2016年10月4日 安田忠郎
                  第28回安田塾のご案内

 下記の要領で開催されます。

【日時】10月30日(日)午後3時~5時
【講師】菅 直人(かん・なおと)

【テーマ】「原発再稼働で、この国は大丈夫か浜岡原発の停止から再生可能エネルギーの促進まで

★今回は元内閣総理大臣・菅直人を講師に招いて、「原発」問題に取り組みます。

安田塾(「教育・社会」問題研究会)では、これまで5回《第9回(2011年4月16日)・第14回・第16回・第20回・第24回(2015年2月7日)》にわたって、「原発」問題を取り上げてきました。
福島原発事故が勃発して既に5年が経ち、いま私たち日本人一人ひとりは、「原発」問題に対して、どう自覚的に立ち向かっているのでしょうか…。

菅さんは首相在任時(2010年6月8日~2011年9月2日)に、≪東日本大震災→福島第一原発事故≫による「東日本壊滅の危機」に直面し、生々しい苦闘を強いられました。
今回の安田塾では、その彼がこの国の「原発」問題の所在を突きとめつつ、諸国のエネルギー事情に徴した、この国の未来への展望を語ります。

【講師略歴】
1946年、山口県宇部市生まれ。
都立小山台高校卒、東京工業大学理学部応用物理学科卒。
1980年6月、衆参ダブル選挙で東京7区から立候補、4回目の挑戦で初当選。
1996年1月、厚生大臣就任、薬害エイズ問題を徹底究明し被害者に謝罪。
2009年、衆議院選挙10期目当選、政権交代を実現。
2011年3月11日 東日本大震災、東京電力福島第一原発事故が発生→第94代首相として地震災害ならびに原子力災害対策の陣頭指揮に当たる。
同年5月6日、中部電力浜岡原発に対して「(迫りくる東海地震への)安全確保がなされるまで原子炉運転を停止するよう」に要請
2016年4月30日、福島原発事故後に日本の脱原発を訴え、再生可能エネルギーの促進に努めたと評価され、ドイツのフランクフルト市から「脱原発勇敢賞」を受賞。

022.gif 福島第一原子力発電所
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002.gif 福島原発1、3号機爆発映像


039.gif「浜岡原発」停止要請―2011年5月7日付の東京新聞及び静岡新聞
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【会場】武蔵野商工会館4F市民会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
Tel:0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map/

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

  024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
     今回ご参加を希望される方は、10月23日(日)までに、下記にご一報ください。
     055.giftadyas2011@excite.co.jp 
                                   2016年3月9日 安田忠郎
                  第27回安田塾のご案内

 第27回は昨今、世界・マスコミを賑わす「イスラム国(IS=Islamic State)」の問題を取り上げます(cf.http://www.ibtimes.com/isil-isis-islamic-state-daesh-whats-difference-1693495)。
 私は昨年11月14日、慶應義塾大学で開催の「『戦後70年』を問う」シンポジウムで、パネラーとして発言。「日本の〈きな臭い〉今日的状況は今後、何事~地獄絵を呈する事態~が起きても不思議ではない〈危機〉そのものである」旨の主張を展開しました。
 その発言内容は多少なりとも、第1次大戦→第2次大戦の問題状況に加えて、中東問題(パレスチナ問題)の歴史的文脈に関わる国際紛争の「玉突き現象」が意識されたものでした。

 今回は、この私の問題意識・課題意識が流露するままに、講師に「エジプト地域研究」に造詣があり、IS問題に詳しい西舘康平さんをお迎えした次第です。
 なお、西舘さんには、ここ2年ばかり、安田塾の運営にいろいろとお力添えをいただきました。そして、今回の講師もご快諾いただいたこと。ここに記して感謝の意を表します。

 下記の要領で開催されます。

【日時】2016年4月9日(土)13時30分~17時
【講師】西舘康平(にしだて・こうへい) 
【テーマ】「『イスラーム国』が作り上げる仮想現実と実態~情報の受け手と送り手の観点から「現実」の再構成を目指して~

【講師の略歴】
1989年、埼玉県大宮市生まれ。
2010~2011年、エジプトのアレキサンドリア大学文学部に留学。
2014年、東京外国語大学大学院総合国際学研究科地域専攻・修士号取得。
現在、同大学院国際社会専攻博士課程後期に在籍。
2014年10月から「公益財団法人・中東調査会」非常勤研究員。

専攻:エジプト地域研究(灌漑開発政治、現代政治)、ナイル川流域の水資源をめぐるHydropolitics。
主な著述:『「イスラーム国」の生態がわかる45のキーワード』(明石書店)、「エチオピアのグランド・ルネッサンスダムをめぐるエジプト国内の政治的攻防」(Asahi中東マガジン)など。

【講師の言葉】
2015年初頭の邦人2名の殺害等をうけて、「イスラーム国」が日本のメディアを騒がせてから約1年が過ぎましたが、未だ報道が絶えません。
この事件をきっかけに、中東に関心を持った方もおられると思います。
しかし、実際のところメディアが犯行声明を流すこと自体、彼らの広報活動の一環です。
これに敏感に反応して恐怖や憤りを感じたり、「中東の混乱=宗派紛争」のイメージを持つことは、広報活動の成功に繋がります。
そこで今回は『「イスラーム国」の生態がわかる45のキーワード』に基づいて、彼らの広報活動の「カラクリ」とその実態について説明させていただきます。
結果、その向こう側にある中東の実像を皆様と共有できれば幸いです。


■2014年6月、イスラム教スンニ派過激派組織「イラク・シャムのイスラム国」(ISIS)は、「イスラム国」(IS)の建国を宣言。ISが主張する「領土」は、シリアからイラクにまたがるが、その境界は一定ではなく、現在も各地で攻防が続いている。
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【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
Tel:0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map/

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料

  024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
     今回ご参加を希望される方は、4月6日(水)までに、下記にご一報ください。
     055.giftadyas2011@excite.co.jp 
                                   2015年9月30日 安田忠郎
                    第26回安田塾のご案内

 下記の要領で開催されます。

【日時】2015年10月31日(日)13:30~17:00
【講師】渡辺 豪(わたなべ・つよし)
【テーマ】「沖縄の米軍基地の問題~沖縄・辺野古から見える日本の行き着く先~」

【講師の略歴】
1968年、兵庫県生まれ。関西大学工学部卒。
1992~98年、毎日新聞社記者。
1998~2015年3月、沖縄タイムス社記者(特別報道チーム兼論説委員)。

【講師の主要著書】
『「アメとムチ」の構図~普天間移設の内幕~』(沖縄タイムス社、2008年)[第14回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞]
『基地の島沖縄 国策のまちおこし~嘉手納からの報告~』(凱風社、2009年)
『私たちの教室からは米軍基地が見えます~普天間第二小学校文集「そてつ」からのメッセージ~』(ボーダーインク、2011年)
共著(インタビューアー)『この国はどこで間違えたのか~沖縄と福島から見えた日本~』(徳間書店、2012年)
共著『波よ鎮まれ~尖閣への視座~』(旬報社、2014年)[第13回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、新聞労連ジャーナリズム大賞・優秀賞]

【講師の言葉】
沖縄県の名護市辺野古での米軍(海兵隊)基地建設が修羅場を迎えています。
新基地建設は今後の沖縄社会内部、沖縄と日本本土の関係、日米関係にどのような影響を及ぼすのか。
新たな安保法制の成立とともに、日本の行く末にかかわる問題であるとの認識を、多くの方々と共有できればと考えています。
10月中旬に刊行予定の拙著『日本はなぜ米軍をもてなすのか』(旬報社)の内容を基に、「沖縄から見えた日本の本質」についてお話しさせていただきます。


  沖縄の辺野古(大浦湾)の真っ青な美しい海
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【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料

  024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
     今回ご参加を希望される方は、10月28日(水)までに、下記にご一報ください。
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                                  2015年4月20日 安田忠郎
                    第25回安田塾のご案内

 第25回安田塾は、下記の要領で開催されます。

【日時】5月24日(日)午後1時30分時~午後4時30分
【講師】豊田龍二(とよた・りゅうじ)

【テーマ】「陸上自衛隊の国内外における様々な活動~個人的な体験を踏まえて~

【講師略歴】
1971(昭和46)年、鹿児島県生まれ。
1994年、防衛大学校を卒業し、陸上自衛隊に入隊。
1999年から2年間、米国コロンビア大学大学院に陸上自衛隊から留学、「国際関係修士」取得。
2007年2月~9月、中東ゴラン高原におけるPKO(国連平和維持活動)に日本隊の隊長として派遣。
2009年から1年間、アメリカ海兵隊指揮幕僚大学(Marine Corps Command and Staff College)に留学。
現在、陸上幕僚監部・教育訓練部の教育班長(一等陸佐)として、陸上自衛隊の教育全般を所掌。

【安田の寸評】
・私は1999~2000年にコロンビア大学東アジア研究所EAIに在任中、同大学大学院SIPAに留学中の豊田さんと初めて出会いました。彼は第18回安田塾(2013年2月9日)講師の伊藤弘(現・第4護衛隊群司令)さんとは、同大学院において同期生でした。
・第18回同様、今回も彼の率直な情報発信を手がかりに、防衛省・自衛隊という巨大組織の現実を具体的・多角的に考えることができれば幸いです。

パレスチナとイスラエル周辺地図
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【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、5月20日(水)までに、下記にご一報ください。
   055.giftadyas2011@excite.co.jp

                                     2015年1月1日 安田忠郎
                     第24回安田塾のご案内

 下記の要領で開催されます。

【日時】2015年2月7日(土)午後1時30分~4時30分
【テーマ】 「福島第一原発事故のいま」

 今回は科学ジャーナリスト(元原発設計技師)の田中三彦(たなか・みつひこ)さんのお話を伺います。
彼はかの国会事故調(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)の委員(2011.12~2012.7)を務められた当の人物です。

当日のお話は、
・1号機事故原因の謎
・葬り去られる国と東電の「不作為」
・暴走する原子力規制委員会

を柱に進められます。

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福島第一原発事故による海洋汚染予測(海洋汚染系)
出典: NOAA(米国国家海洋気象局)、US Navy(米国海軍)、GEBCO

田中三彦
さんのプロフィール:
1968年、東京工業大学生産機械工学科卒業。
68-77年、バブコック日立株式会社で原子炉圧力容器の設計などに従事。
73-74年、福島第一原発4号機原子炉圧力容器の構造解析を担当。
77年からフリー。主に自然科学関係の著述・翻訳に従事。

<主著>『原発はなぜ危険か』(岩波新書、1990年)、『科学という考え方』(晶文社、1992年)ほか。
<訳書>レナード・ムロディナウ『たまたま~日常に潜む「偶然」を科学する~』(ダイヤモンド社、2009年)、アントニオ・R.ダマシオ『デカルトの誤り』(筑摩書房、2010年)ほか。

【会場】武蔵野商工会館5F 第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7 
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」北口(駅前ロータリー)・徒歩5分
(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、2月2日(火)までに、下記にご一報ください。
    055.giftadyas2011@excite.co.jp 

◆会場の定員を超えて、お断りする場合以外、特に 返信メールは差し上げませんので、そのままお出でください。
◆例会終了後の懇親会=新年会(午後5時~7時、実費4000円前後?負担)についても、ご参加の場合は、その旨併記してください。


                                    2014年7月8日 安田忠郎
                    第23回安田塾のご案内

 下記の要領で開催されます。

【日時】2014年9月28日(日)午後1時30分~4時30分
【講師】原田宏二(はらだ・こうじ)
【テーマ】「冤罪被害に遭わないための『犯罪捜査学入門』」

【講師の略歴】
1937年、北海道生まれ。
1957年、北海道警に採用される。警察庁出向、道警本部防犯部長などを経て、95年に釧路方面本部長(警視長)で退職。
2004年、道警の裏金問題を告発。
現在、「市民の目フォーラム北海道」代表として、警察改革をめざして全国で活動中。

【講師の著書]
『警察内部告発者』(講談社、2005年)
『警察VS.警察官』(講談社、2006年)
『たたかう警官』(ハルキ文庫、2009年)
『警察崩壊』(旬報社、2013年)ほか。

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【講師の言葉】
 警察が第一次捜査機関となり、現行刑事訴訟法が施行されてから、既に66年を経過した。
 その間、多くの冤罪事件があった。近年になっても、布川事件、足利事件、氷見事件、志布志事件、東電OL事件などがある。袴田事件では再審も決まった。このほか、嫌疑不十分で不起訴になった小樽市・女性殺人事件、警視庁等による遠隔ウイルス事件の誤認逮捕など、いわゆる「隠れ冤罪」も目立つ。
 冤罪事件等の多くは、刑事司法の入り口にある警察の犯罪捜査の過程でつくられる。いったん警察に被疑者として逮捕されると、長期間身柄を拘束され、職を失い、マスコミの実名報道で名誉も失う。推定無罪の原則が無視されている我が国では、そのダメージは計り知れず、回復は不可能に近い。
  刑事訴訟法の裁判所、検察官、弁護士の役割が正しく機能すれば、警察の違法捜査は糺されるはずだが、現実にはそうなってはいない。違法捜査に対しては、国賠訴訟という制度もあるが、様々な弊害もあり、原告の市民が勝訴できる比率は10%を下回る。
 冤罪被害者の多くは、主婦、会社員、学生等の普通の市民だ。市民の多くは、警察の実態も警察の犯罪捜査の実態も知らない。刑事訴訟法による捜査手続きについては無知に近い。それに対して、警察官は犯罪捜査のプロである。市民の無知に乗じた違法捜査が公然と行われている。
 そうした現状の下で、取り調べの全面可視化は進まず、捜査の高度化の名の下に、通信傍受の拡大や盗聴法の制定等、捜査権限の強化が行われようとしている。
 市民の多くは冤罪を他人事と考えている。自分の身に降りかかって初めて、警察の犯罪捜査の実態を知り憤る。それでは遅い。冤罪等の被害に遭わないためには、市民の一人ひとりが、警察の犯罪捜査に関する基本的な知識や対応策を知り、まずは自分の権利は自分で守る心構えが必要だ。

【会場】武蔵野商工会館5F 第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7 
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」北口(駅前ロータリー)・徒歩5分
(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、9月21日(日)までに、下記にご一報ください。
    055.giftadyas2011@excite.co.jp 
                                    2014年4月6日 安田忠郎
                    第22回安田塾のご案内

 下記の要領で開催されます。

【日時】2014年5月11日(日)午後1時30分~4時30分
【講師】奈賀悟(なが・さとる)
【テーマ】「アジア最下層~バングラデシュ、CSWスラムより~」

【略歴】
1960年、北海道・陸別町生まれ。
1986年、朝日新聞社入社。
 北海道報道部(札幌)、社会部(名古屋)、大牟田通信局(福岡)、地域報道部(東京)など。
1999年から、バングラデシュに休暇をとって年2回通う。
2010年、朝日新聞社早期退職。
 最後は東京編集局デスク(生活)。
退社後、年平均2か月バングラデシュに滞在する。

【主要著書】
閉山-三井三池炭坑1889-1997』(1997年、岩波書店)
(著者は丹念な取材と調査に基づき、三池110年の歴史を見事にまとめ上げた。そこには、三池争議や三川坑の炭塵爆発のような大きな歴史だけでなく、三池に生きた人の声を拾った小さな歴史が刻まれている。)
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『日本と日本人に深い関係があるババ・ターニャの物語』(2001年、文藝春秋)

【最近作】
「筑豊の犬、須美の心」(2013年、新国立劇場=南果歩主演の「パーマ屋スミレ」パンフレット解説)

【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7 
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」北口(駅前ロータリー)・徒歩5分
(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、5月7日(水)までに、下記にご一報ください。
   055.gif tadyas2011@excite.co.jp  
                                  2014年2月1日 安田忠郎
                    第21回安田塾のご案内

 半年ぶりに安田塾の会合(第21回)を開きます。
 私は昨年8月の第20回の終了後、札幌→沖縄→アメリカ・ニューヨークを巡りました。特にニューヨークには2か月余滞在しました。

 今回は、下記の要領で開催されます。
【日時】2月22日(土)午後4時~7時
【会場】CURRY&COFFEEのお店「草の実(くさのみ)」
【住所】東京都武蔵野市中町1-24-16 杉山ビル1F 
【tel】0422-36-2270
【アクセス】JR三鷹駅・北口より中町新道(なかちょうしんどう)を東に向かって、吉祥寺方面へ徒歩3分

■ 最初1時間半~2時間ばかり、照山直子(てるやま・なおこ)さんが
「宣教師ロプシャイトと日本のことなど」と題して講演する。

【照山直子の略歴】
 早稲田大学大学院文学研究科博士前期課程修了
 英文学(19世紀ヴィクトリア朝の詩人)専攻      
 現在、亜細亜大学非常勤講師

【照山直子の言葉】
ヴィルヘルム・ロプシャイト(Wilhelm Lobscheid、1822~93)は、19世紀半ばに中国に派遣されたドイツ人宣教師である。
彼の功績として一番知られているものは、1866年から1869年にわたって彼が出版した『英華字典』である。それが日本に渡り、井上哲次郎は、『羅存徳原著、井上哲次郎訂増 英華字典』を刊行した(羅存徳とはロプシャイトのこと)。
彼は「思想」「経済」「失業」など、それまで中国語の語彙になかった概念を漢字であらわした。そのまま日本語になったものも多く、日本人が受けた影響は思いのほか大きい。
また、彼は1854年末、日米和親条約批准の通訳として来日してもいる。日本と日本人に関する彼の観察も興味深い。
謎が多いとされているロプシャイトであるが、これまでに明らかになっていることをいくつか紹介したい。」

■ 次に残り1時間ばかり、私・安田が
“ニューヨーク物語”をお話しする。
それは、1999~2000年のニューヨーク滞在以降今日まで、私が身をもって体験したニューヨーク⇒アメリカに関する具体的なエピソードを連ねた雑談である。

■ 今回は軽食(前半はコーヒー・紅茶・ジュース、後半はカレーライス・ハヤシライス等)をとりながら、照山さん→私によるトーク(talk)を楽しむ。
参加費は原則として、軽食代の実費負担。予算は1000~2000円ぐらい。

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、2月19日(水)までに、下記にご一報ください。
    055.giftadyas2011@excite.co.jp
                                  2013年7月15日 安田忠郎
                    第20回安田塾のご案内

 第20回安田塾は、下記の要領で開催されます。
【日時】8月17日(土)午後2時~4時30分
【講師】松本明倫(まつもと・あきみち)
【テーマ】「福島原発事故に直面して~一学校教師として考えたこと~」
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   ↑ チェルノブイリ原発事故現場から見る安全圏内(事故から20年後の2011年現在)

【講師略歴】
1959年、福島県白河市生まれ。
武蔵工業大学機械工学科卒業。
1989年、福島県立喜多方工業高等学校教諭。
以来、教職16年(福島県立高校の教諭13年→教頭3年)、教育行政職(福島県教育庁)8年。
2013年4月から福島県立平工業高等学校校長、現在にいたる。

【テーマ項目】
(1)はじめに
・自己紹介
(2)福島県について
・風土、産業、歴史上の人物
(3)そして、あの時
・平成23年3月11日(金)午後2時46分
(4)震災直後の福島
・福島原発事故に直面して
・政府や東電の対応について
(5)世論について
・「脱原発」と「原発推進」の議論
(6)学校教師として考えたこと
・現在の福島の状況と福島の教育
これからの未来を担う子どもたちの、たくましく生き抜く力を育てるために
(7)まとめ
・先人に学ぶ

【講師の言葉】
「昨年3月の時点、私は南相馬市にある相双教育事務所に勤務。震災当日(3月11日)は、所長以下数名の職員とともに、出張先の福島市で大きな揺れを体感。その後、解散の指示を受け、渋滞の中、実家のある白河市に車で急行。家族の無事を確認し、翌12日は南相馬市に戻る。12日・13日は電話やメール等の通信手段が機能せず、情報収集は専らテレビからという状態。14日、被害状況を把握するため、相双北(新地・相馬)方面に向かって、同僚とともに車で国道6号線を北上。途中、鹿島区(南相馬市)にさしかかった時、一面が津波で押し流された船舶や瓦礫で覆いつくされ、はるか彼方に(以前は家々が立ち並んで見えるはずのない)水平線が見える光景を目の当たりにして、言葉を失う。
 福島第一原発の事故によって、多くの県民の生活が一変。特に放射線に対する県民の不安は大きく、子どもたちの健康被害を心配するあまり、保護者等から校庭やプールを活用した屋外活動や給食配給の是非等について、学校・教育委員会及び教育事務所に対して苦情や問い合わせが殺到する。…」

【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、8月14日(水)までに、下記にご一報ください。
   055.gif tadyas2011@excite.co.jp
                                  2013年3月20日 安田忠郎
                    第19回安田塾のご案内

 第19回安田塾は、下記の要領で開催されます。
【日時】2013年4月20日(土)午後2時~4時30分
【講師】白石広子(しらいし・ひろこ)
【テーマ】「じゃがたらお春伝説の検証~」

【講師略歴】
1944年、大阪市に生まれる。
学習院大学の学部・大学院で日本語日本文学専攻。
夫君のジャカルタ赴任で1980~90年代の8年間、同地に居住する。 
近世異文化交流史研究家、東京大学ユーラシア科研研究協力員。

【講師著書】
『じゃがたらお春の消息』勉誠出版、2001年
『長崎出島の遊女』勉誠出版、2005年
『バタヴィアの貴婦人』新典社、2008年
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【安田の寸評】
・私は学生時代からこの方、広義の異文化交流・国際交流をめぐる心(ex.愛憎)の葛藤の物語に磁石のように惹きつけられつづけてきました。そこでは岡倉天心(安田塾メッセージ№19参照)・森鴎外・夏目漱石・永井荷風のような大物文人の思想的たたずまいもさることながら、大黒屋光太夫(1751~1828)・ジョン万次郎(1827~98)・楠本イネ(1827~1903)・唐人お吉(1841~90)・川上貞奴(1871~1946)・岡田嘉子(1902 - 92)のような一私人の人間的・実存的たたずまいが、私の問題意識を刺激しつづけました。そして私の場合、この後者の系譜をたどりながら、ヤジロー(アンジロー、1511?~50?、「日本人最初のキリスト教徒」)・高山右近(1552~1615、「代表的なキリシタン大名」)、さらに“じゃがたらお春”(1625?~97)…にも行き合いました。
・じゃがたらお春は江戸時代初期に鎖国でバタビア(ジャカルタ)へ追放された、長崎生まれの混血女性(父・イタリア人+母・日本人)。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれた「じゃがたら文(ぶみ)」で巷間知られています。
・異文化交流史研究・洋学史研究に造詣が深い白石さんは、「主に長崎出島を舞台とした異文化交流から、現代に通じる日本人の国民性、国のかたちを考える」観点に立って、お春の実像を追い求めつづけ、お春像を「国際人として生きた日本人の先達」として再構成しました。

【余談】
 私・安田はコロンビア大学東アジア研究所に在任当時(1999~2000年)、ニューヨーク市立大学の霍見芳浩(つるみ・よしひろ)教授に種々お世話になりました。
 彼は慶應大学経済学部助手を経て、1968年米国ハーバード大学で日本人初の経営学博士号(DBA)を取得、そしてカナダのクイーンズ大学→ハーバード大学→コロンビア大学→カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の各教授を経て、1980年より現職。
 私は滞米中、彼が「第一級の国際感覚を持った知識人」との世評を得ている事実を知らされつづけました。オープンでストレートな彼の発言の数々は、常に私の耳目を奪ったものでした。彼は私に向かって、しばしば「国際的に生きるとは、どういうことか」をテーマ化し、例えば次のような話題を提供してくれました。
・「今の日本には型破りの人材―国際感覚や歴史感覚を身につけた、そして社会正義感にあふれた人物―が必要である。」
・「日本人はディベートがあまりにも下手で、感情が表立ちすぎる。」
・「英語の重要性が世界的にとみに高まっているものの、いまだに日本は北朝鮮と同等レベルである。日本人は中学・高校・大学の長い間、英語教育を受けながら、そして海外に自由に渡航できるにもかかわらず、ほとんどが英字新聞一つ読めない。それを恥とも思っていない事実が空恐ろしい。」

【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、4月17日(水)までに、下記にご一報ください。
   055.gif tadyas2011@excite.co.jp
                                  2013年1月10日 安田忠郎
                    第18回安田塾のご案内

 第18回安田塾は、下記の要領で開催されます。
■例会
【日時】2月9日(土)午後2時~4時30分
【講師】伊藤 弘(いとう・ひろし)
【テーマ】「海上自衛隊の今海賊対処活動を念頭に~」

【講師略歴】
1965年、千葉県市川市生まれ。
防衛大学校卒業。海上自衛隊幹部候補生学校卒業。
1999年から2年間、米コロンビア大学大学院に海上自衛隊から留学、国際関係論修士課程を修了。
海上幕僚監部補任課長・一等海佐。

【安田の寸評】
・私は1999~2000年にコロンビア大学東アジア研究所EAIに在任中、同大学大学院SIPAに留学中の伊藤さんと初めて出会いました。
・彼は2010.12.1~2011.5.9、海賊対処法(「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」2009年6月24日公布)に基づき、「派遣海賊対処行動水上部隊(第7次隊)」の指揮官(第7護衛隊司令)として、ソマリア沖・アデン湾における海賊対処活動を遂行しました。
・彼は現在、日本国家の「安全保障」の最先端に位置する防衛省・海上幕僚監部の主要幹部の一人です。ちなみに、「一等海佐」は諸外国海軍および旧日本海軍の大佐(将校・佐官の最上級)に相当します。
・防衛省・自衛隊とは何か。それは事実問題として、予算4兆円超・23万人を抱える巨大組織である。この紛れもない事実・現実に、私たち「民主主義」国家・社会の構成員はどのように正対し、思想的に振る舞うべきか―。例会では、国際環境下の国家(国民+領土+主権)のリアルな重い現実を直視する彼の率直な情報発信が期待されます。
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【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 大学生500円 高校生以下無料 

■例会が終了次第、講師を囲んで懇親会を開きます。

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   今回ご参加を希望される方は、2月4日(月)までに、下記にご一報ください。
   055.gif tadyas2011@excite.co.jp
                                    2013年1月1日 安田忠郎
                      
                 第6回教員免許状更新講習を終えて

 私は2008年に財団法人・大学セミナーハウス主催の「教員免許状更新講習」のプロジェクトリーダーを務めました。そして、2009年に法人の「教員免許更新センター」長に就き、同講習を推進しつづけてきました(安田塾メッセージ№1~3参照)。[なお、大学セミナーハウス(〒192-0372 東京都八王子市下柚木1987-1、1965年開館、通称「八王子セミナーハウス」)は、2011年4月1日付で公益財団法人に移行する。]

 第6回教員免許状更新講習は昨年(2012年)12月24日~27日に開かれました。
 ここでは、4日間にまたがり、必修4講座(A1~A4、各3時間・計12時間)+選択6講座(B1~B6、各3時間・計18時間)=総計10講座(30時間)が開講され、各講座⇒全講座の試験に合格すれば修了証が交付されます。

 各講座名→担当講師は、次の通りでした。
A1【現代の学校教育が問われているもの】 
  →私・安田    
A2【現代心理学からみた子どもの発達と教育】 
  →高垣マユミ(実践女子大学生活科学部教授)
A3【学校改革・教育改革】 
  →私・安田
A4【安心・安全な教育環境づくりと危機管理体制】 
  →内藤昌孝(元神奈川県立教育センター所長)
B1【何のための教師~「子どもから」神話からの解放をめざして~】 
  →山内芳文(聖徳大学児童学部教授)
B2【現代日本社会における子どもの問題行動と教師の役割】 
  →私・安田
B3【異文化理解と共生の教育】 
  →小川彩子(米国州立シンシナティ大学UCBA助教授)
B4【教師のための環境サイエンス~日本の近代化と環境問題・環境教育~】 
  →吉田真史(東京都市大学知識工学部教授)
B5【グローバル教育者に変身!】 
  →小川彩子
B6【日本人の「人格形成」における特殊日本的エートス~日本文化のアイデンティティに即して~】 
  →私・安田 

 私の各講座内容の主要項目をかいつまんで告げると、
A1【現代の学校教育が問われているもの】 
(1)日本と世界の関係の一大構造変化
 ・「単一の文化宗主国に対する上下垂直関係」から「前後左右の水平多項構造」へ
(2)日本の「近代化」と学校教育の歴史
 ・幕末維新期=「第一の開国」」⇒「第一の教育改革」
 ・太平洋戦争前後=「第二の開国」」⇒「第二の教育改革」 
 ・現在=「第三の開国」」⇒「第三の教育改革」
(3)教師とは何か
 ・教師聖職論―「師範学校令」(1886年)
 ・教師労働者論―日教組「教師の倫理綱領」(1952年)
 ・教師公務員論
 ・教師専門職論―ILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」(1966年)

