。
 そして、20代後半の彼が学んだ東京帝大法学部、これまた国家主義的に縁取られた学校の典型である。なるほど大学である以上、一応アカデミックな学問の探究という看板が掲げられてはいる。しかし、それとて国家の必要の枠内においてのことである。
 明治19年に公布の帝国大学令(勅令)(←森有礼文部大臣の主導)の第1条は、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と規定している。学術技芸はけっして学術技芸のための学術技芸にあらずして、あくまで「国家のための」学術技芸である。さらに、その「学問」は、「純正学(ピュ―アサイエンス)」・「応用学(アップライトサイエンス)」共に「国家必須ノ学問」にほかならない(森有礼『学政要領』「修正本」)。
 日本流の国家主義的教育(←古代ギリシアのプラトン以来の「政治的教育主義」)は、教育と国家or広く社会との関係の場面で、教育を優先的に国家や社会の維持と発展との手段として把握する。ここでは必然的に、国家(官と公のごった煮)が教育を、国家の利害に関わる問題として、自分の方へ吸い上げようとする。明治維新以降の歴史上、日本の教育は「後進国」日本のキャッチアップ型「近代化」の目標【富国強兵・殖産興業・文明開化】を達成する最も効果的な手段として把握された。   
 
 五島は学生時代を通して国家主義的教育の洗礼を受け、そして戦前から戦後にかけての「社会人(教師→官僚→実業家→政治家→実業家)」時代を通して国家主義的思想にからめ捕られつづける。
 彼は日本の「国家」資本主義が形成される過程を、あわただしく貪欲に駆け抜けた。阿修羅のごとく、アコギな経営手法―株の買い占めと合併―で、ハゲタカのように弱体化した相手に食らいつき、食い散らしながら、「東急王国」を打ち立てた。彼の旺盛な事業活動⇒「強盗企業」と悪名を立てられるような商法自体が、その大枠としては、国家⇒「富国」⇒「殖産興業」のためのそれであり、その限りにおいて国家主義的色彩に濃厚に彩られている。
 
● 「私鉄王」五島と学校事業との関係をたどると、彼は1920年代から30年代にかけて、東急電鉄沿線の開発のため、土地を無償提供したり資金援助を行なったりして、積極的に学校誘致に乗り出している。東京高等工業学校(東京工大の前身)、慶大、日本医大、武蔵高等工科学校、東京府立高等学校(東京都立大の前身)、青山師範学校(東京学芸大の前身)、昭和女子薬学専門学校等々。中でも、慶大に日吉台の7万2千余坪が無償で提供され、日吉キャンパスが開設された結果、東横沿線は学園都市として付加価値が高まるとともに、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。この学校誘致が「狙った獲物は逃がさない!」五島の経営マインドがなせる、鉄道に集客するための、つまり経済上の利害得失に起因する現実的な行動であることは言うを待たない。

 彼はなぜに、教育事業を自ら営むにいたったのか。
 通俗的に言えば、大コンツェルンを築き上げた男には、「名誉」が欲しかったのかもしれない。実利を得れば、次が名誉、というのが“世間”の相場である。日本社会における名誉とは、まさに“世間”から「立派な人」だと高い評価を受けて誇りに思うことである。学校という、“世間”が「無難」視する文化事業で功績を立てて名誉を手に入れよう-この思いが彼の場合、年を追うごとに強まっていったのだろうか。[ちなみに、彼が1944年2月に死に体―敗戦が目前に迫る状況下―の東條内閣(1941.10.18~44.7.18総辞職)に入閣(在職期間はわずか5ヶ月)したことも、あるいは彼の名誉にしがみつく性癖が現われたのかもしれない。]

 だが、事態はそれにとどまるものではなく、もっと根源的というべき根拠にまで立ち入って考えられなければならない。
 巷間の噂によれば、彼は青年時代に教師を務めていたことから終生、教育事業に関心を持ちつづけ、教育活動に熱心でありつづけたとのこと。また、武蔵工業大学理事長・西村有作は1954年に辞任し、五島慶太に後事を託するに際して、次のように言明している。「人格識見力量兼備へ、その上学校教育に興味ある人などめったに有るものではありません。(ある友人から五島慶太氏を紹介された結果として―引用者注)事業人としての五島氏の力量並に影響力に付いては定評のあるところ、反面又学問に対する造詣の深い事など大いに気を引かれましたので数回面談しました。その結果学校教育に対する同氏の識見抱負熱意等、私としては同氏以外に適格者なしと思ひ込むに至りました」(前掲『五十年史』)。
 しかし、学校教育への関心・熱心or識見・抱負・熱意という場合、端的に問われるべきは、その「関心・熱心or識見・抱負・熱意」の具体的な意味内容⇒思想的ベクトルにほかならない。例えば、体よく学校教育に多大な関心があり、一生懸命努力していると言っても、いったい当の関心→努力が何に向かって、どういう理念的方向性のもとで、どういう教師と生徒の関係の結び方において規定されたものであるのかは慎重な吟味を要する問題である。

