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安田塾メッセージ№30      第10回安田塾の事後報告

                                   2011年7月1日 安田忠郎
                  第10回安田塾を終えて

 第10回安田塾は、第9回安田塾(緊急集会、4月16日)のわずか1週間後の4月23日(土)に開催されました。
▲ 例会では最初、午後6時から20分ばかり、私が前回(第9回)と同じ題目「北炭幌内炭鉱で『1968年十勝沖地震』に遭遇して」を掲げて、①炭鉱災害、②炭鉱文化についてお話ししました。
 ①では、災害中最も恐るべき「ガス爆発」と「炭塵爆発」の情景が描写されるとともに、人間の生命が「消耗品」のごとく操作され軽視される実態が直視されました。事故死を遂げた者1人に対する会社側の弔慰金は130万円であり、ところが一日の生産停止に起因する会社側の損失は最小限2000~3000万円に上る―。これが1968年当時の冷厳な北炭資本の論理が帰結する事態でした。
 ②では、炭鉱労働が死と隣り合わせの過酷な労働でありながらも、そこから「炭坑節」の唄と踊りが、さらに「川筋者(かわすじもん)」→「フラガール」の物語が生まれたことが強調されました。
 

 「炭坑節」は「月が出た出た月が出た、ヨイヨイ」のフレーズで有名な、現代の盆踊りの最もスタンダードな楽曲として全国に広く浸透している。「川筋者」という、筑豊炭田を流れる遠賀川沿いに住む荒くれ者どもの物語は、東映ヤクザ映画や火野葦平『花と龍』、五木寛之『青春の門』などによって数多く描写されてきた。「フラガール」という、衰退した常磐炭鉱の町を再生する炭鉱の娘たち⇒ハワイアンダンサーの物語―福島県いわき市にある「常磐ハワイアンセンター」(現・スパリゾートハワイアンズ)誕生の実話―は、2006年9月に全国公開の映画「フラガール」(李相日監督、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品)で、今や人口に膾炙している。炭鉱労働の背後の奥行きある特殊日本的な唄や物語=文化がこうして、長い間歌われ語られ、いかに広く国民の共感を得つづけてきたことか!

 しかし、原発労働からは唄も物語も何も生まれませんでした。
 原発労働者は産業的には炭鉱労働者と同様にエネルギー産業従事者に分類されます。だが、前者の世界は、後者のそれとは根本的に異なります。
 原発労働者はずばり言いきると、その労働を被爆量測定単位のシーベルトだけで評価する世界に生息しています。一定以上の被爆量に達した彼らは、使い捨ての「労働力商品」そのものとして、原発会社から即お払い箱となります。
 現在、北海道から九州まで日本列島には、18ヶ所の原子力プラント(青森県六ヶ所村にある「六ヶ所再処理工場」を含む)が存在し、54基もの原子炉がひしめています。この狭い上に無数の「活断層」が走り、地震と噴火が続く国土に、一体なぜに、これほど多くの原発が建設されてしまったのでしょうか!
 私は原発と聞くと、いつも寒々とした印象に付きまとわれます。また現に各所の原発のたたずまいを眺めるたびに、私の背筋をうすら寒いものが走るばかりでした。ただし、私がかつて見知った失業坑夫が原発労働者(下請け)に成り果てた事態に思いをいたすときだけ、瞬間的に、原発の妙に甘酸っぱい鈍重な情景がセピア色の歴史のかなたに浮かび上がったものでした―。

▲ 次に、菊野暁(きくの・さとし)さんが約2時間(質疑応答を含む)、「教員の考課査定を考える―学校法人・五島育英会の人事制度をめぐって―」と題する講演を行いました。
 五島育英会(1955年設立)は「東京都市大学グループ」を運営する「学校法人」(私立学校法の定めるところにより設置される法人)です。同グループには現在、東京都市大学、東京都市大学付属中学校・高等学校、東京都市大学等々力中学校・高等学校、東京都市大学塩尻高等学校、東京都市大学付属小学校、東京都市大学二子幼稚園の8校が属しています。 
 学校法人・五島育英会(以下、法人)は昨年(2010年)度より、幼稚園を除く小学・中学・高校の「教育職(員)」(教員)に対し、考課査定を柱にした人事制度を導入しました。
 菊野さんは1990年に武蔵工業大学(2009年、東京都市大学と改称)付属中学校・高等学校(以下、付属中高)の教諭となり、2006年に付属中高「教職員労働組合」(以下、教労組)の委員長に就任、そして法人の導入する「新人事制度」に正面から立ち向かうにいたりました。
 