A3【学校改革・教育改革】
(1)「学力」の構造と「学習指導要領」の変遷―経験主義vs.系統主義
(2)1890年「教育勅語」と1947年「教育基本法」
(3)「教育基本法」の改正(2006年)
(4)戦後日本社会に民主主義は定着しているか
(5)幕末維新期に来朝の欧米人が展開する「日本及び日本人」論
(6)教育における「定期航路方式」と「大航海方式」

B2【現代日本社会における子どもの問題行動と教師の役割】
(1)1973年「石油ショック」に伴う、戦後日本の産業構造上の大転換
(2)高度経済成長と教育拡大(教育爆発)
(3)戦後の青少年問題・教育問題
 ・1968年10~11月「永山則夫連続射殺事件」
(4)1970年代後半以降に噴出する「学校病理」現象
 ・1977年10月「開成高校生殺人事件」
 ・1986年2月「中野富士見中学いじめ自殺事件」
(5)日本社会の「国際化」に対応した教育のあり方
(6)教師の「力量」とは
(7)「信頼される大人・教師・学校」となるために

B6【日本人の“人格形成”における特殊日本的エートス―日本文化のアイデンティティに即して―】 
(1)日本人とは何か―日本民族の伝統的な考え方(宗教)
 ・日本的共同体の構成原理
 ・「和」の信仰
 ・「ケガレ」忌避の信仰
 ・「言霊」信仰
 ・「怨霊」信仰
(2)日本人とは何か―日本人の精神構造の核心
 ・イザナキ-イザナミ神話と「見るなの禁止(タブー)」(『古事記』)
 ・ギリシア神話におけるオルペウスとエウリュディケー
 ・ソクラテスの「ギュゲスの指輪」(プラトン『国家』)
 ・「恥‐原悲」vs.「罪‐原罪」

 同講習は第1回このかた世評を得て、第2~5回は定員60名を大幅に上回り、今回もまた小中高の教職経験者81名(現役69名+非現役12名)が受講しました。 

 ≪受講者81名の内訳≫
 性別―男44名、女37名
 年代別―30代21名、40代31名、50代29名
 学校別―小学校13名、中学校23名、高校20名、中学高校9名、養護学校1名、特別支援学校3名、その他12名(非現役)
 都道府県(現住所)別―東京31名、神奈川22名、埼玉10名、山形・千葉・山梨・長野各2名、岩手・宮城・福島・栃木・茨木・静岡・大阪・岡山・佐賀・沖縄各1名

 受講者はこぞって、4日にわたるハードなスケジュールに追いまくられながらも、全講座に熱心に取り組み、講習を無事終えることができました。彼らは各講師の話をとくと聞き、きちっと理解しようと一筋に努めていました。

 講習の終了後、受講者全員に「本講習・各講座の具体的内容」に関するアンケートが実施されました。
 結果、アンケートの回答者81名(無記名8名+記名73名)の大多数が「講習」全般に高い評価(自由意見)を下しました。好評嘖々(さくさく)たるものがありました。その一端をうかがうと、

・西影芳一さん(50代の非現役)いわく、「受講する前は、どうせお上の作った下らない制度だから早くこういう制度がなくなったらいいと思っていた。しかし実際、受講してお世辞ではなく、本当に有意義で受講料がかえって安いくらいに思えた。安倍晋三氏が意図したものとは違っているのかもしれないが、この内容なら免許状更新の制度は正解だったような気がする。講座内容の細かいことなら少しは問題もあろうが、私は本当にここで受講して良かったと思っている。」
・永島良幸さん(40代の高校教諭)いわく、「とても良かった講習でした。講師の先生方はとても真面目に取り組み、とても良い雰囲気でした。私自身、当初は申請講習そのものに否定的でしたが、講義を聞くうちに、考えも変わりました。それもひとえに先生方のおかげだと思います。今後の私の教員生活に活かせることがたくさんありました。」
・下田知子さん(30代の高校教諭)いわく、「正直なところ、はじめは“めんどうだなあ”という気持ちが強く、ただ“聞く”だけの講義かと思っていましたが、色々と考えさせられることが多くあり、大変勉強になりました。」
・谷中哲也さん(40代の中学高校教諭)いわく、「はじめは30時間の講習!とおびえていましたが、実際の4日間は実に楽しく面白く受講できました。大学生のときよりも経験を積み、知識も蓄えたからか、一睡もせずに!講師の先生方のどんな話も真剣に聞き入り、その考えと経験に本気で学びました。講習を終えて実感したことは、自分は何もわかっていない!ということです。これから先いつまでも、あらゆることを貪欲に学び続けていきたいと、今回思いを新たにした次第です。」
・石井一史さん(30代の中学教諭)いわく、「正直30時間というのはかなりキツかったのですが、どの講師の先生も個性豊かで、とても熱心に教えて下さり、先生方の一挙一動がとても印象に残っています。また全国から集まった先生方とも交流する機会があり、貴重な体験となりました。4日間、長いようで短いものでした。ありがとうございました。」
・町田孝一さん(50代の中学教諭)いわく、「予想していたよりも格段に充実した受講ができました。日常の勤務の中では、なかなかできない経験でした。講師の方々に感謝します。」
・神田美由紀さん(40代の中学教諭)いわく、「この講習に参加できて本当に良かったと思いました。自分が信じてきたこと、拠りどころとしてやってきたことが、これで本当にいいのかと見直すことができる、いい機会になりました。4日間、常に『今のままでいいのか?』と疑問を投げかけられ、心がゆさぶられ続けていました。」
・椹 真幸さん(50代の特別支援学校教諭)いわく、「たいへん勉強になりました。本講習会に参加して良かったです。講師の先生方もそれぞれ個性的な方ばかりで、すばらしかったです。全体を通して、自分が『学んでいく』姿勢、“自ら考え、行動し、学ぶ”ことの大切さを知りました。ありがとうございました。」

 そして、多岐に分かれる各「講座」評(自由意見)の場合、私の担当する4講座が受講者81人中の30人によって対象化され、30人すべてからポジティブな評価を得ました。
 その評言の多くは、人生の妙諦を知る熟年のオジサンの琴線に触れるものでした。教育者冥利(みょうり)に尽きると言うべきでしょうか。例えば、私の学問的な価値を見分ける彼らのまっすぐな言葉の一端は、次のようなものでした。

 和田吉重さん(50代の養護学校教諭)いわく、「受講スケジュールをもらって、一番気がかりだったのは、全講座の十分の四を担当する安田さんがつまらない話をする人だったら、どう時間をやり過ごそうかということでした。結果、取り越し苦労で終わってよかったです。逆に大変よい刺激になりました。教養と批判的精神について学ぶところ大でした。」
 藤田 聡さん(40代の高校教諭)いわく、「私にとって毎日、安田先生のお話を聞くことができたのは幸運でした。先生の数々の問題提起を真剣に受け止め、大いに考えさせられ、触発されつづけました。批評家・思想家といってよい広い教養とそれを総合してテーマ化していく先生の力には敬服しました。」
 長井友理子さん(40代の中学教諭)いわく、「安田先生の講座に、全般的に共鳴と申しますか、納得いくところがありました。もともと“歴史的なもの=『流れ』を知りたい”という気持ちが強いものですから、ハマったのだと思います。先生のいう『鳥の目』と『虫の目』、両方必要なのが教育現場ですので、改めて自分の得手・不得手を確認し、偏りのない教育活動に取り組みたいと思います。」
 樋口 崇さん(30代の中学高校教諭)いわく、「安田先生の講座では、学校教育の諸問題の背景がよく理解することができ、今後の教員生活の中でどう考えるべきかの方向性を見いだすことができました。」 
 宮寺由香さん(30代の小学教諭)いわく、「安田先生のお話は、日本及び日本人の歴史的・文化的背景を盛りだくさんに丁寧に説明していたので、消化不良を起こしながらも、私なりに必死に110%くらい頭を働かせて聞いたり考えたりしました。これから毎日5分でも10分でも幅広く勉強するようがんばります。」
 吉田明宏さん(40代の小学教諭)いわく、「安田先生の各講座は、興味深く拝聴いたしました。講座の『柱』『テーマ』をしっかりお持ちであることを感じられたからです。」
 竹内知子さん(40代の非現役)いわく、「安田先生の講座は4コマ通じて一貫性があり、とても面白い話の連続でした。」 
 小辻裕美子さん(50代の小学教諭)いわく、「安田先生の講座はどれも、さらに詳しく学び直したいと思えるもので、その意味で今回の講習はたいへん意義深いものだった。」
 佐合弦一さん(40代の中学高校教諭)いわく、「安田先生の授業は、これは知っておくべきだったと思うことが多く、日頃もっと研鑽すべきと思わせる充実した内容を伝えてくれました。また、先生がしばしば使われた『…に緊張感を持つべき』という言葉が私の耳の奥に響きました。」
 無記名の意見:「安田先生の講座A1・A3では、歴史的文脈の中で現在の学校教師の立つ位置が考察されており、それは教員生活の日常的業務にいたずらに追いまくられる私にとって、とても有意義なものでした。」

↓ A1 講座(2012年12月24日12:30~15:30)
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↓ B6 講座(2012年12月27日12:30~15:30)
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                                  2012年12月9日 安田忠郎
                 第18回~第20回安田塾の予告

 安田塾の第18回・第19回・第20回についてお知らせいたします。
 今後のスケジュールを組まれるに際して、同塾の開催日をご考慮いただければ幸いです。
 来年はどういう交流の輪を広げることができるか。参加者の皆様と歓談の一時を過ごすことを今から一方ならず楽しみにしております。

▼ 第18回安田塾は、次の通りです。
【日時】2013年2月9日(土)午後2時~4時30分
【場所】武蔵野商工会館
【講師】伊藤 弘(いとう・ひろし)
【テーマ】「海上自衛隊の今~海賊対処活動を念頭に~

【講師略歴】
1965年、千葉県市川市生まれ。
防衛大学校卒業。海上自衛隊幹部候補生学校卒業。
1999年から2年間、米コロンビア大学大学院に海上自衛隊から留学、国際関係論修士課程を修了。
海上幕僚監部補任課長・一等海佐。

【安田の寸評】
・私と伊藤さんとの出会いの場は、1999~2000年のコロンビア大学でした。
・彼は2010.12.1~2011.5.9、海賊対処法(「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」2009年6月24日公布)に基づき、「派遣海賊対処行動水上部隊(第7次隊)」の指揮官(第7護衛隊司令)として、ソマリア沖・アデン湾における海賊対処活動を遂行しました。
・彼は現在、日本国家の「安全保障」の最先端に位置する防衛省・海上幕僚監部の主要幹部の一人です。ちなみに、「一等海佐」は諸外国海軍および旧日本海軍の大佐(将校・佐官の最上級)に相当します。
・人間は理想と現実の緊張関係をいかに生ききることができるか―。第18回例会では、国家(国民+領土+主権)のリアルな重い現実を直視する彼の率直な情報発信が期待されます。

▼ 第19回安田塾は、次の通りです。
【日時】2013年4月20日(土)午後2時~4時30分
【場所】武蔵野商工会館
【講師】白石広子(しらいし・ひろこ)
【テーマ】「じゃがたらお春~伝説の検証~

【講師略歴】
1944年、大阪市に生まれる。
学習院大学の学部・大学院で日本語日本文学専攻。
夫君のジャカルタ赴任で1980~90年代の8年間、同地に居住する。 
近世異文化交流史研究家、東京大学ユーラシア科研研究協力員。

【講師著書】
『じゃがたらお春の消息』勉誠出版、2001年
『長崎出島の遊女』勉誠出版、2005年
『バタヴィアの貴婦人』新典社、2008年

【安田の寸評】
・私は2012年2月、白石さんと「幕末史研究会」で初めてお目にかかりました。
・じゃがたらお春(1625?~97)は、江戸時代初期に鎖国でバタビア(ジャカルタ)へ追放された、長崎生まれの混血女性(父・イタリア人+母・日本人)。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれた「じゃがたら文(ぶみ)」で巷間知られています。
・異文化交流史研究・洋学史研究に造詣が深い白石さんは、「主に長崎出島を舞台とした異文化交流から、現代に通じる日本人の国民性、国のかたちを考える」観点に立って、お春の実像を追い求めつづけ、お春像を「国際人として生きた日本人の先達」として再構成しました。

▼ 第20回安田塾は、次の通りです。
【日時】2013年8月17日(土)午後2時~4時30分
【場所】武蔵野商工会館
【講師】松本明倫(まつもと・あきみち)
【テーマ】「福島原発事故に直面して~一学校教師として考えたこと~

【講師略歴】
1959年、福島県白河市生まれ。
武蔵工業大学機械工学科卒業。
私立高校非常勤講師を経て、1989年に福島県立喜多方工業高等学校教諭。
以来、教職16年[福島県立工業高校の教諭13年→教頭3年]、教育行政職7年7ヶ月[福島県教育庁(本庁
or 教育事務所)の指導主事4年→管理主事2年4ヶ月→課長9ヶ月→所長6ヶ月]。
2012年5月から福島県教育庁南会津教育事務所所長、現在にいたる。

【安田の寸評】
・松本さんが武蔵工大の学生時代(1982.4~86.3)、私は同大の教師として「教職課程(教員養成)」教育に従事しておりました。
・私はフクシマ問題が噴出して以来、彼に向かって何度か単刀直入に、次のような言葉をぶつけました。
「この危急存亡の秋(とき)、あなたはたとえ単独行動であっても、メッセージを発信しつづけなければならない。」
「福島県民200万人は、決して沈黙してはならない。もの言わぬ or もの言えぬ人間であってはならない。
“沈黙は金”などという日本人特有の道徳律⇒負け犬根性とはオサラバしなければならない。いたずらに沈黙しつづければ、“棄民”となるのは時間の問題だ。」
「日本人はとかく忘れっぽい。日本人には事を―とりわけ重大事を―忘れたがる性癖がある。要するに、日本民族の致命的な欠陥は、歴史意識が欠落していることだ。」
「人間の存在理由は、おめず臆せず“言(事)挙げ”することにある。」等々

 024.gif安田塾には、どなたでも自由に参加できます。
   ご参加を希望される方は、下記にご一報ください。
   055.gif tadyas2011@excite.co.jp
                                   2012年10月7日 安田忠郎
                    第17回安田塾のご案内

 第17回安田塾は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】10月27日(土)午後2時~4時30分
【講師】萩原義弘(はぎわら・よしひろ)
【テーマ】「炭鉱を訪ねて30年~ヤマに在りヤマへ還る~

【講師略歴】
1961年、群馬県高崎市生まれ。
日本大学芸術学部写真学科卒。
毎日新聞社出版写真部を経て、現在フリー。

【講師業績】
<主な展覧会>
1983年「 沈黙の炭鉱―夕張は今―」(銀座ニコンサロン/東京)
1999年「巨幹残栄」(ヘルテン国際写真フェスティバル/ドイツ)
2000年「巨幹残栄・東日本編」(コニカプラザ/東京)
2001年「SNOWY」(ライトワークス/横浜)
2004年「炭鉱(ヤマ)へのまなざし―常磐炭田と美術―」(いわき市立美術館/いわき)
2008年「SNOWY」(ギャラリー冬青/東京)
2009年「文化・資源としての炭鉱展」(目黒区美術館/東京)
2010年「第26回写真の町東川賞受賞作家展」(文化ギャラリー/東川)
2011年「ヤマに在りヤマへ還る」(アルテピアッツァ美唄ギャラリー/美唄)
2112年「巨幹残栄」(ギャラリー冬青/東京)
<写真集>
『巨幹残栄・忘れられた日本の廃鉱』窓社、『SNOWY』冬青社 
<受賞>
2001年 さがみはら写真新人奨励賞、2010年 第26回写真の町東川賞特別作家賞

【安田のコメント】
 私は1981年9月25日、自著『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版)を出版しました。そして同年10月16日、「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が勃発した結果、同書はにわかに世の注目を浴びるにいたりました。
 私と萩原さんが初めて出会ったのは、翌82年の、たしか7月ごろ、北海道夕張市においてでした。戦後日本の炭鉱事故史上、3番目の大惨事(死者93人)を招いた同事故が期せずして、両人を招き寄せたのでした―。
 彼は以来、並々ならぬ執念を燃やしながら、炭鉱⇒廃鉱⇒日本の「闇」を掘り起こしつづけ、今日にいたっています。
 例会では、彼の精魂がこもった数々のスライドが映写されます。
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                 ↑夕張新炭鉱の通洞桜 (萩原義弘撮影)

【会場】武蔵野商工会館5F第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【Tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml
【参加費】一般1000円 学生500円 

■例会が終了次第、講師を囲んで「2次会」を行います。

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます024.gif
 今回ご参加を希望される方は、10月25日(木)までに、下記にご一報ください。
 055.gif tadyas2011@excite.co.jp
                                   2012年6月19日 安田忠郎
                    第16回安田塾のご案内

 第16回安田塾は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】7月21日(土)午後2時~4時30分
【講師】浅野健一(あさの・けんいち)
【テーマ】「東電福島原発『事件』と御用記者・学者~3・11以降の大本営発表報道の犯罪~

a0200363_12272697.jpga0200363_12293254.jpg【講師略歴】
1948年、香川県高松市生まれ。
66~67年、AFS国際奨学生として米ミズーリ州スプリングフィールド市立高校へ留学、卒業。
72年、慶応義塾大学経済学部を卒業、共同通信社に入社。
編集局社会部、千葉支局、ラジオ・テレビ局企画部、編集局外信部を経て、89年から92年までジャカルタ支局長。
94年4月から同志社大学社会学部メディア学科教授(新聞学専攻)、同大学大学院社会学研究科メディア学専攻博士課程教授。「人権と報道・連絡会(85年発足)」世話人。

【講師の宣言】
 3・11大地震と東電原発「事件」の直後から、私・浅野は原発報道が「大本営発表」報道になっていると指摘した。福島原発事件報道は、日本の記者クラブメディアがジャーナリズムの権力監視機能を全く果たしていないことを明らかにした。原発事件から約2カ月間、政府、東電、旧帝大系御用学者は「チェルノブイリにはならない」「直ちに健康に被害はない」というウソをメディアで垂れ流し、その間に、東日本の多くの市民が体内被曝した。
 今年になって分かったのは、首相官邸や東電福島現地では、3月15日ごろ、東京も避難地域になるという想定で動いていた。官邸では「日本がだめになる」「地獄を見ているようだ」という恐怖の声があがっていた。3月下旬、「神風が吹いて最悪の事態は免れた」と言った政府首脳がいる。
 朝日新聞は10月15日の社説で、「大本営発表」報道だったとあっさり認め自省した。
 同志社大学・浅野ゼミの院生と学部生は、3・11から1週間のテレビと新聞の原発報道を分析し、「DAYS JAPAN」(「世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌」)2012年4月増刊号(「検証・原発事故報道」)で発表した。
 国家・東電による原発事件が東アジアの生態系を破壊している時に、東に石原慎太郎、西に橋下徹という「維新」ファシストと市場原理主義の自公・米国隷属追随靖国反動派が跋扈している。日本では在日米軍基地問題、失業者・非正規雇用の急増、自殺者が14年連続で3万人を超えるなど深刻な問題が山積している時に、ジャーナリズムとアカデミズムが全くの体たらくである。
 私としては、22年の記者生活と18年の教育研究活動をもとに、「記者クラブメディア」が政官財・御用組合・御用学者と「鉄の六角錐」を形成して人民・民衆の生命さえ危機に陥れている構造を解明し、社会変革の道筋を示したい。

【安田のコメント】
 私が浅野健一さんと初めて出会ったのは、私の慶大大学院時代のこと。
 社会学研究科修士課程に在籍した1970年~71年当時、私は折あるごとに、同大経済学部の「社会思想史」ゼミの学生たちに向かって、「思想と人間」・「実存と関係」の問題を俎上に載せ、日本石炭産業論、マックス・ヴェーバーの「資本主義の精神」論、カール・マルクスの「疎外-物象化」論などの講釈をぶった。私が同ゼミ出身、彼が同ゼミ現役の一人ということで、私と彼は俗に言う「先輩-後輩」の間柄にあった。
 1984年9月、共同通信社記者だった彼は、『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、のち講談社文庫)を刊行し、実名報道・犯人視報道といった日本の「犯罪報道」のあり方を批判して一石を投じた。
 同書が世上に認められた結果、彼は知る人ぞ知る存在となった。私自身少なくとも1980年代から90年代にかけて、憂うべき重大な犯罪事件―例えば1981~82年の三浦和義事件、89年の女子高生コンクリート詰め殺人事件、92年の市川一家4人殺人事件、94年の松本サリン事件、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件、97年の神戸連続児童殺傷事件、東電OL殺人事件、98年の和歌山毒物カレー事件、99年の文京区幼女殺人事件―が物議を醸すたびに、彼の問題提起を受け止め、実名報道にもとづく報道被害の実状を注視しつづけたものである。
 彼は同書以降、多数の単著・編著・共著を物しながら、ジャーナリスト⇒大学教授として活躍しつづけ、今日にいたっている。

【会場】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml
【参加費(資料代+会場費)】一般1000円 学生500円 

■ 懇親会
 例会が終了次第、講師を囲んで2次会を行います。

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます024.gif
 今回ご参加を希望される方は、7月15日(日)までに、下記にご一報ください。
  055.giftadyas2011@excite.co.jp 
                                    2012年4月5日 安田忠郎
                    第15回安田塾のご案内

 第15回安田塾は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】4月28日(土)午後2時~4時30分
【講師】宮坂栄一(みやさか・えいいち)
【テーマ】「大胆不敵な『大学改革』私論

【講師略歴】
1945年、長野県諏訪市に生まれる。
69年、横浜国立大学工学部電気工学科を卒業、日本放送協会(NHK)に入局。
NHK放送技術研究所部長・次長・研究主幹など歴任。
2002年4月武蔵工業大学環境情報学部情報メディア学科教授、2011年3月同定年退職。
この間、電子情報通信学会・日本音響学会・日本オーディオ協会等の学会活動に従事し、また明治大学・東京大学・東京工業大学等で非常勤講師を務める。

【安田のコメント】
 現在、日本のトータルな学校教育の価値と教師の仕事が厳しく問われています。
 そして大学の場合、1990年代以降、世界的なメガトレンド―①「マシフィケーション(大衆化)」、②「マーケティゼーション(市場化)」、③「グローバリゼーション(世界化)」―の影響下、「大学改革・教育改革」が声高に叫ばれつづけてきました。
 しかし今なお、日本の大学の実態が旧套を墨守するムラ社会であることに変わりありません。そこは依然として、教授会の形骸化に象徴されるように、議論なき前例主義や事なかれ主義に毒され、創意と活力を麻痺させた、硬直的で閉鎖的な組織体にほかなりません。

 1997(平成9)年4月、武蔵工大は環境情報学部(横浜キャンパス)を新設し、単科大学(工学部・世田谷キャンパス)から、2学部体制に移行しました。
 宮坂栄一はNHKを退職後9年間、同大環境情報学部を代表する教師として「大学改革」に奮闘しました。理非曲直をはっきりさせながら、問題に毅然と立ち向かいつづけました。
 私はまざまざと記憶がよみがえります。私が武蔵工大に在職当時、工学部側代表として、彼と連携して「武蔵工大改革」のための共同作業に従事したことを。そこでは、次のような問題意識が駆りたてられていました。
 「武蔵工大は今まさに、岐路に立っている。日本社会の不可欠の要素として繁栄するか、はたまた日本社会の構成要素たりえなくなって消滅するかの岐路に、である。」
 「いま、存亡の危機に直面する武蔵工大が新局面を切り開く価値を創造できるか、武蔵工大自身のトータルな存在価値が端的に問われている。」

【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml
【参加費】1000円 

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、4月25日(水)までに、下記にご一報ください。
 055.gif tadyas2011@excite.co.jp 
                                   2012年3月31日 安田忠郎
                   第15回~第17回安田塾の予告

 第15回・第16回・第17回の安田塾のスケジュールは、以下の通りです。前もってお知らせします。

▼ 第15回安田塾は、次の通りです。
【日時】4月28日(土)午後2時~4時30分
【場所】武蔵野商工会館5F第1会議室
【講師】宮坂栄一(みやさか・えいいち)
【テーマ】「大胆不敵な『大学改革』私論

【講師略歴】
横浜国立大学工学部電気工学科卒。
昭和44年日本放送協会(NHK)入局、NHK放送技術研究所部長・次長・研究主幹など歴任。
平成14年武蔵工業大学環境情報学部情報メディア学科教授、平成23年3月同定年退職。

▼ 第16回安田塾は、次の通りです。
【日時】7月21日(土)午後2時~4時30分
【場所】武蔵野商工会館5F第1・2会議室
【講師】浅野健一(あさの・けんいち)
【テーマ】「東電福島原発『事件』と御用記者・学者~3・11以降の大本営発表報道の犯罪~

【講師略歴】
1948年高松市生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。
72年共同通信に入社、ジャカルタ支局長など歴任。
94年同志社大学社会学部メディア学科教授(新聞学専攻)、現在に至る。
人権と報道・連絡会世話人。

▼ 第17回安田塾は、次の通りです。
【日時】10月27日(土)午後2時~4時30分
【場所】武蔵野商工会館5F第1会議室
【講師】萩原義弘(はぎわら・よしひろ)
【テーマ】「炭鉱を訪ねて30年~ヤマに在りヤマへ還る~

【講師略歴】
1961年群馬県高崎市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒。
毎日新聞社出版写真部を経て、現在フリー。
2001年さがみはら写真新人奨励賞、2010年第26回写真の町東川賞特別作家賞。
                                    2012年3月28日 安田忠郎
                    第14回安田塾を終えて

 第14回安田塾(協力:幕末史研究会)は3月24日(土)に、武蔵野商工会館4F市民会議室で開かれました。
 ▲ 例会・講演会「フクシマ原発事故から1年『パンドラの箱』を開けたフクシマ!~」は、講師4人による午後1時~5時30分の4時間半に及ぶ長丁場になりました。そこでは、第9回安田塾(2011.4.16)の槌田敦による講演会「いま、福島原発に何が起きているのか?」(安田塾メッセージ№29参照)の思想性が受け止められながら、「原子力→フクシマ」問題が一層多面的に掘り下げられました。
 以下、4人の講師の各講演概要(各人各説のレジュメ)を順次紹介します。
 

 講演Ⅰ:安田忠郎(やすだ・ただお)「日本人は皆『自分だけは死なない』と思っている~私の“エネルギー産業”下の極限的体験に照らして~」
①エネルギー革命(石炭→石油→原子力)の問題
 ・1960(昭和35)年の全国炭鉱数622鉱・労働者数37万人・石炭生産高5300万トン→1973(昭和48)年の全国炭鉱数37鉱・労働者数2万5千人・石炭生産高2100万トン
 ・1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発⇒第一次オイルショック(第一次石油危機不況)
 ・日本における原子力開発・原子炉建設は、戦後のパワー・ポリティックスの決定的な影響下、「平和利用」のお題目を唱えながら、あくまで<核技術を有する⇒その気になれば核兵器を作りだしうる⇒核兵器の潜在的保有国になる⇒日本の大国化⇒国際社会において発言権を得る>という思想的条件のもとで進められた。
②三池争議(三池闘争、1959~60年)の問題
 ・1960年 安保・三池闘争
 ・1963年11月9日 炭塵爆発事故 死者458人・一酸化炭素中毒患者839人
③北炭(ほくたん、北海道炭礦汽船株式会社)[1889(明治22)~1995(平成7)年]の問題
 ・幌内(ほろない)炭鉱 1879(明治12)年、官営の炭鉱として開山→1975年(昭和50年)11月27日、ガス爆発事故、24人死亡→1989(平成元)年閉山
 ・夕張(ゆうばり)新炭鉱 1975(昭和50)年営業出炭→1981年10月16日、ガス突出・坑道火災事故発生、93人死亡→1982年閉山
④私の実践知=経験知
 ・昭和43(1968)年5月28日…5月30日…7月12日、「西部3片3層ロング」(面長180メートル、炭丈1.93メートル)で、「ガス爆発」の可能性の極限を見極める。メタンガスの爆発限界5~15パーセントの問題⇒ガス濃度2パーセントのクライシス(crisis=危機・分岐点)!
 ・昭和43(1968)年5月16日午前9時49分、「養老3片5層(下)ロング」で、「1968年十勝沖地震」(M7.8)に遭遇する。極限状況における人間の行動の問題⇒日本人における主体の意思決定とは何か?