 私は躊躇なく言ってのけたい。五島にとって、【教育】は国家の【政治・経済】の発展の手段そのものであり、政治・経済上の状況判断にもとづく国家のための教育がすべてである、と。 
 彼のライフスタイル(生活行動の様式)では、教育と国家⇒社会との関係性において、どこまでも国家⇒社会の発展が先に考えられ、その目的のためにのみ教育の重要さが強調されている(⇒「政治的教育主義」)。裏を返せば、彼の思想的構えでは、人間=市民の一人一人の教育を強調して、その成果がおのずから―自然の結果として―国家⇒社会の発展や福祉の増進に寄与することを期待する考え(⇒「民主主義的教育」・「汎教育主義」)が決して形成されることはない。
 彼は根源から理解できなかったのである。人間がこと教育に関わる場合、相手が直ちに人間である以上、その人間を教育する上での方策の選択がその都度の政治・経済上の状況判断とは別途の事柄であるということを。

 私は厳しく問いただしたい。五島は人間をどう見ていたのか、人間についての思想的要件をどう考えていたのか、と。 
 人間にとって疑いのない真理は、人間が人間であるかぎり、自分で物事を感じ、考え、判断して生きていることである。人間はすべて、誰もが、時の状況がどうであろうとも、それぞれそれなりに、気力も意欲も能力ももって、人間として生きている。したがって何より肝要なのは、一人一人の人間の固有の価値と尊厳を認め、初等教育から高等教育にいたるまで、あるいはむしろ生涯にわたって、各人各様の主体的な働きを「助ける」民主主義的教育体制=「開放的な学校」=「開かれた社会」を築き上げることである。
 五島にとって、1946(昭和21)年4月に公表された、近代日本教育史上に画期的な『アメリカ教育使節団報告書』の、次のような文章(抄出)はおよそ理解の範囲を超えるものであった。
 [註:同書は「太平洋戦争」での敗戦国・日本に対する、戦勝国・占領国アメリカからの教育使節団による、日本の教育の根本的改革に関する「提案・勧告」書である。そこでは、近代教育の普遍的原理に拠って、戦前日本の「国家主義」的教育から、戦後日本の「民主主義」的教育への大転換が高らかに宣言されている。]

 「いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用いて自分自身or全世界に役立つ何かを創造する力を有している。…人間の個人差・独創性・自発性に常に心を配るのが教育者としての民主主義の精神である。…教師の最善の能力は、自由の雰囲気の中でのみ栄える。この雰囲気を備えてやるのが教育行政官の務めである。…子供たちの計り知れない資質は自由主義の陽光の下でのみ豊かな実を結ぶ。この光を供するのが教師の務めである。…どれくらい禁じらるべきかを見つけだすよりも、どれくらい許さるべきかを見つけだすことが、すべて権威の立場に立つ人々の責任なのである。これが自由主義の意味であり、その精神のあるところ、すでに民主主義は根を下ろしている」。  
 

 「理解する」=「わかる(解る=分る=判る)」とは一体、どういうことだろうか。
 「わかる」ということは、それによって自分が変わるということである。それは、ただ知ること以上に自分の人格に関わってくる何かであり、突きつめて言えば根本的な自己批判・自己反省としての自己変革の問題である。
 五島は1945年8月15日(敗戦の日)、また47年に公職追放の身となった際(51年追放解除)、自らを省みて、自らに批判の刃を向けただろうか。彼は戦前の国家主義から戦後の民主主義への、教育理念上の自己変革を、ついに果たせずに終わった。彼には「民主主義」の理念がよくわからなかったのである。
 ただし、私は彼が戦前から戦後までの生涯77年にわたって、終始一貫した、揺るぎない国家主義的教育の信奉者だったと断言するつもりはない。彼はもしかして、戦後(63~77歳の14年間)の処世上、多くの日本国民がそうであったように、いわば国家主義の身体(ホンネ・深層)に民主主義の帽子(タテマエ・表層)をかぶりつづけながら、教育事業家としての道を颯爽と歩んだのかもしれない。 
 とはいえ彼の場合、その種の二重性に支配されたとしても、明治以来身についた国家主義が変わらないままであり、民主主義がタテマエ上の理念にすぎない以上、彼の実際上の思考⇒行動が基本的に国家主義の理念を軸にして旋回することは必至である。 
  