 彼の話―(1)(2)(3)(4)―の骨子は、次のとおりでした。
(1)新人事制度の導入前夜と導入経過
・法人は「事務職(員)」(事務員)に考課査定を導入(2007年表明→2008年度より査定→2009年度より賃金に反映)する。
・2008年度、法人傘下校(中学・高校)統一「生徒による授業評価アンケート」を実施する(⇒代々木ゼミナールに委託)。法人は「アンケート結果を考課査定には利用しない」と説明する。ちなみに、2006・2007年度は、各学校独自の「授業アンケート」を実施する。
・2009年11月、法人理事会は傘下校(小学・中学・高校)教員への新人事制度の導入を表明する(目的は「資質向上」であり、「賃金削減ではない」)。
・2009年12月および2010年1月、各学校で法人による新人事制度の説明会を行う(コンサルティング事業を営む「株式会社プロサーブ」同席)。
・2010年3月、各学校で法人による新人事制度の研修会を行う(プロサーブ社が説明)。
(2)新人事制度の概要
・各教員はT1~T3の3段階のいずれかに格付けされる。
・各教員は「能力」、「行動」、「目標」(自己目標管理)の各評価(S・A・B・C・Dの各評定)にもとづく(平均的な)総合評価S・A・B・C・D次第で、T3→T2→T1へ昇格し、その昇格に応じて昇給する。
・「能力」を構成する評価項目は知識技能・判断力・企画力・コミュニケーション力等、「行動」を構成する評価項目は規律性・責任性・協調性・積極性等である。
・各教員は【経験7年+直近3年間で総合評価Aを1回】でT3からT2に、【経験17年+直近3年間で総合評価Aを2回】でT2からT1に昇格する。
・各教員は格付けが上がらなければ、賃金が頭打ちになる。また、T3、T2、T1それぞれの基礎給(年齢給)および職能給に上限を設ける。一時金はS=1.15、A=1.075、B=1、C=0.925、D=0.85の割合である。
(3)新人事制度の運用の実状
・各教員は「目標設定シート」 [各欄:教科指導・校務分掌・向上目標に関する●期初時点での課題、●目標事項(期末時点での到達目標)、●目標達成への具体的取り組み事項、●期末時点での目標達成状況結果、等に記入]を作成する。
・主幹教諭(2009年度配置)・教頭・校長による、各教員(「目標設定シート」)に対する「期初面談」→「中間面談」→「期末面談」を実施する(⇒「評価結果」)。
(4)新人事制度の問題点
①同制度は教労組にとって、「わからないことがいっぱいある」制度であり、一貫した定義にもとづく制度ではない。法人の制度に関する説明自体が時に「理論値では全員がS・A評価になることはありうる」、「A評価を取るのに苦労しない制度設計をしている」、時に「Sは本当に頑張って、というレアケース。Aは到達目標などを本当に明確に上回る場合」、「Bでも評価されたと思ってほしい」と、大きくぶれる始末である。ここでは、昇格や報酬(昇給・一時金)に反映される評価・評定の基準自体があいまいである以上、評価が「評価者」の恣意にさらされ、「最終評価者」の学校長の強権的な査定につながりかねない。
②「授業アンケート」の扱いに関する法人の説明は2008年度以降、「生徒によるアンケートを教師の処遇に反映させたり、序列化させることに使わない」→「できる限りアンケートを活用して『向上目標』を立てて欲しい」→「評価者はアンケートに留意する必要がある」と、くるくる変転しつづける。
③教労組は2010年4月15日の団交で、「幾多の懸念を残したまま新人事制度を導入することに反対します。導入を延期し、労使交渉を通じて課題を詰めていく必要があると考えています」と宣言したものの、法人は結局、「実際にやってみないとわからないことがいっぱいある。しかし実際運用していく中で解決できる」と強弁し、同制度の2010年度からの導入を強行する。
④この1年間、同制度の支配下、付属中高の職場の一体感が崩れつつある。教師の多くがストレスを抱え、人間関係が悪化(萎縮や無意味な反発)しつつある…。
 