【要諦】
● エネルギー現場は危険なもの―ex.採掘労働、原発なら大量に被爆する仕事―を、弱い立場の人々に押しつける差別の上に成り立っている。
● 日本人にとって、主語はいつもその時々の状況の中に隠れており、主語があるとすれば、それは状況そのものにほかならない。したがって、日本人一人一人の言動が究極的に問われるのは、状況に支配されるのではなく、いかにして状況を支配し、場をつくり出すだけの力を持つことができるかどうかという点である。

 講演Ⅱ:市川恵子(いちかわ・けいこ)「福島第一原発から22キロにいた私、あの日起こった真実と未来へ」 
①自宅は原発から22キロ
 ・東京から福島の過疎地(福島県双葉郡川内村在住)に移住した一家が見た、原発とともにある暮らし
 ・小学生の長男が集めていた資料
 ・3.11 国に捨てられた地域
 ・いのちを守る戦い、川内村で起こったこと
②ヒサイシャになった私
 ・個人事業者、法人経営者、母として、娘として、それぞれの被災
 ・カネと食べ物
③フクシマの内と外では違う風が吹く
 ・都会と田舎、電気をつくる地域とつかう地域と
 ・都会の便利を支える田舎
 ・本気で原発反対を言えますか?今の便利を失うのは恐いですか?
 ・田舎暮らしで見えてきた、本当のこと
④川内村 帰村宣言
 ・東電補償の実態
 ・憧れの田舎暮らしが悲劇に
 ・補償金が地域を崩壊させる
 ・帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人
⑤いのちを守る、ふるさとを守る
 ・79歳の母が直面した東日本大震災
 ・誰も「いのち」を守ってくれない

【集約】
● あの日(3.11)、原発の近くに暮らしていた私は、「国」からイノチ(命)を見捨てられたことを実感した。原発事故後、放射能など、安全か否かでいろいろな議論がなされているが、問題は犠牲になる地域と人を想定しているこの国のシステムにある。自分だけは助かるつもりになっている人が論議している。いざというとき、自分の家族、大切な人を本当に守れると思っているのか。/すでに日本国内に安全な場所はなくなってしまった。まっさらな未来はないという現実を日本中の人々が自覚しなくてはならない。放射能とともに暮らす、その恐怖を福島だけでなく他の地域に暮らす人々も共有するしかない。/震災後、多くの人が口にする「絆」。キズナとは、犠牲になる地域や人々を見ないことにせず、自分の問題として考えること。よりよい選択を奪う「原発」というシステムを見て見ぬふりしないことではないのか。
● 東京電力の補償金が、川内村-地域社会を崩壊させている。帰りたい人、帰るしかない人、帰れない人、帰りたくない人、さまざまな思いを抱く地元の人たち。回答はひとつではない。/放射能よりも、人としてのプライドを奪われ、生きていく目標を奪われることが、村の危機となっている。仮設住宅や補償金は期限がくればなくなる。避難者から難民になってしまう。/人が住まなければ、故郷はもう戻らない。どんなに困難な問題があろうとも、帰村すると決めた人たちの原点は、「国から捨てられたイノチ」だったこと。自分たちの故郷は自分たちの手で取り戻すしかない。3.11の前から、過疎の村に暮らすことを決めてがんばっていた人たちの、故郷への思いは強い。
● 都会と田舎、消費地と電源地域、誰かの犠牲によって成り立つ社会の仕組みが、原発事故につながっていった。あのとき何が起こったのか、そして今、何が起こりつつあるのか。原発事故を起こしたシステムは、決してフクシマだけのものではない。イノチを守る、自分の故郷(家族)を守るという問題を決して他人事にしてはいけない。

 講演Ⅲ:杉原淳(すぎはら・すなお)「環境や生態系から、いかに放射能を減らすか~真の放射能対策の実績と提言~」                       
①「福島県浪江町赤宇木塩浸」における実績について 2日で60%の放射能低減
②不思議なペットボトル…エネルギーをもたせてある <生体にも優しい>
③我々の「除染」は、今、実施されているものとは、まったく異なる
④二本松市・針道での100L「除染装置」設置
⑤体からの「除染」;水のエネルギー、細胞の活性化による自己免疫力
⑥水の知られざる力
⑦放射能の遮蔽能力
⑧原子燃料はなぜ、水のプールの中にあるのか
⑨ガンマ線を防ぐために、コンクリート厚さは
⑩セシウムを放射能を出さない物質へ変える
⑪その方法と実績について

【結論】3.11災害による、福島第一原子力発電所からの放射性物質を低減することは、緊急を要する問題である。現状では、ゼオライト等による吸着で、除染というよりも、セシウム等の移動に過ぎない方法が採用されている。私が提案する方法で重要な点は、本質的に放射性物質から放射能を無くすること。それは特殊加工した水を使用する方法であり、その結果、約42時間で初期値の60%の放射能を低減し、また6ヶ月後の結果では、13%にまで低減した。純粋数学的な方法を用いて、セシウムから他の非放射性元素ができることを物理学的に予測し、バリウム (68%)、ランタン (24%) 、そして セリウム (8%)になると推測した。それを機器分析によって半定量的に確認し、 実験的には、バリウム63.3%、ランタン21.3%、そして セリウム15.4%で、比較的上記の理論的予測に近い値が得られたと考えられる。また、もう一つの放射能が低減するアイディアは、水からの陽子/電子のペアが量子力学的に、粒子や波として、セシウムからのガンマ線(光子)と相互作用する結果によるものであると考える。

 講演Ⅳ:小美濃清明(おみの・きよはる)「ホットスポット・浪江町へ入って考えたこと」       
①1972年 アメリカ・ミズーリ州へはじめて訪問
②1979年 アメリカ・ペンシルベニア州・スリーマイル島原発事故
③2011年3月11日 東日本大震災
④2011年5月7日~9日 福島県へ行く
 ・郡山市立薫小学校の校庭
 ・浪江町赤宇木塩浸の農地
⑤アメリカの友人からの電話
⑥韓国から帰国した日本人の友人の話
⑦江戸川区の火葬場
⑧2011年12月20日~22日 福島県・岩手県へ行く
 ・岩手県一関、気仙沼を訪問
 ・福島県浪江町赤宇木塩浸を再訪
⑨海洋汚染の広がり

【余談】 私(小美濃)はアメリカの友人たちの反応―日本人と違う角度からの話―について、興味をそそられた。FUKUSHIMAはTOKYOからどれだけ離れた場所か、それは問題ではなくTOKYOもFUKUSHIMAも一緒だった。太平洋を越えた国から見れば同一場所なのだろう。日本脱出をした外国人グループと同じ心情だったのだ。過剰反応は私には戸惑いでもあり、ありがたくも感じた出来事だった。また、韓国で当の原発事故を知った友人(韓国人)が日本へ来たものの、情報が取りにくい、日本のニュースにはバイアスがかかっているようだという話に、私は内心ドキッとしたものだ。

 【註】安田塾に今回「初めて」参加された方は、22名を数えました。22名のうち13名が吉祥寺界隈の在住者であり、その13名のうち2名の方から次のような感想メールをちょうだいしました。
 照山直子さん(亜細亜大学・非常勤講師):「先日の講演会は、どなたのお話もたいへん学ぶことが多く、また希望が湧きあがるようなご研究に触れさせていただくこともでき、本当に貴重なひとときでした。ありがとうございました。/近くでご開催いただけることがありがたく、これからも是非参加させていただきたく存じております。」
 山村進子さん[劇団「櫂(かい)」女優]:「講演会でのお話、興味深く聞かせて頂きました。聞いていらっしゃる方達の意識の高さにも感銘を受けました。どうしても忙しさに紛れ、劇団だけの生活になりがちですが、今後の講演会にも時間が合えば足を運び、視野を広げたいと思います。/この度は貴重なお話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。」
                                   2012年2月11日 安田忠郎
                  第14回安田塾のご案内

 第14回安田塾は、下記の要領で開催されます。
■ 昨年4月16日、第9回安田塾は槌田敦(つちだ・あつし、物理学者)さんの講演会「いま、福島原発に何が起きているのか?」を開きました。
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 今回は幕末史研究会(東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続ける歴史研究グループ)のご協力のもと、二人の講師を迎えて、フクシマが開いた「パンドラの箱」の問題を一層多面的に掘り下げます。
【日時】3月24日(土)午後1時~4時30分(059.gif午後12時40分開場)

【テーマ】フクシマ原発事故から1年「パンドラの箱」を開けたフクシマ!

【講演(1)】「福島第一原発から22キロにいた私、あの日起こった真実と未来へ」
【講師】市川恵子(いちかわ・けいこ)
 プロフィール:東京生まれ。石油化学会社、録音会社勤務を経て結婚。喘息などの持病に苦しんだことから、マクロビオティックなどの食事、自然なライフスタイルを学ぶ。長男の育児をきっかけに、自然育児友の会に参加、1994年度会長として各種企画や活動を行い、家族での田舎暮らしを計画する。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件をきっかけに、1996年、福島県川内村に移住。ITコンサルタントとして夫と事業を営むとともに、地域振興や地産地消の商品開発の一端を担う。2008年株式会社ダノニー設立。カフェ飲食業と地元食材の加工販売を行う。インターネットを使い、川内村の自然、人、地域の魅力を多くの人に紹介する。2011年3月に東日本大震災で店舗が倒壊。震災直後から、家族全員が神奈川県の夫の実家に避難し、現在にいたる。著書『フクシマからの手紙―3.11後の日本に生きるすべての人へ』(本の泉社、2011年)
【講演(1)趣旨】東京から移住し、事故前から原発を見続けていた普通の主婦が直面した原発事故とは。3.11以降の日本に広がる原発事故への不安とこれからの暮らしを考える。

【講演(2)】「環境や生態系から、いかに放射能を減らすか」
【講師】杉原淳(すぎはら・すなお)
 略歴:京都府出身。大阪大学大学院工学研究科原子力工学専攻、1970年日本ニュクリア・フュエル株式会社(Japan Nuclear Fuel Co. Ltd.)勤務、89年湘南工科大学・マテリアル工学科教授、2010年神奈川大学・工学研究所客員教授。現在、「いろいろな水に関わる事象」に対して科学のメスを入れ、クリーンエネルギーのためのセラミックスの研究開発を進める「杉原科学技術研究所」を主宰。著書『日本を救う道を求めて』(現代図書、2009年)

【次第】
・最初、私・安田が司会かたがた、「日本人は皆『自分だけは死なない』と思っている~私の“エネルギー産業”下の極限的体験に照らして~」についてお話しします。
・次に、市川恵子さん、杉原淳さんがそれぞれ1時間余、講演します。
・最後に、フクシマの放射線量を実地調査(昨年5月および12月)した小美濃清明(おみの・きよはる、「幕末史研究会」会長)が「ホットスポット・浪江町へ入って考えたこと」についてお話しします。

【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
http://www.musashino-cci.or.jp/about/map.shtml

【参加費】一般1000円 学生500円

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、3月14日(水)までに、下記にご一報ください。
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                                   2012年1月31日 小林伸一
第13回安田塾(2012.1.21)の講演
もしあなたが教育困難校の教員あるいは管理職だったら子ども一人ひとりの輝く未来のために~」
【講師】小林伸一(こばやし・しんいち) 
【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室

 私は第13回安田塾で、講演をする機会に恵まれました。
 現在、教育現場には暴力・器物破損・いじめ・不登校・自殺・学級崩壊・学力低下・学ぶ意欲の低下・主体性の欠如・モラルの低下・モンスターペアレント等々、実に多くの問題・課題が山積しています。
 これらの問題・課題に対し、マスコミ等では著名な評論家が、学校や教師批判を繰り返す一方、課題を歪曲化あるいは単純化して、こうすれば問題が解決できると宣伝しています。また文部科学省を始めとする教育行政も様々な教育施策を打ち出してきています。
 しかし、今年公立中学校で教師生活25年を迎える私だけでなく、1年目の同僚ですら、これらの指摘や施策の一部がいかに的外れなものなのか、現場にいれば実感としてわかるのです。
 今回は前半(約1時間)で教育現場の現状を、そして現場の思いを伝え、中盤から後半(1時間半)にかけて、困難極める教育現場に、もしあなたが直接生徒指導を行える教員だったら、あるいは経営権を持った校長(管理職)だったら、という想定で課題解決のためのブレーンストーミングを行いました。

【講演内容の要約】
(1)公立中学校の問題・課題
 話を行う前に最初に「あなたが教育困難校の教員もしくは管理職だったら、学校の立て直しができるか」という問いを参加者に投げかけた。圧倒的にできないと挙手するものが多い。
 教育に携わるか否かにかかわらず、現場に山積している問題・課題を解決するのは非常に困難であるとの思いは同じようである。
 
 ①現場の裁量権を狭める「統括校長」制度
 教育行政から現場に合わない施策が下りてきた時、今までは校長裁量で無視することもでき、総合的に学校経営がうまくいっていれば咎められることもなかった。
 今は校長の上に統括校長がいるので、校長になっても常に上を見ていなくてはならず、現場の声を吸い上げない校長が増えた。こうした校長の多くは文科省からの通達を教職員に下すだけで、目の前にある問題生徒に対応できず、学校が荒れる原因になっている。
 
 ②設備は区市町村負担、教員は都費負担。
 同じ都内でも財政基盤は特に区中心部と多摩西部ではかなり違う。
 例えば生徒数が同じ規模の新宿と八王子を比較した場合、新宿は区採用の教員が複数名おり、教職員配置数が1.5倍ほど多い。また備品や消耗品の購入金額も大きく異なる。
 教員が多ければ問題行動に対応する余裕があり、金額が多ければより良い授業ができる。教員は都費負担なので特定の区市町村にとどまる義務はないのだ。よって教育困難校・地域に配置された教員は、最初から腰を落ち着かせて仕事をせず、3年の任期を終えると異動するため、保護者や地域とのつながりができない。
 
 ③学校は四面楚歌
 マスコミでは連日教員の不祥事を面白おかしく伝え、学園ドラマでは規範意識を高めようとする教員が分からず屋、不良の立場に立つ教員は物わかりが良いとされる。
 その影響もありテレビのように対応すべきと学校非難を繰り返す保護者と生徒のいかに多いことか。学園ドラマはセンセーショナルでなければ視聴率が取れず、テレビの中だけの異常事態がどこの学校でも見かけられる常識になってしまう。現場では学園ドラマがヒットすると学校が荒れるといわれている。また常に校外で問題行動があるような学校は、地域のみならず警察からも学校の対応が悪いと非難される。支援に回るはずの教育委員会も責任逃れ。
 結局教員・学校だけが叩かれる。教員・学校が一番悪いのか?
 
 ④政治家の無関心
 ホワイトハウスと首相官邸のホームページを比較しても、いかにこの国は教育に力点が置かれていないかがわかる。子育て世代だけが興味関心を示すだけなので、票にならない教育は無視される現実がある。
 こんなことで国家の将来を語ることができるのか。教育は社会の基盤を作っている。その基盤が揺らいでいる。
 
 ⑤学力向上
 遠山敦子元文科省大臣の「学びのすすめ」によって学習指導要領を超える記述が容認され、都立高校でも自校問題作成校が登場、入試問題の難問化がおこる。アルファベットがCまでしか書けない、自分の名前の漢字を間違える、2ケタの加減算がわからない生徒がいる一方、同じ教室に難関高を目指す生徒がいる。
 教員1人に生徒40人。例えば受験の時期に教師は何を教えればよいのか。

 ⑥ゆとり教育
 小学校は学習指導要領に沿って体験学習や自ら学び考える授業に転換してきた。
 「生きる力を育む」という理念は基本的には良いと思う。その反面、繰り返し学習で定着させてきた基礎基本がおろそかになっている。 
 中学校には、今まで以上に学力の差がついて生徒が入学するようになった。高校入試は学習指導要領の意向がある程度反映されているとはいえ、「生きる力」のより高い生徒が難関校に合格するわけではない。
 入り口を変えたら出口も変更してほしい。こうして中学校は基礎学力がない生徒に生きる力を育みつつ、今まで同様の高校入試に対応していかなければならない。矛盾は中学校に一番現れている。      

(2)課題解決策
 こうした現場の問題・課題に関して、様々の貴重な意見がブレーンストーミングで出された。
 ①学校関係者ではない方も、どんどん学校に入っていく。
 ②マスコミ、ドラマは学校を悪く描かない。
 等々。現場でさっそく翌日から使えるご意見もあった。
 しかし、「もう小手先だけで解決できるところにない。ガラガラポンでゼロから始めるべき。」というある参加者の意見に多くの方が賛同しているようだった。

(3)総括
 時間枠の2時間半があっという間に過ぎ去りました。こちらの思いをすべて伝えることはできなかったが、参加者の方の温かいご意見のおかげで良いブレーンストーミングができました。
 教育困難校といっても、8割は一生懸命真面目に生活している生徒です(経験的には普通は95%くらい)。
 我々教員はこうした生徒のためにもあきらめることなく、日々教育活動を行っていかなければなりません。
 きょうは参加者の皆さんと忌憚のない意見を交換することにより、明日から学校でやっていく活力をいただいた気がします。
 
 天候の悪い中、参加していただいた方々には感謝いたします。ありがとうございました。
                                   2012年1月28日 安田忠郎
                    第13回安田塾を終えて

 第13回安田塾は1月21日(土)に、武蔵野商工会館第1会議室で開かれました。
 この報告は㊤㊦に分けます。本号㊤では私の話に関するレジュメ(当日配布)を転載します。また、次号㊦では講師・小林伸一が自らの講演をまとめます。

▲ 例会では最初、私が午後2時から約30分間、「戦後日本の青少年問題・教育問題」を論じました。
 このテーマは既に昨年12月25~28日の「教員免許状更新講習」(公益財団法人・大学セミナーハウス主催、安田塾メッセージ№1~3参照)における私の講義の一環(2時間)として展開されました。そこでは、学校内部の視線と学校外部(特に産業構造)の視線を交差させながら、学校という人間形成装置が戦後日本社会でどのように変貌してきたのかが考察されました。今回の安田塾では、同講義のエッセンスのみが小林講師の講演内容を的確に理解する上で必要な予備知識として提供された次第です。

 レジュメ「戦後日本の青少年問題・教育問題」
1950年代、60年代は主に学校の外での問題
  50年代:集団就職した青少年の適応問題⇒傷害、窃盗
  60年代:青少年の半ば風俗的で半ば逸脱的な問題⇒暴走族
1970年代半ば以降は学校の中での問題(反乱)⇒校内暴力、対教師暴力、いじめ
1980年代以降は学校教育の拒否、学校からの逃走の問題⇒不登校、高校中退
1980年代後半の「夜徘徊する子どもたち」→1990年代以降の「夜眠れない子どもたち」 

 戦後日本の産業構造上の大転換
・1973年、「石油ショック」の襲来
・1973年、海外旅行ブーム⇒200万人突破
・1973年、サッポロビールが「天然水“No.1”」を販売
・1974年、「朝日カルチャーセンター」がオープン
・1974年、「コンビニエンス・ストア」の第1号(セブン-イレブン豊洲店)が東京都江東区に開店
・1980年代後半以降、日本の産業は第3次産業が過半数を占める。
  第1次産業(自然の整序)→第2次産業(自然の加工変成)→第3次産業(物の扱い方)
消費資本主義(消費社会・情報社会)の展開
 ⇒個人消費のうち、「必需消費」を「選択消費」が上回る。
・いわゆる「公害」問題は、主に第2次産業と第3次産業の境界に生ずる。⇒「精神の障害」の問題

 高度成長と教育拡大(教育爆発)
・「一人当たり所得水準の変化」→「国民所得層の消費水準の変化」→「中・高等教育進学希望者の変化」
・「一人当たり所得水準の変化」→「生産活動の水準の変化」(第1次産業が減少し、第2次産業や第3次産業が拡大)→「中・高等教育卒業者の雇用量の変化」
・教育拡大の自己増殖メカニズム
 ⇒教育の拡大が個人の便益や経済発展とは無関係にいったん拡大が始まると自己展開が起こり、拡大していく。

 青少年をめぐる具体的・代表的な事件
(1)「永山則夫連続射殺事件」
●永山則夫(ながやま・のりお)は1968(昭和43)年10月から11月にかけて、横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだ拳銃により、「社会への復讐のために」、東京→京都→函館→名古屋において4人を射殺した。69年4月7日、彼(当時19歳9カ月余)は東京で逮捕された。
●69年8月8日、東京地裁で第1回公判が開かれる。70年6月30日の第12回公判で、彼は「こういう(4人も殺した)事件が起きたのは、あの頃、俺が無知だったからだ。それは、貧乏だったから、無知だったんだよ」と述べている。
●71年3月10日、彼が書き記したノートは10冊になっていたが、それを『無知の涙』というタイトルの本にまとめ、合同出版から刊行された。この獄中日記は彼の幼児時代の極貧生活、その背後の社会の歪みを抉って世に衝撃を与え、ベストセラーになった。
●79(昭和54)年7月10日に東京地裁で死刑判決。81年8月21日に東京高裁で無期懲役に一旦は減刑されるものの、90(平成2)年4月17日に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」という理由で死刑判決が確定する(5月8日、最高裁は遠藤誠弁護人の「判決訂正」の申立てを棄却)。
 [87年の東京高裁(第二次)と90年の最高裁(第二次)の量刑理由:「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」]
●87年1月19日、東京高裁における差戻し控訴審の第19回公判で、弁護人を務めた遠藤誠(1930~2002)弁護士は、こう弁論している(抄出)。
 「…ここに永山則夫という、19年の生涯において、親から捨てられ、社会からの差別に次ぐ差別を受け、世を呪い人を呪ったがために罪を犯し、その後の18年の獄中における血のにじむような勉学によって、自分のやったことは間違っていたと衷心より悟り、2度とこのような悲劇を他の者に起こさせないためにどうしたらいいかを考え、その成果を次々に発表している1人の人間がいる。/ここで私は叫びたい。石田裁判長と田尾裁判官と中野裁判官が、控訴棄却の判決を言い渡せば、ここにいる1人の生きた人間が、絞首台に送られて、間違いなく首の骨を折られ、首の筋肉をズタズタに引き裂かれながら、殺されていくのだということを。それでいいのだろうか?最後に、19歳9カ月の彼が自首同様にして逮捕された後、東京拘置所の暗い独房でつづった血の叫び)をもって、私の結論に代える」
 遠藤は永山の詩「キケ人ヤ」(前掲『無知の涙』所載)を朗読する。
  
 キケ人ヤ
 世ノ裏路ヲ歩クモノノ悲哀ナ
 タワゴトヲ
 キケ人ヤ
 貧シキ者トソノ子ノ指先ノ
 冷タキ血ヲ
 キケ人ヤ
 愛ノ心ハ金デナイコトヲ
 心ノ弱者ノウッタエル叫ビヲ
 キケ人ヤ
 世ノハグレ人ノパンヘノ
 セツナイハイアガリヲ
 キケ人ヤ
 日陰[影]者ノアセト涙ヲ
 ソノ力と勇気ヲ
 キケ人ヤ
 武器ナキ者ガ
 武器ヲ得タ時ノ
 命ト引キカエノ抵抗ヲ
 キケ人ヤ
 貧民ノ真ノ願イノ
 ヒト言ノ恐シサヲ
 キケ人ヤ
 昭和元禄ニ酔ウガヨイ
 忘レタト時ニ再ビモエル
 貧シキ若者ノ怒リヲバ

●彼は69年の逮捕から97年の死刑執行までの間、獄中で学問に目覚め、創作活動を続けた小説家である。彼は両親から育児を放棄され、極貧の中、荒れた生活を送り学校教育も受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって識字能力を獲得し、執筆活動を開始した。『無知の涙』をはじめ、多くの文学作品を発表する。84年には、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。続いて『捨て子ごっこ』(87年)、『なぜか、海』(88年)、『異水』(90年)などが出版される。いずれも自伝的な小説であり、貧しい自分の生い立ちや育った場所の風景、あるいは兄弟間の葛藤などの身の回りの事件や家出などが描かれている。この作品群の基底で響いているのは、貧しさと貧しさゆえのサバイバルの問題である。彼の社会的・歴史的な眼差しには、貧困とそこからの脱出としての集団就職、そしてその集団就職における挫折という戦後の高度成長に含まれる闇の部分への着目がある。
●97(平成9)年8月1日、東京拘置所において、彼の死刑が執行された。48歳、獄中28年、娑婆19年という生涯だった。7月31日時点で確定死刑囚が54人おり、彼より前に確定した者が17人いたにもかかわらず、なぜ彼が処刑されたのか。それについては、同年6月28日に逮捕された「神戸連続児童殺傷事件」(別名「酒鬼薔薇事件」「酒鬼薔薇聖斗事件」)の犯人が少年(当時14歳11カ月)であったことが、少なからず影響したとの見方が根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、厳罰化を求める声が高まる中、未成年で犯罪を犯し死刑囚となった彼を処刑することで、その反発を和らげようとしたのではないか、と。
●親族は彼の遺骨の引取りを拒否し、弁護人の遠藤誠が引き取った。彼の遺志により、遺灰は故郷の海、網走沖のオホーツク海に、妻だった「和美」―80年12月12日獄中結婚、86年4月3日協議離婚―の手によって散布された。
●死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの彼の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

(2)「開成高校生殺人事件」
事件概要】1977(昭和52)年10月30日未明、東京都北区に住む飲食店経営のA(当時47歳)が、進学校として知られる開成高校2年生の長男・佐藤健一(さとう・けんいち、16歳)を、寝ている間に帯で首を絞め殺害。その後、心中を図ろうと妻(44歳)と2人で浜名湖に行くが果たせず、31日に自首した。家庭内暴力を苦にしての犯行だった。

家庭内暴力】健一は共働きの両親(大衆酒場開店)とはすれ違い気味で、祖父母に接することが多かった。内向的なおとなしい子どもで、叱られるようなことは決してしなかった。
 私立のミッションスクール星美学園小学校で、成績は常にクラスで1~2番。試験、勉強が好きで、「また1番だよ」と答案を持って帰ってくる子どもだった。両親はあまり「勉強しろ」とは言わなかったとはいえ、一人息子の教育に熱心なところもあった。5、6年生時には有名な進学塾「四谷大塚」に通い、家庭教師もつけられた。
 小学校の教師の熱心な勧めもあり、また本人の、「オレは頭がよいんだ。社会の中枢となる人間なんだ」という自負もあり、学校法人開成学園・開成中学校を受験。合格者300名中56番の上位で入学。当時の新入生紹介の文集「1年生の顔」には「医者になりたい」と書き、未来に希望を燃やしていた。
 中学1年の席次は300人中155位、2年の席次は300人中178位と中位の成績であった。3年ごろから、部屋にこもって読書にふけるようになる。3年の席次は、300人中236位と下位に低迷する。
 76年4月、開成高等学校に進学。徐々に家庭内暴力が悪化していく。自室に閉じこもって泣いたり、大声を出したり、柱を叩いたりする。事あるごとに両親に対して、「お前らみたいのがくっついて結婚したから、俺みたいな鼻の低い子どもが生まれたんだ」とか、「お前ら夫婦は教養もないし、社会的地位もないし、そんな奴が一人前の顔をして俺に説教できるのか。夫婦ともバカだ」とかの反抗的な言葉を浴びせたりする。高校1年の席次は、クラス51人中47位、ほとんど最下位に近い成績だった。
 77年5月、高校2年生の健一は、学校を休んだことを父親のAに注意されると、「抑圧だ」と絶叫し、物を投げ、ガラスを割り、泣きじゃくった。2年生の1学期の成績は、クラス51人中43位。
 夏休みの8月1日、母親は機嫌よさそうな健一に一声かけ、言葉をやりとりする。
 母親「勉強しているの」
 健一「していない」
 母親「大学はどうするの」
 健一「それが悪い!」
 母親の何気ない言葉に激高し、「殺してやる」とわめきながら母親を家中追い回し、当夜Aの帰宅後も「お前らみたいな夫婦が俺を生んだから俺の人生は破滅だ」とののしり、手当たり次第に物を投げつけ、暴れ回った。この日以来、日常的に激しい暴力を繰り返すようになる。
 健一の家庭内暴力は猛烈をきわめた。
 ・母親、祖母の首をしめる。母親、祖母を殴り、蹴る。
 ・洗面器で10杯くらいの水を頭からかけて、祖母をグショぬれにする。
 ・食卓をひっくり返す。
 ・食卓塩、胡椒、醤油、ご飯をまき散らす。
 ・水道からホースを引いて、部屋中を水浸しにする。
 ・浴槽に粉石鹸を箱ごとまいてかき回し、風呂場を泡だらけにする。
 ・布団を池に投げ込む。
 ・仏壇をバットでたたき壊す。
 ・家中の襖を蹴破る。
 ・ピアノの黒鍵をすべてナイフで削り取る。
 ・家の中で洋服やタオルや本に火をつけて燃やす。
 ・庭の池に服、本などを投げ込み、石油をまいて燃やす。
 8月中旬、両親は精神病を疑い、健一を精神病院に連れていく。「精神病ではない。わがまま病だ」との精神科医の診断。治療は通院で行なわれ、注射や薬が処方される。しかし、健一の暴力は一向に納まらなかった。