 五島は戦後日本の状況下、性懲りもなく、教育の国家主義的な構えのままに、【育英会】を立ち上げ、教育事業を展開した。この【育英会】の傘下に入った武蔵工大では、福澤諭吉の指摘する[(ⅱ)に先述]「人を束縛してひとり心配を求むる」教育活動が促進されるにいたったのは、理の当然である。
 そこではすべて「上から」、つまり<国家(政治・経済・社会)→五島慶太=【育英会】→工大事務員→工大教員という何らかの形で「権威の立場に立つ人々」>の側から、あらかじめ基本的な学校目標が定められ、それに合わせて学生が十把一絡げに「教化」(外的な権威の要求に沿って教え化すること)の対象として取り扱われる結果、「学生は何も分からないんだから、とにかく分からせなければいけない、教え込まなければいけない―さあ、これだけ覚えなさい、身につけなさい、さあ、分かったか、分かりなさい―、そして必死に勉強してよく分かった者には、いい就職先を世話し、社会の要所に張り付かせたい」といった全学的な教学体制が整備されることになる。ここでは、トータルなキャンパス・ライフを―ほんの一握りの例外的な教師の努力(授業実践)を除いて―、学生の一人一人が人間としてそれぞれに何をどのように学ぶかの問題として工夫し構想していないために、権力・権威の主導に従順な、「他者」志向的な多くの教師が自らの教育機能を熱心かつ忠実に発揮するほどに(⇒一見恩情のこもった「教育愛」)、学生の精神にいわばメッキを施し、あげくの果てに学生自身の主体の喪失という悲劇的な事態を招くことになる。



● 【育英会】理事長・五島慶太が国家主義な構えを恬然としてさらけ出した事件の最たるものは、武蔵工大付属「原子力研究所」(所在地・川崎市王禅寺)を開設したことである。前掲『五十年史』は原子力研究所の開設のいきさつについて、こう記(き)している。
 「五島慶太理事長は、日本の原子力研究開発の遅れをとりもどすとともに、やがてわが国でも原子力や放射能の産業その他への利用が盛んになることをつとに予測し、八木[秀次]学長[昭和30年5月就任]とあい計って原子炉を主体とする研究所の開設を企図したのである。昭和33[1958]年1月、五島理事長は東急グループにおいて原子力研究所を完成し、これを本学に寄付する構想を立て、同年7月東急[電鉄]取締役会を開いて、原子炉設置を決議し、同じく9月東急[電鉄]社長五島昇を委員長とする東急系14社(五島育英会を含む)糾合による東急原子力研究グループ(TAG)を結成した。調査研究を重ねた結果、危険性がまったくなく、かつ研究用として出力100キロワットのトリガ(TRIGA)Ⅱ型原子炉を米国のゼネラルダイナミック社より輸入することになった。(下略)」([ ]内および下線は引用者)。
 結局、【育英会】は原子炉の設置に関して、1959年6月25日付けで内閣総理大臣・岸信介宛てに許可申請書を提出し、同10月7日付けで政府の許可を得る。(ちなみに、かねて病気加療中の五島慶太は、同8月14日に永眠する。)
 1960年4月1日に工大原子力研究所が正式に発足し→63年初頭に原子炉の据え付けが完了し→同1月30日に原子炉が臨界に達し→同2月4日に定格出力100kWの上昇に成功する。⇒日本の大学関係の原子炉としては、近畿大学炉(0.1W)、立教大学炉(100kW)に次ぐ第3基目の原子炉の誕生である。(cf.「武蔵工業大学原子力研究所規則」第2条:「研究所は、原子力の平和利用の研究ならびに開発をもって産業の発達に寄与するとともに、原子力関係にたずさわる技術者を養成することを目的とする。」)
  