 私は彼の諄々と語る話をとくと聞きながら、しばし沈思黙考に耽ったものでした。また、彼の配付した資料=教労組機関紙「広場」における、「目標設定シート」の書き方に関する次のような文章を一読しながら、声にならない溜め息をそっと漏らしたものでした。
 「私たちは『合格〇人』『偏差値〇〇』といった目標を立てるべきでしょうか?このような数値は、個人の目標にはふさわしくない、と教労組は考えます。なぜなら生徒の成長は、教師1人だけの力でなし得るものではないからです。クラス担任としても、授業担当者としても、クラブ顧問としても、さまざまな場面で生徒を支えるのが私たちの使命です。」[第2110号(2010.6.9)]
 「(5月24日の教労組との団交で)目標設定において『教育現場の中では数値化されない目標も当然ある』との見解が法人(H総務部長)から示されています。」[第2111号(2010.6.21)]
 法人本部(事務局)は果たして、学校教育における「数値目標」の問題を、「形式合理性⇔実質合理性」(マックス・ヴェーバー)という一対の合理性に即して、まっとうに根源から理解しているのでしょうか。ここでは、「日本社会-学校教育」における明治以降の「近代化」の質を見極める透徹した歴史認識もまた、絶対に必要不可欠なものです。
 

 周知のように、2006年度以降、文科省(←2002年2月の中教審答申「今後の教員免許制度の在り方について」)の指導のもと、成果主義の発想に立った「教員評価」制度の本格的導入が、全国的な広がりを見せています。同制度は従来の「勤務評定」のような業績判定のみではなく、能力開発・育成もめざすものです。
 五島育英会はその時流に乗って、曲折をはらみながらも、2010年度に同制度の導入・実施に踏み切りました。しかし、問題は学校現場サイド=付属中高教師の多くが同制度そのものの正当性や有効性に疑義を呈し、一定の抵抗感を抱いていることです。
 

 そもそも学校には、“現場の文化”ともいうべき、教師たちの具体的・経験的な思考様式や行動様式の体系が息づいています。教師は「教師-生徒」関係を基軸としながら、現場の学校文化に生き続けています。
 したがって、この「現場の文化」を無視して断行された教員評価のもとでは、人事管理のための評価がまかり通りはしても、教育それ自体の改善―教師一人一人の力量向上や学校組織の活性化―は到底おぼつきません。

 教職という「専門職」労働は、本質的にマニュアル化しがたい、その成果自体が短期的にはとらえにくい営みです。「教える-学ぶ」というトータルな過程における「教える」という仕事はしたがって、外形的に―外から明確に―評価することは至難の業です。いかにアカウンタビリティ(説明責任)が求められる現代日本社会の状況下でも、複雑で多様で微妙で繊細な教育労働そのものを定型化された言葉や数字で要素的にとらえ価値付けることは、難事中の難事であり、慎重の上にも慎重を要する大事です。

 望ましい教員評価があるとしたら、それはどこまでも、学校現場の教育力=教師力=人間力を一層高めるるための、適時・適正・適切な“手段”でなければなりません。問題の根本は、学校現場サイドの自発性・自主性に貫かれた、教師の教師による教師のための、人材育成型の評価制度をいかにして構築することができるかにあります。

 五島育英会は果たして、この本来的な、現場教師のやる気⇒力量を向上せしめる教員評価制度を主体的に推進するにふさわしい学校法人といえるのでしょうか―。

 今回、菊野さんは正直律儀を表に立てて、閑却できない問題的な学校状況に正対する、凛とした思想的姿勢を示しました。私はその彼の誠意がこもる意味深長な言葉の数々を噛みしめながら、「五島育英会」とは一体どういう組織体なのかを、今更のように考え続けました。この私の脳裏にわだかまる考え事は、稿を新たにし、「安田塾メッセージ」の№32~№36に書き記すことにします。