殺害】77年10月29日、この日もやはり暴力があり、健一は「青春を返せ!人生を返せ!メチャメチャにしたのは親なのだ」と叫んで暴れるだけ暴れると、睡眠薬を飲んで寝てしまった。
 「こんなことが続いたら、本当に家族が殺されるかもしれないし、息子が犯罪者になるかもしれない。そうなれば、かわいそうなのは息子だ」そう考えたAは、息子の殺害を決意した。
 30日午前0時ごろ、長さ1m半ほどの下帯を手にした父親は、豆電灯の下で息子の寝顔を見つめた。健一は仰向けに眠り、父親はその枕元に正座していた。平和で何事もなかったころの健一の思い出。「また一番だよ」と満点の答案を持って家に駆け込んだ小学生のころの笑顔。どうしてそれが、こんな子に育ってしまったのだろう。そう思うと、不憫になって手を出せなくなった。が、すぐに続いて、母親や祖母を追いかける健一の狂ったような顔、逃げる彼女らの必死の顔が、そうした思い出を打ち消した。Aは下帯を息子の首にまわし、無我夢中で締めあげた。
 殺害後、息子の部屋に母親が入ってきた。Aが泣きながら「俺は健一を殺してしまった。死のうと思う」と言い、妻も「私も死にます」と言って、そこで2人して泣きつづけた。
 夫婦は自殺を決意して早朝の新幹線で浜松へ行き、浜名湖周辺で死に場所を探すが、死にきれずに翌31日東京に戻り、Aは結局、妻に付き添われながら赤羽署に自首した。

裁判】78年2月16日、東京地裁はAに対して、求刑懲役8年のところ、懲役3年・執行猶予4年の温情判決を下す。検察は量刑不当として控訴。
 健一の母親は、日記に「死にたい」「死ぬのは勇気がいることだ」「健一のそばに行きたい」と書き、普段は飲まないアルコールを痛飲するようになる。そして同時に、Aに対し攻撃的になる。「健一を帰せ!」「健一は私の生き甲斐だった、あなたより大切だった」「あなたは私をメチャメチャにしてしまった。許せない」「みんな、あなたが悪い。刑が軽すぎるんじゃないの」
 Aはそれに対して、「ともかく死なないで」「勇気をもって生きていこう」「どんなに努力しても(妻に)生きる意欲が起きなければ、そのときは一緒に死のう」と説得、励ましていた。
 しかし78年7月2日、Aの妻は夫への寛大な二審判決を願う遺書を残して、息子の部屋で首吊り自殺した。
 Aはその後、四国の巡礼へと旅立つ。妻子の霊の鎮魂と己の懺悔のため、四国霊場88ヶ所巡りをする。そして帰宅後、「精神的にせっぱつまって(本人談)」、宗教法人「生長の家」に入信する。
 79年2月28日、東京高裁は検察の控訴を棄却。検察は上告せず、刑が確定した。

(3)「中野富士見中学いじめ自殺事件」
事件概要】1986(昭和61)年2月1日、岩手県盛岡駅の駅ビル「フェザン」のB1トイレ内で、東京都中野区立中野富士見中学校2年の鹿川裕史(しかがわ・ひろふみ、13歳)が首を吊って自殺しているのが発見された。遺書が残されており、彼の自殺がいじめによるものだと判明した。いじめは日常的に行われており、「葬式ごっこ」なるいじめには教師も参加していた。

いじめの光景】85年4月、2年A組に進級した裕史は、それまで仲の良かった友達と別々のクラスになった。彼はクラス内のあるグループと交わっていく。だが、温和で152cmと小柄な彼は、買い食いのために店に走り、下校時にバッグを持たされるという役回りを押しつけられる。いわゆる「パシリ」(当時はツカイッパ)である。
 7月下旬には、担任のF教諭(57歳)が裕史の父親(42歳)に「裕史君が仲間の使い走りをさせられているようですよ」と連絡している。このF教諭は定年を数年後に控えたおとなしい教師で、いじめの事実を知っても生徒たちに強く指導することはなかった。
 グループ内で下手に出ていた裕史に対するいじめは、次第にエスカレートしていく。いじめグループにとって、彼はプロレスごっこの投げられ役など、まるで「サンドバッグ」のように「何をしてもいい」存在になっていた。モデルガンの標的にされたり、服にマヨネーズをかけられたり、積み上げられたイスと机に閉じ込められたり、顔にマジックでヒゲを描かれ、廊下で踊らされたり、野球拳が強要されて服を脱がされたり(彼の相手はジャンケンで負けても服を脱がず)、等々。

葬式ごっこ】85年11月14日と15日、2Aのクラスでは裕史が死んだことにして、色紙を書き、教室で花や線香をあげるという「葬式」をした。これはある生徒の「鹿川が死んだことにしようぜ」と言い出したことから始まり、昼の人気番組「笑っていいとも!」の「安産コーナー」をヒントに、生と死を逆にして考えられたものである。
 黒板の前には裕史の机が置かれ、そこには飴玉やミカンが並べられ、遺影と見たてた裕史の写真と牛乳ビンにさした花も置かれていた。その横の色紙には「鹿川君へ さようなら 2Aと その他一同より 昭和60年11月14日」と書かれており、クラスの生徒の署名や寄せ書きがあった。寄せ書きには「バーカ」「いなくなってよかった」「バンザイ」「ざまあみろ」などと書かれており、教室に掲げられていた裕史の係の名札が「もう死んだ人だから」と、黒マジックで塗りつぶされていた。
 しかも、葬式ごっこには担任ら4人の教師まで参加していた。教師らは生徒に「ドッキリだから」と言って頼まれて署名していた。
 当時、裕史はスケートボードで足に怪我をして、遅刻が多く、この日も遅れて教室に入ってきた。自分の机を見るなり、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と言って、笑いを浮かべたが、やがて黙り込んでしまった。
 裕史はこの色紙を持って帰宅。キョトンとした様子で家族にこう言った。「これ見てどう思う?ここに先生も書いているんだよ!」
 また、裕史はのちに仲間に「俺、1度死んだんだよ」と漏らしている。裕史は以前からシカト(無視)されてもいた。この葬式ごっこはシカトの延長だった。

終わらないいじめ】裕史はいじめから逃れるためか、10月あたりから、欠席が目立つようになる。それまでは月に1日あるかないかの欠席が、10月に6日、12月に8日、1月に11日にのぼっている。欠席の日は朝に家を出てから、病院の待合室などで時間をつぶしていたらしい。登校した日も職員用トイレに隠れたり、保健室で休養することが多かった。
 裕史の父親は、いじめの事態をわきまえて、息子を叱る一方、10月から11月にかけてF教諭に「やめさせて欲しい」旨の相談を持ちかけ、また11月から12月にかけて、いじめた子どもの家庭に乗り込み、親に直談判、抗議している。
 だが、年が明けて(86年)3学期になっても、裕史へのいじめは続いた。1月8日、始業式の日、校舎階段の踊り場でグループの8人にひざ蹴りやパンチなどの暴行を受ける。さらに裕史が血のついたカッターシャツを脱ぎカバンに隠して帰ろうとしたところ、校庭で3年生の1人に殴られる。6日ぶりに登校した1月22日、体育の授業中、職員室前のプラタナスの木に登らされ、揺さぶられた。さらに3年生2人に言われ、サザンオールスターズの歌を歌わされた。
 中野富士見中学校の教頭は、3学期始業式の日の、校庭での裕史に対する暴行を目撃していた。裕史と加害生徒に電話をかけたが、双方とも口裏を合わせたかのように事実を否定したため、事態を黙認してしまう。翌日から裕史が欠席するようになっても、教頭も担任も「ズル休みかな」という程度の認識だったという。
 最後に登校した1月30日、裕史は教育相談室での某教諭との話し合いで、いじめに遭っていることを告げ、具体的にカバンを持たされているとか、買い物を言いつけられているとかの悩みを打ち明けた。
 翌1月31日朝、裕史は家を出たまま、その後行方がわからなくなった。父親は池袋、新宿のゲームセンターや音響機器店を探しまわったが、とうとう見つからなかった。

死に場所】裕史がたどりついたのは岩手県盛岡市だった。父親の実家が岩手県にあり、かつて裕史は父親に連れられて来たことがあった。
 2月1日、裕史は盛岡市の中心部をさまよい歩いた後、国鉄(現・JR)盛岡駅に隣接するデパート「フェザン」の地下トイレの洋服掛けにビニール紐をかけ、首を吊った。
 「フェザン」は午後9時に閉店したが、トイレのドアが閉まったままなので不審に思った警備員がのぞき、死体を発見した。トイレの床には鉛筆の走り書きの遺書が置かれていた。制服のポケットには生徒手帳が入っており、それから身元が判明し、その夜に父親に連絡が入った。

  〔遺書〕
 家の人へ そして友達へ
 突然姿を消して申しわけありません
 くわしいことについては
 〇〇とか〇〇とかにきけばわかると思う
 オレだってまだ死にたくない。
 だけど、このままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。
 ただオレが死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ、
 いみないじゃないか。
 だから、もう君たちもバカなことをするのはやめてくれ、
 最後のお願いだ。
  昭和六十一年二月一日  鹿川裕史
 [註:上記の「〇〇とか〇〇とか」には、いじめグループのリーダー格2人の実名が記されている。]

 2月3日、裕史の遺体は岩手県石鳥谷町で火葬に付された。妹が「お兄ちゃん、行っちゃやだあ」と、棺にとりすがった。遺骨は5日夕方、東京の自宅に戻った。

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                                   2012年1月5日 安田忠郎               
                   第13回安田塾のご案内

 今回は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】1月21日(土)午後2時~4時30分
【講師】小林伸一(こばやし・しんいち)

【講師略歴】
1985年3月、武蔵工大機械工学科を卒業し、アルプス電気株式会社に入社する。
88年退職後、東京都葛飾区→港区→立川市の中学校教諭を務める。
2003~04年、米国コロラド州モントローズ市コロンバイン中学校→同市コットンウッド小学校→同市ノースサイド小学校→カリフォルニア州マルチネズ市マルティネズ中学校で、日本文化を伝えるアシスタントティーチャーとして教壇に立つ。
04年帰国後、東京都八王子市→新宿区→八王子市の中学校教諭を務め、現在にいたる。

【テーマ】「もしあなたが教育困難校の教員あるいは管理職だったら子ども一人ひとりの輝く未来のために~」

【講師の宣言】
 「現在、教育現場には暴力・器物破損・いじめ・不登校・自殺・学級崩壊・学力低下・学ぶ意欲の低下・主体性の欠如・モラルの低下・モンスターペアレント等々、実に多くの問題・課題が山積しています。
 私は今年、公立中学校で教師生活25年を迎えますが、民間企業経験・海外勤務経験を含め、文字通り内外から教育現場を見てきました。今回は前半で教育現場の現状、中盤から後半にかけて、困難極める教育現場に、もしあなたが直接生徒指導を行える教員だったら、あるいは経営権を持った校長(管理職)だったら、という想定で課題解決のためのブレーンストーミングができたらと考えています。」
 
【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
【会費】1000円

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、1月18日(水)までに、下記にご一報ください。
 Eメール:tadyas2011@excite.co.jp 
                                   2011年12月5日 谷川建司
                      

 私は第12回安田塾(2011年10月29日)で、「ハリウッドと日本のアカデミア」と題するお話をしました。
 話の前半は、日本のアカデミアにおける映画のポジションに関するものでした。
 このテーマに関連して、私は以前、“日本における映画研究がどのような状況にあるのか”を考察し、「日本の映画研究の動向と日本映画の現状」という文章にまとめました。それは直接的には、日本のポピュラー・カルチャーを学ぶ香港大学の知人から依頼されたものでした。
 今回、講演の機会に恵まれたこともあり、同文を安田塾ブログに投稿させていただきます。
                     
              日本の映画研究の動向と日本映画の現状
はじめに
 本稿では、日本映画、日本の映画作家、そして日本の映画産業界の状況などに関心を持ち、これを学問の対象として取り上げていきたいと考えるような、大学院クラスの研究者を主たる読者と想定して、彼ら・彼女らにとって研究を始めていく上でのベースとなるような基本的情報―具体的には、日本において映画というメディア/芸術形態/娯楽が発達してきた過程の中で、それが学問の対象としてどのように取り上げられてきたのかについての概観、そして現状において日本の映画産業界がいかなる状況下にあって、今後いかなる方向に向かいつつあるのかについての現状分析―を整理することを目的としている。

1. 日本にフィルム・スタディーズという学問領域は確立されているか
 周知のごとく、フィルム・スタディーズといえば欧米では歴史も実績もある研究分野のひとつとして長年にわたる研究の蓄積がなされてきた。大学などの高等教育機関においてもフィルム・スタディーズを専門的に教える大学、学部、学科というのは珍しくはなく、映画を扱う学問領域の総くくりとしてのフィルム・スタディーズという枠組みが大事にされ、そのイメージがある程度共有されているように思える。
 だが、日本においてフィルム・スタディーズ、あるいはそれをそのまま日本語に訳した場合の映画学という学問領域がきちんと体系だって確立されていて、その学問領域の扱う対象やそのアプローチ方法などについての共通の認識が確立されているか、と問うたときに、残念ながらそれに対してはどちらも“否”という答えが返って来ざるを得ない。
 しかしながら、それは日本において映画の歴史が学問の対象にするだけの十分な長さや質を備えてこなかったわけでも、映画に関する言説の絶対量が少ないからというわけでもない。日本の映画の歴史はすなわち映画というメディアそのものの歴史と同じだけの長い蓄積を有しているし、映画についての言説の絶対量についても(一概に他国と比べて多いか少ないかということは言えないにしても)、むしろ膨大なものであると言うことが出来よう。では、なぜ日本ではフィルム・スタディーズあるいは映画学と呼べるような学問が体系だって確立されていないと考えられるのか。
 理由のひとつは、フィルム・スタディーズあるいは映画学を専門領域とする者であれば須らく所属しているような、その学問領域の母体となるべきプラットホームとしての学会が存在していない現状に端的に示されている。もちろん、日本映像学会や日本マス・コミュニケーション学会のように、映画に関する研究を大いに扱い得る学会というものはあるにしても、共通の作法としての研究のアプローチ方法やバックグラウンドを持つわけではない個々の研究者がそれぞれの庭において研究し、発表しているだけで、互いに交流がほとんどないというような現状が認められるのである。
 美学・哲学・文学といった人文科学系の研究者が映画を研究対象として扱う場合、ほとんどの場合は表象文化論という言葉に集約されるような、映像のテクスト分析の手法を唯一絶対のものとして信奉する傾向がある様に思われる。しかしながら、一方で映画というものを産業として、あるいは制度・文化政策・オーディエンスに対する効果といった社会科学的な関心から研究対象として取り上げる場合は、あくまでも実証的なデータというものに頼った社会学のアプローチ方法になる。
 平たく言えば、たとえば文学研究と同じ手法で映像作家の作品を分析するとしたら、文学において作者の個人的体験がいかにその作品に投影されているかというような、表現者の側の考え方、映像に込めた意味が絶対的に重要であるとみなされるのに対して、筆者を含めて社会学を学んできた立場で言えば、映画作家が自身の映像にどのような意味を持たせているかについてよりも、大多数の観客がその映像作品をどのように受け取ったかの方が意味としてははるかに重要であり、映画というものは流通の仕組みに乗り、観客と接してはじめて何がしかの意味を持つ、というのが映画研究の立脚点ということになる。
 こうした、同じ映画という研究対象に関心を持つ研究者であってもそのスタンドポイントの違いによって相互に繋がりを持たず、したがって両者に共通した尺度を持つ同業者による本当の意味での吟味(ピア・レヴュー)が行われることなくそれぞれに独自に研究が行われているというのが、日本の映画研究の現状であり、問題点であると言えよう。
 もうひとつの理由は、映画に関する重要な研究というものが、必ずしも学術論文というフォーマットに含まれ得る範囲だけに存在しているわけではない、ということである。実際のところ、個々の映画作品や映画作家についての言説のほとんどのものは、論文ではなく評論やエッセイというカテゴリーに入れられるものであり、どういったフォーマットの場合に学術的な価値があり、どういった場合はないのかという基準を作ること自体が難しい。論文としての体裁を整えていないものを日本の映画研究の過去の蓄積から除外してしまうとなると、かなりの数の重要な研究が考慮されないことにもなりかねないのである。これはつまり、映画という関心対象に関して言えば、アカデミズムとジャーナリズムの線引きなど実はあまり意味を持たないということでもある。
 ともあれ、本稿においては、人文科学的映画研究と社会科学的映画研究との間の乖離、そしてアカデミアにおける映画研究と映画ジャーナリズムとの曖昧な区別、といった問題意識を前提としながらも、それらすべてを含めた形での“映画研究”というものがあるとヴァーチャルに仮定して、その歴史や現状について考察していくことにする。

2. 日本における映画研究の潮流と傾向
 日本における“映画研究”の歴史を概観する上で、まずは便宜的にいくつかのカテゴリーに分けて考えてみたい。具体的には以下の五つのカテゴリーである。
(1)映画書誌
(2)映画史研究
(3)映画作家・映画人研究
(4)映画作品論・ジャンル研究
(5)映画政策論・映画産業・観衆論
 以下、五つのカテゴリーそれぞれについて若干の整理を試みたいが、本稿においては紙幅の制限もあるため、比較的近年になって刊行され、入手し易い文献資料についてのみ取り上げることにし、より詳しい日本の映画研究の動向については以下の二編の論文を紹介することによって、関心のある方への便宜としたい。すなわち、映画の黎明期から戦時中にかけての概観としては、牧野守「映画書誌の創生と年鑑に到る映画ジャーナリズムの動向」(岩本憲児・牧野守監修『映画年鑑』昭和編別巻Ⅰ、日本図書センター、1994年)、また戦後の概観については、谷川建司「“戦後の映画”についての研究動向」(メディア史研究会編「メディア史研究」Vol.18、ゆまに書房、2005年)である。

2-1. 映画書誌
 日本における映画研究史にあっては、その黎明期からかなり自覚的に映画書誌編纂への努力がなされてきた。近年の成果の多くはそれらの恩恵の上に初めて成り立っているものであるが、映画図書については辻恭平『事典 映画の図書』(凱風社、1989年)、日外アソシエーツ『映画・音楽・芸能の本 全情報45/94』(1997年)、『映画・音楽・芸能の本 全情報95/99』(2000年)が、映画雑誌については本池陽彦『日本映画雑誌タイトル総覧』(ワイズ出版、2003年)が手頃な情報源であろう。

2-2. 映画史研究
 日本における映画研究の中で、叢書のような形で映画史家の多くが加わったような日本映画通史の決定版的なものはまだなく、個人として佐藤忠男が『日本映画史』全4巻(岩波書店、1995年)を出したのが目立つくらいである。森話社の『日本映画史叢書』全11巻(2004年~)はテーマ別編成で通史ではない。岩波書店の『講座日本映画』全8巻は資料紹介とエッセイであり、あとは個別の時期や場所にのみ焦点を絞ったものということになるが、それらについては数多くの映画研究者がそれぞれ意欲的な研究成果を著している。

2-3. 映画作家・映画人研究
 映画作家研究は古くから盛んであるが、それは即ち日本における映画研究が“作家偏重主義”的傾向を有していたことの証でもある。黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男といった黄金期日本映画の巨匠たちに始まり、増村保造、鈴木清順、岡本喜八のようなプログラム・ピクチュア時代における作家性の強い監督たち、そして北野武、宮崎駿、押井守といった現代における影響力の強い作家に至るまで、作家研究は主として文学・表象文化論の立場からの研究として盛んであり、かつ欧米におけるフィルム・スタディーズの場合と同様に研究対象がマイナーな方向へと蛸壺化していきつつある。作家研究においては作家名での検索が容易なので具体的な研究成果を紹介することは割愛するが、ちなみに俳優論についても同様の蓄積と、同様の蛸壺化の傾向がある。しかしなから、プロデューサーや撮影監督、それ以外の映画人研究となると途端に心許ないというのが現実であろう。

2-4. 映画作品論・ジャンル研究
 映画作品論として取り上げられる個々の作品というのは、上記の映画作家研究と当然ながら密接な関係があり、各論としての個々の作品論を積み重ねた上に作家論があるという側面がある。従って、近年の映画作品論として目に付くものも、上に挙げている作家についてのものが多い。千葉伸夫「置換・表象・歴史――『ペール・ギュント』から『雨月物語』へ」(四方田犬彦編『映画監督 溝口健二』新曜社、1999年)、斉藤綾子「失われたファルスを求めて――木下恵介の“涙の三部作”再考」(長谷正人・中村秀之編著『映画の政治学』青弓社、2003年)、與那覇潤「小津安二郎と帝国史の方法――ひとつの〈反〉ポストコロニアル批評」(坂野徹・慎蒼健編『帝国の視覚/死角――〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社、2010年)、「黒澤明研究会」を主宰する都築政昭による黒澤明の個々の作品論シリーズ(朝日ソノラマ刊)などが目に付く。ジャンル研究はまだ手薄感があるが、たとえば日活無国籍アクション映画とか岩波映画(文化記録映画)などのようにそれまであまり光が当てられていなかった分野に対して研究対象として取り上げようという動きが顕在化しているのは今後の日本映画研究のひとつの方向性として注目に値する。

2-5. 映画政策論・映画産業・観衆論
 社会科学的映画研究として近年最も目覚しい進展を見せているのがこの分野である。具体的には、映画政策論として戦時中の国家による映画統制・検閲などへの関心が高まっていて、ピーター・ハーイ『帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画』(名古屋大学出版会、1995年)、加藤厚子『総動員体制と映画』(新曜社、2003年)、牧野守『日本映画検閲史』(パンドラ、2003年)といった意欲的な研究成果が発表されているほか、加藤幹朗「映画館と観客の歴史―映画都市京都の戦後」(「映像学」第55号、1995年)、谷川建司「戦後映画における観衆」(吉見俊哉・土屋礼子責任編集、叢書・現代のメディアとジャーナリズム4『大衆文化とメディア』ミネルヴァ書房、2010年)といった観衆論などが発表されている。だが、映画産業論というカテゴリーに関してはまだまだ本格的な研究が出て来ているとは言えず、最も今後の発展の余地がある分野であろう。

3. 日本の映画産業の現状
 前節で五つのカテゴリーに分けて状況を整理した日本における“映画研究”の近年の成果の中で、手薄感のある領域として挙げたのは作家・俳優以外の映画人研究、映画ジャンル研究、そして映画産業論ということになるが、その中でも特に映画産業論というカテゴリーがアカデミックな研究として成立することがなかなか難しいのは、日本における映画産業の構造というものがその時代、時代によって大きく変質していて、かつ史的分析を試みることで現在の状況に照らし合わせて現状への理解を深めようにも、現在の日本の映画産業の状況そのものが刻々と変質してきており、たとえば昨年の状況を分析して論文としてまとめたとしてもそれが今年にはすでに古い状況についての陳腐な分析とならざるを得ない、という現実があるからではないかと思う。
 以上のような認識に基づいた上で、敢えて2011年初めの時点での日本の映画産業界の状況というようなものを整理するとしたら、以下のような項目を立て得るであろう。
(1)テレビ局主導のメインストリーム系と小規模インディペンデント系への二極化
(2)ワーナーのローカル・プロダクションの台頭
(3)産学の連携の顕在化
 以下、この三つの視点から若干の整理を試みたい。

3-1. テレビ局主導のメインストリーム系と小規模インディペンデント系への二極化
 テレビ局が日本映画の製作に深くコミットするようになったのはけっして最近のことではない。1997年に『もののけ姫』に抜かれるまで日本映画の歴代興行収入の第一位を占めていた『南極物語』(日本ヘラルド=東宝、1983年)はフジテレビとの提携があって初めて国民的映画というポジションを獲得することが出来たと言える。この成功を受けて、その後在京キー局各社はこぞって日本映画の製作に積極的にコミットするようになり、今日ではむしろテレビ局こそが日本映画政策の中心的ポジションにいて、東宝、松竹、東映などの邦画各社はその枠組みがなければ立ち行かず、独自でのヒット作製作はなかなか難しいというような主客逆転の状況にさえなっている。
 2009年から2010年にかけての作品で言えば、日本テレビの『おっぱいバレー』、『BECK』、『借りぐらしのアリエッティ』ほかのスタジオ・ジブリ作品、『インシテミル 7日間のデスゲーム』、TBSの『ROOKIES 卒業』、『ゼブラーマン―ゼブラシティの逆襲―』、『ハナミズキ』、『大奥』、『SOACE BATTLEP ヤマト』、フジテレビの『海猿』シリーズ、『踊る大走査線』シリーズ、『のだめカンタービレ』前後編、『矢島美容室 THE MOVIE~夢をつかまえネバダ~』、『ノルウェイの森』、テレビ朝日の『TRICK』シリーズ、『ドラえもん』シリーズ、『クレヨンしんちゃん』シリーズ、『仮面ライダー』シリーズ、『十三人の刺客』、テレビ東京の『アウトレイジ』、『きな子 見習い警察犬の物語』、『ポケットモンスター』シリーズ、『NARUTO』シリーズ、『ゴースト』、といった日本映画の話題作のほとんどすべてがテレビ局主体(=製作幹事会社)の製作となっている。
 一方で、小規模インディペンデント系というのは、まず興行面において地盤沈下の著しい洋画(外国映画)と同様に小さな公開規模によって何とかニッチのビジネスとして成立している感がある。但し、その中で『春との旅』、『鉄男 THE BULLET MAN』、『ソラニン』といった作品で存在感を見せているアスミック・エースにしても、『大奥』、『武士の家計簿』では松竹との共同配給、しかも前者はTBS、後者はテレビ朝日と組むことによってメインストリーム系の作品へのアップグレードによって生き残りを図っている。

3-2. ワーナーのローカル・プロダクションの台頭
 洋画配給会社であるワーナー・ブラザース映画は、中堅規模の洋画配給会社の倒産が相次ぐなど、洋画離れが著しいここ数年の配給ビジネスの中にあって、ドル箱の『ハリー・ポッター』シリーズなどの安定した作品を有しているハリウッド・メジャーの会社であるが、ここ5~6年、積極的に「ローカル・プロダクション」という戦略に力を注いでおり、着実に日本映画の一翼を担う存在になりつつある。
 ワーナー製作による日本映画としては『キューティーハニー』(2004年)あたりが先駆けということになるが、2006年の『デス・ノート』前後編のヒットで弾みをつけ、2008年には『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』、『ICHI』、『252生存者あり』、2009年には前述の『おっぱいバレー』(日本テレビ、東映と共同)、『GOEMON』(松竹と共同)、『サマーウォーズ』、『TAJOMARU』、『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』と着実に実績を積み上げ、2010年には日本テレビと組んだ前述の『インシテミル 7日間のデスゲーム』のほか、満を持して本格的時代劇『最後の忠臣蔵』を公開させた。
 ハリウッド映画の場合、そもそも監督にしろ、俳優にしろ、世界中から才能のある者を呼び寄せて発達してきたという歴史的経緯があり、主たる資本がどこから供出されているかということ以外に映画の国籍というものはほとんど意味を持たない。そのハリウッドのメジャー・スタジオが全世界マーケットを視野に入れつつ、世界各地のローカルな映画製作に乗り出しているという現実が、日本の映画産業界に今後どのような影響をもたらしていくのかについて、注視して行かなければならないだろう。
 そしてまた、ワーナーの成功を受けて、ほかのメジャー・スタジオもまた同様のローカル・プロダクションに大きく舵を切っているように見受けられる。たとえば、20世紀フォックスは2009年に『群青 愛が沈んだ海の色』、フジテレビと共同の『サイドウェイズ』で本格参戦し、パラマウントも2010年に自社のヒット作品のリメイクに当たる『ゴースト』を製作、またユニヴァーサルはキアヌ・リーヴス主演による『忠臣蔵』を3D方式によって2012年に公開予定、とまさにナショナルからトランスナショナルへの変貌によって日本映画そのものの定義を再考しなければならないような転換期にあるということが出来るだろう。