 五島が老骨に鞭打って、原子炉→原子力研究所の立ち上げに腐心したのは、単刀直入に言えば、彼自ら国策に乗じ、時流におもねたからにほかならない。彼流の国家主義的な思想・性情は、時代の政治的・経済的・社会的な状況を敏感に感じ取っていた。
 ・1953年、米国大統領・アイゼンハワーが国連総会で、「アトムズ・フォア・ピース」=「原子力の平和利用」を提案する。
 ・1955年8月、第1回国際原子力平和利用会議がスイスのジュネーブで開催される。同年12月、日本で「原子力基本法」が制定される。1956年、日本で「原子力委員会」が発足する。
 ・1957年、「日本原子力研究所」東海研究所(茨城県東海村)が設置され、日本最初の原子炉JRR-1が臨界に達する。1960年、東京大学工学部に「原子力工学科」を創設する。 
 ここで「原子力平和利用」の虚妄のくさぐさを論ずるつもりはない。しかし最低限、次の問題点だけは押さえておきたい。
 ・20世紀後半に始まった「原子力平和利用」は、米国における第2次大戦中の原爆製造計画=「マンハッタン計画 Manhattan Project」の延長線上にある。
 ・「原子力基本法」を成立させた中曽根康弘をはじめとする国家主義者的な政治家たちは、パワー・ポリティックスの観点から核をめぐる戦後国際政治の状況(⇒核兵器保有が大国の条件となる)を踏まえて、さしあたり核の技術を産業規模で習得し、核武装という将来的選択肢も可能にする道を踏み出す。
 ・1958年1月6日、時の総理大臣・岸信介は茨城県東海村の日本原子力研究所を視察する。原子力発電に向けてアクセルを踏んだのは、戦前に東條内閣の商工相として戦時統制経済を指導し、戦後に「A級戦犯」として逮捕された岸信介その人である。彼はのちに、腹の中を正直に打ち明けている。
 「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用も共に可能である。どちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意志として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器を持たないが、[核兵器保有の]潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を高めることが出来る」(岸信介『回顧録』1983年)。「平和利用ということと軍事的利用ということは紙一枚の相違である。ある人は紙一枚すらの相違はないといっている。今日の原子力のいろいろな利用というものは、いうまでもなくみな軍事的な原爆の発達から生まれてきているものである。平和的利用だといっても、一朝ことあるときにこれを軍事的目的に使用できないというものではない」(岸信介『最近の国際情勢』1967年)。
 こうして日本における原子力開発・原子炉建設は、戦後のパワー・ポリティックスの決定的な影響下、「平和利用」のお題目を唱えながら、あくまで<核技術を有する⇒その気になれば核兵器を作りだしうる⇒核兵器の潜在的保有国になる⇒日本の大国化⇒国際社会において発言権を得る>という思想的条件のもとで進められていった。

 五島にとって武蔵工大はしょせん、鎧の上に羽織った衣にすぎない。
 彼は政商よろしく、「原子力平和利用」という名の国策=「国家の計画」に便乗して、自らが経営する工大に、「研究用及教育訓練用並びにアイソトープ生産用」を使用目的とする原子炉という「怪物」を持ち込むにいたった(cf.研究所設立予算6億7000万円)。
 彼は正当に理解できなかった。工大は戦後の学制改革により、ようやく専門学校から新制大学に昇格したものの、まだ単科大学として教育・研究上の全体的な基盤が脆弱な組織体であることを。
 彼はまた、前掲の『アメリカ教育使節団報告書』の、すこぶる重要な、次のような勧告(抄出)をまるで理解できなかった。―従来の日本の高等教育の教育課程では、「一般教育」の機会が余りにも少なく、しかし「専門化」が余りにも早く、かつ狭く行なわれ、職業教育ないし専門教育に偏していることおびただしい。「自由な思考」の背景として、また専門教育の基礎として、「広い人文主義的態度」が養われなければならない。「一般教育」科目-人文科学・社会科学・自然科学の総体-は、「学生各自がそれを「何か付け足しの、他とは切り離されたもの」と考えずに十分修得できるように「正規のカリキュラム」の中に統合されるべきである―。
 工大は「職業教育ないし専門教育」に偏した、「一般教育」をないがしろにした未熟な教育組織体である。一般教育・一般教養の発展と充実を図ることもなく、学生一人一人の「確かな学力」―将来の変化に対応しうる資質能力―も涵養できない貧寒な教育体制であるにもかかわらず、原子力(核力のエネルギー)の技術的使用、すなわち核爆弾原子炉に執心し、「原子力研究所」に巨費を投入するとは!彼は教育が人間という恐らく最も神秘的な存在を対象とする動的な営みであることを理解しようともせず、したがってまた原子力が「人間に許された限界」(ジュール・ヴェルヌ『動く人工島』1895年)を超えていることの重大さを一顧だにしなかった。