3-3. 産学の連携の顕在化
 「産学の連携」というキャッチ・フレーズはこれまでどちらかというと「学」、つまり大学という組織のアウトリーチ活動や、国立大学の独立行政法人化に伴う競争原理の表面化といった状況とともにクローズアップされてきた感があるが、こと映画産業界における「産学の連携」ということになると、前述のような日本の映画産業の構造の劇的変化という状況の中で、映画産業界側にこそ危機感が強く、大学と提携することによってコストダウンやポストプロダクションの効率化といったメリットを得ようと積極的に動いてきたという印象がある。
 具体的には、2007年に京都の立命館大学が映像学部を新設した際に、松竹京都撮影所と京都府が提携することになり、松竹の撮影所内に立命館大学のための実習室が設けられ、山田洋次監督が客員教授として同大学に迎えられたことが先駆的な事例である。この提携の成果としては、山田監督の演出の下で同大学の学生たちがスタッフとして働き、京都市内にて撮影した『京都太秦物語』(2009年)のようなアウトプットが現われ始めている。
 その後、2009年には東宝と早稲田大学との提携も発表された。こちらはそれ以前から、東宝が早大の開発したネットワーク技術を用いたポストプロダクションの効率化を図ってきたというが、提携の発表後は撮影所内に大学の研究室が設けられたりして、より一層の関係強化が図られてきている。その成果としては、『のだめカンタービレ』のCG映像などに役立てているという。
 日活と城西国際大学の場合は、日活が人材育成のために運営してきた日活芸術学院と、城西国際大学に新設された映像芸術コースとの間でカリキュラムを共有する形で、かつてそれぞれの映画会社の中にあったものの、今では失われてしまった人材育成機能を復活させようとしている。
 こうした「産学の連携」は、まだまだ試行錯誤を繰り返す中でその方向性が定まっていく途中の段階であると言えるが、大学、すなわちアカデミアという枠組みの中でも映画を中心とする映像を本格的に学問体系として位置づけて、運営の柱にしていこうという方向性は間違いなく存在しているように見受けられる。たとえば、既に15年の実績を持つ専門学校、デジタル・ハリウッドが本格的に大学、大学院としての教育を開始したり、やはり専門学校であった東放学園が2006年に映画専門大学院大学を設立したり、日本映画学校を母体とする日本映画大学が2011年度からスタートする予定であったり、と俄かに映画を学ぶ大学というのが活況を呈し始めている。

おわりに
 以上見てきたような刻々と変わり行く日本の映画産業界の状況と、アカデミアにおける映画研究の方向性とは、いったいどのように今後リンクしていくと考えられるか。そのひとつの可能性として、昨年(2010年)刊行されたばかりのある映画研究書がヒントを与えてくれている。それは、ミツヨ・ワダ・マルシアーノ『デジタル時代の日本映画――新しい映画のために』(名古屋大学出版会)という本で、前節で述べたようなナショナルなものからトランスナショナルなものへと映画が移行し、さらにそこにデジタル技術の進展がコンテンツに及ぼす影響といった観点での目配せも併せ持った論考となっている。
 一時期の“クール・ジャパン”というような日本のコンテンツ産業の海外におけるアドヴァンテージがアニメやマンガ、TVゲームといったもののみならず、“100年前のニューメディア”であった映画においても当てはまるものになり得るか/当てはまるものであり続けることができるか、という問いへの答えは、ある意味で現在バランスを失ってどちらに傾くか転がるかわからないように思える日本の映画産業界のこの先5年、10年の状況を注意深く見て行かなければ見つからないだろうが、日本の映画研究にあっては、そうした日々の変化を見つめつつ常に自らの立ち位置を確認し続けることこそが求められるのではないだろうか。
                                   2011年11月30日 谷川健司
第12回安田塾(2011.10.29)の講演
「ハリウッドと日本のアカデミア」
【講師】谷川健司(たにかわ・たけし、映画ジャーナリスト・早稲田大学客員教授)) 
【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室

はじめに
 「ハリウッドと日本のアカデミア」というタイトルから具体的にどのような話が可能か。
 ①日本のアカデミアにおいて、ハリウッド映画がどのように研究・教育に用いられているか。
 ②ハリウッド映画産業界(のインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界)と日本のアカデミアという二つの全く異なる世界の比較。
 ③その二つの世界の両方に関わってきた者として、どんな人との出会いを重ね、またどんな経験を積んできたか。今後どのような立ち位置で仕事をしていくつもりか。
 ⇒ 以上の、三つの異なる位相それぞれについて話を進めていく予定。後半は多少、映像資料もお見せする予定で、1時間30分程度で話をまとめ、そのあとは皆様からの質問に答えたり、フリートークに近い形で。

1. 日本のアカデミアにおけるハリウッド映画
1) 米英などにおけるFilm Studiesと日本における映画学の違い
 ⇒  欧米におけるFilm Studiesが、文学研究などと同様の大きな学問分野の一つとして存在しているのと比べて、日本では限られた大学の限られた学部にしか映画を系統だって教える学科は存在せず、「映画学」という学問が存在すると言えるかどうかすら疑問。
 ⇒ 日本の場合、日本映画大学、デジタル・ハリウッド大学、日本大学芸術学部などが映画について系統だって教えるところとして存在するが、いずれも実作者養成が第一義的目的で、純粋な学問としての「映画学」ではない。
 ⇒ 美学、哲学などからの「表象文化論」、文学研究者による「映像のテクスト分析」としての映画研究(作家研究)はある程度の人数の研究者がいるが、社会学、大衆文化論などからのアプローチは少ない。

2) 映画研究のすべての領域、すべての方面からのアプローチの研究者が須らく会員であるような「日本映画学会」は存在しない。
 ⇒ 日本映像学会、日本マス・コミュニケーション学会、映画英語教育学会など、映画を研究する人たちが多く参加する学会はあるものの、それらは、それぞれに専門の領域を持つ人たちが、その立ち位置からアプローチしているということで、やはり「映画学」の研究者とはいいがたい。
 ⇒ それぞれの枠内の研究者にしか読まれない論文。
 ⇒ 本当の意味での「映画学」としてのピア・レヴュー・システムが未確立。
 ⇒ むしろ、アカデミアの外部(民間の映画研究者、コレクターら)による著作などにもクオリティの高いものはあるが、映画関係書には学術的に意味のあるもの、全く無いもののどちらもあり、玉石混交の状態で区別されずに市場に出ている。

3) 「ハリウッド」映画という枠組みに限定するならば、さらに別の問題が浮上する。
 ⇒ すなわち、日本の映画研究者のある意味での主流といえる美学、哲学などからの「表象文化論」や、文学研究者による「映像のテクスト分析」としての映画研究(作家研究)は、往々にして映画の持つ“芸術”としての側面にしか関心を示さないし、 「ハリウッド」映画の大多数を占める“娯楽”映画の研究は価値が低いとみなされやすい。
 ⇒ 映画を著す英語の単語としては、●Film、●Cinema、●Motion Picture、●Movieなどいろいろある。映画とは、人類にとっての科学的な達成物(映画芸術“科学”アカデミー協会)であり、第七芸術であると同時に、何よりもInformativeな“娯楽”として発展してきた。

4) 谷川はどのような立ち位置で映画を研究しているのか?
 ⇒ 谷川は一橋大学の社会学なので、基本的には南博先生などから続く大衆文化研究の系譜に自分自身を位置づけているが、アカデミアにあっては、前任校の茨城大学(今も月に二回、Japanese Film Historyという授業をやっているが)では「カルチュラル・スタディーズ」担当教員というポスト、早稲田大学では(映像を専門とする)「ジャーナリズム論」担当教員というポストでしかなく、どうしてもしっくりこない。
 ⇒ 映画とは、多くの観客の目に触れて初めて意味を持つ。
 ⇒ 多くの観客に好まれる映画こそがいい映画であり、たとえば世界的な巨匠が手がけ、本人が「わが生涯の最高傑作」と自負する映画であっても、それがほとんど人の目に触れたことの無いものであれば意味をなさない。
 ⇒ そういうStandpointで映画に向きあってきているのだが、観客との接点で映画を考えるという枠組みは、正直いって試行錯誤の繰り返し。

5) 大学でどんな授業をやっているのか?
 ⇒ 「映像文化論」では、毎年、テーマを変えて、あるひとつのテーマに沿った映画(主としてハリウッド映画)を選び、2単位=90分×15回の授業で7作品を見せて、観賞後に個々の映画の背景としての時代のムードであるとか、映画がいかに観客に問いかけ、また観客側の潜在的な需要が映画のコンテンツに影響を及ぼしてきたのか、といった観点で考察。
 ⇒ 本年度でいえば、「冷戦時代のパラノイア」というテーマで、前期は「核・放射能への恐怖」、後期は「マッカーシズム」という枠組みで1950年代にハリウッドで製作された映画を題材に学生たちと一緒に考えていく、という構成。
 ⇒ ともかくも、授業で映画を見せてますというだけで、そんなの学問ではない、と思い込むような人が多い、というのがアカデミアにおける問題点。

2. ハリウッドと日本のアカデミアという二つの全く異なる世界の比較
1)アカデミア/映画ジャーナリストという二つの分裂したキャリアの中で、行きつ戻りつしているということの意味。
 ⇒ そもそも、アカデミアに足を踏み入れたのは二つの理由から。
 a) 映画評論家や映画を専門とするジャーナリストだけでずっと食っていくのは大変だろうと思っていたから。(身近なライフモデルとしての祖父)
 b) 映画ジャーナリストとしてどれだけ価値のある仕事をしても、大学という場にいる人たちはおそらく「あれは、研究者じゃなくてジャーナリストが書いた本だからね」と評価の対象にはしようとしない傾向がある(それは蛸壺化している大学人たちのアイデンティティのよりどころだと思うが)ので、「ならば博士号くらいとって、誰にも文句を言われないようにしよう」と思ったから。

2) 専任教員でいること vs. インディペンデントでいること
 ⇒ 専任教員でいること のメリット
 a) 安定した収入
 b) 社会的な信用
 c) 研究室という“狭いながらも自分の城”を確保できる
 ⇒ 専任教員でいること のデメリット
 a) 忙しさ(教授会、委員会、会議、会議、会議…入試、入試、入試……)
 b) 学内ポリティクスに費やされる無駄なエネルギー(派閥抗争、人事案件などでの駆け引き、誹謗中傷合戦)
 c) 専門領域の蛸壺化と、狭い井戸の中で「自分は偉い」と勘違いするメンタリティ
 ⇒ インディペンデントでいることのデメリット
 a) 安定しているとは言えない収入
 b) 研究室がないので資料の置き場所を確保しなければならない
 ⇒ インディペンデントでいることのメリット
 a) 授業・学生指導以外の事には一切関わらないので自由な時間が多い
 b) くだらない事に自分の時間を費やさなければならないイライラの解消
 c) そこそこの社会的な信用の確保
*自分のやりたい仕事をやっていく上で、谷川は専任教員でいるよりも、客員教授というインディペンデントな状態を選択

3) ハリウッド映画産業界(およびそのインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界)ではどうか?
●1950年代半ばまでのハリウッドのスタジオ・システム時代における、メジャー・スタジオの雇用下にある立場と、インディペンデントの映画人(俳優・監督etc)である立場の違い
*メジャーのメリット
 ⇒ 安定した収入/落ち着いて仕事に取り組める環境/潤沢な予算
*メジャーのデメリット
 ⇒ 作家性よりも収益性の高さが優先される構造
*インディペンデントのメリット
 ⇒ 規模は小さいものの作家性は担保(やりたい仕事をやりやすい)
*インディペンデントのデメリット
 ⇒ 安定しない収入/予算のしばり

●1960年代後半の“アメリカン・ニューシネマ期”以降のハリウッドにおける、メジャーとインディペンデントの立場の違い
*メジャーのメリット
 ⇒ 成功の度合いに拠って得られる高収入/潤沢な予算
*メジャーのデメリット
 ⇒ 収益性の高さが追求される結果、作家のエッジが失われやすい
*インディペンデントのメリット
 ⇒ 作家性の担保(ファイナンスさえ得られればやりたい仕事をやれる)
*インディペンデントのデメリット
 ⇒ 安定しない収入/予算のしばり

 ハリウッド映画産業界にしろ、日本のアカデミアにしろ、予算権・人事権などの権力を握る人たちがいて、いったんその世界に入ることを許された人の中でも、その権力に対して従順であれば安定した収入やコンスタントな仕事が保障されるものの、権力に対してクリティカルであろうとし、また自分自身の欲求に忠実にやりたい仕事をやっていこうとすれば、比較的不安定な立場のインディペンデントでいざるを得ない、という点では何一つ変わらない。
 ⇒ どちらがいい、悪いということはない。もの書きとか研究者でもフリーランスの時にいい仕事をしていたのに、大学という組織に組み込まれた途端に守りに入ってエッジを失う人はいるし、逆に安定を得たことで力を発揮する人もいるだろう。映画人でももちろん同じこと。
 ⇒ 要は、自分がどういうタイプの人間なのかということ。たまたま、谷川はいつでも誰に対しても自由にものが言えるような、自由な立場でないとストレスばかりたまってやっていられない、ということ。
 ⇒ それが、アカデミアとジャーナリズムを行きつ戻りつしている理由。

3. 二つの世界の両方に関わってきた者として
1) 映画ジャーナリズムの世界でどんな人立ちと接してきたか
 谷川がアカデミアの世界ではない領域で関わってきたのは、ハリウッド映画産業界のインサイダーとしての映画ジャーナリズムの世界であり、映画作家、俳優、プロデューサーといった人たちへの取材を通じて、言わば“観察者”としてハリウッド映画産業界の様々な立場の人たちを見てきた。
 ⇒ 俳優:S・スタローン、W・スナイプス、L・ディカプリオ、R・デ・ニーロ、K・リーヴス、K・ブラナー、C・オドネル、J・ヴォイト、W・スミス、B・フレイザー、J・ルーリー、D・エイクロイド、J・ニコルソン、 P・フォンダ、J・パトリック、D・クエイド、B・ボブ・ソーントン、 C・ウォーケン、T・ハットン、R・ウォーカーJr、D・ストックウェル、etc
 ⇒ 監督など:A・ライン、J・ウー、T・フーバー、J・シュマッカー、T・バートン、コーエン兄弟、 O・ストーン、 S・ゼインツ、A・ミンゲラ、M・ニコルズ、J・ハリスン、R・ベイカー、G・スティーヴンスJr、etc  
 ⇒ それらの中で、最も深く、強い関係を構築したのがデニス・ホッパーだった。

2) デニス・ホッパー(Dennis Hopper 1936-2010)とは、いかなる映画人で、谷川はいかにして彼との友人関係を構築していったのか?
 ⇒ 谷川自身の、安定はしているが窮屈でストレスがたまる生活よりも、インディペンデントの立場でやりたい仕事をしていきたい、という生き方の基本線。
 ⇒ ハリウッド映画産業界にあってそのお手本であり続け、かつ谷川をそういった生き方へと導き、励ましてくれたのが、デニス・ホッパーという人だった。
 ⇒拙著『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』は、そうした想いを形にしたもの。

 事の発端は、日本ヘラルド映画勤務時代の1986年にニューヨークでデニス・ホッパーによる写真展を見たこと。
 ⇒ 彼の写真家、アーティストとしての仕事を日本に紹介しようと考え、「東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」を企画・プロデュース。
 ⇒ 手始めに、1988年に彼の幻の監督作『ラストムービー』(1971)のロードショー公開を実現。
 ⇒ 1989年11月10日、ベルリンの壁が崩壊したその日にホッパーの初来日を実現させ、渋谷PARCOにて彼の出演作・監督作を集めた映画祭と、彼が1960年代に撮っていた写真を集めた写真展を開催。
 ⇒ ちょうどその頃は、彼自身も長い失意の日々(アルコールとドラッグ漬けの時代)から立ち直り、『ブルーベルベット』で悪役俳優としてカムバックし、再びハリウッドの表舞台に立とうとしていた時期。

3) デニス・ホッパーとは何者だったのか?
 ⇒ 17歳で期待の新人としてワーナー・ブラザースと契約、ジェームズ・ディーンの公私にわたる弟分として映画デビューを果たし、ディーンのたった3本しかない主演作のうち2本(『理由なき反抗』『ジャイアンツ』)で競演した。
 ⇒ ディーンの事故死後も、しばらくの間はメジャー・スタジオという“体制”の中で“反抗的な若者”として居場所があったものの、権力を傘に着て押さえつけようとするスタジオのお偉方や、既得権益を守るべく理不尽なルールを押し付けようとする大人たちに歯向かい続け、ハリウッドを追放されてしまう。
 ⇒ 以後、俳優としてはインディペンデントの立場でB級映画の悪役などを演じたりTV番組のゲスト出演などで糊口をしのぎながら、「将来は監督になって自分たちの撮りたい映画を撮ろう」と共通の夢を語り合っていた故ジェームズ・ディーンとの約束を果たすべく、監督になるための修行の一環として写真を撮り始める。
 ⇒ そして1969年、失敗に次ぐ失敗を重ねたあと、とうとう念願の初監督作品を撮るチャンスを掴む。
 ⇒ その作品、『イージー・ライダー』こそが、たった37万5千ドルの予算で製作されたにも拘らず、最終的に6000万ドルもの収益を上げ、古いスタジオ・システムを完全に葬り去り、今日のハリウッドのビジネス・モデルを生み出すきっかけとなった。
 ⇒ 『イージー・ライダー』の究極の成功(カンヌ国際映画祭新人監督賞受賞/アカデミー賞脚本賞ノミネート)は、デニス・ホッパーをして、一躍“時代の寵児”としてニュー・ハリウッドに君臨させることになり、以降、ハリウッドでは「才能はありそうだが経験の無い新人監督たち」、すなわち、ジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグといった後に続く世代が活躍する下地ができる。
 ⇒ だが、好事魔多しという言葉通り、上げ潮のホッパーが監督・主演第2作として取り組み、南米ペルーでの長期ロケを敢行した問題作『ラストムービー』は、その難解な内容ゆえに資金源のユニヴァーサル映画ともめ、ほとんどお蔵入りの憂き目に会う。
 ⇒ ホッパーの失意の日々の始まり
 ⇒ しかしながら、『ブルーベルベット』で復活を遂げ、監督としても返り咲くまでの間の1970年代にあっても、俳優デニス・ホッパーはヴィム・ヴェンダース監督による主演作『アメリカの友人』(1976)や、短い出番ながら怪演したフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979)といった作品で忘れられない仕事を残している。

4. ホッパーとの出会いで何を学んだのか?
1) 懐に飛び込んだこと
 『ラストムービー』の日本向け配給の権利を持っている相手を探していて、結果的にデニス・ホッパー本人とコンタクトがとれたのだが、始めは住所すら判らないままロサンゼルスに出かけた。
何としても直接会って話をしたいと思い、 『ラストムービー』のビデオ発売用にインタビューさせてもらう話をまとめ、自宅に出向く。
 ⇒ そのとき、ホッパーは、「お前がどうしても俺に会って話がしたいと思った気持ちはよく判る。俺も若い頃、こいつは本物だ、と思った相手には自分から会いに行ったからな。ジェームズ・ディーンと友達になれたのも、どうしたら君のようになれる?、って俺から会いに行ったんだ。だから、オレはお前のことを信用するよ。基本的に同じ種類の人間だと思うからね」と言って、初めから心を開いて接してくれた。

2) 深く心を揺さぶったこと
 その後、「第一回東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」を企画・プロデュースして初来日を実現させたが、それは当時努めていた日本ヘラルド映画の仕事としてやったわけではなく、友人たちと本当に手弁当で、小口のスポンサーをみんなで手分けして探して、足りない分は自腹を切って実現させたもの。
 ⇒ ホッパー夫妻の往復ファースト・クラスの航空券も、ホテルオークラのセミ・スィートルームも、そうやって用意したということを、彼は来日中に初めて知り、深く心を揺さぶられたと思う。
 ⇒ それをきっかけに、その後も密接な付き合いが続き、彼についての本を日本で何冊か出版していたことから、彼自身によって「俺のバイオグラファーだ」と公式に指名され、アメリカとドイツでそれぞれ出版される彼のカタログ・レゾネの編集を頼まれる。

3) 教訓
 本当に自分が情熱を持って取り組めることを見つけ、それに全力で取り組めば、結果はおのずと付いてくる。
 ⇒ 同時に、ホッパー自身の生き方――不器用で、何度も苦境に立たされながらも自分自身の信念に忠実に生きた人だと思う――に憧れ、その生き方をお手本として、僕自身も自分の価値観とか本能とかに忠実に生きようと務めてきた。
 ⇒ 会社をやめてフリーランスになったときに、デニス・ホッパーは「食っていけてるのか?」と心配してくれつつも、「誰かために己を殺して働くということと比べた時に、インディペンデントになるということは絶対的に良いことだ」と背中を押してくれた。

おわりに
 これからの展望
 ⇒ アカデミアと映画ジャーナリズムの二つの世界で、どちらにもインディペンデントの立場で片足ずつ足を突っ込んでいるということは、どちらに重心をかけるも自分次第、という意味では気が楽だが、どちら側の人たちからも「谷川さんって、本当はあっち側の人だよね」と距離を置かれているということでもある。
 ⇒ 昔、デニス・ホッパーも俳優仲間からは“写真家/アーティスト”と思われ、芸術家仲間からは“映画人”と思われ、居場所が無かった、と言っていた。でも、結果的に見れば、デニス・ホッパーという人はその二つの世界の才能と才能を結びつける触媒のような存在として、独特の存在感を示した。
 ⇒ 目標としては、その二つの世界を結びつける架け橋のような仕事を、まだまだあと20年くらいはやっていきたいと考えている。

a0200363_2241435.jpg*デニス・ホッパーとのことの詳細はキネマ旬報社より上梓した『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』(2400円+税、2011年2月)に記してありますので、お読み頂けると嬉しいです。

*同書の出版を記念して本年1月から2月にかけて東京・京橋のLUX Gallerieにて、またその後、大阪の心斎橋STRAND BOOKSTOREにて開催した「谷川コレクションによるデニス・ホッパーの軌跡展」に際して、期間限定で開設していたブログ「デニス・ホッパーの軌跡」は、現在紙面更新は行っていないものの、過去の記事は現在でも閲覧できます。ご関心のある方はhttp://ameblo.jp/dhopper/にてご覧下さい。
                                   2011年11月15日 安田忠郎
                    第12回安田塾を終えて

 第12回安田塾は、10月29日(土)に開催されました。 
 例会では最初、私が午後2時から30分、講師・谷川健司のプロフィールを紹介がてら、「私のアメリカ観」についてお話ししました。
 本号㊤では、そのトークの趣旨を敷衍(ふえん)して述べます。
 そして、谷川講師の講演については、次号㊦で谷川自らが文章にまとめます。

▲ 「第11回安田塾の事後報告㊤」(安田塾メッセージ№37)の(3)は、こう記しました。
 私・安田は「映画狂」、特に「アメリカ映画好き」のゆえに、「アメリカには全体として、多少の屈折はあっても、大変良い印象を持ちつづけてきた。特に小中時代の私の場合、海の彼方のアメリカに強い憧れさえ抱いていた」と。
 この点の意味合いを、私としては児童文学作家・灰谷健次郎(1934~2006)のエッセイ集『アメリカ嫌い』(角川文庫、2002年)を参照しながら、一層明らかにしてみます。
 彼は次のような「アメリカ批判」を表明しています。「はじめ、アメリカが嫌いになったのは、うんと幼いときで、当時、進駐軍と呼ばれていたアメリカ兵に、チューインガムやチョコレートを面白半分にばらまかれ、その屈辱が身にしみた。…/思想形成時代、韓国の民主化闘争やベトナム戦争をつぶさに見てきた。よくここまでやるな、というほどの陰謀と覇権主義に、アメリカにはほとほと愛想がつきるという気分にさせられる。/建国の歴史が先住民虐殺の歴史そのものであり、黒人に対する白人の差別と暴力主義は容易に克服されず、銃社会がしめすように、生命に対するこまやかさのきわめて乏しい国というのが、わたしのアメリカ認識だった。/アメリカスタイルの合理主義というのが、これまた曲者で、商業主義とつるんで、世界中を我がもの顔にのし歩く。/海外に出るようになって、この怪物の、他国への経済侵略、文化破壊のすさまじさに目を見張った。/日本も含めて、世界のおおかたの都市はアメリカナイズされてしまっている。」(同上書84-5頁)

 私はかつて70~80年代に、17年間の小学校教師経験を持つ彼のミリオンセラー『兎の眼』(1974年)を大学教職課程における私の授業の課題図書に指定しつづけました。
 同書は塵芥処理所の隣接する小学校を舞台に、大学を卒業したばかりの若い女性教師が直面する出来事や出会いを通して、児童たちと共に成長する姿を描いた作品です。そこでは、教師(大人)=管理=悪、子ども=自由=善という問題的な二項対立構造が垣間見えるものの、教師が子供に寄り添って共に考える「教育」の根本的なあり方が示されるとともに、学校教育の枠内では見捨てられてしまう底辺の子供たちの個性的なキャラクターが活写されています。
 
 しかし、『アメリカ嫌い』における彼のアメリカ認識・批判は、余りに概念的に過ぎます。
 なるほど同書には、「もしアメリカの文学、映画というものに出会っていなければ、わたしはアメリカを悪魔の住むとんでもない国だと思いこんでいただろう。/当たり前のことだが、アメリカにも思慮深い人、礼儀正しい人、心優しい人は数多くいる」(同85-6頁)という一文が盛り込まれています。
 ところが問題は、彼がアメリカ文学・映画に「出会った」にもかかわらず、何らアメリカ文化の豊かさに裏打ちされたアメリカ社会像を縁取るにいたっていないことです。
 彼は同書のなかで、「社会主義国(ベトナム―引用者註)にストリートチルドレンが多数いるというのは信じ難い話だが、これは現実なのである」、「社会主義国にも官僚主義がある」と言明しています(同181頁)。彼の場合、その思想的構えが社会主義=善vs.資本主義=悪のイデオロギー的枠組みに拘束されているために、アメリカ固有の問題状況を対象化できないのです。ましてアメリカの輝かしい長所を見つめ直せるはずがありません。
 彼のイデオロギー的姿勢では、第11回安田塾の講師・小川彩子(安田塾メッセージ№38参照)の次のような立言は、まったく理解の範囲を超えるものでしょう。「アメリカはヨーロッパ文化をしっかり引きずっており、固有の文化的背景をもつグループが『同化』でなく『共生』を目指している。それぞれの民族グループが先祖から受け継いだ人種的、民族的伝統や習慣などの文化遺産を守り、しかも他の文化も尊重して共生しようという多文化教育が、教師教育において、また現場教師の創意工夫によって促進されている。アメリカ社会を表現するのに今までの『人種のるつぼ』が『トッスド・サラダ(Tossed Salad)」に代わって久しい。固有の人種、民族は溶け合わず、ミックスしているだけのサラダのように、一人一人が個性を主張しているのである。」(『突然炎のごとく』春陽堂、2000年、207-8頁)

 私は、特に少年時代の私は、映画がたまらなく好きでした。とりわけ、強い個人の夢・理想があり、個性きらびやかに躍動する人物を創造するアメリカ映画を熱烈に愛したものです。
 小学生→中学生の私が見た、忘れがたいアメリカ映画は、例えば次のような作品でした。
・「モロッコ Morocco」1930年~監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 主演:マレーネ・ディートリッヒ、ゲイリー・クーパー
・「駅馬車 Stagecoach」1939年~監督:ジョン・フォード 主演:ジョン・ウェイン、トーマス・ミッチェル
・「風と共に去りぬ Gone with the Wind」1939年~監督:ヴィクター・フレミング 主演:ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル
・「哀愁 Waterloo Bridge」1940年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー
・「わが谷は緑なりき How Green Was My Valley」1941年~監督:ジョン・フォード 主演:ドナルド・クリスプ、モーリン・オハラ
・「断崖 Suspicion」1941年~監督:アルフレッド・ヒッチコック 主演:ケーリー・グラント、ジョーン・フォンテイン
・「カサブランカ Casablanca」1942年~監督:マイケル・カーティス 主演:ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン
・「心の旅路 Random Harvest」1942年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ロナルド・コールマン、グリア・ガースン
・「誰(た)が為に鐘は鳴る For Whom the Bell Tolls」1943年~監督:サム・ウッド 主演:ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン
・「キューリー夫人 Madame Curie」1943年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:グリア・ガースン、ウォルター・ピジョン
・「荒野の決闘 My Darling Clementine」1946年~監督:ジョン・フォード 主演:ヘンリー・フォンダ、リンダ・ダーネル
・「白昼の決闘 Duel In The Sun」1946年~監督:キング・ヴィダー 主演:グレゴリー・ペック、ジェニファー・ジョーンズ
・「拳銃無宿 Angel and the Badman」1947年~監督:ジェームズ・エドワード・グラント 主演:ジョン・ウェイン、ゲイル・ラッセル
・「ジャンヌ・ダーク Joan of Ark 」1948年~監督:ヴィクター・フレミング 主演:イングリッド・バーグマン、ホセ・ファーラー
・「折れた矢 Broken Arrow」1950年~監督:デルマー・デイヴィス 主演:ジェームズ・スチュワート、ジェフ・チャンドラー
・「陽のあたる場所 A Place in the Sun」1951年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー 
・「クォ・ヴァディス Quo Vadis」1951年~監督:マーヴィン・ルロイ 主演:ロバート・テイラー、デボラ・カー
・「巴里のアメリカ人 An American in Paris」1951年~監督:ヴィンセント・ミネリ 主演:ジーン・ケリー、レスリー・キャロン
・「アフリカの女王 The African Queen」1951年~監督:ジョン・ヒューストン 主演:ハンフリー・ボガート、
キャサリン・ヘプバーン
・「真昼の決闘 High Noon」1952年~監督:フレッド・ジンネマン 主演:ゲイリー・クーパー、グレイス・ケリー
・「ナイアガラ Niagara」1953年~監督:ヘンリー・ハサウェイ 主演:マリリン・モンロー、ジョゼフ・コットン
・「終着駅 Stazione Termini」1953年~監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 主演:ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト
・「シェーン Shane」1953年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:アラン・ラッド、 ジーン・アーサー
・「地上(ここ)より永遠(とわ)に From Here to Eternity」1953年~監督:フレッド・ジンネマン 主演:バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、デボラ・カー、フランク・シナトラ
・「ローマの休日 Roman Holiday」1953年~ 監督:ウィリアム・ワイラー 主演:オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック
・「慕情 Love Is a Many Splendored Thing」1955年~監督:ヘンリー・キング、主演: ジェニファー・ジョーンズ、ウィリアム・ホールデン
・「十戒 The Ten Commandments」1956年~監督:セシル・B・デミル 主演:チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー
・「ジャイアンツ Giant」1956年~監督:ジョージ・スティーヴンス 主演:エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェームズ・ディーン
 エトセトラ、エトセトラ…
a0200363_1444414.jpg 私は小学4年(10歳)のとき初めて、映画「シェーン」を見ました。映画のラスト・シーン、去りゆくシェーンを必死で引き止めるジョーイの「シェーン!!カムバック!!」の叫びが心に染みました。そして、テーマ曲「遥かなる山の呼び声」』(The Call for Far-away Hills、作曲:ビクター・ヤング、歌:ドロレス・グレイ) の調べに余韻が残りました。
 私は子供のころ、あくまで少年ジョーイの目線で物語を見ていました(⇒少年の目から見た英雄物語)。しかし高校生になってから、もう一度見直して、男女の三角関係(シェーンとマリアン、夫であるジョーとの間で生じる愛の葛藤)の話に気が付きました。
 「シェーン」はいろいろな要素―豊穣な人間味と美しい景色―が入り交じり、見れば見るほど隠された味に魅せられる作品です。「シェーン」こそ、子供は子供で楽しめるし、大人は大人で楽しめる、何度でも観たくなる「西部劇」屈指の名画です。
 

 当時の私が映画の真の価値を汲み取ることができたかどうかはおぼつきません。
 だが、いずれにせよ、思春期の向こう見ずな少年が絢爛たる娯楽性と芳醇なる文化性に恵まれたアメリカ映画に出会って、人間の意味⇒世界の意味を発見し再発見しつづけた点は間違いありません。アメリカ映画の伝える「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ American way of life」―アメリカの生活・思想・科学・教育・政治・宗教等―を通じて、少年のむき出しの視線は世界大の人間の生活と、その価値の普遍性に向けて、自然に開かれていきました。

 私は―少年期はおろか、青年期を経て今日に至るまで―、アメリカ映画から、人間の営為の偉大さ、世界の広さと厚みを学び取りつづけ、民主主義的諸価値に関する貴い示唆を受けつづけました。そして今なお、アメリカ映画の多くが私に心の糧と安息とをふんだんに与えてくれていることも紛れもない事実です。
                                   2011年10月10日 安田忠郎
                   第12回安田塾のご案内

 今回は、下記の要領で開催されます。
■ 例会
【日時】10月29日(土)午後2時~4時30分
【講師】谷川建司(たにかわ・たけし、映画ジャーナリスト・早稲田大学客員教授)
【テーマ】「ハリウッドと日本のアカデミア

【講師略歴】
1962年 東京都生まれ
1989年 日本ヘラルド映画在籍中、「第1回東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル」をプロデュースする
1997年 第1回京都映画文化賞受賞
2003年4月~05年9月 茨城大学人文学部助教授
05年10月~10年3月 早稲田大学政治経済学部教授

【安田のコメント】
 私が谷川さんと初めてお会いしたのは、1999年9月、NY(ニューヨーク)のコロンビア大学(CU)においてでした。両人は同年から翌年にかけて、CUの東アジア研究所(EAI)に「客員」として長期滞在しました。
 彼のCUでの研究報告「占領期におけるアメリカの対日映画政策」に、私は強く興味をひかれました。それは戦後日本の民主主義、一層具体的には私個人の「民主主義的」人格の形成にかかわって、大きな示唆に富む話でした。
 また、私の心に焼きついた思い出の一つは、2000年3月、彼と私が連れ立って、NY→サンディエゴ→ロサンゼルスを周遊、特にハリウッド界隈をめぐり、映画俳優・監督のデニス・ホッパー(1936~2010) の自宅兼事務所を訪問したことです。 
 ホッパーと言えば、アメリカ映画史とアメリカのカウンター・カルチャーに大きな足跡を遺し、昨年5月29日に惜しまれつつ世を去りました。彼が監督・脚本・主演の三役を務めた、アメリカン・ニューシネマの代表作「イージー・ライダー」(1969年)は、1960~70年代の私にとって―ジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」(1975年) 、ロバート・デ・ニーロ主演の「タクシードライバー」(1976年)と並んで―、今なお鮮明に記憶に残る映画です。 
 谷川さんはホッパーと、プライベートな部分で、そして仕事の上で20年余に及ぶ交流を重ねてきました。
 そして、彼はホッパーの供養のつもりで、去る2月5日、『アメリカの友人/東京デニス・ホッパー日記』(キネマ旬報社)を公刊しました。彼がいかに「人間デニス・ホッパーを通じて自分自身を見つめてきた」(同書)かは、言うまでもありません。

 ところで、谷川さんは映画ジャーナリスト・映画評論家以外に、大学教師の仕事(専門は「映画史」・「大衆文化研究」)にも携わりました。2003年度から09年度にかけて7年間、茨城大学人文学部助教授→早稲田大学政治経済学部教授を務めました。彼は同書のなかで、自らの大学人⇔映画ジャーナリストの葛藤に触れて、以下のように述べています。
 「…僕は映画ジャーナリストらしい仕事からはしばらく遠ざかることになった。/代わりに、翌2003年からは大学の専任教員となり、映画史の授業を中心とした教育と、大衆文化をフィールドとする研究者としての研究活動、そして所属する学部・研究科の運営や入試といった学内行政に忙殺される日々を送ることになった。」
 「2009年は、職業人としての僕にとってひとつの岐路に差し掛かった年であった。すなわち、丸7年間を大学の専任教員として過ごした後に、自由な時間と自由なものの考え方を束縛される、組織の中での仕事に見切りをつけて客員教授として授業を受け持つだけのミニマムな関わり方に身分を変更し、本当に自分がやりたい仕事のために自分で自分の時間と仕事をコントロールしていく、という自らの原点に立ち戻る決意を固めたということである。
 大学の専任教員であるということは、社会的なステイタスと安定した収入とが保証されるものである一方、失うものもまた大きい。」
 「かつて1992年に、8年間務めた日本ヘラルド映画を退社してフリーランスの映画ジャーナリストになった際に、ほかの誰の言葉よりも僕に強い勇気を与えてくれたのは、デニス・ホッパーその人が言ってくれた次のような言葉だった。―曰く『自分を殺して誰かのために組織の中で働くというのではなく、インディペンデントになるということは、間違いなく一番よいことだ』 それから丸10年をフリーランスの映画ジャーナリストとして過ごし、その後の7年間を大学の専任教員として過ごしてきた僕にとって、権力争いのような非生産的なことに明け暮れる大学という職場で、否応なくそれに巻き込まれて、自分の時間を浪費し続けることへのストレスはそろそろ限界に差し掛かっていた。…」
 

【会場】武蔵野商工会館5階・第1会議室
【住所】東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
【tel】0422-22-3631(武蔵野商工会議所)
【アクセス】JR中央線&京王井の頭線「吉祥寺駅」中央口・北口(駅前ロータリー)・徒歩5分(サンロードを約150メートル直進→本町新道との交差点で左折→本町新道を約150メートル直進・右側)
【会費】1000円

 安田塾には、どなたでも自由に参加できます。 
 今回ご参加を希望される方は、10月26日(水)までに、下記にご一報ください。
 Eメール:tadyas2011@excite.co.jp 
                                   2011年10月5日 安田忠郎
第11回安田塾(2011.7.23)の講演
泣き笑い挑戦人生異文化、住んで学んで教えて旅して
【講師】小川彩子(おがわ・あやこ、グローバル教育学者)
【会場】武蔵野商工会館4階・市民会議室

▲ 小川さんは下記の項目に即して順次、話を進めました。その際、注目すべきは、アメリカではお馴染みの「参加」型の手法が導入されたことです。彼女の力量のなせる業でしょう、約2時間、参会者との対話を重ねながら、率直な話し合いが展開されました。
(1)自己変革:自己の壁に挑戦! 
 ①超内気な主婦だった 
 ②内なる挑戦から外への挑戦へ
(2)泣き笑い挑戦人生:年齢の壁に挑戦! 
 ①突然のアメリカ生活 
 ②泣きが笑いより多かった 
 ③叩けよ、さらば 
 ④博士号への道:目標必達 
 ⑤講師からプロフェッサーへ
(3)文化の発信受信:文化の壁に挑戦! 
 ①足元から見たアメリカ文化 
 ②多文化音楽とアートの昼食会 
(4)足と心で異文化交流:ドキドキ地球千鳥足と三無(あてにしない・あわてない・諦めない) 
 ①みどりとケンの物語
(5)自己実現と共生活動の交点:挑戦に適齢期なし! 
 ①「年だ」は「ま~だ」だよ
 ②「人生は壁乗り越える泣き笑い―彩子」
 “Constant renewal keeps the oasis alive” 「静かな泉の水は涸れる」

 講演内容は鳥取県米子出身の「超内気」な主婦・小川彩子の「自己変革」⇒「自己主張」の物語でした。そこでは、とりわけ1990年、定年間際の夫に下されたアメリカ転勤(オハイオ州シンシナティ在住)を機に、チャレンジを自分に課しつづけた異文化体験談が披露されました。
 彼女はこの異文化体験の核心を、著書『突然炎のごとく Suddenly, Like a Flame』(春陽堂、2000年)に手際よくまとめています。以下、同書を心して読み取りながら、私の最も関心の引くところを箇条書きに特記します。
 

 「英語はアメリカに行ったからとて簡単に上達はしない、というのが体験からくる私の意見だ。物件(不動産―引用者註)を見ながら、人と話したあと、テレビやビデオを見ているとき、本や新聞を読んでいるとき、良い表現にであったらすかさずメモする。そのメモ帳をおりあるごとに開き、暗記を試み、文脈上少々不適切でも使ってみるなどの死に物狂いの努力があってこそ表現が豊かさを増す。例外的に語学的センスのずばぬけた人はいざ知らず、凡人は努力してこそはじめて英語が身につくのだ。」(同上書13頁)
 ←安田曰く、まったく同感である、と。
 私・安田はニューヨークに10年も(不法)滞在しながら碌に英語をしゃべれない日本人に出会ったことがあります。小川さんは英語の習得に人知れず努力に努力を重ねたことでしょう。

 「シンシナティで手に紙切れでも持ってうろうろしてごらんなさい。家探しをしていると思って必ず若い人でも誰でも飛んできて、“May I help you ?”と聞いてくれる。欧米人の慣用句だからと何も感じない人が多かろうが、私はいつも、なんて美しい言葉だろうと思う。『お助けさせて頂けませんか』なんて。丁寧語で手助け許可を求めるなんて。/多くの日本人は知っている人にはとても親切だが『見知らぬ人への親切』ではアメリカ人にかなわないと思う。挨拶しようとためらっているうちにチャンスを逸するのかもしれない。アメリカは食わず嫌いだった夫でさえも数年の滞米生活のあと、アメリカ観が変わった。未知の人から予期せぬ親切を受けたこと数知れなかったからだ。『宗教を持つためだろう』と良く二人で話合ったが、社会を形成する人間は助け合って生きていくものだという思想―多分宗教に根ざした―が根底にあるようだ。/助けてあげても直接的な見返りは期待しないし、助けてもらっても『アリガトウ』の言葉だけ。いつか自分ができることで助けの必要な人に手をさしのべれば良いのだ。助けの『手』のあとに『物』の移動が少ないのはスッキリしていて気持ちがいい。」(同22-3頁)
 1998年の大晦日、小川夫妻がレストランで居合わせたアメリカ人と年越しをした際のこと。「十二時が近づくと『肩を組もう』とその中の1人が言った。そして全員が肩を組み、『蛍の光』を合唱し始めた。程なく十二時だ。/“A Happy New Year!”と叫びあって…、お互い知らぬもの同士が抱き合って頬をくっつけ、『サンキュー。ワンダフル!』と賑やかに挨拶を交わす。直前まで知らぬ間柄だった者同士が仲間になり、20人がもれなく頬をくっつけあうこの和やかさ。『なるほどここはアメリカだ!』と温かい気持が胸にあふれた。」(同201-2頁)  
 ←安田曰く、まったく同感である、と。
 私・安田もまたニューヨーク滞在中―シンシナティよりはるかに巨大な都市でも―、“May I help you ?”と声をかけてきた何人ものニューヨーカーに出会いました。そして、各種のパーティー場やレストランで過ごした際、私の周辺には「相手をハッピーな気分にさせる明るく温かい挨拶と微笑み」(同21頁)が満ちていました。
 それに比べて、日本人のほとんどが何とのっぺりして無表情なことか!溌剌とした自己主張もなく、引っ込み思案で辛気臭くて、ウジウジしていて…あー、どうして、こうも違うのか!
 私はこの十数年、この彼我の差を見極めるために、「近代化」の問題を検討するとともに、人間のエートス(生活態度⇒宗教)に立ち入って、主としてユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教と、神道・仏教の多神教を比較検討してきました。そして、どうやら事態は見えてきました。
 私はこの学習成果の一端を、昨年の世田谷市民大学(受講者112名)で初めて発表しました(安田塾メッセージ№20参照)。

 「アメリカでは勉強の適齢期はない。学校を離れるのはドロップ・アウトだけではなく、不必要な時にはストップ・アウトし、また必要なときに学校へ帰るバック・トゥー・スクールのシステムが確立している。人はいくつになっても教育を受ける権利を持っているのだ。だから公教育の時期に関する人生プランは一人一人が異なる。自分の人生を決めるのは自分なのだ。」(同28頁)
 ←安田曰く、アメリカの学校教育がいかに豊かであるかは、一個人の生涯にわたる積極的な自己学習能力を高める教育システムが整備されていることが客観的に実証している、と。

 「8年間のうちに住まいを4回変わった。引越しが趣味だと言われてしまったが、どの家にも限りない良さがあった。アメリカの住居、特に古き良きアメリカの残るシンシナティではアパートも、タウンハウスも、どんなに小さく見える家でも、室内はとてもゆったりと造られている。日本の一般的な家屋と比較すると感動するほど素敵な設計になっている。」(同33頁)
 「シンシナティ界隈はどこに住んでも風景は美しく、コミュニティーは人情に満ちあふれ、リスや小動物をはじめ蛍も多く、かわいい鳥の声がこだましている。」(同40頁)
 ←安田曰く、アメリカの住環境がいかに素晴らしいかは何人と言えども認めざるをえない、と。
 昨年の世田谷市民大学における私・安田の受講生・志村謙一さんは、1989年から93年まで4年間、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ライブルック市に居住しました。彼は私に、こう語ってくれました。
 月2800ドルで借りた一戸建ての家は、500坪ぐらいの庭に飛び込みもできる15メートルのプール付き。プールは温水装置を完備し、春から秋まで使える。家賃は月1回の庭師の作業料込み。庭には野ウサギやリスが棲み、時々鹿やスカンクが訪れる。そこは特別裕福な階層が住む住宅地ではなく、国連職員・高校教師・年金生活者など、ごく普通の人たちが近所の住人である。日本が「GNP世界2位」などと言っても、実はちっとも豊かでない、アメリカはもとよりオーストラリアやニュージーランドに比べても貧しいと痛感!少なくとも住環境のレベルは、アジア諸国と同程度。いったい豊かさ、幸福とは何か。何か違うものを我々日本人は追いかけてきたのではないか―。

 「転勤で夫がシンシナティに赴任する直前に私たちは多くの人を招いてホーム・パーティーをしようと話しあっていた。日本文化を伝え異文化を学び、加えて英会話の練習にもなるからだ。ワインもビールも格安なこの地に来て早速実行にうつした。蛍見パーティーから始まり、アライグマどんじゃらほいパーティー、紅葉見、鹿見、そして雪見酒パーティーなどと銘打ったパーティーは長く続いた。」(同72頁)
 「当時『日本人は情報を取るばかり』とか『閉鎖社会を作っている』などと言われていたが、私たちはそのような批判を返上しようと努力しながらアメリカ生活を楽しんできた。」(同75頁)
 「異文化受信のみでなく日本の文化を伝えようという私たちの試みがアメリカの人たちに日本人に対する親近感をもたらすならば幸いであるという思いで常に文化使節を意識してきた。」(同77頁)
 ←私・安田は、ホーム・パーティーを開き、異文化コミュニケーションを進展させた小川さんの「国際人」としての生き方に絶大なる敬意を表するものです。
 この際、私たちは日米関係史上の日本人移民排斥運動の問題を忘れてはなりません。日露戦争のころから、特にアメリカのカリフォルニア地方では、低賃金で勤勉に長時間働き、しかもアメリカ社会に溶けこもうとしない日本人移民が白人労働者の目の敵にされ、労働組合を中心とする移民排斥運動の矢面にさらされました。やがて1913年―第一次大戦の前年―には、カリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止した「排日土地法」が成立します―。
 この排日的な雰囲気が醸成された背景として、「黄禍論(Yellow peril、黄色人種脅威論)」という当時のアメリカ人の人種的偏見(人種差別)の問題は看過できません。しかし同時に、日本人移民自体が自閉的・集団主義的な共同体を形成して、他者=アメリカ人になじめないorなじまない事態が注視されなければなりません。
 五十路の坂を越えた熟年の小川彩子は、日本人の民族的特性ともいうべき自閉的共同体性を克服する滞米生活を送りつづけました。そこでは現に、「交友関係がグローバルになるほど」に、「ナショナリティーよりも個人のパーソナリティー」が「重要な関心事」となりつつづけました(同75頁)。

 「アメリカでは履歴書に年齢を書かない。うっかり書くと最初に読んだ人が『これはいらない』と必ず注意してくれる。『結婚、未婚』もいらない。そういうことは仕事能力とは無関係という考えが徹底している。アメリカの履歴書を日本の大学への求職に送ったら日本の履歴書形式に直してください、と言われた。年齢給が生きているのが大きな理由だという。多くのアメリカ人は、年齢を重ねているということはそれだけ世の中を見てきたということで、有利になりこそすれマイナスになるのはおかしい、と言う。私も年齢給は求職者だけでなく、求人側にとってもマイナスだと思う。世界の諸システムがからみあい依存しあうグローバル時代の仕事には、人間の生物学的年齢より個性や個人差のほうがものを言うと思うのだが。」(同168頁)
 ←私・安田は滞米生活をとおして、アメリカが人種・年齢・性別・宗教・信条の如何にかかわらず対等の権利が得られるよう常に努力しつづけていることを思い知りました。特に、どんな職場でも多くの高齢者が生き生きと働いていること⇒実年齢にこだわることなく、すがすがしい能力主義の人選を進めていることに強い感銘を受けたものでした。

 「日本の社会現象の多くはアメリカのたどってきた道を追っかけてきている。経済活動でも教育制度でも変革の試みが速いアメリカには日本のやろうとしていることの成功例、失敗例があふれている。たとえば、日本の高等教育は今変身をせまられているが、1998年10月の大学審答申の内容のほとんどがアメリカで長きにわたってプログラム化されているものである。日本の大学もこの先社会人学生が高等教育の半数を占め、大学の入り口は広く出口は狭く、転校がスムースでプロフェッショナリズムが重視されていってほしい。
 アメリカはまた奨学金その他、多種の利益を心がけて国際学生を惹きつける。惜しみない援助で学ばせてもらった国際学生は必ずや将来母国との架け橋になる。また世界中からやってくる国際学生と共に学び、競争するアメリカの若者、とくに高等教育で研鑽をつむアメリカの学生は、日本の学生と比べグローバル意識、協働・共生能力に大きな差がある。日本に留学している国際学生の数はアメリカにいる留学生の比ではなく、また教授の講義の聞き役を演じ続ける日本の学生に同情を禁じえない。
 われわれ個人も公的機関も、アメリカの個人や公的機関のようにリスクをかけることを恐れず、チャレンジ精神で試行錯誤し、変革は速やかに断行する必要がある。個性を育てる教育の掛け声が聞こえて久しいが、異文化背景の人々が隣り合って住むこのグローバル時代に、説得力を持って意見表明し、協働、共生する能力を育てる多文化共生の教育・グローバル教育が急務だ。長きにわたり異質の人材を受け入れてきたアメリカ、人種、信条、年齢、性別による差別を減らす努力を続け、弱者グループの権利拡大に心を砕くアメリカの社会には日本の明日のモデルが多く見られる。」(同208-9頁)
 ←安田曰く、これまた、まったく同感である、と。

 小川さんは講演の最後を、次のような「個人のグローバル化」論をもって締め括りました。
 ・個人の「グローバル化」とは、グローバル意識が高まること、すなわち「異文化を理解し、異文化背景の人々の直面する問題や懸案事にも関心を寄せ、知識を得、支持、または説得力を持って対話し、異文化背景の人々と隣り合って住み協働することができ、自グループの立脚点からのみでなく地球的視野で正義や平等の実現に向けて意見表明や努力をするようになる」ことである。
 ・グローバル化した人間は端的に言って、言語や心的態度・行為としてのコミュニケーション技術に長けている人である。言語に関しては母国語意外に少なくとも一つの外国語が離せ、心的態度・行為に関しては世界の地理や歴史・政治・経済について知る努力を重ねることが、グローバルな人間の必要条件であろう。    
           ↓ 小川彩子・バックパッカーの旅―ジンバブエで(2011年4月)
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                                   2011年10月1日 安田忠郎
                   第11回安田塾を終えて

 第11回安田塾は、7月23日(土)に開催されました。
 今回は(文章の分量の関係上)㊤㊦の2回に分けて報告します。本号㊤では私自身の話を、次号㊦では講師・小川彩子の講演をまとめます。
▲ 例会では最初、午後2時から30分余り、私が小川講師のプロフィールを紹介がてら―彼女がアメリカの大学教師である点を意識して―、「日本人のアメリカ観」についてお話ししました。
 「日本人」のアメリカ観と言っても、それは主として、(1)わが父・安田次郎(やすだ・じろう、1908~96)、(2)記録文学作家・上野英信(うえの・えいしん、1923~87)、(3)私・安田忠郎(やすだ・ただお)、この三者によるアメリカ評に限定されたものでした。以下、当日のトークの趣旨を敷衍(ふえん)して説明します。
 
 (1)安田次郎は1908(明治41)年1月21日に北海道岩見沢町(明治39年町制施行→昭和18年市制施行)に生まれ、1927(昭和2)年8月に(19歳で)小学校教員―北海道空知郡美唄町沼東尋常高等小学校尋常科訓導―となる。43年3月に空知郡岩見沢北本町国民学校訓導となり、44年7月15日に応召で(36歳で)横須賀海兵隊に入隊し、45年8月15日に復員する。
 次郎は「大東亜戦争」の敗戦後、戦前・戦中の教師時代の至らなさを省みた。自分が「無知」なるがゆえに、時代状況にだまされつづけた、と。そして、『アメリカ教育使節団報告書』(安田塾メッセージ№35参照)に出会って、何か自分が救われ、勇気が身内から湧き上がってくる。ヨシ、この自由主義=民主主義のもとでなら、学校教師としてやっていける、と。
 彼は1947年6月に日教組(日本教職員組合、58年・調査開始時の組織率86.3%、2007年組織率28.3%)が設立されると即刻、その一員(北教祖=北海道教職員組合)となったものの、次第に失望を深め、たしか―私の記憶に誤りがなければ―、50年代の終わりに北教祖を脱退した(→68年3月31日岩見沢市立中央小学校教諭定年退職)。「生涯一教師」をめざした彼には、日教組が傾倒するソ連や中国の社会主義・共産主義イデオロギーに、また日教組が52年に制定した『教師の倫理綱領』―特に第8項「教師は労働者である」―に、どうにも馴染めなかったのである。
 彼は生来、アメリカに好感を持っていたものの、ソ連や中国―特にその社会主義国家体制―に悪感情を抱いていた。私がその点を否応なしに知らされたのは、次のような出来事をとおしてである。
 ①彼は戦後、常々「これからはアメリカの時代だ、英語をしっかり勉強する必要がある」と言いながら、毎朝午前6時に起床して、NHKラジオの「英会話」聴取を励行しつづけた。
 ②彼はある日、小学6年生の私を同道し、岩見沢市の唯一のカトリック教会をだしぬけに訪問した。そして、たまたま居合わせたライアン神父(アメリカ・ボストン出身)に、私に対する「英会話」教授をお願いしたところ即、「じゃあ、タダオく~ん、いっしょにベンキョウしましょうネ」との応諾を得た。
 ③小学~中学をとおして映画が好きで好きでたまらなかった私は、とかく下校直後、カバン(学用品)を机の上に放りだしたまま、岩見沢市の映画館3箇所に通いつめたものである。
 私は中学3年のある夜、映画館でバッタリ次郎と鉢合わせした。二人は期せずして同時に、映画「戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai」(1957年公開の英・米合作映画)を鑑賞した。 
 この映画は私の映画鑑賞史上、忘れがたい戦争大作である。そこでは、第2次世界大戦のただ中である1943年の、タイとビルマの国境付近にある日本軍捕虜収容所を舞台に、捕虜となった英軍・米軍兵士らと、彼らを使ってクワイ河に橋を架けたい日本軍人たちとの対立と交流を通じて、極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の愚かさ・惨(むご)さが描かれている。監督はデヴィッド・リーン、出演はアレック・ギネス、ウィリアム・ホールデン、早川雪洲、ジャック・ホーキンス。第30回(57年度)アカデミー賞受賞(作品賞・監督賞・脚色賞・主演男優賞・撮影賞・作曲賞・編集賞の7部門)。
 彼と私は、この作品を約2時間30分堪能した。そして、連れ立って帰宅途中、彼はおもむろに口を開いた。「忠郎、いい映画だった!あんなイイ映画なら、いくら見てもいいぞ!学校のクダラナイ授業より、ああいう映画の方がよっぽどタメになる。」
 ④1962年2月26日、私は生まれて初めて上京した。それは一応、大学を受験するための上京だった。「一応」と言うのは、私の場合、2月上旬に風邪から肺炎を併発し、医者から2~3月の上京→受験が差し止められたにもかかわらず、熱が多少下がった頃合いに、何とか無理を犯して単身上京し、受験に備えたからにほかならない。だが結局、3月に入って熱がぶり返したため、やむなく受験を断念し、20日近く東京大森の親戚宅の病床に臥すにいたった。私はしばし、わが身の不運を嘆息したものである。
 当時、事実を打ち明ければ、私の受験学力は断トツの実績を上げ、日本のどんな大学の、どんな学部でも難なく合格できる高いレベルにあった。高校3年の私は、札幌市の自校はもとより、北海道の高校全体における数々の模擬試験・学力コンクールで、常にトップの成績を収めていたからである。
 しかし問題は、そもそも私自身が何のために大学に行くのかがわかっていなかったし、大学で何を勉強したらよいのかも一向に見当がついていなかったことである。
 高校生の私は、マジメに考えていた。総じて魅力に乏しい学校教師から教わるものは何もない、と。また、学校の退屈な授業を上の空で聞き、課業に振り回されるよりも、密度の濃い自分自身の時間をフルに活用して、読書に耽り、詩を口ずさみ、映画を見、音楽を聞き、絵を描き、そしてスポーツに親しむ方が人生本来の意義にかなう「自己実現的」営為である、と。
 当時の私の生活は、学校を埒外に置き、札幌の「藻岩山(もいわやま)」山麓の下宿に陣地を築き、その市街地のあちこちを威勢よく羽ばたくことを日課にしていた。学校教師にとって、欠席が余りにも多く、遅刻と早引けの常習犯だった私という生徒は、フマジメで厄介な問題児だったことは間違いない。(註:私は高校2年の3学期から、岩見沢市の一高校から札幌市の一高校に転校した。親元を離れて、札幌の市街地に隣接する藻岩山の麓にある素人下宿で自活しながら、私は文字通り「自由」を満喫した。)

 1962年3月中旬のある日、病臥を余儀なくされた私は、索漠たる思いにとらわれていた。大学受験に失敗したのは、1月から2月にかけての不摂生な生活によって風邪→肺炎を患ったからで、まさに身から出た錆だ…。自業自得なんだ。この失態を―思わぬ失態とはいえ―、謙虚に重く受け止めざるをえない。それにしても、不面目な失態を演じたものだ…。
 そして、ふと私の学友たちは定めし皆、東大に京大に北大に合格したことだろうと思い及んだ瞬間である。ある衝動的な思いつきが私の頭をよぎった。それはソ連のモスクワにある「ルムンバ民族友好大学」(1992年「ロシア諸民族友好大学」と改称)を受験することだった。
 1960年に設立され、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ地域からの留学生が集う同大学の存在を、私が初めて知らされたのは、学友Nを通してである。私は彼から前に聞いた話をまざまざと思い起こした。同大学への日本人留学生の派遣は、日本とソ連の文化交流を促進する「日ソ協会」(1957年創立、92年「日本ユーラシア協会」と改称)が取り仕切っていること、また61年の選抜試験では、日本人「多数」の受験者の中から函館中部高校出身の道産子(どさんこ)・中川某が合格したこと…。
 