 1989(平成元)年12月、武蔵工大原子力研究所の原子炉で「冷却水漏れ事故」が発生する。
 同事故が翌90年1月4日に科学技術庁に、同1月5日に川崎市に報告される。
 90年7~8月に原因調査の結果、原子炉タンクに2箇所の貫通孔を確認する。91年3月に追加調査の結果、使用済み燃料貯蔵プールからも漏水を発見する。

 文部科学省の公告「評価した事故・故障等(原子力施設等)」 は、【事故・故障等件名】「武蔵工業大学研究用原子炉の照射室内における漏水」の「状況」について、こう明らかにしている。
 「平成元年12月4日、原子炉照射室内の熱中性子取出し口下部壁面より、水のしみ出しが見られた。その後、しみ出しに特段の変化がなく、結露の可能性もあると考え原子炉タンク水の変化を含め観察しながら平成元年12月21日まで、原子炉の運転を継続した。平成元年12月21日夕方、原子炉の運転終了後に照射室内の点検を行ったところ、熱中性子取出し口下部台上に水溜りを発見した。原因調査のため炉心構造物をすべて撤去、炉心タンク内の水を全て排出、タンク底部までの全面の目視検査を実施したほか、浸透探傷試験、発砲漏洩試験、超音波探傷を実施。この結果、原子炉タンク胴部に漏洩箇所を発見した。また、上記目視検査の際、炉心タンク内の水を全て排出したにもかかわらず、熱中性子柱床面下部空洞部よりわずかな水のしみ出しが続いたため、燃料を炉外の一時保管容器に移動させ、使用済燃料貯蔵プールを蛍光漏洩れ探検査により調査。この結果、使用済燃料貯蔵プール水の一部が熱中性子柱床面下部空洞部へ漏れて来ていることが判明した。」

 「(1990年1月5日の―引用者註)テレビ及び新聞報道によって、近隣住民など約30名が研究所に事態の説明を求めて集まった。このとき以来、地元自治会や市民グループに対する説明会・勉強会が行われ、原子炉の再開か廃止かが、常に討論の中心になった」(前掲『武蔵工業大学75年史』)。
 
 原子力研究所周辺に住む川崎・横浜の市民グループは、「武蔵工大原子炉事故を考える市民連絡会」を結成し、工大および川崎市・横浜市との話し合いを進める。そして結局、原子炉の修理・再開ではなく、廃炉を求めて署名運動を展開し、90年9月29日に1万6318名の署名を工大に提出、その後も引き続き、91年8月8日までに合計2万513名の署名を集める。
 市民連絡会は人間は放射能を創ることはできても、それを無くすことはできないという厳然たる事実を踏まえながら、事の本質をこう喝破している。
 「…住宅密集地に置かれた原子炉本体や核燃料は、現状の場所で長期間ないし半永久的な管理のもとに置かれることは避けられそうもない。これは日本全体がかかえている『原子力社会』の一面が、私たちに否応ないかたちで突きつけている厳しく困難な状況を正直に物語っている。私たちは、この現実をどう受け止め、どう対応すべきなのか。原子力時代の幕開けにつくられた一研究用原子炉の結末が引き起こしている矛盾は、原子力行政や民間の科学技術信仰がいかに底の浅いものなのかを如実に示している」(「岐路に立つ研究用原子炉―武蔵工大研究用原子炉の存廃をめぐって―」、『月刊・社会運動145』1992年4月15日、6頁)。
 

 2003年5月20日、【育英会】理事会において、原子力研究所の原子炉の廃止が決定される。
 この「廃炉」決定までに、原子炉の停止・休炉のまま、何と13年半もの日々が空転しつづけた。
 この容易ならざる暗澹たる事態は、【育英会】(←東急電鉄)に、どういう打撃と衝撃を与え、武蔵工大を、どう揺さぶりつづけるにいたっただろうか―。
by tadyas2011 | 2011-09-15 21:31 | 安田塾以外 | Trackback | Comments(0)
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