 Nは高校3年のとき、偶然にも私と下宿を同じにし、二人は折あるごとに、口角泡を飛ばして「天下国家」―特に資本主義vs.社会主義―の趨勢を論じ合った。それは未熟な「経験・思想」段階の「論争」に終始したとはいえ、私にとって認識対象として関心事にとどまる社会主義・共産主義の問題に、彼がすでに思想的・心情的に心から共感している事態を浮き彫りにするものだった。
 [ちなみに、Nこと沼田清剛は、現役で北海道大学理学部数学科に進学後、「民青」(日本民主青年同盟)に加盟し、自ら日本共産党のシンパをもって任じるにいたった。今にして思えば、彼における社会主義イデオロギーの形成は、少なくとも高校→大学時代を通じて、彼より4歳年長の、日本共産党員である姉Iの強い影響下にありつづけた。Iこと石井郁子は、北海道学芸大学教育学部卒業→大阪教育大学助教授→衆議院議員(5期、共産党)→日本共産党中央委員会幹部会副委員長の経歴の持ち主である。]
 
 ふとした心の弾みから、私は同年の4月か5月ごろの日曜日―突然のあわただしい受験手続き→実際の受験日・試験問題内容に関する私の記憶は希薄である―、勇にはやって、ルムンバ民族友好大学を受験した。
 試験は一次試験(日本語による「国語+社会・歴史+数学」に関する筆記試験)とその合格者若干名に対する二次試験(小論文および面接試験)にまたがっていた。私は何はともあれ、慶應大学三田キャンパスを試験会場とする一次試験に臨んだ。
 会場の三田キャンパス大教室は、意外や意外、200人余りの受験生(学生+社会人)で満席だった。当時の全国の大学進学率が10%強にすぎない点、時期的にすでに日本の全大学の入試が完了している点、当の大学がモスクワ内に設立された国際大学とはいえ、「共産主義思想及びその経済政策を教えるための」歴史的特異性を刻印された大学である点などに照らして、現役・浪人を取り混ぜた受験生は多くとも50~100人と、私は踏んでいたものである。
 当日ようやく体調と自信が回復しつつあった私は、どんな受験戦線の難関でも突破できると、心ひそかに自負していた。そして実際、一次試験はほぼ満点を取って合格した。たしか合格者は私を含む5名前後(?)だったと思う。私は二次試験―受験日は一次試験のそれの2週間(?)後だったか―を、待つともなく待ち構えていた。 
 
 二次試験を数日後に控えた夜半のこと、安田次郎が突如として私の前に現われた。
 父は私が身を寄せる親戚筋の通報により、私がソ連の大学に受験し合格したらしい旨を聞き及び、押っ取り刀で―遠路はるばる(汽車と連絡船を乗り継いで、岩見沢→函館→青森→上野)一日半を費やして―駆けつけてきたものである。私は両親をはじめとする故郷の関係者に、「ルムンバ民族友好大学」受験について一切連絡を控えていた。
 次郎(54歳)と私(19歳)は、夜を徹して思いのたけを語り合った。私と父の関係史(44年)上、それは最も長時間に及んだ話し合いとなった。次郎が私に向かって結論的に言わんとするところは、こうである。
 「忠郎、ソ連の大学には行かないほうがいい。ソ連の社会主義はどうにも信用が置けない。…私はあの第2次大戦終結後のシベリア抑留の問題が片時も頭を去らない。戦争末期の昭和20年8月9日に、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦し⇒ソ連軍が満州を占領した事態は、ヤルタ会談にもとづく、やむをえない必然的な成り行きだったのかもしれない。だが、日本が8月14日に『ポツダム宣言』(7月26日発表)を受諾し、停戦・降伏・武装解除に踏み切ったにもかかわらず、ソ連は60万~70万人(一説には100万人)の日本人捕虜(軍人+民間人)を主にシベリアやモンゴルに送り込んだ。過酷な環境(厳寒の地)と劣悪な労働条件(奴隷的強制労働)で、約6万(一説には二十数万人)の抑留者が死亡した。このソ連の行動は、武装解除した日本軍の各家庭への復帰を保証した『ポツダム宣言』第9条にもとる、許しがたい背信的行為だ。」
 「忠郎、ソ連=ソビエト社会主義共和国連邦には“自由”がないんだ。それはあの国策映画を一目見れば、よく分かること。あれはヤラセもいいところで、日本の戦時中の映画とどっこいどっこいの映画だ。個性きらびやかに輝く人物を描くアメリカ映画とは、それはそれは雲泥の違いだ。」
 「忠郎がアメリカの大学に行くというなら、話は別だ。アメリカには強い個人の夢がある、理想がある。アメリカという場は、忠郎の才能を可能性の極限まで開花させるかもしれない。しかし、よりによってソ連の大学に、それも正体不明の民族友好大学とかに行けば、忠郎の一生が台無しになるかもしれない。」
 「たしかに今、忠郎が言うように、何の目的もなく日本の大学に入っても大して得るところがないだろう。…どうだ、いっそのこと、すべての大学受験をしばらく見送り、東京という日本の大都会を行き当たりばったりに放浪してみないか。…そして独立独歩、自ら学びつつ生き、生きつつ学ぶことだ。マルクス主義―社会主義・共産主義―の理論なども別に大学で学ぶまでもなく、いくらでも独学できるだろう。…東京の喧騒の巷をガムシャラに生きつづければ、いつか必ずや生きることに得心が行き、高校時代とは異なる向学心が燃え立つだろう。忠郎、そのときだ、学問への志が盛んに立ったときだ、改めて大学を視野に入れた、新たな人生を踏み出してみてはどうか―。」

 私は人生の大きな分岐点に立っていた。次郎の言葉を頭の中で何度も反芻しながら、与えられた人生いかに生くべきかをとめどなく考えつづけた。
 歴然たる事実は、私にはルムンバ民族友好大学に進学するに足る合理的な根拠が何もなかったことである。次郎におけるソ連観vs.アメリカ観は、私の素朴な共感を呼び起こすものだった。
 私は同大学の二次試験を放棄し、Going my way、勇躍あてどない放浪の旅に就いた―。 

 (2)上野英信は私の人生史上、最も畏敬する作家・思想者の一人である。
 [註:拙著『炭鉱(ヤマ)へゆく―日本石炭産業の生と死の深淵―』(JCA出版、1981年、290-1頁)(安田塾メッセージ№32参照)では、また拙著『人間観の基底―マルクスからフォイエルバッハへ―』(JCA出版、1994年、266-8頁)では、彼の人間・思想像の一端が私自身の思想形成過程にかかわる範囲で描かれている。なお、私は上野英信を、個人的に「英信」ないし「英信さん」と呼びつづけてきた関係上、以下の文章もそれに準じたい。]

 ● 英信は1923(大正12)年8月7日、山口県吉敷郡井関村(現・山口市)に出生する。41(昭和16)年、貧乏ゆえに授業料無料の満州国の建国大学に入学する。この植民地支配のエリートを育てるための国策大学で、日本の戦争や占領に反発する中国人らと交流した。在学中に学徒兵として招集され、45年8月6日、駐屯中の広島市宇品で被爆(爆心地4km)する。
 彼は戦後、46年に京都大学文学部支那文学科に復学、しかし翌年に中退し、48年から53年にかけて九州・筑豊の坑夫(炭鉱労働者)となる。学歴を「小学校卒」と逆詐称し、海老津炭鉱・高松炭鉱・崎戸炭鉱等で、掘進夫・採炭夫として地の底に降り立つ。58年、谷川雁、森崎和江らと筑豊の炭鉱労働者の自立共同体「サークル村」を結成、機関誌『サークル村』を創刊する。同誌からは石牟礼道子や中村きい子らを輩出した。64年、新目尾(しんしゃかのお)炭鉱閉山後の廃坑長屋に居を構え(福岡県鞍手郡鞍手町)、そこを「筑豊文庫」と名付けて、公民館兼炭鉱資料館兼図書館―「おとなも子どもも自由に利用できる、学習と話しあいと宿泊の場」(英信)―として開放する。
 65年1月15日、筑豊文庫が正式に発足⇒「筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人びとによって創立されたこの筑豊文庫を足場として、われわれは炭鉱労働者の自立と解放のためにすべてをささげて闘うことをここに宣言する。」(英信の宣言文)
 87年11月21日、筑豊の地獄を生き抜いた、人間的・思想的に強靭な英信は、食道癌のため64歳で死去する。
 96年4月、筑豊文庫が閉鎖・解体される。

 ● それは1983年5月27日のことだった。私は英信と、初めて、じきじき対面する機会に恵まれた。
 事のきっかけは、私が81年9月25日に前掲『炭鉱へゆく』を公刊してまもなく―2週間後だったか―、同書を「著者謹呈」、英信宛てに小包郵便で―「…ご笑覧に供します」の一文を添えて―発送したことにある。 
 

 私が英信の出世作『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年8月20日刊行)に出会ったのは、64年9月のこと。筑豊の中小炭鉱、いわゆる「小ヤマ」とそこを転々と渡り歩く、いわゆる「渡り坑夫」たちをありありと“記録”した同書は、21歳の私の心に、ただならぬ衝撃を与えた。地底から追い払われていく坑夫大衆の飢餓と絶望をえぐり出す「上野文学」は、私という惰弱なる生者の魂を荒々しく揺さぶった。
 私は60年代後半以降、英信の書くあらゆる文章の愛読者でありつづけた。そして、いつか「筑豊文庫」を訪ねたいと一心に念じつづけていた。しかし、60年代後半~70年代をとおして所用かたがた、全国各地の炭鉱―九州地方に限れば、三池炭鉱(福岡県大牟田市、97年閉山)と高島炭鉱(長崎県長崎市、86年閉山)―を巡り歩きながらも、筑豊の廃鉱地帯まで足を延ばすにはいたらなかった。

 1981年10月下旬だった。私は英信の妻・上野晴子(うえの・はるこ、1927~97)から、私の贈呈本に対する礼状をいただいた。そこには、英信が今「著書」執筆のための取材で沖縄に長期滞在中であること、この10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が勃発して(安田塾メッセージ№21・32参照)、拙著が切り込む「北炭」問題をとても身近に感じることなどが書き添えられていた。それは気取りのない人柄を思わせる率直な文面だった。
 英信はその頃、『眉屋私記』―沖縄名護地方の「眉屋(まゆや)」と呼ばれる一族(貧農)の顛末記―を書き上げるために、沖縄で取材中だった。
 彼は1974年3~9月の200日余り、筑豊の坑夫⇒炭鉱離職者たち(死者を含む150人)の足跡をたどって、南米のブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの地を訪ね歩いている(資金はカンパや借金や原稿料の前借りで調達された)。この海外移住先で「渡り坑夫」ならぬ「渡り百姓」として悪戦苦闘する炭鉱離職者の実態(農業移民⇒棄民)を記録した作品が『出ニッポン記』(潮出版社、1977年10月10日刊行)である。
 彼はその追跡取材をとおして、多くの沖縄出身者と出会った。それを機縁として、彼はさらに沖縄からメキシコまで、広く精細な調査と取材を敢行する(78年4~6月にメキシコ取材)。その成果がほかならぬ『眉屋私記』であり、84年3月10日に刊行(潮出版社)されている。
 この記念碑的傑作では、特に眉屋の嫡子・山入端萬栄(やまのは・まんえい)の波瀾万丈の人生にスポットライトが当てられている。かれ萬栄は、貧困のどん底にあえぐ眉屋一族を救おうと、移民として1907年(21歳で)メキシコに渡って炭坑夫となり→折からのメキシコ革命に翻弄されて後、16年キューバに脱出し→ついに帰郷の夢を果たせぬまま、59年ハバナでその生涯を閉じた―。[ちなみに、萬栄の跡を追いつづけた英信は当時、社会主義国家・キューバへの入国を許されなかった。彼いわく、「私の無念は深い」(『眉屋私記』「あとがき」)と。]

 83年5月26日のことだった。私のもとに、英信さんから突然の電話が入った。晴子さんからの礼状を拝受して約1年7ヵ月が経っていた。「上野英信です。…ぼくは今、東京におります。時間がありますので、お会いしませんか―」
 私は電話口でお辞儀した。願ってもない朗報だった。ついに、あの英信さんに見(まみ)えることができる!悦びが私の体の中を駆けめぐった。
 私は彼と、翌27日午後1時に、渋谷の喫茶店(渋谷東急プラザ2階)で待ち合わせた。その際、私の手には大きなカバンが引っ提げられていた。そこには、私の読後感や疑問点・注意点などをメモった付箋を随所に挟んだ彼の著作10点、すなわち前掲『追われゆく坑夫たち』『出ニッポン記』+『日本陥没期』(未来社、61年)・『地の底の笑い話』(岩波新書、67年)・『どきゅめんと筑豊―この国の火床に生きて』(社会新報、69年)・『天皇陛下萬才―爆弾三勇士序説』(筑摩書房、71年)・『骨を噛む』(大和書房、73年)・『廃鉱譜』(筑摩書房、78年)・『火を掘る日日』(大和書房、79年)・『親と子の夜』(未来社、新装版82年)が押し込まれていた。
 初対面の挨拶を交わした後、私はやおら、カバンの中を探り、彼の著書を取り出し、その付箋箇所を見ながら単刀直入な質問を切り出した。この私の探究的で真率な態度にほだされたのか、彼は「場所を変えましょう。近くに仕事用の臨時のアパートを借りています。そこで、ゆっくり語らいましょう」と言い、そそくさと喫茶店を出て、タクシーを拾い、青山にあるアパート(集合住宅)まで私を誘導した。
 

 彼と私の、静けさに満ちた6畳一間のアパートにおける対談は、4時間半に及んだ。その対話的問答は、私からの、主として次のような問題提起のもとで進められた。 
 ・彼における原爆症の問題
 ・「サークル村」の思想性の問題―特に谷川雁、森崎和江、石牟礼道子に即して―
 ・「坑夫」と文学者(「インテリ」)の関係の問題―知の紡ぎ方―
 ・千客万来のにぎわいに包まれた「筑豊文庫」の問題―特に岡村昭彦、松下竜一、野坂昭如、五木寛之(『青春の門・筑豊篇』)に即して―
 ・『追われゆく坑夫たち』→『出ニッポン記』の思想的文脈の問題―彼にとって「南米」滞在6ヵ月の旅とは何か―
 

 時間がまたたく間に過ぎた。彼の発する重い言葉の数々が私の心に響いた。充実感が私の胸の中に広がった。
 この彼と共有できた4時間半こそ、私の人生にとって“永遠”そのものである。この彼との運命的な―最初で最後の!―出会いを、私は永久に忘れることができない。私の他者との交流史上、それはまさしく最も劇的な、空前絶後の出会いにほかならなかった。

 ● 英信の思想・表現の原点は、すぐれて1945年の8月6日と8月15日の経験にある。
 彼は22歳の誕生日の前日に広島で被爆し、後遺症に苦しんだ。「自分は8月6日に一度死んだのだ」。彼はこの6日から敗戦の15日までの間を「ゆきつもどりつ」して、「その10日間から出られない」がゆえに、「その地獄を生きるしかない」と決意し、「資本主義が作った地獄」=炭鉱に飛びこむ。そして、地上・広島の地獄⇒地下・筑豊の地獄のただ中で、一介の坑夫として働くとともに、ツルハシで石炭を掘り出す作業と「同じ感覚の重さ」を持った、ペンで言葉を掘り起こす作業に没入する。

 英信は誕生日の8月7日―広島原爆の翌日―がめぐってきて、「オメデトウ」と言われるたびに、あの忌まわしい「昭和」⇒戦争⇒原爆投下を思いだすとともに、アメリカ憎しの高ぶりが体の中を駆けめぐる。彼はヒロシマを思い、ヒロシマにこだわるとき決まって、「アメリカ人を皆殺しにしたい」の衝動につき動かされる。
 なにしろ彼は生涯を賭して、満州→広島→筑豊に盤踞して、坑夫への深い愛と共感のもと、炭鉱→部落→朝鮮人、そして天皇制と、いわれなき差別→いわれなき死の現実に敢然と立ち向かいつづけた人だ。「人生はもっとも愚かしいものに賭けるだけの価値がある」と信じ、「一人は万人のために、万人は一人のために」の旗印のもと、誰もが差別されることなく生きられるための社会革命の理想=「見果てぬ夢」を執拗に追いつづけた人である。
 彼はヒロシマ→ナガサキに原爆を投下し、無辜(むこ)の民を無数殺傷した太平洋戦争中のアメリカを、さらには「ソンミ村虐殺事件」(1968年3月16日)を引き起こし、非武装のベトナム民間人を大量に虐殺したベトナム戦争中のアメリカを、蛇蝎のように忌み嫌ったものだった。

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                                   2011年9月30日 安田忠郎                                       
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(5)

【急】 月のない闇夜

 [Ⅰ] 私学の自主性(安田塾メッセージ№34・35)

 [Ⅱ] 私学の公共性
 私立学校法の第1条は、「私立学校の健全な発達を図る」ために、「自主性」のほかに、「公共性」の重要性について定めている。(ちなみに、この公共性の在りどころは、すでに【急】[Ⅰ]および【破】(1)(2)の問題設定に応じて、暗に示唆されている。)
 日本人は「公共性」ないし「公共」といわれて、何か分かった気になり、つい公会堂とか公園とか図書館とか、or 都市交通とか衛生局とか清掃局とか、そういう国家や都市に近い場所的なものを連想する。
 「公共性」という言葉は、もともと英語のpublicityから明治以降に翻訳されて生まれた言葉(翻訳語)である。
 publicityないしpublic とは、西欧の個人が国家や社会と対決し、長い年月をかけて市民として形成されていく過程で生まれた「市民的公共性」のことである。欲望を持つ個としての「私」が市民生活の中で欲望相互の対立が生じないように調整する必要が出てくる。欲望を満たしながら全体の平和を考えようとする時に生まれているのが「市民的公共性」にほかならない。
 publicity(⇒公共性)は欧米の歴史的現実の中でつくられた概念であり、独語のÖffentlichkeit(⇒公共性)の場合は端的に「開かれている」ことを含意する。
 [ちなみに、西欧における【個人】の起源は12世紀であり(その切っ掛けはカトリック教会における告解の普及と都市の成立⇒「12世紀ルネサンス」)、そして18、9世紀には西欧独自の【市民】が誕生している。]
 

 日本語の「公共」自体は、「公(おおやけ)」という言葉から来ている。訓の「おほやけ」は、「大(オホ)+家(ヤケ)」、大きい家の意のこと。つまり、古代から公(おおやけ)は天皇家を中心とした支配者の家のことを言う。  

 問題は日本では、この公(おおやけ)が一般に「公(コウ)」⇒共同体ととらえられ、したがって「官」(政府と直結している機関)と公の区別がつかなく、公―ひいては翻訳語の公共―が国家と区別されていないことである。日本の現実においては、官と公が密着しており、官とはっきり区別できるような形で公は形成されていない。(ex.役人を「官僚」or「公務員」と言う。また、役人の住まいを「官舎」or「公舎」と言う。) 
 西欧の場合は、publicity=市民的公共性が最終的にフランス革命にいたって王家を倒して共和制を敷くにいたるが、日本の場合は私→「公共」意識は非常に弱く、最終的に市民的公共性は生まれず、今でも天皇が君臨する⇒官が公にかぶさる形態になっている。 
 私たち日本人が厳密に認識すべきは、日本では官と民⇒私の間で「公共」という視点が今にいたるまで全くアイマイな位置しかもっていないことである。ところが、ケッサクなことに、多くの現代日本人―とりわけ学者や評論家などの「知識人」たち―は、欧米由来の翻訳語=「公共性」概念がそのまま通用して―その実質が「安全パイ」のごとく無に等しくても―、すでに日本的現実を表現しているかのごとき幻想に取り付かれている。

(ⅰ) 「理事長」人事
 私は【破】(1)において、こう問題点を指摘しておいた。五島育英会の「理事長」人事は、東急電鉄に管掌され、現に東急電鉄の役員(副社長・専務取締役)が「天下る」傾向が著しい、と。
 【育英会】理事長(任期)は、五島慶太(1955~59)に始まり、五島昇(59~64)→唐澤俊樹(64~67)→星野直樹(67~74)→曽祢益(74~80)→五島昇(80~81)→山田秀介(81~94)→堀江音太郎→(94~2000)→秋山壽(00~03)→山口裕啓(03~11)→安達功(11~)が務めている。この歴代理事長の履歴に多少触れると、
 五島昇は五島慶太の長男で、東急電鉄社長・日本商工会議所会頭、
 唐澤俊樹は戦前⇒東條内閣の内務次官、戦後⇒東條内閣内務次官の廉で公職追放、後に岸信介内閣の法務大臣、
 星野直樹は戦前⇒満州国総務長官、東條内閣の内閣書記官長、戦後⇒A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑を宣告され(1958年に釈放)、後に東急電鉄取締役、
 曽祢益は民社党書記長・衆議院議員、妻が五島慶太の長女、
 そして残り5人は、すべて東急電鉄の役員-山田が専務取締役、堀江が副社長、秋山が専務取締役、山口が副社長、安達が副社長である。
 ここでは、五島慶太の後、五島昇→唐澤→星野→曽祢→五島昇の5代4人が五島慶太の血脈・人脈そのものであり、唐澤と星野という戦前の「名だたる」国家主義的な官僚・政治家がその名を連ねている点が注目されねばならない。特に「A級戦犯」星野直樹(1892~1978)―「満州国」を動かす「2キ3スケ」の1人といわれた札付きの国家主義者(ウルトラ・ナショナリスト)―が約7年間、理事長に就任した事態は一体全体、何を物語るのだろうか。
 [註:「2キ3スケ」とは、東條英機(ヒデキ)・星野直樹(ナオキ)の2人の「キ」+鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)の3人の「スケ」を言う。]
 そしてまた、問題は五島慶太の直接的な血脈・人脈を離れた、東急電鉄からの「天下り」理事長は、どういう人物―精神・思想の持ち主―なのかである。
 

 私が武蔵工大専任教師になった時=1980年4月1日、【育英会】理事長は曽祢益であった。しかし、彼は同年4月25日に死去、五島昇(1916~89)による急場しのぎの約1年間のショート・リリーフを経て、山田が81年6月22日に天下りした。私は武蔵工大に在職中、曽祢および五島に「拝眉する」機会が一度もなかったものの、山田・堀江・山口の3人とは、大学改革をめぐる諸問題に関連して何度も「談論・対論」するにいたった。[ちなみに言うと、秋山理事長(任期:2000.5.27~03.5.26)については、当時の私がコロンビア大学での滞米生活を送ったこと、また彼自身が体調不全で早期に離職したことで、私は一度も「拝顔の栄」に浴することができなかった。]  
 私の山田→堀江→山口の各理事長論の具体的な詳細は他日を期することにし、ここでは彼ら理事長に通底する、日常的な態度設定上の問題点だけを指摘しておきたい。 
 彼らは東急電鉄の定年退職後の「天下り」なるがゆえに、その根本的性向としては、「雇われ」理事長として任期を大過なく無難に勤め上げることに汲々とする、その意味でのサラリーマン的事なかれ主義者である。  
 確かに3人の場合、武蔵工大をめぐる内外の情勢の深刻な変化に即応する態度に各人各様の趣向が凝らされていることは言うまでもない。しかし問題は、彼らが大学改革をめぐる「ここを先途と闘う」決定的な場面において、一様に“東急電鉄ムラ”の極印を押された、滑稽で哀れな習性を引きずる“他律的”な人格にほかならないことである。

 私はつい考え込む。そもそも企業人・経営者・経済人が「優秀」という場合、何をもって「優秀」とするのか。東京電鉄の場合、いわゆる「立身出世」がかない、社長・副社長・専務取締役にでもなれば、「優秀」な人物ということなのだろうか?!
 私は「安田塾メッセージ」№21で、私の【北炭】時代の上司、政安裕良(まさやす・ひろよし、1924~97)について、こう書いた。「政安裕良とは何者か。ありていに言えば、彼はいわゆる『日本人』の一典型でした。一般に日本人は人前に出たときに『私』が消えるといわれます。これは主体としての自己主張[ex.『我思う、ゆえに我在り』(デカルト)]がいかに脆弱であるかを物語るものです。彼は土壇場に立たされたとき、この国際的に認知された『日本人』類型を地で行くような歩みをたどりました。」
 この評言自体は【育英会】の歴代理事長にも、そっくりそのまま当てはまる言葉ではある。
 しかし急いで付け加えるなら、私が政安の生き方をそう評したのは、あくまで1981年10月16日に起きた北炭夕張新炭鉱の「ガス突出事故」(93名死亡)をめぐってのことである。私は今にして思う、私の見知った日本人の会社人に限れば、政安裕良は<知情意>すべての「自己表現」において最も「優秀」な人物であった、と。
 彼がいかに「優秀」であるかは、論より証拠、癌が浸潤し死がひたひたと忍び寄る状況下で、回顧録『帰らざる小径』(96年9月20日)および続編『帰らざる小径(短歌編)』(98年2月9日)を何とか自費出版までこぎつけたことである。関係者に配布された『帰らざる小径』の添え状には、こう記されている。「…結果的には、つまらぬ人生ではありましたが、非才ながら其の時其の時に、自分では恐らく、精一杯に生きて来たものと思っております。サラリーマン生活を引退するに当たり、是れを機会に、過去を振り返り、且つさぞ短いではあろうが、将来の展望の為に、自身の赤裸々な人生の軌跡を辿って見た次第でご座居ます。…」
 また、同書は余りにも遅きに失したとはいえ、随所に己れを省みた、貴重な文言を連ねている。かつて私と激論を交わした点に関わる文章を、以下に抄出しておきたい。
 「昭和43年9月16日に(この時期、彼は北炭幌内鉱業所労務課長で、私は同労務課職員であった―引用者註)、会社の機構改革と人事異動の発表があったが、午後1時30分に、札幌より各鉱業所の労務の責任者に対して緊急の呼び出しがあった。至急事務所のジープを借りて、札幌事務所に駆けつけたのだが、当時は全くの箝口令が敷かれていて、何が有ったのかも、中身の事は鉱業所長にも報告するなと云う事であった。/…結局中央で使用された使途不明金の肩代わりを、山元の労務対策費として使用したと云う事にして、山元の労務責任者の責任で処置したと云う、領収書を書けと云う事であった。…多額な労務対策費の領収書を書けと言われた事には、全く内心忸怩たるものがあったが、是れもサラリーマンの悲しさで、作成の上提出せざるをえなかった。/そして誰が何の用に使用したかは、全く知らされなかった」(186-7頁)
 「北炭の命運を語るには、どうしても政商、萩原吉太郎氏を度外視して語る事は出来ない。[安田註:萩原吉太郎(はぎわら・きちたろう、1903~2001)は、慶大理財科(現・経済学部)卒、1955年に北炭の社長に就任、その後会長→相談役になったとはいえ、最後(1995年)まで北炭の実質的な統率者であった。彼は<北炭のドン><北炭の天皇><石炭の鬼>などの異名をとり、また政商として、児玉誉士夫・永田雅一と古くから親交を結んでいたほか、三木武吉・大野伴睦・河野一郎ら党人派政治家と交流を持ち、<石炭ではなく国の金庫を掘った男>とも呼ばれていた。]
 政商としては、昭和35年の安保闘争の際に、当時の自民党の実力者である、岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作氏の会談に、永田雅一、児玉誉士夫氏と共に出席して立会い、当面大野氏が岸氏を応援する代わりに、岸氏が後任に大野氏を推薦すると云う、所謂『帝国ホテル・光琳の間』の政権禅譲会談は有名であり、真偽の程は分からぬが、其の一札は、北炭本店の、社長室の金庫の中に仕舞ってあるとの専らの評判であった。
 此の様な面から、可成の額の政治資金の投入も行われたと思われる。昭和43年9月16日の既述の、山元の労務責任者の札幌への呼び出しによる、使途不明金の労務対策費への切替えの指示も、或いは此の方面に使用されたものではないかと臆測していた。…
 同氏が社長就任後、北炭の消滅迄の間、事実上北炭を牛耳って来れたのには、色々と人事上の対立者を陰で排除して来たものと思われている。/昭和40年頃には、トップの指導権争いは可成熾烈であった模様であり、…萩原氏は…昭和40年4月27日に、全役員から白紙を取り、5月4日の取締役会で、目の上の瘤と思しき役員を退任させて関連会社に追い出した。…
 昭和41年12月13、4日の札幌に於ける労使協議会では、『統制と融和』を標榜して、是れに反する行動をする者は、直ちに排除すると公言された。/そして社内では、『馬鹿は不平を云う』と云う事で、自己の主張に反する意見の人間は排除して行く戦法を取ったと思われ、社内には『物言えば唇寒し』との気風が横溢して来た。」(240-2頁)
 「萩原氏は昭和33年4月には札幌テレビ放送(STV)、同年8月には北海道不動産を設立した。/北海道不動産は、昭和38年に北炭観光開発となり、昭和46年には三井観光開発となって、北炭とは関係の無い独立した会社に成長していった(平成19年、三井観光開発は「グランビスタ ホテル&リゾート」に社名を変更―引用者註)。/此の不動産部門の生成の過程では、苫小牧や千歳、大沼の北炭の土地等を、合法的に安く譲渡させて、折からのバブルの波に乗って、太って行った経緯がある。
 一体、不動産部門を完全に独立させて別会社とし、自己の息子や息のかかった、或る傾向の北炭の社員のみを引き抜いて行ったのはどう云う事だったのだろうか。… 
 勿論観光へ移行して、財産を温存して、三井や三菱や住友等の様に、北炭の命脈を保持し続けたのならば、何も云う事はないが、北炭の命脈を全く途絶えさせて、自己の子息に観光をバトンタッチして行くと云う事は、当初から、北炭を食い物にする魂胆だったのではないかと思われても致し方ない。
 新鉱(北炭夕張新炭鉱―引用者註)開発でも…、いきなり深部開発に入って行けば、危険な事は充分に察知されたところで、此の事を指摘した技術屋さんは沢山いたし、私が新鉱に在籍していた時でさえ、開発段階でも、ガスの突出の危険は充分にあって、此の点を指摘して、営業出炭の時期を引き延ばす様に主張する人も多かったが、そんな事を言えば、直ぐに能力が無いと云う理由で、首が飛ぶと云うのが、一般社員に横溢していた空気であった。
 故に新鉱の事故は、起こるべくして起こった人災であると言われても、誰も否定出来なかったろう。
 社内にはワンマン体制が出来ていて、萩原氏の意向に逆らえる者は一人もいなかった。…
 結論的に言えば、萩原氏は自己の大きな意味の財産保全の為に、北炭を利用したとしか考えられない。其の事に依って何千人もの人間が泣く事になったのである
 私は此の人生に於いて、身を以て、本当に良い事例を見せて貰ったと感謝していると共に、北炭喪失の責任は萩原氏に有りと思うし、又産業と云うものは矢張り永遠ではない事を痛感した次第である。」(244-6頁)

 政安は1973(昭和48)年に49歳で北炭を退職し、N社に入社、総務部長代理→総合企画部長→取締役→常勤監査役→顧問に就任、94年7月総胆管癌で「九死一生」の手術、97年12月24日に死去する(享年73歳)。
 彼はN社で20年間、所を得たのか、それなりに活躍し出世した。そして大手術後の、かろうじて余命を保つ状態下で、はじめて自由な自律の心を構えて、“北炭ムラ”であがきつづけた彼の「個」を描写する「回顧録」を上梓した。
 彼と私は、74年以降20年間にわたって、毎年1度、東京の赤坂で酒を酌み交わす仲であった。彼が70年代後半のある時、こう切り出した話がいまだに私の耳に残って忘れがたい。
 「安田よ、大学の非常勤やライターなど、いろいろやっているようだが、これからどうするんだ。オマエは大学の教師になんか向いているのかね。今どきの大学教師にマトモな人間なんかいるのかい、オレの見るかぎり専門バカというか、変わり者が多いし、碌なヤツはいないな。それより、N社に来て、オレと一緒に仕事をしないか。オマエなら、今すぐ課長で採用できる。N社は北炭ほどの大企業ではないが、北炭に見られるような伏魔殿もないし、オマエにとって働きがいのある職場だと思う。オマエなら、その気になれば10年ぐらいで取締役も可能だな。」                                
 人間・政安裕良は、「去るも地獄・残るも地獄」といわれた炭鉱世界(“北炭ムラ”)で、間欠的に「個」が自己主張して、生々しい苦闘の日々を送りつづけたものである。
 だが、問題の【育英会】理事長-東急電鉄からの「落下傘」理事長は、もともと「個」が“東急電鉄ムラ”に埋没しているために、何かというと、自発的な自由意志の決断とは無縁な、外(他者⇒東急電鉄)から強いられるか、or 外(他者⇒東急電鉄)に見せるための偽善的なポーズを取り繕ったものである。 

 東急電鉄という組織体は、構成員の利益を重視するところのムラ社会である。ここでは、東急電鉄の構成員の個人的利益や組織的利益―つまり、「五島慶太・五島昇・東急電鉄」経営側の利益―が追求された結果、東急電鉄によって一学校法人が「子会社⇒私物」化され、理事長人事の決定権が一手に掌握される。
 事態の核心は、“東急電鉄ムラ”―or 「東急グループ村」―の組織的利益の維持追求にある。
 そして、コンセプトを明確にすべきは、当の組織益があくまでも私企業の私益であり、けっして公益=社会益ではない点である。ここに「公」とは前述したパブリック=公共のことであり、「私」を外に向かって開くところの、対等な個人どうしの「われわれ」市民側の力であることは言うまでもない。組織内にいるムラびとはとかく―組織としての閉鎖性が高まるほどに―、その組織の利益を公益と錯覚し、果ては公益に資する内部告発すらも、「守秘義務」の美名のもとに封殺する愚を極めることになる。
 この日本国では、「企業の社会的責任」などという、まことしやかなキャッチフレーズが久しく唱えられてきた。しかし、それは企業イメージを高めてより多くの顧客を獲得するという「経済性」を動機にしている以上、どれほど「良心的」な企業でも、公益に寄与する方向はしょせん二次的な問題にすぎない。“東急電鉄ムラ”は五島慶太以来、ざっくり言えば、「私の肥大化」としての官(お上)との癒着の道をたどり、したがって「官による公」、「官=公」を発想の基本に据えつづけた企業である。そこでは、「公の喪失」、つまりpublicityが実体を持たないままに、学校法人=公益法人が経営されるにいたり、その結果、当の理事長人事はもとより、学長人事、さらには事務員人事などが「東急電鉄or東急グループ」ムラ(=利益共同体)の特殊意志に専断されるにいたった。当該人事の私物化(お手盛り)は、端的に「公害」ならぬ「私害」(私企業が引き起こす害)として弾劾されなければならない。

(ⅱ) 「学長」人事 
 私は【破】(2)において、こう問題点を指摘しておいた。武蔵工大の「学長」人事の実権は、「偽装民主主義」の支配下、究極的には五島育英会理事長が、したがって東急電鉄が掌握している、と。
 【育英会】-武蔵工大の学長(任期)は、これまで八木秀次(1955~60)→山田良之助(60~78)→石川馨(78~89)→古浜庄一(89~98)→堀川清司(98~2004)→中村英夫(04~)が務めている。この歴代学長の主な履歴に触れると、
 八木秀次は大阪帝国大学総長・東京工業大学学長、
 山田良之助は東京工業大学教授・静岡大学学長、
 石川馨は東京大学教授・東京理科大学教授、
 古浜庄一は武蔵工業大学教授、
 堀川清司は東京大学教授・埼玉大学学長、
 そして、中村英夫は東京大学教授・武蔵工業大学教授である。
 この6人の学長に関して、八木・山田の2人は私にとって一面識もない学長であり、石川・古浜・堀川・中村の4人は私の在職期間中の学長であった。                                

 武蔵工大の場合、1955年八木学長の選出当時までは、学長に関する明文化された規程はなかった。1959年に初めて、八木学長のもとで「武蔵工業大学学長に関する規程」および「武蔵工業大学学長選出に関する細則」が制定される。
 この新規則を適用して選出されたのが山田であり、彼は何と1960年4月1日(63歳)から78年3月末日(81歳)まで18年間も、学長を務めた。
 その後、山田の後に石川学長が選出されるに際して「一騒動」が起きた後、武蔵工大では「学長選」のたびに、「誰を学長にするか」をめぐる、<大学側vs.【育英会】側>の、したがって教員相互間の、何らかの形の確執・争いが繰り返されることになる。 
 そして、私自身は石川学長急逝後の古浜学長の選出時分から、いい加減でウサンクサイ学長選のありさまに義憤を覚え、そして大学全体の鬱屈した閉塞状況を打破するために、個と個の統一としての「われわれの公共」を掲げながら、大学改革・教育改革の険しく長い道に踏み込むにいたった。                 

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                                   2011年9月15日 安田忠郎
          学校法人・五島育英会とは何か―個人史を振り返りながら―(4)

【急】 月のない闇夜

 [Ⅰ] 私学の自主性
(ⅰ) 「公正・自由・自治」の問題(安田塾メッセージ№34)
(ⅱ) <独立自尊>の問題(同)

(ⅲ) 五島慶太とは誰か
● 1954(昭和29)年11月11日、学校法人・武蔵工業大学の理事長・西村有作(創立者の1人)が引退し、新理事長に「電鉄王」五島慶太が就任する。翌年6月1日、学校法人・武蔵工業大学が学校法人・東横学園を吸収合併し、新しく学校法人・五島育英会として発足する。[ちなみに、五島慶太は1939年に、財団法人・東横学園を設立し、東横商業女学校(翌年「東横女子商業学校」と改称→現「東京都市大学等々力中学校・高等学校」)を創設する。]
 
 私は武蔵工大に在職中、心ある同僚や学生たちから、折に触れて聞かされたものである。「本学にもう“公正・自由・自治”はない!五島慶太が、【育英会】が、本学を経営してから、そんな理念はもう死んでしまったんだ!」と。
 工大では、1981(昭和56)年度から毎年、学生(新入生・2年生・4年生)の「実態調査」が実施されている。このアンケート調査の「自由意見」(無記名)欄に、毎年決まって、「建学の精神」の在りどころを問うor理念とかけ離れた現実の貧しさを憂える学生(特に4年生)の意見が多数書き込まれている。私の在職中のものに限って少々例示すれば、
 ・「“公正・自治・自由”という言葉がありながら学生には自治権があまりないと思う。このことが他の大学との気質の差として現われていると思う」(武蔵工大広報委員会『昭和58年度学生実態調査アンケート集計結果報告書』56頁)。
 ・「自由・公正・自治なんて、ウソッパチ、もっと自由を」(同・昭和61年度、53頁)。
 ・「この大学に公正・自由・自治なんてどこにもない。嘘をかかげることだけはやめてほしい。拘束されることに慣れてしまったのか、自分自身で時間を活用できない学生が多い。」(同・昭和63年度、78頁)
 ・「武蔵工大の“公正・自治・自由”がどこにもない。社会全体の相対的な自由度が増すにつれますます拘束性が強調される」(同・平成2年度、118頁)。「あらゆる面において“自由”を増せばもっと学生の意欲を引き出せると思う」(同前、125頁)
 ・「学生の意見が自由に言えることが必要、大学において教員は神様扱いである。もう少し自由な校風を希望します。そのことが本学発展の推進力となると思います」(同・平成3年度、119頁)。
 ・「大学内の施設を増設・新築するときは、学生の意見を取り入れるべき。本大学の『公正・自由・自治』の精神に反するから」(同・平成6年度、84頁)。「“もっと学生に自由を!!”とにかく建設的な意見がつぶされてしまう環境をなんとかしてほしい」(同前、89頁)。
 ・「大学では“自由・公正・自治”をかかげているがそれは飾りなのか。もっと役立つ興味を持てる授業をしてほしい」(同・平成9年度、84頁)。
 ・「私は、大学というところは開放的で、自分の責任の下で、ある程度の自由があると思っていたが現実は違っていた。…こんな大学に4年もいた自分がバカらしく思え、とても人になんかすすめられない」(同・平成10年度、100頁)。
 ・「『公正・自由・自治』は教職員のみならず、学生にも恩恵があるのが正しい姿だと思います。学生の意見を尊重する姿勢が、学校側に見られなかったのが残念です」(同・平成12年度、110頁)。
 ・「古い気質が残り、全体的に閉鎖的な雰囲気が漂っている」(同・平成13年度、125頁)。
 ・「古い工業大学だからでしょうか。全体的に考え方が古いと思います。過去の武蔵工大は、過去の事です」(同・平成18年度、87頁)。
 
 彼ら学生が「公正・自由・自治」云々をどう理解しているかは定かではない。しかし、彼らにとって武蔵工大は、「知的な挑戦の場」-「知的にチャレンジングな教育・人間形成の場」でないことは間違いないところである。工大という教員をはじめとる大学人の諸関係の構造総体が、多様な背景と資質をもつ学生の学習ニーズに的確に対応できる教育機能を喪失し、教師と学生の相互交流的な、理性と感性が伸びやかに総動員された、個性輝く学校空間を創出できないでいること、これはもはや疑いようがない。
 ・「“教育とは何か”もう一度原点に戻って学長並びに教員は考え直す必要があるのでは」(同・平成6年度、93頁)。
 ・「各授業において、一部の教授に『教える気があるのか?』と問いたくなるような場面がしばしば見られた。…科目、特に専門科目を教える教授たちは、もっと学生に関心、楽しさ、おもしろさを伝えるような教え方を再考した方が良い。学ぶ事は、将来に大切な知識となるので、それを伝える教え方は重要である」(同・平成14年度、126頁)。「学生のやる気を失わせる学校である」(同前、141頁)。「大学の学生に対する対応が官僚的すぎるのではないかと思う。中学・高校ではないのだからもっと学生の判断に委ねるべきであると思う」(同)。
 ・「先生が教えるのが下手すぎる。このような授業ではほとんどの学生が理解できていない」(同・平成15年度、120頁)。
 ・「教授とは教師であるのだから、研究成果より指導能力で選ぶべきである。とりあえずマトモな授業を行なってもらいたいものである」(同・平成16年度、93頁)。
 ・「『教える』という能力のある講師を採用して欲しい。教授の自己満足的授業が多すぎる」(同・平成17年度、86頁)。
 ・「…武蔵工大は何が他大学と違うのでしょうか?正直、ないと言ってもいいと思います。…小さな大学でも、きちんとした目標を掲げ、その大学にしかない技術を伸ばしたり、新しい分野で挑戦し、その成果を社会に発信し、大学の特色を出していけば魅力ある大学になると思います。魅力のない大学には生徒は集まらないと思います」(同・平成19年度、83頁)。

 問題は「公正・自由・自治」の精神が開学当初から、近代的な「個」の自覚に立つそれではなく、日本流の「世間」共同態に染め上げられ、したがって理念的に重くひび割れたそれであった点である。
 かてて加えて、決定的に問題なのは、新制大学・武蔵工業大学が誕生(1949年2月21日文部省より認可)してまもなく、五島慶太が登場し、同校が五島育英会の傘下に入ったことである。工大の歴史上、五島慶太といういわく付きの実業家が学校法人【育成会】初代理事長に就任したことは、同校の、まさに命運を決する大事件と言うほかはない。以来、今日にいたるまで、工大では建学の精神が包蔵するのっぴきならない問題―理念の矛盾・ほころび―が随所に露呈し、顕在化しつづけてきた。

● そもそも五島慶太(1882~1959)は、戦後日本の「民主主義」下―それがアメリカ譲りのタテマエ上の「民主主義」にすぎないにせよ―、「学校・私学」を経営・運営するにふさわしい人格なのだろうか。
 ・彼は中学卒後、郷里(長野県青木村)の小学校の代用教員を数年務め、20代に入って東京高等師範学校に入学→卒業後、四日市商業学校で英語教師を務める。
 ・彼は1911年、29歳で東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省→内閣鉄道院に移り、計9年間の「官僚」生活を送る。
 ・彼は戦前から戦後にかけて、実業家として八面六臂の活躍を続ける。⇒数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収し、その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとる。
 ・彼は1944年、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任する。47年、東條内閣の閣僚の廉(かど)でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放令(46年)の適用を受ける。
 ・彼は戦後から1950年代にかけて、西武の堤康次郎(「ピストル堤」の異名を持つ)との間で、箱根の観光事業をめぐる「箱根山戦争」を繰り広げ、世に「強盗慶太vs.ピストル堤」の「箱根山サルカニ合戦」と揶揄される。

 五島という人物の歩みを歴史的に見るかぎり、彼の教育観はおのずと、(ⅱ)に既述した「国家主義的」に帰結せざるをえない。彼はどう転んでも、もう一方の「教育の民主主義」を思想的射程に収めることは、とうてい不可能である。
 彼の経歴上で注目すべきは、戦前の文部省主導の中央集権的学校体制下で、東京高師(前身校は明治5年創立の「師範学校」=日本最初の官立の教員養成機関)に学び、短期間ながら「現場教師」を務めている点である。
 
 戦前の師範教育は一般に、「国家富強の源泉」(国民全体の「普通教育」の推進力)と見なされ、【技術主義】(教科内容の中心課題が「学問」よりも「教授技術」の修得にある)と【道徳主義】(知育よりも「善良なる人物」養成としての徳育に重点を置く)をもって特徴づけられる。ここでは、教育がもっぱら国家の発展の見地から手段視された結果、全体主義的画一教育が展開され、自由な思考方法と批判的精神を欠く、権力に弱い他律的精神に蝕(むしば)まれた、いわゆる「師範タイプ」というステレオタイプが生み出された。(ちなみに、師範教育の性格は、幼年学校から士官学校にいたる軍人教育―軍事技術の修得+軍人精神の涵養―の性格に相似している。)
 [註:明治19年に公布の師範学校令(勅令)(←初代文部大臣・森有礼の主導)の第1条=「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス」。この「順良・信愛・威重」の3徳目が生徒に対して、「兵式体操」=全寮制の軍隊式訓練によって植えつけられた(⇒「道徳教育の外面化」)結果、順良は屈従に、信愛は派閥根性に、威重は偽善に成り果てる。⇒師範学校出身の教師は、「上にへつらい下にいばりちらす」下士官型の人間となる。そして、「世間知らず」といわれ、「三尺下がって」ハラの中で笑われ、「先生といわれるほどのバカ」となり、社会的カタワ者になった―。]

 五島が師範学校―一応「高等」師範学校の名こそあれ―で、この種の師範教育を受けたのは、まさに多情多感な20代前半である。国家主義的・形式主義的・精神主義的な師範教育によって、彼の成長途上の人格は、どういう刻印を押されるにいたっただろうか。
 そして、20代後半の彼が学んだ東京帝大法学部、これまた国家主義的に縁取られた学校の典型である。なるほど大学である以上、一応アカデミックな学問の探究という看板が掲げられてはいる。しかし、それとて国家の必要の枠内においてのことである。
 明治19年に公布の帝国大学令(勅令)(←森有礼文部大臣の主導)の第1条は、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と規定している。学術技芸はけっして学術技芸のための学術技芸にあらずして、あくまで「国家のための」学術技芸である。さらに、その「学問」は、「純正学(ピュ―アサイエンス)」・「応用学(アップライトサイエンス)」共に「国家必須ノ学問」にほかならない(森有礼『学政要領』「修正本」)。
 日本流の国家主義的教育(←古代ギリシアのプラトン以来の「政治的教育主義」)は、教育と国家or広く社会との関係の場面で、教育を優先的に国家や社会の維持と発展との手段として把握する。ここでは必然的に、国家(官と公のごった煮)が教育を、国家の利害に関わる問題として、自分の方へ吸い上げようとする。明治維新以降の歴史上、日本の教育は「後進国」日本のキャッチアップ型「近代化」の目標【富国強兵・殖産興業・文明開化】を達成する最も効果的な手段として把握された。   
 
 五島は学生時代を通して国家主義的教育の洗礼を受け、そして戦前から戦後にかけての「社会人(教師→官僚→実業家→政治家→実業家)」時代を通して国家主義的思想にからめ捕られつづける。
 彼は日本の「国家」資本主義が形成される過程を、あわただしく貪欲に駆け抜けた。阿修羅のごとく、アコギな経営手法―株の買い占めと合併―で、ハゲタカのように弱体化した相手に食らいつき、食い散らしながら、「東急王国」を打ち立てた。彼の旺盛な事業活動⇒「強盗企業」と悪名を立てられるような商法自体が、その大枠としては、国家⇒「富国」⇒「殖産興業」のためのそれであり、その限りにおいて国家主義的色彩に濃厚に彩られている。
 
● 「私鉄王」五島と学校事業との関係をたどると、彼は1920年代から30年代にかけて、東急電鉄沿線の開発のため、土地を無償提供したり資金援助を行なったりして、積極的に学校誘致に乗り出している。東京高等工業学校(東京工大の前身)、慶大、日本医大、武蔵高等工科学校、東京府立高等学校(東京都立大の前身)、青山師範学校(東京学芸大の前身)、昭和女子薬学専門学校等々。中でも、慶大に日吉台の7万2千余坪が無償で提供され、日吉キャンパスが開設された結果、東横沿線は学園都市として付加価値が高まるとともに、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。この学校誘致が「狙った獲物は逃がさない!」五島の経営マインドがなせる、鉄道に集客するための、つまり経済上の利害得失に起因する現実的な行動であることは言うを待たない。

 彼はなぜに、教育事業を自ら営むにいたったのか。
 通俗的に言えば、大コンツェルンを築き上げた男には、「名誉」が欲しかったのかもしれない。実利を得れば、次が名誉、というのが“世間”の相場である。日本社会における名誉とは、まさに“世間”から「立派な人」だと高い評価を受けて誇りに思うことである。学校という、“世間”が「無難」視する文化事業で功績を立てて名誉を手に入れよう-この思いが彼の場合、年を追うごとに強まっていったのだろうか。[ちなみに、彼が1944年2月に死に体―敗戦が目前に迫る状況下―の東條内閣(1941.10.18~44.7.18総辞職)に入閣(在職期間はわずか5ヶ月)したことも、あるいは彼の名誉にしがみつく性癖が現われたのかもしれない。]

 だが、事態はそれにとどまるものではなく、もっと根源的というべき根拠にまで立ち入って考えられなければならない。
 巷間の噂によれば、彼は青年時代に教師を務めていたことから終生、教育事業に関心を持ちつづけ、教育活動に熱心でありつづけたとのこと。また、武蔵工業大学理事長・西村有作は1954年に辞任し、五島慶太に後事を託するに際して、次のように言明している。「人格識見力量兼備へ、その上学校教育に興味ある人などめったに有るものではありません。(ある友人から五島慶太氏を紹介された結果として―引用者注)事業人としての五島氏の力量並に影響力に付いては定評のあるところ、反面又学問に対する造詣の深い事など大いに気を引かれましたので数回面談しました。その結果学校教育に対する同氏の識見抱負熱意等、私としては同氏以外に適格者なしと思ひ込むに至りました」(前掲『五十年史』)。
 しかし、学校教育への関心・熱心or識見・抱負・熱意という場合、端的に問われるべきは、その「関心・熱心or識見・抱負・熱意」の具体的な意味内容⇒思想的ベクトルにほかならない。例えば、体よく学校教育に多大な関心があり、一生懸命努力していると言っても、いったい当の関心→努力が何に向かって、どういう理念的方向性のもとで、どういう教師と生徒の関係の結び方において規定されたものであるのかは慎重な吟味を要する問題である。

 私は躊躇なく言ってのけたい。五島にとって、【教育】は国家の【政治・経済】の発展の手段そのものであり、政治・経済上の状況判断にもとづく国家のための教育がすべてである、と。 
 彼のライフスタイル(生活行動の様式)では、教育と国家⇒社会との関係性において、どこまでも国家⇒社会の発展が先に考えられ、その目的のためにのみ教育の重要さが強調されている(⇒「政治的教育主義」)。裏を返せば、彼の思想的構えでは、人間=市民の一人一人の教育を強調して、その成果がおのずから―自然の結果として―国家⇒社会の発展や福祉の増進に寄与することを期待する考え(⇒「民主主義的教育」・「汎教育主義」)が決して形成されることはない。
 彼は根源から理解できなかったのである。人間がこと教育に関わる場合、相手が直ちに人間である以上、その人間を教育する上での方策の選択がその都度の政治・経済上の状況判断とは別途の事柄であるということを。

 私は厳しく問いただしたい。五島は人間をどう見ていたのか、人間についての思想的要件をどう考えていたのか、と。 
 人間にとって疑いのない真理は、人間が人間であるかぎり、自分で物事を感じ、考え、判断して生きていることである。人間はすべて、誰もが、時の状況がどうであろうとも、それぞれそれなりに、気力も意欲も能力ももって、人間として生きている。したがって何より肝要なのは、一人一人の人間の固有の価値と尊厳を認め、初等教育から高等教育にいたるまで、あるいはむしろ生涯にわたって、各人各様の主体的な働きを「助ける」民主主義的教育体制=「開放的な学校」=「開かれた社会」を築き上げることである。
 五島にとって、1946(昭和21)年4月に公表された、近代日本教育史上に画期的な『アメリカ教育使節団報告書』の、次のような文章(抄出)はおよそ理解の範囲を超えるものであった。
 [註:同書は「太平洋戦争」での敗戦国・日本に対する、戦勝国・占領国アメリカからの教育使節団による、日本の教育の根本的改革に関する「提案・勧告」書である。そこでは、近代教育の普遍的原理に拠って、戦前日本の「国家主義」的教育から、戦後日本の「民主主義」的教育への大転換が高らかに宣言されている。]

 「いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用いて自分自身or全世界に役立つ何かを創造する力を有している。…人間の個人差・独創性・自発性に常に心を配るのが教育者としての民主主義の精神である。…教師の最善の能力は、自由の雰囲気の中でのみ栄える。この雰囲気を備えてやるのが教育行政官の務めである。…子供たちの計り知れない資質は自由主義の陽光の下でのみ豊かな実を結ぶ。この光を供するのが教師の務めである。…どれくらい禁じらるべきかを見つけだすよりも、どれくらい許さるべきかを見つけだすことが、すべて権威の立場に立つ人々の責任なのである。これが自由主義の意味であり、その精神のあるところ、すでに民主主義は根を下ろしている」。  
 

 「理解する」=「わかる(解る=分る=判る)」とは一体、どういうことだろうか。
 「わかる」ということは、それによって自分が変わるということである。それは、ただ知ること以上に自分の人格に関わってくる何かであり、突きつめて言えば根本的な自己批判・自己反省としての自己変革の問題である。
 五島は1945年8月15日(敗戦の日)、また47年に公職追放の身となった際(51年追放解除)、自らを省みて、自らに批判の刃を向けただろうか。彼は戦前の国家主義から戦後の民主主義への、教育理念上の自己変革を、ついに果たせずに終わった。彼には「民主主義」の理念がよくわからなかったのである。
 ただし、私は彼が戦前から戦後までの生涯77年にわたって、終始一貫した、揺るぎない国家主義的教育の信奉者だったと断言するつもりはない。彼はもしかして、戦後(63~77歳の14年間)の処世上、多くの日本国民がそうであったように、いわば国家主義の身体(ホンネ・深層)に民主主義の帽子(タテマエ・表層)をかぶりつづけながら、教育事業家としての道を颯爽と歩んだのかもしれない。 
 とはいえ彼の場合、その種の二重性に支配されたとしても、明治以来身についた国家主義が変わらないままであり、民主主義がタテマエ上の理念にすぎない以上、彼の実際上の思考⇒行動が基本的に国家主義の理念を軸にして旋回することは必至である。 
  
 五島は戦後日本の状況下、性懲りもなく、教育の国家主義的な構えのままに、【育英会】を立ち上げ、教育事業を展開した。この【育英会】の傘下に入った武蔵工大では、福澤諭吉の指摘する[(ⅱ)に先述]「人を束縛してひとり心配を求むる」教育活動が促進されるにいたったのは、理の当然である。
 そこではすべて「上から」、つまり<国家(政治・経済・社会)→五島慶太=【育英会】→工大事務員→工大教員という何らかの形で「権威の立場に立つ人々」>の側から、あらかじめ基本的な学校目標が定められ、それに合わせて学生が十把一絡げに「教化」(外的な権威の要求に沿って教え化すること)の対象として取り扱われる結果、「学生は何も分からないんだから、とにかく分からせなければいけない、教え込まなければいけない―さあ、これだけ覚えなさい、身につけなさい、さあ、分かったか、分かりなさい―、そして必死に勉強してよく分かった者には、いい就職先を世話し、社会の要所に張り付かせたい」といった全学的な教学体制が整備されることになる。ここでは、トータルなキャンパス・ライフを―ほんの一握りの例外的な教師の努力(授業実践)を除いて―、学生の一人一人が人間としてそれぞれに何をどのように学ぶかの問題として工夫し構想していないために、権力・権威の主導に従順な、「他者」志向的な多くの教師が自らの教育機能を熱心かつ忠実に発揮するほどに(⇒一見恩情のこもった「教育愛」)、学生の精神にいわばメッキを施し、あげくの果てに学生自身の主体の喪失という悲劇的な事態を招くことになる。

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